奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

稲荷信仰の全史、狐は神の使いか神そのものか、三万社の朱い鳥居

日本のどこかを歩いていて、朱い鳥居を一度も見ない日というのは、たぶんそんなにない。駅裏の駐車場の隅、団地の植え込みの陰、雑居ビルの非常階段の踊り場。全部お稲荷さんだ。数だけで言えば、日本で圧倒的に多い神社がこれなんだよな。それなのに、誰に聞いても「稲荷って何の神様?」に一発で答えられる人がいない。

商売の神? 農業の神? 狐? そのへんが全部ぐちゃっと混ざったまま、千三百年くらい放置されてきた。この記事ではその混ざり方を、できるだけ順番にほどいていく。

気づけばそこにある朱い鳥居

まず数の話からいこう。神社本庁の系統に登録されている神社のうち、稲荷を主祭神とするものは三千社弱と言われている。ところがこれに境内社、つまり別の神社の敷地内に間借りしている小さな稲荷社や、合祀されたものを足すと、一気に三万社くらいまで膨れ上がる。しかもこの三万という数字には、法人格を持たない祠は入っていない。家の敷地に建っている屋敷稲荷、会社の敷地の隅っこの稲荷、ビルの屋上の稲荷。

あのへんを全部数えたら十万を超えるという説もあるし、そもそも誰も正確には数えられない。つまり稲荷というのは、公式の神社という枠を大幅にはみ出して増殖している信仰なんだ。ここが他の神様と決定的に違うところで、八幡だろうと天神だろうと諏訪だろうと、基本は「神社に行って拝むもの」なんだよな。稲荷だけは違う。自分の土地に勝手に呼んできて、自分で祀る。

この「持ち帰れる」性質が、後で出てくる祟りの話にも、狐憑きの話にも、全部つながっていく。覚えておいてほしい。

和銅四年、餅が白鳥になって飛んだ

起源の話をしよう。稲荷の縁起として一番古い形で残っているのが、『山城国風土記』の逸文にある一節だ。逸文というのは、本体は失われたけど他の書物に引用された形で断片が残っているもののこと。だから完全な文章ではないんだが、内容は強烈で、いちど聞くと忘れない。こういう話だ。

京都の南、深草のあたりに秦氏という一族が住んでいた。渡来系の技術者集団で、機織りや土木や酒造りに長けていて、要するに当時の京都盆地では相当な有力者だった。その一族の伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)という男がいたのだ。この人が、とにかく裕福だった。稲は倉に唸るほどあり、米は余り、餅は食いきれないほど搗ける。

で、ある日、その余った餅を的にして矢を射た。想像してみてほしい。白い餅を的に立てて、弓を引く。金持ちの余興だ。矢が放たれる。

その瞬間、餅が白い鳥に化けた。羽ばたいて、伊呂具の手の届かないところへ舞い上がり、南東の山の頂に降りた。そして、その降りた場所に稲が生えたのだ。ぐんぐん生えた。伊呂具は青ざめる。

食い物を的にして遊んだ自分の傲慢さを、目の前で神に返された。そこに社を建てた。稲が生った、で「イナリ」。伊禰奈利、伊弥奈利。表記は伝本によって揺れるが、語源としては「稲生り」だ。

これが和銅四年、西暦七一一年の二月初午の日のこととされている。この話には後日談もついている。伊呂具の子孫は先祖の過ちを悔いて、社の木を根ごと抜いてきて自分の屋敷に植え、それを祀ったという。ここ、めちゃくちゃ重要なんだよな。屋敷稲荷の起源が、縁起そのものの中にもう書かれている。

稲荷は最初から「持ち帰って自宅で祀るもの」だった。

宇迦之御魂神――「食べ物の霊」という名前

じゃあ稲荷神社の祭神は誰なのか。伏見稲荷大社をはじめ、大半の稲荷社が主祭神として掲げているのが宇迦之御魂神(うかのみたま)だ。『古事記』では須佐之男命の子として、『日本書紀』では倉稲魂命と表記されて出てくる。この名前を分解すると意味がはっきりし、ウカというのは食べ物、とくに穀物のこと。

ミタマは霊魂。つまり「穀物に宿っている霊力」そのものが神格化されたものだ。人格を持った神様というより、稲という物質の中にある力を名前で呼んだ、という感じ。日本の古い神様にはこのタイプが多い。ここで注意したいのは、宇迦之御魂神と稲荷神は、もともとイコールではなかった可能性が高いということ。

『山城国風土記』の逸文には宇迦之御魂の名前は出てこない。秦氏が祀った稲の神が先にある。それが記紀神話の穀物神と後から接続された、という順番だと考えるほうが自然だ。日本の神様はよくこれをやる。土地の名もなき神に、中央の神話の名前を後付けする。

稲荷はその成功例で、しかも成功しすぎた例なんだよな。

伏見稲荷大社では現在、宇迦之御魂大神を中心に、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神の五柱を稲荷大神として祀っている。五柱を一括りに「稲荷大神」と呼ぶ形だ。この「複数を一括りにできる」ゆるさが、後の習合をやりやすくした。

なぜ狐だったのか、ミケツからサンコへ

さて狐だ。稲荷といえば狐、これはもう反射レベルで結びついており、でも記紀にも風土記逸文にも、狐は一切出てこない。じゃあどこから来たのか。説は大きく二つある。

一つは実利的な説明。狐は野ネズミを食う。ネズミは稲を食う。つまり狐は、農民から見て稲を守ってくれるありがたい獣だった。しかも狐は春先に人里近くに現れて、秋の収穫期を過ぎると山に戻る。

これが「春に山から下りてきて田を守り、秋に山へ帰る」という日本の田の神の去来観念とぴったり重なる。おまけに狐の尻尾は、色といい形といい、実った稲穂に似ており、稲を守り、稲の姿をした獣。結びつかないほうが難しい。もう一つは言葉の話で、こっちがなかなか面白い。

宇迦之御魂神には御饌津神(みけつのかみ)という別名がある。ミケは神に供える食事、ツは助詞、で「食物の神」という素直な意味だ。ところが古語で狐のことを「ケツ」と呼んだ、という説がある。すると「ミ・ケツ・神」が「三狐神」と読み替えられ、三匹の狐の神。

完全な語呂合わせで、学問的には後付けの民間語源とされることが多い。でも民間語源というのは、正しいかどうかとは別に、実際に人の信仰を動かしてしまう力がある。三狐神という字面が広まったことで、稲荷と狐の距離は一気に縮んだ。そこに白狐信仰が乗る。白い狐は昔から瑞獣、めでたい獣とされてきた。

突然変異のアルビノ個体が実際に稀に生まれる。それを見た人間が「あれは普通の狐じゃない」と考えるのは自然だ。稲荷社の狐像がだいたい白いのは、この系譜だ。

神使か、神体か――決着しない議論

ここが稲荷信仰の一番ややこしい部分であり、狐は稲荷神の使いなのか、それとも稲荷神そのものなのか。公式見解ははっきりしている。伏見稲荷大社は「狐は稲荷大神の眷属、つまり神使であって、神そのものではない」と明言している。神職に聞いてもだいたいこう返ってくる。

神道の建前としてはこれが正しい。狐は神様のお使いであって、拝む対象は宇迦之御魂神だ。ところが民間の実感はまるで違う。江戸期の随筆や明治の民俗記録を読むと、「稲荷といふも狐なり、狐といふも稲荷なり」といった記述がふつうに出てくる。庶民は狐を拝んでいた。

狐に願をかけ、狐に油揚げを供え、狐が祟ると恐れた。神使という抽象的な区別は、現場ではほぼ機能していなかったんだ。しかもこの「ズレ」は今も続いている。ネットで稲荷の記事を漁ると、神社側の説明を丁寧に紹介したうえで、記事の後半では普通に「狐様が」と書いてある、みたいなものが山ほどある。書いてる本人も矛盾に気づいていない。

千三百年たっても決着しておらず、というより、決着させる必要が誰にもなかったんだろうな。建前と実感が二重に走ったまま、それでも信仰は回ってきた。

荼枳尼天、インドから来た危ない神

仏教側の稲荷の話をしないと、この信仰の半分が抜けてしまう。荼枳尼天(だきにてん)だ。もとはインドのダーキニー。ヒンドゥーの文脈では、人の肉を食う夜叉の一種だった。人の死を六ヶ月前に予知して、死んだらその心臓を食う。

ずいぶん物騒な存在だ。それが密教に取り込まれる過程で、大日如来に調伏される。人が死ぬまでは待つが、死んだ後の心臓を食うことは許される、という条件付きで仏法の側についた。この「調伏されて味方になったが、本質は変わっていない」というキャラクター設定が、後の日本で効いてくる。日本に入ってきた荼枳尼天は、白い狐に乗り、稲束を担ぎ、宝珠を持った女神の姿で表されるようになった。

狐に乗っており、稲を持っている。これはもう稲荷と重ならないほうがおかしい。平安後期から中世にかけて、稲荷と荼枳尼天は急速に混ざっていく。とくに真言系の修法として荼枳尼天法が確立され、これが強烈な現世利益をもたらすとされた。

財が来る、地位が上がる、望みが叶う。ただし代償がある、と。この「効くけど代償がある」というイメージが、稲荷の恐ろしさ言説の源流の一つなんだよな。神道の宇迦之御魂神には祟りの要素がほとんどない。穀物の霊だから当然だ。

ところが荼枳尼天のほうには、もともと人肉を食う夜叉という出自がある。この二つが習合してしまったせいで、「稲荷は効くが怖い」という複合イメージができあがった。

豊川稲荷は神社ではない――習合と明治の分離

具体例として豊川稲荷を挙げよう。愛知県豊川市にある、いわゆる豊川稲荷は、正式には円福山豊川閣妙厳寺という曹洞宗の寺院だ。神社ではなく、鳥居があって狐像がずらりと並んでいるが、寺なんだ。ここで祀られているのは吒枳尼真天(だきにしんてん)である。

寺伝によれば、鎌倉期の禅僧・寒巌義尹が宋からの帰路の船上で護法神を感得した。それをその法孫が本尊とともに祀ったのが始まりとされている。

寺院の中に稲荷がある、という形は珍しくない。東京の赤坂にある豊川稲荷の別院も同じ系統だし、各地の寺に稲荷堂は普通にある。中世から近世にかけての日本では、神と仏を分けるという発想自体が薄かったから、これがむしろ標準だった。そこに明治元年の神仏判然令が来る。神仏分離の政策だ。

神社から仏教的要素を排除し、寺と神社をきっぱり分ける。この過程で全国の稲荷社は、荼枳尼天との縁を切って宇迦之御魂神の社として整理し直すか、あるいは寺として残るかの選択を迫られた。伏見稲荷は当然前者を選び、境内にあった仏教施設を切り離した。豊川稲荷は後者を選び、寺院として押し通したのだ。ただ、線は引かれたが、引ききれなかった部分が大量に残った。

個々の家の屋敷稲荷や、街角の小祠は、そもそも行政の把握の外にある。そこでは荼枳尼天も宇迦之御魂も区別されないまま、「お稲荷さん」として拝まれ続けた。今も続いており、分離令から百五十年以上たっても、庶民信仰のレベルでは習合は生きているんだ。

三万社という数字の内訳

三万社という数字をもう少し解剖してみよう。この内訳が、稲荷信仰の性格をよく表している。まず本社にあたる伏見稲荷大社があり、その分霊を勧請した神社が全国に広がっている。勧請というのは、神様の霊を分けてもらって別の場所に迎えること。稲荷は歴史的にこの勧請のハードルが低かった。

江戸期には、伏見から神璽を受けてくれば町内の稲荷が建てられた。江戸の町には「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」という言い回しがあったくらいで、要するにそこらじゅうにあったのだ。次に屋敷稲荷。個人の家の敷地に祀られる稲荷で、これは関東から東北にかけてとくに多い。屋敷神の一形態として、家の守り神を稲荷の名前で祀るという形が定着した。

ここでは稲荷は、商売や農業の神というより、その家の土地と血筋を守る存在になっている。そして企業稲荷。デパートの屋上、工場の敷地、本社ビルの屋上。日本の会社が敷地内に稲荷を祀るのは、驚くほど一般的だ。商売繁盛の神という性格と、土地の神を鎮めるという地鎮の性格が合わさっている。

ビルを建てるときに地鎮祭をやり、そのまま屋上に社を残す。担当部署が代々引き継ぐ。担当者が異動しても、社だけは残る。この「残ってしまった社」が、後の「祟り」言説の温床になるのは想像がつくと思う。

千本鳥居の値段と、朱という色

伏見稲荷の千本鳥居は、いま日本で最も写真に撮られている風景の一つだろう。あれは全部、奉納だ。個人や法人が初穂料を納めて建てる。鳥居の裏側には奉納者の名前と建立年月日が墨書されており、表から見ると赤いトンネル、振り返ると名前の列。

この落差がなかなか効く。金額はサイズで決まる。号数という単位があって、柱の直径で号が上がる。一番小さい五号で数十万円、大きいものになると百万円を大きく超え、最大級のクラスでは一千万円を超えると案内されている。しかも建てて終わりではない。

木製だから朽ちる。数年から十年ほどで傷み、朽ちたものは撤去され、新しい奉納者の鳥居が同じ場所に立つ。つまりあの千本鳥居は、常に入れ替わり続けている生き物みたいな構造物なんだ。奉納の申し込みは順番待ちで、何年も待つと言われており、朱色そのものにも意味がある。

朱は水銀と硫黄の化合物である硫化水銀、いわゆる丹から作られる顔料で、古代から生命力や魔除けの色とされてきた。実用面では、丹には防腐効果があり、木材を腐りにくくする働きがある。信仰と実利が同じ色に乗っている。稲荷社の朱がとりわけ鮮やかなのは、この色が「稲荷らしさ」の記号として強化されていった結果でもある。

「やめると祟る」はどこから来たのか

さて本題の一つ。「稲荷は一度祀ったら、やめると祟る」。これ、日本で最も広く流通している俗信のひとつだと思う。実際、家を建て替えるときや会社が移転するときに、敷地の稲荷をどうするかで揉める話は珍しくない。まず事実関係を言っておくと、神社側の公式な立場としては、この俗信は否定されることが多い。

神様は感情的に人を害する存在ではない。事情があって祀れなくなるならしかるべき手続きで社に神霊をお還しすればいい、というのが一般的な説明だ。実際、多くの神社が撤去や返納の相談を受け付けており、じゃあなぜこの俗信が生まれたのか。いくつか要因が重なっていると思う。

一つは荼枳尼天由来のイメージ。

さっき触れた「効くが代償がある」という中世以来の性格が、近代以降も抜けなかった。二つ目は、稲荷が屋敷神として個人の家に入り込んだこと。他の神様と違って、稲荷は「あなたの家の神」になり、家の運不運と一対一で結びつく。そうすると、家に不幸が起きたときに真っ先に想起される。

「そういえば去年、じいさんが祠を片づけた」と。因果の物語がつくりやすいんだ。三つ目、そして個人的に一番大きいと思うのが、放置された祠の物理的な不気味さだ。手入れをやめた小さな社は、数年で驚くほど荒れ、木は黒ずみ、狐像は苔むし、供え物の跡だけが残る。

それを見た人間は不安になり、その不安が「祟り」という言葉で名指されると、話が一気に完成する。四つ目は、この俗信が誰かの利益になるという身も蓋もない事情。祀り続けさせたい側、あるいは除霊や祈祷を売りたい側にとって、「やめると祟る」は都合のいい話だ。全部がそうだと言うつもりはないが、高額な祈祷料を請求されたという相談が消費生活センターに寄せられているのは事実だ。

数十万、数百万を求められたら、その場で払わずにいったん帰って、家族や公的な相談窓口に相談したほうがいい。

稲荷下げ、狐憑き、憑きもの筋

稲荷と狐の関係が最も暗いところに出るのが、憑きものの領域だ。狐憑きは、日本各地で近代まで広く語られてきた現象で、要するに人が急に別人格のようになる。狐の声で喋ったり、四つん這いになったり、油揚げを異常に欲しがったりする状態を指した。地域によって呼び名が違う。関東北部から中部にかけてはオサキ。

信州では管狐、飯綱、山陰では人狐、トウビョウ、四国では犬神。呼び名は違うが、構造はよく似ている。そして「憑きもの筋」という、いま読むと相当きつい制度がこれに付随していた。

特定の家系が狐を代々飼っているとされ、その家は富むが、周囲から縁組を避けられる。差別の装置として機能した。近代以降、これは深刻な人権問題として批判されてきた歴史がある。稲荷下げというのは、修験者や巫者が稲荷の神霊を自分に憑依させ、託宣を述べる技法のこと。これも狐憑きと地続きで、密教の荼枳尼天法や修験の作法と混ざり合って、村の相談窓口みたいな役割を果たしていた。

誰が盗んだか、なぜ病気が治らないか、そういうことを狐が答える。医学の側の見方も早くから存在した。江戸期にはすでに、狐憑きとされる状態を複数の病気に分類して概念そのものを否定する医学書が出ている。明治期には統計を取って精神疾患との関連を論じる研究が現れた。近年では、かつて狐憑きと呼ばれたであろう症状の一部が、自己免疫性脳炎など具体的な疾患として診断できるようになった事例も報告されている。

ここは強調しておきたい。人格の急変や幻覚、けいれんといった症状は、まず医療機関にかかるべきものだ。民俗の話として面白がるのと、目の前の人をどうするかは、別の話だ。

油揚げ、初午、稲荷寿司

もう少し明るい話をしよう。稲荷といえば油揚げ、というのはどこから来たのか。狐は肉食だから、本来供えるとしたら鼠か鶏だ。実際、古くは油で揚げた鼠を供えたという記録もあり、それが仏教の殺生戒の広がりのなかで肉が避けられる。

代わりに大豆製品である油揚げが立てられた、という説明が一般的だ。

油で揚げるという調理法が共通している、という言い方もされ、初午は、二月に入って最初の午の日。伏見稲荷の神が稲荷山に鎮座したのが和銅四年二月の初午だったとされる。それにちなんで全国の稲荷社で初午祭が行われる。旧暦で数えるか新暦で数えるかは地域や社によって違うので、二月と三月の両方で初午をやる地域もある。

いなり寿司は、油揚げの中に酢飯を詰めたもの。

俵型か三角形かで東西が分かれるのが有名で、関東は米俵を模した俵型、関西は狐の耳を模したとされる三角形が多い。中身も違って、関西では具を混ぜ込むことが多い。江戸後期には屋台で売られる庶民の食べ物として定着していて、当時から安くて腹にたまる食べ物だった。初午にいなり寿司を食べる習慣は各地にあるが、全国均一というわけではない。近年になって菓子業界や食品業界のキャンペーンで広まった面もある。

聞いた話を三つ

ここからは、取材の過程で読んだり聞いたりした話をまとめて書く。個人や企業が特定されないように、細部は変えてあり、一つ目。都内の古い商店の話。三代続いた店で、建物の裏手に小さな稲荷の祠があった。

四代目にあたる人が店を継いだとき、その祠のことをほとんど何も知らなかったという。父親は何も説明せずに亡くなり、ただ毎月一日と十五日に水と米を替えていたことだけ覚えていた。ビルに建て替える計画が持ち上がったとき、真っ先に問題になったのがこの祠で、親族の中で意見が割れた。撤去すべきだ、いや絶対に触るなと。

最終的にその人は近くの神社に相談する。神職に来てもらって然るべき祭祀をしたうえで、新しいビルの屋上に移した。移してからも祀り方がわからないので、季節ごとに神社に来てもらっている。本人いわく、「祟りが怖いというより、親父が毎月やってたことを自分の代でやめるのが嫌だった」。この感覚、たぶん多くの人が共有していると思う。

祟りへの恐怖というより、継承を断ち切ることへの後ろめたさなんだ。

二つ目。地方の製造業に勤めていたという人の話。工場の敷地の隅に稲荷の社があって、総務部が管理していた。年に一度、近隣の神社から神職を呼んで祭祀をし、それが何十年も続いていた。

ところが業績が悪化して総務が縮小され、その年の祭祀が飛んだ。翌年、工場で立て続けにトラブルが起きた。機械が止まり、納期が遅れ、けが人も出た。社内では「稲荷を放ったからだ」という話がかなり本気で語られたという。実際には、人員削減で保守点検の頻度が落ちていたことや、ベテランの退職が重なっていたことが、後から見れば十分な説明になっていた。

ただ、当時の空気の中では因果はきれいに祟りのほうへ流れた。その人はこう言っていたのだ。「原因の説明としては間違いなんだけど、あの状況で誰かのせいにしないで済ませてくれたという意味では、機能はしてたんだよな」。この観察はけっこう鋭いと思う。三つ目。

ネットの体験談としてよく見かける型の話。

一人暮らしを始めたアパートの敷地に、古びた小さな祠があった。管理会社に聞いても由来がわからず、住み始めてから体調を崩し、金縛りに遭うようになった。ネットで調べて「稲荷を放置すると祟る」という記事を読み、確信を深めていく。最終的に神社に相談したところ、社の状態を見た神職から「これは稲荷ではなく地神の祠のようだ」と言われた、というオチがつく。

この手の話には共通のパターンがあって、朱い色と小さな祠を見た時点で人はもう「稲荷」だと判定してしまう。実際には屋敷神、地神、水神、山神、荒神など、小祠の種類は無数にある。稲荷という記号があまりに強すぎて、正体不明の祠がすべて稲荷に回収される。

ネットで「稲荷は怖い」が育った過程

この言説がどう広がったのかを見ておきたい。だいたい三つの層があり、一層目は、二〇〇〇年代前半の匿名掲示板だ。オカルト板や田舎の怖い話系のスレッドで、狐にまつわる話は定番のジャンルだった。とくに人気を集めたのが、村の因習や憑きもの筋、放置された祠といったモチーフだった。

こうしたモチーフでは、民俗学の知識を混ぜた創作が高い完成度で書かれることも多かったのだ。

読み物として面白い。だから拡散した。ここで「稲荷は触ると危険」というテンプレートの原型ができた。二層目は、二〇一〇年代のまとめサイトとブログだ。掲示板の話が転載され、見出しが煽り気味に整えられ、検索で上位に来るようになる。

同時に、スピリチュアル系の個人ブログが「稲荷神社に安易に行ってはいけない理由」といった記事を量産した。これらの記事には共通の構造がある。前半で「怖いと言われています」と紹介し、中盤で「でも実際は違います」と否定する。後半でやっぱり「ただし注意が必要です」と留保し、結果として、読者の頭には「怖い」だけが残る。

否定するために言及することが、そのまま拡散になってしまう典型だ。三層目が、現在の動画とSNSだ。数分の動画で「稲荷の祟り」を扱えば再生数が取れ、切り抜きが回る。もはや元の民俗も、神社の公式見解も参照されない。

「稲荷 怖い」という検索語だけが自己増殖している状態に近い。冷静に見ると、この言説の増幅にはネットが必要だったわけじゃない。江戸の随筆にも稲荷の祟り話は載っており、ただ、ネットは増幅の速度と、話の「型」の固定化を桁違いにした。昔の祟り話は土地ごとに違ったが、いまはどこの誰の話でも同じテンプレートで語られる。

むしろそっちのほうが不気味かもしれない。

それで、いまの稲荷信仰はどうなっているのか

現在の伏見稲荷大社は、海外からの観光客数で日本の観光地の上位に入り続けている。千本鳥居の写真映えが決定的で、宗教施設としてよりも先に、視覚的な名所として世界に届いてしまった。参道は混み、稲荷山を登る外国人観光客の列が絶えず、一方で、街角の小さな稲荷は静かに減り続けている。管理する人がいなくなり、土地が売られ、祠が消える。

都市部の再開発では、稲荷の移転や合祀は日常的な事務手続きになっている。信仰の中心地は前例のない賑わいを見せ、末端はゆっくり消えていく。この分裂が、いまの稲荷信仰の実態だ。同時に、新しい形も生まれており、企業が公式サイトで自社の稲荷を紹介する。

若い世代が御朱印を集める延長で稲荷を巡る。狐の意匠がキャラクターやゲームを通じて再解釈される。信仰が薄まって記号になった、という言い方もできるが、そもそも稲荷は最初から記号の力で広がってきた神様だ。朱い鳥居と白い狐という、あまりに強い視覚記号。それが千三百年、形を変えながら効き続けている。

ここまで書いてきて、いちばん腑に落ちることがある。稲荷信仰というのが「複数の別々のものを、一つの名前と一つの見た目でまとめてしまった」信仰だということだ。中身を並べるとバラバラすぎる。渡来系氏族が祀った稲の霊、記紀神話の穀物神、農地を荒らす鼠を狩る野生動物。インド起源の人肉を食う夜叉、村の憑きものと差別の記憶。

江戸の町人が商売のために建てた小祠、近代企業が敷地に据えた地鎮の装置だ。

共通点がほぼない。それが「稲荷」という二文字と、朱い鳥居と白狐という視覚記号によって、一つの束にされている。この束ね方の強さこそが、稲荷が三万社まで増えた理由だと思う。中身が不定形だから、誰でも自分の必要に合わせて解釈できる。農民にとっては豊作の神、商人にとっては金儲けの神、企業にとっては土地の守り神、修験者にとっては強力な現世利益の法。

全員が違うものを拝みながら、同じ鳥居をくぐっており、これは他の神様には難しい芸当だ。天神には菅原道真という人格があり、八幡には応神天皇と武神という限定がある。稲荷にはそれがなく、空白があるから、なんでも入る。

そして、この空白は同時に不安の源でもあり、何を拝んでいるのかわからないものを、家の敷地に置いている。祟りの俗信が稲荷にばかり集中するのは、単に数が多いからだけじゃなくて、この「正体のわからなさ」が効いていると思う。八幡様が祟るという話はあまり聞かず、稲荷は祟る。

それは稲荷が凶暴だからではなく、稲荷が何なのか誰も説明できないからだ。人間は説明できないものを恐れ、恐れは、放置された祠の黒ずんだ木肌に、いくらでも投影できる。この構造を理解すると、ネット上の「稲荷は怖い」言説の扱い方も変わってくる。あれは稲荷の性質についての情報ではなく、稲荷という空白に人が何を投げ込んできたかの記録なんだ。

だから読むときは、「稲荷が危険か」ではなく「この語り手は何を恐れているか」を見たほうがいい。土地を手放すこと。家業を継げないこと。先祖の習慣を断ち切ること。原因不明の不調。

会社の業績。要するに、コントロールできない不安の全部だ。それを狐のせいにできると、少しだけ楽になり、この機能は千三百年ずっと変わっていない。同時に、率直に言っておかなきゃいけないこともある。

この不安につけこむ商売が現実に存在するということだ。「祟られている」「いま祓わないと家族に及ぶ」と言って高額を請求する手口は、消費者行政が繰り返し注意喚起してきた古典的なパターンだ。判断の目安としては、その場で決めさせようとする、金額が事前に示されない、断ると脅すような言葉が出る。このどれかが当てはまったら一度帰るべきである。

まっとうな神社や寺は、初穂料や祈祷料の目安を先に出すし、断っても何も起きない。そして体調不良については、これは何度でも書くが、まず医療機関にかかってほしい。原因不明の倦怠感や、繰り返す金縛り、人格が変わったように見える症状。これらには医学的な説明がつくことが多いし、つかない場合でも、まず診てもらってからのほうが話が早い。

霊障という枠にいきなり入れてしまうと、治せたはずのものを見逃すことになる。民俗としての稲荷は面白い。でも面白さと、目の前の誰かの健康は交換できない。最後に、少し個人的な感想を書く。取材のあいだ、いろんな稲荷の写真を見たり、記録を読んだりした。

伏見の山を埋め尽くすお塚の群れ、名前も由来もわからない街角の祠、屋上でビルの隙間の空を向いている小さな社。どれも同じ神様のはずなのに、まったく違う顔をしている。共通しているのは、誰かが一度、ここに何かを頼んだという事実だけだ。豊作を、商売を、家の無事を。頼んだ人はもういない。

祠だけが残っており、祟るとか祟らないとかの前に、たぶんそれが一番、静かで奇妙なことなんだよな。三万社の朱い鳥居は、済んでしまった祈りの残骸でもあり、稲は毎年生えて、毎年刈られる。餅が白鳥になって飛んだ話が千三百年残ったのは、あれが「与えられたものを粗末にするな」という、ものすごく単純な話だからだ。

稲荷信仰の中心にあるのは、意外とそういう素朴なところだと思う。

タイトルとURLをコピーしました