- 壁を叩く音から始まった、百八十年
- 一八四八年三月三十一日、ハイズヴィルの寒い夜
- はいなら二回、という最初の通信規約
- 地下室の骨と、実在しない行商人
- 姉が興行にした、という決定的な一手
- 調べられるほど信じられる、という奇妙な構造
- 燃え尽きた地域という土壌
- テーブルが踊り、応接間が交霊室になった
- 六十万人の死者が、需要を作った
- 心霊写真という商売と、一八六九年の裁判
- 縛られたまま、楽器が鳴る木の箱
- 手品師が同じことをやってみせた日
- ただ一人、捕まらなかった男
- フランスで生まれ変わり、ブラジルで根づいた
- 白衣の女は、誰だったのか
- 一八八二年、世界最強の霊媒暴露機関ができた
- 一万七千人に聞いた、幻覚の国勢調査
- 目撃証言そのものを、実験で壊した
- エクトプラズムという言葉を作った男
- テーブルは、足で浮いていた
- ケンブリッジで、そしてコロンビアで
- 第一次大戦が、二度目のブームを呼んだ
- 名探偵の作者が、推論を願望に譲り渡した
- 脱出芸人が、霊媒狩りを始めた理由
- 一九二四年、ライム街の決闘
- チーズクロスと、青く染まらなかった夜
- 一七三五年の魔女法で裁かれた霊媒
- 物理現象を捨てた系統が、生き残った
- 奉仕せよ、という一語に還元される教え
- 日本に持ち込んだのは、東大出の英文学者だった
- 本国より日本で読まれた、という逆転
- 祖母の家の柱時計が、三回鳴った
- 床に落ちていた、一センチの繊維
- 三年通って、必要がなくなった男
- ネット上では、三つの層に分かれている
- 暴露の手口は、驚くほど限られている
- なぜ人はラップ音を信じたのか
- 間違った科学ではなく、新しい様式の宗教だった
- 創始者が否定しても、止まらなかった
- いま、死者の声は合成できる
- テーブルの向こう側に、腰を下ろしてみる
壁を叩く音から始まった、百八十年
一八四八年の春、ニューヨーク州西部の名もない集落で、数回の乾いた音が鳴った。その音が、その後百八十年近くにわたって西洋世界の死生観を揺さぶり続けることになる。
近代スピリチュアリズムと呼ばれる巨大な運動は、教義書からも預言者からも始まらなかった。始まりは、寝室の壁を叩く音と、それに応じて指を鳴らした少女の悪戯だった。
ここではその一夜を細部まで再現する。そこから枝分かれしていった百年の熱狂、科学者たちの闘い、手品師たちの反撃。そして極東の島国での奇妙な再受容まで、順を追ってたどっていく。
長い話になるが、筋はひとつだ。人は応答するものに、必ず人格を見出してしまう。ぶっちゃけ、それだけの物語かもしれない。
一八四八年三月三十一日、ハイズヴィルの寒い夜
ニューヨーク州ウェイン郡アーケイディア地区、ハイズヴィルと呼ばれた寄せ集めの集落。三十一日の夜。鍛冶と農作業で生計を立てるジョン・フォックスとマーガレット・フォックスの一家が、借りたばかりの粗末な木造家屋に身を寄せていた。
家族は前年の冬から、夜になると壁や床から鳴る音に悩まされていた。ノックのような、あるいは家具を引きずるような音。父ジョンは風のせいだ、材木の収縮だと繰り返し、実際に窓枠を揺すって音を再現しようと試みた。だが音は、揺すった窓とは別の壁から返ってきた。
この夜、家族は早く床に就くことにしたのだ。何日も睡眠を削られていたからだ。二人の娘、十四歳のマーガレッタ、通称マギーと、十一歳のケイトは、両親と同じ部屋に置かれた寝台にいた。
灯りを消してほどなく、音が始まる。すると末娘のケイトが上体を起こし、暗がりに向かって指を鳴らした。パチン、パチン、パチン。壁が同じ回数だけ応じた。
ケイトは笑って言った。スプリットフット、私の真似をして。割れた蹄、つまり悪魔への呼びかけである。子供らしい不敬さと恐怖が半々に混じった声だった。
彼女が四回鳴らすと、四回返ってきた。声を出さずに指を四本立てるだけでも、正確に四回返ってくる。姉のマギーが、今度は私の番、数えて、と言うと、また合った。
母マーガレットは震える手で蝋燭に火を点け、自分で試すことにした。子供たちの年齢を順に尋ねる。長女、次女、三女と、それぞれの年齢の数だけ音が鳴る。
そして最後に、母は思い切って、幼くして亡くなった子の年齢を問うた。部屋は静まり、それから三つ、短い音が鳴った。母はその場で膝から崩れる。以後、彼女はこの音を人間の悪戯とは考えられなくなった。
はいなら二回、という最初の通信規約
その夜のうちに、質問と応答の規約が作られた。肯定なら二回、否定なら沈黙、あるいは一回。これは些細に見えて決定的な発明だった。
それまで幽霊は、姿を見せるか、声を出すか、物を動かすか、いずれにせよ一方通行の存在だった。ところがフォックス家は、幽霊にはいといいえを言わせる回線を敷いてしまったのだ。
回線が敷かれれば、あとは通信量の問題になる。近所の住人が呼ばれ、その夜のうちに十数人が家に押しかけた。翌日には七十人を超えた。人々は次々に質問し、音は次々に答えたのだ。
さらに一段進んだ工夫として、アルファベット表を読み上げ、該当する文字で音を鳴らさせる方式が生まれる。これで幽霊は文章を綴れるようになった。
降霊会という営みの基本設計は、この最初の数日でほぼ完成している。質問者、媒介者、符号化された応答、そして立ち会う証人たち。あとの百年は、この設計の上に建て増しされた壮大な増築工事にすぎない。
地下室の骨と、実在しない行商人
音は自らの正体を語り始めた。曰く、自分は行商人である。数年前にこの家で殺され、地下室に埋められた。
名はチャールズ・B・ロズナ。年齢は三十一、妻と五人の子がいた。殺害したのは当時の借家人であり、五百ドルを奪われた。
この物語は、単なる怪音を殺人事件へと変換したのだ。人々は地下室を掘った。地下水が湧いて作業は難航したが、毛髪と骨片らしきものが出たと報じられる。決定的な遺体は出なかった。
この一件には長い尾がある。一九〇四年、ハイズヴィルの家で遊んでいた子供たちが、崩れた壁と土のあいだから人骨らしきものを見つけたと伝えられた。信奉者たちは半世紀越しの証明だと沸いた。
だが後の検証では、それは肋骨数本と雑多な骨の寄せ集めで、鶏の骨まで混じっていたという。地元の人間が悪ふざけで埋めたという噂も流れた。行商人ロズナが実在した記録は、ついに見つかっていない。
にもかかわらず、この物語はスピリチュアリズムの創世神話として今も語られ続けている。証拠がないことは、物語の寿命にほとんど影響しなかったわけだ。
姉が興行にした、という決定的な一手
事態を運動へと変えたのは、はるかに年長の長姉、リーア・フォックス・フィッシュである。ロチェスターで音楽教師として糊口をしのいでいた彼女は、妹たちを引き取ると、この現象を組織化した。
会場を用意し、入場料を取り、質問を捌き、記録を残す。今日の言葉で言えばプロデューサーであり、興行主だった。妹たちは巡業する演者になった。
ロチェスターという土地も重要だったという。クエーカー系の改革者アイザック・ポストとエイミー・ポスト夫妻が、姉妹の後見人となる。これによってこの現象は、当時の急進的な社会改革のネットワークに接続された。奴隷制廃止運動、女性の権利拡張運動、禁酒運動。そういう人たちの輪の中に入ったわけだ。
死者との交信は、単なる怪談ではなく、既存の教会権威に対する異議申し立ての言語になる。牧師の仲介なしに霊界と直接つながれるのなら、聖職の独占は崩れる。この含意が、運動を燎原の火にした。
調べられるほど信じられる、という奇妙な構造
一八四九年十一月、ロチェスターのコリンシアン・ホールで、姉妹は有料の公開実演に踏み切った。四百人ほどが詰めかけたと伝えられる。
ここで生まれたのが、その後の心霊史を規定する慣習、すなわち調査委員会である。聴衆から選ばれた数人が委員となり、姉妹を別室に連れて行き、身体を検分し、床板を確かめ、条件を変えて音が鳴るかを試す。
委員会は三夜にわたって編成され、そのつど詐術の証拠は発見できずと報告した。この結果に納得しない一部の聴衆が騒ぎ、警官が出動する事態にもなっている。
しかし興行的には大成功だった。専門家が調べたが暴けなかったという物語は、疑い深い人間にこそ強く訴える。以後、心霊現象は必ず委員会とセットで語られるようになった。
検証されればされるほど信仰が強まるという、奇妙な構造がここで生まれている。この構造は、百七十年後の今もまったく壊れていない。正直、そこがいちばん怖い。
燃え尽きた地域という土壌
ニューヨーク州西部一帯は、当時、焼き尽くされた地域と呼ばれていた。信仰復興運動の炎が何度も走り抜け、燃やす燃料がもう残っていないという意味である。
この地からモルモン教が生まれ、ミラー派の再臨運動が生まれ、シェーカーやオナイダ共同体が根を張った。運河が通り、人が流動し、旧来の共同体の縛りがゆるんだ土地では、新しい宗教的な提案が驚くほど早く広まる。
フォックス姉妹の音は、その最後の火花として、最も遠くまで飛んだ。土壌がなければ、少女の指の音は近所の噂話で終わっていたはずだ。
テーブルが踊り、応接間が交霊室になった
一八五〇年代前半、アメリカ各地に霊媒が湧いた。ラップ音だけでなく、テーブルが傾き、浮き、脚で床を叩くテーブル・ターニングが流行する。自動書記が現れ、トランス講演が現れ、霊界からの通信を口述する媒介者が現れた。
一八五〇年代半ばには、アメリカ国内の信奉者は数百万に達すると言われた。数字の信頼性は怪しいが、当時の新聞と雑誌の扱いの大きさを見れば、社会現象の規模は疑えない。
運動は瞬く間に大西洋を渡った。ロンドン、パリ、ベルリン、サンクトペテルブルクの上流サロンでテーブルが踊り、宮廷の一室で霊が呼ばれた。
中産階級の応接間は即席の交霊室になり、家庭用の交霊道具が商品として売られる。二十世紀に入ってから商品化される文字盤つきの占い板は、この家庭内降霊会の延長線上にある。
六十万人の死者が、需要を作った
スピリチュアリズムを一過性の流行で終わらせなかったのは、大量死である。一八六一年から六五年にかけての南北戦争は、六十万人を超える死者を出した。
多くは遠い戦地で死に、遺体は戻らず、最期の言葉も伝えられなかった。臨終の枕元で家族に看取られ、信仰を確かめて逝くという当時の良き死の作法が、大規模に破壊されたのである。
埋め合わせを求める需要は膨大だった。霊媒は、遺族に対して、彼は苦しまなかった、彼は今ここにいてあなたを見ている、と語った。
この機能は、後の第一次世界大戦後にもう一度、さらに大きな規模で反復される。スピリチュアリズムの流行曲線は、戦争と疫病の曲線とほぼ重なる。運動の本質は形而上学ではなく、悲嘆の処理装置だった。
心霊写真という商売と、一八六九年の裁判
新しい技術は必ず新しい霊を連れてくる。ボストンの彫金師ウィリアム・H・マムラーは、一八六一年ごろ、自分の肖像写真に見知らぬ人影が写り込んだと主張した。これが心霊写真の商業的な始まりである。
彼のもとには、戦死者の顔をもう一度見たい遺族が殺到した。料金は高額だったが、注文は絶えない。
一八六九年、マムラーはニューヨークで詐欺の嫌疑をかけられ、裁判にかけられる。法廷では写真家や手品師が証言台に立ち、二重露光による同じ効果を再現してみせた。
ただし検察は、彼が具体的にどの手口を使ったかを立証しきれず、結果として無罪となる。技術的に再現可能であることと、被告がその手口を使ったことの証明は別だという壁は、以後、心霊調査に常につきまとうことになった。
彼の作品として最も知られるのは、暗殺された大統領の妻とされる女性の背後に、髭の男の半透明な姿が立つ一枚である。
縛られたまま、楽器が鳴る木の箱
一八五四年ごろ、アイラとウィリアムのデイヴンポート兄弟が、後世に決定的な影響を残す装置を舞台に持ち込んだ。ニューヨーク州バッファローの警官の息子たちだ。三枚扉の木製キャビネットである。
兄弟はその中で椅子に縛られる。扉を閉じると、内部からギターやタンバリンやトランペットが鳴り、宙を舞う手が扉の穴から突き出る。扉を開けると、二人は縛られたままそこに座っている。
彼らは自らを霊媒と公言することを巧妙に避けた。同行した元牧師がこれは霊の力であると観客に説明し、兄弟自身は否定も肯定もしない。この曖昧さこそが彼らの商品だった。
十年に及ぶ全米巡業ののち、彼らは英国に渡り、爆発的な人気と激しい論争を巻き起こす。ここから、心霊と手品の関係が決定的に変わっていく。
手品師が同じことをやってみせた日
英国での興行を見た若い時計職人ジョン・ネヴィル・マスケリンは、扉が閉まる一瞬に光が差し込み、兄弟の一人が縄をほどく動きを目撃したと確信した。
彼は家具職人ジョージ・アルフレッド・クックと組み、同じキャビネットを自作する。そして一八六五年六月、チェルトナムで、まったく同じ演目をこれは手品であると明言したうえで上演してみせた。
この一件は、心霊と手品の関係を決定づけた。以後、霊媒を最も鋭く追い詰めるのは科学者ではなく職業手品師であるという構図が固まる。マスケリンはロンドンに劇場を構え、超常現象の暴露を看板芸のひとつにした。
なお後年、老いたアイラ・デイヴンポートのもとに、ある高名な脱出芸人が訪ねてくる。一九一〇年前後のことだ。彼はそこで、自分たちの現象が手技であったことを事実上認めたと伝えられている。彼は、我々は公の場で心霊主義を信じると断言したことは一度もない、と書き残していた。
ただ一人、捕まらなかった男
一八三三年スコットランド生まれ、幼少期にアメリカへ渡ったダニエル・ダングラス・ホームは、近代スピリチュアリズム史上の最大の例外である。
彼はテーブルを浮かせ、アコーディオンを触れずに鳴らし、燃える石炭を素手で掴み、自らの身体を宙に浮かせたとされる。しかも彼は、生涯を通じて決定的な現行犯の摘発を受けなかった。多くの霊媒が要求した完全な暗闇を、彼はしばしば必要としなかったとも伝えられる。
最も有名な逸話は、一八六八年冬、ロンドンのアッシュリー・ハウスで起きたとされる窓から窓への空中移動である。三人の立会人は、ホームがトランス状態で隣室へ歩いていき、三階の窓から出て、外気の中を水平に移動し、別の窓からするりと入ってきたと証言した。
この証言は今日まで論争の的であり続けている。部屋の配置、外壁の張り出し、証言者間の食い違い、事後の記憶の変形といった論点が延々と検討されてきた。
ホームを実験室で調べたのは、後に王立協会会長となる化学者ウィリアム・クルックスである。クルックスはばね秤で吊ったマホガニー板の一端にホームの指を触れさせ、力の増加を測定したと報告した。
この実験報告は科学界に嘲笑と憤激をもって迎えられ、クルックス自身の評判に長い影を落とす。彼が霊媒に籠絡されていたのか、それとも科学者としての誠実さゆえに石を投げられたのかは、今も決着していない。
フランスで生まれ変わり、ブラジルで根づいた
海峡を渡った現象は、フランスで別の生き物に変態した。教育者イポリット・レオン・ドニザール・リヴァイユは、テーブル・ターニングの流行を調査するうちに、これを体系的な教説へとまとめ上げる。
一八五七年、彼はアラン・カルデックという筆名で『霊の書』を刊行した。以後、『霊媒の書』『霊による福音の解説』『天国と地獄』『創世記』と続く五部作が、スピリティズムの正典となる。
英米のスピリチュアリズムとの最大の相違は、輪廻転生を教義の中心に据えた点である。魂は何度も肉体に宿り、そのたびに道徳的に向上していく。この枠組みは、単なる交信の技術を、罪と救済を語る宗教哲学へと引き上げた。
そしてこの教説は、フランス本国よりもブラジルで爆発的に根を張る。二十世紀のブラジルには数百万規模の信奉者が育ち、慈善病院や福祉施設を運営する巨大なネットワークが形成された。
自動書記で膨大な著作を残した霊媒たちは国民的な有名人となる。後にアフリカ系の宗教伝統と混淆し、新しい宗教を生む土壌にもなっている。
白衣の女は、誰だったのか
一八七〇年代、ロンドンの若い霊媒フローレンス・クックは、全身の霊を出現させると称した。キャビネットの中でクックが縛られて眠ると、白衣の女性がカーテンの外に現れ、参加者と会話し、手を握り、髪を切って渡すことさえした。
彼女は自らをケイティ・キングと名乗り、十七世紀の海賊の娘だと語ったのだ。クルックスはこの現象も調査し、ケイティとフローレンスを同時に見た、写真も撮ったと報告している。
だが両者は背格好が酷似しており、写真ではケイティの顔がしばしば布や光で隠されていた。一八七三年には参加者の一人がケイティを掴み、生身のフローレンスだったと主張する騒動が起きている。
さらに後年、別の交霊会で貴族の青年が霊を抱き止め、それが霊媒本人であったと証言した。全身出現の物理霊媒という業態は、この時点ですでに致命的な弱点を抱えていた。それでも需要は消えなかったのだ。ここは覚えておいてほしい。
一八八二年、世界最強の霊媒暴露機関ができた
一八八一年秋、ジャーナリストのエドマンド・ロジャーズと物理学者ウィリアム・バレットの対話から構想が始まる。そして翌一八八二年二月二十日に正式に発足したのが、心霊研究協会である。
初代会長にはケンブリッジの倫理学者ヘンリー・シジウィックが就いた。創立の中核にはフレデリック・W・H・マイヤーズ、エドマンド・ガーニー、ヘンズリー・ウェッジウッドらが名を連ねる。設立趣意書は、いかなる先入見も持たず、厳密で冷静な探究の精神をもってこれらの問題に接近すると述べていた。
協会は最初から二つの顔を持っていた。一方には、死後存続を証明したいという切実な私的動機がある。マイヤーズは若い日の悲恋の相手の死を生涯引きずり、シジウィック夫妻は信仰と科学の裂け目に耐えかねていた。
他方には、証拠の水準を極限まで引き上げるという方法論的な野心がある。この二つが同居していたからこそ、協会は世界最強の霊媒暴露機関になってしまった。
一万七千人に聞いた、幻覚の国勢調査
協会は六つの専門委員会を設け、テレパシー、催眠、霊媒現象、幽霊出現、物理現象、既存文献の批判的整理を分担した。特筆すべきは一八九四年に発表された幻覚に関する国勢調査である。
約一万七千人に、完全に覚醒した状態で、外的な原因がないのに、生き物や物や声をありありと知覚したことがあるかと尋ね、千六百八十四人が肯定した。
この結果は、幻覚体験がごく一般的な現象であり、精神疾患の指標ではないという理解を広める役割を果たした。心霊研究は、意図せずして異常心理学と統計的調査法の発展に寄与したのである。
協会が積み上げた膨大な事例集は、後に『生者の幻像』としてまとめられた。死の瞬間に遠隔地の親しい者の前に姿を現したという類型の報告を、収集し、日付を確認し、証人に手紙を書き、事後の記憶の混入を洗い出す。この地道な作業は、超常研究というより初期の質的社会調査に近い。
目撃証言そのものを、実験で壊した
協会の最も鮮やかな仕事のひとつが、石板書きの解体である。当時、二枚の石板を閉じて紐で縛り、机の下に置いておくと、内側に霊の筆跡が現れるという演目が大流行していた。
協会員のS・J・デイヴィーは、手品の技術でこれを完全に再現できることを示した。そのうえで彼は、自分の実演を本物の霊媒による現象と信じ込ませたまま参加者に見せ、後日その参加者たちに何を見たか報告書を書かせたのだ。
結果は衝撃的だった。参加者の報告は、実際に起きたこととしばしば大きく食い違っていた。見ていないものを見たと書き、重要な瞬間の脱落を自分で埋め、時間の順序を入れ替えていたのだ。
リチャード・ホジソンとともに発表されたこの研究は、目撃証言そのものの信頼性を問う古典となった。複数の紳士が至近距離で確認したという保証が、いかに脆いかが実験的に示されたのである。
エクトプラズムという言葉を作った男
二十世紀初頭、物理霊媒の主役は音や浮遊から、身体そのものから滲み出る白い物質へと移った。この物質に名を与えたのは、生理学でノーベル賞を受けたフランスの科学者シャルル・リシェである。
彼はギリシャ語で外と形づくられたものを意味する語を合成し、エクトプラズムと呼んだ。霊媒の口、鼻、耳、あるいは身体の他の部位から流出し、手や顔や全身の形をとり、また体内へ吸い戻されるとされた。
リシェらが熱心に調査したのは、エヴァ・カリエールの名で知られる霊媒である。彼女は本名をマルト・ベローといい、若い日にアルジェで白衣の霊を出現させて名を上げた。
エクトプラズムの写真は数多く残されているが、そこに新聞や雑誌の切り抜きらしき印刷面や、折り目、ピンの跡が写り込んでいることが繰り返し指摘された。反対者は嚥下と逆流、髪への隠匿、衣服の二重底を挙げる。
擁護者は、霊界の物質が地上の素材を模倣するのだと説明した。この論争は、証拠が増えるほど双方の確信が強まるという心霊研究特有の泥沼の典型である。
テーブルは、足で浮いていた
一八五四年イタリア南部生まれのエウサピア・パラディーノは、物理霊媒の代名詞となった。孤児として育ち、ナポリで子守として働き、最初の夫は旅回りの奇術師だったと伝えられる。
彼女の交霊会では、テーブルが浮き、カーテンが膨らみ、暗がりから冷たい手が伸び、楽器が鳴った。ヨーロッパ中の学者が彼女を調べている。ポーランドの心理学者ユリアン・オホロヴィッチ、ミラノの委員会、そして高名な物理学者夫妻までが立ち会った。
決定的だったのは、彼女が隙あらば不正をすることを調査者たち自身が公然と認めていた点である。手を押さえる二人の監視者に、片方の手を両者に触れさせて一人分の手を解放する置換技法。これは長年の訓練なしには不可能なほど巧妙だったと評されている。
それでも一部の調査者は、不正を差し引いてもなお説明できない現象が残ると主張し続けた。この粘り強さこそが、心霊研究を百年にわたって延命させた燃料だった。
ケンブリッジで、そしてコロンビアで
一八九五年、心霊研究協会はケンブリッジ近郊で連続実験を行い、彼女の手技を体系的に記録したのだ。手の置換、足の使用、監視の隙をつく身体の動き。報告は否定的だった。
それでも一九〇八年、協会は三人の調査員をナポリに送り込む。エヴァラード・フィールディング、W・W・バガリー、そしてヒアワード・キャリントンの三人。手品の心得を持つ者を含めた布陣で臨んでいる。それでもなお本物としか思えない現象を見た、と彼らは報告した。
このフィールディング報告は、心霊研究史上もっとも議論された文書のひとつである。批判者は、統制の不備、記録の齟齬、暗さの程度をめぐる証言の食い違いを執拗に指摘した。
止めを刺したのはアメリカ巡業だった。一九〇九年から一〇年にかけて、ハーバードの心理学者フーゴ・ミュンスターベルクは、テーブルの下に助手を潜ませたのだ。助手は暗闇の中で伸びてきた彼女の足を掴む。
そして一九一〇年、コロンビア大学での連続実験。黒い作業着を着た手品師たちが床を這って接近する。そして彼女が左足を靴から抜き、テーブルの脚を押し上げる一部始終を、至近距離で観察した。
手品師の一人は、統制条件下で同じ現象を起こせたら千ドルを支払うと公開で申し出たが、彼女がその場に現れることはなかった。
第一次大戦が、二度目のブームを呼んだ
一九一四年から一八年にかけての戦争は、ヨーロッパに前例のない規模の若い死者を生んだ。さらに直後のインフルエンザ大流行が追い打ちをかける。
息子を、兄を、婚約者を失った家庭が無数に生まれ、その多くは遺体も遺品も受け取れなかった。この空白に、霊媒たちがふたたび殺到した。
ロンドンには心霊教会が林立し、心霊専門紙が発行部数を伸ばし、地方都市の公会堂で公開の交霊実演が行われる。このとき運動は、十九世紀のような素朴な好奇心の産物ではなくなっていた。
組織があり、機関紙があり、聖典めいた文献の蓄積があり、なにより信じたい人々の切実な需要があった。同時に、その需要を食い物にする者も急増する。一九二〇年代は、最盛期であると同時に、暴露事件のもっとも多い時代でもあった。
名探偵の作者が、推論を願望に譲り渡した
アーサー・コナン・ドイルは、この第二次ブームの最大の広告塔となった。医師として訓練を受け、合理主義的な探偵小説を書いた男が、長男と弟をはじめ近親者を相次いで失ったのち、公然と心霊主義の伝道者となる。
彼は世界中を講演して回り、家財を投じ、ロンドンに心霊書店を開いた。一九二六年には二巻本の大著『心霊主義の歴史』を刊行し、ハイズヴィルから同時代までの流れを、信奉者の立場から通史としてまとめ上げる。
今日われわれが近代スピリチュアリズムの歴史として語る枠組みの多くは、この本が作ったものである。
彼はまた、少女二人が撮影したとされる妖精の写真を本物と信じ、雑誌に発表して大論争を招いた。写真の妖精たちは当時の絵本の挿絵とよく似た平面的な姿をしており、当初から絵を切り抜いて留めたものだという指摘があった。
撮影者の一人が半世紀以上のちに、実際に厚紙の切り抜きだったと語ったことで決着がついている。ドイルは、生涯の後半をかけて、自分がもっとも得意だったはずの推論の技術を、自分の願望に譲り渡した。
脱出芸人が、霊媒狩りを始めた理由
ドイルと親交を結び、そして決裂したのが、脱出芸で世界的な名声を得ていた舞台奇術師である。彼は母を深く愛しており、その死後、本気で交信の可能性を探していた。
ドイル夫人が自動書記で彼の母からの通信を伝えたとき、それは流麗な英語で書かれ、冒頭に十字が切られていた。彼の母はハンガリー系ユダヤ人で英語をほとんど話さず、その日は彼女の誕生日だったが通信はそれに一言も触れていなかったのだ。
彼はこの一件で、霊媒業界に対する態度を決定的に硬化させる。以後、彼は変装して交霊会に潜入し、手口を記録し、舞台で再現し、議会の公聴会にまで出向いた。
一九二四年には『霊媒たちのなかの奇術師』を刊行し、代表的な物理霊媒の技法を一つずつ解剖してみせる。彼の主張は明快だった。暗闇で行われる現象は、暗闇を専門とする職人にしか判定できない。科学者は誠実であるがゆえに騙されやすい。誠実な人間は、他人も誠実だと仮定して観察してしまうからだ。
一九二四年、ライム街の決闘
一九二〇年代最大の攻防が、ボストンのライム街で起きた。外科医の妻ミナ・クランドン、通称マージェリーである。
彼女は交通事故で早世した兄ウォルターを支配霊とし、その粗野で口の悪い男の声で喋った。彼女の交霊会ではベルの箱が鳴り、蓄音機が動き、テーブルが持ち上がり、参加者の膝に冷たい手が触れる。夫は高名な医師であり、上流の社交界の人々が席に着いた。金銭を要求しなかったことも、彼女の信頼性を高めた。
一九二四年、ある科学雑誌が本物の霊媒に賞金を出すと発表し、審査委員会が組織されたのだ。委員には心理学者や物理学者と並んで、あの脱出芸人が入っていた。七月から八月にかけての一連の交霊会は、事実上の決闘となる。
彼は彼女の手足を自分の手足で挟み込む位置に座り、ストッキングをまくって脛の皮膚の動きを直接感じ取ろうとした。八月二十五日には、彼女の首から上だけを出す木製の箱が持ち込まれる。
その夜、箱の蓋がこじ開けられており、翌回には箱の中から折りたたみ物差しが発見された。彼女の側は、彼の助手が仕込んだのだと主張し、彼の側はそれを否定する。真相は今も藪の中だ。
決定的だったのは数年後、支配霊ウォルターが歯科用ワックスに残したという指紋である。照合の結果、それは彼女の生前の歯科医のものと一致した。彼はその技法を彼女に教えたことを認めている。委員会の賞金は、ついに誰にも支払われなかった。
チーズクロスと、青く染まらなかった夜
スコットランドのヘレン・ダンカンは、口から白い物質を吐き出し、そこから死者の姿を立ち上げる物理霊媒として一九二〇年代から名を上げた。
一九三一年、心霊研究者ハリー・プライスの実験室に招かれた彼女は、徹底的な検査にさらされる。プライスの分析によれば、その物質はチーズクロス、卵白と紙を混ぜたもの、そしてトイレットペーパーを貼り合わせたものだった。
彼はさらに、事前にメチレンブルーの錠剤を飲ませるという単純な実験を行った。青く染まるはずの物質は、その回に限って一度も現れなかったのだ。
一九三三年五月、エディンバラの交霊会では、参加者の一人が現れた霊を掴んだ。手の中に残ったのは、伸縮性のある下着の生地だった。彼女は詐欺で有罪となり、罰金を科される。
それでも顧客は絶えなかった。物理霊媒に必要なのは、無傷の評判ではなく、暗闇と、信じたい人々の輪だったからである。
一七三五年の魔女法で裁かれた霊媒
彼女の名を歴史に刻んだのは、戦時中の裁判である。一九四一年十一月、ポーツマスでの交霊会で、彼女は水兵の霊を出し、ある軍艦が沈んだと語ったとされる。その撃沈は当時、士気維持のため公表が伏せられていた。
海軍関係者が彼女の集会に潜入し、一九四四年一月に逮捕される。裁判はロンドンの中央刑事裁判所で行われた。適用されたのは、なんと一七三五年の魔女法である。
ただしこの法律は魔術を罰するものではなく、超自然の力を装って人を欺く行為を罰するものだった。摘発時にチーズクロスは押収できておらず、検察は目撃証言の積み上げで立証を図る。弁護側は、法廷で実演させてほしいと申し出たが、認められなかった。
判決は有罪、禁錮九か月。当時の首相はこの訴追を時代遅れの茶番と呼び、内務大臣に苦言を呈する書簡を送っている。
この事件は逆説的な帰結をもたらした。あまりに古い法律を持ち出したことへの批判が高まり、一九五一年に魔女法は廃止され、詐欺的霊媒行為法に置き換えられたのである。彼女は一九五六年十二月に世を去った。
物理現象を捨てた系統が、生き残った
物理霊媒の時代が暴露に次ぐ暴露で沈んでいく一方で、まったく別の系統が静かに巨木へと育っていた。精神的な教えを語る、いわゆる教訓霊媒である。
その頂点にあるのが、一九〇二年ロンドン生まれのモーリス・バーバネルを通じて語られたシルバーバーチの通信になる。
バーバネルは理髪と歯科を兼業する家庭に生まれ、若い頃は無神論に近い立場だった。一九二〇年ごろ、参加した交霊会で居眠りをしたつもりでいたところ、周囲から、あなたを通じて先住民の霊が語っていたと告げられる。これが始まりだった。
やがて著名な新聞記者ハンネン・スワッファーの知遇を得、彼の名を冠したホーム・サークルが結成される。会は毎週金曜の夜に開かれた。メンバーは六人ほどで、六十年以上にわたって続いた。
一夜の様子はこうである。灯りが落とされ、参加者は輪になって座る。バーバネルは椅子に深く腰かけ、数分のうちに呼吸が深くなり、頭ががくりと前に垂れる。
そして別人の、ゆっくりとした、抑揚の異なる声が出る。友よ、と、その声はいつも呼びかけから始まった。速記者が全文を記録し、その内容は翌週の心霊専門紙に掲載される。
質問は自由で、参加者は戦争のこと、貧困のこと、悲嘆のこと、死後の世界の構造のことを尋ねた。声は決して逃げず、しかしまた決して未来の出来事を当ててみせるようなこともしなかった。
奉仕せよ、という一語に還元される教え
その内容は、驚くほど一貫している。神は人格を持つ君主ではなく、宇宙を貫く法則そのものである。あなたは大霊のうちにあり、大霊はあなたのうちにある。
奇跡は存在しない。奇跡に見えるものは、まだ知られていない法則の作用にすぎない。他人の身代わりに罪を贖うことはできず、自分の蒔いた種は自分で刈り取る。
祈りとは神を説得する交渉ではなく、自らを高い波長に合わせる作業である。そしてあらゆる宗教的実践は最終的に一語に還元される。奉仕である。
興味深いのは、この通信が輪廻転生を肯定した点だ。霊媒であるバーバネル自身は輪廻に懐疑的だったと伝えられており、擁護者はこの不一致を、通信が霊媒の潜在意識の産物ではない証拠だと主張してきた。批判者はもちろん、人は自分が公言していない考えも内心に持ちうると反論する。
日本に持ち込んだのは、東大出の英文学者だった
日本にこの潮流を持ち込んだ中心人物が、浅野和三郎である。一八七四年、茨城県の医家に生まれ、東京帝国大学英文科で小泉八雲の講義を受けた英文学者だった。卒業後は海軍機関学校で英語を教えている。
転機は一九一五年、三男が原因不明の高熱に倒れ、ある行者の助言によって快癒したという出来事だった。翌一九一六年に海軍を辞し、当時もっとも実践的に霊的現象を扱っていた教団に身を投じる。
一九二一年の教団弾圧事件を機に袂を分かった彼は、一九二三年三月、心霊科学研究会を創設した。以後、審神という日本古来の枠組みと、英国流の心霊研究の方法を接合しようと試み続ける。
一九二八年にはロンドンで開かれた国際スピリチュアリスト会議に出席し、近代日本における神霊主義について英語で講演した。帰国後の一九二九年には名古屋、大阪、東京に相次いで関連団体が設立されている。一九三七年二月、急性肺炎により六十二歳で急逝した。
本国より日本で読まれた、という逆転
日本語版の本格的な紹介は、翻訳家の近藤千雄によって一九八〇年代から継続的に行われた。ここで奇妙な逆転が起きる。
英国本国では、シルバーバーチの原著は数点が時折復刊されては絶版になるという扱いに落ち着いた。ところが日本では二十冊近い翻訳や編著が常時流通し、読み継がれる状態になったのである。輸入された教えが、輸出元より長く生き延びるという現象が起きた。
理由はいくつも考えられる。まず、シルバーバーチの語り口は、教会という制度を前提としない。神と直接向き合う個人に語りかける形式であり、特定の教団への加入も、儀礼への参加も要求しない。
これは、制度宗教への帰属意識が薄いまま宗教的な問いだけは抱えている読者層に、驚くほどよく適合した。次に、その内容が輪廻転生と因果応報を軸にしていることが、仏教的な語彙で育った読者に自然に受け取られた。
自分の蒔いた種は自分で刈るという一文は、そのまま自業自得の説明として読める。第三に、キリスト教の贖罪論を明確に否定している点が、逆に受容の障壁を下げた。
そして二〇〇〇年代、日本ではテレビ番組を中心に大規模なスピリチュアル・ブームが起きる。守護霊、前世、波長といった語彙が一気に日常語となった。この語彙の土台には、英国由来の心霊主義用語が翻訳を通じて何十年もかけて堆積していた。ブームは数年で沈静化したが、語彙は残ったのだ。
祖母の家の柱時計が、三回鳴った
匿名の四十代男性の語りとして、こういう話がある。二十年ほど前、祖母が亡くなった夜のことだという。
彼は当時、大学の近くに下宿していて、実家からは電車で三時間ほど離れていた。深夜、部屋で本を読んでいると、机の上に伏せて置いていた携帯電話が、着信もないのに一度だけ短く震えた。
同時に、部屋のどこからか、聞き覚えのある音がしたのだ。祖母の家の玄関にあった、古い柱時計の打つ音である。実家にも下宿にも、そんな時計は存在しない。
音は三回鳴って止んだ。彼は時計を見た。午前一時四十分だった。
妙な胸騒ぎがして実家に電話をかけたが繋がらない。翌朝、母から祖母の訃報が届いた。臨終は午前一時四十分前後だったという。
葬儀のあと、彼は祖母の家に立ち寄った。柱時計は、彼が子供の頃からずっと止まったままだった。ゼンマイの切れたその時計は、少なくとも十年以上前から、一度も鳴っていない。
彼はこの話をほとんど誰にも話していない。話せば、聞いた人が必ず何らかの説明を試みるからだ。夢だ、寝落ちだ、記憶の後付けだ、と。彼自身、そのどれもが正しいかもしれないと思っている。ただ、あの音の質感だけは、記憶ではなく身体に残っている、と彼は言う。
床に落ちていた、一センチの繊維
二十代の終わりに一年だけ英国に留学していたという匿名の女性は、こんな体験を語る。同居していた学生に誘われて、市内の古い建物の地下で開かれる小さな交霊会に、二度だけ参加した。
参加者は八人。部屋は石壁で、暖房が効かず、赤い電球がひとつだけ灯っていた。中央に座る霊媒は五十代の女性で、事前に今夜は物理現象を試みると告げた。
彼女は椅子ごと薄いカーテンの奥に入り、十分ほどしてから低い呻き声を上げる。やがてカーテンの隙間から、白い布のようなものが、ゆっくりと床に向かって垂れてきた。長さは五十センチほど。
参加者の何人かが息を呑んだ。隣の男性が、触れてはいけない、と小声で言った。布は数分で引き戻された。
会が終わったあと、彼女はどうしても納得できず、部屋を出る前にもう一度カーテンの奥を覗いたのだ。椅子の下の床に、一センチほどの白い繊維の切れ端が落ちていた。
指で摘んで引っ張ると、簡単に伸びた。ガーゼか、それに近い織り方の布だったという。彼女はそれをポケットに入れて持ち帰り、しばらく机の引き出しに入れていたが、帰国の荷造りのときに捨てた。
今でも、あの夜に息を呑んだ自分の感覚は本物だったと思っている。本物の感情と、本物の現象は別物なのだと学んだ夜だった、と彼女は言う。
三年通って、必要がなくなった男
匿名の五十代男性は、四十代のはじめに妻を病気で亡くしたあと、およそ三年間、地方都市で開かれていた小さな霊交会に通い続けた。
参加者は毎回五人から七人。会場は主宰者の自宅の和室で、蝋燭を一本立て、二時間ほど座る。主宰者は元教員の女性で、金銭は一切受け取らず、参加者が持ち寄る茶菓子だけが謝礼だった。
最初の半年、彼には何も起こらなかった。他の参加者が涙を流していても、自分だけが冷めていることが苦痛だったという。
一年ほど経ったある晩、主宰者が突然、彼の妻の名前を口にした。彼が誰にも言っていないはずの名前だった。続けて主宰者は、洗面台の右の引き出しの奥に、あなたに渡すつもりだったものがある、と言ったのだ。
帰宅した彼は、その通りにした。引き出しの奥から、封を切っていない手紙が出てきた。妻が入院前に書いた、自分宛ての短い置き手紙だったという。
彼は今も、その出来事をどう理解すべきかわからないでいる。妻の名前は、地元では調べようと思えば調べられる。手紙の件は、状況を推し量った当てずっぽうが偶然当たった可能性も否定できない。
ただ、彼はその夜を境に、妻の死を事件ではなく出来事として受け止められるようになった。三年目の終わりに、彼は会に通うのをやめる。もう必要がなくなったからだ、と彼は言う。主宰者はそれを聞いて、それがいちばん良い卒業の仕方だと笑ったという。
ネット上では、三つの層に分かれている
日本語圏のネット上で、この主題はいくつかの層に分かれて語られてきた。第一の層は、心霊系の匿名掲示板における実話系のスレッドである。ここでは歴史よりも体験が主役で、フォックス姉妹やエクトプラズムの話は昔の外国の話として引用される程度にとどまる。
第二の層は、オカルト史と懐疑論の愛好家層になる。ここでは脱出芸人の著作や暴露事件が繰り返し紹介され、物理霊媒は全滅しているという結論が半ば共有されている。
第三の層が、いちばん人口が多い。スピリチュアル系の読者層である。ここではシルバーバーチの霊訓は暴露史とはほとんど接続されず、独立した人生哲学の書として読まれている。
実際、この読み方には一定の合理性がある。教訓霊媒の通信は物理現象の主張をほとんど含まないため、暗闇でのすり替えを検証するという論点自体が成立しないからだ。
批判するとすれば、その内容が霊媒本人の思想や当時の社会運動の言説とどこまで区別できるかという論点になり、これは決着のつく種類の議論ではない。
近年のソーシャルメディア上では、当時の心霊写真やエクトプラズムの画像が、加工技術の歴史を語る文脈で再流通している。皮肉なことに、生成技術が誰でも扱えるようになった時代には、百年前の稚拙な合成写真がむしろ愛らしいものとして受け止められる。信じるか信じないかという緊張が失われ、美学的な鑑賞対象になったのである。
暴露の手口は、驚くほど限られている
暴露の系譜を整理すると、方法は驚くほど限られている。第一に、身体の隠れた部位の使用。足指、膝、あご、舌。第二に、暗闇を利用したすり替え。監視者の手の置き換え、道具のすり替え。
第三に、事前の情報収集。参加者の身元を調べ、地元の墓地を歩き、新聞の訃報欄を切り抜く。この手法には業界内で名前まで付けられていた。
第四に、口や体腔への物品の隠匿と再取り出し。第五に、記憶と証言の脆さの利用。第六に、暖かい共感的言語による、誰にでも当てはまる記述。
これらで説明できない残余があるかどうか、というのが最後の論点である。懐疑側は、説明できない残余の大半は記録の不備であり、記録が良質な事例ほど残余が消えると指摘する。
擁護側は、良質な記録を求めるあまり現象そのものが起きにくい環境を作っているのだと反論する。この対立は原理的に解けない。両者が要求している証拠の性質が違うからだ。まあ、噛み合うわけがない。
なぜ人はラップ音を信じたのか
最後に、この運動がなぜこれほど強力だったのかを考えたい。第一の理由は、それが応答的だったことだ。祈りは応答しない。
しかしラップ音は応答した。二回鳴れば、はいである。人間の心は、応答するものに対して人格を見出さずにいられない。
第二に、それが民主的だったことになる。教義を学ぶ必要も、聖職者の許可も要らない。台所のテーブルさえあればよかったらしい。
第三に、それが女性に声を与えたことだ。十九世紀、公の場で数百人を前に語ることを許された女性はほとんどいなかった。だが霊媒としてなら、彼女は語れた。しかもそれは自分の意見ではなく霊の言葉だから、社会的な制裁を受けにくい。多くの女性活動家が心霊主義の周辺から出てきたのは偶然ではない。
第四に、それが悲嘆に対して具体的な作業を提供したことになる。悲しみは、しばしばやることのなさとして人を苦しめる。交霊会は、決まった曜日に、決まった場所へ行き、決まった手順を踏むという行動を与えた。
第五に、これがもっとも見過ごされがちだが、それが面白かったことである。暗い部屋、冷たい風、鳴る楽器、垂れてくる白い布。近代スピリチュアリズムは、宗教であると同時に、最高の娯楽でもあった。ちなみに、この点を認める研究者はけっこう多い。
間違った科学ではなく、新しい様式の宗教だった
この運動が残した遺産は、皮肉なほど広い。心霊研究協会の統計調査は社会調査法の初期形態となり、無意識や解離をめぐる観察は心理学の発展に材料を供給した。
目撃証言の脆さに関する実験は、のちの司法心理学の問題意識を先取りしていた。手品師による超常現象の検証という文化は、二十世紀後半の懐疑論運動へ受け継がれる。文学と映画は、この時代の光景から今なお素材を汲み続けている。
そのうえで確認しておきたいのは、近代スピリチュアリズムが間違った科学ではなく、新しい様式の宗教だったという点である。
この運動を科学的仮説として評価しようとすると、話はほぼ一直線に暴露史へと収束する。物理霊媒の主張はほぼ全て説明が付き、説明が付かないものは記録が悪く、記録が良い事例では現象が起きなくなる。この結論は、十九世紀末の時点ですでに出ていたと言っていい。
にもかかわらず運動は死ななかった。それは、この運動が果たしていた機能が、そもそも仮説の検証ではなかったからである。人が交霊会に求めたのは知識ではなく、応答だった。誰かが自分に向かって、はい、と答えてくれることだった。
創始者が否定しても、止まらなかった
フォックス姉妹の一件を、単なる悪戯が肥大したと要約するのは、実は事態の半分しか捉えていない。悪戯が肥大するためには、肥大させる社会が必要だからだ。
マーガレット・フォックスが一八八八年に公開の場で行った告白は、そのことをよく示している。彼女は自ら舞台に立ち、靴を脱ぎ、木の台に足を置き、足の指の関節を鳴らして、あの音を再現してみせた。
しかし運動は、その告白によっていささかも縮まなかった。むしろ翌年に彼女が告白を撤回すると、信奉者はやはりそうだったと受け取り、懐疑論者は撤回など無意味だと受け取ったのだ。
この時点で、彼女個人はもう物語の所有者ではなくなっていたのである。創始者が否定しても止まらない運動というものが、確かに存在する。
そして暴露者たちの動機の複雑さも見落とせない。物理霊媒を最も執拗に追い詰めた脱出芸人は、単なる合理主義の闘士ではなかった。彼は母との再会を心から願っていた人物であり、その願いを利用されたと感じたからこそ苛烈になった。
彼の暴露は科学の名においてではなく、裏切られた期待の名において行われたのだ。同じことは心霊研究協会の創立者たちにも言える。彼らの多くは信じたい人々であり、その願いを裏切らないために、あえて自分たちで最も厳しい審査基準を作った。
近代スピリチュアリズムの検証史とは、信じたい人々が自分の願望と戦った記録なのである。この構図こそが、この歴史を単なる詐欺の年代記から、ひとつの人間ドラマに変えている。
いま、死者の声は合成できる
現代における含意も書いておきたい。われわれは今、死者の声を合成できる時代に生きている。故人の音声や映像から対話可能な模像を作る技術は、すでに実用の段階にある。
ここで起きていることは、構造的にはハイズヴィルの一夜とほとんど同じだ。応答するものに対して、人は人格を見出す。二回の音がはいに見えたのと同じ理屈で、統計的に生成された文字列があの人の口調に見える。
違いは、規模と速度だけかもしれない。十九世紀の交霊会が地域の輪だったのに対し、今は個人の掌の中で、いつでも、際限なく行える。悲嘆に対する応答が無制限に供給されるようになったとき、人が悲嘆から回復する道筋がどう変わるのかは、まだ誰も知らない。
心霊研究協会が百四十年前に立てた問い、すなわち人はなぜ、いないはずのものをありありと知覚するのかは、形を変えてそのまま現代の問いになっている。
テーブルの向こう側に、腰を下ろしてみる
最後に、この歴史の読み方について。暴露の一覧を眺めて、騙された人々を笑うのはたやすい。
だが、当時の交霊会の座に着いていたのは、息子の戦死公報を受け取ったばかりの母親であり、幼い娘を熱病で失った父親であった。彼らが暗い部屋で見たものが布切れだったとしても、彼らがそこで感じた慰めそのものは偽物ではない。
歴史を面白がることと、そこにいた人を尊重することは両立する。この運動が百八十年近く生き延びてきた理由を本当に理解したいなら、トリックの一覧表を眺めるだけでは足りない。テーブルの向こう側で息を詰めていた人々の側に、一度は腰を下ろしてみる必要がある。
そのうえで灯りを点け、床に落ちた繊維を拾い上げるかどうか。ここはそれぞれで決めてほしい。
なお、歴史的興味として読むぶんにはいくらでも面白いが、霊的な助言を医療、法律、金銭の判断の代わりにしてはならない。体調の異変は医療機関へ、法的な紛争は専門家へ、資産の判断は自分の責任で行うべきである。悲嘆のさなかにある人ほど、あらゆる言葉が啓示のように響く。それは人間として当然の反応であり、恥ずべきことではない。だからこそ、その状態の自分を守る仕組みを、あらかじめ持っておくほうがいい。
