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百万遍の大数珠繰りのやり方、輪の組み方と親玉の押しいただき方から辻への送り出しまで

京都の百萬遍知恩寺では、毎月十五日の午後、大殿の法要に続けて大念珠が回される。集まった人が一本の数珠を手に取り、南無阿弥陀仏と唱えながら隣へ送っていく。寺の案内では、その念珠は五百四十顆としている。

十五日の朝に知恩寺の正面玄関で受け付ける

知恩寺の大念珠繰りに入るなら、日取りは毎月十五日。八月だけは二十五日にずれる。寺は写経会と大念珠繰りを一つの案内にまとめていて、受付は午前九時半から十二時半まで、正面玄関で当日に受けている。事前の申し込みは要らない。

一日の流れはこうなっていた。十時五十分に写経会の法要、そのあと写経をして、十一時半から法話、十二時半に食事。十三時十五分に大殿法要が始まって、その中で大念珠繰りをし、十四時の一口説法のあと十四時十五分に終わる。

写経会の費用は写経と食事で千五百円、写経だけなら千円で、回向を頼むなら一霊につき千円の回向料がかかる。写経用紙と筆と墨汁は寺で用意してあり、使い慣れた筆があれば持ってきてもいいと書いてある。大念珠繰りだけに加わる場合の決まりは、案内には出ていなかった。

案内の時刻どおりなら、大念珠繰りに入るには十三時十五分の大殿法要より前に堂へ上がっておくことになる。写経から通すなら、午前の受付のうちに正面玄関で申し出て、法話と昼の食事まで寺で過ごす一日がかりの参加だ。

堂に上がったら、空いているところで輪に加わる。流れてきた珠を両手で受け、南無阿弥陀仏と唱えながら隣へ送ればいい。京都の観光案内では、親玉が回ってくるたびに撫でたり頭に掲げたりする人の姿が紹介されていた。同じ十五日は境内で手づくり市も開かれる日だ。

大念佛寺は説教を聞いてから本堂で数珠を繰る

大阪平野の大念佛寺、融通念佛宗の総本山は、一月、五月、九月の十六日に百万遍の大数珠繰りをする。寺はこの三つの月を三斎月と呼んでいる。場所は本堂で、午後一時からお説教、一時半から数珠繰りに移る。参加は無料で、申し込みの手続きは案内に書かれていなかった。

ここの大数珠は、成珠が直径七・五センチの球で、その数は千百五十三個。母珠は直径十五センチの球で中に金銅の阿弥陀仏を納め、珠の一つ一つには南無阿弥陀仏と刻んであった。

これだけの重さになると手だけでは回らない。本堂の四隅に滑車を取りつけ、それを回して動きを助けている。参詣者は念仏を唱えながら、その大数珠を繰っていく。

終わったあとがこの寺の大事なところ。本堂外陣の正面で、管長が参詣者一人一人に身体堅固のお加持をする。そのあと百万遍のお札が授けられ、参った人はそれを家へ持ち帰った。

清岸寺の吊り数珠は十人で百回まわす

東京渋谷区幡ヶ谷の清岸寺は、本堂の前に百万遍の吊り大数珠を掛けている。浄土宗の辞典によると、知恩院の第五十六世教意は天井から大念珠を吊るし、独自のやり方で百万遍を修したという。吊るして回す形は、その伝えと同じになる。

寺の案内では、千八十顆の大念珠を十人で繰るのが略法の形。一顆を送るごとに念仏を一回唱えて大念珠を百回まわすと、一人がおよそ十万回、十人の声を合わせて総計百万回になる勘定だ。

参拝のついでに触れるだけなら、数は気にしなくていい。寺は、吊り大数珠の前で「なむあみだぶ」と称えながら、ゆっくり手前に手繰って回すよう案内していた。気楽でいい。

大数珠と鉦と数取りの道具をそろえる

村や町内でやるなら、要るのはまず大数珠そのもの。浄土宗の辞典は、百万遍に使う大数珠には千八十顆、五百四十顆、百八顆のものがあるとしている。どれも経にある百八の倍数になっている。

大きさは土地でまるで違う。神奈川県山北町の世附の数珠は長さ九メートルで、珠が三百二個。地元で水桃木と呼ぶサルナシや藤で作ってある。広島の多聞寺は珠が四百八十六個、輪にすると直径八メートルになる。

鳥取市河原町今在家の観音堂の数珠は輪にして径三メートルくらいで、一つ一つの珠は平たく径が四センチほど。群馬県桐生市菱町の地蔵盆では、桐材の大きな母珠をたくさん入れた念珠を使っていた。

拍子を取る鳴り物も用意する。浄土宗の辞典が書く基本の形では、一人が鐘を打ちながら念仏を称え、十人の集衆が一緒に唱えて回す。桐生の皆沢や菱町は鉦と太鼓、世附は大太鼓だった。

数を取る道具もあると迷わない。数は案外すぐ飛ぶ。今在家ではマッチ棒を三十三本、秋田県鹿角市の三ツ矢沢では皿に入れた豆を使っていた。世附では数取りと呼ぶ古老が、数珠の回った数を数える役についている。

道具をまとめてしまう箱に、数取りを組み込んだ例もある。足立区の大谷田村上ズシ集落の念仏講が使った道具箱には、安政五年銘の大数珠と鉦、撞木が二本入っていた。箱の中蓋には、念仏の回数を数える札が組み込まれている。

輪になって座り、数珠を両手で膝に載せる

座り方は、みんなで丸く輪を作る。ここはどの記録もそろっている。調布市の文化財の頁も同じだった。人々が円陣を組んで座り、大きな数珠を送りながら念仏を唱えて疫病退散などを祈るのが百万遍だ、と説明している。今在家では子どもから年寄りまで二十人ほどが観音堂の中で丸く座り、数珠を両手で膝の上に持った。

多聞寺は屋外だ。境内のたき火を真ん中にして輪になって座り、そこで数珠を回した。東京足立区鹿浜の押部阿弥陀院では、直径四、五メートルの数珠を十数人で囲み、持ち上げたまま回していく。

滑車を使う土地では、座らずに立って扱う。世附では大数珠を巨大な滑車に取りつけ、その滑車を梯子のような枠にかけて、そばに大太鼓を並べた。数珠を回転させるこの行法は、全国でも珍しいという。

世附の回し方は荒っぽい。高さ二メートルほどの滑車にかけた数珠を、若者たちが床へ投げつけるようにして回す。直径五センチの珠が三百二個つながっているので、床を打つたびに長い蛇のようにうねって音が響くと地元の情報誌は書いていた。保存会の人が交代しながら回し続ける。

願うのは先祖の霊を慰めることと、地域の安全と悪疫退散だと記事は伝えていた。力仕事だ。神奈川新聞の記事は、後ろへ放り投げるようにして数珠を回し始める様子を伝えている。

輪の真ん中に人を置く土地もある。今在家では中央に座った人がマッチ棒で回数を数え、鹿角の三ツ矢沢では真ん中に立つ女性が鉦を叩いて拍子を取った。三ツ矢沢の普段の輪は女性だけのお祭りで、参加できる女性は全員が加わるそうだ。真ん中で鉦を打つ一人と、周りで数珠を送る大勢。役はこの二つに分かれる。

回す向きはその土地の決まりに合わせる

回す向きは、土地によって逆になる。ここ、けっこう迷うところだ。今在家は時計回りで、福島県金山町の中川は反時計回り。当たった記録の中に、どちらが正しいと書いたものは無かった。

土地に決まりがあるなら、そちらに合わせる。向きの意味を説明した記録も、今回は見つからなかった。

送る手の動きは単純。難しくはない。流れてきた珠を両手で受け、自分の前を通して反対の隣へ渡すだけだ。清岸寺の案内どおりなら、一顆を送るたびに一声をのせる。

鉦の拍子に合わせて六字の名号を唱える

唱えるのは南無阿弥陀仏の六字。原文は「南無阿弥陀仏」、読みは「なむあみだぶつ」で、ざっくり言えば阿弥陀仏に身をゆだねます、という意味になる。

輪になると、ぐっと縮めて唱える土地が多い。今在家では全員で「ナンマイダー」と唱え、金山町では「ナンマイダーッ、ナンマイダーッ」と語尾を切った。押部は「ナムアミダーブツ」と伸ばし、皆沢と菱町は「ナムアミダブツ」だった。まあ、土地の節回しに乗ってしまえばいい。

声の高さまで決めている土地もある。世附の念仏には平音、中音、高音の三つの音がある。指揮者が白の指揮棒を差し出すと平音、色紙の幣なら中音、白い幣なら高音で唱える決まりだった。

導師の読経に合わせて繰る形もある。多聞寺では七、八十人が数珠を抱え、住職の唱えるお経に合わせて回した。三十分で次の組へ交代し、読経と数珠繰りが途切れずに続く。正月三日のその日は、着飾った参拝客が次々と境内へ入ってくるという。

鹿角の三ツ矢沢で唱えるのはご祈祷念仏と呼ぶ文句で、昭和初めに生まれた人たちは極土念仏とも呼ぶ。秋田県のサイトに出ている出だしは「なのかの ほとけの おんために」で、七日の仏のために、という意味になる。そこから日付のところを一日から三十一日まで変えて唱えていく。全文は公開されていないので、ここには書かない。

親玉が前に来たら押しいただく

大数珠には、ほかより一回り大きな珠が入っている。親玉、大玉、母珠などと呼ぶ。今在家の数珠では、結び目のところと、その反対側のあたりに大きな珠があった。一周で二回来る。

この珠が自分の前に来たときの所作が、土地ごとに決まっている。今在家では押しいただくのが決まりのようだと、鳥取県のコラムは書いていた。両手で持ったまま額のあたりへ上げ、軽く頭を下げる動きになる。

金山町の中川では、大玉が回ってきたら頭上にかざすように持ち上げた。知恩寺では撫でる人も、頭に掲げる人もいる。大念佛寺の母珠は中に阿弥陀仏を納めた珠なので、前を通るたびに仏を迎えて送る格好だ。

静岡市の有東木では、東雲寺の本堂で村人が車座になって回す。大きな珠が自分の前に来たら、おでこに当てて拝むと市は説明している。唱える文句も独特で、「ナーブツ、ナーブツ、ナンマイダ、ナンマイダ」だ。回すのは小正月とお盆の年二回になる。

京都の町内の地蔵盆では、大きな房のところが自分の前に回ってきたら一礼する。これを忘れてはいけないと、京都市の無形文化遺産の頁は念を押していた。目印が来たら頭を下げる。

三十三回か三回か、終える周回を先に決める

百万遍と言っても、本当に百万回唱えるとは限らない。浄土宗の辞典も、実際には百万回に届いていなくても行うし、回数を厳しく問わないこともあると書いている。

数え方は土地の決まりしだい。押部阿弥陀院では、一回まわすと一万回分の念仏に数えている。百回まわすわけじゃない。清岸寺は十人で百回まわして百万回とする数え方だった。

終える周回もばらばらだ。今在家では数珠を三十三回まわす決まりで、中央の人が結び目の一周ごとにマッチ棒を一本動かした。三十三周でおよそ三十分かかったという。一周一分弱の速さ。金山町の中川は、大玉を頭上にかざす流れを三回くり返して終えた。

輪を始める前に、数を取る役を一人決めておく。今在家のマッチ棒か鹿角の豆の皿のように、一周ごとに一つ動かす形なら数を見失わない。三ツ矢沢の記録には、だんだん数が分からなくなるので豆で確かめると書かれていた。

彼岸か盆明けか正月か、回す日を選ぶ

浄土宗の辞典は、百万遍を唱える機会として通夜、葬儀、中陰、年忌、彼岸を挙げている。虫送りや雨乞いの念仏としても唱えるという。足立区の博物館は、葬式の死者供養、雨乞いの祈祷、お祓いの目的で行うと説明していた。

今在家は春と秋の彼岸に回していて、鳥取県のコラムが書いた回は彼岸の中日にあたる三月二十日だった。鹿角の三ツ矢沢も春彼岸と秋彼岸の年二回になる。

夏に回す土地もある。皆沢は盆が明けた八月十七日の午前中、菱町の地蔵盆百万遍は八月の夕方から始めた。

冬から春先に回すところも多い。寒い時期だ。多聞寺は正月三日で、着飾った参拝客が境内に集まり、毘沙門天にその年の無病息災を祈る。金山町の中川は二月八日の夕方から回す。

世附はもとは二月十五日から十七日で、いまは向原へ移った能安寺で二月中旬の土日にしている。二〇一九年の案内では、初日が午後一時から念仏、二時から神楽。二日目は午前十時と午後一時から念仏、二時から神楽、三時半からカガリだった。

押部阿弥陀院は五月二十八日に近い日曜。二〇二六年は五月二十四日が予定日で、午後三時から本堂で法要をしてから境内で数珠を回す。見に来た人も輪に加われる。区の無形民俗文化財で、押部文化保存会はやし連がお囃子を奉納する日でもある。

時刻まで確かめられたのは、知恩寺の十三時十五分の大殿法要、大念佛寺の午後一時半、押部の午後三時の法要のあとだ。皆沢は午前中、金山と菱町は夕方になる。夜明け前や夜更けに回すと書いた記録は見当たらなかった。

地蔵盆の夜に子どもと大人で数珠を囲む

町内の行事として回すなら、地蔵盆の形がいちばん身近かもしれない。浄土宗の辞典は、念仏講の人たちが通夜や地蔵盆のときに百万遍の数珠を使う地域があると書いている。京都の町内の地蔵盆でも、大きな数珠を回す。京都市は数珠まわしを、百万遍念仏の一種として紹介している。

やり方はこうだ。輪の主役は子どもだ。子どもたちが直径二、三メートルの大きな数珠を囲んで座り、大人もその輪に加わる。僧侶の読経に合わせ、念仏を唱えながら順々に回していく。

長さは三から五メートルほど、と市の別の頁は書く。数字が合わない。回す数は人の煩悩の数と同じ百八回だと京都市の頁は書いている。京都の新聞には、各町内で読経に合わせて大きな数珠を百回まわす、とした記事もあった。大きな房が前に来たら一礼する決まりは、先に書いたとおりだ。

桐生市菱町の地蔵盆百万遍は、雰囲気がまるで違う。夕方になってから北泉会の共同墓地で始まり、墓地には裸のろうそくが数えきれないほど灯される。その中で鉦と太鼓に合わせてナムアミダブツと唱え、念珠を繰りまわした。江戸時代の後期の年号を刻んだ母珠があったという。

葬式の夜に仏壇の前で回す

人が亡くなったときに回す土地もある。鹿角の三ツ矢沢では、葬儀の終わった夜に仏壇の前で数珠まわしをした。

このときは普段と違って、男も女も輪に入る。下新田では、そのあと初七日から五七日までのあいだに何回か回すという。浄土宗の辞典が百万遍の機会に挙げる通夜や中陰と、ちょうど重なる。

田の虫を送る年は円陣で繰ってから畦を回る

愛媛県の生涯学習の資料『えひめの記憶』にも、百万遍の記録がある。組の者が寺や堂に集まり、大数珠を繰りながら百万遍の念仏を唱える形だ。資料はこれを虫送りの行事と並べて書いている。

周桑郡小松町の新屋敷では、村じゅうが寺に集まって円陣を作り、大数珠を繰った。そのあと少年たちが鉦を叩きながら行列を組み、田の畦を回っていく。寺の円陣と畦の行列が、一続きの行事になっている。

同じ郡の丹原町田野では、土用のうちに寺や庵へこもった。賄い番が米や銭を集め、大きなきな粉むすびを用意して神酒を供え、僧侶に祈祷を頼む。大人が酒宴を開いて相談するあいだに、子どもたちが虫送りをしたという。唱え言葉には「ナンマイダー」の連呼のほか、「稲の虫、つくな」なども記録されている。

家々に上がって家族と輪になる

町内や集落でやるなら、家を順に回る形がある。金山町の中川では、大きく長い数珠を持った一行が地域の家々を回った。家に招かれた一行は家族と一緒に輪になり、反時計回りに回して三回くり返し、その年の無病息災と家内安全を祈る。

もとは子どもたちの行事だった。ちなみに、全部回り切ったあとにもらう報労金が楽しみだったと、町の文化財の頁は書いている。子どもが減ったいまは、地区の役員が代わりに回っている。

鹿角の三ツ矢沢では、集落の端から始めて一軒一軒を回り、各家の前で数珠を回した。全部の家を回り終えたら、回り宿と呼ぶその時の当番の家に入り、家の中で回して終わる。回り宿は、春と秋の彼岸のたびに一軒ずつ隣へ移っていく。

埼玉の岩槻では、数珠を持って地域を歩き、鉦や木魚で拍子を取りながら念仏を唱えたという。

引き合いながら数珠ごと辻へ押し出す

回した数珠を、そのまま村の外へ送り出して終える土地もある。いちばん荒っぽいのが皆沢だ。八畳間ほどに広がる数珠を、鉦と太鼓の拍子に合わせてナムアミダブツと唱えながら繰りまわす。

最後は激しく引き合いながら、数珠ごと集落の外へ追い出して終わる。輪に入るのは男も女もだ。追い出す場所は三か所の辻。佐野方面へ向かう飛駒口、皆沢の奥にあたる中の沢、梅田からの入口にあたる庚申様の前だ。

もとはもっと大がかりだったらしい。桐生市の案内によると、かつては皆沢川で沐浴してから、朝から夜まで各戸をすべて回る村の一大行事だったという。皆沢の百万遍念仏は昭和六十一年十二月二日に桐生市の重要無形民俗文化財に指定された。

同じ桐生の菱町の地蔵盆でも、昭和三十年代までは念珠を引き合う力比べがあった。いまは行っていない。

藁の人形を囲んで回し、橋から川へ流す

長野県松本市四賀の五常落水には、回したあとに作り物を川へ流す百万遍がある。文化遺産オンラインの解説では、集落の十戸の主人が法音寺の公民館に集まるところから始まる。

最初に藁でウマと人形三体、手綱などをこしらえる。人形にお神酒をかけて清めたら、数珠をかたどった藁縄で人形を囲み、数珠回しに移る。本物の数珠と藁の数珠を二重に使うわけだ。常会長のところに結び目が来るようにそろえ、そこから右回しに三周まわして、南無阿弥陀仏と唱えた。回すのは三周だけ。

回し終えたら、作り物を部屋の窓から外へ出す。戸口を使わず窓から出すところが目を引く。そのまま会田川の橋まで運び、橋の上から投げ捨てて川へ流すのが、厄を流すための段取りだった。

世附も、最後は水へ送る。全部の行事が終わったあと、幣束を持って世附の住民の家をお祓いして回る浄め祓いの舞があり、その幣束は酒匂川へ流される。

葬儀の情報を扱う記事には、秋田県のある地域の例も出ている。タラの木の大数珠を地域の端の十字路で百回回し、百万遍の勘定にしたという。どの集落かは書かれていないので、ここでは話として挙げるだけにしておく。

回し終えたら札を持ち帰り、飾りを戸口に掛ける

大念佛寺では、お加持のあとに授かる百万遍のお札を家へ持ち帰った。お札の祀り方までは、寺の頁には書かれていない。

世附では、最終日の最後にカガリと呼ぶ融通念仏をする。道場の真ん中に置いた太鼓を囲んで念仏を唱え、天井には赤、白、青、黄、黒の五色の小さな幣を吊り下げておく。融通念仏は一番から始めて十番で終わり、修験者が太鼓の打ち終わりを告げる。そこで太鼓の周りの人たちが、天井に張られたしめ飾りを競って奪い取った。取った飾りを家の戸口に掛けると、厄病除けになるといわれている。

数珠そのものは、寺や自治会が預かる。足立区の上ズシの念仏講の道具は、明治十六年の墨書きのある箱に納め、常善院が大事にしまってきた。

この講が念仏をしたのは、毎月二十一日の大師の縁日、一月十六日の初閻魔、二月十五日の涅槃会、それに講員の追善供養のとき。使わない月日のあいだは、数珠も鉦も撞木も一つの箱の中で眠っている。

岩槻の本町五丁目の数珠は自治会に伝わり、いまは岩槻郷土資料館に移された。一緒の鉦には昭和三十年に講中で新調したと墨で書かれていたといい、道具が傷めば講で誂え直して続けていたことになる。

一人で唱えるなら七日か十日で百万遍

大勢がそろわないときは、もともとの一人の行に戻る形がある。正直、こっちのほうがずっときつい。浄土宗の辞典は、一人で七日か十日かけて百万遍を満たすほうを如法真修、または顆繰と呼んでいる。十人以上で念仏を合計して百万遍にするほうは略法草修で、早繰とも書く。

日課の目安を書き残したのは唐の善導だった。『観念法門』に書き下しで「日別に一万遍仏を念ぜよ」とあり、この速さなら百日で百万遍になる。大念佛寺が法要で唱和する日課の念仏百遍は、それよりずっと入りやすい数だ。

紫宸殿の七日七夜と木槵子経の百万

元弘元年、一三三一年の京都は疫病に見舞われた。都じゅうの話。後醍醐天皇の勅で知恩寺の第八世善阿空円が七日のあいだ百万遍念仏を修し、疫病が除かれたとされる。浄土宗の辞典は、これ以後に百万遍が宗内へ広まったとしている。その功で授かったのが百萬遍の号で、寺の名にも地名にもなった。

数の根は『仏説木槵子経』にある。浄土宗の辞典の引く形では、数珠を持って三宝の名を称え百万遍を満たす者は、百八の煩悩を断って涅槃へ向かうとされる。数珠の百八という数も、この一巻から出ている。

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