- まずはざっくり、いざなぎ流って何なんだ
- 物部という土地――地図の上での位置と、その険しさ
- 「いざなぎ」は伊弉諾じゃない――名前の由来をめぐる話
- 起源伝承は一つじゃない――落人説と、それへの反論
- 太夫という人たち――世襲じゃない、教団もない
- 祭文という、とんでもない量の口承テキスト
- 「りかん」――書かれていない言葉のほう
- 記録に現れるのはいつからか
- 民俗学が「発見」するまで
- 高木啓夫と小松和彦、そして陰陽師ブーム
- 研究の現在地、そして見解が割れているところ
- 文化財としての位置づけ――1978年と1980年を分けて覚える
- 記録はどこに残されてきたか
- 御幣の体系――200種か、100種か、500種か
- どの神にどの幣を立てるか
- 神楽と舞神楽――「畳半畳分で舞うべし」
- 祭儀の種類――氏神祭、取り分け、鎮め、日月祭
- 病気や不幸の原因を「誰の仕業か」と診立てる発想
- スソという観念――そして、ここから先は書かない
- 外部の人間が、ここから先を真似しないために
- 図の見方
- 実践の前に――どこまでやるか、はっきりさせておく
- 用意するもの
- 折りと切りの順序
- 立てる場所と方角、立てる日
- 供物の並べ方
- 唱える言葉と、手の合わせ方
- 取り替えと、古い幣の納め方
- 賃貸、集合住宅、火気制限のなかでどうするか
- 物部を訪ねるなら
- 山のものは山へ、川のものは川へ
まずはざっくり、いざなぎ流って何なんだ
高知県の東の奥、徳島県との県境に近い山の中に、香美市物部町という場所がある。2006年3月1日までは、香美郡物部村と呼ばれていた土地だ。ここに、いまも生きている民間信仰がある。それが「いざなぎ流」。
読み方は「いざなぎりゅう」。名前だけ聞くと日本神話の伊弉諾命が出てきそうな気がするが、そこがまず落とし穴で、あとでちゃんと説明する。ざっくり言えば、陰陽道と修験道と密教と神道と仏教を、まとめて呑み込んだ信仰だ。土地の巫女信仰や猟師の作法まで取り込んで、一つの体系になってしまった。
それを担うのが、「太夫」と呼ばれる人たちだ。教団もない、本山もない、教祖もいないのに、唱える言葉と紙の切り方と儀礼の順番が、驚くほどきっちり定式化されている。正直、ここがいちばん不思議なところだ。
この記事は、いざなぎ流の歴史と研究のいきさつから押さえていく。そのあと御幣という紙の依り代を中心に、一般の読者が敬意をもって触れられる範囲までを書く。裏を返せば、そこから先には踏み込まないということで、理由は途中で独立した節を立てて書くつもりだ。
先に断っておくと、ここで扱うのは信仰と民俗の話だ。医療や法律や投資の、専門的な判断の代わりにはならない。体調が悪いなら医療機関へ、揉めごとなら専門家へ。これは大前提だ。健康や寿命について何かを保証する話でもない。
物部という土地――地図の上での位置と、その険しさ
物部川は剣山山系の白髪山あたりを水源にして、大小の支流を集めながら土佐湾へ注ぐ一級河川だ。旧物部村の面積は291平方キロほど。そのうち、およそ9割から95パーセントが山林で、平地はほとんどない。
谷はV字に深く切れ込んでいて、家は斜面にへばりつくように点在しているから、初めて見たらちょっと驚くかもしれない。村の中心は大栃で、永瀬ダムによってできた奥物部湖のそば、上韮生川と物部川が合流するあたりにある。
いざなぎ流の信仰圏と言われるのは、そこからさらに上流へ遡った流域になる。研究書には、別府や市宇、別役、笹などの集落の名前がよく出てくる。県境の四ツ足峠を越えれば、もう徳島県だ。
人の数の移り変わりを並べると、この土地の現在が見えてくる。1956年に槙山村と上韮生村が合併して物部村が生まれたとき、人口はおよそ11,000人いた。2004年の時点で3,392人。香美市が公表している統計では、2026年7月1日現在の物部町の人口は1,257人、世帯数は806世帯だ。
70年で、人口はおよそ9分の1になった。いざなぎ流が置かれている状況は、この数字とまっすぐ結びついている。数字を並べただけで、ちょっと言葉を失う。
産業は林業と農業。柚子は、日本一の産地として名を知られている。かつては、三椏を原料にした製紙も盛んだった。これが御幣の話に、ちゃんとつながってくる。紙の里だったことが、紙を切って神をかたどる技術の土台にあったのかもしれないと考えると、腑に落ちるものがある。
「いざなぎ」は伊弉諾じゃない――名前の由来をめぐる話
ここは大事なところだ。いざなぎ流の「いざなぎ」は、『古事記』や『日本書紀』に出てくる伊弉諾命とは、別の存在だと考えられている。同じ音なのに中身は別物、というのがややこしい。
いざなぎ流の起源を語る「いざなぎ祭文」には、こんな話が出てくる。日本に生まれた占いの上手な「天中姫宮」という女性が、人を救うための祈祷法を求めて天竺に渡った。そこにいた「いざなぎ大神」あるいは「いざなぎ大王」から、人形祈祷や弓祈祷などの術を習った。彼女はそれを日本に持ち帰った、というストーリーだ。
香美市の公式な説明も、この祭文に出てくる「いざなぎ様」に名前が由来するとしている。この「いざなぎ」は、天竺すなわちインドに住む、不思議な術の達人という設定なんだよな。神話学者の斎藤英喜は、日本神話のイザナギとはまったく別の存在だと、はっきり書いた。天竺から来た術の始祖、というのが祭文の世界観だ。
伝承のバリエーションもあって、天竺のいざなぎ大王から授かった24種の方術に基づく、という言い方もされる。ただ、「いざなぎ流」という名称そのものの由来は、本当のところ判然としない、というのが率直なところだ。高知県立歴史民俗資料館の関係者がまとめた解説にも、名称の由来は判然としない、と正直に書かれている。
起源伝承は一つじゃない――落人説と、それへの反論
物部にはいくつかの起源伝承があって、大きく分けると三つだ。ひとつは、平氏がこの地方に落ちてきたときに伝えられたという説。次が平家の落人である小松氏が伝えたという説で、最後が小松氏一族が始めたという説になる。
1963年刊の『物べ村史』には、小松氏由来の話がこんな具合に載っている。祖神を背負って槙山に移ってきた小松氏が、調子のいい文句を作り、節をつけて唱えた。土地の人はそれを面白がって、礼に物を持ち寄った。話はここからが面白い。やがて病気や災難から逃れるための文句も作るようになり、これが祭文の起こりになった。
話にはまだ続きがあって、その後、小松氏の一族は婚姻によって平氏一族と混ざり合った。神道や仏教や道教の要素を取り込んだ祭文が次々に生まれ、口伝で今の形になった、という筋書きだ。
ただ、この話は研究の側から相当厳しく検討されている。平家が物部に落ちてきたこと自体が、土佐史の研究者に否定されているのだ。しかも近世以前には、「小松姓」の一族の名が見当たらない。
小松和彦は、小松氏一族が伝承したという説を、成り立たないものとして退けた。こうした伝説を作り上げたのは大庄屋職を務めた岡内家だろう、とも論じた。なかなか手厳しい。
面白いのは、村人がなぜそんな伝説を必要としたかだ。いざなぎ流ほど膨大な信仰知識を、地元の宗教者が自前で生み出せるはずがない。そういう感覚があったからだろう、という指摘がある。外から来た貴種が持ち込んだことにしないと、説明がつかなかった。それほど、この体系は深く大きかったわけだ。
太夫という人たち――世襲じゃない、教団もない
いざなぎ流の宗教者を太夫というが、ここでよくある誤解をひとつ潰しておこう。太夫は世襲じゃない。家元制度もないし、特定の教団組織もないし、男女の性別も問わない。
なり方は弟子入りだ。師匠になってもらいたい太夫のところへ謝礼を持って訪ね、入門を許されると「仮許し」という状態になる。四六時中そばにいるのとは違って、師匠が依頼を受けて祭りに出るときに同行し、手伝いながら覚えていく。
覚えるのは、祈祷法、祭文の唱え方、御幣の切り方だ。一人前の証である「許し」をもらうまでには10年はかかると、香美市の公式説明にも書かれている。
しかも面白いのは、複数の師匠を持つのが普通だということ。知識が豊富であるほど偉大な太夫だとされていたので、最初の師匠が持っていない知識を次の師匠から習う。だから太夫は、ひとりひとり違う。「一人一流」と言われるゆえんだ。
太夫は、太夫専業ではない人が多かった。ふだんは林業や農業に従事していて、依頼があると出かけていった。役割は、大きく四つに整理されている。一つめは氏神や家の神を祀る「神祭り」で、二つめが病気治しの「病人祈祷」だ。
三つめは、弓を叩いて神憑りし、託宣を得る「祈祷」。四つめが、山の神や水神をなだめて自然災害を防ぐ「鎮め」になる。宗教者の仕事としては、ずいぶん守備範囲が広い。
昔は、太夫を「博士」と呼んでいた。地元の読みでは「はかしょ」。学問や知識に通じた人という意味合いで、社会的な地位とは関係なく尊敬された。聞き取り調査に出てくる話でも、太夫は何でも相談される存在だった。
作物の育て方から山菜のこと、行くべき病院の相談、子どもの命名まで、全部だ。宗教者であると同時に、村の知識人であり相談役だったわけだ。そう聞くと、ぐっと身近な人に思えてくる。
太夫は自分たちを「巫博士」と呼んでいた、という証言もある。読みは「かんなぎはかしょ」。土御門家が禁じていた弓祈祷をおこない、口寄せや憑き物落としも引き受けていた宗教者集団がいた。それが、江戸時代の地誌にも記された槙山村の「博士」だった。
祭文という、とんでもない量の口承テキスト
いざなぎ流の中心にあるのは、祭文。神の由来や出来事の起源を語る、物語のような文句のことで、祈祷や祭りのなかで太夫が唱える。
種類が尋常じゃない。基本となる「いざなぎ流七通りの祭文」のほか、鎮めに使う「天神祭文」、スソの儀礼に使う「呪詛祭文」がある。雨乞いには「枕木祭文」、病人祈祷のときには「天下正」を使う。山の神、水の神、道の神、家の祭りにも、それぞれに応じた祭文がある。
太夫の家に残る唱文帳は、少ない家でも20冊から30冊、多い家では100冊以上あるらしい。一軒の家にそれだけの帳面が眠っていると思うと、ちょっと気が遠くなる。
祭文の中身は、日本神話とも仏教説話とも違う、独特の世界観だ。「山の神の祭文」を例にとると、山の神は天竺で生まれた三人兄弟という設定だ。その長男が日本に天降りして山の神になり、虫や鳥獣を眷属とし、羽休めの木を定める。
それを知らずに人間が木を伐ったので、病が出た。占いによって、原因が山の神の怒りだと判明した。ここで仲介者が交渉に乗り出す。決まった日に神楽を奉納する約束と引き換えに、伐採の許しを得た。そういう筋だ。
早い話が、樹木が神のものから人のものへ譲渡された、その起源の物語なんだ。山に入って木を伐ることの後ろめたさと、それを許してもらうための手続きが、そのまま神話の形をとっている。よくできた話だよね。
この祭文について、ある太夫が残した言葉が印象的だ。祭文は絶対に現代語に訳してはならない、現代語にすると神々と言葉が通じなくなってしまう、と。祭文をきちんと誦むことができれば、どんな病人の祈祷をしても治すことができる、とも語った。祭りや祈祷のなかで不明なことがあっても、祭文を確かめれば、たいていのことは書いてある、とも言った。
「りかん」――書かれていない言葉のほう
ところが、祭文はいざなぎ流の唱え言の、ほんの一部にすぎない。高知県立歴史民俗資料館の梅野光興が、繰り返し指摘していることだ。
文字になっていないテクストがあって、それを「りかん」という。太夫が実際の儀礼にあたって、即興で考えて唱える文句だ。祭文は定型だが、りかんは定型じゃない。
その場の目的に合わせて、太夫が自分の言葉で組み立てて唱える。なぜこの祭文を読むのか、どういう効果があるのか、いま神々に何をしてほしいのか。そういう中身を、その場で言葉にしていくわけだ。
だから儀礼の実際の目的は、りかんに耳を傾けないとわからないし、祭文だけ読んでいても、その祭りが何のために行われているのかは見えてこない。りかんをきちんと言えるかどうかが、太夫の力量そのものだという。
ここにいざなぎ流の思想がよく出ていて、梅野の言い方を借りれば、いざなぎ流は世界を言葉によって構築してから呪術を行なう。塩で祓うにしても、いきなり塩を撒くわけじゃなく、最初に塩の起源を語る。語ることで霊的な力を持った塩をその場に作り出し、それから祓う。
神も世界も、あらかじめそこにあるものじゃなく、儀礼のたびに言葉で一から作り直される。祭文を唱えることで神の輪郭がかたちづくられ、神がその場に生成するわけだ。
記録に現れるのはいつからか
いざなぎ流がいつ始まったのかは、はっきりしない。起源は平安時代末期ごろにさかのぼるのではないか、という言い方がよくされる。ただ、これは確定した年代じゃなく推定だ。香美市の解説も「起源は定かでありません」と書いたうえで、平安末期説を紹介している。
物部という土地に人が住んでいた痕跡は古い。上池の神通寺や、大栃の大北阿闍梨という地名に関する記録から、8世紀にはすでに集落が形成されていたと推測されている。鎌倉期には、平氏の子孫を称する小松氏が岡ノ内あたりを治めたという。戦国期には長宗我部、藩政期には山内氏の支配下に入った。
中世の古文書は残っているが、そこに「いざなぎ流」という名前がそのまま出てくるわけじゃない。江戸時代の地誌には、槙山村の「博士」という宗教者集団のことが記されている。
物部村の民家からは、土御門家が発行した免許状が見つかったという報告もある。江戸期には、土御門家が全国の陰陽師の支配権を握っていた。この土地の宗教者も、その体制のなかに組み込まれていたらしい。
いざなぎ流の祭儀に使われる仮面のなかには、永禄10年、西暦1567年の年紀を持つ大面が伝わっている。この面は、高知県立歴史民俗資料館に収蔵されている。遅くとも16世紀には、面を使う祭祀がこの地域で行われていたわけだ。
逆の見方もある。「いざなぎ流」という名で一つの体系にまとまったのは、案外新しいのではないか、という見方だ。小松和彦は、明治維新後に太夫たちが教導職として国家の枠組みに取り込まれていく過程に目を向けた。その過程で、それまで散在していた信仰知識が統合されて「いざなぎ流」が誕生した、と論じた。
この見立ては、いざなぎ流を千年続く古層とだけ見る通俗的な理解に、大きな修正を迫るものだ。千年の神秘を期待していた人には、ちょっと肩透かしかもしれない。でも、こっちのほうが話としてはずっと面白い。
民俗学が「発見」するまで
いざなぎ流が学問の対象になっていく経緯は、それ自体がなかなかドラマチックだ。出発点は、1913年の柳田国男「巫女考」だった。そのなかで、柳瀬五郎兵衛が書いた「御子神記事」の概略が紹介された。いざなぎ流太夫の「みこ神の取り上げ」の祭りが、そこに詳しく出てくる。
ただ柳田の関心は、巫女の痕跡を見出すことにあった。いざなぎ流そのものに注目したわけじゃなかった。この時点では、まだ脇役にすぎない。
次が、杉浦健一。柳田が主宰した「日本僻地の民俗学的調査」の一環として、当時の槙山村で実地調査をした。大栃から別府、さらに阿波の木頭村北川あたりまでの集落を歩いた。太夫が祀る御子神についても、重要な指摘を残している。
太夫をした者が死んで10年15年20年と経ってから、神に祀るのだ、と。ところが、なぜか「いざなぎ流」という信仰の存在そのものには言及しなかった。戦前の研究は、この二つだけだ。
本格的な調査研究を最初に手がけたのは、吉村淑甫とその息子の吉村千穎だった。「いざなぎ流」という語自体は、松本実の『物べ村史』に載っている。ただ、研究者によって発見されたのは吉村淑甫の仕事が最初だ、と整理されている。
吉村淑甫は1964年から1971年にかけて、「いざなぎ流神道祭文集」と題する報告を連載した。そこで翻刻・紹介されたのは七種だ。「大土宮祭文」「山王神大神宮祭文」「しゃくそん流」「いざなぎ祭文」、それに「七夕祭文」「えびすの本地」「弓木の本地」だ。
その次に吉村千穎が、民家で祀られている神格の区別、祭壇、祭日、祭儀法、太夫の関与の実態を詳しく調べた。結果は1967年に、学会報と『近畿民俗』で発表された。これで、民家が祀る神々といざなぎ流の関係が、具体的な形で研究者の前に示されたわけだ。県外の民俗学者たちが一斉に注目しはじめたのは、ここからだった。
真っ先に反応したのは、民俗芸能史家の本田安次だった。「祭文神楽」とも言うべき独特の神楽が伝わっている、と報告したのだ。千葉徳爾は狩猟伝承の側から「山の神の祭文」に着目し、いざなぎ流と狩猟文化の複合を明らかにした。
説話研究の大島建彦は、御伽草子の「をこぜ」と「山の神の祭文」の類似を考察している。焼畑・狩猟との関係から「七夕の祭文」に注目したのは、石川純一郎だった。宗教民俗学の木場明志は、いざなぎ流太夫を「民間陰陽師」として把握すべきだと説いた。名前を並べるだけで、顔ぶれの多彩さがわかる。
高木啓夫と小松和彦、そして陰陽師ブーム
吉村父子の研究を受け継いで発展させたのが、高木啓夫だ。昭和46年、1971年前後から調査を始め、多くの祭文を採集して比較した。その集大成が『いざなぎ流御祈祷の研究』で、1996年3月に高知県文化財団から、高知県立歴史民俗資料館との共同発行で刊行された。儀礼の流れ、祭文に登場する人物の役割、単語の解説まで踏み込んでいる。
いざなぎ流の名を全国区にしたのは、小松和彦だった。小松も1971年、まだ大学院生だった年に物部に入った。最初は、大学院の単位のためのレポートを書くための調査だったらしい。
ところが資料を分析する過程で、古代陰陽師伝説の「式神」と、いざなぎ流太夫が伝える「式王子」の類似に気づいてしまう。いざなぎ流の「すそ」が「呪詛」に由来する言葉だ、という見解にも行き着いた。本格的な調査に入ったのは、1976年からだった。人生、何がきっかけになるかわからない。
小松の調査スタイルは、ひとりの太夫に深く聞くのとは違った。できるだけ多くの太夫の知識を比較する、というやり方だ。そこから「いざなぎ流の呪い調伏」を書き、『日本宗教の複合的構造』所収の論考などを経て、1982年の『憑霊信仰論』に収録された。
この『憑霊信仰論』の影響は、とにかく大きかった。理由ははっきりしている。一般向けの本で、しかも呪詛という角度から紹介されたため、いざなぎ流の知名度は一気に上がった。同時に「いざなぎ流イコール恐ろしい呪いの文化」というイメージも、定着してしまった。1990年代後半からの陰陽師ブームがそこに乗っかり、アカデミズムの枠を越えた好奇の目が注がれるようになる。
小松は40年にわたる調査を、『いざなぎ流の研究 歴史のなかのいざなぎ流太夫』にまとめた。2011年9月に角川学芸出版から刊行された、724ページの大著で、これが第1巻になる。
第2巻にあたる『いざなぎ流の研究 祭儀編』は、2026年5月にKADOKAWAから出た。こちらは715ページ。半世紀のフィールドワークの結実が、ようやく二冊そろったわけだ。
研究の現在地、そして見解が割れているところ
1990年以降、研究は深化していった。神楽論・中世神道論の立場から祭儀を考察したのが、山本ひろ子だ。奥三河の花祭と、いざなぎ流の祭文の世界観が似ていることを論じた。
猟師・職人信仰との関連から迫ったのは、松尾恒一だった。山に関わる大工や猟師が、「山の眷属」を意識して活動する宗教的な側面を持っていたことを明らかにしている。2011年には、『物部の民俗といざなぎ流』を吉川弘文館から出した。
高知県立歴史民俗資料館の梅野光興は、1997年の企画展「いざなぎ流の宇宙――神と人の物語」の図録を手がけた。その後も「巫女・博士・陰陽師」「いざなぎ祭文の誕生」などの論考を、次々に発表している。現地の人から「あの人は半分物部の人」と言われるほど、現場に寄り添った研究者だ。
斎藤英喜は1987年以来、物部川最上流の地区に住む太夫のもとを十数回訪ね、聞き取りと手紙のやりとりを重ねた。複数の太夫を比較した小松とは違い、ひとりの太夫に半ば弟子入りするような形で調査したのが特徴だ。
その成果が、2002年12月刊行の『いざなぎ流 祭文と儀礼』だった。2019年に増補版が出て、2022年には法蔵館文庫に入った。手に取りやすくなったのは、素直にありがたい。
ここで、研究者どうしで見解が割れている点をいくつか挙げておく。ひとつは調査方法そのものだ。多くの太夫から広く聞き取って比較するのか、ひとりの太夫に深く入り込むのかで、小松と斎藤ははっきり分かれている。
斎藤は、太夫の側に限りなく近づき、彼らの側からのみ見えてくる世界を記述するしかない、という立場を取った。いざなぎ流の深奥に分け入るには、それしかないと考えたのだ。これは、客観的なデータを集めるという研究の常道から外れる選択だった。
斎藤は最後に「奥の手」を伝授されたが、研究発表の場ではそれを明かさないと判断した。研究者としては批判されうるやり方だ、と本人も書き残している。
もうひとつが、いざなぎ流の成立をどう見るかだ。中世以来の古層が奇跡的に残ったものと見るのか、近世から近代にかけて生成・統合されたものと見るのか。小松の『歴史のなかのいざなぎ流太夫』は、後者に大きく舵を切った。
斎藤はその著作を検討する補論を書き、民俗学はいかに歴史を記述するかという方法論の問題として応じた。どちらが正しいという単純な話じゃない。「生きている信仰をどう歴史化するのか」という問いそのものが、争点になっているのだ。
三つめは、いざなぎ流を陰陽道と呼んでいいのかという問題だ。最初に研究者が入ったときは、修験道の一派だと思われていたらしい。その後、式王子の存在がクローズアップされて、陰陽道ではないかという話になった。
ただ、京都の土御門家や賀茂氏との直接の系譜関係は、長く確認されなかった。現在は「陰陽道の要素を含む民間信仰」、あるいは単に「民間信仰」と呼ぶ書き方が主流だ。「現代に生き残った陰陽道そのもの」という言い方は、慎重に避けられている。
文化財としての位置づけ――1978年と1980年を分けて覚える
ここは通説がだいぶ混乱しているので、丁寧に整理しておく。一つめは1978年、昭和53年1月31日。「いざなぎ流御祈祷」が、文化庁の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択された。保護団体は、いざなぎ流御祈祷保存会。
これは記録を残すべき対象として国が選ぶ制度で、いわゆる「選択無形民俗文化財」にあたる。指定じゃなく、選択。ここ、テストに出るくらい大事なところだ。
二つめが1980年、昭和55年1月28日。この日、「土佐の神楽」が国の重要無形民俗文化財に指定された。保護団体は9団体からなり、その筆頭がいざなぎ流御祈祷保存会になる。
ほかに並ぶのは、岩原・永渕神楽保存会、本川神楽保存会、安居神楽保存会、池川神楽保存会だ。残りは多野川岩戸神楽保存会、梼原町津野山神楽保存会、東津野村津野山神楽保存会、幡多神楽保存会の四つ。これで九つになる。
要は、「いざなぎ流が単体で重要無形民俗文化財に指定された」という書き方は正確じゃない。指定されたのは、高知県内の神楽群をまとめた「土佐の神楽」だった。いざなぎ流御祈祷は、その構成要素のひとつとして位置づけられている。
この点は、自治体のパンフレットでも短縮して書かれることがあった。「いざなぎ流御祈祷は昭和55年に国の重要無形民俗文化財に指定されています」という具合だ。誤解は、そこから広がった。
文化庁の解説文も、物部村に祈祷を主とした祭文神楽が現存していることを、土佐の神楽の価値として特筆している。大方の神楽は、近世の復古神道に解釈や唱文を依拠している。物部のものは舞の詞章に語り物的な要素を残していて、そこが貴重だ、と書かれている。
記録はどこに残されてきたか
いざなぎ流の資料がまとまって見られるのは、高知県南国市岡豊町にある高知県立歴史民俗資料館だ。この資料館は、1992年に「仮面の神々――土佐の民俗仮面展」を開いた。1997年には、「いざなぎ流の宇宙――神と人の物語」という企画展も開いた。
後者の図録は版を重ね、いまでは基本文献の扱いだ。資料館は、御幣、仮面、祭具、太夫の書き残した祈祷の手控え帳なども収蔵している。
物部の現地にある奥物部美術館では、2021年9月から2022年2月にかけて企画展「いざなぎ流御祈祷」が開かれた。現役の太夫による祭の再現を展示し、太夫によるギャラリートークや御幣切り体験、舞神楽の披露もあった。ほかに、香美市物部町農林漁業体験実習館の2階にも郷土資料が置かれている。
県外での大きな展示としては、2024年4月20日から7月21日まで、横浜人形の家で開かれたものがあった。タイトルは「いざなぎ流のかみ・かたち――祈りを込めたヒトガタたち」。高知県立歴史民俗資料館、いざなぎ流と物部川流域の文化を考える会、香美市教育委員会物部分室が協力した。
関連イベントとしては、松尾恒一、小松和彦、梅野光興、山本ひろ子の講演と、太夫による御幣切りワークショップが組まれた。この顔ぶれは、ちょっと豪華すぎる。
展示されたヒトガタ御幣は、実際の祭祀に使われたものじゃなく、記録用資料として作られ、残されたものだ。ここは大事な点で、祭りに使った幣は祭りが終われば処分される。だから博物館に並ぶのは、記録のために切られたものなんだ。
2024年には、香美市物部町で日月祭がおこなわれた。15年ぶりだった2016年の大祭から数えて、8年ぶりのことだ。地元紙が、夜の儀式の様子を報じた。高知県立美術館ではいざなぎ流御祈祷神楽の上演があり、1500人が鑑賞したという報道もある。
伝承の側でも動きがあって、2024年度中に一般社団法人いざなぎ流伝承研究会が立ち上げられた。目的は、いざなぎ流の保存・伝承・研究と、過疎地域の活性化だ。博物館や御幣展示館の設置、祭文データセンターの開設、神楽の定期演舞会などを掲げている。
担い手を増やすという課題に、地域おこしの文脈から手をつけようという試みだ。うまく回ってほしいと思う。
御幣の体系――200種か、100種か、500種か
いざなぎ流といえば、御幣。和紙を切って作る、神々や精霊の依り代のことだ。数については、資料によって言い方が違う。
香美市の解説は「200種類以上」、高知県立歴史民俗資料館まわりの解説では「100種を超える」。体験プログラムの案内では「約200種類」だ。横浜人形の家の展示解説では、祀る対象や用途にあわせて形状が細かく定められ、合計すると約200に及ぶと説明されていた。
この揺れには理由があって、御幣の切り方は地区ごとに違うのだ。別府集落の中尾地区に伝わった切り方をまとめた、『古式御幣の裁ち方かざり方覚え帳』という覚え書きがある。著者は中尾貞義太夫。
ここには正続あわせておよそ160種の幣の切り方が載っていて、しかも「別府中尾伝」と断り書きがついている。同じ別府でも、柿の火手や杉熊などの別の地区、下流の市宇や別役では、また違う形の御幣が伝わっていた。
それぞれの地区に100種を超える伝承があったと考えれば、似たものを含めて全体では500を下らないのではないか、という見積もりも出てくる。
いっぽう、ひとりの太夫が実際に継承しているのは、30種から140種ほどらしい。すべてを切れる太夫はいない。「いざなぎ流の御幣は200種類」という言い方は、体系の広がりを示す目安なんだ。どこかに200種の完全なリストがあるという意味じゃないので、ここは押さえておきたい。
御幣が何であるかも、神道一般の御幣とは位置づけが少し違う。祭文が神話にあたるとすれば、御幣は神像にあたり、ただの依り代というより、神そのものとして扱われる。
目や口を持ち、角があり、ときには手足まで持つものがあって、これを「ヒトガタ御幣」と呼ぶ。可愛らしく見えるものもあれば、恐ろしい力をふるうとされるものもある。見比べると、表情の幅にけっこう驚く。
御幣は神を祀るためだけのものじゃなく、祓うための道具としても作られる。ケガレやスソを移して捨てるための幣もあって、祭儀が終われば、しかるべき方法で処分される。
使い捨てなのだ。この「切って、使って、処分する」というサイクルが、いざなぎ流の御幣の本質だと思う。
どの神にどの幣を立てるか
祭儀に応じて、山の神、水神、荒神、おんざき、八幡、恵比寿、おん竜、めん竜などの神格が切り分けられ、飾り立てられる。水神には、「水神おんたつの幣」「水神めんたつの幣」というように、雄雌の対で切られるものもある。「おんたつ」の「おん」は主を指す言葉だ、という説明がされている。
斎藤英喜が記録した山の神の祭壇の様子は、この体系の広がりをよく伝えている。木の枝で二段の棚が組まれ、棚の後ろには山の神、大荒神、新木、古木、水神などの御幣がくくりつけられる。中の棚には、十二膳の餅、菓子、酒、蜜柑、米粒などが供えられる。
棚の下には、道六神、四足、すそ、山みさき、川みさき、六道神などの小さな御幣が地面に直接差し込まれ、その前にも供えがされる。地面を含めて、三階建ての祭壇になる。
棚の下に祀られているものは何か。道六神は道の神、四足は山の動物たちの魂魄、すそは人の憎しみや妬みのあらわれだ。山みさきと川みさきは、川の合流点に棲む魔物。六道神は、山や川で不慮の死を遂げた者の魂魄や無縁仏だ。
どれも神の眷属であると同時に、災いや病の原因になるものたちでもある。祀らないものがない、というのがいざなぎ流の特徴だ。家の神、月神、地神、山川の神々、氏神、祠、お堂の仏様まで祀る。
そこには動物霊も魔物も、死霊も生き霊も含まれていて、全部祀って、全部いるべき場所に返す。この徹底ぶりには、正直ちょっと感動する。
家の神で特徴的なのが「御崎様」だ。読みは「おんざきさま」。その家における最高位の神で、これを祀ることは太夫にしかできないという。御崎様を祀っている家では、主人が亡くなると「巫神」になる。
太夫が亡くなると「ミコ神」として家に祀られ、その際に「字号」という仮の神号がつけられる。生前の生業が大工なら、「神守木之内」「神守木之槌」などの語を含む。鍛冶屋なら「天神」「小天神」、戦死者や猟師なら「小八幡」などを含む。
大工や鍛冶屋や猟師のような職能者から太夫になる者が少なくなかったことが、字号の決まりから読み取れる。名前ひとつに、その人の生き方が刻まれるわけだ。
こうした家の神々は、天井裏など家の上部に祀られていた。この空間を「サンノヤナカ」と呼び、家主以外は近寄ることも許されない神聖な場所とされた。十二面で一揃いとされる仮面も、同じく家の上部にしまわれている例が多い。
面を作るときは、絶対に人に知られてはならないと言われた。山にこもって自分で彫り、太夫が魂を入れたという。12という数は、いざなぎ流にとって大事な数字なんだよな。
神楽と舞神楽――「畳半畳分で舞うべし」
いざなぎ流の祈祷は、祭文を唱えながら舞を舞うのが特徴だ。座したまま唱えごとをすることを「神楽」、立ち舞う所作を「舞神楽」という。
口伝に、「畳半畳分で舞うべし」という言葉がある。狭い座敷で儀式をすることが多かったから、所作がコンパクトになったと見られている。五色の紙を垂らした綾笠をかぶり、扇やたすきや太刀や錫杖を手に、太鼓に合わせて舞う。太夫がかぶる花笠の裏には、陰陽道由来の魔除け印として知られるセーマンとドーマンが記されていた、という記録もある。
演目は、襷の舞、錫杖の舞、扇の舞、盆の舞、太刀の舞、大将軍の舞、弓の舞などだ。湯立てと称して、湯釜の前で祭文を唱え、米粒を投入して神意を占うところまでは、祈祷の部分になる。神意にかなうと、松明と榊葉を手にして舞いながら家屋敷を祓い清めていく。これが火ぼての舞、湯ぼての舞だ。
ここでもうひとつ通説の訂正をしておくと、「いざなぎ流イコール舞神楽」という理解は、実態とずれている。本来、舞は祭儀の最後にするもので、祭儀全体のなかで占める割合はわずかだ。祈祷こそが中心になる。
それなのに舞神楽のイメージが強いのは、1979年7月に発足したいざなぎ流神楽保存会の活動が、舞神楽中心だったからだ。保存会は、土佐の神楽としての文化財指定を前提に、行政主導で発足した経緯がある。祭文が中心であるはずのいざなぎ流のうち、舞の部分だけが継承しやすい形で残った。
保存会の関係者自身が、こう語った。いまは教える人も習う人もいなくなり、祭りをする家もなくなったので、伝承していくとすれば舞のみだろう、と。読んでいて、少し胸が詰まる言葉だ。
祭儀の種類――氏神祭、取り分け、鎮め、日月祭
いざなぎ流の祭りには、神社でおこなう公のものもあるが、基本は家の祭りだ。あらゆる祭儀の最初におこなわれるのが「取り分け」で、「スソの取り分け」とも言う。
場を清める儀礼で、人間の行いによって生じた見えない世界の混乱状態を、いったん整理する。山のものは山へ返し、川のものは川に返し、スソがあったら鎮める。これがいざなぎ流の基本だと、斎藤英喜は書いた。
人や家に取り憑いたものは、「みてぐら」と呼ばれる祭具に集めていく。みてぐらは、藁で作った輪形の台に人形の幣を数本立てたもので、取り分けの儀礼には欠かせない。
家祈祷は、家々の神や先祖神を祀る祭りだ。病人祈祷は病気治しで押し加持祈祷とも呼ばれ、氏神祭は集落の神社でおこなわれる。
ほかにも、山の神の祭り、水神の祭り、大山鎮め、荒神鎮め、座祝い、恵比須の祭り、天の神の祭りがある。みこ神の祭り、雨乞い、鍛冶や狩猟に関わる祈祷まで、目的の数だけ祭りの種類がある。数えていくと、きりがない。
最大のものが、日月祭。数十年に一度、あるいは十数年に一度しかおこなわれない大祭で、御崎様、天の神、家の神、月の神などの神々をもてなす。一週間にわたって続き、太夫たちは毎夜神楽を舞い、最終日に月を拝んで終わる。2016年に15年ぶりにおこなわれ、2024年にも8年ぶりに開かれた。
祭儀の長さは神霊の意向によって変わり、その伺いを立てる方法が、数珠を使う「くじ」だ。左の指で数珠の糸を握り、右の指で数珠をさっと引いて、左右の指の間にある玉の数が奇数か偶数かで神意を判断する。結果次第では、祭儀をやり直しだ。
聞き書きに、こんな話がある。ある家の納骨で、鎮魂に納得したかをくじで問うた。ところが、何度やっても否しか出ない。故人が酒好きなのに、酒が供えられていなかった。それに気づいて供えた途端、可が出たという。
通常の家祈祷で丸1日、本格的な大祭は3日から1週間。ただ、近年はずいぶん短縮されている。長時間の拘束を嫌う依頼者側と、太夫の数が減って一人あたりの負担が増えた太夫側の事情が重なった結果だ。御幣を切る時間を含めて2時間ほど、という証言もある。
この短縮を、古いあり方を重んじる太夫は批判的に見て、いま精力的に活動している太夫は肯定的に見る。祀る人が減って神の力も弱くなっているから、神も簡略化を承知している。そんな言い方をする太夫もいる。
病気や不幸の原因を「誰の仕業か」と診立てる発想
いざなぎ流の世界では、病気や不幸には原因がある。しかもその原因は「何が悪かったか」じゃなく、「誰の、何の仕業か」という形で問われる。
病気になったら、まず医者にかかる。それは昔からそうだった。診てもらって薬を飲んで治れば、それで終わり。問題は、治らないとき。
医学では治せない何かが働いているのではないか、と考える。神秘的な存在が病人に触っている、と見るわけだ。これを「障り」という。
こうなると太夫が呼ばれ、占いによって障りの原因が明らかにされる。中心は、数珠占いと米占い。弓の弦を叩いて神憑りし、託宣を得る方法もある。
障りの原因は大きく二つに分かれ、ひとつは神仏や祖先の霊の怒りで、これを「お叱り」という。聖地にむやみに立ち入ったり、木を伐ったり、不敬があったりした場合に、神仏が怒って病を与えると考えるのだ。
この場合は供物を捧げて謝罪し、許しを乞うことになり、大山鎮めと呼ばれる儀礼がそれにあたる。もうひとつが、誰かが恨みや妬みを抱いて放ったもの。これがスソだ。
ここで大事なのは、この診立てが「悪いのはお前だ」という裁きじゃない、という点だ。太夫の側にも作法がある。聞き取り調査には、ある太夫のこんな言葉が出てくる。
憑き物を払ったあと、実際に何が憑いていたかは、相手を不安にさせるから言わない、と。お客さんのためになるような祈りと行動をせよ、と師匠に教わったとも。診立ての技術と同じくらい、言わないという配慮も職能の一部なんだ。
祭儀の合間に、太夫が依頼者の家族と談笑しながら、山に入ったときの状況、家の改装の予定、よく見る夢の内容などを聞き出す場面も記録されている。祭儀をおこなう前提として、依頼者と共同体の現実の状況や問題を理解しておくことが大事なのだ。いまの言葉に置き換えれば、相当踏み込んだカウンセリングでもあったわけだ。
スソという観念――そして、ここから先は書かない
スソを漢字で書けば「呪詛」で、一般には「じゅそ」と読む言葉を、いざなぎ流では「すそ」と読む。平安時代ごろには呪いを「すそ」と呼んでいた、という指摘もある。
ただ、いざなぎ流のスソは、「人が人を呪う」だけを指す言葉じゃない。人の憎しみや妬みのあらわれ、その魂魄。家や物や人につくもの。神からの怒りや、神の眷属によるちょっかいまで含めた、負の力全般を指す観念なんだ。
だから取り分けの祭壇では、スソは道六神や四足や六道神と並んで、鎮めて返すべきものとして祀られる。敵として殲滅する対象じゃなく、いるべき場所に戻すべきものなのだ。
かけられたスソを祓い返す側の技法もあって、呪詛返し、調伏返しと呼ばれる。太夫はこれを、「返りの風を吹かす」と表現した。
呪詛の祭文には、釈迦王と大婆王の争いを軸にした物語が語られている。調伏がかけられ、占いで原因が判じられ、調伏返しがおこなわれて、最後は呪詛の祝い鎮めで終わる。物語の結末が「返して終わり」じゃなく、「祝って鎮めて終わり」になっているところに、この体系の性格がよく表れている。
式王子についても、存在と歴史の説明にとどめる。式王子とは、いざなぎ流における式神のことだ。「式」は用いる、使役するという意味で、太夫はいろいろな精霊を式として用いるとされた。
祭文の「表」に対して「裏」と呼ばれる法文の領域があり、そこに式王子を召喚し使役する唱文がある。ある太夫が残した切紙には、謎めいた言葉が書かれていたという。「字文の次第には、表の中に裏あり、裏の中に表はありません」。
神を祀る祭文のなかに、その神を式にする法文が内包されている。ただ、一度そちらへ行ってしまうと、もう神祀りの世界には戻れない。斎藤英喜は、そう教えられたと記した。
この記事は、スソも式王子も、そういう観念と歴史があるというところまでしか書かない。攻撃側の唱え言も、道具も、所作も、幣の切り方も書かない。どういう法文の名前があったかを並べることすら、ここではしない。理由は単純で、書く必要がないからだ。
書いてよいのは、自分を守る側、清める側、厄を除ける側、かけられたものを祓い返す側、魔を除ける側、鎮める側だけだ。この先の実践パートは、全部そちら側にある。
外部の人間が、ここから先を真似しないために
ここで独立した節を立てるのは、この記事でいちばん大事な部分だと思っているからだ。
いざなぎ流は、博物館に収まった過去の遺物じゃない。いまも物部に住む人たちが、生活のなかで継いでいる信仰だ。太夫は実在していて、依頼を受けて家々を回っている。だからこの記事は、公刊された書籍・図録・自治体の公式資料・報道など、すでに公開されている情報の範囲だけで書くことにした。
その前提で、次のことは書かないし、読者にも真似してほしくない。
非公開の口伝は手順化しない。太夫が師匠から「許し」を経て伝授される内容は、外の人間が本やインターネットから拾い集めて再現していいものじゃない。いざなぎ流では、免許のない者が法を使うことは許されていない。使っても法力がなく、「法負け」をすると伝えられてきた。この禁忌は、共同体が自分たちの技術を守るために持ってきた仕組みでもある。
成員限定の儀礼は再現しない。家の神である御崎様を祀ることは、太夫にしかできないという。みこ神の取り上げ、塚起こし、日月祭、荒神鎮め、病人祈祷。これらは依頼者と太夫と神々の関係のなかで成り立つもので、手順だけ抜き出しても意味がないどころか、失礼にあたる。
太夫にしか許されない所作は書かない。印の結び方、法文、りかん、特定の神格の御幣の切り方。この先で紹介する紙の折り方は、いざなぎ流の作法じゃない。後で明記するとおり、神社神道で広く公開されている一般的な御幣・紙垂の作り方だ。ここを混同しないでほしい。
現地で拾ったものに触れない。スソを移した御幣は、すそ林と呼ばれる場所に捨てられたり、埋められたり、川に流されたりする。取り分けで使われた道具は、太夫以外は触ってはいけないとされている。山道や川べりに紙の人形が落ちていたら、写真も撮らずにそのまま通り過ぎるのが礼儀だ。
御幣切り体験についてもひとこと書くと、物部では、太夫が指導する御幣切りの体験プログラムが公開されている。そこで太夫の口から出た言葉が、なかなか示唆的だった。体験で作ったものはただの遊びだから構わない、と。裏を返せば、きちんと作るための術式は別にあるわけだ。
同じ太夫は、昔は自分の家の神棚の御幣は自分の家で作っていた、とも語った。氏神様や恵比寿神などは家に祀ってもよいが、家に祀るものではない神もいる、とも言う。この線引きを、外の人間が勝手に動かしてはいけない。
図の見方
この記事には2枚の図を入れた。日本語のフォントが環境によって崩れるので、図中のラベルはラテン文字にした。ここで、日本語の凡例を書いておく。
1枚目は、紙を切って折るところの展開図だ。上段の左が第一段階で、紙を縦に二つ折りにするところ。FOLD LINEと書いてある破線が折り目で、CENTERは中心線。
上段の右が第二段階で、四等分の折り目をつけたうえで、上下互い違いに三分の二まで切り込みを入れるところ。CUT 1からCUT 3までの太い線が切り込みの位置で、矢印の向きが切り込む方向だ。DEPTH 2/3は、切り込みの深さが紙の幅の三分の二という意味。
下段の左が第三段階で、折り目のある一片を頭にして、残りの三片を順に手前へ折り返していく様子を描いた。VALLEYは谷折り、MOUNTAINは山折りを表す。下段の右が完成形だ。HEADが頭の部分、GUSHIが串を挟む位置、FRONTが正面にあたる面。寸法の目安は、mm単位で入れておいた。
2枚目には、幣を立てる位置の見取り図を描いた。上の図は、神棚を正面から見たところ。SHELFが棚板、OFUDAが御札、GOHEI Lが左の幣、GOHEI Cが中央の幣、GOHEI Rが右の幣。RICEが米、SALTが塩、WATERが水、SAKAKIが榊立て、SAKEが酒。並べる順序は、そのまま図の配置どおりだ。
下の図は部屋を上から見たところで、Nが北、Eが東、Sが南、Wが西。SHELF POSITIONが棚を置く位置、FACING EASTとFACING SOUTHが棚の向きの選択肢だ。EYE LEVEL ABOVEは、大人の目線より高くという意味。DOORが出入口、AVOIDと書いた区画は避けたほうがよい場所だ。
実践の前に――どこまでやるか、はっきりさせておく
ここからが実践編だ。やることはひとつ、紙で御幣を作って、家に立てて、手を合わせる。それだけ。大前提を三つ、書いておく。
ひとつめ。ここで紹介する折り方と切り方は、いざなぎ流の太夫の術式じゃない。神社神道で広く公開されている、一般的な御幣と紙垂の作り方だ。下敷きにしたのは二つある。
神社が一般向けに公開している紙垂の作り方の手順と、紙加工業者が公開している御幣の折り方の手順だ。この二つを組み合わせた。いざなぎ流の特定の神格の幣を、模倣するものじゃない。
ふたつめ。これは「いざなぎ流をやる」ことじゃない。いざなぎ流の世界に触れて、その根っこにある感覚、つまり紙を切って神をかたどるという感覚を、自分の手で体験してみるという話だ。名前を借りてはいけない。
みっつめ。願いを叶える保証も、病気が治る保証も、災いが避けられる保証もない。そこは断言しない。これは、気持ちの置き場所を作る営みだ。
用意するもの
紙は半紙か奉書紙。半紙なら市販のもので十分で、333mm×242mm前後の一般的なサイズを使う。きちんとしたものを作りたければ奉書紙がいいし、書道用の半紙は薄いので破れやすいが、そのぶん折りやすい。
コピー用紙でも練習はできるが、神棚に立てるものには白い和紙を使いたい。ここは少しだけこだわってほしい。
刃物は、カッターナイフか、よく切れる小刀。ハサミでもできるが、切り口の直線がきれいに出るのはカッターだ。下敷きにはカッターマットか厚紙を敷き、定規は30cm以上のものが一本あると楽だ。鉛筆は薄く目印を入れるためだけに使い、最後は消す。
串は白木の幣串が神具店で手に入り、長さ30cm前後が家庭用の目安だ。手に入らなければ、竹を割って作ってもいい。竹なら節を避けて幅12mmから15mmくらい、厚み3mmくらいに削り、先端を紙が挟めるように二つに割る。
割れ目は紙の厚み分だけでよく、深く割りすぎない。竹は青いものより、しばらく乾かして白っぽくなったもののほうが割れにくい。表面のささくれは紙を傷めるので、紙やすりで落としておく。
こより用に和紙を細く裂いたものも用意して、串の上部に結ぶ。結び目が見えるほうが表になるので、あとで向きを判断する目印になる。
手を洗って、机を拭いて、静かなところでやるのが、用意のいちばん大事なところかもしれない。
折りと切りの順序
最初に紙垂を作る。これが幣の本体だ。半紙を四つ切り、つまり縦横それぞれ半分に切って四枚の長方形にする。一体につき紙垂を二枚使うので、半紙一枚から二体分できる計算になる。
一枚を取って縦に二つ折りにし、折り目は指でしごいてしっかりつけて、折り目のある側が左に来るように置く。
続けて、その紙を横方向に四等分する折り目をつける。二つ折りをもう一度二つ折りにして開けば四等分の折り目ができ、これが切り込みの位置を決める基準線になる。
切り込みを入れる。四等分の線に沿って、上下互い違いに、紙の幅の三分の二まで切り込む。一本目は上から下へ、二本目は下から上へ、三本目はまた上から下へ。互い違いというのがコツで、これをそろえてしまうと紙が分解する。
三分の二という深さも守る。深すぎると千切れ、浅すぎると垂れが開かない。ここは雑にやると、あとで泣く。
折り返す。折り目のある一片を頭にして、残りの三片を順に手前に折り返していく。切り込みの深さのところで折るので、自然に段々の形ができる。ここで慌てると紙が裂けるので、一片ずつ、指の腹で押さえながらゆっくり折る。
最後の片を折り終わったら、頭の部分を小さく二つほど折り曲げておく。これで紙垂が一枚できた。同じものを、もう一枚作る。
もうひとつ、より簡単な作り方もある。奉書紙を120mm×220mmに切り、長い方を110mmのところで二つ折りにする。中心から左右対称に、上下それぞれ二本ずつ切り込みを入れ、横幅は紙の幅の十分の一、深さは高さの三分の二を目安にする。
切り込みに合わせて、中心から外側へ順に折り返す。裏返して一番上の角を斜めに折り返し、頭の部分を半分に折り返せばできあがりだ。慣れないうちは、一枚に1時間くらいかかる。破れたりずれたりするのが普通なので、最初の何枚かは練習だと思ったほうがいい。
串に挟む。紙垂を二枚、幣串の先端の割れ目に挟み込み、左右対称になるように位置をそろえる。挟んだところにこよりを巻いて結ぶ。結び目のある側が表だ。
立てる場所と方角、立てる日
御幣は、神棚の中央、御札よりも手前に立てる。垂直に立てるのが基本で、専用の御幣台があるときれいに立つが、なければ榊立てに挿しても、粘土を土台にして挿してもかまわない。
本数は、神棚の大きさに応じて3本か5本が基本だという。ただ地域によっては、左右1本ずつという立て方もあり、1本ではいけない、ということもない。ここは厳密なルールじゃないので、自分の棚のサイズと相談して決めていい。
向きは、こよりの結び目がある表の面を東か南に向けるもので、神棚そのものを南向きか東向きに設置するのと同じ考え方だ。こよりを結んでいない場合は、紙垂が折られている方向が正面になる。
神棚がない家のほうが、いまは多い。その場合は、家のなかでいちばん人が集まる場所、人が長くいる場所で、大人の目線より高く、明るくて清潔なところに置く。タンスや本棚の上に白い布か白い紙を敷いて、その上に置けば十分だ。
トイレや浴室の隣の壁、人がその下をしょっちゅう通る場所、エアコンの風が直接当たる場所は避ける。玄関に置くのは駄目だという考え方もあるが、場所がないなら玄関でもよい、というのが現実的な線だと思う。
立てる日は、12月中がいいらしい。12月13日の正月事始めから28日までのあいだに、御札と一緒に新しくする。12月29日は二重苦に通じるとして、30日と31日は一夜飾りになるとして避けられる。28日までに間に合わないときは30日に、という言い方もある。
これは、正月に合わせる場合の話だ。思い立ったときに始めるなら、朔日か十五日、あるいは自分の氏神様の祭日に合わせると、けじめがつけやすい。
家族に不幸があったときは、神道では最大50日間を忌中とするので、この間は無理に取り替えず、忌明けしてから新しくする。ここは焦らなくていい。
供物の並べ方
供えるものは、米、塩、水が基本。これに酒を加える家も多いし、榊も立てる。
並べ方は、神棚の手前中央に水を置き、向かって右に塩、左に米を置くのが一般的な形だ。酒を供えるときは、瓶子を一対、米の左右あるいは奥に置く。榊立ては、棚の左右両端に一対。米は高杯か平瓮に、塩も同じく盛り、水は水器に入れて、朝に汲みたてのものを供えて蓋を開けておく。
正式には三方か折敷に載せるが、神棚に十分な広さがなければ、そのまま置いてかまわない。器は神具店で揃えられるが、白い小皿で代用しても差し支えない。大事なのは、専用のものを決めて他の用途と混ぜないことだ。
供えるタイミングは朝。米と塩と水は毎朝取り替えるのが理想で、難しければ朔日と十五日に改める。酒は朔日と十五日、あるいは祭日に供え、榊は枯れる前に取り替える。常に生き生きとみずみずしくあること、と神社庁の説明にもある。
下げたものを捨てずに食べるのが、「おさがり」をいただくという意味だ。ここまでやると、なんだか生活に一本筋が通る。
いざなぎ流の祭壇では、十二膳の餅や菓子、酒、蜜柑、米粒が供えられていた。棚の下の小さな幣の前にも、別に供えがされていた。全部に供える、という発想がここにもある。家庭でそこまでやる必要はないけれど、「これにも供えておこう」という気持ちの動きは、覚えておいて損はない。
唱える言葉と、手の合わせ方
最初に、正直に書いておく。いざなぎ流について、一般の人が家で唱えてよいとされる定型の唱え言は、公刊資料では確認できなかった。祭文も法文もりかんも、太夫が師匠から伝授を受けて唱えるものだ。学術書に翻刻されているものはあっても、それは研究資料で、一般向けの手引きじゃない。だから、ここにはいざなぎ流の唱え言を載せないことにした。
代わりに、出所のはっきりした神道の一般的な形を示すことにした。いずれも、神社本庁および神社庁が一般向けに公開している文言だ。
ひとつめは略拝詞。原文は「祓へ給ひ清め給へ 神ながら守り給ひ幸へ給へ」。読みは「はらえたまい きよめたまえ かむながら まもりたまい さきわえたまえ」。現代語訳は「お祓いください、お清めください、神さまのお力によりお守りください、幸せにしてください」。
神社本庁の公式サイトが、この訳と一緒に紹介している。神社に参拝するときや神棚を拝むときに、唱える場合もある言葉だという。短いので、覚えるのはすぐだ。
ふたつめは祓詞。原文は長いので、区切って書く。書き出しは「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神」。続きが「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等」だ。そこから「諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を」と続く。
結びは「聞こし食せと恐み恐みも白す」。読みの前半は「かけまくもかしこき いざなぎのおおかみ つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに」。中ほどが「みそぎはらえたまいしときになりませる はらえどのおおかみたち もろもろのまがごと」になる。後半は「つみ けがれあらむをば はらえたまい きよめたまえともうすことを きこしめせと かしこみかしこみももうす」だ。
大意も、区切って書く。前半は「伊邪那岐大神が黄泉国を訪ねて身が穢れたため、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原という浜辺で」。続いて「水につかって禊をしたときにお生まれになった祓戸の大神たちよ、その御神徳によって」。
そのあとが「私たちの犯した罪や心身の穢れを祓い清めてくださいと申し上げることを」。締めが「どうかお聞きください、と恐れ畏んで申し上げます」となる。北海道神社庁が、読み下しと大意をつけて公開している。
念のため書いておくと、この祓詞に出てくる「伊邪那岐大神」は、記紀神話のイザナギのことだ。いざなぎ流の「いざなぎ様」とは別の存在になる。同じ音だからといって、混ぜてはいけない。
みっつめは神棚拝詞。原文の一句目は「此の神床に仰ぎ奉る 掛けまくも畏き 天照大御神」。続いて「産土大神等の大前を拝み奉りて 恐み恐みも白さく」。
その先が「大神等の廣き厚き御恵みを 辱み奉り 高き尊き神教のまにまに」。さらに「直き正しき眞心もちて 誠の道に違ふことなく 負ひ持つ業に勵ましめ給ひ」と続く。結びは「家門高く 身健に 世のため人のために盡さしめ給へと恐み恐みも白す」だ。
読みは、はじめが「このかんどこにあおぎまつる かけまくもかしこき あまてらすおおみかみ」。次が「うぶすなのおおかみたちのおおまえをおろがみまつりて かしこみかしこみももうさく」。
その次が「おおかみたちのひろきあつきみめぐみを かたじけなみまつり たかきとうときみおしえのまにまに」。続けて「なおきただしきまごころもちて まことのみちにたがうことなく おいもつわざにはげましめたまい」。最後が「いえかどたかく みすこやかに よのためひとのためにつくさしめたまえと かしこみかしこみももうす」。
現代語訳も区切っておくと、はじめが「この神棚に仰ぎまつる、言葉に出すのも恐れ多い天照大御神と」。次が「この土地にお鎮まりになっている産土の大神の御前を拝して謹んで申し上げます」。
その次が「神々の広く厚い御恵みをもったいなく思い、高く尊い神の教えのとおり」。続いて「素直で正しい真心によって人の道を踏みはずすことなく、自分の従事する勤めに励むことができますように」。
最後が「また家が栄え、家族も健康で、世のため人のために尽くさせてくださいと、恐れ畏んで申し上げます」。これも北海道神社庁が、一例として公開しているものだ。
よっつめ。神社本庁は、古くは占いに関連して用いられ、のちに神を拝むときにも用いられるようになった言葉を挙げている。それが「吐普加美依身多女」。読みは「とおかみえみため」。
本来の意味は、はっきりしていないという。「遠神能看可給」すなわち遠つ御祖の神よ御照覧ましませ、という意味だとする説明がある。「遠神笑美給」すなわち遠つ御祖の神よ笑み給え、という意味だとも言われる。意味が確定していない、と公式に書かれている点まで含めて覚えておきたい。
所作は、二拝二拍手一拝でいい。棚の前に立って軽く頭を下げ、深く二回お辞儀をしたら、胸の前で手を二回打ち、唱え言を述べ、最後にもう一度深くお辞儀をする。拍手は、右手を少し下にずらして打つと音がよく出る。拍手のあとに手を合わせて、しばらくそのままでいてもいい。
もうひとつだけ。いざなぎ流のある太夫が、神道のように姿勢を重んじる祈りに対して、「いざなぎ流は神に伺う」と語っていたという記録がある。形を整えることと、相手の意向を伺うことは、少し違う。自分の家で手を合わせるとき、「こう言えば効く」じゃなく「今日はどうですか」という気持ちでいる。そのほうが、この土地の感覚には近いのかもしれない。
取り替えと、古い幣の納め方
御幣は消耗品だ。紙は埃を吸うし、湿気で波打つし、日に焼けて黄ばむ。取り替えの目安は年に一度。12月中に、御札と一緒に新しくする。
ただ、これは絶対じゃないので、汚れたり破れたりしたら、その都度作り直していい。神棚の御幣は毎年新しくする家がほとんどだ、という神社の説明もある。
古い幣をどうするか。これがいちばん相談の多いところだと思う。基本は神社に納める。多くの神社に古札を納める場所が設けられていて、そこに置いてくればお焚き上げしてもらえる。
年明けのどんど焼き、古神札焼納祭に合わせて持っていくのが一般的だ。ただ、神社によっては、他所で受けたものは受け付けない、紙以外は受け付けない、などの決まりがある。事前に確認してから行くのが礼儀だ。
どうしても神社に持っていけないときは、自宅で処分するしかない。白い紙を広げてその上に幣を置き、塩をひとつまみずつ左、右、左と振って清めたら、紙ごと包み、他のごみと混ぜずに紙ごみとして出す。串が木や竹なら、紙とは分けて、同じように清めてから可燃ごみに。
この方法は、神社の説明で「何らかの事情で自ら処分せざるをえない場合」として案内されているやり方に沿っている。迷ったら、地域の神社に相談すればいい。
自宅で燃やすのは勧めない。庭で焚き上げる習慣のある地域もあるが、消防法や自治体の条例で、野焼きが禁じられている例が多い。集合住宅のベランダなんて論外だ。
賃貸、集合住宅、火気制限のなかでどうするか
いまの住まいでこれをやる話をしておくと、壁に穴を開けられない賃貸なら、棚は買わなくていい。本棚やタンスの上面に白い紙か白布を敷いて、その上に幣と器を並べれば十分だ。突っ張り棚やウォールシェルフを使う手もあるが、地震で落ちない固定を優先する。
上の階に人が住んでいる場合、その真下に置くのは避けたい、という考え方がある。気になるなら、天井に「雲」「天」と書いた紙を貼るという工夫が広く行われている。これは全国どこでも見られるやり方で、実用的な落としどころだ。
火の扱いは慎重に。ろうそくや灯明を使う家もあるが、賃貸や集合住宅では、火災報知器と管理規約を先に確認する。まずはLEDの電池式灯明に置き換えるのが、いちばん安全だ。
もし本物の火を使うなら、守ることは四つある。離れない、寝る前に必ず消す、外出前に必ず消す、周囲に紙や布を置かない。御幣は紙でできているので、灯明のすぐ隣に紙を立てるのは、それだけで危ない配置だ。
距離を取る。線香を使う場合も同じで、灰受けを深いものにして、風で倒れない場所に置き、換気をする。火事を出したら、それこそ本末転倒だ。
音の問題もあって、拍手は集合住宅だと響くから、夜は音を立てずに手を合わせるだけでいい。神道の作法でも、忍手といって音を立てない拍手がある。気にしすぎる必要はないが、隣人への配慮も清浄さのうちだと考えれば納得がいく。
ペットや小さい子どもがいる家では、手の届かない高さに置く。幣は倒れやすいし、串の先は尖っている。台に両面テープで軽く固定しておくと安心だ。
物部を訪ねるなら
現地に行きたくなった人にも少し書いておくと、公開されている接点はいくつもある。べふ峡温泉には「いざなぎの間」という部屋があって、祭儀のひとつ「宅神祭」を再現している。物部いざなぎ流神楽保存会による舞神楽の鑑賞や体験、太夫による御幣切り体験も用意されている。
大栃の古民家を使った宿でも、御幣切り体験がおこなわれている。高知県立歴史民俗資料館に行けば、御幣も仮面も祭具もまとめて見られるし、奥物部美術館や体験実習館の郷土資料もある。入口は、こういう公開された場所にするのが筋だ。
祭事の見学で守りたいことはいくつかあって、まずは公開されている行事かどうかを必ず確認する。いざなぎ流の祈祷は個人の依頼によって不定期におこなわれるもので、公開の行事じゃない。
家の祭りに外から見に行く、というのはまずありえない。保存会の公演、資料館・美術館の企画、旅行商品として組まれたプログラムなど、公開されている枠に参加する。
撮影の可否は、その場で必ず確認する。研究者ですら、録音するな、これは誰にも言うなと言われる場面がある。カメラを向ける前に主催者か保存会の人に聞き、だめと言われたら引き下がる。
撮っていいと言われても、祭壇の正面に回り込んだり、太夫の動線をふさいだりしない。SNSに上げていいかは、撮影の可否とは別の許可だと考えたほうがいい。
祭壇や幣に触らない。供物にも触らない。人形の紙が落ちていても、拾わない。
服装は地味でいい。黒でなくてよいが、派手な色柄は避ける。座敷に上がることがあるので靴下は清潔なものを選び、長時間の正座になることもあるので、正座椅子があると助かる。
いちばん大事なことを書いておく。太夫個人のところへ押しかけて、祈祷を頼まない。これはマナー以前の問題だ。
太夫は、農林業などをしながら太夫の仕事をしている人が多い。数も減っていて、地域の人たちの祭りと祈祷で手一杯だ。そこへ外から「呪いを解いてほしい」「祈祷してほしい」と押しかけるのは、生活を壊す行為になる。
他所から「誰々を呪い殺してほしい」という依頼が持ち込まれることがある、という話も伝わっている。そういうものが積み重なると、迎える側は外の人間全体に対して心を閉じる。そうなって当然だと思う。
行政の窓口も同じだ。香美市教育委員会は、公式サイトのいざなぎ流の解説ページに、はっきりと注記している。祈祷の依頼や相談、太夫の紹介は行っておりません、と。これは冷たいわけじゃなく、太夫と地域を守るための線だ。市役所に電話して食い下がっても、事情は変わらない。
紹介してもらうあてがないなら、頼まない。それでいい。公開されている展示を見て、公開されている体験に参加して、公刊された本を読む。それだけでも、この信仰の深さは十分に伝わってくる。
山のものは山へ、川のものは川へ
ある太夫が、山の神や水神の祭祀についてこう語ったという記録がある。本来的には祀りは必要のないものだ、と。太夫の語りは、こう続く。山の神にしてみれば、人間が来て木をどんどん伐れば山は寂しくなるし、そこで生きている鳥も虫も生活ができなくなる。
水神にしてみれば、ダムを作られ護岸工事をされればつらい。地神にしてみれば、ブルドーザーで掘られコンクリートで埋められればつらい。そっとしておいてほしい。祭りは本当はいらないものなのだ。
でもそれでは人間が生活できないから、祭りをしてさしあげて許してもらう。これは世界に通じることだ。そういう語りだった。
いざなぎ流の根っこには、この感覚があると思う。人間が生きるということは、他のものの領分を侵すことで、それを帳消しにはできない。できないから、言葉を尽くし、紙を切り、供えものをして、許しを乞う。
山のものは山へ返し、川のものは川へ返す。取り分けという儀礼の名前は、まさにそれを言っている。
紙を一枚切って、串に挟んで、部屋の高いところに立ててみる。それだけのことで、何かががらりと変わるわけじゃない。でも、自分の生活が何かの上に成り立っていることを、一日に一度思い出すための装置にはなる。物部の人たちが何百年かけて磨いてきたものの、いちばん外側の一枚くらいは、そこで触れられる気がする。
いま、物部町に住んでいるのは1,257人だ。太夫は減り、家祈祷をする家も減っている。それでも、御幣を切る手つきを教える太夫がいて、それを習いに行く人がいて、山の向こうから訪ねてくる人がいる。そういう場所がまだ日本にあることを、まずは知っておきたい。
