- 修行をやりすぎて壊れた僧が、その処方を書き残したという話
- 駿河の原に生まれた岩次郎という子ども
- 「禅病」という言葉で呼ばれた状態
- 北白川の岩窟に住む隠者を訪ねた、という語り
- 白幽子は実在したのか
- 手紙から生まれた二冊、『遠羅天釜』と『夜船閑話』
- 気は下に降ろすもの、という一枚の単純な図式
- 内観の法をやる、まずは寝床に横になるところから
- 息の整え方と、気を降ろしていく順序
- 繰り返し念ずる四つの文句、原文と読みと現代語訳
- 何回、どのくらい続けるのか
- 軟酥の法をやる、頭のてっぺんに一個の塊を置く
- 軟酥が流れ降りる順路を、部位ごとにたどる
- 図の見方
- 唱え言を声に出すのか、心のなかで念ずるのか
- 終わったあとの起き方と、記録の取り方
- 安全上の注意
- 寝る前の十分でやる、現代版の組み方
- 白井亨と、丹田が武術に流れ込んだ道
- 岡田虎二郎と藤田霊斎、明治大正の呼吸法ブーム
- 効果をどう説明する試みがあるか
- マインドフルネスとの距離
修行をやりすぎて壊れた僧が、その処方を書き残したという話
禅の本には、だいたい「もっとやれ」と書いてある。坐れ、疑え、食うな、寝るな。ところが江戸中期に一冊だけ、真逆のことを大真面目に書いた本が世に出た。工夫をいったん放り出せ、公案も手放せ、まずはぐっすり寝ろ、とその本は説いていた。
書いたのは白隠慧鶴(はくいんえかく)。臨済宗中興の祖と呼ばれ、看話禅の厳しさで知られるあの人だ。その本が『夜船閑話』(やせんかんな)で、中身は坐禅論というより、はっきり養生法の本なんだよな。寝床に仰向けになって気を臍の下に降ろす「内観の法」が、一つめの柱になる。
もう一つは「軟酥の法」(なんそのほう)だ。頭のてっぺんに香りのよい柔らかい塊を置き、それが溶け落ちていくところを思い浮かべる。この二つが、本の核を成す。
面白いのは書き手の立場だ。白隠はこれを、健康オタクとして書いたわけじゃない。修行をやりすぎて心身を壊し、医者にも薬にもさじを投げられた末に、どこかで拾ってきた観法で立ち直った。その体験談として、彼はこの本を書き残した。
壊した本人が書いた回復マニュアル。この構造が、三百年近くこの本を読ませ続けてきた。正直、これほど説得力のある売り文句もそうはない。
駿河の原に生まれた岩次郎という子ども
白隠は一六八五年に生まれ、一七六八年に没したとされる。生まれは東海道の原宿で、いまの静岡県沼津市原のあたりだ。長沢家の五番目の子で、幼名は岩次郎といった。家は宿場で駅逓や旅籠に関わる家柄だったという。
幼いころから、地獄の話に本気で怯えたという逸話が伝わる。説法で聞いた八大地獄の描写が頭から離れず、風呂の湯の音を聞いて泣いたとか、そういう類の話だ。作られた挿話もあるだろう。その後の突進力を見れば、少年期に「死んだあとどうなるのか」で頭がいっぱいだったのも、まあ、納得がいく。
十五歳で出家した。地元の松蔭寺(しょういんじ)で得度して、慧鶴と名乗る。二十歳前から諸国を行脚して越後や信州を歩き、二十四歳のとき、鐘の音を聞いた瞬間に大きく開けた、という体験をした。
ここで本人は「わかった」と思ったのだが、これがまずかった。信州飯山の正受老人(道鏡慧端)のもとへ行くと、その悟りはまるごと否定されてしまう。
老人は振り向きもしない。罵倒され、縁側から突き落とされ、それでも白隠は食い下がった。この時期に彼は、悟ったつもりの自分を根こそぎ削られた。削られた勢いのまま、修行の量を極端に上げていく。
「禅病」という言葉で呼ばれた状態
二十六歳ごろ、白隠は完全に潰れた。本人の記述は、やけに具体的だ。心火が逆上してのぼせあがり、肺は焼け焦げるようだった。両脚は、氷雪のなかに漬けたように冷え切っていた。
耳のなかでは水が鳴り続け、脇からは寝汗が出て、両眼からは涙がこぼれる。歯を噛みしめ、目を見開いたまま、寝ることも食うこともできなくなりかけた。そこまでの有様を、本人は包み隠さず書く。
坐禅の修行者に特有のこの崩れ方は、当時「禅病」と呼ばれた。現代の言葉に置き換えるなら、極端な睡眠不足と過緊張が続いた結果の、自律神経の乱れや不安の亢進あたりになる。そこへ当時なら、結核などの呼吸器疾患が乗っていたかもしれない。これは後世からの読み替えで、診断じゃない。
白隠自身は、原因を宗派内部の問題として名指しした。ひとつは、形だけ整えてただ坐る禅。もうひとつは、公案を追いかけて頭のなかだけで煮詰まる禅。どちらも身体を置き忘れている、というのが彼の診断だった。
禅は身心一如を説くくせに、実際の修行現場では生理を無視してきた。だから壊れる。この自己批判は、いま読んでも鋭くて、正直ちょっと驚く。
彼はあらゆる師を訪ね、名医を探して回った。「百薬寸功なし」、薬は一つも効かなかったと本人は書く。鍼も灸も駄目だった。ここで完全に手詰まりになる。
北白川の岩窟に住む隠者を訪ねた、という語り
万策尽きた白隠は、京都の郊外に変わった隠者がいると聞いた。北白川、いまの京都市左京区の山中に、岩窟のような住まいを構えて暮らす老人だという。名は白幽子(はくゆうし)。
白隠の叙述によれば、その岩窟には家具らしいものがほとんどなかった。置いてあったのは、『中庸』と『老子』と『金剛般若経』の三冊だけだった。儒と道と仏が一つ机に並ぶ情景そのものが、この人物の立ち位置を示す仕掛けとして働く。うまくできた場面だ。うまくできすぎている、と言ってもいい。
白幽子は最初、相手にしなかった。しつこく食い下がってようやく脈を見てくれ、症状を聞いたうえで「内観の秘訣」を授けた。あわせて軟酥の法も教えている。白隠はこれを持ち帰って三年ほど続け、あれほど重かった症状がほぼ消えた、と書いた。
その後、彼は八十を超えるまで生きた。晩年の記述には、歯は一本も抜けず、目も耳もむしろよくなり、朝から晩まで動いて疲れない、とある。宣伝としては最高の締めだ。五十代を過ぎてからも白隠は各地で講義をし、膨大な数の書画を残した。体力があったのは確かだと思う。
白幽子は実在したのか
ここは留保が要るところなので、先に言っておく。白幽子は実在の人物として扱われてきた。本名を慈俊といい、江戸前期から中期にかけて北白川の山中に住んだ隠士・書家だったとされる。
詩仙堂の石川丈山(いしかわじょうざん)と関わりがあった、という伝えがいくつかある。丈山の弟子だったという説、丈山の弟子の弟だったという説、師友の間柄だったという説が並ぶが、どれが本当かはいまも定まっていない。
江戸後期の随筆家、伴蒿蹊(ばんこうけい)は、はじめ白幽子の実在を疑ったと伝えられる。「白隠が自分の説を通すためにつくり上げた架空の人物ではないか」というわけだ。ところが後に墓碑や漢詩などの物証にあたり、実在の人物だったと確認したという。
ただ、話はそれで終わらない。白隠が白幽子を訪ねたのは、宝永七年(一七一〇年)のことだという。ところが白幽子の没年を、宝永六年(一七〇九年)とする伝えがある。単純に並べると、死んだ翌年に会っている計算になってしまう。
宝永六年は山を出た年で没年ではない、という別伝もあるが、どちらにしても年紀が噛み合わない。このずれは、正直ちょっと見過ごせない。
現在有力なのは、白幽子という人物自体はいたらしいが、出会いの場面には文学的な仮構が相当に混じっているのでは、という見方だ。松岡正剛は『夜船閑話』を論じたなかで、この出会いは白隠の創作なのではないかという見立てを示した。半田栄一の禅と医療をめぐる論考も、白幽子の実在は確実でないと断った。
なぜ仮構するのか。読み手の側に立てば、理由は見えやすい。禅僧が「道教くさい養生法をやれ」と直接言い出すのは、宗門のなかでは具合が悪いわけだ。
でも「山中の隠者から授かった秘訣」という枠に入れてしまえば、話は変わる。儒も道も仏も混ざった処方を、まるごと差し出せるからだ。白幽子は、そのための装置として実によく効いている。
手紙から生まれた二冊、『遠羅天釜』と『夜船閑話』
白隠の著作は漢文体の語録と、かな書きの法語に大きく分かれ、養生や観法の話が出てくるのは後者、在俗の人にも読める仮名法語のほうだ。
『遠羅天釜』(おらてがま)は、延享四年(一七四七年)に成立したとされる本だ。初版の刊行は寛延二年(一七四九年)とされ、三巻本で、のちに続集一巻が加わった。書名は、白隠が愛用していた茶釜の名にちなむという。
中身の骨格は書簡だ。鍋島家の側近に宛てて武士の参禅を説いた書、遠方の病僧に宛てて病中の修行を説いた書、法華宗の老尼に宛てて『法華経』の疑問に答えた書などが入っている。相手を特定した手紙が並ぶところが、この本の性格を決めている。
白隠は一般論を垂れたわけじゃない。目の前の一人に向けて、その人の身分と生活と体調に合わせて書いた。病僧に宛てた書のなかに、気を下に降ろす話が出てくる。
『夜船閑話』は宝暦七年(一七五七年)の刊行とされる。白隠七十三歳のときで、禅病に苦しんだ二十六歳から、およそ半世紀も経ってからの執筆だった。こちらは全一巻だ。中身は、禅病の体験記と、白幽子から授かったという内観の法・軟酥の法の実際、そして気を下に置くべき理由を語る理論編でできている。
刊行後、この本は禅の語録としてより、養生書として読まれた。寺の外にも広がり、版を重ねていった。禅門向けの本で、ここまで「実用書」として流通した例は珍しい。
松岡正剛は、この本を二重構造の本として整理した。実用書としては道教系の内観治癒法を説き、心用書としては白隠自身の内観哲学を説く、という見立てだ。うまい言い方だと思う。
気は下に降ろすもの、という一枚の単純な図式
『夜船閑話』の理屈は、おそろしく単純だ。気が上にあがると病み、臍の下に満ちていれば健やかでいられる。話はこれで全部。
この単純さがむしろ強くて、体調不良を「頭に血が上っている状態」として一元的に捉え、治療方針を「降ろす」の一語に集約してしまう。何をすればいいかが、即座に決まるわけだ。
白隠はこれを補強するため、いろんなところから言葉を引いてきた。『荘子』を引いて、真人の呼吸は踵でする、凡人の呼吸は喉でする、と言った。気が下腹にあるときの呼吸は細く長く深く、上にあるときの呼吸は浅く短い。だから頭寒足熱がよい、という理屈だ。
儒からは孟子の「浩然の気」を引いた。あの大きな気を引き入れて臍輪気海丹田のあいだに収め、年月をかけて守り育てていく。するとあるとき、内も外も上も下も四方八方すべてが、一枚の大きな丹になる、と彼は言った。
政治の比喩も使っている。君主が上でばかり動いて下を顧みなければ国は乱れるのと同じで、人の身も心気が上にばかりあれば五官が縮んで疲れる、と説いた。
医学的な語彙も出てくる。陰陽が和して人が生じ、先天の元気が中間に働いて五臓が並び、経脈が通る、という書き方だ。中身は、東洋医学の枠組みそのままの記述。
仏教側からも根拠を引いている。心を足心におさめればよく百一の病を治す、という言葉を仏説として挙げた。阿含の経典に酥を用いる法があり、心の疲れを救うのに妙だ、とも書いた。
天台の『摩訶止観』も、名指しで持ち上げている。病因を論じ尽くし、治法もごく精密で、十二種の息があってよく衆病を治す、という評価だ。白隠は十一歳で『摩訶止観』の講義を聴いたと伝えられ、この書との縁は若いころからあった。
道元が『正法眼蔵』で触れた天台止観の二つの止、繋縁止と諦真止も持ち出した。諦真は実相の円観で、繋縁は心気を臍輪気海丹田のあいだに収め守ることを第一とする、と整理している。丹田に気を集める作業を、禅の伝統内部の正統な止観の一形態として位置づけ直したわけだ。
ここが、白隠のしたことの核心だと思う。彼は道教の内丹・導引の技術と、東洋医学の上気下気の理解を取り入れた。そこへ天台止観の呼吸法を加え、禅の枠のなかで一本につないだ。本人は、一見すると道家や神仙の健康術に見えても、その実は禅そのものだ、と断言した。
軟酥の法についても、病を癒すだけじゃない、大いに禅観を助けるのだ、と繰り返し書いた。治すためだけの技法としてでなく、修行の一部として組み込んだのだ。この位置づけがあったから、二つの法は禅門のなかで生き残った。
内観の法をやる、まずは寝床に横になるところから
ここからが実践編で、最初は内観の法から始める。用意するものは何もなく、道具も、香も、水も、札も要らない。要るのは、寝床ひとつ分の場所。
強いて言えばあまり柔らかすぎないほうがやりやすくて、ふかふかのベッドだと腰が沈んで、腰から下に力を入れる感覚がつかみにくいんだよな。硬めの敷き布団か、床の上に薄い敷物を敷いたくらいがちょうどいい。
行う時刻は夜、寝床に入ったあとだ。白隠の記述では、「まだ眠りにつかず、眼を合わせない以前に」やることになっていた。布団に入って電気を消し、さあ眠るぞという段階のことだ。
朝、目が覚めてまだ起き出さないうちに、寝床のなかでもう一度やる形も伝わってきた。夜と朝の二回が原則だとする解説もある。どちらを選ぶかは、生活に合わせればいい。
姿勢は仰向けで、天井を向いて背中全体を床につけ、両脚は伸ばす。白隠はこれを「長く両脚を展べ、強く踏みそろえ」と書いた。伸ばしてそろえ、踵のあたりを軽く踏み合わせるわけだ。
踏みそろえるとは、要するに足の裏で下方向に軽く押す感じのことだ。膝は伸ばすが、関節を反らせて突っ張るほどには伸ばさない。伝承の系統によっては両脚を重ねる形を採るものもあるけど、無理に重ねずに、腰幅くらいに開いてリラックスする形でも構わない。
枕は低めにして、握りこぶし一つ分の高さを目安にする、という説明がよく使われる。高すぎると顎が引けすぎて喉が詰まり、呼吸が浅くなる。低すぎると顎が上がり、首の前がつっぱってしまう。首の後ろがすっと伸びて、顎が軽く引かれる高さを探そう。
手は身体の脇に置き、上腕を脇にぴったりつけず、脇の下に卵を一つ挟んだくらいの隙間をつくって自然に開く。手のひらは下向きでも上向きでもいい。指は握らずに軽く伸ばして、畳の上に置いておく。
肩が上がっていないか一度確認して、上がっていたら息を吐きながら落とせばいい。目は閉じるが、完全に閉じて眠くなるなら半眼にしてもいい。
ただ、内観の法は「寝禅」として行うものだから、そのまま眠ってしまって構わない。白隠自身、この秘訣を修めたいならまず工夫を放り出し、公案を手放して、ぐっすり一眠りせよと書いた。眠ってしまったら成功だ、くらいに受け取っておけばいい。
息の整え方と、気を降ろしていく順序
呼吸は、鼻から吸って鼻か口から吐く。吸うときは静かにゆっくり鼻の穴から大気を深々と吸い込み、吐くときはさらにゆっくり、細く長く吐いて、息を止めることはしない。
数えるのが好きな人は、心のなかで「ひとーつ」と語尾を伸ばして数える、数息観の形を借りてもいい。初心者なら、吸う息で四つか五つ、吐く息で六つか八つ数えるくらいのゆるさから始めるとちょうどいい。力まないのが一番だ。
吐くときに下腹が軽くふくらむ、という感覚を探す。逆じゃない。吸って胸が持ち上がるんじゃなく、吐くにつれて臍の下が満ちていく。これがつかめたら、内観の法の半分はもう済んだ。
白隠は、丹田が瓢箪のようにふくらんで張りが出てくる状態を目指すのだと言った。力任せに腹を突き出すのとは違う。息の圧が、自然に下へたまっていく感じだ。
気を降ろす順序は決まっていて、最初が臍輪、つまり臍のぐるりだ。その次が気海で、臍の下、指二本ほど下がったあたりを指す。三番目が丹田で、臍の下、指三本から四本ほど下の奥になる。
ここまでが下腹の担当で、その先は腰になり、骨盤の後ろ側、仙骨の周辺まで意識を広げる。次は脚で、太もも、膝、ふくらはぎと降りていく。最後が足心。足の裏の、土踏まずのあたりだ。
白隠の原文では、一身の元気を「臍輪気海、丹田腰脚、足心の間に充たしめ」とまとめた。臍のぐるりから足の裏までを、一つの容れ物として扱うわけだ。頭を空にして、この容れ物のなかを満たしていく。
頭のなかで考えごとが回っていたら、それを吐く息に乗せて一度全部外に出す。放下着(ほうげちゃく)、つまり放り下ろせという禅語が、この段の合図としてよく使われる。言葉にすると簡単だけど、ここが意外と手強い。
各部位に降ろすときは、そこに軽く力を入れて、すぐゆるめるという手を使ってもいい。下腹に軽く力を入れて吐く息でゆるめ、腰に力を入れてゆるめ、足の裏で床を軽く押してゆるめる。緊張を一度つくってから抜くと、抜けた場所がはっきり感じられる。
この抜き方を強めた形を勧める流儀もある。全身を思い切り伸ばして数秒だけ最大限に張り、限界まできたら「はああ」と息を吐いて一気に脱力するやり方だ。ここで息を長く止めるのは避けたいので、張っているあいだも息は通しておく。
繰り返し念ずる四つの文句、原文と読みと現代語訳
気が下に落ち着いてきたら、観念の文句を念ずる。白隠が『夜船閑話』のなかで、繰り返し繰り返し念ぜよと書いた四つの句だ。伝わっている字句には小さな揺れがあって、第一句を「真箇の面目」とする本と「本来の面目」とする本がある。
禅語としてはどちらも通るので、広く引かれている形で挙げ、対句の後半までつけておいた。意味は、先に一度押さえておいたほうが入りやすい。
第一句の原文は「我が此の気海丹田、腰脚足心、総に是れ我が真箇の面目。面目何の鼻孔かある」。読みは「わがこのきかいたんでん、ようきゃくそくしん、そうにこれわがしんこのめんもく。めんもくなんのびくうかある」。
現代語に訳してみた。この下腹の気海丹田、腰、脚、足の裏、これがそのまま私の本当の顔だ。その顔に、いったいどんな鼻の穴があるというのか。
第二句の原文は「我が此の気海丹田、総に是れ我が本分の家郷。家郷何の消息かある」。読みは「わがこのきかいたんでん、そうにこれわがほんぶんのかきょう。かきょうなんのしょうそくかある」。
訳はこうだ。この下腹の気海丹田、これがそのまま私の本来の故郷だ。その故郷に、いったいどんな知らせがあるというのか。
第三句の原文は「我が此の気海丹田、総に是れ我が唯心の浄土。浄土何の荘厳かある」。読みは「わがこのきかいたんでん、そうにこれわがゆいしんのじょうど。じょうどなんのしょうごんかある」。
これも訳しておいた。この下腹の気海丹田、これがそのまま私の心が現す浄土だ。その浄土に、いったいどんな飾りがあるというのか。
第四句の原文は「我が此の気海丹田、総に是れ我が己身の弥陀。弥陀何の法をか説く」。読みは「わがこのきかいたんでん、そうにこれわがこしんのみだ。みだなんのほうをかとく」。
最後の句も訳してみた。この下腹の気海丹田、これがそのまま私自身の身に宿る阿弥陀だ。その阿弥陀は、いったいどんな教えを説くというのか。
後半の問いかけで、白隠は禅の公案の呼吸をそのまま借りてきた。本当の顔だと言った直後に、その顔に鼻の穴はあるのかと突き返す。浄土だと言った直後に、どんな飾りがあるのかと崩す。言い切って、崩す。
この往復が入るから、これはただの自己暗示の文句で終わらず、禅の観法として立ち上がる。後半が難しくて集中が切れるなら、前半だけを念じる形から始めても構わない。伝統的な指導のなかでも、四句の暗唱よりイメージと呼吸のほうが大事だと言う人はいる。
白隠はこう続けた。「打返し打返して、常に斯くの如く念ずべし」。繰り返し繰り返し、いつもこのように念じよ、という意味だ。
何回、どのくらい続けるのか
回数の決まりはなく、四句を一巡したらまた第一句に戻って、それを繰り返すだけだ。目安を出すなら、四句の一巡に一分弱かかるとして、五巡から十巡くらいになる。
ただ、数を数えるために意識が上がってきたら本末転倒なので、数えないほうが本筋だ。眠りに落ちるまで念じていて、いつのまにか寝ていた。そんな形が一番いい。
一回にかける時間は、寝る前の五分から十分で十分に成り立つ。腰を据えてやるなら三十分ほど、という目安を示す解説もある。ただ初日から三十分を狙うと、たいてい「がんばる」方向に流れてしまう。がんばると気が上がるから、逆効果なんだよな。
続ける期間について、白隠は日数を明示しなかった。現代の解説には、五日から三週間ほどで変化を感じるとするもの、朝晩二回で三か月をひとつの区切りにするものなどがある。数字の幅は大きいので、どれも目安として受け取ってほしい。白隠自身は、三年ほど続けたと書いた。
一つ、現実的な助言をしておく。三か月ほど続けたら、一週間だけ意図的にやめてみるといい。やっているときとやめているときの体調の差が、そこで初めて見えてくるから、続ける価値があるかどうかは、自分の身体が出す答えで決めればいい。
軟酥の法をやる、頭のてっぺんに一個の塊を置く
もう一つが軟酥の法で、こちらは純粋にイメージの操作になる。用意するものは、やはり何もない。これは強調しておきたい。
軟酥というのは実在の物質で、乳を煮詰めてつくった、香りのよい柔らかい塊とされる。バターやギーに近いものを想像すればいい。でも、この法のために買ってくる必要はまったくない。頭の上に置くのはイメージの軟酥で、実物を頭に乗せる行法じゃない。
行う時刻は、夜寝る前か、日中に頭が煮詰まって使いものにならなくなったとき。場所は、静かで邪魔が入らないところを選ぶ。布団の上でも、椅子でも、坐禅の姿勢でもできる。
白隠自身は、姿勢を厳しく限定しなかった。坐って組んだ形が本筋だが、椅子に腰かけても、立っていても、横になっていてもできるので、内観の法と続けてやるなら、仰向けのまま軟酥に移るのが楽だ。
目は閉じる。イメージを扱う法だから、目を開けていると視覚情報に邪魔される。半眼が習慣になっている人は半眼でもいいけど、はじめは閉じたほうが像をつくりやすい。
呼吸は内観の法と同じで、細く、長く、吐くほうを長めにする。イメージを動かすタイミングは、吐く息に合わせるとうまくいく。吸う息で待ち、吐く息で少し下がる、これを繰り返していく。
軟酥が流れ降りる順路を、部位ごとにたどる
原文は長いので、区切って引いた。書き出しは「色香清浄の軟酥、鴨卵の大きさの如くなる者、頂上に頓在せんに、その気味微妙にして」。続きは「遍く頭顱の間をうるおし、浸々として潤下し来て、両肩および双臂、両乳胸膈の間」。そこから「肺肝腸胃、脊梁臀骨、次第に沾注し将ち去る」と続く。
後半はこうだ。「この時に当たりて、胸中の五積六聚、疝癖塊痛、心に随いて降下すること、水の下につくが如く、歴々として声あり」。そして「遍身を周流し、双脚を温潤し、足心に至りて即ち止む」で結ばれる。
読みも、同じように区切った。頭から「しきこうしょうじょうのなんそ、おうらんのおおきさのごとくなるもの」。続けて「ちょうじょうにとんざいせんに、そのきみみみょうにして、あまねくとうろのあいだをうるおし」。その次が「しんしんとしてじゅんげしきて、りょうけんおよびそうひ、りょうにゅうきょうかくのあいだ」だ。
さらに「はいかんちょうい、せきりょうでんこつ、しだいにてんちゅうしもちさる」。後半は「このときにあたりて、きょうちゅうのごしゃくろくしゅう、せんへきかいつう、こころにしたがいてこうげすること」。続きが「みずのしたにつくがごとく、れきれきとしてこえあり」。結びは「へんしんをしゅうりゅうし、そうきゃくをおんじゅんし、そくしんにいたりてすなわちやむ」だ。
これを現代語に直してみた。色も香りも清らかな軟酥が、鴨の卵ほどの大きさで頭のてっぺんに置かれている。その気味はなんとも微妙で、頭のなか全体をくまなく潤しながら、じわじわと溶けて下へ降り、両肩と両腕、両の乳と胸から横隔膜のあたりへ届く。
そのまま肺、肝、腸、胃、背骨と尻の骨へと、順に染み通っていく。このとき、胸のうちにたまっていた凝りや塊、腹の痛みが、心のはたらきに従って下へ降りていく。水が下に落ちるのと同じで、はっきり音が聞こえるほどだ。それは全身をめぐり、両脚を温めて潤し、足の裏に至ってそこで止まる。
原文に出てくる五積六聚、疝癖塊痛というのは、当時の医学の用語だ。腹のなかにできる塊や凝り、下腹の痛みを指す言い方で、要するに身体のなかの滞りの総称になる。これを実際の手順として、順路どおりにたどってみよう。
第一の段は頭頂だ。頭のてっぺん、百会と呼ばれるあたりに、鴨の卵ほどの大きさの塊があると思い定める。色は淡い黄金色で、香りはよく、触れれば柔らかく、温度はほんのり温かい、という具合に大きさ、色、香り、温度の四つを具体的に決めておくと、像が安定する。
第二の段は頭の内側。体温で表面がゆるみ、塊が溶けはじめる。溶けた分が頭皮を伝い、頭蓋のなかにも染み込んで、脳の全体を浸していく。ここで、頭の熱が引いていく感じを探す。
第三は顔と首。額、眉のあいだ、目の奥、頬、顎と、溶けたものが顔の前面を流れ落ちる。目の奥の張りがゆるみ、顎の噛みしめが解けたら、そのまま首の前と後ろを通って降りていく。
第四は両肩。溶けたものは肩の上に一度たまり、それから肩の丸みを回り込んで両腕に分かれる。肩がずしんと重くなり、次に軽くなる。
第五は両腕と手。上腕、肘、前腕、手首、手のひら、指先へと流れる。指先まで届いたら、そこは行き止まりだ。指先からしたたって落ちる、と考えてもいい。
第六は胸で、胸の中心から左右の乳のあたりへ広がる。肺の全体が温かいものに包まれて、息が入りやすくなる。
第七は横隔膜。胸と腹を仕切る膜のあたりで、ここは詰まりやすい。吐く息に合わせて、この膜がゆっくり下に押し下げられていくのを感じる。
第八は内臓で、肝、胃、腸を通る。原文の並びに従うなら、肺、肝、腸、胃の順だ。臓器の位置を解剖学的に正確に知らなくても、胸の下、腹の上のあたり、腹の真ん中、下腹、という大づかみでいい。
ここを流れるとき、たまっていた塊や凝りが押し流されていく。原文が「歴々として声あり」と書いた、音が聞こえるほどはっきり、というのはこの段のことだ。正直、ここは想像するだけでちょっと気持ちいい。
第九は背骨と尻。背中側に回し、首の付け根から背骨を一節ずつ降りていく。肩のあいだ、背中の真ん中、腰、仙骨、そして尻の骨まで。仰向けでやっている場合は、床に接している面がじんわり温かくなる感じを探すとつかみやすい。
第十は太ももと膝だ。骨盤の底を通って、両脚の付け根から太ももの前と後ろ、膝へ流れる。膝の裏に一度たまり、それから下へ向かう。第十一はふくらはぎと足首で、ふくらはぎ、脛、くるぶし、踵と通っていく。
第十二が足の裏。土踏まずまで届いたら、そこで止まる。原文の「足心に至りて即ち止む」がこれで、ここが終点なので、この先へは流さない。
念のため、もう一度書いておく。流れの向きは頭から足へ、一方通行で、逆流はさせない。これは大事なところで、この法の効き目は「下へ降ろす」という方向性そのものにある。
終盤の感覚にも触れておく。溶け残った分は足のほうへ流れきらず、腰から下にたまっていき、腰、尻、太もも、脛が、良質の薬湯にひたされているような状態になる。湯が臍の高さくらいまで来ている、と思い定めるやり方もある。
上半身は涼しく下半身は温かい、頭寒足熱がこれでイメージのなかに出来上がった。この状態でしばらくとどまるのが、軟酥の法の仕上げだ。
一回あたりの時間は、頭頂から足裏までの一巡に五分から十分。急いで回すくらいなら、一巡だけにして部位ごとに時間をかけたほうがいい。寝る前の三分でざっと一巡するだけでも成り立つ、と勧める人もいる。回数は一日一回で十分で、頭が疲れたときに日中もう一回足す、くらいが現実的だ。
変化を感じるまでの期間には幅がある。数日で手足の温かさに気づいたという話から、数週間かかったという話まで出てくる。確度の高い数字は出せないので、あくまで人によるものとして受け取ってほしい。
図の見方
先に一つ断っておく。図の番号と本文の番号は、区切り方が少しだけ違う。図は上腕と手を四番と五番に分けているが、本文では両腕と手をまとめて第五にした。
頭のなかを通る段も、本文では第二に立てたが、図では頭頂の帯に含めた。六番から下は、本文と図で同じ順序だ。腕のあたりだけ番号がずれる、と思っておけばいい。
上の図は、軟酥が流れ降りる順路を正面向きの人型で示したものだ。ラベルはラテン文字なので、日本語での対応を書いておく。頭頂に乗っている楕円が軟酥(NANSO)で、ここが出発点になる。
番号つきのラベルは、通過する部位を表す。1のCROWNが頭頂、2のFACE and NECKが顔と首、3のSHOULDERSが両肩だ。4のUPPER ARMSが上腕、5のHANDSが手、6のCHEST and LUNGSが胸と肺になる。7のDIAPHRAGM, LIVERが横隔膜と肝、8のSTOMACH, BOWELSが胃と腸を指す。
9のSPINE and HIPSは、背骨と腰・尻のこと。10のTHIGHS, KNEESが太ももと膝、11のCALVES, ANKLESがふくらはぎと足首だ。12のSOLES : STOP HEREが足の裏で、つまりここが終点になる。
身体の中心を縦に走る太い帯が、軟酥の通り道だ。肩から左右に分かれて腕へ降りる、細い流れも描いた。右側に並んだ矢印は流れの向きで、上から下への一方向しかない。図の下に英文で添えた注記も、同じことを言っている。向きを逆にしてはいけない、流れは必ず足の裏で終わる、と。
下腹に描いた円がTANDEN、つまり臍下丹田。内観の法で気を集める場所にあたる。腰から下をうすく塗った領域がWARM POOL BELOW THE WAISTで、溶け残った軟酥がたまって温かい湯のようになる範囲を表す。
唱え言を声に出すのか、心のなかで念ずるのか
内観の四句の扱いについてもう少し書いておくと、原則は心のなかで念ずる。白隠の書き方は「念ずべし」で、「唱えよ」とは書かなかった。
寝床でやる法だから、声を出す前提になっていないわけだ。同室に家族がいる場合も、声を出さなければ迷惑にならない。けれど、心のなかだけだと文句が飛んでしまう、という人はいる。
その場合は、覚えるあいだだけ小さな声で口にしてみるといい。口の形だけつくって音を出さない、という中間もあるし、慣れたら心のなかに戻せばいい。
速度はゆっくりで、ひと息で一句、が基本の合わせ方だ。吸う息で軽く待ち、吐く息に乗せて句を心のなかで運ぶ。句が長くて一息に収まらないなら、前半と後半の二息に分ける。
「我が此の気海丹田、腰脚足心」で一息、「総に是れ我が真箇の面目」で一息という具合だ。息を句に合わせるんじゃない、句を息に合わせる。ここを間違えると息をこらえることになって、気が上がってしまう。
抑揚はつけない。祝詞や真言のように節をつけて読む必要はなく、平たく同じ調子で淡々と念じる。感情をこめる必要もない。
意味を考えるかどうかは、人によって分かれる。はじめは訳の意味をひととおり理解してから入るほうが入りやすいけれど、念じている最中に意味を分析しはじめると、それは頭を使う作業になってしまう。意味は身体に染み込ませる対象で、考える対象じゃない。
白隠が「打返し打返して」と言ったのは、意識で理解するより下の層に置きにいけ、という指示だと受け取っておきたい。軟酥の法のほうには、決まった唱え言がない。イメージだけで進める。
どうしても言葉が欲しければ、部位の名前を心のなかで言いながら降りていくと、像が追いやすい。頭、顔、肩、腕、胸、横隔膜、腹、背、腰、腿、膝、脛、足の裏。これで十分だ。
終わったあとの起き方と、記録の取り方
後始末も書いておこう。技法の終わり方が雑だと、せっかく降りた気がまた上がる。寝る前にやってそのまま眠ったなら、後始末は要らず、朝、普通に起きればいい。
日中にやった場合や、途中でやめる場合は、段取りを踏む。目を開ける前に手の指を軽く握って開き、足の指も同じようにして、これを二、三回繰り返す。手首と足首をゆっくり回したら、膝を立てて身体を横向きにする。そこから片手をついて、ゆっくり起きる。
いきなり立ち上がらないこと。仰向けで長く寝ていたあと急に立つと、立ちくらみを起こしやすい。血圧が下がった状態から、一気に立つ形になるからだ。横向き、四つん這い、座る、立つ、の順で上げていき、最低でも一分はかける。
起きたら水を一杯飲むが、常温か白湯がよく、冷たすぎるものは避けたい。息を深くしていたあとは、口のなかも喉も乾いている。
続けるつもりなら、簡単な記録をつけておくと効くし、書くのは三つだけでいい。やった日付と時間、やっているあいだに気づいたこと、それに翌朝の目覚めの具合だ。気づいたことというのは、どの部位で流れが止まりやすかったか、どこが温かくなったか、などだ。
手帳の隅に二行でいいので、一か月分たまると、自分の身体の癖が見えてきて、どこが詰まりやすいかは人によって違う、というのがだんだんわかってくる。
記録は成績表じゃない。うまくできた日に丸をつけるためのものではないから、「今日は全然集中できなかった」もそのまま書いておく。そのほうが、あとで役に立つ。
安全上の注意
ここは飛ばさずに読んでほしい。この二法は道具を使わないが、呼吸とイメージに身体を巻き込む技法だから、負荷はゼロじゃない。
息を長く止めるのは、絶対にやらない。丹田に気を満たそうとして息をこらえる人がいるが、これは白隠の意図とまったく逆で、原文が求めているのは細く長い自然な呼吸であって、止めることじゃない。息をこらえれば血圧が上がって頭に血が上り、降ろしたいのに上げてしまう。
過呼吸にも気をつけたい。深呼吸を速く続けると、血中の二酸化炭素が下がり、手足のしびれや口のまわりの違和感、めまい、動悸が出たりするので、吐く息を長くして、回数はむしろ減らす。速く深く吸い続けるのは違う技法で、内観の法とは別物だ。
めまい、頭痛、動悸、吐き気、耳鳴りの悪化、強い不安感。こうしたものが出たら、その場で中止して、「もう少しやれば抜ける」と押さないこと。目を開けて呼吸を普通に戻し、手足を動かしてから起きる。
その次にやるときは、時間を半分に減らして力の入れ方を弱める。それでも出るなら、この技法は自分に合っていないと判断していい。合わない技法を根性で続ける必要は、どこにもない。
妊娠中の人、高血圧の人、心疾患のある人、呼吸器の疾患がある人は、始める前に主治医に相談してほしい。てんかんの既往がある人、緑内障のある人、精神科や心療内科で治療を受けている人も同じだ。下腹に力を入れる動作や呼吸を変える動作は、条件によっては避けたほうがいい場合がある。判断は、診ている医師のほうが正確だ。
うつや不安が重いときに、強いイメージ集中を長時間続けるのは勧めない。瞑想系の技法一般について、実施者の一部にネガティブな体験が報告されている、という指摘がある。厚生労働省が公開している補完代替療法の情報でも、瞑想に関連する有害な体験として最も多く挙げられているのが不安と抑うつだ。
同じ情報は、実施している療法を医療機関に伝えるよう促している。内側に深く注意を向ける作業は、状態によっては症状を強める方向に働く。専門家にかかるのが先で、技法はそのあとでいい。
軟酥の法は自分の身体の内側に像をつくる法だから、身体感覚が過敏になっている人や、解離の傾向を持つ人には向かない場合もある。イメージが不快なものに変わったら、そこで止めて目を開ける。
これだけは、はっきり書いておく。内観の法も軟酥の法も、医療の代替にはならない。白隠自身は自分の病が癒えたと書いたが、それは三百年前の一人の記述で、現代の臨床的な証拠じゃない。
診断も治療も医療機関の仕事なので、症状があるなら受診する。受診を先送りする理由に、これらの技法を使ってはいけない。この二法は診療を受けたうえで、生活のほうを整えるために足すもの。そう位置づけておけば、まず間違えない。
寝る前の十分でやる、現代版の組み方
現代の生活に落とし込んだ形も示しておく。枠は寝る前の十分だ。寝床の準備から入ると、敷き布団は硬めがいい。柔らかすぎるベッドなら、腰の下にタオルを一枚たたんで入れ、腰が沈みすぎるのを防ぎ、掛け布団は軽いものにして、胸が圧されないようにする。
部屋は暗くする。完全な暗闇でなくてもいいが明るい照明は消しておき、豆球くらいなら残してもいい。
スマホは手の届かないところに置く。これが一番効く工夫だと思う。枕元にあると、集中が切れた瞬間に手が伸びるんだよな。充電器ごと部屋の反対側に移し、通知音も切る。画面の光を見たあとに気を降ろすのは、坂を登ってから降りるようなもので、単純に損な話。
最初の三分は内観の法で、仰向けになって脚を伸ばしてそろえ、手を脇に置く。息を三回、深く吐く。下腹、腰、脚、足の裏へと順に意識を降ろしてから、四句を二巡か三巡念ずる。
次の五分は、姿勢はそのままで軟酥の法に移る。頭のてっぺんに軟酥を置いて、溶かして、順路どおりに降ろす。足の裏まで行ったら、腰から下に湯がたまっている状態でとどまる。残りの二分は何もしないで、そのまま寝る。
途中で寝落ちしていい。これは繰り返し書いておきたい。軟酥が胸のあたりまで来たところで意識がなくなった、という日が続いても失敗じゃない。それがむしろ、この法の狙いに近い。最後まで意識を保って完遂しようとすると、それは「がんばる」作業になり、気が上がってしまう。
家族と同室の場合でも、声を出さないので隣で寝ている人の邪魔にはならない。ただ、脚を伸ばして踏みそろえる動作で布団が動く。最初に一度だけ体勢を決めたら、あとは動かさないほうがいい。
続かないときの話もしておくと、毎日やろうと決めるとたいてい三日で崩れるから、週に三回でいい、寝つきが悪い日だけでいい、という緩い設定のほうが長く残る。白隠は三年続けたと書いたが、あれは病を治すために必死でやった人の話だ。健康な人が、同じテンションでやる必要はない。
白井亨と、丹田が武術に流れ込んだ道
ここから受容史に入るが、確度が確認できた範囲で書く。江戸後期、白隠の説いた「丹田を練る」という発想は、寺の外へ出て武術の世界に入っていった。はっきり名前が残っているのは、剣術家の白井亨(しらいとおる、一七八三年から一八四三年とされる)だ。
白井は師から白隠系の軟酥の法・内観の法を学び、それを自分の稽古体系のなかに組み替えた。彼が「練丹の法」と呼んだものがそれだ。形を練るための要は、神気を丹田気海のあいだに凝らせることにある、と彼は説いた。
意識と呼吸を臍下丹田に集めれば気が集まり、下腹に張りが出て、気力体力の充実した状態が得られる。それが白井の理解だった。
白井は、この方法を修めれば誰でも先達の心の位に到れると述べたという。弟子には真空、丹田、太刀先の機を説き、自身も老年まで剣の腕が衰えなかったとされ、彼の履歴については武道史の研究が伝書をもとに検討してきた。
ここで起きたことは、けっこう大きい。白隠の二法は、もともと病を治すための法として書かれた。それが武術に入ると、技を成り立たせる身体の土台をつくるための法に変わる。
目的は入れ替わった。それでも技術の中身は通じている。「気を下に置く」という一点が、共有されているからだ。
幕末から明治にかけての武術書には、丹田や気をめぐる言葉が急に増えた。その流れのなかで、白隠の名前が引かれることも多かった。この系譜は近代の剣道や合気道にも入り込み、いまでも道場で「臍下丹田」という言葉が飛ぶ。出どころをたどると枝がいくつも合流しているが、白隠が太い枝の一本なのは疑いにくい。
岡田虎二郎と藤田霊斎、明治大正の呼吸法ブーム
もう一つの太い流れが、明治末から大正にかけての、呼吸法・静坐法の大流行。岡田虎二郎(一八七二年から一九二〇年)は愛知県田原の出身で、「岡田式静坐法」を広めた人物だ。一九一一年に雑誌連載が始まり、単行本はよく売れた。
岡田が教えたのは、両足を土踏まずのところで深く組み、腰を立てて背筋を伸ばす坐り方だった。そこから鼻でゆっくり長く息を吐きながら、下腹の丹田に力を入れていく。静坐会は東京だけで百数十か所で開かれ、登録会員は二万人いたとされる。渋沢栄一や宮沢賢治が実践者だったとも伝えられる。
同じころ、藤田霊斎が「息心調和法」を説いた。これは後に、調和道の丹田呼吸法として続いた。藤田系は呼吸の操作をより細かく体系化しており、医療現場に紹介された時期もある。
この二つが白隠の直系かというと、話はそこまで単純じゃない。岡田式の解説には、白隠への言及が見えないものもある。けれど下腹の丹田に気と力を集めるという発想の枠組みそのものは、江戸期のあいだに『夜船閑話』が広めた図式と重なる。近代の呼吸法家たちが、白隠を参照した場面も多かった。
どこまでが直接の継承で、どこからが同じ源流を共有した並行現象なのか。それは人物ごとに確かめるしかない。うろ覚えで系統図を引くのは、危ない領域だ。
そこから先、丹田という言葉は整体や手技療法の現場にも入っていった。自律訓練法のような心理生理的な訓練法の周辺でも見かけるし、整骨院や鍼灸院が白隠の二法を患者向けに紹介している例は、現在もよく目にする。
臨済宗の寺が、公式の解説として白隠の健康法を扱うこともある。禅の語録が三百年かけて、健康法の棚に定着したわけだ。ちょっと出来すぎた出世話。
効果をどう説明する試みがあるか
現代の言葉で説明しようとする試みを、留保つきで並べておく。呼吸の面から見ると、吐く息を長くとるゆっくりした呼吸は、副交感神経の働きが優位になる方向に作用するとよく説明される。横隔膜をしっかり使う呼吸は、胸腔と腹腔の圧を変えて循環にも影響する。
呼吸法と自律神経の関係には研究の蓄積があり、心拍変動を指標にした検討も行われている。内観の法の呼吸は、この枠組みのなかに置きやすい。ここまでは話が早い。
姿勢と注意の向きについても触れておく。仰向けで全身をゆるめ、注意を下半身に向ける作業は、筋緊張を落とす方向に働く。緊張を意図的につくってから抜く手続きは、漸進的筋弛緩法として知られる手法と形が似ている。
軟酥の法は、現代のイメージ療法、いわゆるガイデッドイメジェリーと構造がよく似ている。温かいものが身体を流れる像を追いながら、その像に沿った身体感覚を実際に呼び起こしていく。自律訓練法にも「手が温かい」という言語公式を使う段階があって、やっていることは近い。
半田栄一の論考は、軟酥の法を丹田呼吸に基づいた瞑想として位置づけた。意識と無意識の統合をめざすもので、現代のイメージ療法に通じる、という見方だ。
ただ、ここから先を言い過ぎるつもりはない。白隠の二法そのものを対象にした質のよい臨床研究が、十分にあるとは言えない。似た構造をもつ技法に効果が確認されたからといって、白隠の二法にも同じ効果があると証明されたことにはならない。白隠が書いた「治る」という言葉は、彼個人の記述であって、治療効果の保証じゃない。
説明できないものも残る。白隠はこの二法を、病を治すためだけの技術じゃなく禅の修行の一部だと言い続けた。気海丹田がそのまま本来の面目であり、浄土であり、弥陀である、という観念をなぜ入れたのか。そこは自律神経の言葉では説明しきれない。
おそらく、説明する必要もない。技法を医療の言葉に翻訳しきれない部分が残るのは、この手の伝統にとっては当たり前のことだ。そこまで含めて、白隠の二法なんだよな。
マインドフルネスとの距離
いま一番よく比べられる相手との距離も、測っておこう。マインドフルネスと内観の法は、注意を身体に向けるところは同じだ。ボディスキャンと呼ばれる技法は、身体の部位を順に移動しながら感覚を観察していくもので、表面上は軟酥の法の順路とよく似ている。
でも、目的の向きがずれている。マインドフルネスのボディスキャンは、「観る」ことを目的にする。感覚をそのまま、判断を加えずに観察し、変えようとしない。軟酥の法のほうは、はっきり「変えよう」としている。頭の熱を降ろし、下腹を温めるわけで、方向性のある操作だ。
観察というより施術に近く、内観の四句にもそれが出ている。あれは中立的な観察の言葉じゃなく、身体の特定の場所に宗教的な価値を宣言する言葉だ。ここが浄土である、ここが弥陀である、と。判断を加えないどころか、最大級の判断を加えているわけだ。
もう一つの違いは、身体の上下にある。マインドフルネスの実践は、身体のどこかを特別扱いすることを原則としてしないが、白隠は徹底して下を特別扱いし、上はよくなく、下がよいとする。この非対称性が、白隠の二法の骨格をつくっている。
「禅病」という言葉が、いま逆輸入されている状況もおもしろい。瞑想やマインドフルネスを熱心にやりすぎて調子を崩す人が出ると、それを禅病と呼ぶ言い方が復活しつつある。白隠が三百年前に書いた診断は、身体を置き忘れて頭のなかだけで修行すると壊れる、というものだった。それがそのまま、現代の注意書きとして使える。
修行のやりすぎで壊れた僧が、壊れたあとに書き残した処方。それが養生書として版を重ね、剣術に入り、大正の静坐会に流れ、いまは整骨院のブログに載っている。三百年のあいだ、この二法は一度も途切れなかった。
寝床に仰向けになって、息を細く長く吐いて、臍の下に注意を置く。やることは、それだけなのだから。
