白い裾がふわりと持ち上がって、円錐形の帽子をかぶった男がひたすら回っている。あの映像、たぶん一度は見たことがあると思う。トルコの旅行パンフレットにも、ワールドミュージックのジャケットにも、なんならヨガスタジオのポスターにさえ出てくるやつだ。でもあれ、何をやってるか説明できる人はほとんどおらず、踊りじゃない。
パフォーマンスでもない。あれは祈りで、修行で、しかも十三世紀の中東で起きたひとつの人格崩壊事件から始まっている。今日はその話をし、長くなる。でも面白いから最後まで付き合ってほしい。
- コンヤの路地で、超エリート学者がホームレスみたいな男に足を止められた日
- 「本を池に投げ込んだら、濡れずに戻ってきた」という有名すぎるあの逸話
- 四十日間、二人は部屋にこもった。何を話したか誰も知らない
- 弟子たちの嫉妬、そしてシャムスの一度目の失踪
- 二度目の失踪――遺体は、たぶん、見つかっていない
- 探すのをやめた瞬間に、詩が始まった
- 葦笛は切られたから泣いている――『精神的マスナヴィー』という怪物
- 息子は父の狂気を「制度」に変えた
- セマーは「踊り」じゃない。あれは全身を使った祈祷である
- 黒い外套を脱ぎ捨てる、あの一世一代の脱ぎっぷり
- 右手は天に、左手は地に。人間はストローになる
- 円錐形のあの帽子、実は「自分の墓石」です
- 左足に釘を打ったみたいに――回り続ける身体のリアル
- 四つのセラーム――階段を四段のぼって、また降りてくる
- ズィクル、サマー、ファナー――回転の裏にある三つの言葉
- 一九二五年、法律ひとつで教団は消えた
- 「文化財」として蘇るという、ちょっと変な復活の仕方
- ユネスコに載ると、何が起きるのか
- 「あれはショーだ」と言っているのは、実はトルコ人自身
- 回った人の話――「三十秒でやめようと思った」
- ルーミーだけじゃない――スーフィーの豪華すぎる面子
- 「それはイスラームなのか」という古くて新しい問い
- ニューエイジが持っていった「スーフィーダンス」
- 日本での受容――井筒俊彦という反則級の存在
- で、結局なぜ人は回るのか
コンヤの路地で、超エリート学者がホームレスみたいな男に足を止められた日
一二四四年十一月十五日。場所はアナトリア中部の街コンヤ。当時のルーム・セルジューク朝の都で、モンゴルの脅威が東からじりじり迫ってきていた、そういう時代だ。この街に、誰もが知る大学者がいた。名前をジャラールッディーン・ムハンマド。
のちにルーミーと呼ばれる男であり、このときのルーミーは三十七歳くらい。父から法学のポストを引き継ぎ、モスクで説教をし、法的判断を下し、数百人の弟子を抱えていた。要するに街のトップ知識人。歩けば人が道を空ける、そういうレベルの人物だ。
馬に乗って移動していたという伝えもあり、当時の学者としては完全に成功者だった。そこに、旅の商人だと名乗る痩せた男が現れ、シャムス・タブリーズィー。タブリーズ出身の放浪修行者で、定住しない。
籠を編んだり帯を売ったりしながら各地を渡り歩いていた。年齢はルーミーより二十歳ほど上だったとされ、身なりは粗末。誰も知らず、街の人間から見れば、ただの奇妙な流れ者だった。
伝承によると、シャムスはずっと祈っていたらしい。「自分の相手をまともに務められる人間に会わせてくれ」と。そして声が答えた。コンヤのジャラールッディーンのところへ行け、と。彼はそのために来た。
「本を池に投げ込んだら、濡れずに戻ってきた」という有名すぎるあの逸話
出会いの場面には何通りかのバージョンがあり、いちばん有名なのは本の話だ。ルーミーが泉のほとりで本を積み上げて読んでおり、そこにシャムスが近づいて、それは何かと尋ねる。ルーミーは面倒くさそうに「お前には分からんものだ」と答えた。
すると、シャムスはその本の山をまとめて水の中に放り込んだ。ルーミーは激怒し、当たり前だ。当時の写本は財産で、父の遺した貴重な書物も混ざっていたという。ところがシャムスが水に手を入れて引き上げると、本はまったく濡れていない。
呆然とするルーミーに、シャムスは言う。「これがお前には分からんものだ」。別のバージョンでは、本は水ではなく火に投げ込まれ、焦げずに戻ってくる。さらに別のバージョンでは、そもそも本など出てこない。シャムスがただ一つの質問をぶつけただけ、というものだ。
そしてこの質問バージョンが、個人的にはいちばんゾッとし、シャムスは訊いた。「預言者ムハンマドと、神秘家バーヤズィード、どちらが偉大か」。ルーミーは当然のように答える。ムハンマドに決まっている、と。
シャムスは畳みかける。「ではなぜムハンマドは『我々はあなたを知るべきほどに知らなかった』と言ったのか。そしてバーヤズィードは『我が身の偉大さよ、我が位のなんと高きことか』と言ったのか」。つまり、なぜ本物のほうが謙虚で、格下のほうが自分を神みたいに語るのか。この問いは、器の大きさの話だ。
小さな器はすぐ溢れる。
大きな器はいくら注いでも足りないと感じる。ルーミーはこの一言で、自分の積み上げてきた知識が全部「小さな器の言葉」に見えてしまった。伝承では、彼はその場で気を失ったとも、馬から落ちたとも言われる。どのバージョンを取るにせよ、結論は同じ。この日、コンヤの知識人ルーミーは死んだ。
四十日間、二人は部屋にこもった。何を話したか誰も知らない
出会いのあと、二人は文字どおり姿を消す。伝承では四十日間、あるいはもっと長く、部屋にこもりきりだった。食事も摂らなかったとか、扉の外に人が集まって耳をそばだてていたとか、いろんな脚色がある。確かなのは、出てきたルーミーがもう別人だったということだ。説教をやめた。
法学の講義もやめた。弟子たちの前から消える時間が増えたのだ。そして、それまで詩なんて一行も書いたことのなかった男が、突然、猛烈な勢いで詩を詠み始める。しかも回りながら詠む。柱に手をかけて、その場でぐるぐる回りながら、口から言葉が溢れ出てくる。
周りの人間が慌てて書き取る。これが、のちのセマーの原型になったと言われており、冷静に考えてほしい。街のトップ学者が、ある日突然、素性の知れない流れ者に心酔して、仕事を放り出して回りながら詩を詠み始める。弟子たちからしたら悪夢だ。
「先生が変な男に洗脳された」以外の解釈が難しい。
弟子たちの嫉妬、そしてシャムスの一度目の失踪
案の定、コンヤの空気は最悪になった。ルーミーの弟子たち、そして街の宗教者たちにとって、シャムスは寄生虫に見えた。自分たちの師を独占し、学問を捨てさせ、行儀の悪い恍惚に引きずり込んだ男。脅迫めいたことも起きたらしい。そして一二四六年、シャムスは黙って街を出る。
行き先はダマスクス。ルーミーは壊れた。伝えられるところでは、彼は食事も睡眠もほとんど取らず、ひたすら詩を詠み、回り続けた。この時期の詩には「彼はどこだ」という叫びがそのまま入っている。見かねたルーミーは、長男のスルタン・ヴェレドを派遣する。
ダマスクスまで行って、シャムスを連れ戻してこい、と。若きスルタン・ヴェレドは実際にシャムスを見つけ出し、説得し、コンヤまで連れ帰る。しかも帰り道、シャムスを馬に乗せ、自分は歩いて隣を歩き通したという逸話が残っている。この息子の律儀さが、のちに教団を成立させることになり、シャムスは戻ってきた。
歓迎の祝宴が開かれ、ルーミーは生き返った。和解のためにシャムスはルーミー家で育てられていたキミヤという娘と結婚したとも伝えられる。だが、この娘は間もなく亡くなってしまう。街の空気はまた重くなった。
二度目の失踪――遺体は、たぶん、見つかっていない
一二四八年十二月五日。シャムスは再び消えた。今度は永久に。何が起きたのかは、いまだに決着していない。いちばん穏当な説は「また放浪に出ただけ」で、実際にタブリーズ近郊のホイに落ち着いてそこで没した、とする伝えがある。
ホイには彼の墓とされる場所があり、世界遺産の候補にも挙がっている。一方で、殺害説がずっと囁かれてきた。嫉妬した弟子たちが夜中に呼び出して刺し殺し、井戸に投げ込んだ。しかもその中にルーミーの次男アラーウッディーンがいた――という筋書きだ。コンヤのメヴラーナ博物館の敷地内には、シャムスの墓とされる場所もある。
井戸から遺体が引き上げられ、密かに埋葬されたのだ、と。ここは断言しないでおく。中世の聖者伝は基本的に信仰の文書であって、警察の調書ではない。ただ、ルーミー自身がその後アラーウッディーンとほとんど口をきかなくなる。この息子の葬儀にすら出なかったという伝えがあるのは、なんというか、生々しい。
ルーミーは信じなかった。一カ月以上、死の噂を頑として受け付けなかった。彼は自分でダマスクスまで探しに行ったのだ。何度も行った。街という街を歩き回って、シャムスの姿を探した。
探すのをやめた瞬間に、詩が始まった
そしてある日、ルーミーは探すのをやめる。理由は、彼自身の言葉として伝わっており、「なぜ探すのか。私が彼なのに」。これは失恋の諦めじゃない。
スーフィズムの中心概念そのものだ。愛する者と愛される者の区別が消える。探す主体と探される客体が同じになる。彼はシャムスを外の世界に探すのをやめて、自分の内側でシャムスになった。その証拠に、ルーミーの抒情詩集は自分の名前ではなくシャムスの名前を冠している。
『シャムス・タブリーズィーの詩集』。何万行という詩の作者名の欄に、失踪した友人の名前を書いた。署名の場所を明け渡した、と言ってもいい。詩の世界でこんなことをした人間はそう多くない。その後、ルーミーの心の支えは金細工師のサラーフッディーン・ザルクーブに移る。
市場で金を叩く槌の音を聞いて、ルーミーがその場で回り始めた、という有名な場面がある。槌の音の中に神の名を聞いてしまったのだ。サラーフッディーンの死後は、弟子のフサームッディーン・チェレビーが最後の相棒になる。
葦笛は切られたから泣いている――『精神的マスナヴィー』という怪物
コンヤ郊外のメラムのぶどう畑を歩いていたとき、フサームッディーンがルーミーに言った。弟子たちはサナーイーやアッタールの詩集ばかり読んでおり、先生ご自身の教えの書があればいいのに、と。するとルーミーはターバンの中から一枚の紙を取り出した。もう書いてある、と。
そこに記されていたのが、後世まで暗唱され続ける冒頭の十八行だった。書き出しはこうだ。葦笛の音を聴け、それは別れを嘆いており、葦原から切り取られて以来、その響きに男も女も泣いてきた。葦笛――ネイは、葦原から切り離されて、内側をくり抜かれて、はじめて音が出る。
切断と空洞化が音の条件になっており、人間も同じで、神という根源から切り離されたから、その傷が音楽になる。この比喩が『精神的マスナヴィー』の全体を貫いており、ちなみにセマーで最初に鳴るのもネイだ。あれは偶然じゃない。
ここから十二年、ルーミーは口述し、フサームッディーンが書き取り、読み返し、また続きを口述するという作業が続いた。夜通し続くこともあったという。完成したのは六巻、およそ二万五千の対句、行数にして五万行前後。ペルシア語文学史上、最大級の詩的建造物であり、内容がまた不良品じゃない意味で無茶苦茶だ。
コーランの話、預言者の逸話、動物の寓話、下ネタすれすれの民話、哲学的な脱線、突然のツッコミ。話が始まったと思ったら三千行後に戻ってくる。読み物としては散らかっているのに、全体としては一つの巨大な渦になっている。後世のペルシア語圏では、これを「ペルシア語のコーラン」と呼ぶ人まで現れた。もちろんコーランと同格という意味ではなく、それくらい繰り返し読まれてきたという敬意の表現だ。
ルーミーは一二七三年十二月十七日に世を去る。コンヤの街は、ムスリムだけでなくキリスト教徒もユダヤ教徒も泣いたと伝えられる。彼はこの日を「死」と呼ばなかった。シェビ・アルース、すなわち「婚礼の夜」と呼んだ。神と一つになる夜だから、祝えというわけだ。
いまもコンヤでは毎年十二月十七日前後にこの記念行事が開かれ、世界中から人が集まる。
息子は父の狂気を「制度」に変えた
ここで大事なのは、ルーミー自身は教団を作っていないということだ。彼はただ回って詠んで死んだ。組織を設計したのは息子のスルタン・ヴェレドである。スルタン・ヴェレドは一二二七年ごろに生まれ、一三一二年に八十代半ばで没した。父の墓の上に廟を建て、そこを拠点にし、儀礼の形を整え、後継のルールを作り、アナトリア各地に支部を広げた。
父の熱狂を、次の世代でも再現できる手順に翻訳したわけだ。これは詩人の仕事ではなく、完全に経営者の仕事であり、彼自身も膨大な詩を残している。『イブティダー・ナーメ』という作品には、祖父・父・シャムスをめぐる一次資料級の証言が入っている。今日われわれが知るルーミー伝の骨格は、かなりの部分がこの息子の記録に依存している。
しかも彼はペルシア語だけでなくトルコ語やギリシア語でも詩を書いた。当時のアナトリアの多言語ぶりが透けて見える。セマーの序盤にある行進の場面は、この息子の名にちなんで「デヴリ・ヴェレド」と呼ばれている。教団の中に、創業者の息子の名前が動作として残っているのだ。
セマーは「踊り」じゃない。あれは全身を使った祈祷である
さて、本題の旋舞に入ろう。まず前提。あれをダンスと呼ぶと、教団側の人は真顔で訂正してくる。セマーは儀礼であり、礼拝の延長線上にある行為だ。観客を楽しませるための構成要素はゼロ、というのが建前である。
行われる場所はセマーハーネと呼ばれる円形の広間。床は木で、中央に円形の舞台がある。この床には見えない線が想定されていて、中心を通る一本の線が「至高の道」とされる。回り手はこの線を踏まない。線の右半分は物質の世界、左半分は真理の世界で、この線をまたいで往復する動きそのものが世界を横断する行為になっている。
儀式の頭に来るのがナート・シェリフ。預言者ムハンマドを讃える独唱で、これは十七世紀の作曲家の手による曲がいまも使われている。次に太鼓が一発鳴る。神が「あれ」と言って世界が生まれた、その一言を表す。そしてネイの即興、タクシームが立ち上がる。
切り取られた葦の嘆きだ。ここまでで、まだ誰も回っていない。
黒い外套を脱ぎ捨てる、あの一世一代の脱ぎっぷり
回り手はセマーゼンと呼ばれ、彼らは最初、黒い外套をまとって現れる。これがヒルカ。意味は、墓だ。あるいは、この世でまとっている自分という肉体そのもの。
デヴリ・ヴェレドの行進で三周したあと、セマーゼンは腕を交差させて胸に手を当て、深く一礼して、この黒い外套をばさりと脱ぎ捨てる。あの一瞬が、儀式全体のハイライトのひとつだと思う。中から出てくるのは真っ白な衣。テンヌーレという裾の広い長衣と、デステギュルという白い上着。白は死装束であり、同時に復活の光でもある。
つまり順番はこうだ。墓から出てくる。脱いだのは棺の蓋だ。エゴを脱いで、生まれ直した姿で回り始める。腕を交差して胸に当てる姿勢は、アラビア文字の一を表すとも言われ、神は唯一である、という告白を身体で書いている形になる。
儀式の間、シェイフと呼ばれる導師だけは赤い敷物の上に立つ。あの赤は、ルーミーが世を去った夕暮れの空の色だと説明される。
右手は天に、左手は地に。人間はストローになる
回っているセマーゼンの腕を見てほしい。右の手のひらは上を向いており、左の手のひらは下を向いている。顔はやや左に傾き、左手のほうを見下ろす形になり、意味は明快だ。
右手で神の恵みを受け取り、それを自分の身体を通過させて、左手から地上に注ぐ。自分は貯めなく、受け取ったものを全部下に流す。人間は器ではなくパイプである、という宣言だ。ストローみたいなもの、と言ったら怒られるかもしれないが、機能としてはまさにそれだ。
そして回転の向きは反時計回り。心臓を軸に、左回りに世界を巻き取っていく。この向きは、聖地カアバを巡る巡礼の方向と同じである。原子も惑星も血液も同じ向きに回っている、という説明が教団側からよくなされる。科学的にどこまで厳密かは置いておいて、宇宙全体が回っていて自分もその一部だ、という感覚を身体に入れるための語り方だと受け取ればいい。
回転しながら、セマーゼンは心の中で神の名を唱え続けており、一回転につき一回。つまりあの回転は、視覚化されたズィクルなのだ。
円錐形のあの帽子、実は「自分の墓石」です
セッケと呼ばれる、あのラクダの毛でできた長い円錐形の帽子。ラクダ毛のフェルトで作られ、色はベージュから濃い茶色。かぶると背が二十センチくらい高くなり、この帽子の意味は、墓石である。自分の墓標を自分の頭に載せている。
しかも脱がなく、黒い外套は脱ぐのに、墓石は最後まで載せたままだ。ここが面白いところで、エゴの覆いは捨てるが、自分がいずれ死ぬという事実は捨てない。むしろずっと頭の上に置いておく。トルコ語圏の解説では、しばしば三つセットで語られる。
セッケがエゴの墓石、テンヌーレがエゴの経帷子、ヒルカがエゴの墓。全部お葬式の道具立てなのだ。つまりセマーゼンは、生きたまま自分の葬式をやっている。そう思って映像を見返すと、あの穏やかな微笑みがかなり違って見えてくる。
左足に釘を打ったみたいに――回り続ける身体のリアル
技術的な話をすると、軸足は左足だ。左足の親指の付け根あたりを床から離さず、そこを支点にして、右足で床を蹴って身体を反時計回りに送り出す。右足は左足の周りを、交差するようにまたいでは戻る。この繰り返しで、体幹の高さをほとんど変えずに回り続ける。伝統的な訓練では、床に打った釘の頭を左足の指のあいだで挟んで、その位置から一歩も動かずに回る練習をする、という話が語り継がれている。
何百時間もかけて軸を身体に刻み込むわけだ。塩を撒いて滑りを調整するという話も出てくる。修行期間は伝統的には千と一日とされ、その間は台所仕事から掃除まで、地味な奉仕を延々やらされる。回る許可が出るのは、その後だ。そして、ここは必ず書いておきたい。
素人が見よう見まねで長時間回るのは普通に危険だ。強い回転性のめまい、平衡感覚の破綻、転倒、吐き気や嘔吐、失神が起きうる。頭部を打てば大怪我になる。三半規管や心血管系に持病がある人、妊娠中の人、めまいを起こしやすい薬を飲んでいる人にとってはリスクがさらに上がる。教団の側が長い訓練期間と厳格な指導者の同席を要求してきたのは、精神論だけの話じゃなくて、単純に身体が壊れるからでもある。
この記事は手順書ではないし、真似することを勧める記事でもない。映像として、文化として味わうのがいちばん安全だ。
四つのセラーム――階段を四段のぼって、また降りてくる
回転の本体は四つの楽章に分かれており、それぞれをセラームと呼ぶ。曲が切り替わるたび、セマーゼンはいったん静止し、腕を胸に組み、また回り始める。第一セラームは、認識の誕生。自分が被造物であること、自分は神ではないことを知る段階だ。
ここは音楽的にも比較的重い。第二セラームは、被造物の秩序の壮麗さに打たれる段階。世界がこんなによくできていることへの畏れが来る。第三セラームは、その畏れが愛に溶ける段階で、いちばん速く、いちばん恍惚に近い。伝統的な解釈では、この第三で自我が消える。
そして第四セラーム。ここで導師自身が円の中に入ってくる。この段階の名前は「運命への服従」で、要するに帰還だ。神と一つになった状態から、また人間として地上に降りてきて、被造物としての務めに戻る。飛びっぱなしにしない、というのがこの儀礼の一番の良心だと思う。
恍惚のまま置き去りにせず、必ず着地させる。最後にコーランの一節が読まれ、祈りが唱えられる。しばしば引かれるのが、東も西も神のもの、どこを向いても神の顔がある、という趣旨の章句だ。回り続けて全方位を向く行為の、種明かしみたいな一節である。
ズィクル、サマー、ファナー――回転の裏にある三つの言葉
セマーを理解するには、スーフィズムの基礎語をいくつか押さえておくと一気に見通しがよくなる。ズィクルは「想起」。神の名や信仰告白の言葉を反復する行為だ。声に出す流派もあれば、心の中だけでやる流派もある。呼吸に乗せる、身体を揺らす、集団で唱和する、とバリエーションは山ほどある。
メヴレヴィーの回転は、この反復を全身の運動に翻訳したものだと考えるといい。舌でやる代わりに、身体でやっており、サマーは「聴くこと」。音楽や詩の朗唱を聴いて、そこに神的なものを感じ取る実践を指す。これは歴史的にずっと論争の的だった。
音楽は信仰を助けるのか、堕落させるのか。厳格な立場からは、楽器も舞踊も余計なものだと批判されてきた。メヴレヴィー教団は音楽を正面から採用した側で、しかも作曲家や演奏家を何世紀にもわたって輩出した。オスマン古典音楽の相当な部分が、この教団の修道場から出ている。ファナーは「消滅」。
自我が神の中に溶けて消える境地を指し、ろうそくの炎が朝日の中に消えるようなもの、と説明されることが多い。そしてこれとセットになるのがバカーで、こちらは「存続」。消えたあとに神において生き直す、という段階だ。ファナーだけを取り出して「自我が消えれば悟り」と言うと片手落ちになる。
消えた後にどう戻ってくるかまでが一式なのだ。第四セラームの意味が、ここでも効いてくる。
一九二五年、法律ひとつで教団は消えた
七百年近く続いたこの世界は、二十世紀にいったん終わる。背景を押さえておこう。メヴレヴィー教団は、オスマン帝国の中でかなり特別な地位にあった。教団の長が新しい君主に剣を帯びさせる儀礼を担ったこともあり、宮廷と深く結びついていた。十八世紀末の君主セリム三世は自らネイを吹き、教団の詩を読み、修道場に足を運んだ。
この時代が教団の黄金期とよく言われ、作曲家としても名を残した君主だ。第一次世界大戦期には教団の義勇大隊まで編成されている。だが帝国が崩れ、共和国が生まれると、状況は一変した。新政権は宗教組織を国家から切り離し、公的領域を世俗化する路線を強く進めた。
一九二五年、修道場と聖者廟を閉鎖し、宗教的な称号の使用を禁じる法律が成立する。メヴレヴィー教団も例外ではなかった。コンヤの本部は閉じられ、翌年からは博物館になった。これは反イスラームの措置というより、国家の外にある権威の中心を全部たたむ、という政治的判断だった、というのが一般的な理解だ。
当時の共和国は無数の教団と聖者信仰を抱えており、近代国家の統治単位として一元化する必要があると考えられた。是非については今もトルコ国内で議論が続いており、ここでどちらが正しいと決める気はない。ただ、結果として、生きた実践としてのセマーは公の場から消えた。もっとも、完全に絶えたわけではない。
個人の家で、静かに、伝えられるものは伝えられた。楽譜も、動作も、口伝も、地下水のように残った。この二十九年間があったから、後の復活が可能だったのだ。
「文化財」として蘇るという、ちょっと変な復活の仕方
一九五四年前後から、状況が動く。コンヤで、ルーミーの命日にあわせた記念行事が再開されるようになった。ただし、宗教儀礼としてではなく、トルコの伝統文化、観光資源、無形の文化財として、である。この扱い方には、皮肉と実利が同居している。
宗教としては禁じられたままなのに、文化としてなら回っていい。教団は復活していないが、旋舞は復活し、中の人からすれば、内臓を抜かれた標本にされたようなものだ。一方で、この枠組みがなければ完全に途切れていた可能性も高い。生かすために剥製にした、と言うと言い過ぎだろうか。
その後、コンヤの記念行事は年々規模を拡大する。いまでは十二月に数万人規模の観客を集める国際的なイベントになっている。国内外の団体が招かれ、テレビ中継も入る。イスタンブルの旧鉄道駅を使った会場では、観光客向けの定期公演が長く続いてきた。
ユネスコに載ると、何が起きるのか
二〇〇五年、メヴレヴィーのセマー儀礼はユネスコの人類の口承および無形遺産の傑作に選ばれた。そして二〇〇八年、無形文化遺産の代表一覧に正式に組み込まれたのだ。国際的なお墨付きがついた瞬間である。ここで面白いのが、ユネスコ側の文書がわりとはっきり危機感を書いていることだ。財政的な事情から儀礼が短縮されている、本来の文脈から切り離されて上演されている、伝承の質が落ちている、といった指摘が並ぶ。
つまり「守るべき対象」として登録すると同時に、「いま損なわれつつある」と名指ししているわけだ。登録は保存に効く。同時に、観光価値を上げてしまうから、商業化を加速させもする。この矛盾は、世界中の無形文化遺産がだいたい抱えているジレンマだ。セマーはその教科書みたいな事例になっている。
「あれはショーだ」と言っているのは、実はトルコ人自身
観光ショー化への批判は、外から来た文化人類学者が言い出したわけじゃない。いちばん厳しいことを言っているのは、教団の系譜を引く人たちと、トルコ国内の音楽家や研究者だ。批判の中身は具体的だ。まず、長さ。本来のセマーは前後の祈りを含めれば一時間を優に超えるが、レストランのディナーショーでは十五分から二十分に切り詰められる。
四つのセラームのうち二つが省かれることもあり、次に、場所。祈りの間ではなく、食事と酒が出る場で行われることへの反発は強い。そして、演者。教団と何の関係もない人物が「メヴレヴィーの旋舞」を名乗って踊る、という事態が長く問題視されてきた。
写真撮影のフラッシュ、途中の拍手、司会のアナウンス。祈りとしての枠組みが全部剥がれ落ちる。一方で、擁護する声もある。実際に回っている人の中には、観客がどう見ているかは関係ない、自分が何をしているかが全てだ、と言い切る人もいる。場が世俗的でも祈りは祈りだ、という立場だ。
ここは正直、外野が簡単に判定できる話じゃない。ただ、ホテルのロビーで二十分だけ回るものと、深夜のセマーハーネで一時間半かけて行われるものがある。それが同じ名前で呼ばれている現状に居心地の悪さがあるのは確かだ。観光客側の反応もはっきり分かれる。感動して涙が出たという人と、思ったより地味で退屈だったという人が同じくらいいる。
旅行系の書き込みでは「回っているだけ」「音楽は美しいが眠くなった」といった率直な感想もよく見かける。それはそうだ。あれは観客を楽しませるようには一切設計されていない。退屈に感じるのは、ある意味で正しい鑑賞なのかもしれない。
回った人の話――「三十秒でやめようと思った」
ここからは、伝わっている体験の話をいくつか紹介したい。細部は語り手によって違うが、繰り返し出てくるパターンがあり、ひとつめ。ある長期修行者が語ったところによると、最初に回ったときの感想は、荘厳でもなんでもなく、単なる恐怖だったという。始めて三十秒で床が斜めに見えてきて、壁が水平に流れ出し、胃が持ち上がる。
やめようと思った。だが軸足の位置を指導者に直された途端、突然、揺れが消えた。回っているのは自分ではなく、部屋のほうだったのだ。中心にいる自分だけが静止していて、世界が回っており、この反転が起きた瞬間、涙が出た、と。
そして稽古が終わってから三日間、階段を降りるたびに足元が不安定だったという実務的なオチもついている。身体には確実に負荷がかかり、ふたつめ。ある音楽関係者は、コンヤの記念行事を客席で見たときのことをこう語っている。会場は体育館みたいな大空間で、正直、雰囲気は台無しに近かった。
ところがネイの独奏が始まった瞬間、数千人の咳払いが一斉に止んだ。空気の密度が変わったのが分かった。白い衣が開いていく時間の遅さが異様で、あれは重力の下で布が広がる速度としてどう考えても遅い、と思った。物理的にはもちろん普通なのだが、視覚がおかしくなる。終わったあと、隣の席の初対面の人と、なぜか無言で頷き合ってしまった、という。
みっつめ。イスタンブルの小さな会場で見たという旅行者の記録には、こんな一節がある。演者のうち一人だけ、明らかに十代に見える少年がいた。彼は他の誰よりも回転が硬く、何度か軸がぶれていた。だが表情だけが完全に消えていて、笑ってもいないし苦しんでもいない。
その顔を見ているうちに、自分が今まで人の顔から何かを読み取ろうとし続けて生きてきたことに気づいて、居心地が悪くなった、と。よっつめ。研究者側の証言も紹介したい。宗教社会学の立場から儀礼を追った人が書いていたのは、参与観察の限界についてだった。カメラを構えている間、自分は絶対にあの場の内側に入れない。
だが記録しなければ研究にならない。何度目かの調査でカメラを置いてみたら、その日だけ、何を見たのか思い出せなくなった。メモも取れず、印象だけが残った。研究として使えないその日のデータが、いちばん本質に近かった気がする、という述懐だ。これはセマーに限らず、儀礼を研究する人が共通して抱える悩みだと思う。
ルーミーだけじゃない――スーフィーの豪華すぎる面子
ついでに周辺人物も見ておこう。スーフィズムはルーミー一人の発明ではまったくない。八世紀のバスラに、ラービア・アダウィーヤという女性がいた。彼女が言ったとされる有名な言葉がある。片手に松明、片手に水桶を持って街を歩き、何をしているのか問われて答えた。
天国を焼き、地獄を消しに行く。人々が報酬のためでも罰が怖いからでもなく、ただ神を愛するために神を愛するようになるために、と。神への愛を無償のものとして定式化した、初期のとんでもない先駆者だ。十世紀のバグダードには、アル=ハッラージュがいた。彼は恍惚の中で「我は真理なり」と口走ったとされる。
真理とは神の名の一つであるから、これは自分が神だと言ったに等しい。この発言が引き金の一つとなり、彼は残酷な仕方で処刑された。九二二年のことだ。以後、この事件はスーフィズムの内側でも外側でもずっと引き合いに出される。恍惚のうちに漏れた言葉をどう扱うか、という難問の原点である。
ちなみにルーミーはこの人物に共感的な言及をしており、十三世紀のアンダルスからは、イブン・アラビーが出る。存在の一性という壮大な形而上学を組み上げた人で、後世への影響力ではルーミーと双璧だ。彼はコンヤにも滞在しており、その弟子筋がルーミーの周囲と接触していた。同じ時代の同じ街に、二つの巨大な思想の系統が重なっている。
そして十四世紀シーラーズのハーフィズ。ペルシア語抒情詩の頂点で、酒と恋人と居酒屋を歌いながら、それが全部神への愛の暗号になっているという離れ業をやってのけた。イランでは今も、ハーフィズの詩集を開いて占いをする文化が生きている。
「それはイスラームなのか」という古くて新しい問い
スーフィズムに対しては、イスラームの内部からも長い批判の歴史がある。音楽と舞踊を礼拝に持ち込むのは行き過ぎだ、聖者や墓への崇敬は本来の一神教から逸脱している、神との合一を語るのは越権である。こうした議論は中世から現代まで続いてきた。ただ、ここで大事なのは、批判者の多くもスーフィズム全部を否定したわけではない、ということだ。
たとえば十四世紀の高名な法学者は、内面の浄化そのものは正当だと認めたうえで、実践者が聖法をきちんと守っているかを条件にした。近代以降の改革運動の中には、より厳しく否定した流れもある。逆に、スーフィズムこそイスラームの心臓だと考える人々も膨大にいる。世界のムスリム人口を考えれば、スーフィー的な感性の中で育った人の数は途方もない。
外から見て「神秘主義は本流じゃない」と決めつけるのは、単純に事実として誤りだ。中世の歴史を見れば、法学とスーフィズムを両方修めた学者がごく普通にいた。ルーミー自身がまさにそうで、彼は最後まで法学者としての教育と信仰実践を捨てていない。回りながら、彼は五度の礼拝も断食もしていた。ここを飛ばして「自由な神秘家ルーミー」だけを取り出すと、像がかなり歪む。
ニューエイジが持っていった「スーフィーダンス」
二十世紀後半、欧米でルーミーは爆発的に売れた。特に英語圏では、詩人による自由な翻案版が大ヒットし、一時期は英語圏でもっとも読まれた詩人と言われるほどになった。書店の詩のコーナーで、十三世紀のアナトリアの学者が現代の恋愛詩集の隣に並ぶ、という状況が生まれたのだ。ここで問題が起きる。人気版の多くは、原詩のイスラーム的な文脈を意図的に薄めていた。
コーランへの言及、預言者への言及、礼拝の語彙が省かれ、普遍的な「愛」の詩に整えられた。読みやすくはなったが、それはルーミーが命を懸けた枠組みを外す作業でもあったのだ。近年はこれを批判する研究者や作家の声がかなり大きくなっている。イスラームを抜いたルーミーは、水を抜いたスープみたいなものだ、と。同じことが旋舞にも起きた。
回ることだけを取り出して、瞑想法やセラピーとして提供する動きが世界中に広がった。呼吸法と組み合わせたり、電子音楽に合わせたり、自由な服装でやったり。宗教色は消え、身体技法だけが流通し、これを全部だめだと切り捨てる気はない。文化は常に変形しながら伝わるし、その入口から本気で学びに行く人も実際にいる。
井筒俊彦のような研究者に触れて、そこから原典に潜っていく人もいる。ただ、名前の問題だけは無視できないと思う。教団の名前や儀礼の名前を借りるなら、それが何の名前なのかは知っておいたほうがいい。そして繰り返しになるが、長時間の回転は身体的に危険がある。指導者なしで自己流に負荷をかけるのはやめたほうがいい。
日本での受容――井筒俊彦という反則級の存在
日本でスーフィズムの話をするとき、どうしても外せない名前がある。井筒俊彦だ。一九一四年に東京に生まれ、一九九三年に没した。三十を超える言語を扱ったとされる、ちょっと現実感のない語学力の持ち主だった。一九五八年には日本で初めてアラビア語原典から直接コーランを訳したのだ。
彼の仕事の中でも、スーフィズムと道教を比較した研究は特に知られている。
歴史的にはつながっていない二つの思想体系が、驚くほど似た構造を持っていることを、概念分析の手法で示した。イブン・アラビーと老荘思想を並べて論じるというのは、当時としてはかなり大胆な発想だ。彼はカナダの大学やイランの研究機関でも教え、国際的にも高く評価された。イラン革命を機に日本へ戻っており、日本での受容には、もう一本の流れもある。
ワールドミュージックだ。一九八〇年代以降、パキスタンの声楽やトルコのネイ音楽が日本の音楽ファンの間で広まり、そこから「回る修行僧」の映像に触れた人が相当数いる。ネイという楽器そのものに惚れ込んで、現地まで習いに行った日本人奏者も複数いる。そして、旅行者としての受容。トルコは日本人にとって人気の旅行先で、コンヤやイスタンブルで公演を見た人の記録が個人ブログや旅行記に山ほど残っている。
そこには、感動した話も、期待外れだった話も、開演前に土産物屋に連れて行かれた話も、正直に書かれている。個人の書き手が本気で調べて長文の解説を書いている例もかなりある。日本語圏でのこのテーマの情報は、実は学術書より、そういう個人の記録のほうが生々しかったりする。
で、結局なぜ人は回るのか
最後にこの問いに向き合いたい。なぜ回転なのか。祈るだけでも、唱えるだけでもなく、なぜ身体を軸回転させるのか。ひとつは、単純にそれが「自我を扱いにくくする」からだと思う。人間の意識は、視覚と平衡感覚に強く支えられて自己像を保っている。
回り続けると、その二つが両方とも普段どおりに働かなくなり、景色は流れ、上下の感覚は曖昧になる。そこで残るのは、自分が回っているという事実だけだ。考え事は続かなく、ぐるぐる悩む余地が物理的に潰される。
ぐるぐる回ることで、ぐるぐる悩むのをやめる。皮肉な話だ。もうひとつは、象徴としての完成度の高さだ。回転は、進んでいるのに移動せず、動いているのに、どこにも行かない。
これは修行という営みの本質をそのまま形にしている。修行は目的地に着くための移動ではなく、その場に居続けるための運動なのだ。しかも軸を持たなければ回れなく、中心を失った回転はただの転倒になる。中心を持ちながら全方位を向く、という不可能に近い姿勢を、身体で成立させている。
三つ目は、共同性だ。あれは一人でやる技ではなく、複数のセマーゼンが、それぞれ自転しながら、大きな円として公転する。互いにぶつからず、しかし目で確認し合っているわけでもなく、惑星系のミニチュアだ。
個が自分の軸で回りながら、全体としても回っている。個人と共同体の関係を、これほど身も蓋もなく可視化した儀礼はそう多くない。そして四つ目。これがいちばん重要かもしれなく、彼らは、回り終わったあと必ず止まるということだ。
第四セラームで人間に戻り、外套を着て、日常に帰る。恍惚は目的地ではなく、経由地にすぎなく、トリップして帰ってこないことを良しとしない。この節度が、七百年以上も続いてきた理由の一つなんじゃないかと思う。八百年前のコンヤで、一人の学者が一人の流れ者に出会って壊れた。
壊れた場所から詩が噴き出して、息子がそれを形にして、帝国が支えて、共和国が禁じて、文化財として蘇って、観光客がスマホを構えている。その全部の層を通り抜けて、今日もどこかで誰かが左足を床に置いて、右足で床を押している。彼らの頭の上には、自分の墓石が載っている。
ここまで書いてきて、あらためて引っかかっているのは、この話がずっと「翻訳」の物語だということだ。ルーミーは、シャムスとの出会いという言語化不可能な経験を、詩というフォーマットに翻訳した。息子のスルタン・ヴェレドは、父の個人的な熱狂を、他人が再現できる儀礼の手順に翻訳した。オスマン帝国の宮廷は、それを国家儀礼の語彙に翻訳したのだ。二十世紀の共和国は、宗教実践を文化財という枠に翻訳した。
ユネスコは、それを人類共通の遺産という国際的な語彙に翻訳した。そして欧米の翻案者たちは、イスラームの詩を普遍的な恋愛詩に翻訳したのだ。翻訳のたびに何かが落ちて、何かが加わる。この連鎖の全体が、いまわれわれが見ている白い衣の映像なのだ。だとすると、「本物のセマーはどれか」という問いの立て方自体が、少しずれているのかもしれない。
原点に近いのは十三世紀のルーミーが柱に手をかけて回っていた姿だが、あれには四つのセラームもセッケもテンヌーレも存在しない。今日われわれが「正統」と呼んでいる形式は、息子以降の世代が整備する。オスマン期を通じて洗練させた、いわば二次創作であり、二次創作が七百年続けば、それは伝統になる。逆に言えば、いま観光ショーとして批判されている形式も、あと三百年続けば伝統と呼ばれるかもしれない。
この居心地の悪さを、簡単に解消しないまま抱えておくのが誠実な態度だと思う。とはいえ、何でもありだと言いたいわけでもない。区別する基準はあると思っていて、それは「帰ってくる設計になっているかどうか」だ。伝統的なセマーには第四セラームがあり、恍惚に到達したあと、必ず人間の位置に戻す工程が組み込まれている。
導師が円に入り、動きが収束し、外套を着直し、コーランが読まれ、祈りで締める。行きっぱなしを許さない構造だ。切り詰められた上演でここが省かれるとき、失われているのは時間の長さだけじゃない。安全装置が外されており、同じことは、旋回を心理技法として輸入した実践にも言える。
上げるプロセスだけを取り出して、降ろすプロセスを設計していないなら、それはかなり無責任な使い方になる。身体面でも同じで、めまいや転倒や失神のリスクを軽く見た自己流の長時間回転は、率直に言って怪我のもとだ。もう一点、掘っておきたいのは、ルーミーの物語が持つ危うさについてだ。この話はしばしば「運命の出会いによって人生が変わった美談」として消費される。
だが実際に起きたことを冷静に並べると、四十代の家長が突然仕事を放棄する。家族と弟子の共同体が深刻に軋み、身近な人物が消え、殺害の疑いが子どもに向けられ、家族関係が壊れた。誰も幸せそうじゃなく、ルーミーの詩の圧倒的な美しさは、その壊れた場所から直接出てきている。美しい成果と、その代償を払わされた周囲の人々を、切り離さずに見ておきたい。
聖者伝はどうしても中心人物の視点で書かれるから、弟子たちの嫉妬は醜いものとして描かれる。だが彼らからすれば、尊敬する師が変貌して手の届かないところへ行ってしまった、という喪失の物語でもあったはずだ。最後に、なぜ現代の日本でこの話が刺さるのかを考えてみたい。おそらく、回転が「効率的でない運動」だからだ。われわれの生活はほとんど全部、どこかへ移動するための運動でできている。
目標があって、進捗があって、到達があり、回転にはそれがない。一時間回っても一ミリも前進しない。にもかかわらず、七百年以上のあいだ、人はそれに人生を賭けてきた。生産性という物差しの外にある行為を、ここまで真剣に、精密に、体系立てて維持してきた文化がある。その事実そのものが、たぶん一種の救いとして受け取られている。
何の役にも立たないことを、誰かがものすごく真面目にやっている。それを知っているだけで、少し呼吸が楽になる。だから、映像の中の彼らが回っているあいだ、こちらも何も生産しないまま、ただ見ていていいのだと思う。あの帽子が墓石で、あの白い衣が経帷子で、脱ぎ捨てられた黒い布が墓である。それでも彼らが穏やかに微笑んでいるという、その一点だけ覚えて帰れば十分だ。
