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イタコの口寄せ――恐山・津軽のイタコに会いに行く方法、口寄せの儀式の実際

青森県の下北半島、恐山。宇曾利山湖のほとりに硫黄の匂いが立ちこめ、風車がカラカラと乾いた音を立てる。毎年夏と秋、亡くなった人にもう一度会いたい人たちがここへ全国から集まってくる。目当ては「イタコ」と呼ばれる盲目の民間巫女の「口寄せ」だ。

口寄せは、死者の霊を自分の体に降ろし、その人の言葉で語る儀式のこと。テレビや雑誌では「日本三大霊場のイタコの口寄せ」としてよく紹介される。そのわりに、頼み方や次第はあまり知られていない。当のイタコたちは恐山の寺の人ではないし、ふだんは山にもいない。

斎が落ちぶれた姿か、アイヌ語のイタクか

イタコは、青森県を中心に東北で活動してきた盲目や弱視の女性の民間宗教者だ。名前の起こりには、アイヌ語で「神がこう仰った」を意味する「イタク」から来たという説がある。神事に使う板を叩いて霊を呼ぶ所作から来たという説もある。柳田國男は、神に仕える清らかな者を指す「斎(イツキ)」がなまったものと見た。この「零落した巫女」という見方は、イタコ研究で長く議論の的になってきた。

呼び名は土地ごとに違う。宮城など南東北ではオガミサマ、福島の会津ではミコサマ、山形ではオナカマと呼ばれてきた。沖縄や奄美のユタも同じ流れに置かれることが多い。住まいは山の外で、青森県内の各地から頼まれて家々を回る在野の宗教者だ。いつ行っても恐山で会えると思いこんで山へ上がる人も少なくない。

大祭の日取りに合わせて下北へ

確実に口寄せを受けたいなら、恐山の大祭に合わせて行くのがいちばん早い。霊場恐山の案内では、夏の例大祭が毎年七月二十日から二十四日。秋詣りはスポーツの日を最終日とする三日間だ。2026年ならスポーツの日が十月十二日なので、十日から十二日にあたる。

下北ナビの案内によると、イタコが山に来るのは今はこの二つの祭事のときだけだ。昔は連休や土日にも来ていたそうだけど、もうそれは無い。夏の大祭に土日が重なると予約もできず、かなりの行列になるから平日がいいと書いてある。

当日受付の先着順で、人数も少ない。長く待つ覚悟は要る。朝が勝負だ。

山の時間の枠も頭に入れておきたい。県の観光サイトでは、開山は五月一日から十月末までで、参拝は朝六時から夕方六時。入山の受付は十六時半までとある。十一月から四月末は閉じていて、この間に山でイタコに会う手立ては無い。

注意がひとつある。恐山菩提寺とイタコには何の関係も無く、イタコは境内を使っているだけ。下北ナビは、寺務所へイタコのことを問い合わせないよう頼んでいる。寺務所の電話は、法要や参拝、宿坊の用のためのものだ。寺は窓口じゃない。

恐山へは、下北半島の中心のむつ市から上がる。むつ市の案内では、大湊駅から車で三十分、下北駅から直通バスで四十三分。旅行会社がイタコの口寄せつきの恐山ツアーを組むことも多く、一人で段取りするのが不安ならそれに乗るのも手だ。どこへ行くにしても、恐山のイタコに予約を受ける決まった窓口は無い。朝早くから並ぶつもりで出かけるのが無難だ。

川倉の地蔵祭りは旧暦で日が動く

イタコが集まって口寄せの店を開く場を、イタコマチと呼ぶ。下北の恐山と、津軽半島の金木町川倉の地蔵講がその二大どころだ。場所も暦も離れている。恐山は曹洞宗の菩提寺が守る霊場で、夏の例大祭の二十二日には午前十時ごろから山主上山式がある。転読大般若祈祷会のような普段はしない法要も続く。

川倉賽の河原地蔵尊は、五所川原市金木町川倉七夕野にある。五所川原市の案内によると、遠い昔にこの地方の空へ不思議な灯明が飛んできたという。その光に照らされた場所から見つかった地蔵を祀ったのが始まりだそうだ。境内は通年開いていて、参拝に料金はかからない。

例大祭は旧暦の六月二十二日から二十四日。暦に合わせて毎年日付が動き、2026年なら八月四日から六日にあたった。五所川原市観光協会の案内では、祭りの日に津軽一円のイタコが地蔵尊の裏に集まり、口寄せをする。昔は数十人が夜通し口寄せをしたそうだけど、今は一人しか残っていないと伝える記事もある。

国の記録選択の案内でも、津軽のイタコの習俗が公開される場として旧六月二十三、二十四日の川倉地蔵堂を挙げている。新暦と旧暦の違い。恐山では寺の法要の脇でイタコが店を開く。川倉では、地蔵を拝む祭りそのものが死者に会う場になってきた。日付は毎年、地蔵堂の事務所か観光協会で確かめるのが確かだ。

八戸のイタコへ問い合わせて自宅で頼む

大祭を待たずに頼む道もある。八戸市は旧南郷村をふくめ、南部のイタコが多い土地として知られてきた。いま名前を出して活動しているのが、著書『最後のイタコ』で知られる松田広子さんだ。本人の公式サイトでは、口寄せの申し込みをサイトの問い合わせから受けている。

申し込むと、青森県いたこ巫技伝承保存協会の担当者が中身を確かめ、折り返しメールで日取りを調整する。場所は八戸市内の自宅か、恐山に出ているときの席。所要は一人につき二十分ほどだ。連絡はメールで来る。

料金は、サービス案内の頁で故人一人につき五千円からとある。別の詳細の頁には三千円と書かれていて、ここは頁によって食い違う。確かめてから行こう。どちらにしても、お釣りが出ないよう用意してほしいと添えてあった。心づけは歓迎だそうだ。

受けない頼みもはっきりしている。故人の近親者に限り、行方不明者の捜索、ペットの口寄せ、生きている人の口寄せは受けない。申し込む前に、故人との関係、命日、亡くなったときの状況を確かめておくよう案内している。ここを曖昧にしたまま申し込むと、調整のメールが何往復もするかもしれない。

頼む側が用意しておくこと

口寄せを頼む前に、呼びたい人のことを書き出しておくと慌てずに済む。名前、生年月日、亡くなった日、亡くなったときの年、それに亡くなり方。ホテルの個室で口寄せを受けるツアーでも、この五つをメモしておくよう案内している。頼む人との続柄も言えるようにしておきたい。

聞かれることがもっと少ない場合もある。2017年夏の恐山の記事では、イタコに「誰を降ろしますか」と聞かれ、「母」と答えた。「亡くなった日は」と聞かれて日付を告げただけだった。やりとりはそれだけ。そこから数珠を揉んで唱えが始まっている。

お金の渡し方にもコツがある。その年の恐山では一体四千円で、どのイタコでも同じ値段、釣り銭の用意は無かったという。釣り銭が無いのは地味に困る。千円札を多めに持って行くと安心だ。下北ナビの案内では、一人降ろすごとに五千円が目安とある。

恐山のテントで紙を一枚渡す

頼み方そのものは拍子抜けするほど簡単だ。恐山では境内の一角に張ったテントや宿坊の一室にイタコが座り、頼む人はその前の列に並ぶ。人気のイタコには開く前から長い列ができる。朝七時に着いたらもう八十人以上並んでいて、十一時間近く待っても番が来なかったという記録もある。常連は前の晩に宿坊へ泊まり、朝六時から場所を取るらしい。

番が来たら、呼びたい人の名前と生年月日、亡くなった日を紙に書いて渡す。イタコは目を閉じて数珠を手に取り、念仏とも呪文ともつかない節回しで数分唱える。唱えるうちに様子が変わり、やがて故人が降りたとされる状態に入った。そこからは声色も口調も変わる。津軽の言葉まじりの、亡くなった本人になりきったような話し方だ。

出だしの決まり文句は「遠いとこ、よう来た」。遠いところをよく来てくれた、という意味になる。先に逝ってしまったことを詫び、生前の思い出を語り、残された人の暮らしを気づかう。ちょっとした助言や忠告もまじえ、五、六分ほど、ほとんど一方的に語って終わる。あっけないほど短い。

語り終えると、イタコはまた数珠を鳴らして短い祓いの文句を唱え、霊を送り返す。お布施はその場で渡す。相場は一体につき三千円から五千円ほどで、何人も呼べばその分だけ重なった。恐山に入るには入山料も別に要り、県の観光サイトでは大人九百円、小学生四百円と案内している。

神を寄せ、仏を呼び、上げて帰す

口寄せは、いきなり死者を呼ぶわけじゃない。郷土館の記録に残る南部のイタコの経文は、最初に神寄せを置く。日本六十六か国の神々を、北は佐渡ヶ島、南は南海と方角を指して招いていく。神々に道を開いてもらってから、ようやく仏を呼ぶ段に入る。

仏の呼び方も、場所や死に方で変わった。恐山で呼ぶときの文句は、極楽浄土から水と山を越えて招く形をとる。戦死者を呼ぶ文句では「百里に急がせよ」と距離を刻んで縮め、「ここはふるさと」と着いたことを確かめる。遠くで死んだ魂を、故郷まで歩かせて連れてくる組み立てだ。なかなか細かい芸。

2016年に報じられた口寄せでは、イタコは座ったまま祭壇に向き直って背を向け、こう唱えた。原文は「ここに申し願い頼み奉る 極楽の役人どもに 今呼びしたい方の道を 必ず与えて下さることを」。読みは「ここにもうしねがい、たのみたてまつる、ごくらくのやくにんどもに」と続く。後半は「いまよびしたいかたのみちを、かならずあたえてくださることを」。極楽の役人たちに、呼びたい人の通る道を必ず開けてほしいと頼む言葉だ。

唱えはじめて十五分ほどで「降りてきてください」と言い、向き直って咳払いをする。そこから故人の語りが始まった。この語りを口説き(クドキ)と呼ぶ。その席では父親の霊が二十分ほど、仕事のこと、家族への思い、言えなかった気持ちを語ったという。長さはまちまちだ。

語りが済めば、降ろした神仏を元へ返す。経文ではこれを上げおろしと呼び、八幡様、十和田様、山の神、大黒エビス、内神様などそれぞれに文句がある。降ろしたら上げる、の一対で経文が組まれているわけだ。恐山の口寄せも、最後に短い文句を唱えて締めくくられた。ここが後始末の要だ。

東北のイタコは、死んで百日以内の死者を新ボトケ、それより前の死者を古ボトケと呼び分けてきた。世界大百科事典で桜井徳太郎が書いたところでは、新ボトケは死霊がイタコに乗り移り、遺族や親戚の一人一人に語りかける。古ボトケでは頼む人が家や近親の死者を次々に呼び出して話をした。ここは大事な区別。

語りを聞くあいだの作法

席での振る舞いにも決まりがある。撮影や録音は断られるのが普通で、ツアーの案内でも写真、ビデオ、スマートフォンでの録音を控えるよう書いている。冷やかしや、語りへの強い否定も遠慮してほしいとある。持っている数珠があれば持参するとよいそうだ。当然といえば当然だ。

口寄せは、ほとんど故人の側が一方的に語る形になる。津軽の言葉が強くて半分も聞き取れなかった、と書き残す人もいた。聞きたいことがあるなら、短く絞っておくほうがいい。松田広子さんが受ける相談で多いのは、供養は届いているか、温かい極楽浄土にいるか、成仏できているか、の三つだという。苦しんで亡くなった人なら「まだ痛いか」と尋ねる人もいた。

ツアーの口寄せは一人十五分ほどで、何人分かをまとめて延ばすことはできない決まりだった。語る側の心構えについて、松田さんは常に中立の立場でいる、感情移入するより第三者的な考え方でいたほうがよい、と話している。

語りのあとの供養と二度の梓

新ボトケの口寄せは、葬式の晩、初七日、五七日、四十九日に行うことが多かった。一回で収まらず二回やることもあり、これを「二度の梓」と呼ぶ。梓弓で神懸かりしていた頃の名残の言い方だ。幼くして死んだ子や事故で急に亡くなった人には、ナナクラオロシ、舟っこ流し、ハナ寄せのような手の込んだやり方もとられた。

その後の口寄せにも時期がある。日本大百科全書は、春の彼岸や盆に死者供養の口寄せをすると書いている。一回で気持ちが収まらないなら、日を改めてもう一度頼めばいい。焦ることはない。

川倉では、口寄せのあとの供養が形になって地蔵堂に残る。道の駅の公式マガジンの記事によると、若くして亡くなった人があの世で結婚して幸せになるよう、遺族が花嫁人形や花婿人形を納めてきた。札には故人と相手の名前を書き、後から子どもの人形を加えることもある。巫者を通して語られた故人の言葉をきっかけに、人形を納める例も少なくないそうだ。

地蔵堂には、ほかにワラジや着物も納められてきた。奉納された地蔵は二千体を超えている。恐山のほうでは、賽の河原に亡くした子を弔う親が積んだ石や、回る風車が置かれていると県の観光サイトは書く。石と風車の供養。口寄せの席を立ったあと、こうした場所で手を合わせて山を下りる人が多い。

生きた人を呼ぶ口寄せと、生まれつきのゴミソ

口寄せには死者を呼ぶ死口寄せ(ホトケオロシ)のほか、生き口寄せ(イキオロシ)もある。出稼ぎに出た家族の安否を知りたいという求めから生まれたといわれ、こちらはまれだった。今の八戸のイタコのように、生きた人の口寄せは受けないと断る人もいる。

東北には、イタコと似て非なるゴミソという宗教者もいた。ゴミソは目の見える人が多く、生まれつき神懸かりを見きわめる資質、サニワを備えるとされる。修行で技を受け継ぐイタコの口寄せと、持って生まれた力で出すゴミソの託宣。もとは性質の違う宗教文化だ。

米と炭を持って師匠の家に入る

イタコになったのは、多くが目の見えない、または見えにくい女性たちだった。そういう子どもが暮らしを立てるため、師匠のイタコに弟子入りするのが昔からの入り方だ。民俗学者の堀一郎の記録では、入門のときに米と炭を持っていったという。修行は一年から三年、長いと四、五年かかった。精選版日本国語大辞典は、初潮前の少女のうちに師匠を決めて弟子入りすると書く。

最初に習うのは、板の間の床板を打ちながら唱える祓いの文句とオシラ祭文だ。オシラ祭文は、東北の家の神オシラサマの由来を語る語り物のこと。弟子はこれを暗記するだけでは済まない。神体を両手に持ち、祭文を唱えながら舞わせるオシラアソバセも覚えた。同じ辞典は、修行のうちに経文、大祓の祈祷、筮竹による占いを身につけるとしている。

祭文を覚えると、ダイジュユリ、デンジュ(伝授)、ユルシ、ウズメソと呼ばれる一連の儀礼に進む。その先で、神霊を体に降ろすカミツケ(神憑け)の技を師匠からじかに授かった。仕上げに地元の氏神の社へ一週間ほどこもる。断食や水垢離に近い潔斎で身を清めてから、ようやく一人立ちを許された。

水垢離と穀断ちの先にある神憑け

2016年の報道で紹介された南部のイタコは、三歳で光を失い、十三歳で師匠に弟子入りしている。独り立ちまでおよそ二年。長い人だと十年ほどかかるという。

修行の中身は、ほぼ耳で覚える暗誦だ。百近い経文を、目で読まずにすべて口移しで覚えていく。耳だけが頼り。

青森県の案内では、伝える経文はおよそ二十種目で、巫業の中身によって使い分ける。松田広子さんの修行では、一日に一つずつ本事(ほんごと)の経文を覚えた。最後にすべて言えるかを師匠に確かめてもらい、それで修行が終わったという。

体を清める苦行も欠かせない。冷たい水を浴びる水垢離と、穀物を断つ穀断ちだ。神憑けの百日前から、朝昼晩に三十三杯ずつ白襦袢一枚で水をかぶると説明する解説もある。松田さんの場合、本来は小さい桶で三十三杯かぶるところを、一升のバケツに三杯へ簡略化して朝昼晩にかぶった。十九歳で独り立ちしている。

その締めくくりが神憑けで、弟子に初めて神を付ける儀礼になる。世界大百科事典は、これを一種の神婚と書き、この儀式で自分の守護神や仏を感じ取って独立するとしている。ブリタニカ国際大百科事典の小項目事典では、入巫式で神憑りの状態になれれば一人前とされる。これを越えると師匠上がりだ。

弘前大学名誉教授の講演記録は、師匠について修行を積み、「許し」という免許を得て商売をするのがイタコだと説明している。独り立ちのあとも三年ほど師匠の家で奉公し、道具や縄張りを譲られてから出ていく、と書く解説もあった。回数や日数は、師匠や土地でだいぶ違ったらしい。

イラタカ数珠とオダイジ、梓弓の音

口寄せの席でジャラジャラ鳴るのがイラタカ数珠だ。三百個以上の黒いムクロジの実をつないだ長い数珠で、雌雄の鹿の角や猪の牙、熊や鷹の爪、狐のあごの骨などを下げる。牙や角は魔よけ。古銭も付いていて、こちらは三途の川の渡し賃だと説明される。

イタコはこれを両手で揉み、こすり合わせて音を立てる。2017年の恐山大祭の記事には、手洗いの洗濯物のように揉みながら唱えていた、という描写がある。数珠を鳴らすのは、魂が降りる場所を知らせるためだと2016年の報道は書く。故人が降りたとされる場面でも、咳払いのあと素早く数珠をこする動きが記録された。

オダイジは布で包んだ竹の筒だ。経文の一部を納めてあり、悪い霊よけとして背中に掛ける。師匠上がりのときに師匠から授かる大事な品で、中の巻物は一度も取り出したことがない、と話すイタコもいた。守り袋の大きなもの、と思えば近い。

梓弓も口寄せの古い道具になる。弓の弦を細い竹の棒で叩いて音を出し、霊を弓に宿らせるやり方だ。関東の梓巫女も、同じように弦を鳴らして口寄せをした。青森県立郷土館の研究紀要に、旧南郷村のイタコが弟子へ伝えた神寄せの経文が載っている。一の弓から三の弓まで、段を踏んで神々を招く組み立てだ。

その経文に、原文で「八尺の弓を七尺五寸のしるきに つるをかけ」という一節がある。読みは「はっしゃくのゆみを、しちしゃくごすんのしるきに、つるをかけ」。八尺の弓に弦を張って神を呼ぶ支度を整える、くらいの意味になる。「しるき」は記録のままで、何を指すかはっきりしない。

小正月にオシラサマを遊ばせる

オシラサマは、桑の木で作った一尺、三十センチほどの棒を一対の神体にしたものだ。布を頭からかぶせた包頭型と、貫頭衣のように布から頭を出した貫頭型がある。青森と岩手に濃く残り、宮城の北部にも多い。見た目は素朴そのもの。

旧暦の一月、三月、九月の十六日には、新しい布を重ねて着せる。これをオセンダクと呼ぶ。年に三度の衣替え。オシラアソバセの日には、イタコがまず神寄せの経文を唱え、神体を手に持って祭文を唱えながら踊らせた。少女が神体を背負って遊ばせる土地もあった。

郷土館の記録にあるオシラ祭文は、満能長者の一人娘が十六になり、千だん黒毛という名馬に心を寄せる話だ。奈良の博士の占いで事が知れ、馬は殺され、姫も天へ昇る。最後は蚕の姿に変わる。祭文の結びには「十六善のオシラ神をもって 三百六十五日のケガレをはらいたまい」とある。

読みは「じゅうろくぜんのおしらがみをもって、さんびゃくろくじゅうごにちのけがれをはらいたまい」。オシラ神の力で、一年じゅうのけがれを祓ってください、という意味だ。口寄せをする巫女の家の神は、祓いの神でもあった。オシラサマは二本足や四本足の獣の肉と卵を嫌うとされ、供えると大病をするとか、祟りで顔が曲がるとか言われてきた。肉と卵の禁忌。

泣き崩れた人、並んだだけで帰った人

受けた人の書き残しは、大きく二つに分かれる。故人の口調に似ていて涙が出たという声と、聞きたいことには答えてもらえず、ありきたりの励ましで終わったという声だ。どちらも少なくない。

十一時間近く並んで番が回ってこず、そのまま山を下りた人の記録もある。並んでも受けられるとは限らない。

当たるかどうかより、救われるかどうか

本物の霊能か、相手の反応から情報を読むコールドリーディングか。そんな議論は何度も繰り返されてきた。口寄せの言葉の多くは「体を大事にしろ」「悲しまず前を向け」のような、誰にでも当てはまる言葉でできている。バーナム効果だと指摘する考察もあった。

ここは意見が割れる。それでも遺族の心を強く動かす力は否定できない、と同じ考察は結んでいる。死別の悲しみを支えるグリーフケアの民間版として、口寄せを見直す論も研究者から出てきた。

国が記録を急いだ津軽のイタコ

「津軽のイタコの習俗」は、1979年12月7日に国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選ばれた。文化遺産オンラインの解説は、盲目の巫女による口寄せ、加持祈祷、卜占の業とまとめている。青森県の案内も後継者不足を深刻と書いていて、若い世代でも六十歳を越えたという。元弘前大学教授の笹森建英は、2021年に口寄せや口説き、音楽まで扱った『津軽のイタコ』をまとめた。

2016年の暮れに出た報道では、昭和四十年代に三百人以上いたとされるイタコが、青森県内で六人まで減っていた。恐山で口寄せをするのは、もう二、三人だという。平成の初めごろには三十人ほどが恐山へ出張していた、という話もあるから減り方は急だ。

カミサマは修行でなく病から生まれる

津軽にはイタコと並んで、カミサマと呼ばれる民間の宗教者がいる。弘前大学名誉教授の講演記録によると、カミサマは自分や家族の病気や悩みで祈祷をしているうちに神懸かりになり、人を見るようになる。たいてい一代限りで、役目は憑き物を追い払うことや病気の祈祷だという。とはいえイタコのほうも、口寄せと並んで加持祈祷と卜占を業としてきた。重なる部分もあった。

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