- 横浜のふつうの主婦が、いきなり「日本一有名な霊能者」になった話
- 右耳が聞こえない子と、落ちてきた火箸と、帰ってこなかった兄
- 「見えます」の前にある、あの三秒の沈黙が怖かった
- そもそも彼女はどこからテレビに出てきたのか
- ハンカチ一枚、腕時計ひとつ――持ち物を触るという発明
- たけしも、徹子も、アスリートも座った椅子
- 「ここは、入れません」――ロケの最強演出はこれだった
- 英語をペラペラ喋る霊能者という、当時の日本人には理解不能な生き物
- ロンドン塔で、たぶんネジが一本外れた
- 大槻義彦という宿敵と、届かなかった挑戦状
- 一斉に牙をむいた季節――検証キャンペーンという現象
- 一九九五年、地下鉄で何かが起きて、テレビの空気が変わった
- 静かな復帰と、二〇〇三年五月六日
- 証言その一・出版社の役員が見た「ふつうのおばさん」
- 証言その二・CMの間も、同じところを指して同じことを言う人
- 証言その三・茶の間の記憶と、忘れられない子どもたち
- 「宜保愛子だけはガチ」という、ネットの奇妙なコンセンサス
- 擁護論を、ちゃんと分解してみる
- 批判と反証も、同じ精度で分解してみる
- なぜ、あの時代の日本人はあんなに信じたのか
- なぜ、あの時代の日本人はあんなに叩いたのか
- 結局、彼女は何だったんだろう
横浜のふつうの主婦が、いきなり「日本一有名な霊能者」になった話
まずこの話のいちばん変なところから言わせてほしい。宜保愛子って、見た目がまったく霊能者っぽくなかったんだよ。白装束も着てないし、数珠をジャラジャラ言わせるわけでもない。カーディガンにブラウス、髪はきちんとセットして、口紅は控えめ。そのままスーパーの惣菜コーナーで大根の煮物を選んでいても誰も違和感を持たない、そういう人だった。
それがテレビカメラの前に座って、視聴者から送られてきた古びた写真をそっと手に取り、ちょっと目を細めて「あの、見えます」と言い出す。この落差が全部だったと言ってもいい。彼女は一九三二年一月五日、神奈川県横浜市に生まれた。亡くなったのは二〇〇三年五月六日、胃がんで、七十一歳。この七十一年のうち、日本中が彼女の顔を知っていた時期はせいぜい十数年しかない。
でもその十数年の濃さが尋常じゃなかった。特番の視聴率が二十パーセントを平気で超え、番組によっては三十五パーセントを記録したという話まで残っている。著書は四十冊前後、累計で数百万部という規模。今のテレビでこの数字を出せるコンテンツを探すほうが難しい。そして没後二十年以上たった今、YouTubeには当時の映像の切り抜きが延々と流れ続けている。
コメント欄では「この人だけは本物だった」「いや事前調査でしょ」という論争が、いまだに終わらずにぐるぐる回っている。生きている人間より死んだ人間のほうが議論を呼ぶって、なかなかない。今回はその全部を、順番に、なるべく生々しく追いかけていく。
右耳が聞こえない子と、落ちてきた火箸と、帰ってこなかった兄
ブームの話をする前に、彼女の子ども時代の話をしておきたい。ここを知らずに宜保愛子を語ると、たぶん半分も見えない。本人が生前に語ったところによれば、彼女は生まれつき右耳の聴力がほとんどなかったという。さらに四歳のころ、火箸が左目に落ちてくるという事故に遭い、視力を大きく損なった。片耳が聞こえず、片目がよく見えない子ども。
それが横浜の下町で暮らしていた。この身体条件を、あとで批判する側は「幻視を生む神経学的な素地だったのでは」と指摘することになるする。擁護する側は「だからこそ普通の人が使わない感覚が育ったんだ」と言う。同じ事実から真逆の結論が出る。この構図、実は彼女の人生ぜんぶに当てはまる。
そして六歳くらいのころ、自分には他の人に見えないものが見えていると自覚した、と彼女は語っている。ここでよくある英雄譚なら「家族は驚き、少女の才能を大切に育てた」となるところだが、現実はまるで逆だった。両親はこの手のことをまったく信じないタイプで、娘が見えないものの話をするたびに叱った。気味悪がられ、嘘つき扱いされ、黙るようになったのだ。ただ一人、兄だけが話を聞いてくれたという。
その兄は戦争で死んだ。弟のほうは車にはねられて亡くなっている。つまり彼女は、自分の能力を最初に否定されて、唯一の理解者を戦争に持っていかれた人間として大人になった。のちにテレビで彼女が相談者に向ける、あの独特のやわらかい声。「大丈夫ですよ、恨んでらっしゃいませんよ」という定型の慰め。
あれを聞くたびに、この生い立ちを思い出すと少し違って聞こえてくる。彼女がずっとほしかった言葉を、他人に配っていたようにも見えるんだ。
「見えます」の前にある、あの三秒の沈黙が怖かった
彼女の話芸について、ちゃんと言語化しておきたい。あれは芸だった。芸だからインチキだ、という意味じゃない。芸として異常によくできていた、という意味。まず声。
低くもなく高くもなく、抑揚がほとんどない。ワイドショーの司会者がテンション高く煽っても、彼女は同じトーンのまま話し続ける。この温度差だけで画面が締まる。次に間合い。写真や品物を受け取ると、彼女はすぐには喋らない。
手のひらで包むように持って、少し斜め上を見る。三秒か、長いときは五秒。スタジオが完全に静かになる。テレビでこの長さの沈黙を許されるのは相当な権威だけだ。そこに「あの」と入る。
この「あの」がまた絶妙で、断定じゃなくて、ためらいながら報告している感じが出る。そして「見えます」。ここが肝で、彼女は「〇〇の霊がいます」と最初から言い切らない。「男の方が見えます」「若い方ですね」「お腹のあたりを気にしていらっしゃる」と、輪郭のぼやけたところから少しずつ絞る。相談者が「あっ」と反応すると、そこから解像度が上がっていく。
批判する側はこれをコールドリーディングの典型だと言うする。擁護する側は「霊視ってそもそも輪郭から見えるものらしいよ」と言う。どっちの説明も、あの映像を見ると成立してしまう。それくらい話法が磨かれていた。あともうひとつ。
彼女は怖がらせにいかない。ホラー番組の霊能者役なら「危険です、今すぐ逃げて」とやりたくなるところだ。だが彼女は「悪いものじゃありません」「守ってくださってます」で終えることが本当に多かった。心霊番組を見て怖くなった視聴者が、最後にちょっと救われて眠れる。この設計が、彼女を長寿コンテンツにした。
そもそも彼女はどこからテレビに出てきたのか
ここ、意外とみんな曖昧なまま語っている。整理しておく。まず彼女がメディアに登場すること自体は一九六一年、昭和三十六年にさかのぼるとされる。テレビ出演をきっかけに評判が広まり、各地で講演をするようになった、という記録が残っている。ただしこれは全国区のブレイクではない。
あくまで一部で知られる存在という段階だ。全国の茶の間に彼女の顔を刻み込んだのは、日本テレビの『あなたの知らない世界』だ。放送作家の新倉イワオが作り上げた、夏休みの昼に子どもたちのトラウマを量産したあの番組。彼女は一九七〇年代半ばごろからここに出るようになる。再現ドラマがあって、視聴者投稿の心霊写真があって、スタジオで解説がある。
あの枠のなかで、彼女は「写真を触って語る人」というポジションを確立していった。さらにブームの助走として大きかったのが、女性週刊誌『女性自身』での有名人対談の連載だ。誌面で芸能人や著名人と向き合って、その人の背後や過去を語る。これが評判になって、テレビ側が「あの人をスタジオに呼べば数字になる」と気づいた。
そして一九八〇年代後半、ワイドショー、とくにお昼のワイドショーへの出演をきっかけに一気に大衆化する。一九九〇年代に入ると、彼女の名前がタイトルに入った特番が乱発される時代に突入した。年末年始やお盆に、彼女の顔がテレビ欄に何度も並ぶ。あの光景をリアルタイムで見ていた人は、あの過剰さを覚えていると思う。
ハンカチ一枚、腕時計ひとつ――持ち物を触るという発明
宜保愛子の鑑定スタイルで、いちばんテレビ向きだったのが「持ち物を触る」やつだ。専門的にはサイコメトリーと呼ばれる手法で、物に残った記憶を読むという建て付けになっている。やり方はシンプルだ。相談者が形見の腕時計とか、亡くなった親の万年筆とか、古い写真とかを持ってくる。彼女はそれを両手で包む。
目を閉じるか、視線を外す。それから「この方、水の近くにいらっしゃいましたね」「お仕事は手先を使うお仕事」「胸のあたりを患っていらっしゃった」と語り出す。相談者が涙ぐむ。スタジオがどよめく。CMに入る。
この一連の流れが完璧に番組フォーマットになっていた。これがなぜ強かったか。まず絵になる。霊なんてカメラに映らないけど、物を握る手はばっちり映る。次に、視聴者が自分の家の引き出しを思い出す。
うちにもばあちゃんの指輪あるな、と。参加感が生まれる。そして最後に、相談者の反応というリアクションが必ず取れる。演出上、これほど都合のいい形式はそうそうない。批判側の指摘もここに集中した。
持ち物を触る前に、番組スタッフや事務所が相談者の背景を調べていれば、いくらでも当てられるじゃないか、と。実際、物理学者の大槻義彦は後年、宜保愛子の側には家族を中心に構成された事務所がある。複数のスタッフによる事前調査が行われていたという趣旨の発言を残している。
一方で擁護側は、当時の制作現場のスピード感で全員分の身辺を調べ切るのは現実的じゃない、と反論する。放送作家や共演者の証言でも打ち合わせなしの本番が多かったと聞く、とも言う。この論争、実は今も決着していない。決着していないからこそ三十年語られている。
たけしも、徹子も、アスリートも座った椅子
芸能人鑑定の回は、彼女のキャリアのなかでもとくに語り草になっている。ビートたけしが彼女の前に座った回は有名だ。あの人はもともと超常現象に対して斜に構えているキャラクターで、テレビ的には最高の相手になる。茶化そうとする、でも話が進むにつれて口数が減る。この「あのたけしが黙った」という絵が視聴者に効いた。
黒柳徹子も彼女と向き合った一人で、こちらは逆に受け止める側の名手だから、対談として異様に濃くなる。当時のスポーツ界のスターだったカール・ルイスが彼女の霊視の場に居合わせたという話も残っている。要するに一九九〇年前後の彼女は、日本の有名人が一度は通過する場所になっていた。石橋貴明が彼女の番組で強烈な体験をした、という話もファンのあいだでは定番だ。
バラエティの人がガチで引いている絵というのは、心霊番組にとって最高の説得力になる。つまみ枝豆のように、後年になって自分が見てきた霊能者たちについて語り、そのなかで宜保愛子を別格扱いする芸能人も出てきた。逸見政孝や福澤朗といった局アナ勢が彼女の霊視の対象になった映像も切り抜きで残っている。その後の人生と照らし合わせて「あれは当たっていたのでは」と語られることがある。
ここは慎重に扱うべきところで、結果を知ってから過去の発言を意味づけしなおすのは、人間がいちばんやりがちな錯覚でもある。当たった話だけが残って外れた話は誰も覚えていない、という構造は常に頭に置いておきたい。それでも、当時のスタジオの空気は本物だった。演出だろうが何だろうが、画面の向こうで人が本気で息を呑んでいるかどうかは、視聴者にはなんとなく伝わる。
あの時代の彼女の回には、その伝わり方があった。
「ここは、入れません」――ロケの最強演出はこれだった
心霊スポットロケ。これが宜保愛子コンテンツの、もうひとつの主柱だ。普通の心霊ロケって、恐る恐る中に入って、物音がして、カメラがブレて、終わる。彼女のロケはそこが違った。彼女はしばしば、現場の前で足を止める。
そして「ここは、入れません」と言う。除霊しない。中に入らない。引き返す。これが視聴者に効いた。
だって、日本一の霊能者が入れないって言ってるんだから、そこはよっぽどなんだろう、と。何も起きないことが最大の演出になるという、逆説的な発明だった。彼女が入るのを断った、あるいは手に負えないと述べたとされる場所は、そのままネットの心霊スポット殿堂入りリストになっている。
山形の滝不動、福島の猪苗代にあった翁島のペンション廃墟、富山の坪野鉱泉、福岡の旧犬鳴トンネル、秋田の男鹿にあった廃ホテル、鳥取の静山荘。どれも今でも心霊スポット系のサイトで名前が挙がり続けている場所ばかりだ。しかもその紹介文には、ほぼ必ず「あの宜保愛子ですら」という枕詞がついている。彼女は自分が行かなかった場所にまで、名前を刻んでしまったわけだ。
なかでも別格扱いされているのが、島根県出雲市のかもめ荘だ。ここは彼女が除霊を試みたけれどうまくいかなかった、という話が定着している。ネット上では、そのときに何かを持ち帰ってしまったせいで彼女は病に倒れたのだ、という筋書きまで語られている。ここははっきり書いておきたい。彼女の死因として公にされているのは胃がんであって、心霊スポットの祟りが死因だという話には根拠がない。
ロケの話と病気の話を因果でつなぐのは、故人に対してもフェアじゃない。ただ、こういう物語が生まれてしまうこと自体が、彼女という存在の引力の強さを示している。
英語をペラペラ喋る霊能者という、当時の日本人には理解不能な生き物
彼女の海外ロケは、国内ロケとはまた別種の熱狂を生んだ。まず前提として、彼女はもともと英語の教師をしていた経歴があるとされ、英語がかなりできた。だから海外ロケで通訳を挟まないことがあった。超能力者として世界的に有名だったユリ・ゲラーと、通訳なしで直接会話したという逸話も残っている。一九九〇年前後の日本のテレビにおいて、これがどれだけ異様な絵だったか想像してほしい。
和服とまではいかないまでも、いかにも日本の中年女性という佇まいの人だ。その人が海外の古城の前で現地スタッフと英語でやり取りする。それから振り返って日本語で「見えます」と言う。この二重性が、彼女に妙な国際的権威をまとわせた。海外ロケの定番はエジプトだ。
ピラミッド、王家の谷、ミイラ。あのあたりは日本のオカルト番組にとって永遠の金脈で、彼女もそこに投入された。
古代の神官が見える、ここで儀式が行われていた、この人物は志半ばで亡くなっている、といった語り。考古学的な検証が難しい題材だから、結果として「反証もできないが証明もできない」領域に落ち着く。テレビ的には最高、検証的には最悪の組み合わせだった。ヨーロッパの城や修道院にも行った。地元の歴史家が「その通りだ」と驚く場面が編集で挿入されると、視聴者の信用度は跳ね上がる。
そしてこの海外ロケ路線が、彼女にとって最大の落とし穴を掘ることになる。ロンドン塔だ。
ロンドン塔で、たぶんネジが一本外れた
一九九三年十二月三十日、日本テレビで放送された『新たなる挑戦II』という番組で、彼女はイギリスのロンドン塔を訪れた。ここで語られた霊視の内容が、のちに検証派にとって最大の攻撃材料になる。彼女はブラディ・タワー、いわゆる血塔と呼ばれる建物の上階で、天蓋付きのベッドに座る二人の少年の姿を霊視したとされる。
ロンドン塔で幽閉されて消息を絶った王子といえば、イングランド史でも屈指の謎で、エドワード五世とその弟リチャードのことだ。日本人の霊能者がロンドンの現場でそれを言い当てた。放送当時、これはとんでもないインパクトだったと思う。ところが、あとから複数の指摘が出てくる。まず建築上の問題。
王子たちが生きていた当時、彼女が霊視をしたその階はまだ存在していなかったという指摘だ。後年になって増築された部分だ、と。次に文献上の問題。彼女が語った情景が、夏目漱石が明治期に書いた小説『倫敦塔』の描写とかなり重なるという指摘。さらにややこしいことに、漱石のその描写自体にも下敷きがある。
フランスの画家ドラローシュが描いた「塔の中の王子たち」という絵画のイメージだと見られている。
つまり、絵画があって、それを見た漱石の文章がある。そのイメージが彼女の霊視に出てきた、という筋道が描けてしまう。擁護する側にも言い分はある。塔の内部構造は改修と復元を繰り返していて、どの階がいつ存在したかを断定するのはそれほど単純じゃない。それに、幽霊が生前と同じ物理空間に固定されているという前提自体が、そもそも霊の世界の話としておかしいのでは、という反論もある。
イメージの一致にしても、多くの人間が共有する集合的なイメージに霊視がアクセスした結果だ、と説明する人もいる。どこまでいっても信念の話になるので、この論争は永久に終わらない。ただ、当時のメディアの空気としては、この一件はかなり決定的だった。「検証可能な題材に手を出した」という一点で、それまでふわっと守られていた領域から彼女が出てしまったからだ。相談者の亡くなった母親の話なら誰も検証できない。
でもロンドン塔の建築年代は図面が残っている。この差はでかい。
大槻義彦という宿敵と、届かなかった挑戦状
平成のオカルト史を語るなら、この人を外せない。早稲田大学の物理学者、大槻義彦。火の玉はプラズマだと言い続け、テレビでオカルト側と怒鳴り合っていたあの人だ。一九九三年、大槻は宜保愛子に対して事実上の挑戦状を突きつける。趣旨はこうだ。
有名人を霊視しても意味がない、事前に調べればわかることばかりだ。だから事前調査が不可能な、まったく無名の人物を霊視してほしい。あるいはルーブル美術館にある自分の好きな絵を当ててみてほしい。調査にかかる費用はこちらが全部持つ、と。条件としてはフェアに見えるし、実際、科学的検証としてはまっとうな設計だ。
彼女の側はこの挑戦に正面から乗らなかった。この沈黙が、結果的に大きな傷になる。世間というのは残酷なもので、「答えないのは答えられないからだろう」と受け取る。各方面からのバッシングが一気に強まった。もちろん、公開の場での能力テストに応じないことにはいくらでも理由がありうる。
芸能活動としてのリスク管理かもしれないし、事務所の判断かもしれないする。本人が単に検証という枠組みを嫌ったのかもしれない。実際、超常的な能力を主張する人が科学的テストを拒む例は世界中にある。それは必ずしも不誠実さの証明ではない。ただ、テレビ的な物語としては「逃げた」という絵に見えてしまった。
もうひとつ、大槻との関係でよく語られるトラブルがある。
彼女の著書のひとつに、大槻自身が行ったプラズマ実験の写真が「霊の写真」という説明つきで無断で掲載されていた、という話だ。これは科学者としてはかなり頭に来る話で、批判が激しくなるのも無理はない。ただし出版物の図版の扱いは編集や出版社の作業領域でもあるから、この件を彼女個人の意図と直結させるのは慎重であるべきだと思う。
そして興味深いのが、この宿敵だったはずの大槻が、彼女の死後に残したコメントだ。霊感商法のような露骨な金儲けを一切していなかった点は評価できる、という趣旨のことを述べている。徹底的に能力を否定した相手が、人間性は否定しなかった。この一言、彼女をめぐる評価の複雑さを全部圧縮している気がする。
一斉に牙をむいた季節――検証キャンペーンという現象
一九九三年から九四年にかけて、彼女への風向きが変わる。きっかけのひとつとして語られるのが、単行本の出版をめぐるトラブルだった。そこから女性誌が批判的な記事を出しはじめ、週刊誌がそれに続く。『週刊文春』をはじめとする週刊誌が検証記事を並べ、科学者がコメントを寄せた。過去の霊視の的中例を一件ずつ洗い直す、という流れができあがった。
日本の週刊誌ジャーナリズムのやり方として、一度ターゲットが決まると継続的に叩き続けるキャンペーン報道の形をとる。彼女もその形式に乗せられた。記事の論点は、だいたい三つに集約される。ひとつ、霊視の的中は事前調査で説明できるのではないか。ふたつ、ロンドン塔のように検証可能な題材で明確な矛盾が出ているのではないか。
みっつ、テレビ局と出版社と事務所が一体になってブームを作り、経済的な利益を得ている構造があるのではないか。どれも、報道として問うこと自体は正当な問いだ。一方で、当時から「叩き方が過剰だ」という声もあった。彼女の側は法廷闘争を繰り広げるでもなく、大々的な反論会見を開くでもなく、基本的には黙っていた。テレビの仕事は減っていったのだ。
周囲の証言によれば、彼女は批判に対して感情的に応酬するタイプではなかったらしい。この沈黙を「潔い」と見るか「答えられなかった」と見るかで、また評価が割れる。ここでひとつ、公平のために書いておきたい事実がある。立命館大学の安斎育郎のような、超常現象に批判的な立場の研究者でさえ、彼女について特徴的な点を指摘している。
彼女は先祖の供養を相談者本人に任せて、自分が引き受けて対価を取るということをしなかった、という点だ。ここが、いわゆる霊感商法との決定的な違いだった。深刻な金銭トラブルの中心人物にならなかったことが、結果的に彼女が長く支持され続けた理由でもある、という分析だ。批判する側からもこの点は認められている。ここは、彼女を語るときに絶対に落としてはいけない部分だと思う。
一九九五年、地下鉄で何かが起きて、テレビの空気が変わった
でも、彼女をテレビから遠ざけた最大の要因は、週刊誌でも大槻義彦でもなかったと思う。時代のほうが変わった。一九九五年。一月に阪神・淡路大震災があり、三月に地下鉄サリン事件が起きた。オウム真理教という、超常的なものを掲げた集団が現実に人を殺した。
この事件のあと、日本のメディアにおける「目に見えない力」の扱いは、根本から変わる。それまでは夏の風物詩で済んでいたものが、危険思想の入口かもしれないという疑いの目で見られるようになった。空中浮揚もヨガも霊視も超能力も、まとめて同じ棚に押し込まれ、棚ごと倉庫に運ばれた。放送する側の内部でも空気が変わったのだ。オカルト番組の企画が通りにくくなる。
通っても「これはあくまでエンターテインメントです」というエクスキューズが必要になった。子どもが真に受けたらどうする、という議論が真面目にされるようになった。心霊番組そのものが、業界内で扱いにくいジャンルになっていったのだ。こうして彼女は、およそ五年にわたってテレビの表舞台から離れる。
この期間の説明としては、週刊誌バッシングによる自主的な休業という見方もあれば、単に発注が来なくなったという身も蓋もない見方もある。おそらく両方だろう。ブームというのはいつも、需要側の事情で終わる。ひとつ確かなのは、この時期の日本のテレビには、もう彼女を置く場所がなかったということだ。
静かな復帰と、二〇〇三年五月六日
二〇〇一年ごろから、彼女はぽつぽつとテレビに戻ってくる。フジテレビの『力の限りゴーゴゴー!!』といったバラエティ枠での出演が記録に残っている。かつてのような、彼女の名前を冠した大型特番が並ぶ時代ではない。
バラエティのなかの一コーナー、懐かしい人が出てきた、という扱いだ。テレビ最後の出演も、この系列の特別版だったとされる。九〇年代の全盛期を知っている人からすると、この扱いの落差はけっこう切ない。でも映像を見ると、彼女のトーンは全盛期とあまり変わらない。相変わらず声は低く、間は長く、最後は「大丈夫ですよ」で終わる。
バッシングの時期をくぐり抜けたあとも、やっていることは同じだった。この一貫性を、支持者は誠実さの証拠だと言うし、批判者は芸が完成されすぎている証拠だと言う。ここでも評価は二つに割れる。二〇〇三年五月六日、胃がんのため死去。七十一歳。
本人の遺言により、葬儀は親族のみの密葬で営まれた。あれだけテレビに出続けた人が、最後は完全に静かに退場した。派手なお別れの会もなく、大々的な追悼特番もなかったのだ。ここについては、これ以上踏み込まない。彼女は最後に自分の意思で世間の視線を遮ったのだから、その判断は尊重されるべきだと思う。
証言その一・出版社の役員が見た「ふつうのおばさん」
ここからは、彼女に実際に会った人や、テレビの向こう側で見ていた人たちの証言を並べていく。これがいちばん面白い部分でもある。出版の仕事で彼女と何度も会ったという人物が、後年ブログに書き残している回想がある。あるとき彼女がその人の自宅を訪れる機会があった。というより、行く前に間取りを言い当てたという話だ。
あなたの家は南に面したところに風呂場が見えます、それも運気がいちばん入ってくる南東の向きです、と。本人としては、なんでそんなことがわかるんだという反応だったらしい。さらに強烈なのがそのあとで、彼女は「あなたのお身内で、若くして亡くなった方の霊が見えます。その方は火にまかれて亡くなっていますが」と言った。その人は思わず答えた。
父の姉が東京大空襲で焼死しています、と。この会話の場面は、読んでいるこっちの背筋も少しひやっとする。もちろん、東京大空襲で身内を失っている家は当時の東京近郊には無数にあったから、確率的に当たりやすい発言だという反論は成り立つ。ただ、その場にいた人間にとっては確率論なんて意味がない。目の前で自分の家族史を言われた、という体験だけが残る。
同じ人が書いている彼女の素顔がまた良くて、霊視をしていないときの彼女は完全に「普通のおばさん」だったという。あるレストランのステーキにフォアグラを載せたやつが大好物で、買い物が大好き。香港で数百万円単位の買い物をしてしまって、原稿料の前払いをちょくちょく頼んでいたらしい。神秘の人というより、羽振りのいい親戚のおばさんだ。この生活感が、逆に人物像として妙にリアルで、そしてなんだか憎めない。
証言その二・CMの間も、同じところを指して同じことを言う人
テレビの現場側の証言として、いちばん核心を突いていると思うのが、芸能リポーターの梨元勝が語ったとされる話だ。彼が言うには、彼女は放送の流れをちゃんと理解していた。たとえば収録や生放送でCMに入る。普通なら、そこで演者は一息つく。ところが彼女は、CM明けに戻ってきたときも、CMに入る前とまったく同じ場所を指して、まったく同じことを言ってくれる。
番組の作り手からすると、これは死ぬほどありがたい。編集がつながる。話が破綻しない。前後で内容がブレる出演者ほど扱いにくいものはないから、この安定感はプロフェッショナルそのものだ。この証言の面白いところは、擁護にも批判にも使えてしまうところだ。
批判側はこう読む。台本があって、言うことが決まっていたからブレなかったんだろう、と。擁護側はこう読む。本当に見えているから、時間が経っても同じものが同じ場所にあっただけだ、と。同じ一つのエピソードが、立場によって百八十度違う証拠になる。
宜保愛子をめぐる議論って、だいたい全部この形をしている。だからいつまでも終わらない。放送作家の新倉イワオが指摘していたとされる点も、この文脈で重要だ。視聴者に受け入れられたのは、彼女の能力の強さではない。普通のおばさん然とした温かみのほうだった、という見立て。
つまり、業界の中の人たちは、彼女を「よく当たる霊能者」としてではなく「視聴者を安心させられる稀有な出演者」として評価していた節がある。これはけっこう重い証言だと思う。
証言その三・茶の間の記憶と、忘れられない子どもたち
そして、圧倒的多数を占めるのが、ただの視聴者だった人たちの記憶だ。掲示板やコメント欄には、いまだにこの手の書き込みが積み上がり続けている。たとえば、当時の彼女の英語力に驚いたという声。海外ロケで通訳なしに現地の人と会話しているのを見て、この人はただのオカルト枠じゃないと思った、という感想はかなり多い。それから、自分にも見えるものがあった人の証言。
子どものころから変なものが見えていて誰にも言えなかった。ただ、テレビで彼女が言っていることが自分の見ていたものと同じだった。初めて自分は異常じゃないのかもしれないと思えた、という趣旨の書き込みは何度も現れる。これ、能力の真偽とはまったく別のところで、彼女が果たしていた社会的機能を示している。伝説化されたエピソードも多い。
有名なのが、韓国行きの飛行機に乗ろうとして、降りられないと言って拒んだという話だ。これはネット上ではしばしば「韓国嫌い」というレッテルとセットで語られている。正直あまり品のいい流通のされ方をしていない。伝聞の伝聞という段階のものが多く、事実関係の確認が難しい話でもある。こういう類のエピソードは、故人の名誉にも国と国の関係にも触れるものだから、面白がる前に一歩引いたほうがいい。
あと、近年になってやたら増えたのが「彼女は何年も前に世界中がマスクをする未来を予言していた」という類の話だ。感染症が流行した年以降にこの手の証言が急増したという事実そのものが、記憶の再構成というものの怖さを教えてくれる。それでも残るのは、あの独特の温度の記憶だ。夏休みの昼、冷房の効いた部屋で、宿題をほったらかしてテレビを見ていた子ども。
心霊写真が出てきて、怖くて枕を抱えた。でもチャンネルは変えなかった。最後に彼女が「悪いものではありません」と言うのを聞いて、なんとなくほっとして眠ったのだ。この体験を共有している世代が、今も何百万人といる。彼女の一番の遺産は、たぶんこれだ。
「宜保愛子だけはガチ」という、ネットの奇妙なコンセンサス
ここが現代のいちばん面白いところで、ネット上には妙な合意が形成されている。心霊やオカルトを鼻で笑う人たちが集まる場所ですら、彼女の名前が出ると空気がちょっと変わるのだ。匿名掲示板でよく見かける言い回しがある。この手のものは全部インチキだけど、あの人だけは何かあったと思う、というやつ。理屈で言えばおかしい。
他は全部インチキだと思うなら、彼女も同じカテゴリのはずだ。でもそうならない。なぜか。理由はいくつか挙げられている。まず、金の匂いが薄かったこと。
高額な壺も、法外な祈祷料も、信者組織も、彼女の周辺の主要な話題にはならなかった。批判的な研究者からもこの点は認められている。次に、脅さなかったこと。あなたは呪われている、除霊しないと大変なことになる、という商売の常套句を彼女は使わなかった。むしろ「大丈夫」と言い続けた。
三つ目に、映像が残っていること。これが現代における最大の強みになった。江戸時代の霊能者は語り継がれるしかないけど、彼女はテープに残っている。YouTubeで当時の映像が見られる。しかも今見ると、当時のテレビの空気の粗さも含めて、なんとも言えない生々しさがある。
切り抜き動画のコメント欄では、リアルタイム世代が「これ見て夜眠れなくなった」と書く。若い世代は「この人怖くないのに怖い」と書く。両者が混ざって独特の場ができている。さらに近年は、彼女の名前を借りた予言系のコンテンツが大量に生産されている。彼女が何年に何を予言していた、という体裁の動画がアルゴリズムに乗って再生数を稼ぐ。
中身の出典はたいてい曖昧だ。
故人は反論できないので、名前が勝手に運用されていく。これはネットに残された有名人の宿命でもあって、正直、あまり気持ちのいい現象ではない。彼女本人が言っていないことが、彼女の名前で流通していく。この点は、彼女を面白がる側も少し自覚しておいたほうがいいと思う。
擁護論を、ちゃんと分解してみる
さて、フェアにやろう。擁護側の主張を、なるべくちゃんとした形で並べてみる。第一に、金銭的な清廉さ。これは前にも書いたが、最大の擁護材料だ。霊能者への疑いの大部分は「弱った人から金を取る」という一点に集中している。
彼女はそこを踏まなかった。先祖供養は相談者本人がやりなさいと言い、自分が代行して料金を取ることをしなかった。テレビ出演料と印税で生計を立てるスタイルだったから、いわば芸能人としての稼ぎ方だったのだ。批判者側からもこの点は評価されている。第二に、態度の一貫性。
全盛期にも凋落期にも、彼女は言うことを変えなかった。売れるために話を盛るなら、バッシングが強まった時期に路線変更したり、大々的な反論をして話題を作ったりする手もあった。やらなかったのだ。派手な弟子集団を作って組織化することもしなかった。第三に、体験者の証言の厚み。
事前調査説では説明しにくい種類のエピソードが一定数ある。番組と関係ない場での発言、初対面の相手への言及、その場の思いつきでは出てこない具体性。もちろん体験談は記憶違いや後付けの影響を強く受けるので、そのまま証拠にはできない。それでも、量が多いこと自体は無視できない事実ではある。第四に、擁護のなかでいちばん誠実だと思う論法。
彼女が超常的な力を持っていたかどうかとは無関係に、彼女は多くの人の痛みを実際に軽くした、という論だ。亡くした家族が苦しんでいないと言われて救われた人。自分だけが変なのではないと知って楽になった人。この効果は、霊が実在するかどうかとは独立に存在する。カウンセリングやグリーフケアの機能を、当時の日本社会は制度としてほとんど持っていなかった。
その空白を、彼女がテレビ越しに埋めていた側面はたしかにある。
批判と反証も、同じ精度で分解してみる
では逆側も、同じ精度でやる。第一に、事前調査の可能性。これは最も現実的で、最も反論しにくい指摘だ。事務所に複数のスタッフがいて、そこで調査が行われていたという証言が残っている。テレビの企画である以上、相談者の背景を制作側が把握しているのは当然でもある。
となると、本番で語られた内容のうちどこからどこまでが「霊視」なのか、原理的に切り分けられない。この切り分け不能性が、検証を不可能にしてしまっている。第二に、コールドリーディングとして説明可能な話法の構造。曖昧な言葉から始めて相手の反応で絞る、誰にでも当てはまることを個人的に響く言い方で述べる、外れた部分は流して当たった部分を深掘りする。
彼女の映像を分析すると、この技法の教科書的な要素がかなり見つかる、というのが批判側の主張だ。ただし公平のために言えば、これは意図的な詐術とは限らない。本人が本気で見えていると信じていても、話法は同じ形になりうる。第三に、検証可能な事例での矛盾。ロンドン塔の階の問題、漱石の小説との一致。
ここは「解釈次第」で逃げるには少し苦しい。少なくとも、あの霊視が独立した情報源へのアクセスによるものだと証明することはできなくなった。第四に、検証の場に出なかったこと。大槻の提案した条件は、成立すれば彼女にとって圧倒的に有利な結果になり得るものでもあった。無名の人物を当てて見せれば、批判は一発で吹き飛ぶ。
それをしなかった以上、批判が残るのは仕方がない部分がある。第五に、心霊写真の鑑定という営みそのものの問題。人間の脳は、点が三つ並んでいるだけで顔を認識してしまう。シミュラクラ現象と呼ばれるあれだ。当時鑑定された写真の相当数が、フィルムの傷や光の反射やこの錯覚で説明できるというのは、今となってはほぼ常識になっている。
ここで大事なのは、これらの批判が成立したとしても、それは「彼女が犯罪者だった」という話にはまったくならないということだ。能力の証明ができないことと、悪意があったことは、まったく別の問題だ。批判した当の科学者本人が、彼女の人間性は否定しなかった。この区別だけは、雑に扱ってはいけないと思う。
なぜ、あの時代の日本人はあんなに信じたのか
ここからは分析パートに入る。まず、なぜ受け入れられたのか。一つ目は、単純にテレビの力だ。八〇年代後半から九〇年代前半の日本は、テレビが情報の中心にあった最後の時代だ。チャンネルは限られ、みんなが同じ番組を見て、翌日学校や職場でその話をした。
そこに繰り返し出てくる人物は、それだけで信頼される。今のように、見た瞬間に検索して裏を取れる環境ではない。テレビが言ったことは、しばらくのあいだ疑われないまま社会を漂った。二つ目は、社会の空気だ。バブルとその崩壊。
地価も株価も人生設計も、常識だと思っていたものが次々にひっくり返っていく時期だった。合理性がうまく機能しないと感じたとき、人は合理の外側に目を向ける。ノストラダムスの予言が本気で語られ、超能力番組が乱立し、新しい宗教が若者を集めた。あの熱の総量のなかで、彼女は最も穏当で、最も安全に見える窓口だった。三つ目は、死者の扱いをめぐる空白。
戦争の記憶を持つ世代がまだ現役で、家族を空襲や戦地で失った人が普通にいた。仏壇はあるけれど、死んだ人と話す方法は誰も知らない。寺は葬式のための機関になっていた。そこに、亡くなった人はあなたを恨んでいないと言ってくれる人が現れた。需要が先にあったんだ。
彼女はその需要のかたちに、たまたまぴったりはまった。四つ目は、彼女個人のキャラクター設計。宗教の教祖にならなかったこと、白装束を着なかったこと、脅さなかったこと、笑うこと。神秘を語る人が生活感を持っていると、人は警戒を解く。これは戦略だったのか天然だったのかわからない。
たぶん半分ずつだ。
なぜ、あの時代の日本人はあんなに叩いたのか
そして、なぜ叩かれたのか。ここも同じくらい構造的な話だ。一つ目は、露出過多の反動。単純にテレビに出すぎた。同じ人が特番の主役として何度も出てくれば、飽きるし、疑いも湧く。
日本のメディアには、持ち上げたものを一定期間後に落とすという習性がある。上げるほうと落とすほうが同じ業界というのは、今も昔も変わらない。二つ目は、検証可能な領域に踏み出したこと。相談者の家庭の話をしているうちは安全地帯にいられた。歴史的建造物という、資料が存在する対象に触れた瞬間、彼女は反証可能な世界に足を踏み入れた。
これは能力の有無以前に、リスク管理の失敗だったとも言える。三つ目は、科学の側の危機感。八〇年代から九〇年代にかけて、超常現象を扱う番組が「これは事実です」という体裁で放送されることが常態化していた。科学教育に関わる人たちからすると、これは笑って見過ごせる話ではなかった。
大槻義彦の一連の行動は、個人的な敵意というより、テレビが疑似科学を無検証で流し続けることへの抗議だったと理解するのが妥当だと思う。四つ目、そして決定打が、オウム真理教事件だ。目に見えない力を信じることが、実際に人を殺す組織につながった。この衝撃は、日本社会のオカルトに対する寛容さを一気に消し飛ばした。彼女はその事件と何の関係もない。
それでも同じ棚に置かれていたというだけで、棚ごと片付けられた。彼女個人の問題ではなく、時代がジャンルごと退場させたというのが実際のところだろう。
結局、彼女は何だったんだろう
三十年たった今、この問いに一つの答えを出すのは無理だ。無理だけど、いくつか確実に言えることはある。彼女は、日本のテレビが霊能というものを扱った時代の、最大にして最後の象徴だった。彼女以降、あれほどの規模で霊能者を主役にした番組は作られていない。江原啓之のように後続はいたけれど、社会の受け止め方はもう別物になっていた。
彼女は、テレビが視聴者と一緒に「かもしれない」を信じられた最後の時代を生きた人だった。彼女は、金銭的な搾取の構造を作らなかったのだ。ここは何度でも繰り返す価値がある。批判者からさえ認められたこの一点が、彼女の名前を今も生き延びさせている。そして彼女は、能力の真偽とは別のレイヤーで、無数の人の記憶に残った。
夏の午後の、あの声。長い沈黙のあとの「見えます」。そして最後の「大丈夫ですよ」。この記憶が消えるまで、たぶんこの論争は終わらない。それでいいんじゃないかとも思う。
答えの出ない話を、みんなでずっと持ち回りで語り続ける。オカルトの本来の楽しみ方って、そういうものだったはずだから。
ここまで書いてきて、あらためて引っかかっていることがある。宜保愛子という現象を「信じるか信じないか」の軸だけで語ろうとすると、たぶん本質を取り逃がすということだ。彼女の映像を今の目で見返すと、そこに映っているのは超常現象というより、当時の日本社会そのものだ。
カメラが向いているのは彼女の手である。なのにフレームの外側に映り込んでいるのは、経済が壊れかけた国だった。そして戦争の記憶を抱えたまま高齢化していく人々と、死者との付き合い方を制度として持っていなかった社会だった。そう考えると、彼女はメディアが生んだスターであると同時に、社会の欠落が呼び寄せた人材でもある。誰かがあの席に座らなければならなかった。
たまたま座ったのが、横浜のあの主婦だった。
もうひとつ深掘りしておきたいのが、検証という営みの限界についてだ。批判側の指摘はどれも筋が通っている。事前調査の可能性、話法の構造、歴史的建造物との矛盾。だがここには非対称な罠がある。彼女が本当に何かを見ていた場合でも、見ていなかった場合でも、外から観察されるふるまいはほとんど変わらないのだ。
当たれば「調べたんだろう」と言われ、外れれば「やっぱり」と言われる。この非対称性のなかでは、どんな結果が出ても検証にならない。だから科学の側は「反証可能な形で検証させろ」と要求したし、それは正しい要求だった。同時に、その要求に応じない自由もまた存在する。ここで彼女が沈黙を選んだことは、彼女の人生でおそらく最も評価が割れる判断だったする。
同時に最も人間くさい判断でもあった。六十歳を過ぎた女性が、国中の視線を浴びながら、公開実験の場に一人で立たされる。それを断ったことを、僕は責める気にはなれない。責めない代わりに、能力が証明されなかったという事実は事実として置いておく。この二つは両立する。
さらに考えたいのが、彼女の話法の「優しさ」がどこから来ていたのかという問題だ。心霊コンテンツの基本文法は恐怖の増幅にある。怖いほど数字が取れる。にもかかわらず彼女は、番組の最後をほぼ必ず安心で締めた。悪いものではありません、恨んでいらっしゃいません、守ってくださっています。
これはビジネスとしては非効率にすら見える。だが彼女は貫いた。ここに、片耳が聞こえず片目が不自由で、能力を親に否定される。唯一の理解者だった兄を戦争で失った少女の輪郭が、うっすら重なって見える気がしてしまう。もちろんこれは僕の推測にすぎない。
ただ、彼女が配り続けた「大丈夫」という言葉は、テレビ的な計算だけでは説明しきれない粘り強さを持っていた。それだけは映像から伝わってくる。そして最後に、現代の僕たちの側の問題を書いておきたい。今、彼女の名前は本人の手を完全に離れて流通している。予言を語ったという体裁の動画、心霊スポットの祟りで死んだという筋書き、特定の国を嫌っていたという伝聞。
どれも出所が曖昧なまま、故人の名前だけを担保に拡散している。死んだ人は否定できない。だから何でも背負わされる。これは彼女を信じている人にとっても、疑っている人にとっても、等しく不誠実な状況だと思う。彼女を面白がることと、彼女の名を勝手に使うことは違う。
祟りで死んだのではなく、胃がんで亡くなった。予言したかどうかは、本人の発言記録に当たれないかぎり誰にもわからない。この線を引き直すことが、いま彼女について書く人間の最低限の仕事なんじゃないか。結局のところ、宜保愛子をめぐる三十年の論争は、彼女についての論争だ。それは同時に、僕たちが「わからないもの」とどう付き合うかについての論争でもある。
全部を科学で切り捨てれば、人が死者について語る場所がなくなる。全部を無検証で受け入れれば、次のオウムが来る。この二つの崖のあいだの、細い尾根道を歩くしかない。彼女はその尾根道の上に、たしかに一度立った人だった。テレビというもっとも大衆的な装置の上で、もっとも私的な悲しみを扱い、脅さず、儲けすぎず、そして自分の能力を証明しないまま去っていった。
本物だったのかどうか。その問いに答えは出ないし、たぶん出ないほうがいい。答えが出た瞬間に、あの夏の午後の、長い沈黙のあとの声の記憶が、ただの正解か不正解に変わってしまうから。あの気持ち悪くて、少し怖くて、最後にちょっとだけ救われる感じ。あれを丸ごと抱えたまま語り続けるのが、この人にいちばんふさわしい扱い方な気がしている。
