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梓弓の口寄せの頼み方と次第 命日の伝え方、神降ろし、仏降ろし、送り返しから水の始末まで

梓の弓で霊を呼んだ歩き巫女と、明治の禁令

能の「葵上」では、照日の巫女が梓弓を鳴らして六条御息所の怨霊を呼び出す。唱えるのは「天清浄地清浄、内外清浄六根清浄」だった。室町の観客にとって、弓の音で霊を呼ぶ女は説明のいらない存在だったらしい。弓一張で足りた。

弓の弦を鳴らして魔を退ける作法は鳴弦と呼ばれ、宮中で長く続いてきた。『源氏物語』の夕顔の巻でも、光源氏は物の怪の出た夜に「弦打して、絶えず声づくれ」と命じている。音で悪いものを払う一方で、同じ音が神霊を招き寄せるとも考えられた。梓巫女が弓を使うのはこの流れにある。

梓巫女は、特定の神社に属さず国々を歩いて口寄せや託宣をした巫女のこと。江戸では市子とも呼ばれた。出どころとして名高いのが信濃国小県郡の禰津村、いまの長野県東御市祢津で、ここの巫女はノノウと呼ばれた。春に村を出て各地を回り、暮れに戻ったと地元では伝わる。

明治六年一月、教部省は梓巫や市子、憑き物の祈祷、狐下げを名指しで禁じた。禰津のノノウはこれで途絶えている。口寄せが暮らしの中に残ったのは東北で、師匠について修行した盲目の女性、イタコやオガミサマがその役を担ってきた。梓巫女の次第は、中山太郎が昭和五年の『日本巫女史』に各地の報告を集めていて、そこからかなり細かく拾える。

生口か死口か、呼ぶ相手を先に決めておく

口寄せは呼ぶ相手で名前が変わる。死んだ人を呼ぶのが死口、しにくち。遠くにいる生きた人の霊を呼ぶのが生口、いきくち。神の言葉を受けて吉凶を聞くのが神口、かみくちになる。

線引きは土地で違った。葬式が済んでいない死者を生口に入れ、済ませた死者を死口とする分け方も記録にある。死者を呼ぶほうを仏口と呼ぶ土地もあった。

どちらを呼ぶかで、使う葉も水をかく向きも変わる。だから頼む前に、呼ぶのは誰か、生きているのか亡くなっているのかをはっきりさせておく。ここが入口。

東北のイタコの口寄せでも、戦時中には戦地の兵士の生霊を降ろして安否を語らせることがあったという。会えない家族の声を聞く手立てとして、生口は長く求められた。遠くの人の安否や、いつ戻るかを問う頼みが多かったらしい。

今の東北で頼めるのは、ほぼ死口に限られる。八戸で口寄せを受けているイタコの公式の案内は、生きている人の口寄せを受けないと明記していた。行方の分からない人の捜索も、ペットの口寄せも受けない。

受けるのは近親者の頼みだけ。昔の生口にあたる頼みは、今は断られると思っておいたほうがいい。友人や恩師を呼びたい場合も、近親者でないなら受けてもらえるかを申し込みの段で尋ねておくのが筋だろう。

彼岸と盆、四十九日までの忌日に合わせて頼む

日取りにも昔からの型がある。青森県の八戸の周りでは、口寄せをする期間が春秋の彼岸と盆、四十九日などの忌日に限られていた。東北では、亡くなって百日以内の新仏なら、葬式の夜、初七日、五七日、四十九日が口寄せの機会とされた記録もある。

旅の梓巫女は、いつ村に来るか読めなかった。来たときに頼むのが普通だったのかもしれない。今の恐山や川倉は祭りの日が決まっているので、日取りは祭りに合わせるしかない。八戸のイタコに祭りの日以外で頼むなら、彼岸や盆、命日の近くを選んで申し込めば昔の型に沿う。

避ける日もあった。高知市の市子は、正月三が日や神祭日には神の霊は来ても、仏の霊は来ないとしていた。神と仏で日を分ける考え方は、今の頼み先でも日取りを相談するときの目安になるだろう。三が日は外す。

命日、続柄、亡くなった時の様子を紙に書き出す

巫女は呼ぶ相手を、名と日付で探し当てる。出雲で刀自話と呼ばれた口寄せでは、尼が戒名と命日を唱えて精霊を呼び出したと『日本巫女史』にある。八戸のイタコの口寄せでも、最初に死者の名と亡くなった年月日を確かめる。その名と日付を呼んで「降りてください」と唱えるところから始まった。

今の頼み先が求める情報もだいたい同じだ。八戸のイタコの案内は、亡くなった人との関係と命日を調べておくように書き、亡くなった状況を聞くこともあると添えていた。恐山のイタコを訪ねる旅行会社の案内も、メモの用意を勧めている。書いておくのは故人のフルネーム、生年月日、亡くなった年齢、命日、それに分かる範囲の死因。

紙一枚に、故人の俗名と戒名、生年月日、命日、享年を書く。自分から見た続柄と、亡くなった場所と様子も添えておくと落ち着いて答えられる。恐山で口寄せを受けた人の記事では、聞かれたのは誰を降ろすかと、亡くなった日の二つだけだったそうだ。聞かれることは少ない。ただ答えに詰まると、限られた時間がそのぶん削られる。

位牌と茶碗の水、樒や南天の葉をそろえる

昔の口寄せでは、依頼者の側でそろえる物があった。三河の刈谷の市子の記事では、口寄せには死者の位牌を持っていき、市子はその位牌に向かって唱えたという。宮城の気仙沼では、喪家の、位牌と遺影を安置した壇の前でオガミサマが数珠を揉んだと、宗教人類学者の佐々木宏幹が書いている。

水も依頼者が用意する。茶碗かそれに似た器に水を盛り、これを手向の水と呼んだ。刈谷では箱の前の茶碗に水を入れ、南天の葉を載せて置いた。葉は呼ぶ相手で替える。死霊なら枯れ葉か樒の葉、生霊なら青い木の葉で、刈谷でも死者のときは枯れ葉を使うとされた。

江戸の随筆『松屋筆記』は、死者に水を手向ける習いを日本の上古からのものとし、仏法の影響も受けていると書いたという。水は、来た霊へのもてなしだった。器は普段使いの茶碗で足りる。特別な器は要らない。葉は仏花を扱う店で樒が手に入るし、枯れ葉なら庭先のもので間に合う。

米一升に銭を添えた礼と、今の千円札の用意

謝礼の形も記録に残っている。信州の北小谷の市子には、御洗米といって米一升に銭をいくらか添えて礼にした。羽後では、巫女の数珠の木欒子の珠を一つ、お守りとして授かったという報告もある。高知市の市子の口寄せは、一回三十銭から五十銭だったと『日本巫女史』にある。

今の金額は頼み先ごとに違う。恐山で受ける口寄せは、下北半島の観光案内が一人降ろすごとに五千円を目安としていた。大祭で受けた人の記事では一人四千円で、どのイタコも同じ額、お釣りは出ないので千円札を用意しておくように書かれている。年によって動く額なので、札を多めに崩しておくのが無難だよね。

八戸のイタコの公式の案内には、亡くなった人一人につき三千円としたページと、五千円からとしたページが並んでいた。申し込むときに確かめるほかない。こちらも釣りのないように、と念を押している。包み方の指定は、調べた範囲の案内には見当たらなかった。

外法箱を前に置き、両肘をついて唱える

座の真ん中に来るのは、巫女が背負ってきた箱だ。歩き巫女の箱は外法箱と呼ばれ、中身は他人に見せない決まりだった。関西でシナノミコ、信濃巫と呼ばれた巫女は、この箱に寄りかかって霊を降ろしたと伝わる。信州の市子は、針箱ほどの風呂敷包みを背負い、傘を一本結わえて旅をしたという。

刈谷の市子の座は、もう少し具体的に分かる。紺の風呂敷に包んだ蜜柑箱ほどの箱を出し、その上に長方形の肘蒲団のような物を置く。右手に念珠を持ち、箱の上に両肘をついて唱えた。箱の前には、依頼者が用意した茶碗の水と南天の葉。

自宅で口寄せを受ける巫女は、家の中に神仏の棚を分けて設けていた。高知市の市子の家では、東の棚に八百万の神々を祭り、西の棚に諸仏を祀ったという。神は東、仏は西。座に着く依頼者は、この箱や棚の前で巫女と向き合う形になる。

伏せた器に弓を立てかけ、竹二本で弦を打つ

巫女の座で最初に据えるのが弓だ。壱岐でイチジョウと呼ばれた巫女について、折口信夫のノートが細かく書き留めている。長さ八尺もある黒塗りの木の弓を二つ折りにして袋に入れて運び、麻の弦を張った。弦には南天の葉から取った油を塗った。

据え方はこうだ。盒、つまり蓋つきの器を伏せ、麻縄で二か所くくった上に弓をもたせかける。そこを、釣り竿のように反った一尺五寸ほどの竹の棒二本で叩いた。伏せた器が鳴りを受ける形になる。打つのは弦だけ。

東の土地の弓はもっと簡素だった。常陸では二、三尺ほどの粗い竹の弓を使ったと記録されている。潮来では行く先々で青竹を切って、二尺ほどの弓を作ってもらったという。

磐城では青竹の弓に麻を撚った弦を張り、一尺五寸ほどの竹の鞭で打ち鳴らした。巫女は赤い法衣のような上着を着ていたそうだ。弓は旅先で作り直せる道具だったわけだ。

材も梓とはかぎらない。出雲の刀自話では、尼が萩の弓を鳴らして精霊を呼び出したと報告されている。大阪の黒格子と呼ばれた巫女について、近松の浄瑠璃は「珠数をくりひく梓弓」と書いた。数珠と弓を一緒に使う形もあったらしい。

音はベンベンと単調で、眠気を誘うような響きだったと書かれている。旋律はない。巫女はこの音を途切れさせずに唱え続けた。弓を使わず数珠を揉む流儀もある。青森のイタコはムクロジの実をつないだイラタカ数珠を揉んで経文を唱え、宮城のオガミサマもイラタカと呼ぶ長い数珠を使った。

上は梵天帝釈から、土地の神まで呼び下ろす

弦を鳴らしながら最初に呼ぶのは、死者より先に神々だ。山東京伝は読本『昔話稲妻表紙』の口寄せの場面で市子の詞を写し、中山太郎がその冒頭を引いている。「夫れ謹み敬って白し奉る、上は梵天帝釈四大天王、下は閻魔明王、五道の冥官」。

読みは、それつつしみうやまってもうしたてまつる、かみはぼんてんたいしゃくしだいてんのう。続けて、しもはえんまみょうおう、ごどうのみょうかん。謹んで申し上げます、上は梵天と帝釈天と四天王、下は閻魔と冥土の役人たちへ、という呼びかけになる。詞はこのあと諸国の神社の名を並べ、最後に「うからやからの諸精霊」、一族の霊たちを呼び出す。

信州の市子の神口は、節回しが民謡に近い。「神の初めは伊勢明神、越後じゃ弥彦の明神よ」。読みは、かみのはじめはいせみょうじん、えちごじゃやひこのみょうじんよ。神の筆頭は伊勢、越後なら弥彦の神だと、大きな神から順に招いていく。

能の「葵上」で照日の巫女が謡うのは「寄り人は今ぞ寄りくる長浜の、蘆毛の駒に手綱ゆりかけ」。読みは、よりびとはいまぞよりくるながはまの、あしげのこまにたづなゆりかけ。呼ばれる霊が、葦毛の馬に手綱をかけて今まさにやって来る、という呪歌になる。

磐城の笹ハタキは、六根清浄の祓を唱えてから神降ろしの祈り言に移り、そこに四十分ほどかけたという。青森のイタコの記録では、家の内神の神明さま、土地の産土さま、それから客の望む神々の順に上げ下ろしした。遠くの大きな神から手元の神へ、手繰り寄せる並び。

壱岐のイチジョウは、神寄せの文句のあとに御籤あげをして、それから百合若説教を唱えた。祭文の文句は巫女の系統ごとに違う。決まった一つの原文があるわけではない。

手向の水を葉で三度かき、仏を降ろす

神々を招いたところで仏降ろしに入る。ここで依頼者の手が要る。巫女は依頼者に葉を持たせ、器の水をかき回させる。死霊なら枯れ葉か樒の葉で左回しに三度、生霊なら青い葉で右回しに三度。『日本巫女史』の引く記事の決まりだ。

刈谷の市子では、依頼者が南天の葉に水をつけ、巫女の前の箱へ三度注ぎかけた。市子はその間、箱に両肘をついて唱え続ける。やり方は違っても、依頼者の手で水を動かすところは同じだ。どの家の誰を呼ぶかを、呼ぶ側の手で示したのだろう。

イタコの口寄せでは、この段で死者の亡くなった年月日と名前を呼び、「降りてください」と唱える。出雲の尼が戒名と命日を唱えたのと同じ理屈になる。弦の音も数珠の音も止まらない。声の調子が変わったところで、語りの主が巫女から死者へ替わったとみなされた。

御詠歌で呼び、欠伸で帰した高知の市子

弓を使わない口寄せの次第も一つ見ておく。高知市の市子の記録では、市子は西国三十三所の御詠歌を巡礼の口調で唱え、その終わりに四、五回欠伸をして仏を招いた。欠伸は、冥府から来たような陰気な長いものだったと書かれている。

仏が来ると、市子は「よう参って来てやんなさったナァ、こっちへ近う寄んなさい」と語りかけた。そこから依頼者と仏のやりとりが続く。長いものは二、三時間かかったそうだ。

帰すときも欠伸。もう一度四、五回欠伸をして「よう参って来てやんなさった、私はほんとに嬉しい」と言って見送る。最後は信濃の善光寺の御詠歌を唱えて終わりにした。呼ぶ合図と帰す合図が同じ所作でそろっている。神の日と仏の日を分けていたことは、日取りの節で書いた。

一人称で語る死者の話を、口を挟まずに聞く

降りた死者は、たいてい一人称で語る。『昔話稲妻表紙』の死霊は「懐しやよく水手向て玉はりしぞ」、懐かしい、よく水を手向けてくださった、と語り出した。京伝の写した詞では、霊が「梓弓に引かれ引かれて」やって来たと自分から言い出す形にもなっている。手向の水への礼から入るところが面白い。

名乗りが先に来ることも多い。能の「葵上」で弓に引かれて出た怨霊は、「これは六条の御息所の怨霊なり」と自分から名を明かした。誰が来たかを告げてから、思いを語り出す順番。依頼者は、名乗った相手が呼んだ人かどうかをここで聞き分ける。

八戸のイタコの口寄せを調べた富山大学の島添貴美子の報告では、口寄せは四つの部分でできている。死者の情報を確かめる前置き、死者を呼ぶ導入、死者が語る中心、死者が去る終わり。中心の部分で死者は、呼ばれた喜び、今いる所の様子、残した者への思いを述べ、先々の注意を添えて帰っていく。

依頼者は、死に際の様子や心残り、家の者への望みを尋ねることもできた。信州の市子の死口には、水が足りなくて一歩出ると三歩戻る、という言い回しが記録されている。水を手向けてくれ、線香を立ててくれという頼みが、そのまま家での供養の中身になった。死者に頼まれたことは、帰ったらすぐ書き留めておく。

恐山で受けた人の記事では、死者が五分ほど一方的に話し続けたそうだ。依頼者が問いを重ねる問口という形もあるが、今の恐山や旅行会社の枠は十五分から二十分と短い。聞きたいことは一つか二つに絞っておく。写真やビデオの撮影、録音は断られる。

南無阿弥陀仏で帰し、床の下にも神を残さない

呼んだものは、帰さないと座が閉じない。八戸の口寄せの終わりでは、死者が「心から安心して、喜んで戻る、ありがとう、南無阿弥陀仏」と語って去った。読みは、こころからあんしんして、よろこんでもどる、ありがとう、なむあみだぶつ。安心して喜んで帰る、ありがとう、と礼を言って念仏で締める形だ。

刈谷の市子は、唱え終えた後は問い返されても答えないのが習いだった。死者が去ったら、重ねて呼び止めない。出雲の刀自話では、精霊を返すのはたやすくなく、しくじると亡霊にも遺族にも不幸が及ぶと信じられていた。帰す段を省かないのはそのためだ。

能の「葵上」でも、梓の法で呼び出した怨霊を鎮めて送るのは、横川の小聖という別の行者の祈りだった。呼ぶ役と送る役が分かれていた。口寄せを頼む側も、呼んだら帰すところまでが一回の依頼だと心得て座に着く。途中で席を立たない。

青森のイタコの神送りでは、桃の木を活けて麻殻を垂らし、昔はゴザを立てたという。唱えるのは「床の下にも神とどまんな」。読みは、とこのしたにもかみとどまんな。短い一句。床の下にも神よ留まるな、という意味で、呼んだ神々を家のどこにも残さないための念押しになる。

送りに使った物の一部は、清めのあとで川へ流した。八戸の周りでは、口寄せをする期間の前に神仏迎えを行い、期間が明けてから神仏送りを行った。一回の座ごとの送りと、期間全体の送りの二重になっていたわけだ。

茶碗の水と葉は依頼者が捨て、頼まれた供養を済ませる

口寄せのあとの片付けは依頼者の役だ。刈谷の市子の記事は、茶碗の水と南天の葉は終わってから依頼者が捨てることになっている、とはっきり書いている。捨てる場所までは書かれていない。

青森の神送りでは使った物を川へ流した。根岸鎮衛の『耳袋』には、宝暦のはじめに三河の矢作橋で川を流れてきた人形のような物を拾った男の話がある。宿に置くと夜中にしゃべり続け、男は板に乗せて川へ流した。霊に触れた物は流れる水へ返すのが筋とされていたようだ。

家に帰ったら、死者に頼まれた供養を済ませる。水を手向け、線香を立て、仏壇や墓に参る。頼まれた中身が法事や墓参りなら、寺に相談して日を決めればいい。昔の依頼者にとって、口寄せはここまでで一続きだった。

恐山と川倉、祭りの日に出かけて並ぶ

東北の口寄せを今受けるなら、行事の日に出かけて並ぶのがいちばん確かだ。下北半島の恐山には、七月二十日から二十四日の恐山大祭と、十月上旬の三連休の秋詣りにイタコが来る。期間中の入山は午前六時から午後六時で、入山料は九百円。下北半島の観光案内は、口寄せは無漏舘で受けられるとしている。

気をつけたいのは、恐山菩提寺とイタコには関係がないことだ。イタコは場所を使っているだけなので、寺務所に口寄せのことを問い合わせても答えは出ない。大祭は行列が長く、平日のほうが待ちが短いという。テントが三つしか出ていなかった年もあったそうだ。

津軽の五所川原市金木町にある川倉賽の河原地蔵尊では、旧暦六月二十二日から二十四日の例大祭でイタコの口寄せが行われる。地蔵堂の内外には大小二千体ほどの地蔵が祀られている。市の案内も、哀調を帯びた口寄せに聞き入って涙を流す人々の姿を書いていた。旧暦なので、その年の新暦の日付を先に確かめておく。

八戸のイタコには三週間前までに申し込む

祭りを待たずに頼む道もある。八戸市で活動するイタコの公式サイトは、自宅での口寄せを随時受け付けている。申し込みはメールの問い合わせフォームから、三週間前までという案内。確認と日取りの相談は、青森県いたこ巫技伝承保存協会の担当者から返ってくる仕組みだ。

電話やメールでの口寄せはしない。会って向き合う形だけで、サイトは口寄せを亡き人の思いを届ける対話のようなものと説明している。フォームには、呼びたい人との続柄と命日、希望する日の候補をいくつか書いておくと、やりとりが一度で済みやすい。遠方から行くなら、日取りが決まってから宿と足を押さえる順にする。

所要は死者一人につき二十分ほどで、同席する人数は何人でもかまわないとある。場所は八戸市内。

夏の恐山大祭にもこのイタコは出向くが、恐山へ電話で問い合わせるのはやめてほしいと書かれている。同協会が伝統的なイタコと数える、常に活動している人は四人しかいないという報道もあった。頼める先はそれだけ少ない。正直、思い立った週に受けられるものではないと考えておいたほうがいい。

当日は続柄と命日を答え、札を手元に置いて座る

恐山なら、入山料を納めて境内に入り、イタコのテントの前の列に並ぶ。順番が来るまでに、紙と千円札を手元に出しておく。

当日の流れは、恐山でも自宅でもほぼ変わらない。席に着くと、誰を降ろすか、亡くなった日はいつかを聞かれる。用意した紙を見ながら、続柄と命日をはっきり答える。旅行会社の枠では、降ろせる故人は一人だけで、約十五分、延長はできず、イタコの指名もできないとされていた。

イタコが数珠を揉んで唱えはじめたら、あとは聞くだけ。死者が語り終えると、イタコがまた唱えて締め、それで終わる。恐山で受けた人の記事でも、この順だった。礼金はその場で渡す。釣りは出ない。

終わったら礼を言って席を立ち、次の人に場を譲る。語られた頼みごとと言い回しは、忘れないうちに書き残しておく。録音できない以上、頼りは記憶とメモだけ。家での供養は、その書き付けを見ながら進めればいい。

冷やかしと、受けてもらえない頼み

冷やかしで受けるのは断られる。旅行会社の案内も、冷やかし目的の参加はできないとはっきり書いていた。生きている人、行方の分からない人、ペットは、八戸のイタコでは受け付けない。昔の生口のつもりで頼むと、話はそこで終わる。

恐山の口寄せを寺に申し込もうとしないこと。寺とイタコは別だと先に書いた。一度の枠で何人も降ろしてほしいと粘るのも、旅行会社の枠では通らない。二人目を頼みたいなら、そのぶん並び直すか、自宅での口寄せで最初から人数を伝えておく。

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