- 坐るだけの流行が、日本中を飲み込んだ
- 江戸の養生から近代の修養へ――前史をざっと
- 岡田虎二郎という人――農業改良家から静坐の師へ
- 都内百数十か所、会員二万人――静坐会の熱狂
- 一冊も書かなかった男――教えはどう伝わったか
- 大正九年、突然の死
- 京都の静坐社と小林信子――八十年続いた細い流れ
- 藤田霊斎――病から呼吸へ、僧侶の別ルート
- 息心調和法から調和道へ――体系化の道
- 腰腹か、呼気か――岡田と藤田、二人の決定的な違い
- 静坐だけじゃなかった――同時代の修養ブーム総覧
- 正座はいつ「正しい坐り方」になったのか
- 修養が国家に回収されるとき
- 図の見方――ラテン文字ラベルと日本語の対応
- 岡田式静坐法の坐り方――足から頭まで
- 正座がきつい人のための現実解
- 岡田式の呼吸――吐いて下腹、緩めて入る
- 藤田式の呼吸――呼気を長く、みぞおちを凹ませる
- 数息観を添える――数え方の全文と意味
- 始める前の準備と、終わり方
- やってはいけないこと
- 「腹式呼吸で万病が治る」の検証
- 断絶と再評価――戦後から現代まで
- 坐ることに残ったもの
坐るだけの流行が、日本中を飲み込んだ
明治の終わりから大正にかけて、この国の人たちはやたらと坐った。朝の五時に寺の本堂へ集まり、黙って正座して、ただ息を吐く。それだけの集まりが東京の百数十か所で開かれ、登録会員だけで二万人いたと伝わるのだから、ちょっと妙な光景だ。
渋沢栄一も宮澤賢治も田中正造も、みんな坐った。皇族が坐り、新聞社の重役が坐り、女学生までが同じように膝を折って坐っていた。顔ぶれだけ見れば、どこかの大きな宗教の集会かと思うかもしれない。無理もない話だ。
ところが宗教でもなければ、座禅でもない。悟りを目指すわけでもなく、教祖にあたる人物は自分の教えを一冊も本にしなかった。それが岡田式静坐法。
同じころ、まったく別のルートから同じ場所にたどり着いた人物がいた。真言宗の僧侶、藤田霊斎。病で死にかけた体験から呼吸法に行き着き、息心調和法と名づけて世に出したのが彼で、これがのちの調和道丹田呼吸法になる。
こちらは岡田と違って、教えを細かく組み上げ、組織を作り、文章に残した。おかげで百二十年後の今も、日暮里の道場では実習が続いている。まあ、この差は後でじっくり比べる。
この二人を柱に、明治大正の日本を巻き込んだ静坐ブームのぜんぶを見ていく。江戸の養生思想がどうやって近代の「修養」に化けたのか、なぜ坐ることが国民的な流行になったのか。それから、なぜ一度きれいに消えたのか。
最後には今日から畳の上でできる手順も書くし、岡田式の坐り方も藤田式の呼気の要領も、ごまかさずに全部出すつもりだ。危ないところは危ないとはっきり書くし、そこだけは譲らない。
江戸の養生から近代の修養へ――前史をざっと
坐って腹に力を入れる、という発想は近代の発明でもなんでもなく、江戸時代の養生思想をのぞくと、うんざりするほど出てくる。一番有名なのが貝原益軒の『養生訓』で、正徳三年、益軒が八十三歳のときの著作だった。
この本で繰り返し説かれるのが、気を臍の下に収めよ、という話だ。怒りや焦りで気が上に昇るのが病のもとで、それを下腹に沈めておけば体は保たれる。養生の根本は慾をこらえることにあり、そのための具体的な手立てとして呼吸と姿勢が置かれた。
益軒は医者でなく儒者だったのに、この本は江戸のベストセラーになり、庶民の健康観の土台にまでなっていく。医者の本より儒者の本が売れたわけだ。
儒学の側にも坐る伝統がある。朱子は「半日は静坐し、半日は読書す」と説いたと伝えられ、江戸の儒者たちもこれを真似た。とはいえこの静坐は、禅とは似て非なるものだ。心を空っぽにするのでなく、自分の内面を点検して私欲を削ぎ落とす作業にあたる。
目的が徳性の涵養にある以上、坐は手段にすぎず、坐ること自体は目的にならなかった。儒者にとって坐る時間は、あくまで読書と対になった点検の時間だったわけだ。
禅の只管打坐は、また別の話になる。道元の只管打坐は、坐ることの外に目的を置かないからだ。健康になるためでも、心を静めるためでもなく、坐ることがそのまま仏の行だという立場だ。効能を語り始めた瞬間に道を外れてしまう。
臨済宗の白隠慧鶴はちょっと違う。修行のやりすぎで心身を壊した「禅病」の経験から、内観の法と軟酥の法という具体的な養生の技法を編み出した。気を臍下丹田に下ろす内観法と、頭上に置いた軟酥が溶けて全身を潤していくと観じる軟酥の法の二つだ。
ここは当データベースに独立した記事があるので深追いしないが、押さえておきたい接続点がひとつだけある。白隠が、禅のなかに堂々と「体を治すための技法」を持ち込んでしまったことだ。
この時点で材料は出そろっていた。腹に気を収めるという養生の理屈、坐って内面を点検するという儒者の作法、それに禅のなかの治療技法。江戸が三つバラバラに持っていたものを、明治の人間が一本に束ね直した。
束ね直す動機になったのが、近代日本特有の「修養」という考え方だった。修養とは、立身出世のために自分を鍛えることを指す。身分制が壊れて、努力次第で誰でも上に行けることになった社会で、では何をどう鍛えるのか。その答えの一部が、坐ることだったわけだ。
岡田虎二郎という人――農業改良家から静坐の師へ
岡田虎二郎は明治五年、三河国渥美郡田原、今の愛知県田原市に生まれた。旧田原藩士族の家の次男で、早産で生まれ、生まれつき体が弱かった。
ところが十三、四歳のころに一種の霊感を受けたといい、それを境に心身が一変して強健になったと本人は語っている。この話は本人の回顧に依るもので、外から裏を取れる性質のものでない。ただ、後年の彼が「人は変われる」と信じて疑わなかったことの出所としては重要だ。
十六歳で高等小学校を出て農業に入ってからの岡田は、静坐の人でなく、徹底した農業改良家だった。独自の害虫駆除法を編み出し、自作の米で全国一位を取り、渥美郡の農業主事まで務めている。なかなかの腕前だ。
土と作物を相手に、どうすればよく育つかを実験で詰めていく人間だったわけだ。この経歴は見落とされやすいが、後の静坐法の性格を決定づけた。岡田にとって人間の体も、条件を整えれば勝手に育つ作物のようなものだった。
「草木のように坐せよ」という彼の有名な言葉は、比喩でなく実感から出ている。作物を相手にしてきた人の感覚が、そのまま人の坐り方に移ったと思えばわかりやすい。
明治三十四年、二十九歳で渡米し、労働しながら各地を見て歩き、ヨーロッパを経由して明治三十八年に帰国する。四年の海外生活で何を見たのかは、資料が少なくてよくわからない。
農業視察が主目的だったとも、労働移民に近い形だったとも言われ、そこは振れる。確かなのは、帰国した岡田が農業でなく人間の心身の話をするようになっていたことだ。大きな転身。
地元の素封家の娘と結婚して一女をもうけたが、翌明治三十九年に離婚している。その後は甲州の山にこもり、次いで東京で働く兄弟を頼って上京した。このあたりの足取りは、正直ずいぶん地味だ。
明治四十年、岡田は新聞に広告を出す。心身の病弱な者を救済する、という内容だった。怪しい。今なら通報されかねない話なのに、実際に治ったと言う人間が出てきたのだから、世の中わからない。
訪ねてくる人が増え、明治四十三年ごろには相当の評判になっていた。そこで日暮里の本行寺を借りて始めたのが、静坐会の出発点になる。明治四十三年ごろの話。
寺は借りただけで、岡田は僧侶でも神職でもなかった。宗教的な枠組みを一切まとわずに、ただ坐る会が始まったわけで、この身軽さがあとの爆発的な広がりにつながっていく。
都内百数十か所、会員二万人――静坐会の熱狂
火がついたのは明治四十四年だった。この年、岡田の教えをまとめた『岡田式呼吸静坐法』の雑誌連載が始まり、単行本になってベストセラーになる。ここで気をつけたいのは、書いたのが岡田自身でない点だ。岡田は一貫して、自分では書かなかった。
そこから数年で、静坐会は東京だけで百数十か所に増えた。正式な登録会員だけで二万人いたと伝えられている。地元田原の資料では信奉者およそ一万人、岡田自身が週に七十七か所を回り、睡眠は三時間だったという。
数字は資料によって振れるものの、どの記録も規模の異常さでは一致している。週に七十七か所というのは、一日に十か所以上を回る計算だ。
会場は寺だけにとどまらない。官庁の一室、学校の講堂、新聞社の広間、会社の事務所。当時の記録には中央気象台や女子高等師範学校、報知新聞社などの名が挙がる。
ただ、これらは後世の回想や二次的な紹介に出てくる名で、開催記録そのものを確認できたものでない。ここは「官庁・学校・新聞社のような近代組織の内部にまで入り込んでいた」という水準で受け取っておくのが安全だ。念のため書き添えておく。
参加者の顔ぶれがまた濃い。裏の取れる範囲で挙げると、社会運動家の木下尚江、足尾鉱毒事件の田中正造、実業家の渋沢栄一と安田善次郎、政治家の後藤新平がいた。早稲田の高田早苗と天野為之、思想家の浮田和民、文学の坪内逍遥の名もある。
新宿中村屋の相馬黒光、『出家とその弟子』の倉田百三、夏目漱石の妻である夏目鏡子も坐ったし、宮澤賢治もその一人だ。徳川慶喜と徳川慶久、閑院宮、東伏見宮夫妻といった旧支配層の名前まで出てくる。
社会主義者と財界の大物と元将軍が同じ部屋で黙って坐っている、この絵面が静坐ブームの正体をよく表している。思想も立場も違う人間が、身体という最小公倍数のところで一時的に同じことをしていたんだよな。
ちなみに、この記事を書くにあたって近代の修養家の名簿を当たった。しばしば岡田の弟子として名の挙がる哲学者や経済学者、後の倫理運動の指導者については、静坐会への参加を確認できる一次に近い資料に行き当たらなかった。伝聞の域を出ないものは、ここでは落としてある。
一冊も書かなかった男――教えはどう伝わったか
岡田虎二郎の奇妙なところは、著書も日記も残さなかったことだ。忙しくて書けなかったのとは違い、書かないことがはっきりした方針だった。徹底している。
岡田は言葉で説明することを嫌い、質問されても短い一言で返すか、黙って坐らせた。理屈を覚えた人間は理屈で坐るようになり、それでは体が育たない、という発想だ。
結果として、彼の教えは全部が弟子の筆記を経由して伝わった。ベストセラーになった『岡田式呼吸静坐法』の類も、参加者が会場での言葉を書きとめ、編集したものだった。語録集が何種類も編まれ、内容が微妙に食い違っている。
誰の耳を通ったかで、同じ場面の岡田の言葉が違う形で残った。だから岡田の思想を論じるとき、扱っているのは岡田本人より、岡田を聞いた人たちの平均像に近い。ここは正直に書いておきたい。近代の身体技法で、これほど創始者本人の一次資料が薄い例も珍しい。
それでも複数の系統に共通して出てくる言葉が、いくつかある。筆頭は「静坐は主、呼吸は従」。これは書簡に残る言い方で、呼吸法として売られることへの岡田の抵抗がはっきり出ている。
「無念無想を求むること亦不可なり」というのもあって、これは雑念を消そうとするな、という指示だ。短いけれど、静坐の性格をよく表した一句になっている。
「静坐の真の目的は七情の調和である。七情が調和すれば病はおのずから癒るものだ」という言葉も残る。喜怒哀楽を消すのでなく、釣り合わせる。そこへ「草木のように坐せよ」が加わる格好だ。
岡田が繰り返したもうひとつの要点が、体の縦の線だった。腰が立っていれば、心は自然に定まる。彼はこれを五重塔の心柱にたとえたと伝えられる。塔が倒れないのは飾りのおかげでなく、真ん中に一本通っているからだ、と。
岡田にとって静坐とは、技術を身につけることより、そもそも人間がそう作られている形に戻る作業だった。だから技術化を嫌ったわけで、ここが後で藤田霊斎との決定的な違いになる。
大正九年、突然の死
大正九年一月八日、岡田虎二郎は尿毒症で死んだ。満四十七、数えで四十九。田原の蔵王墓地に葬られている。早すぎる死だった。
週七十七会場を回り睡眠三時間という生活が体を削ったのだろう、というのは後世のわかりやすい見立てにすぎない。実際の病歴を細かく追える資料は乏しい。ただ、心身の健康を説く人物が四十代で腎不全で死んだ、その衝撃は凄まじかった。
静坐会は一気に萎んだ。これも見逃したくない観察だ。方法が広まっていたのなら、創始者が死んでも方法だけ残るはずなのに、実際にはそうならなかった。
参加者の多くが習いに来ていたのは、静坐法というより岡田虎二郎という人間だった。岡田の前で坐ることに意味があり、岡田のいない部屋で坐ることには同じ意味がなかったわけだ。
近代日本の身体技法の流行は、たいていこの構造を抱えている。カリスマが方法を語り、方法が広まったように見え、カリスマが消えると方法も消える。残るのは、教えを受け取った側が自分の責任で組織化した場合だけだ。
静坐の場合、それをやった人が二人いて、ひとりは東京で岡田の後を継いだ木下尚江で、もうひとりは京都にいた。
京都の静坐社と小林信子――八十年続いた細い流れ
京都に済世病院という病院があって、その院長を務めた小林参三郎という医師が、またずいぶん変わった人だった。西洋医学の治療と、仏教信仰や民間精神療法を平気で併用したのだ。
著書に『生命の神秘』と『自然の名医』がある。題名からして、治すのは医者でなく体そのものだという立場が透けて見える。小林参三郎は岡田式静坐法を取り入れ、患者と門人に指導した人で、その妻が小林信子になる。
昭和二年、信子は京都に静坐社を設立した。岡田の死から七年後、ブームがすっかり冷めてからの旗揚げだ。ここが静坐社の偉いところで、彼女は熱狂が去った後に組織を作った。
同じ昭和二年には雑誌『静坐』も出し始めたが、この雑誌が異様な粘りを見せる。戦中から戦後の一時期、昭和十九年から二十七年までは中断するが、それ以外はずっと出続け、平成十九年まで刊行されている。八十年だ。
静坐社そのものの活動は、平成二十八年ごろまで続いた。本部として使われていた洋館は同年四月に解体されていて、建物がなくなった日のことを思うと、ちょっと寂しい。
国際日本文化研究センターの図書館に、この静坐社の旧蔵資料が収まっている。雑誌『静坐』が二百四号分、『静坐季刊』が百八十号分、書籍が二百四点。近代日本の民間身体技法で、これだけまとまった連続刊行物が残っている例はほとんどない。
ブームは大正で終わったが、静坐そのものは終わらなかった。その継続を支えたのは何万人の会員でなく、京都の一軒の洋館と、そこで雑誌を編み続けた人たちだった。静坐が生き延びたのは流行としてでなく、地味な出版活動としてで、ここは押さえておく価値がある。
藤田霊斎――病から呼吸へ、僧侶の別ルート
藤田霊斎は慶応四年、つまり明治元年にあたる年に生まれた真言宗智山派の僧だ。岡田が農業から来たのに対し、藤田は宗教の内側から来た。
真言宗の僧侶として修行を積むうち、彼は体を壊す。当時の宗教修行は無茶をやるのが当たり前で、断食も不眠も水行も、体を壊すまでやることが珍しくなかった。白隠の禅病と同じ構図だ。
この経験が、藤田を呼吸へ向かわせた。彼は高野山や高尾山に参籠し、繰り返し山にこもって、体を壊さずに済む息の使い方を探し続ける。明治三十九年、そうして息心調和法を世に出した。
息と心を調和させる法、という名だ。翌明治四十年には今の千葉市に道場を開き、ここが藤田の実践の拠点になる。
明治四十一年の『心身強健の秘訣』が節目になった。日本で最初に「丹田呼吸」という語を使ったのが、この本だとされる。丹田という語自体は道教由来で古くからあるし、白隠も臍下丹田と言っている。
それでも「丹田呼吸」という複合語を普及させたのは藤田だった。今日、健康法の話で当たり前に使われているこの言葉の出所が、明治末の日本にあることは、覚えておいていい。
明治四十二年に「完全息六原則」の端緒を得たとされ、大正六年に「調和道哲理」を発見、大正十一年に「調和道哲学」を発表した。呼吸の技法から始まって、それを支える世界観の整備へ進んでいるのがわかる。
昭和二年三月、社団法人としての認可を得て、調和道協会が成立した。偶然だが、京都で静坐社が旗揚げしたのと同じ年になる。
藤田は昭和三十二年五月、数えで九十歳、満では八十九歳で没した。岡田が四十代で死んだのと対照的に、自分の説く呼吸法を実践しながら長命を全うしている。呼吸法が寿命を延ばした証拠にはならないにせよ、説得力の材料にはなった。長生きは強い。
息心調和法から調和道へ――体系化の道
藤田と岡田の最大の違いは、組織と後継にある。岡田が何も残さなかったのに対し、藤田は法人を作り、会長職を継がせている。ここで両者の運命がはっきり分かれた。
昭和三十五年、医学博士の村木弘昌が調和道協会の第二代会長に就任する。この人選が決定的だった。村木は医師の立場から丹田呼吸を説明し直し、横隔膜の運動と腹腔内圧という言葉で語れるようにした。宗教的な修行法として始まったものを、医学の語彙に翻訳したわけだ。
平成二年八月には、統合医療を掲げるがん治療の医師、帯津良一が第三代会長に就いた。平成十九年七月には日野原重明が第四代会長に就任した。聖路加国際病院の、あの日野原である。
四代のうち三代が医学者で、いずれも現役の臨床医というのは、民間の呼吸法団体としてはずいぶん異例だ。おかげで調和道は、怪しげな健康法の群れから頭一つ抜けた位置を保っている。この安定感は正直うらやましい。
今も東京の日暮里駅近くに本部道場があり、火曜から土曜まで毎日実習が開かれている。全国にも提携教室がある。思えば、岡田が最初に静坐会を開いたのも日暮里の本行寺だった。百年以上を隔てて、同じ町に息の道場が残っているのは面白い符合だ。
技法の名前も整理されている。基礎の緩息から始まり、初級として三呼一吸法、波浪息、大振息、全身操作。中級でも波浪息と大振息を段に分けて細かくやり、これに屈伸息が加わる。上級で虚実息、完全息、さらに古伝として小波浪息、中波浪息、大波浪息、太陽息、大地息が置かれる。
岡田がひとつの坐り方しか示さなかったのに対し、藤田の側は段階と種目に分かれている。ここまで違うと、もはや思想の違いと言ったほうが正確で、同じ腹の話をしていても、中身の設計図がまるで別物になっている。
腰腹か、呼気か――岡田と藤田、二人の決定的な違い
同じ時代に、同じ「腹」を説き、同じ下腹の充実を目指した二人が、なぜこれほど違う形になったのか。ここが一番おいしいところなので、順番にほどいていく。
岡田の側の論理では、人間の体には本来そなわった形がある。腰が立ち、胸と肩が緩み、下腹が充実している状態で、これが自然体だ。赤ん坊も、よく働く農民も、自然にその形をしている。
だから静坐でやることは、新しい能力を身につけることとは違う。余計なものを落として元の形に戻ることで、足し算でなく引き算の稽古だと思えばいい。
この立場に立つと、技術の細分化は邪魔になる。何拍で吸って何拍で吐けと教えれば、坐る人は数を数えることに気を取られてしまう。目的は腰が立っていることで、正しく呼吸することは二の次だ。岡田が呼吸を「従」と呼び、呼吸法として宣伝されることを嫌がったのはそのためだった。
思い切って言うと、岡田式に技法はない。坐り方と、坐り続ける時間があるだけという、拍子抜けするくらい単純な話になる。
藤田の側は逆を行く。なにしろ彼は、自分が病で倒れた人間だ。倒れた体をどう立て直すか、という問いから出発している以上、「自然にしていれば治る」では答えにならない。自然にしていて倒れたのだから。身も蓋もない。
そこで藤田は、呼気を操作の対象にした。みぞおちの下を凹ませてくびれを作り、そのくびれを軸に上体を前傾させながら吐く。手をみぞおちに当てて補助し、吐くときに「ハッ」と低い声を出す。吸うときは上体を起こして自然に入らせる。
横隔膜を意識的に動かし、腹腔内圧を自分から進んでコントロールする。これは明確に技術で、反復すれば上達し、段階を踏めば深まる。だから種目が要り、教える組織が要り、免許に近い階梯が要る。岡田とはまさに正反対。
どちらが正しいという話ではない。岡田の立場は健康な人間が自分を整えるには強く、藤田の立場は、すでに不調のある人間が回復を目指すには強い。要は出発点の違い。
皮肉なことに、後世に技法として残ったのは藤田の側だった。教えられる形になっているものしか、継承されないからだ。岡田の「自然にしていろ」は、岡田がいなくなると誰も再現できなかった。
静坐だけじゃなかった――同時代の修養ブーム総覧
静坐ブームは単独の現象でもない。明治末から大正、昭和初期にかけて、日本は身体を鍛える方法の見本市みたいな状態だった。ここで同時代のほかの顔ぶれも見ておく。
中村天風は明治九年生まれ。日露戦争前後に軍の諜報に関わり、その後に結核を得て、治療法を求めて欧米を回った。帰途のインドでヨガの行者カリアッパに師事したと語られる。帰国後に統一哲医学会を起こし、これが後の天風会につながった。
心が体を作るという心身統一の立場で、天風は呼吸と姿勢と言葉の使い方を説いた。財界人に信奉者が多かったところは、岡田とよく似ている。
肥田春充は明治十六年生まれ。虚弱だった自分を鍛え直す過程で、肥田式強健術を作り上げた。腰腹同量、聖中心といった独自の用語で、腰と下腹に力の中心を置く姿勢論を展開している。著作が膨大で、しかも計算と図解が異様に細かい。岡田が何も書かなかったのと、見事に正反対だ。
二木謙三は明治六年生まれの医学者で、東京帝大の教授まで務めた本物の学者だ。その人が玄米食と完全食を説き、よく噛むことと呼吸を重んじた。医学の権威が生活法を説いたことで、修養運動全体に「科学的」な後ろ盾のような効果が生まれた。
このほかにも、丹田を説く道場、呼吸を説く会、断食を説く団体が無数にあって、数えだしたらきりがない。
共通するのは三つある。ひとつ、創始者本人が病弱だったり大病をしたりしていること。ふたつ、方法がやたらと安いこと。道具が要らず、場所も要らず、ただ坐るか歩くか噛むかすればいい。みっつ、身分や学歴に関係なく誰でもできること。
日露戦争のあと、日本は国としては一等国の仲間入りをしたが、個人の生活はちっとも楽にならなかった。学歴社会が固まり、都市に人が流れ込み、神経衰弱という言葉が流行語になった。そこに「金をかけずに自分を作り変えられる」という話が刺さったわけだ。
正座はいつ「正しい坐り方」になったのか
ここで一度、坐り方そのものの歴史を見ておきたい。静坐ブームを理解するうえで、じつはこれがよく効いてくるし、遠回りに見えて近道になる。
前提として、正座は日本の伝統的な坐り方と呼べるものでなく、「日本人はずっと正座してきた」という理解は、はっきり間違いだ。ちょっと意外だよね。
江戸時代以前、武士も女性も茶人も、普段は胡座か立膝で坐っていた。儀礼の場では蹲踞や跪座が敬意の表現として使われたが、それは特別な場面の作法にすぎない。畳の上で長時間膝を折りたたんで坐る習慣は、一般的なものでなかった。
変わり目は江戸時代。幕府が小笠原流礼法を採用し、参勤交代で登城する大名が将軍に対して膝を折る形を義務づけられた。将軍の前では足を崩せないし、この姿勢は立ち上がるのに時間がかかるから、警護上の都合もあったと言われる。
大名がそれを国元に持ち帰り、家臣が真似し、下へ広がった。同じ時期に畳が庶民の家にも入り始めたことが、物理的な条件を整えたのだから、うまくできた話だよね。
研究によっては、十六世紀後半には下級武士や農民にもこの坐り方が浸透していたという指摘もある。坐法そのものは古くからあり、それが礼法として選ばれたのが江戸だった、と整理しておくのが無難だ。
決定的なのは明治だった。そもそも「正座」という言葉自体が新しく、江戸期にはこの坐り方は「かしこまる」「つくばう」などと呼ばれていた。
文献に現れる最も古い例のひとつが、明治十五年刊の『小学女子容儀詳説』だとされる。「正座」は明治の造語に近いわけで、今では誰も疑わない言葉なのに意外と若い。
明治維新で身分制が解体され、四民平等になると困ったことが起きる。それまで身分ごとにバラバラだった礼法を、国民全員で共有しなければならなくなった。
修身の教育で、全国の子どもに同じ作法を教える必要が出てきた。そこで選ばれ、標準化されたのが正座で、ここが静坐ブームとつながってくる。
明治末に岡田が「腰を立てて深く正座せよ」と言ったとき、聞いた人たちはすでに学校で正座を仕込まれていた。正座は伝統というより、まさにその時代に国民的な身体作法として作られつつあったものだ。静坐ブームは、その制度化の波に完全に乗っている。
言い換えれば、岡田式静坐法が短期間で何万人にも広まった下地には、「全国民が同じ坐り方を知っている」という近代の条件があった。江戸だったら、この流行は成立していない。そう考えると、タイミングが良すぎるくらい。
修養が国家に回収されるとき
坐るのは個人の営みだが、国民全員が同じように坐れるようになった社会では、坐ることは統治の道具にもなる。ここから少し話が重くなる。
大正から昭和にかけて、修養の言葉は少しずつ変質していった。当初は「自分を鍛えて出世する」という私的な動機の言葉だった。それが「国民として鍛える」「国家に役立つ心身を作る」という方向へずらされていく。
体操が国民体育になり、精神修養が精神鍛錬になり、心身の統一が国民精神総動員の語彙と混じった。呼吸法を説いていた団体の多くが、戦時下では国家への奉仕を掲げるようになった。当時の団体が特別に悪かったという話とは違う。そうしなければ存続できない時代だったし、方法そのものに国家と結びつきやすい性質がある。
何しろ、金がかからず、道具が要らず、誰でもでき、規律を体に刻み込む。統治する側から見て、これほど都合のいい技術はない。とはいえ、まったく逆の側面も同時にあった。
静坐会に通っていた人たちの多くは、国家のためというより、単に体調が悪かったり、眠れなかったり、都会の暮らしに参っていたりしただけだ。木下尚江は非戦論者で社会主義者だったし、田中正造は国家に潰された人だった。その二人が坐っていた。
坐ることは自分の体を自分の手に取り戻す行為でもあるから、国家に回収されやすいのと、個人の避難所になるのは、矛盾しない。同じ方法が同時に両方をやるのであって、ここを一方に寄せて語ると、近代日本の修養運動はまるごと見えなくなる。
戦後、修養という言葉はほとんど死語になった。国家主義と結びついた記憶が生々しすぎたからだ。坐って腹に力を入れる技法も、道連れのように表舞台から消えた。静坐が細々と続いた場所が京都の一軒の洋館だった、というのはそういう事情による。
図の見方――ラテン文字ラベルと日本語の対応
このあと実践の手順に入るが、その前に図を一点置いておく。文字化けを避けるため、図のなかの語はすべてラテン文字にしてある。対応を先に説明しておきたい。
図は横から見た坐り方を示していて、中央に人の輪郭があり、その周りに矢印と印が並ぶ。赤い実線の矢印が吐く息のときの力の向き、青い破線の矢印が吸う息を表す。
PELVIS UPRIGHT は骨盤を立てる、という意味だ。図では腰の左横に上向きの矢印が入っている。DO NOT TUCK IT BACK と添えてあるのは、骨盤を後ろに倒して丸めるな、という意味になる。坐骨で座面を捉え、骨盤の上端を後ろに倒さず立てる。岡田が一番うるさく言った点がここだ。
SPINE は背骨で、骨盤から頭までを通るゆるい線で描いてある。まっすぐという言葉に引っ張られて反らせないこと。自然な曲線でいい。
CROWN UP は頭頂を上へ、という指示で、頭のてっぺんから糸で吊られている感じを表していて、顎は引く。
SOLAR PLEXUS は鳩尾、みぞおちのこと。図では胸の下のくぼみの位置に赤い点が打ってあり、そこから下向きの矢印が伸びている。ここを落とす、緩めるのが、岡田式でも藤田式でも共通の要点だ。添えてある SINK AND RELEASE は、沈めて力を抜く、という意味になる。
TANDEN が丹田で、臍の下に置かれた丸印が、だいたい臍から指三本から四本ほど下、体の内側寄りの場所を指す。臍下丹田と呼ばれるところだ。実在の器官でなく、力の感覚を置く場所の目印だと思ってほしい。
EXHALE は呼気、つまり息を吐くこと。丹田のあたりに内向きの矢印が描いてあり、これが吐くときに腹を締める方向を示す。添えてある FIRM THE LOWER BELLY は、下腹を締めよ、という意味だ。前から後ろへ、そして少し上へ。下腹が内側へ向かって充実していく向きになる。
INHALE は吸気で、腹の前あたりから外へ向かう青い破線の矢印で示してあり、呼気の矢印とは逆向きだ。岡田式では、吸うのは意識的な動作でない。締めていた力を緩めると、勝手に入る。そのことを実線でなく破線で表し、PASSIVE と添えて、受け身でよい、という意味を持たせた。
SITTING BONES は坐骨で、正座でも椅子坐でも体重を支える起点になる骨だ。横から見た図なので、尻の下あたりに黒い点がひとつ打ってある。左右に一対あるものを横から見ていると思ってほしい。
KNEE と ANKLE はそれぞれ膝と足首で、正座で無理がかかりやすい二か所なので、あえて印を入れてある。膝のほうに PROTECT IT と書き添えたのは、痛むなら守れ、無理をするな、という意味だ。図の下の CUSHION は座布団になる。
図はあくまで方向の説明にすぎない。実際の体は図より複雑だし、人によって骨格が違う。図の線と自分の体を一致させようとせず、矢印の向きだけを見てほしい。
岡田式静坐法の坐り方――足から頭まで
では実際に坐ってみる。最初は岡田式。用意するものは座布団が一枚だけで、薄いと膝と足首に来るから、厚みのあるもののほうがいい。
専用の坐蒲でなくてかまわないが、柔らかすぎて沈み込むものは腰が立たなくなるので避ける。ホームセンターや寝具店で買える硬めの座布団か、二つ折りにできる大きめのものが使いやすい。畳がなければ、フローリングの上にヨガマットを敷いて、その上に座布団を置けばいい。
坐り方に入る。正座から始めるが、普通の正座より深く組むのが岡田式のやり方だ。両足を土踏まずのあたりでX字型に交差させ、親指を重ねる。
どちらの親指を上にするかは決まっていないが、毎回同じにすると体が片寄るので、日によって入れ替えるとよい。足の甲は床につけておき、このX字が深いほど、尻の位置が安定して腰が立ちやすい。
座布団は足を組んだ上に尻を乗せる形で、尻を少し後ろに突き出すようにして、足の上に軽く置く感じだ。体重を全部足に預けると足がすぐに死ぬので、座布団と足に分散させる。
膝の開き方には、具体的な数字が伝わっている。膝頭と膝頭の間隔を男性は拳二つ分、女性は拳一つ分とするもので、自分の拳を実際に膝の間に入れて確かめればいい。
ただしこれは当時の男女の体格と着物の想定に基づく数字だから、現代の体格で窮屈なら広げてかまわない。骨盤が立つ幅が、その人の正解で、ここで窮屈さを我慢しても得るものはない。
次は腰だ。ここが岡田式の核心で、他のすべては付け足しと言っていい。腰をしっかり立て、骨盤の上端が後ろに倒れないようにして、坐骨で座面を捉える。
感覚としては、下腹を前に軽く送り出しながら、腰の後ろの反りを作りすぎない位置を探す。反らしすぎると腰が痛くなり、丸めすぎると胸が潰れる。その中間。
上体は腰の上にそのまま乗せ、わずかに前に出す感じでよく、岡田式の伝承でも上体を少し前に置くとされている。背中で支えようとしないこと。
胸と肩は抜き、力を入れるのは下腹だけにして、上半身は全部緩める。鳩尾を落とす、という表現が繰り返し出てくるのはこのためだ。胸を張ると鳩尾が持ち上がってしまうので張らず、肩は耳から離すように、すとんと下ろす。
首はまっすぐ。頭を垂れずに顎を軽く後ろに引いて、頭頂が天井に向かう感じにする。
手の形。両手は、片方の手で反対の親指を握るようにして、深く、しかし軽く組む。組んだ手は腹につけるか、掌を下にして腿の上に置く。どちらも岡田式として伝わっており、会や時代によって振れる。
禅の法界定印のように、両手を重ねて親指の先を合わせる形とは少し違う。親指を握り込むのが岡田式の特徴だ。迷うなら組んで下腹に当てる形から始めるといいし、そうすれば下腹の動きが手に伝わるので、力の入り方を自分で確認できる。
目は軽く閉じる。完全に閉じると眠くなる人は、半眼にして一メートルほど先の畳に視線を落とす。口も閉じ、舌は上顎に軽くつけておくと、口の中が乾きにくい。
時間と回数も決めておく。初めは一回十五分から二十分、朝と夕方の二回が基本とされる。朝は起きてすぐ顔を洗ってから、夕方は帰宅後か寝る一時間前あたりがいい。
慣れたら一回三十分から四十分まで伸ばす。当時の熱心な会員は一時間以上坐ったが、最初から真似しないこと。そこで張り合っても、膝を痛めるのが落ちだ。
食後は避ける。腹に力を入れるので、満腹だと気持ちが悪くなるからだ。食事から最低一時間、できれば二時間空ける。逆に空腹すぎても集中できないので、軽く何か入れてからのほうがいい人もいて、そこは自分で調整する。
毎日やることのほうが、一回を長くすることより効く。五分でもいいから毎日坐るほうが、週一回一時間より確実で、地味な話だけどここで差がつく。
正座がきつい人のための現実解
正座は万人向けでない。膝を痛めている人、足首が硬い人、太腿の厚い人、体重のある人にとって、正座は単なる苦行になる。ここを根性で乗り切らせるのは、現代では単に無責任なので、代案を出しておく。
一番現実的なのは椅子坐。背もたれのある椅子でいいが、背もたれには寄りかからない。坐面の前寄りに浅く腰かけて足の裏を床にべったりつけ、膝の角度が直角になる高さが理想で、足が浮くなら足の下に本を置く。
ここから骨盤を立てるわけだが、やることは正座とまったく同じで、腰を立て、鳩尾を落とし、下腹に力を集める。岡田式の本体は腰と下腹にあるので、足の形は代替がきく。
安座、つまり胡座も使える。床に直接あぐらをかくと骨盤が後ろに倒れるので、必ず尻の下に座布団を折って入れる。座布団を二つ折りか三つ折りにして、尻の後ろ半分だけ乗せる。
前が下がって膝が尻より低くなる角度を作ると、骨盤が自然に立つ。片足だけ前に置く半跏の形でもよく、その場合は左右を毎回入れ替えること。
正座椅子も役に立つ。膝を折った姿勢のまま、尻の下に低い台を入れて体重を逃がす道具で、仏具店や通販で手に入る。木製の折りたたみ式が二千円から五千円くらい。
自作するなら、厚めの座布団を三つ折りにして立てて尻の下に差し込めば、ほぼ同じ効果が出る。足首と膝への圧がぐっと減るし、安上がりで助かる。
座布団の折り方にはコツがある。三つ折りにしてから、さらに端を少し内側に入れて、前が薄く後ろが厚い楔形を作る。この楔が骨盤を前に起こしてくれる。
膝と足首の保護も書いておく。正座で足首の前側が痛む人は、足首の下に薄いタオルを丸めて入れる。これで甲が床に押しつけられる角度が緩和される。
膝の内側が痛む人は、正座そのものをやめたほうがいい。膝は消耗品で、痛みを我慢して坐り続けると半月板や軟骨に負担が蓄積する。プロ棋士に膝の痛みが職業病として多いのは、よく知られた話だ。
彼らは仕事だから坐るのであって、健康法として坐る人が同じ代償を払う理由はない。すでに変形性膝関節症の診断を受けている人は、正座は避けて椅子坐にすれば十分だ。
岡田式の呼吸――吐いて下腹、緩めて入る
姿勢ができたら、呼吸に入る。岡田は呼吸を「従」と言ったが、従なりにやり方はある。鼻から、静かに、そろそろと、徐々に長く吐いていく。
口は閉じたまま、吐きながら下腹の丹田に力を入れていく。ここが逆に感じられる人が多い。普通、息を吐くと腹はへこむものだと思っているが、岡田式では吐くにつれて下腹が充実していく。
何が起きているかというと、上腹部と下腹部で動きが分かれる。鳩尾から上の上腹部は内側へ凹んでいき、同時に、臍から下の下腹は前へ、外へ、張っていく。
横隔膜が上がりながら、腹腔の中身が下へ押し下げられるイメージだ。この上と下の分離が岡田式でも藤田式でも共通の肝になるから、慣れないうちは、ここで頭が混乱するかもしれない。
胸は張らずに、鳩尾を落としながら長く吐く。上腹部が内側に凹んでいくことが肝要、と伝えられている。
吐き切らない、というのが大事な指示だ。息は全部出さず、二分ほど残す。十のうち八まで吐いて、二を残すくらいの感覚だ。吐き切ると次の吸気が荒くなるし、力みが入る。
吐き終わったら、下腹の力をすっと緩める。そうすると鼻から息が一瞬で入るので、意識して吸わないし、吸う動作もしない。緩めた結果として入る、という順序だ。ここが一番の肝心どころ。
入ったら、間を置かずにまた同じように吐き始めて、これを繰り返す。単調だけど、それでいい。
息を止めない、息まない。この二つは、岡田が明確に禁じている。どこかで止めたくなったら、それは吐きすぎているか、力みすぎているかのどちらかだ。
呼吸の速さについては、一分間に六回から七回以下を目標とする、という伝承がある。普通の人の安静時呼吸は一分間に十二回から二十回くらいだから、おおむね半分以下の計算。ただしこれは結果であって、目標とは違う。
数えようとした瞬間に呼吸は乱れるので、坐り続けていれば勝手に遅くなる、という順番で考えたほうがいい。焦らなくていい。
心構えにも触れておく。無念無想を目指さず、雑念が出ても追い払わずに放っておく。岡田は「無念無想を求むること亦不可なり」と言い、外の音に対しても抵抗するなと説いた。車の音がしたら、音がしているなと思ってそのまま坐る。
意識を置く先は、息を吐きながら下腹に力が集まっていくこと、その一点だけでいい。何かを感じようとせず、何かを起こそうともしない。
「草木のように坐せよ」というのが岡田の要約だ。草木は姿勢を保とうと努力していないし、そこに全部詰まっている。
藤田式の呼吸――呼気を長く、みぞおちを凹ませる
調和道の側は、同じ腹でもまったく手触りが違う。こちらは自分から仕掛けていく操作で、基本の考え方は上虚下実。
上半身は虚、つまり空っぽに緩んでいて、下半身と下腹は実、つまり充実している。この状態を横隔膜の運動で作る。藤田と、その後を継いだ医師たちが一貫して言っているのは、横隔膜を鍛えるということだ。
最大の特徴は、みぞおちの下を凹ませてくびれを作り、そのくびれを軸に上体を前傾させながら息を吐く動作にある。腹だけでなく上体全体が動く。ここが、坐ったまま動かない岡田式との見た目でわかる違いだ。
最初は準備運動にあたる緩息から。楽な姿勢で呼気と吸気を三回繰り返し、何も操作せず、体の力を抜いて、今の自分の呼吸を確認するだけ。
次が、調和道で最初に習う代表的な型の三呼一吸法。吐く息を三つに割り、フッ、フッ、フーッと三回連続で吐くのだが、最初の二つは短く、三つ目を長く伸ばす。
吐くたびに腹圧がかかり、下腹に力が集まる。三回吐き終えたら吸う動作はせず、緩めれば自然に入る。岡田式と同じ理屈。
この「一回の呼気を分割する」という発想が藤田式の特徴で、分割することで、一回あたりの呼気がずっと長くなる。やってみると、案外息が続くことに驚く。
波浪息は、名前のとおり体が波のように動く型だ。片手または両手をみぞおちに当てて、吸うときは上体をやや後ろにそらし、吐くときは前傾する。
手はみぞおちが凹んでいくのを確かめる役目を持つ。上体の前後運動と呼吸を連動させることで、横隔膜の動きが大きくなる。
吐くときに「ハッ」と低い声を出すのが、調和道の作法として伝わっている。声を出すと呼気が自然に長くなり、腹圧も確認しやすいが、周囲に人がいる場所なら、無声でやってかまわない。
波浪息には大小の区別があり、古伝として小波浪息、中波浪息、大波浪息が伝えられている。体の動きの振幅が小さいものから大きいものへ、という理解でおおむね間違いない。小波浪息は上体の動きをごく小さく抑え、腹の内側の動きを主にする。大波浪息は上体を大きく前後させる。
各型の正確な手順、上体を倒す角度、呼気と吸気の拍数などの数値については、公開資料で確認できる範囲が限られている。流派や系統、教える人によって振れる部分だ。ここで具体的な数字を断定して書くことはしない。
正確な型を知りたければ、日暮里の本部道場か提携教室で直接習うのが筋だ。実際、調和道は今も対面での実習を基本にしている。
呼吸は原則として鼻で行う、というのが調和道の方針だ。巷の腹式呼吸の解説では「鼻から吸って口から吐く」とするものが多いが、調和道はそうでない。
ここは流派の差がはっきり出るところなので、混ぜないほうがいい。ちなみに、岡田式も鼻呼吸。
拍の数え方についても書いておく。呼気を何拍、吸気を何拍と数える方式は、後世の呼吸法の多くが採用しているし、調和道の教室でも指導の便宜として使われることがある。とはいえ藤田本人の体系で全種目に固定の拍数が定められていたかどうかは、確認できなかった。
数を使いたければ、吐く息が吸う息の二倍から三倍になるあたりを目安にすればいい。これは調和道に限らず、呼気を長くとる呼吸法一般の相場だ。
このほかの種目として、屈伸息、大振息、全身操作、虚実息、完全息、太陽息、大地息などがある。段階が上がるほど動きが大きくなり、立位や全身運動を伴うものも出てくる。初心者が独学で手を出す種類のものでない。
数息観を添える――数え方の全文と意味
岡田式は無言が基本で、何も唱えずに坐って、吐いて、下腹に力を入れる。それだけ。
どうしても雑念に振り回されて坐っていられないという人のために、数息観を添える流儀もある。これは禅の伝統的な技法で、静坐の系統でも補助として使われてきた。やり方を全部書く。
数えるのは吐く息だ。吐き始めから吐き終わりまでを一つと数え、心のなかで長く引き延ばして唱える。原文と読みと意味は、次のとおりだ。
一つ目は「ひとーつ」で、読みも「ひとーつ」、意味は一。二つ目は「ふたーつ」、読みは「ふたーつ」で、意味は二。三つ目は「みーっつ」、読みは「みーっつ」で三になる。
四つ目は「よーっつ」、読みは「よーっつ」で四。五つ目が「いつーつ」、読みは「いつーつ」で五。六つ目が「むーっつ」、読みは「むーっつ」で六を表す。
七つ目は「なーなつ」、読みは「なーなつ」で七。八つ目は「やーっつ」、読みは「やーっつ」で八。九つ目の「ここのーつ」は読みも「ここのーつ」で、意味は九だ。
この語だけは音が長いので、吐く息に乗せやすい。最後が「とーお」、読みは「とーお」で、意味は十になる。十まで数えたら、また一に戻って繰り返す。
数が飛んだり、十二や十三まで行ってしまったりしたら、気づいた時点で一に戻る。自分を責める必要はなく、数え直すこと自体が、心が離れたことに気づく訓練になっている。
数を漢数字の音読みで「いち、に、さん」と数える流儀もある。和語の訓読みのほうが音が長く、呼気に乗せやすい。静坐に添えるなら、和語を勧めたい。
吐く息だけを数えるのが基本だが、吸う息も数えて一往復で一つとする流儀、吸う息だけを数える流儀もある。ここは系統によって振れる。岡田式に添える場合は、呼気が主役なので吐く息を数える形が素直だ。
白隠の四句を添える流儀については、確認できなかった。白隠の内観法では「わが此の気海丹田、腰脚足心、総に是れ、わが本来の面目」に始まる一連の句を繰り返し観じるという行があり、これは白隠自身の『夜船閑話』に出てくる。とはいえ、静坐ブームの岡田式や藤田式の実践として定着していたものとは違う。
白隠の技法は当データベースの別記事で扱っているので、そちらに譲る。静坐に唱え言を混ぜる必要はない、というのが岡田の立場だったことだけ書いておく。
始める前の準備と、終わり方
準備から書いていく。場所は静かで、床が平らなところを選ぶのが第一条件になる。畳の部屋があれば最適だが、フローリングでもかまわない。真っ暗にはせず、明るすぎるのも落ち着かないので、カーテンを引いた昼の部屋か、間接照明くらいがちょうどいい。
換気はしてから坐る。窓を数分開けて空気を入れ替えておくのは、呼吸を扱う以上、部屋の空気が淀んでいるのは単純に良くないからだ。坐っている間は、冷えるのが一番よくないから窓を閉めていい。
服装は、腹を締めない格好にする。ベルトは外し、ジーンズのように腰回りが硬いものは避けて、下腹が前に膨らむ動きを邪魔しないことを条件にする。甚平や作務衣が理想的だが、スウェットで十分。
靴下は履いていても脱いでいてもいいが、足の甲が床に当たる正座なら、脱いだほうが感覚はわかりやすい。細かい話だけど、これが意外と効いてくる。
時間帯は朝と夕方で、朝は起きて顔を洗い、トイレを済ませてから坐る。夕方なら日が暮れるころか寝る一時間前くらいがいいものの、寝る直前はかえって目が冴える人がいるので、様子を見てほしい。
空腹具合は、食後一時間から二時間以上空けるのが目安になる。満腹では腹に力が入らないし、気持ちが悪くなる。逆に空腹すぎると低血糖で集中できない人もいるので、白湯を一杯飲んでから坐るのが無難だ。
終わり方が、実は一番大事だったりする。時間が来ても、急に立たない。目を開けて、数回ふつうに呼吸し、下腹の力を完全に抜く。周りの音を聞き、部屋を見て、これで一分ほど使う。
脚がしびれていたら、その場で腰を上げて立て膝の姿勢になる。膝を立てて二、三分待てばしびれは抜けるし、これは岡田式の会で実際に指導されていたやり方だった。しびれたまま立ち上がると転ぶし、高齢の方は特に骨折の危険がある。
しびれが抜けたら、片膝ずつゆっくり伸ばす。膝の裏を軽くさすってもいいし、足首を前後に回してもいい。立つのはそのあとだ。
後始末も手を抜かずに、座布団は畳んで元の場所に戻す。坐った場所を毎回同じにすると、そこに坐るだけで体が切り替わるようになるし、専用の一枚を決めて他の用途に使わないのも効く。
記録をつけることも勧めたい。日付、時刻、坐った時間、そのときの体調を書くだけで、三行で足りる。数か月分たまると、坐った日と坐らなかった日の違いが自分で見えてくる。
何かすごい体験を書き残そうとせず、淡々とした記録にしておくほうが、あとで役に立つ。記録には効能を書かない。「よく眠れた」はいいが、「治った」は書かない。書くと、次から治ったことにしようとする力が働いてしまう。
やってはいけないこと
ここは飛ばさずに読んでほしい。最初に挙げるのは過換気で、呼吸法で一番よくある事故がこれだ。深く速い呼吸を続けると血中の二酸化炭素が減りすぎる。手足のしびれ、口の周りのしびれ、めまい、動悸が起き、ひどいと失神する。
静坐で目指すのは深く「遅い」呼吸で、深く速い呼吸とは違うから、頑張って大きく吸おうとすると、この事故に近づく。岡田式で「吸わない、緩めて入れる」と指示するのは、この意味でも理にかなっている。
しびれやめまいを感じたら、すぐにやめて普通の呼吸に戻し、しばらく横になる。紙袋を口に当てる対処法は現在では推奨されていないので、やらない。落ち着かないようなら受診する。
息を限界まで止めない。止息の技法を持つ体系は世界中にあるが、独学でやるものとは違う。特に長時間の息止めは、失神や不整脈の危険を伴う。岡田も藤田も、基本の段階では息を止めさせていない。止めたくなったら、それは何かを間違えている合図だ。
坐りすぎにも気をつけたい。膝と足首は消耗品だ。正座で長時間を繰り返すと、膝の軟骨や半月板、足首の関節に負担が蓄積する。一回四十分を超えるなら途中で一度崩し、毎日坐るなら一回は短めにする。
足がしびれるのは正常な反応だが、しびれた状態を長く続けると神経を傷めることもある。感覚が戻るのに何分もかかる、あるいは翌日まで違和感が残るようなら、坐り方か時間を見直す。
持病のある人へ。高血圧の人は、腹圧を急激に高めると血圧が跳ね上がるので、強く息む動作を避ける。調和道の波浪息のように自分から腹圧をかけていく技法は、主治医に相談してからにする。
心疾患のある人も同様で、特に不整脈のある人は、呼吸を大きく変える練習が引き金になる場合がある。軽く考えないでほしい。
妊娠中の人は、下腹を強く締める動作をしない。長時間の正座も、血流の点で勧められない。椅子坐で、腹圧をかけずに、呼気をゆっくり長くとるだけにとどめる。
緑内障のある人は、腹圧を強くかける動作と、頭を下げる前傾姿勢に気をつける。眼圧が上がるおそれがあるからだ。前傾を伴う波浪息は避けたほうがいい。
腰椎椎間板ヘルニアや脊柱管狭窄症のある人は、腰を立てようとして反らせすぎないこと。痛みが出る姿勢を我慢して続けるのは禁物。
精神的に不安定な時期の長時間の坐は危険で、ここは強調しておきたい。うつの急性期、強い不安の最中、パニック発作を繰り返している時期、解離の傾向がある人。こうした状態で長時間じっと坐ると、症状が悪化することもある。
何もしないで内側に注意を向ける行為は、内側がつらい人にとっては拷問に近い。瞑想や静坐の実践で、離人感や不安の増悪、フラッシュバックが起きる例があることは、近年よく知られるようになった。「坐れば楽になるはず」と思って我慢するのが一番まずい。
しんどくなったら即座にやめて、目を開けて、立ち上がって、歩く。この局面では、体を動かすほうが効く。治療中の人は、始める前に主治医に伝えること。
一番大事なことを書く。これは医療の代替にならない。静坐も丹田呼吸も病気の治療法とは違うので、診断された病気があるなら医療を受ける。薬を減らしたり止めたりする判断を、坐ることの効果を理由にしてはいけない。
岡田は「七情が調和すれば病はおのずから癒る」と言ったが、これは大正の言葉だ。当時は結核で人が死に、肺炎で人が死に、そもそも治せる病気が少なかった。医療の選択肢が乏しい時代の言葉を、そのまま現代に持ってきてはいけない。
坐ることは、医療の外側にある生活の技術だ。そこに置いておけば、よく効く。置き場所さえ間違えなければ、それで十分。
「腹式呼吸で万病が治る」の検証
効くのか効かないのか。ここを曖昧にして終わるのは不誠実なので、はっきり書く。裏づけがある範囲から始めよう。
ゆっくりした呼吸が自律神経に影響することは、実験的にずいぶんよく確かめられている。一分間に六回前後という遅い呼吸を行うと、心拍変動の迷走神経成分が増加する。
心拍変動というのは、心拍の間隔が一定でなくゆらいでいる度合いのことだ。このゆらぎのうち特定の成分が、副交感神経の働きを反映するとみられている。
二〇二二年に神経科学の専門誌に出た系統的レビューとメタアナリシスは、この領域の研究を二百件以上集めて分析した。結果として、遅い呼吸の最中、一回のセッションの直後、複数回のセッションを重ねた後のどの時点でも、迷走神経が媒介する心拍変動の増加が認められた。
通常の安静時呼吸が一分間に十二回から二十回なのに対し、この研究群が扱う遅い呼吸はおおむね六回前後。岡田式の伝承が目標とする「一分間に六回から七回以下」と、数字がきれいに重なる。百年前の実践者が経験則で見つけた値と、現代の生理学実験が最適とする値が一致しているわけで、これは素直に面白い。
呼気を長くとることにも、一定の理屈がある。心拍は吸気で速く、呼気で遅くなる。呼吸性洞性不整脈と呼ばれる現象で、迷走神経の活動が呼吸周期に同期しているために起きる。
呼気の時間を延ばせば、迷走神経優位の時間が相対的に長くなる。吐く息を吸う息の二倍以上にとる、という各流派に共通する指示は、この現象を経験的につかんでいたと考えていい。
腹圧の話も、ある程度は言える。横隔膜が大きく動けば腹腔内の圧が周期的に変化し、これが腹部の臓器と血管に機械的な影響を与えるのは確かだ。
ここまでが、ある程度言える範囲で、ここから先が飛躍だ。自律神経の指標が改善することと、病気が治ることの間には、でかい溝がある。ここは本当に大事な分かれ目。
心拍変動が上がったからといって、糖尿病が治るわけでもがんが消えるわけでもない。心拍変動は体の状態を映す指標のひとつにすぎず、それを操作すれば健康になるという因果は証明されていない。
「腹式呼吸で万病が治る」という言説は、この溝を一足飛びに超えている。明治大正の丹田呼吸の宣伝文句も、現代の健康本も、構造は同じだ。呼吸で自律神経が整う、自律神経が整えば免疫が上がる、免疫が上がれば病気にならない。三段論法に見えるが、二段目と三段目がつながっていない。典型的な論理の飛躍。
不安やストレスの主観的な軽減については、遅い呼吸に効果があるという報告がそれなりにある。ただしこの種の研究は、参加者が自分が何をしているか知っているため、期待効果を排除しにくい。効果量も、中程度以下にとどまるのが普通だ。睡眠の改善についても同様で、有望ではあるが決定的でない。
高血圧に対する呼吸法の効果については、一部の機器を使った遅い呼吸の訓練で血圧低下の報告があるものの、薬物療法を置き換えられる水準には届いていない。
まとめずに言うと、こうなる。遅く吐く呼吸には生理学的な実体があり、それは心地よさや落ち着きという主観的な変化としても現れる。だが、それは治療でない。
静坐を「効く健康法」として売る必要はない。坐っていると気持ちがいい、というだけで十分に価値があるし、効能を盛れば盛るほど、実体のある部分まで疑われることになる。
断絶と再評価――戦後から現代まで
戦中から戦後にかけて、静坐は表舞台から消えた。理由はいくつかあって、修養という言葉が国家主義と結びついた記憶で汚れたこと、戦後の医療が急速に整備されて民間の養生法の出番が減ったこと。
生活が洋式化して畳と正座の場面自体が減ったこともあるが、何より戦後の日本人が忙しくなりすぎた。
雑誌『静坐』が昭和十九年から二十七年まで中断しているのは、その時代をよく映している。戦争末期から占領期にかけて、坐っている場合ではなかったのだろう。
転機は一九七〇年代に訪れた。高度成長が一段落し、公害と病院化社会への疑いが広がり、東洋的な身体技法への関心が戻ってきた。この時期に岡田虎二郎の語録が編み直され、静坐を扱った書物がいくつか出ている。禅ブームや気功の流入とも重なった時期だった。
調和道の側は、村木弘昌の医学的な再解釈によって、この時期をうまく渡った。医師が説く呼吸法という形を取ったことで、オカルト扱いを免れたわけだ。これがうまく働いた。帯津良一、日野原重明と会長が続いたのも、この路線の延長にある。
今の静坐や丹田呼吸は、独立した流派としてより、溶けて広がった形で残っている。腹式呼吸という言葉は、もはや完全に一般語だ。
歌のレッスンでも、スポーツの指導でも、精神科の心理教育でも使われる。その多くが、藤田霊斎が明治末に広めた丹田呼吸の系譜を、出所を知らないまま引き継いでいる。
整体や操体法の一部は、上虚下実という身体観をそのまま受け継いだ。腰と下腹に中心を置き、肩と胸を抜くところは、言葉遣いまで似ている。
自律訓練法はドイツのシュルツが作った方法だが、日本で普及する過程で、丹田呼吸の語彙と混ざった。腹部温感の練習などは、受け取る側からすれば丹田の話と区別がつかない。
マインドフルネスは、これとは出自が違う。上座部仏教のヴィパッサナーを経由してアメリカで医療化され、逆輸入された流れだ。呼吸に注意を向ける点は似ているが、目的が違う。
マインドフルネスは気づきそのものを目的にし、姿勢や腹圧をほとんど指定しない。岡田式が姿勢にすべてを賭けたのと正反対になる。ここを混同する解説が多いので、線を引いておきたい。
静坐は身体技法で、マインドフルネスは注意の技法だから、両立はするが同じものとは言えない。
坐ることに残ったもの
岡田虎二郎は、静坐を何かの手段だと思っていなかった。彼は一呼吸ごとに自己という芸術品を完成させよ、と言い、教育とは太陽の光のような愛だ、とも言っている。
農業改良家だった男が、最後に育てようとしたのは人間だった。それも、理屈を教えて育てるやり方でなく、条件を整えて勝手に育つのを待つやり方で。
藤田霊斎は、病で倒れた体から出発した。自然にしていれば治る、という話が通じない場所から始めたから、彼は技術を作った。呼気を割り、腹を締め、上体を倒し、横隔膜を動かす。
徹底的に具体的で、徹底的に反復可能な形にしたからこそ、組織が作れて、百二十年後も教室が回っているわけだ。
二人が同じ時代に、同じ「腹」の話をして、正反対の結論に行き着いた。この対比こそが、静坐ブームの残した一番面白い遺産だと思う。自然に任せるか、技術で作るか。健康法の議論は、結局いつもここに戻ってくる。
今、こちらの手元に残っているのは、坐るという行為そのものだ。畳がなくても椅子でできるし、道具は要らず、金もかからない。
腰を立てて、鳩尾を落として、鼻から長く吐く。それだけのことに、明治大正の日本は二万人の会員と百数十か所の会場を費やした。
効能を盛るのはやめたほうがいい。だが、腰を立てて長く吐いていると体が静かになる、という手応え自体は残る。百年前の何万人が確かめて、現代の生理学実験もだいたい同じ場所を指している。
畳の上でも椅子の上でもいいから、五分でいい。腹を据えて、ただ坐る。
