死んだ人間の耳元で、坊さんが本を読む。一日や二日じゃない。四十九日間、ずっとだ。しかも読んでいる内容が、「あなたはもう死にました」というものだ。「いま見えている光はぜんぶあなたの心が作った幻です」「怖がらないでください」と続く。
恐ろしく実務的な案内である。世界広しといえども、こんな構造の経典はそうそうない。
『チベット死者の書』の話をしよう。
- そもそも「死者の書」って題名、盛大な誤訳らしい
- 八世紀の呪術師が山に埋めた本を、十四世紀の少年が掘り出したという話
- 地面から経典が出てくる文化、その仕組みが割と合理的で驚く
- 第一幕 チカエ・バルド 肉体が崩れ落ちていく数十分の実況
- 第二幕 チョエニ・バルド 毎日ひとりずつ、仏がノックしに来る
- 八日目、血を飲む神が来る しかもそれ、さっきの仏と同一人物
- 鏡と、白い小石と黒い小石 閻魔の法廷という名の自意識
- 第三幕 シパ・バルド 自分の葬式を見てしまう亡者の話
- 子宮の入り口をどう選ぶか 最後の分岐がとにかく生々しい
- 一九一九年、ガントク チベット語を読めない男が「訳者」になった経緯
- トゥルンパ版、サーマン版、ギュルメ・ドルジェ版 訳が増えるほど像が変わる
- 日本上陸 サイケデリック経由と、原典訳と、ゲルク派版
- 一九九三年、日本列島が震えた夜
- 証言その一 ラダックの老人の枕元で、実際に何が起きていたか
- 証言その二 西洋のホスピスで、あの祈りが読まれている
- 証言その三 読んだ人たちが口を揃えて言う「途中で怖くなった」
- 一九六四年、ミルブルック 経典が別のマニュアルに書き換えられた記録
- ユングが「生涯の伴侶」と呼び、しかも「逆から読め」と言った理由
- 学者たちの反撃 「あなたたちが読んでいるのは、チベットではない」
- 亡命という現実の話をしないと、この本の話は片手落ちになる
- で、なぜこの本はこんなにも人を掴んで離さないのか
そもそも「死者の書」って題名、盛大な誤訳らしい
まず名前から片付けたい。この本、チベット語の原題を「バルド・トゥ・ドル」あるいは「バルド・トドゥル」という。もう少し丁寧に言うと「バルド・トゥ・ドル・チェンモ」。意味は「中有において聴くことによる大いなる解脱」だ。バルドが「あいだの状態」、トゥ・ドルが「聞いて解脱する」。
つまり本来の題は『死者の書』でもなんでもない。『聞くだけで解放されるやつ』である。じゃあなぜ『チベット死者の書』などという、いかにも墓場の匂いのする題名がついたのか。犯人は一九二七年にオックスフォード大学出版局から英訳を出したウォルター・エヴァンス・ヴェンツというアメリカ人だ。
彼は当時すでに西洋で有名だった『エジプト死者の書』にあやかって、この本に「ザ・チベタン・ブック・オブ・ザ・デッド」という題をつけた。要するにマーケティングである。そしてそのマーケティングは、恐ろしいほど成功した。百年近く経ったいまも、世界中の人がこの本を「死者の書」と呼んでいる。原題を知っている人のほうが圧倒的に少ない。
ここが最初の面白いポイントなんだけど、題名が誤解を生んだせいで、この本は「死後の世界のガイドブック」として読まれ続けてきた。でも原題に忠実に読むなら、これは「耳から入る解脱の技術書」だ。読む対象は死者だけじゃない。生きているうちに聞いておけば、そのぶん本番で役に立つ。ロバート・サーマンという研究者は英題を『中間状態における理解を通しての解放の書』と訳し直すべきだと主張している。
長いけど、たしかにそのほうが正しい。
八世紀の呪術師が山に埋めた本を、十四世紀の少年が掘り出したという話
成立伝説がまた強烈だ。伝承によれば、この経典を書いたのは八世紀のインド人密教行者パドマサンバヴァである。チベットではグル・リンポチェ(尊い師)と呼ばれ、ほとんど第二の仏陀みたいな扱いを受けている人物だ。当時のチベット王ティソン・デツェンに招かれてチベットに渡った。土着の神霊を片っ端から調伏し、サムイェー寺の建立を成し遂げた。
そういう伝説を背負っている。
そのパドマサンバヴァが、弟子であり伴侶でもあったイェシェ・ツォギェルという女性に口述筆記させた。そして書き上がった経典を、各地の山や岩や湖に隠した。なぜ隠したか。「いまのチベット人にはまだ早いから」である。時代が熟したときに、しかるべき人物が発見できるように仕込んでおいた、というわけだ。
この隠された教えのことをチベット語でテルマ(埋蔵経)といい、それを掘り出す人をテルトン(埋蔵経発掘者)という。
そして時代は下って十四世紀。チベット南東部に、ニダ・サンギェという密教行者の長男として生まれた少年がいた。名をカルマ・リンパ。生年は一三二六年、没年は一三八六年とされる。彼は十五歳のとき、ガンポダル山という山の頂で、パドマサンバヴァが六百年前に埋めたとされる教えの束を発見した。
その中に『寂静尊と忿怒尊の意による自然解脱』という長大な教えの体系が含まれている。『バルド・トドゥル』はその一部として世に出た。ちなみにこの体系の中には『裸の気づきによる自然解脱』という、ゾクチェンの核心を突いた別の名作も入っている。カルマ・リンパは掘り当てた宝の質が異様に高かった。伝承の面白いところは、カルマ・リンパがニンマ派の行者だったのに、弟子はほぼ全員カギュ派だったという点だ。
この教えはまずスルマン系の僧院、つまり後年のチョギャム・トゥルンパの法系につながる寺々を通って広まった。それからニンマ派本流へ、逆輸入されるように浸透していった。教えが宗派の垣根を軽々と越えていく感じ、いかにもチベットっぽい。
地面から経典が出てくる文化、その仕組みが割と合理的で驚く
テルマという発想、初めて聞くと「都合よすぎでは」と思うはずだ。俺も最初そう思った。でも仕組みを知ると、これがかなり良くできた文化装置だとわかる。テルマには大きく二種類ある。ひとつはサテル、大地のテルマ。
岩の割れ目、寺の柱の中、湖の底、洞窟の奥といった物理的な場所から、実際にモノが出てくるタイプだ。小さな巻物や仏像や法具として現れる。ただしその巻物に書かれているのは普通のチベット文字ではない。ダーキニー文字と呼ばれる象徴的な暗号で、しかも数文字しか記されていない。テルトンはそれを目にした瞬間、封じ込められていた膨大なテキストが記憶のように心の中に湧き上がってくる、とされる。
それを書き取ったものが最終的な経典になる。もうひとつはゴンテル、意のテルマ。こちらは物理的なモノを一切介さない。パドマサンバヴァの弟子たちの心の相続の中に直接封じられている。その転生とされるテルトンの心に、あるとき言葉と意味がまるごと明瞭に立ち上がる。
それをそのまま筆記する。ほぼ完全に内的な体験である。この二重構造がなぜ優れているかというと、「新しい教えを正当化する回路」として機能するからだ。仏教では基本的に、後から作った経典は権威を持てない。でもテルマなら「後から作った」のではなく「昔から埋まっていたのを見つけた」ことになる。
時代の必要に応じて新しい教義を導入しつつ、開祖の権威をそのまま纏える。ニンマ派とカギュ派からはテルトンが山ほど出た。一方、後発で戒律と論理を重んじるゲルク派からはほとんど出ていない。これも実にわかりやすい話だ。もちろん批判もある。
同時代のチベット人自身が「あいつのテルマは怪しい」と言い合っていた記録は普通に残っている。
真テルマと偽テルマを見分ける議論が延々と続いてきたということは、裏を返せば偽物が大量にあったということだ。信じる側も、そこはちゃんとシビアだった。
第一幕 チカエ・バルド 肉体が崩れ落ちていく数十分の実況
さて、経典の中身に入ろう。ここからが本番だ。死が始まると、経典によれば身体を構成する要素が順番に溶けていく。まず地の要素が水に溶ける。身体が重い。
とんでもなく重い。何かに押し潰されているような感覚が来る。次に水が火に溶ける。口と喉が乾いて、粘膜がひび割れるように感じる。次に火が風に溶ける。
体温が末端から抜けていき、視界がぼやける。最後に風が意識に溶ける。呼吸が途切れ途切れになり、長い吐く息を最後に止まる。医学的にはここで死亡宣告が出る。だがバルド・トドゥルの世界では、ここからが第一幕である。
呼吸が止まったあと、しばらくの間、意識は失神したような状態に置かれる。そしてその失神が解けた瞬間、目もくらむような、色も形もない、ただ澄み切った明るさが全視野を満たす。これが根源の光明、チカエ・バルドのクライマックスだ。経典はここで、枕元の読み手に対してきわめて具体的な指示を出す。名前を呼べ。
そして言え。いま汝の前に現れているものは汝自身の心の本性である、と。誰かの光ではない、外から来た神でもない、汝そのものだ、と。ここでそれを「自分だ」と認識できれば、その瞬間にすべてが終わる。輪廻からの脱出、一発クリアである。
四十九日の旅は不要になる。でも大半の人は認識できない。眩しすぎるからだ。生前ずっと「見る自分」と「見られる世界」に分けて生きてきた人間が、いきなり分割線のない光にぶつかったら、脳の側が処理を拒否する。まぶしさに驚いて意識が退く。
すると根源の光明は遠ざかり、そのすぐあとに二次的な光明が現れる。これも同じチャンスなのだが、一度目より弱い。ここでも掴めなかった者が、次の幕へ送られる。
第二幕 チョエニ・バルド 毎日ひとりずつ、仏がノックしに来る
第二幕チョエニ・バルドは「存在そのものの本質が立ち現れる中有」で、これが一番演出過剰で、一番有名なパートだ。おおむね十四日、経典の版によっては前半七日を寂静尊、後半七日を忿怒尊に割り当てる。一日目、まず空色の、目に刺さるような青い光が現れる。中央の仏である大日如来(ヴァイローチャナ)が、白い獅子に支えられた座に、伴侶とともに現れる。ここで重要な仕掛けが同時に発動する。
まばゆい青の隣に、鈍く、柔らかく、目に優しい白い光がぼんやり灯るのだ。この鈍い光は天界へ通じる道である。眩しい光は解脱、優しい光は輪廻。人間は本能的に優しいほうを見てしまう。経典は必死に警告する。
柔らかい光を見るな。刺さる光のほうへ行け、と。二日目は水のように澄んだ白い光と、東方のアクショービヤ如来。象の座に乗り、ヴァジラサットヴァの姿をとって現れる。傍らに鈍い灰色の煙のような光が灯る。
それは地獄への道だ。三日目は黄色。南方の宝生如来(ラトナサンバヴァ)が馬の座に現れ、鈍い青い光として人間界の道が並ぶ。四日目は赤。西方の阿弥陀如来(アミターバ)が孔雀の座に現れ、隣に鈍い黄色の餓鬼道の光が灯る。
五日目は緑。北方の不空成就如来(アモーガシッディ)が鳥の座に現れ、隣に鈍い赤の阿修羅道が並ぶ。六日目には、これまでの五仏がいっぺんに、全部同時に現れる。マンダラそのものが天地に展開し、あらゆる方角から光が降ってくる。そして六道すべての鈍い光も同時に灯る。
総力戦だ。七日目には持明尊たちが、天空を埋め尽くす色彩と楽器の音とともに現れる。読んでいて怖いのは、この十四日間ずっと、まばゆい光と鈍い光が必ずセットで出てくることだ。しかも人間の癖として、鈍い光のほうが居心地がいい。生前に積み上げた執着が、その居心地の良さを増幅する。
慈悲深い仏の光を「まぶしくてイヤだ」と感じ、地獄へ続く煙のような光を「なんか落ち着く」と感じてしまう。この設計、心理描写としてえげつないほど正確だと思う。
八日目、血を飲む神が来る しかもそれ、さっきの仏と同一人物
八日目からが凄まじい。優しい寂静尊たちが消え、代わりに忿怒尊が現れる。三つの首、六本の腕、四本の脚。牙を剥き、目玉を血走らせ、髑髏の冠をかぶり、人間の生皮をまとい、口から炎を吐き、雷鳴のような咆哮とともに現れる。手には血のなみなみと満たされた髑髏杯を持ち、それを飲む。
ヘールカと総称される、いわゆる血飲尊だ。日を追うごとに現れる尊格は増え、獣の頭を持つ者たち、墓場を統べる女尊たち、門を守る者たちが加わって、最終的に五十八体が一斉に現れる。前半の寂静尊四十二体と合わせて百尊。日本で「百尊」と言われるのはこの数のことだ。ちなみに寂静尊四十八体、忿怒尊五十二体と数える伝えもあり、版によって内訳は少し揺れる。
で、経典がここで放り込んでくる一撃が凄い。この恐ろしい神々は、七日前まで現れていた優しい仏たちと、同じものである、と言うのだ。姿が変わっただけだ。汝が恐れているのは汝自身であり、それ以外の何ものでもない。だから恐れるな、と。
冷静に考えると、これは死者にとって受け入れがたい説明だ。目の前で自分の生皮を剥ぎに来るような存在に対して「それはあなたです」と言われても納得しようがない。しかしこの本の思想は徹底している。光も、仏も、化け物も、閻魔の法廷も、その全部が死者自身の心の投影である。実体としては何ひとつ存在しない、という一点を、四十九日間ずっと繰り返す。
経典は「四十九日にわたって現れる光やヴィジョンはすべて死者自身の意識が作り出したもので一切が幻想である」と何度も念押ししている。石濱裕美子の解説も、その点を強調している。要するにこれは幽霊譚ではなく、心の構造についてのテキストなのだ。
鏡と、白い小石と黒い小石 閻魔の法廷という名の自意識
忿怒尊の嵐を抜けたあたりで、死者は裁きの場に引きずり出される。死の王ヤマ、日本でいう閻魔だ。法廷では二人の存在が呼ばれる。生前の善行を数えていた白い守護霊と、悪行を数えていた黒い悪霊だ。白い者は白い小石を、黒い者は黒い小石を、死者の前に積み上げていく。
死者は嘘をつこうとする。私はそんなことをしていない、と言い張る。するとヤマは業の鏡を取り出す。鏡には生前のすべてが、言い逃れの余地なく映る。判決が下り、死者はヤマの配下に首を縄で縛られ、引きずられ、切り裂かれ、内臓を引き出される。
しかし死者はもう死んでいるので死ねない。切られても切られても、身体は元に戻り、また切られる。ここで読み手はまた同じことを言う。恐れるな。汝には身体がない。
切られる肉体がないのだから、痛みも死もありえない。ヤマも、小石も、鏡も、汝の心が生んだ幻である、と。この場面、いろんな読み方ができて面白い。単純に地獄の描写として読むこともできる。だが心理学的に読むなら、これは要するに自己弁護をやめられない自我が、自分の記録と正面から向き合わされる場面である。
ユング以降、この読み方が西洋で圧倒的に主流になった。
第三幕 シパ・バルド 自分の葬式を見てしまう亡者の話
第三幕シパ・バルド、生存への中有。ここは経典の中でもいちばん切ない。このころ死者は、生前とほぼ同じ姿の、しかし影のない意生身と呼ばれる身体を持っている。この身体は驚くほど有能で、壁を通り抜け、思った瞬間にどこへでも移動する。須弥山だろうが海だろうが一瞬でまたぐことができる。
感覚も鋭敏で、生前より遥かによく見え、よく聞こえる。ただし母の胎とブッダガヤの菩提樹だけは通り抜けられない、という妙に具体的な例外がついている。そしてこの身体で、死者は自分の家に帰る。家族が集まっている。自分の遺体が横たわっている。
誰かが泣いている。誰かが財産の話をしている。死者は必死に呼びかける。ここにいる、と。だが誰も反応しない。
食事の席に座っても、誰も器を置いてくれない。自分が死んだのだと、この段階でようやく本当に理解する。経典は、ここで死者が味わう絶望を「魚が熱い砂の上で跳ねるような苦しみ」と表現する。さらに死者は自分の影を探す。ない。
砂の上を歩いても足跡が残らない。この二つが「自分はもう死んでいる」ことの決定的な証拠として提示される。そして遺族の側にも、この経典は釘を刺す。泣きわめくな、と。死者にはそれが聞こえていて、執着の綱になり、旅の妨げになる。
財産をめぐって争うな、と。死者はそれを見ていて、怒りを起こし、その怒りが悪しき転生の引き金になる。四十九日のあいだ遺族が慎ましく振る舞い、供養を積む理由がここにある。日本の四十九日法要とほとんど同じ論理が、遠く離れた高地で独立に組み上がっているのは、素朴に興味深い。
子宮の入り口をどう選ぶか 最後の分岐がとにかく生々しい
シパ・バルドの終盤、死者はいよいよ生まれ変わり先を選ぶことになる。ここが最終試験だ。まず、六道それぞれに対応する光が見えるようになる。天、阿修羅、人間、畜生、餓鬼、地獄。それぞれ色と質感が違う光として現れ、業の重さに応じてどれかが強く死者を引く。
同時に、死者の目の前に幻の風景が広がる。湖に白鳥が浮かぶ景色、宮殿、洞窟、森の茂み、洞穴、霧に沈む平原。それぞれが特定の生まれ変わり先の入り口だ。魅力的に見えたほうへ行きたくなるのが人情だが、経典は「気持ちよさそうな景色ほど罠だ」と警告する。そして最も有名な場面が来る。
死者の前に、交合する男女の姿が現れる。ここで、次に男として生まれる者は母となる女性に強烈に惹かれ、父となる男性に激しい嫉妬と憎悪を覚える。女として生まれる者はその逆になる。この愛憎の一撃で意識が引き寄せられ、胎の中に落ちる。落ちた瞬間に中有は終わり、次の生が始まる。
フロイトを知っている人なら誰でも、この記述に度肝を抜かれるはずだ。エディプス的な三角関係が、十四世紀の埋蔵経に、転生のメカニズムとして書かれている。ユングがこの本に興奮した理由の少なくとも一部は、間違いなくここにある。そして経典は、最後まで諦めない。ここに至ってもまだ手はある、と言うのだ。
子宮の入り口を閉じる方法がいくつも列挙される。目の前の光景を幻と見抜くこと、欲望と憎悪の両方から意識を引き剥がすこと、師を思い浮かべること、瞑想の本尊を観想すること。それでもどうしても入ってしまうなら、せめて良い胎を選べ、と切り替える。仏法の聞ける土地に、仏法の実践できる家に生まれるように、と方向づけをする。
理想の解脱から、次善の転生へ、さらにその次善へと、段階的に目標を下げながら最後まで手を放さない。この粘り強さが、この経典の最大の美点だと俺は思っている。
一九一九年、ガントク チベット語を読めない男が「訳者」になった経緯
ここから受容史だ。この経典が西洋に出ていく道のりは、控えめに言ってもかなり変な話である。ウォルター・エヴァンス・ヴェンツ。アメリカのニュージャージー州トレントン育ち。父はドイツ系の実業家で酒に溺れがち、母はアイルランド系。
家庭には心霊主義や自由思想の空気があり、少年時代の彼はブラヴァツキー夫人の神智学にどっぷりはまった。二十四歳でスタンフォード大学に入る。その後オックスフォードのジーザス・カレッジでケルトの妖精譚を研究している。つまり出発点は仏教学者ではなく、オカルト趣味の民俗学者だった。彼を支えたのは学問ではなく不動産である。
一九一六年時点で月に千六百ドルの不労所得があったという記録が残っている。
この金で彼はエジプト、インド、シッキム、中国、日本を延々と旅した。そして一九一九年、シッキムの首都ガントクで、ひとりのチベット人と出会う。その人物がカジ・ダワ・サムドゥプ。一八六八年シッキム生まれる。ダージリンのブーティア寄宿学校で教育を受けた、当時としては稀有な英語とチベット語の両刀使いだった。
彼は一九一〇年からチャールズ・ベル卿の通訳を務めている。第十三世ダライ・ラマのインド滞在に立ち会い、一九一四年のシムラ会議にも通訳として関わっている。二万語規模の英蔵辞典を一九一九年に出版してもいる。アレクサンドラ・ダヴィッド・ネールにチベット語を教えたのもこの人だ。エヴァンス・ヴェンツはチベット語がまったく読めなかった。
二人は毎朝早くに顔を合わせ、ダワ・サムドゥプが実際に訳する。エヴァンス・ヴェンツがそれを聞き取って英語に整えた。翻訳したのはダワ・サムドゥプで、エヴァンス・ヴェンツは編者である。そのダワ・サムドゥプが一九二二年三月二十二日にカルカッタで没する。享年五十四。
エヴァンス・ヴェンツは残された草稿を編集し、五年後の一九二七年に出版した。
表紙には編者として自分の名を大きく置き、訳者としてダワ・サムドゥプの名を記した。この本は爆発的に売れたのだ。エヴァンス・ヴェンツはその後も『チベットの偉大なヨーギー、ミラレパ』『チベットのヨーガと密教』などを同じやり方で出す。西洋におけるチベット仏教像を決定づけていく。
晩年の彼は、第二次大戦以降二十三年間、サンディエゴの小さなホテルの一室に住み、菜食レストランと図書館の近くで隠者のように暮らした。米墨国境近くのクチャマ山を私財で買い取り、自分の聖地にしていたというのだから、最後まで筋の通ったロマン主義者ではあった。
トゥルンパ版、サーマン版、ギュルメ・ドルジェ版 訳が増えるほど像が変わる
エヴァンス・ヴェンツ版がどれほど独特だったかは、後続の訳と並べるとよくわかる。一九七五年、フランチェスカ・フリーマントルとチョギャム・トゥルンパによる新訳が出た。トゥルンパはカギュ派の高位ラマで、亡命後に西洋へ渡って独自のやり方でヴァジラダートゥ、後のシャンバラという教団を築いた人物だ。奇しくもカルマ・リンパのテルマが最初に流布したのがスルマン系、つまりトゥルンパの法系である。
血縁ならぬ法縁が六百年後に一周した形になる。この版の最大の特徴は、死後世界の記述として読むよりも、いまここで起きている心の状態として読ませようとしている点にある。バルドは死んでから始まるのではなく、いまこの瞬間の意識の切れ目にもある。トゥルンパの解説はほぼ一貫してそう語る。神智学的な用語がほぼ消え、代わりに瞑想実践者の言葉が入った。
一九九四年にはロバート・サーマンの訳が出る。ダライ・ラマ十四世が序文を寄せた。サーマンはアメリカ人として初めてチベット僧として得度した経歴を持つ研究者で、この版は文体がやたら流麗で読み物として楽しい。ただし訳語が大胆すぎるという批判も同時に受けている。バルドを「ザ・ビトウィーン」と訳し切ってしまう思い切りの良さは、好みが分かれるところだ。
二〇〇五年から二〇〇六年にかけて、ギュルメ・ドルジェによる全訳がペンギンから出た。これは決定版と言っていい。というのも、『バルド・トドゥル』というのは実は単体の書物ではない。カルマ・リンパが発掘した巨大な儀軌集の中の数章にすぎないからだ。版によって収録される章の数は十から三十八までばらつく。
ギュルメ・ドルジェ版は、その全体をまるごと英訳した唯一の仕事である。これを読むと、西洋で百年間「死者の書」と呼ばれてきたものが、実際にはもっと大きな法要マニュアルの抜粋だったことがはっきりわかる。懺悔の儀礼、灌頂、本尊の観想、遺体の処理、供物の作法。そういう実務が延々と並んだ中に、あの有名な死後の旅の記述が挟まっている。
ロマンチックな幻視の書ではなく、葬儀の現場で使う分厚い実務書だったのだ。
日本上陸 サイケデリック経由と、原典訳と、ゲルク派版
日本での受容もねじれていて面白い。まず一九七四年、おおえまさのりの手で『チベットの死者の書 バルド・ソドル』が世に出る。おおえまさのりは映像作家であり、いわゆるカウンターカルチャーの側から入った人だ。この最初の日本語版は、原典から直接ではなくエヴァンス・ヴェンツ英訳を経由したものである。
しかも日本の読者は同時期に、ティモシー・リアリーらの『サイケデリック・エクスペリエンス』の日本語版とセットでこの本に出会うことになった。つまり日本での第一印象は、仏教書というより「意識の探検の書」だった。流れが変わったのは一九八九年、川崎信定による『原典訳 チベットの死者の書』である。これはチベット語原典からの直接訳で、ちくま学芸文庫に入っていまも読める。
ここでようやく日本人は、英訳のフィルターを外した文面に触れられるようになった。訳文はかなり硬いが、その硬さのおかげで儀礼書としての手触りがきちんと残っている。さらに二〇〇一年には平岡宏一訳『ゲルク派版 チベット死者の書』が出た。これが個人的には超重要だと思っている。というのも「死者の書」はニンマ派のテルマ文献なのだが、ダライ・ラマを輩出するゲルク派にも、死と中有をめぐる独自の体系がある。
同じテーマを別の宗派がどう扱っているかを日本語で読み比べられるようになった意義は大きい。「チベット仏教=死者の書」という一枚岩の誤解を崩す仕事でもあった。
一九九三年、日本列島が震えた夜
そして日本での決定打が、一九九三年のNHKスペシャル『チベット死者の書』である。制作は河邑厚徳ら。宗教人類学者の中沢新一が全面的に関わり、番組は二部構成をとった。前半は輪廻転生の思想を追うドキュメンタリー、後半は四十九日の旅そのものを描くドキュメンタリードラマ。合計で二時間を優に超える大作だ。
ダライ・ラマ十四世への単独インタビューが一九九三年二月にダラムサラで収録され、番組の核に据えられた。この番組は国際ホスピス学会のベスト・ドキュメンタリー賞を受賞している。そして日本のポップカルチャー史的にとんでもないのは、宮崎駿がこの番組を繰り返し観ていたという事実だ。『もののけ姫』の制作期間中、彼はこれを何度も再生し、深く心を動かされたと伝えられている。
のちにスタジオジブリの学術ライブラリーとしてDVD化されたのも、その縁による。あの映画に漂う、生と死が同じ地面の上で連続している感覚。あれの一部はチベットの埋蔵経から来ている。そう考えるとちょっと震えないだろうか。放送当時、日本ではオウム真理教事件の前夜という時期にあたり、精神世界ブームがピークに近づいていた。
書店の宗教コーナーには関連書が積み上がり、中沢新一の『三万年の死の教え』は多くの読者に読まれた。番組をきっかけに川崎信定訳を買った人も相当数いたはずだ。この時期に日本で形成された「チベット死者の書」のイメージは、いまも根強い。
証言その一 ラダックの老人の枕元で、実際に何が起きていたか
ここからは、この経典が実際に読まれる現場の話をしよう。一九九四年、カナダ国立映画制作庁などが制作した二部構成のドキュメンタリーが公開された。ナレーションを担当したのは、あのレナード・コーエンである。老ラマとまだ幼い見習い僧が、四十九日にわたって遺族の家に通い、経典を読み上げていく。この作品の第二部は、ヒマラヤの村でひとりの村人が亡くなったあとの、その過程をそのまま追いかけている。
映像に映っているのは、劇的なものではまったくない。狭い部屋、バターランプの匂い、寒い床。老ラマが低い声で延々と読み続ける。見習いの少年は途中で眠そうになる。遺族は黙って座っている。
時折お茶が回される。読誦は何時間も続く。そして日を置いてまた来る。それを七週間繰り返す。この地味さが、逆に強烈な説得力を持っている。
西洋の読者が想像するような、神秘的な光に包まれた儀式ではない。それはむしろ、家族が悲しみと向き合うために設けられた、極めて実務的な七週間のプログラムだ。作品を観た人のコメントには、「本で読んでいた儀礼が実際にこう行われているのを初めて見た」という反応が並んでいる。「西洋の病院との対比が痛いほど効いていた」という反応も並んでいる。
末期の病を抱えている、と自己申告したうえで、この作品に感謝を述べている視聴者もいた。
音楽がジャズっぽすぎて雰囲気を壊しているという苦情もけっこう多く、そのあたりの生活感も含めて記録として面白い。
証言その二 西洋のホスピスで、あの祈りが読まれている
一九九二年、ソギャル・リンポチェの『チベット生と死の書』が出版された。これは『死者の書』そのものの翻訳ではなく、その思想を土台に、現代の看取りの現場向けに書き直した本だ。これが西洋のホスピス運動と正面から接続した。具体的な受け皿になったのが、リクパ・スピリチュアルケアと呼ばれるプログラムである。
ホスピスの職員、看護師、ボランティア、そして遺族が、仏教の看取りの技法を学ぶ訓練コースが各国で開かれるようになった。クリスティン・ロンガカーのように、自身が若くして配偶者を看取った経験を出発点に、この分野の教育プログラムを組み立てた人もいる。現場で実際に使われているものの代表が、チカエ・バルドの「明光の祈り」だ。
介護者向けの手引きには、これを臨終の人の枕元で、三回あるいは七回、はっきりと、正確に唱えるように、といった具体的な指示が書かれている。内容はごくシンプルだ。いま現れているこの光を、自分自身の心の本性として認識してください、という趣旨のことを言う。それを、名前を呼びかけながら伝えるものだ。面白いのは、これが宗教的な信仰の有無をあまり問わない形で使われていることだ。
仏教徒でない患者に対しても、家族の希望があれば読まれる。理屈としては「聴覚は最後まで残る」という古い経験則がある。これは現代の緩和ケアの現場でも「耳は最後まで聞こえていると考えて話しかけてください」という形でごく普通に共有されている。八世紀の伝説を持つテキストと、二十一世紀の病棟の実務が、そこだけぴったり噛み合っている。
証言その三 読んだ人たちが口を揃えて言う「途中で怖くなった」
一般の読者の反応も見ておきたい。日本語圏の書評サイトや個人ブログを漁っていくと、この本を読んだ人の感想には、はっきりした共通パターンがある。まず、想像していたものと全然違う、という驚きがほぼ全員に来る。神秘的なエッセイを期待して開いたら、儀礼の手順書が出てきて面食らう。名前を呼びかける定型句が、章が変わるたびにほとんど同じ文面で何十回も繰り返されるので、読み物として単調に感じる人も多い。
原典訳を最後まで通読するのは正直しんどい、という率直な感想はよく見かける。次に来るのが、忿怒尊のパートで急に怖くなった、という反応だ。これは面白いことに、内容が怖いというより「これがぜんぶ自分の心だと言われているのが怖い」という怖がり方をしている人が多い。血を飲む神が現れる場面より、「汝が見ているものは汝自身だ」という一文のほうが効く、というわけだ。
そして三つ目に、身近な人を亡くしたあとに読み返して、初めて意味がわかった、という声がかなりの数ある。健康なときに読むと、その呼びかけは退屈な繰り返しにしか見えなかった。だが実際に誰かを送ったあとだと、その繰り返しこそが本体だったと理解できる。そういうタイプの感想だ。
四十九日という長さについても、生前は「長すぎる」と感じていた人が、実際に喪主を経験すると「あれくらい必要だった」と書いていたりする。
この経典が儀礼書であって思想書ではない、という事実を、読者は経験を通して発見し直している。海外の読書コミュニティでも似た傾向がある。あるユーザーは、母親の臨終に立ち会う数週間前にこの本を読み、実際に病室で「聞こえていますか」と語りかけ続けた経験を書き残している。効果があったかどうかは誰にもわからない。だが、何もできない時間に「やるべきこと」があるという構造が、残される側をどれほど支えるか。
証言の多くはそこに集約されていく。
一九六四年、ミルブルック 経典が別のマニュアルに書き換えられた記録
歴史として避けて通れないのが一九六〇年代のアメリカだ。一九六四年、『ザ・サイケデリック・エクスペリエンス』という本が出た。著者はティモシー・リアリー、ラルフ・メツナー、リチャード・アルパートの三人だ。副題に「チベット死者の書に基づくマニュアル」とある。これはエヴァンス・ヴェンツ英訳を下敷きにした本である。
幻覚剤による意識変容の各段階を、三つのバルドに対応させて解説している。
原型は一九六二年、メキシコのシワタネホでの合宿で作られ始めた。献辞はオルダス・ハクスリーに捧げられ、冒頭には『知覚の扉』からの一節が引かれている。リアリーにこの経典を教えたのはハクスリー本人だった。彼らの読み替えはこうだ。第一のバルドを自我の消失に、第二のバルドを幻覚とイメージの奔流に、第三のバルドを日常意識への帰還に対応させる。
恐怖に襲われたとき、経典が死者にかけていた「それは汝自身の心だ」という言葉を、そのまま体験者にかけるべきガイドの台詞として使う。この構造自体は、正直に言えばかなり頭がいい。そしてこの本は文化史に消えない跡を残した。一九六六年四月一日、ジョン・レノンがロンドンの書店でこの本を買った、という記録が残っている。
彼はそこに書かれていた文言を下敷きに歌詞を書き、レコーディングでリンゴのドラムをテープループで加工する。逆回転のギターを重ねた。それが『トゥモロー・ネヴァー・ノウズ』である。ポップミュージックの歴史を書き換えたあの一曲の出発点に、十四世紀チベットの埋蔵経が、二回の翻訳を経て置かれている。もちろん、これは経典の正しい読み方ではない。
当時から仏教の実践者たちは強く反発した。四十九日をかけて自我を手放す訓練の書を、数時間の化学的体験の手引きに圧縮するのは、原典の意図とは何の関係もない。実際、後年のリアリーの活動は科学からも仏教からも遠ざかっていった。ここで起きたことは、経典の理解というより、時代がテキストを自分の必要に合わせて使い切った出来事として記録すべきものだと思う。
なお言うまでもないが、これは一九六〇年代にそういうことがあったという歴史の話である。いま誰かが真似すべきことでは一切ない。
ユングが「生涯の伴侶」と呼び、しかも「逆から読め」と言った理由
心理学の側からの読解も外せない。カール・グスタフ・ユングは、エヴァンス・ヴェンツ版に心理学的注釈を寄せた。この注釈は一九三五年に書かれ、のちの版に収録されて、この本の読まれ方を決定的に方向づけた。ユングはまず、この本が長年にわたって自分の思索の伴侶である。多くの着想と根本的な洞察を与えてくれたと率直に書いている。
そのうえで、西洋人に向けてかなり奇妙な指示を出す。この本は逆から読め、というのだ。理屈はこうだ。経典は死の瞬間から始まり、転生に向かって降りていく順序で書かれている。だが西洋の心理学は、いちばん低いところ、つまりシパ・バルドの領域から出発している。
性的な幻想と本能的な衝動、胎内への回帰。フロイトの精神分析は、本質的な部分でシパ・バルドの経験を出ることがなかった、とユングは断じる。だから西洋人は下から上へ、つまり本の順序とは逆にたどるほうが自然だ、と言う。次のチョエニ・バルドは、ユングにとっては集合的無意識そのものだった。人類に共通する元型的イメージが、意図的に誘発された精神病のような形で押し寄せてくる状態。
そして最後にチカエ・バルドがある。ここに至って初めて、心そのものの本性に触れる。同時にユングは強い警告も残している。西洋人は心的な出来事を「たかが主観だ」と切り捨てる悪癖があるが、心的事実は事実である、と。そして、東洋の技法を準備なしに真似するな、とも書いている。
基盤の不安定な人間がこの種の実践に踏み込めば、本物の精神病を引き起こしかねない、というのが彼の見立てだった。東洋思想の紹介者でありながら、安易な移植には最後まで慎重だった。この両義性がユングらしい。
学者たちの反撃 「あなたたちが読んでいるのは、チベットではない」
さて、いいことばかり書いてきたので、批判をきちんと並べておこう。最も鋭い批判はエヴァンス・ヴェンツ本人に向かう。ジョン・ミルディン・レイノルズは、エヴァンス・ヴェンツがそもそもチベット仏教に精通していなかったことを指摘している。そして彼の解釈が「根本的にチベット的でも仏教的でもなく、神智学的でありヴェーダーンタ的だった」ことも指摘している。
実際、彼の注釈にはヒンドゥー教由来の用語と神智学の枠組みが大量に流れ込んでいる。とくにゾクチェンの理解については、深刻な歪みがあるとされる。訳したのはダワ・サムドゥプなので、訳文自体には価値がある。問題は、その周りを分厚く取り囲んだ編者の解説のほうだった。もっと構造的な批判を展開したのがブライアン・クエヴァスだ。
彼は『チベット死者の書の隠された歴史』で、この本の西洋における名声が、チベット本国での位置づけとまったく釣り合っていないと論じた。チベットにおいてこれは数ある葬送儀礼文献のひとつであり、「チベット仏教の最重要経典」などでは断じてない。クエヴァスは初期写本の系統をたどり、成立の時期と場所と作者について実証的な見取り図を示した。彼の仕事の核心は、この本を永遠の叡智の書としてではない。
特定の時代の特定の社会が営んだ葬送実践の産物として位置づけ直すことにある。もうひとりがドナルド・ロペスだ。『シャングリラの囚人たち』で、彼は西洋がチベットに投影してきた幻想そのものを解剖してみせた。俗世を離れた神秘の高地、時間の止まった精神文明。そういうイメージは、実在するチベットではなく西洋の欲望の産物である、と。
ロペスはのちに『チベット死者の書 ある伝記』という本も書いた。この一冊のテキストが西洋でどう変形されていったかを、書物の一代記として追いかけた。彼の指摘のうち痛烈なのは、西洋で最も読まれたチベットの本が、チベット人自身にとってはさほど中心的でなかった、という捻れである。もっとも、これらの批判は「だからこの本は無価値だ」と言っているわけではない。
むしろ、幻想を取り除いたあとに残るテキストと文化のほうが、はるかに複雑で面白い、という主張だ。俺もそう思う。
亡命という現実の話をしないと、この本の話は片手落ちになる
『死者の書』が世界に広まった背景には、しんどい歴史がある。一九五九年、ダライ・ラマ十四世はインドへ亡命した。多数のチベット人がそれに続き、ヒマラヤを越えてインド、ネパール、ブータンへ渡った。ダラムサラに亡命政権が置かれ、南インドの各地に僧院が再建されたのだ。それまで高地の僧院の中で受け継がれてきた教えが、この移動によって、否応なく世界へ開かれることになる。
トゥルンパが英国に渡り、のちに北米で教団を築いたのもこの流れの中の出来事だ。ソギャル・リンポチェが西洋で『生と死の書』を書いたのも、同じ地殻変動の産物である。ダライ・ラマがサーマン訳に序文を寄せたのも、ラダックの村で撮影されたドキュメンタリーが世界中で観られたのも、すべて同じである。
ラダックやザンスカール、ネパール北部といった地域では、政治的な境界の外側でチベット仏教文化圏が続いてきた。そこが映像の取材地としてしばしば選ばれるのも、そのためだ。ここは丁寧に書きたいところなのだ。ただ、要するに、俺たちがいま日本語でこの経典を読めるのは、誰かにとっては故郷を失ったことの結果でもある。エキゾチックな見世物として消費するのは、たぶん一番よくない読み方だ。
あれは実在する人々が、いまも実際に自分の親族を送るときに使っている書物である。その手触りを忘れずにいたい。
で、なぜこの本はこんなにも人を掴んで離さないのか
最後に、この経典が持つ引力の正体を考えたい。理由の第一は、圧倒的な具体性だと思う。多くの宗教は死後について「安らかな場所へ行きます」くらいのことしか言わない。この本は違う。何日目に何色の光が出るか、その隣にどんな鈍い光が並ぶか、どんな音が鳴るか。
どういう順番で恐怖が来るか、そのとき何を思い出すべきか。それを日程表のレベルで書き切っている。
人間は未知そのものより、未知に手順がないことのほうを恐れる。手順書があるというだけで、恐怖は驚くほど軽くなる。第二に、この本は最後まで読者を見捨てない。第一のチャンスを逃しても第二がある。それも逃しても十四日ある。
十四日を全部落としても、まだ胎の選び方という手がある。理想の解脱が無理なら次善の転生を、それも無理ならせめて仏法の聞ける場所へ。目標を段階的に下げながら、絶対に「もう手遅れです」と言わない。この構造は、単純に優しい。第三に、「見えているものは全部あなたの心だ」という一点で全体が貫かれている。
ここが現代人にやたら刺さる。神も地獄も裁判官も外部にいないというなら、これは宗教というより認知の話になる。ユングがのめり込んだのも、リアリーが読み替えたのも、根っこはここにある。二〇二〇年代の研究者がSNSのアルゴリズムを忿怒尊に喩える論文を書いてしまうのも、同じだ。
実際、二〇二五年には、六つのバルドをデジタル空間上の自己の生成と崩壊に対応させる論考が学術誌に載っている。炎上と垢消しをチカエ・バルドに、レコメンドアルゴリズムをチョエニ・バルドの投影に見立てる論考だ。六百年前のテキストが、いまだに新しい読み替えを生み続けている。第四に、これは残される側の書物だからだ。四十九日、毎日決まった時刻に、決まった文言を、亡くなった人に向かって読む。
死んだ人に届いているかどうかは誰にも証明できない。でも、読んでいる人には確実に届いている。何もできない時間に、やるべきことが与えられる。悲嘆というのは、多くの場合「何もできなかった」という感覚の別名だ。この本はそこに、七週間ぶんの具体的な仕事を差し出す。
ホスピスの現場でこの経典が使われ続けている理由は、たぶん形而上学ではなく、この一点にある。
改めて全体を俯瞰すると、『バルド・トドゥル』というテキストの数奇さは、少なくとも三重の変換を経てきたところにあると思う。第一の変換は、チベット国内で起きた。八世紀のパドマサンバヴァに帰される教えが、六百年の空白を挟んで十四世紀のカルマ・リンパによって「発見」される。テルマという文化的な仕掛けを通して正統性を獲得した。この時点でこの本は、儀礼の現場で使われる実務書だった。
分厚い儀軌集の一部であり、懺悔や灌頂や遺体処理の手順に囲まれた、あくまで葬送のためのマニュアルである。チベット社会の中でこれは、突出した霊的傑作というより、必要だから使われる道具だった。第二の変換は一九二七年に起きた。ダワ・サムドゥプが訳する。エヴァンス・ヴェンツが神智学の枠を被せて出版した瞬間、この本は儀礼書から「死後世界の秘教的ガイドブック」へ変質した。
題名の付け替えがその変質を象徴している。そして第三の変換が二十世紀後半、ユングとリアリーによって完了する。舞台が死後から心の内部へ移り、バルドは死んでから行く場所ではなく、いま起きている意識の状態になった。トゥルンパ以降の訳者たちがこの解釈を実践者の側から追認したことで、変換は逆流不能になった。いま世界中の大半の読者が読んでいるのは、この三重変換の後の姿である。
ここで面白いのは、その変換を「劣化」と呼ぶのが必ずしも正しくない点だ。クエヴァスやロペスの仕事が示したのは、西洋が読んできたものが実在のチベットではないという事実である。それは学問的にきわめて重要な指摘である。だが同時に、変換されたバージョンは西洋のホスピス運動に流れ込んでいる。実際に人の死に立ち会う技法として現場で使われ、遺族の悲嘆を支えているという事実も動かない。
誤読から生まれた実践が、それでも人を助けているとき、その誤読をどう評価すべきかは簡単な問題ではない。テキストというのは本来そういうものかもしれない。書かれた場所を離れ、翻訳され、誤解され、時代ごとの必要に合わせて使い切られる。その過程でもとの姿とは違うものになりながら、それでも何かの役に立ってしまう。この本は、そういうテキストの生涯を一冊で体現している稀有な例だ。
もうひとつ深掘りしておきたいのは、この経典の「聞かせる」という構造そのものである。仏典は普通、読む人自身のために書かれている。ところがこの本は、読む人と受け取る人が完全に分離している。読むのは生きているラマや遺族で、受け取るのは死者だ。しかも死者が本当に受け取れているかは、原理的に検証不可能である。
にもかかわらず読誦は四十九日間続けられる。この検証不可能性こそが、実はこの儀礼の本質なのではないか、と思う。効果が測定できないからこそ、読む側は「足りているだろうか」と考え続け、通い続ける。祈りに効果測定を持ち込んだ瞬間に祈りが死ぬ、というのはよく言われる話だ。ただ、この経典はその原理をきわめて長期にわたる実務プログラムとして制度化している。
日本の四十九日、初七日から七七日までの中陰法要も同じ骨格を持っている。東アジアの仏教文化圏が独立に似た解を出しているのは示唆的だ。人間は、大切な誰かを失ったあと、何もしない七週間には耐えられないらしい。最後に、この本の描く恐怖の質について触れておきたい。忿怒尊のパートは血と炎と咆哮に満ちていて、字面だけ見れば完全にホラーである。
だが読者の感想を追っていくと、みんなが本当に怖がっているのは化け物ではない。「それはお前だ」と告げられることだった。ここに、この経典の思想的な鋭さがある。外に敵がいるなら戦うか逃げるかできる。だが恐怖の発生源が自分の内側であるなら、逃げ場は原理的に存在しない。
逃げ場がないと理解した瞬間だけ、人は「戦う/逃げる」以外の第三の態度、つまり「見る」に移行できる。経典が四十九日かけて教えようとしているのは、たぶんこの一点に尽きる。光を見ろ、恐れるな、それは汝自身だ。この三行を、姿を変えながら何十回も繰り返す。だからこの本は退屈なのだし、だからこの本は効くのだと思う。
読み終わったとき残るのは死後世界の地図ではなく、目の前の何かを幻と見抜く練習の記憶のほうだ。生きているうちに何度でも使える。そう思うと、原題の「聞くことによる解脱」という言葉が、ようやく素直に腑に落ちる。
