占いの店が集まる街の一角で
東京都内には、タロットや手相を看板に掲げる占い師が何軒も集まる一角がある。その一角にある占いサロン「占い蓮」が主催する「祈祷坐禅会」に、漫画家・コラムニストの辛酸なめ子氏が参加し、その体験をレポートしている。辛酸なめ子氏は、宗教やスピリチュアルの現場を歩く取材コラムを長年手がけてきた書き手だ。自分の足で現地へ行き、体験を交えた筆致で、現代スピリチュアルシーンの広がりを伝える仕事を長らく続けている。
神秘写真を見る導師
この会を率いる導師は、講話の会を自分で主催している。彼の最大の特徴は「神秘写真」と呼ばれる、肉眼では見えない光を感知できるとされる能力だ。正直、ここが一番気になるところだよね。
弟子の中杉妙恭氏によれば、光の色によって意味が異なり、「青は神様の光ですが、黄色や赤は病気やケガの警告」という。実際の坐禅会では、参加者の体の一部に赤い光を視認してケガへの注意を促すといった、具体的な鑑定に活かされているという。参加者全員がタロット鑑定を受けられる形式で進行する。
坐禅会では、導師は優しい雰囲気で参加者を励まし、参加者からはハグを求められるほど慕われている。先祖からの加護についても言及し、参加者たちが苦労人であることを察知する洞察を見せる――と辛酸なめ子氏は報告している。
若さとギャップを埋める”物語の共有”
導師は地方の資産家の家に生まれ、家族の支援を受けながら自分の手で家を建てた経験を持つ。こうした人間味あふれるプロフィールの公開も、彼のところに人が集まる理由のひとつなんだよな。完璧な実践者として振る舞わず、禁煙に成功していないことを自分から口にする。その気安さが、参加者との距離を縮める要因にもなっているだろう。
こういう場で何が起きているのか、心理学の側からの説明もある。参加者の体型や雰囲気から情報を読み取る「コールドリーディング」的な技術は、占いや鑑定の世界では古くから議論されてきたテーマだ。ただ同時に、参加した人が心配や疲れをいったん吐き出して日常へ戻る、その受け皿として働いている面も確かにある。宗教社会学の側では、こういう小さな集まりが都市の孤立を埋めている、という見方をする。
現代のスピリチュアル巡礼
都内の占いの街には、古くからの伝統的な占術や手相に加え、坐禅や祈祷といった仏教的実践を取り入れたハイブリッド型の会が増えている。これは世界的なマインドフルネスやウェルビーイングの流行とも重なっていて、不安定な時代に心のよりどころを求める人の動きが背景にある。
辛酸なめ子氏のようなコラムニストが、良し悪しを決めつけずに現場の空気を伝えている。現代のスピリチュアル文化がどう回っているのか、こういう記録から見えてくる部分は大きい。信じるかどうかは別にして、読む価値があるわけだ。
坐禅の会で札が出てくる
知り合いが「坐禅の会に誘われた」と言ってきた。聞けば、坐ったあとに祈祷があって、帰りには札までもらえるらしい。彼女は「それ坐禅なの」と首をひねっていた。
まあ、気持ちは分かる。坐禅は何も求めない修行で、祈祷は何かを求める儀式だから、並べてみると向きが真逆に見える。
ところが日本の禅寺では、この二つが何百年も同じ屋根の下に並んできた。朝に坐り、昼に経を読み、年の初めには札を配る。ありふれた風景だった。
占いの店が開いている会でも、骨組みはそう変わらない。坐る時間があり、経を読む時間があり、卦を立てる時間がある。継ぎはぎに見えて、継ぎ目の位置のほうは昔から決まっていた。
坐禅が本筋で祈祷のほうはおまけ、という順序づけ自体、寺の歴史から見るとそれほど古い見方でもない。少なくとも寺の側は、朝の坐と昼の祈祷を同じ日課の中へ並べたまま、何代にもわたって回してきた。どちらが主でどちらが従か、現場ではほとんど問われなかった。
都内の占いサロンが坐禅と祈祷と鑑定を一日に詰め込むのを、新しい商売の形だと受け取る人は多い。ただ、門前で拝んでから堂で坐り、帰りに易者のところへ寄るという一日の動き方は、江戸の町にもあった。入れ物が変わっただけ。
祈祷と坐禅をひとつの会に組む形は、昭和のうちから在家向けの集まりでちらほら見られた。寺の坐禅会に厄除けの回向を足した程度のものから、鑑定まで含めた長時間の会まで、規模には幅がある。
禅が地方へ降りていった道すじ
大陸から禅の作法が持ち込まれたのは鎌倉期で、最初に受け取ったのは公家と武家に限られる。京の周りは先に根を張った一派が押さえていたから、あとから伸びた側は外へ出るしかなかった。
行き先は北陸から東北、九州の西側、それに東海。能登に大きな道場が開かれ、そこで育った弟子筋が各地へ散っていった。五つの塔頭から二十五人の俊才が出たという伝えが残っている。
土地の武士や百姓を相手にする寺が一気に増えれば、話し方のほうも変わってくる。伝わっている法話を読むと、難しい理屈はほとんど出てこない。葬式の場で交わされた短い言葉が、圧倒的に多かった。
畿内で栄えた側が京の教養を売ったのに対して、地方へ出た側は庶民の教化に振り切っていた。棲み分けがはっきりしている。
坐るだけでは寺は保たない。田の水、疫病、火事、子どもの病。持ち込まれる願いごとに応える窓口が要るようになって、祈祷がちょうどその窓口に収まった。
寺の数だけ見れば、地方へ出た側は室町の終わりまでに一万を超える末寺を抱えるところまで伸びている。そこまで増やすには、坐禅を教えるだけの寺ではとても足りず、葬式と祈祷の両方を受ける窓口が要った。増えた寺は、そのまま村の相談所になる。
土着の武士が多い地域ほど、地方へ出た側の寺が濃く分布したという研究もある。領主が京の文化を欲しがる土地では別の一派が優勢で、在地の暮らしに近い土地ではこちらが強かったという色分けになる。布教の戦略というより、需要の違いだ。
地方の寺には、開山の僧が土地の神を鎮めたという由緒書きが伝わっている例も珍しくない。土地の神と仏を並べて祀る形をそのまま受け入れたことが、村へ入り込む速度を上げる結果につながっていった。
山伏の作法が混ざり込む
地方へ出た禅僧が入っていった土地には、先に山の行者がいた。滝に打たれ、印を結び、火を焚く人たち。村の願いごとは、もともと彼らが引き受けていた。
寺がそこへ根を下ろすには、同じ仕事を受け取る必要があった。印と真言、火と水、方位と日取り。密教と修験の道具立てが、禅寺の年中行事へそのまま流れ込んでいった。
そうやって、同じ僧が朝は壁に向かって坐り、昼は加持の文句を唱える形ができあがる。理屈として整理されないまま、実務のほうだけが先に並んだ。
地方の禅寺が厄除けの札を出しているのは、この経緯の名残りだ。坐禅と祈祷を別物として見る感覚のほうが、ずっとあとから来た。
山を歩く行者と堂に籠もる僧では、見た目がまるで違う。それでも村人から見れば「頼める人」という一点で同じ枠に入っていたから、わざわざ区別する必要がなかった。
行者が担っていた仕事は、雨乞い、虫送り、病人の加持、家の普請の日取り選びと、生活の細部まで入り込む。それを引き受けないまま村へ入っても、寺は本堂を建てる寄進すら集められなかった。暮らしの側が先にあった。
禅の側の文献には、祈祷をどう位置づけるかで頭を悩ませた記録がいくつも出てくる。坐禅こそが根本だと言いながら、現実の年中行事には加持の文句がびっしり並ぶという状態が、長いこと続いてきた。整合させる気があまりなかった、とも読める。
江戸の幕府は宗派ごとの本末関係を整理したが、地方の現場ではその線引きがしばしば曖昧なままだった。行者が住職を兼ねる寺、修験の堂を境内に抱える寺といった形が、明治の初めまであちこちに続いていく。
一年のどこに祈祷が入っているか
正月の三が日には転読大般若という法要がある。六百巻の経典を積み上げ、蛇腹に折られた本を左右へばらばらと落としながら読んでいく。
巻き起こった風に当たると一年しのげる、という言い伝えが付いてきた。堂の前に列ができる寺もあって、子どもを抱えて風に当てに来る人が並んでいる。
二月十五日は涅槃会で、釈尊の亡くなった日として涅槃図を掛ける。三月と九月の彼岸、四月八日の花まつりと、行事はそのまま続いていった。
九月二十九日は両祖忌。宗を開いた二人の僧をしのぶ日として営まれ、十月五日の達磨忌は禅宗の初祖の命日に当たる日になっている。
十二月八日は成道会で、この前後に摂心という集中坐禅を組む寺が多い。大晦日の鐘は百八つ。煩悩の数に合わせて撞いていく。
並べてみると、祈祷の行事と坐禅の行事が交互に来ている。別々の暦で回っているわけもなく、同じ一本の暦に最初から乗っていた。
暦の上で祈祷が集まるのは、季節の変わり目と年の変わり目に偏っている。災いが入り込む継ぎ目へ先に手当てをしておくという発想は陰陽道の側から流れ込んだもので、寺の行事にも引き継がれた。節分の豆まきを寺でやるのも同じ流れ。
行事のたびに檀家が集まるので、寺にとっては年に何度かの収入の機会にもなっていた。札の初穂料、経木の供養料、塔婆の代金と、それぞれに相場ができあがっていて、地域ごとに額が違う。懐の事情と信心が同じ場所で動いている。
年中行事の予定表を配る寺が増えたのは、檀家が離れていくのを食い止めたい事情も絡んでいる。行事の名前と日付が目に入るだけで、年に一度は足を運ぼうという気になる人がそれなりにいるからだ。
江戸で禅が平たくなる
禅の言葉が町場まで届いたのは近世に入ってからで、それまでの相手は公家と武家に偏っていた。室町の終わりごろから、金を持ちはじめた商人のほうへ顔が向く。
出版がこれを押した。漢文の語録は修行者向けに刷られ、入門者には仮名で書かれた法語が出回る。読み書きのできる町人が家で禅の本を開く時代になった。
節を付けて唱える坐禅和讃も広まっていく。難しい術語を外し、七五調で坐禅の値打ちを説く短い歌で、寄り合いで一緒に唱えればそれだけで会が立った。
在家の人間が寺へ泊まり込んで坐る形も、このころから目立ちはじめる。商家の主人、医者、学者。仕事を持ったまま通う人の坐禅が、はっきり形になっていった。
明治に入ると、会社勤めの人や文士が鎌倉の寺へ通いはじめた。夏の休みに山門をくぐって数日坐るという過ごし方がそこで定着して、今の坐禅会の直接の祖先になる。
江戸の本屋には仮名で書かれた禅の入門書が並び、武士でも僧でもない人間が自分で読んで自分で坐るようになった。指導者のいない坐禅が広まると、姿勢や呼吸を細かく書いた手引きの需要も一緒に伸びていく。今の坐禅本の元祖にあたる。
町の寄り合いでは、月に一度集まって経を読み、坐って、そのあと酒を飲むという形も珍しくなかった。宗教の集まりと近所づきあいが分かれていない時代で、参加する側も両方を切り分けていない。そこは今の会とよく似ている。
出版が広がる前の坐禅は、師から弟子へ口移しで渡されるものだった。印刷された手引きが出回ったことで、初めて会う人同士が同じ形で坐れるようになり、坐禅会という集まりの形が成り立っていく。
易者が禅の場に出入りしたわけ
江戸の町には辻に立つ易者がいた。筮竹を握り、算木を並べ、通りがかりの相談に答える。寺社の門前は、そういう商売にとって一等地だった。
易の理屈そのものは儒の側から来ている。ただ、実際の客が持ち込むのは家内の揉め事や病だから、仏の側の言葉を借りたほうが話の早い場面がいくらでもあった。
門前で拝んでから易者の前に坐る、という順番が普通だった。参拝と占いが一続きの行動になっていて、切り離して考える人のほうがむしろ少ない。
明治に入ると易は一気に広がる。横浜で事業を当てた人物が易の書を出し、その名を冠した易断が世に出て、暦と運勢を刷った本が毎年大量に売られていった。
名前だけが独り歩きして、同じ看板を掲げる団体がいくつも並ぶ。書店の暦の棚を見れば、よく似た表紙が何冊も刺さっている。
占いの店が坐禅の会を開く形も、この延長線の上にある。卦を立て、経を読み、坐る。江戸の門前で起きていたことから、それほど離れていないわけだ。
易者の道具箱には筮竹と算木のほかに、暦、人相の本、家相の図面が入っていることも多かった。客の相談は「この家を買っていいか」「この縁談を受けていいか」といった生活の判断に寄っていて、占術の種類は問われない。使える物は全部使った。
明治の易断本は、卦の説明よりも日ごとの吉凶と方位の記述に紙幅を割いている。毎年買い替える消耗品として作られていたから、暦と運勢と広告が同じ本の中へ同居する形になった。今も書店の棚に並ぶ形式は、このころ固まっている。
戦後になると、易の看板は駅前の路地や商店街の片隅へ移っていった。占いの部屋を構える店が増え、そこへ坐禅や写経を足す形が出てくるのは、さらにあとの話になる。
坐る場所と坐蒲の置き方
坐る場所はどこでもいい、とはならない。壁に向かえる平らな床が要る。畳一枚、あるいは板の間に敷物。風の通り道と、まぶしい光は外しておく。
坐蒲は綿をぎゅうぎゅうに詰めた丸い座布団で、手に入らなければ座布団を二つ折りにして代用する。高さは握りこぶし一つ分から一つ半が目安になる。
置き方に決まりがある。坐蒲の中心に尻を乗せない。手前の三分の一あたりへ浅く腰を下ろし、腿の付け根が持ち上がって膝が床へ落ちる角度をつくるためだ。
坐蒲が高すぎると背中が反った。低すぎると腰が落ちて背が丸まる。何度か高さを変えて、膝の二点と尻の一点、三角で支えられる位置を探していく。
壁との距離は一メートル弱。近すぎると圧迫され、離れすぎると視線が泳ぐ。道場では向きまで決まっていて、堂へ入るときは左足から敷居を越えた。
坐蒲の代わりに使える物としては、二つ折りにした座布団のほか、丸めたバスタオルや低い座椅子が挙がる。高さが合っているかどうかは、坐って十分たったときに腰が落ちていないかどうかで判断できた。最初は高めから試す。
堂で坐る場合は、単という一段高い台の上に坐蒲を置き、そこへ上がって壁に向かう。靴を脱ぐ位置、上がる足の順、隣との間隔まで決まっていて、初回は係の人が全部教えてくれる。覚えなくていい。
家で坐るなら、同じ場所に同じ向きで坐蒲を置く習慣をつけておくと、姿勢の癖に気づきやすくなる。毎回違う部屋の違う壁に向かっていると、崩れているのが自分なのか場所なのか分からなくなった。
坐る時間帯は朝がいい、という言い方をよく聞く。胃に物が入っていない時間のほうが眠くなりにくく、家の中も静かで、続けやすい条件が揃いやすいからだ。夜に坐るなら食後二時間は空ける。
足の組み方
坐蒲に腰を下ろしたら足を組む。正式は結跏趺坐で、右の足を左の腿の上へ深く乗せ、その上に左の足を右の腿へ乗せる形になる。
両方は無理という人が大半だ。そのときは半跏趺坐にして、右足を左の腿の下に入れ、左足だけを右の腿の上へ乗せる。
膝が浮くなら、浮いたほうの膝の下にタオルを折って挟んでおく。痛みを我慢して坐っても意識が足にしか向かないから、高さで逃がしたほうが早い。
どうしても組めない人は椅子でいい。浅く腰かけ、足の裏を床にべったり付け、背もたれに寄りかからない。膝は肩幅に開いておく。
衣服は裾を整える。袴やズボンの折り目を膝の上で正し、足首が見えないようにかぶせた。細かい話に見えて、形が乱れると気も散る。
結跏趺坐を組める人は少数で、坐禅会へ来る人の八割方は半跏か椅子になる。組めないことを気にして毎回落ち込む人もいるが、形の完成度と坐禅の中身は別の話として扱われてきた。無理に寄せない。
足がしびれるのは血の巡りの問題なので、坐る前に足首を回し、ふくらはぎを軽くもんでおくと違ってくる。厚手の靴下より薄手のほうが組みやすく、滑る素材は腿の上で足がずれるので向かない。服も道具のうち。
組み方を左右入れ替える流儀もあって、右足を上にする形を降魔坐、左足を上にする形を吉祥坐と呼び分ける。毎回同じ側ばかりで組んでいると体が偏るので、時々入れ替えるように言う指導者もいた。
膝が床から大きく浮いたまま無理に押さえつけると、股関節を痛めることがある。浮く分はタオルや座布団で埋めて、押し下げる力を一切かけないまま坐るのが、長く続ける人のやり方だった。押さない。
手の組み方と目の置きどころ
手は法界定印を結ぶ。右の手のひらを上に向けて左の足の上に置き、その上へ左の手を同じく上向きで重ね、指はまっすぐ揃えておく。
両手の親指を軽く合わせる。押し付けず、離さず、紙一枚が挟まる程度。眠くなると親指が離れ、力むと山ができるので、自分の状態を映す目盛りになった。
手の輪は下腹に軽く当てる。腕はわきから拳一つ分あける。肘を締めすぎると肩が上がった。
背は下から積み上げていく。腰を立て、腹を前に出し、頭を上から吊られているように置くと、耳と肩、鼻とへそが縦の線で揃う。
口は閉じる。舌の先を上の前歯の裏の歯茎に付け、歯と歯を軽く合わせて、唾がたまらない形にしておく。
目は閉じない。一メートルほど先の床へ自然に落とす。角度でいえば斜め下四十五度あたりで、閉じると眠りに入りやすく、見開くと考えが走った。
法界定印の親指が離れていたら眠気、山のように盛り上がっていたら力み、と昔から言われてきた。自分で自分を見張る仕掛けが手の中に一つあるだけで、四十分の坐り方はかなり変わってくる。目盛りとして使う。
目を半分開けておくのは、眠気を避けるためだけでなく、外の世界を締め出さないためでもある。壁も床も見えたまま、音も聞こえたまま坐るのが禅の側の流儀で、感覚を遮断する方向へは進まない。閉じこもる作法ではなかった。
叉手と合掌と法界定印の三つは、場面ごとに使い分けが決まっている。歩くときは叉手、礼をするときは合掌、坐っているときは法界定印と覚えておけば、堂の中でひとまず困らない。
坐りはじめの二つの動作
姿勢を決めたら欠気一息に入る。口を開けて息を細く長く吐き切り、鼻から吸う。これを数回。腹の中の濁った空気を全部出す気持ちでやる。
次に左右揺振。上体を左右へ振る動作で、はじめは大きく、だんだん小さく、振り子が止まるように中心で静止させた。
この二つで体の中心が決まる。省く人が多いけれど、省いてしまうと坐っているあいだ中、体が微妙に傾いたまま過ぎていった。
呼吸は鼻でする。腹式で、吐くほうを長くとる。吸う息は自然に入ってくる分だけでよく、数えるなら吐くときに数えていく。
数息観という数え方がある。吐きながら「ひとーつ」。次の息で「ふたーつ」。十まで行ったら一に戻る。
数を忘れたら一からやり直す。忘れたことを責める必要はない。何度でも一に戻る、その往復そのものが坐禅の中身になっていた。
調身、調息、調心という言い方もする。形を調え、息を調える。心はあとから勝手に落ち着いてくる、という順番で三つが並んでいた。
欠気一息と左右揺振は、どちらも三十秒で済む動作なのに、飛ばすと坐りの質がはっきり落ちる。体の中心線を先に決めてしまえば、あとは崩れたときに戻る場所が自分で分かるようになった。基準点を作る作業だ。
数息観のほかに、息を数えずにただ吸って吐くのを見ている随息観というやり方もある。どちらを使うかは道場の方針で決まり、初参加の人には数えるほうを勧める会が多かった。迷ったら数える。
呼吸を意識しすぎて苦しくなる人はかなり多くて、吸う側を操作しようとするのが原因になりやすい。吐き切れば勝手に入ってくるので、出す側だけ長くしてあとは放っておくくらいでちょうどいい。
息を吐く長さは、慣れてくると十秒を越えることもある。数えるより、吐き切ったところで体が勝手に吸うのを待つほうが自然で、回数を目標にしはじめると呼吸のほうが窮屈になっていった。
止静のあいだに起きること
鐘が三つ鳴ると止静に入る。堂の戸が閉められ、誰も出入りしない時間になった。一回の坐は四十分前後で、線香一本が燃え尽きる長さから来ている。
十分もすると足が痛みだす。しびれは血の巡りが戻れば取れるが、骨の当たる痛みのほうは坐蒲の高さで解決するので、次の回の参考にしておく。
考えごとは必ず湧く。追い払おうとすると、追い払う考えが増えた。浮かんだと気づいたところで、数えている息のほうへ戻る。それだけだ。
眠気は姿勢に出る。首が落ち、親指が離れる。気づいたら背を立て直して、目をもう一度床へ落とした。
止静のあいだは堂から出られないので、水を飲みたい人も手洗いに立ちたい人も先に済ませておく。どうしても出たい場合は、小さく合掌して係の人に合図を送れば、静かに外へ出してもらえる。我慢は要らない。
四十分を一回とする会が多いが、初心者向けに二十分で区切る会も増えてきた。時計を見ないで坐るのが基本なので、終わりの鐘が鳴るまで自分がどれだけ坐ったかは分からない。時間の感覚が狂う。
堂の中では線香が時間を計る道具として使われてきた。今は時計や電子音を併用する寺も増えたが、香りが弱くなってきたら終わりが近いという感覚を頼りにしている人もいる。
警策の受け方
堂内を歩く役の僧が、肩を打つ棒を持って回っている。警策という。罰のための棒じゃない。眠気や乱れを切るための道具だ。
欲しいときは合掌する。前を通るときに手を合わせて待つと、相手が気づいて正面に立ち、こちらも相手も合掌して低頭した。
はじめに右肩を軽く叩かれる。これが予告になる。合図が来たら上体を左前へ傾け、首を守るように少しうつむいて、左肩を出す形をつくる。
打たれるのは肩の後ろの筋で、回数は二回か四回。終わったら体を戻し、ふたたび合掌して低頭すると、相手も礼を返してくる。
音は大きいが、当たる場所を外さなければ痛みは残らない。念のため言っておくと、断りたいときは合掌しないでいればよくて、無理に受けなくていい。
警策を使うかどうかは道場によって違い、置いていない会もある。臨済の側では肩の前を打ち、曹洞の側では肩の後ろを打つ、といった細かい違いも流派ごとに伝わってきた。棒の形も少し違う。
打たれた直後は熱が広がるような感じがあって、そこから背筋が伸びる人が多い。痛みで目を覚ますというより、礼を交わす一往復で場が仕切り直される、という受け止め方をする人もいた。意味づけは人それぞれ。
合掌して警策を求める動作は、自分から助けを頼む練習になっているという言い方をする人もいる。黙って耐えるかわりに、手を合わせて頼む形が作法として用意されている点が、この道具の面白いところだ。
受けたあとに肩をさすったり、顔をしかめたりしないのが堂内の作法になっている。痛みを表に出さないというより、音や動きで周りの坐りを乱さないための配慮として受け継がれてきた形だ。
経行と抽解
一回の坐が終わると鐘が二つ鳴る。経行に移る合図で、堂の中をゆっくり歩く時間になった。
立ち上がったら叉手にする。左の親指を中に入れて握り、手の甲を外へ向けて胸に当て、右の手のひらでかぶせる。腕はほぼ水平に保つ。
歩幅が独特だ。一息半歩という。一呼吸するあいだに自分の足の長さの半分だけ進むので、傍から見ると止まっているようにしか見えない。
進む向きは右回り。前の人との間隔を保ち、追い越さない。視線は二メートルほど先の床へ置いておく。
鐘が一つ鳴ると抽解になる。元の坐位置まで戻り、姿勢を作り直してもう一度坐る。手洗いに立つならこの時間しかなかった。
経行の速さは道場でかなり違い、曹洞の側はごくゆっくり、臨済の側は速足で回る所もある。どちらにしても、歩きながら坐禅を続けているという扱いで、休憩時間とは考えられていない。気は抜かない。
足のしびれが強いときは、経行のあいだに踵をゆっくり上げ下げして血を戻しておく。列を乱さない範囲でなら、多少の動きは黙認される。痛いまま二回目に入らない。
経行のあいだも視線は落としたままで、周りを見回さない。前を行く人の足だけを目の端に入れて、その間隔を保ちながら進んでいくと、列全体が自然に同じ速さへ揃っていく。
開静と後始末
終わりの鐘が一つ鳴ると放禅。合掌低頭してから、手のひらを上に向けて両膝の上に置く。
そこから左右揺振に移る。今度は小さくはじめて、だんだん大きく振っていく。坐りはじめと逆の順で、固まった体をほどくための順番だ。
足をほどく。しびれているうちに立つと転ぶので、膝を伸ばして少し待つ。指先を動かして血を戻した。
立ったら坐蒲を整える。手で叩いて形を戻し、元あった向きに置く。自分が来たときと同じ状態に戻すのが決まりだった。
畳や床に落ちた髪やほこりを払ってから退く。出るときは右足から。堂を出たら振り返って一礼する。
開静のあと、堂を掃く時間を設けている会もあって、参加者が雑巾がけに加わる場面もある。坐る場所を自分で整えるところまでが一続きの修行、という考え方が下敷きにあった。掃除も作法のうち。
坐蒲の向きを元に戻すのは、次に坐る人が同じ条件で始められるようにするための配慮だ。自分の痕跡を残さないというのが道場の基本的な作法で、湯呑みも履物も同じように扱われる。来る前の状態へ返す。
堂を出たあとに茶礼という時間を置く会もあって、茶を一服飲みながら短い挨拶を交わす。坐っていた時間から日常へ戻るための緩衝帯として、昔から挟まれてきた段取りになる。
般若心経を一句ずつ
坐禅のあとに読むのは、たいてい般若心経になる。二百六十字あまりの短い経で、覚えてしまえば紙を見ないで読めた。
読み方は宗派で少し違う。禅の勤めでは波羅蜜多を「はらみた」と読み、節を付けず、一定の速さでそのまま押していく。
題は「摩訶般若波羅蜜多心経」で、「まかはんにゃはらみたしんぎょう」と読む。大いなる智慧の完成について、その核心を説いた経、という意味になる。
先に断っておくと、この経には常用の字形で出せない漢字が二つ混じっている。ここではその二字だけカタカナで置き、読みを添えた。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」を「かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみたじ」と読む。観音が深い智慧の行を進めていたとき、という出だしになる。
「照見五蘊皆空度一切苦厄」は「しょうけんごうんかいくうどいっさいくやく」。五つの集まりがどれも空だと見抜いて、苦しみを越えた、と続いていく。
「舎利子色不異空空不異色」を「しゃりししきふいくうくうふいしき」と読む。舎利子よ、形あるものは空と違わず、空もまた形と違わない。
「色即是空空即是色」は「しきそくぜくうくうそくぜしき」と読む。形はそのまま空、空はそのまま形で、ここが一番よく知られた句になった。
「受想行識亦復如是」を「じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ」と読む。感覚も想いも働きも意識も、まるきり同じことだ。
「舎利子是諸法空相」は「しゃりしぜしょほうくうそう」。舎利子よ、あらゆるものは空という姿をしている、と呼びかける。
「不生不滅不垢不浄不増不減」を「ふしょうふめつふくふじょうふぞうふげん」と読む。生まれも滅びもせず、汚れも清まりもせず、増えも減りもしない。
「是故空中無色無受想行識」は「ぜこくうちゅうむしきむじゅそうぎょうしき」。だから空の中には形もなく、感覚も想いも働きも意識も立たない。
「無眼耳鼻舌身意」を「むげんにびぜっしんい」と読む。目も耳も鼻も舌も体も心も、そこには立てられない。
「無色声香味触法」は「むしきしょうこうみそくほう」。その相手になる色も音も香も味も手触りも事柄も、やはり立てられない。
「無眼界乃至無意識界」を「むげんかいないしむいしきかい」と読む。見る世界から意識の世界まで、どこを取っても同じだ。
「無無明亦無無明尽」は「むむみょうやくむむみょうじん」と読む。迷いの根もなく、その尽きることもない。
「乃至無老死亦無老死尽」を「ないしむろうしやくむろうしじん」と読む。老いと死もなく、その尽きることもない、と重ねていく。
「無苦集滅道無智亦無得」は「むくしゅうめつどうむちやくむとく」。苦と原因と滅と道もなく、知ることも得ることもない。
「以無所得故菩提薩タ依般若波羅蜜多故」を「いむしょとくこぼだいさったえはんにゃはらみたこ」と読む。得る物がないから、道を求める者は智慧の完成へ寄りかかる。
「心無挂礙無挂礙故無有恐怖」は「しんむけいげむけいげこむうくふ」。心に引っかかりがなく、引っかかりがないから恐れも起きない。
「遠離一切顛倒夢想究竟涅槃」を「おんりいっさいてんどうむそうくぎょうねはん」と読む。さかさまの思いこみを離れ、静かな境地へ行き着いた。
「三世諸仏依般若波羅蜜多故」は「さんぜしょぶつえはんにゃはらみたこ」。過去と今と先の仏も、みなこの智慧に寄りかかった。
「得阿耨多羅三藐三菩提」を「とくあのくたらさんみゃくさんぼだい」と読む。この上ない正しい悟りを得た、という句になる。
「故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪」は「こちはんにゃはらみたぜだいじんしゅぜだいみょうしゅ」。だから知れ、智慧の完成は大いなる呪、明るい呪だ。
「是無上呪是無等等呪」を「ぜむじょうしゅぜむとうどうしゅ」と読む。上のない呪、並ぶもののない呪、と畳みかけていく。
「能除一切苦真実不虚」は「のうじょいっさいくしんじつふこ」。あらゆる苦を除き、そこに偽りがない、と締める。
「故説般若波羅蜜多呪即説呪曰」を「こせつはんにゃはらみたしゅそくせつしゅわつ」と読む。だから智慧の完成の呪を説く、その呪はこうだ、と前置きする。
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」は「ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか」。渡った者よ、渡った者よ、向こう岸へ渡った者よ、悟りよ、めでたし。
締めにもう一度「般若心経」と置いて、「はんにゃしんぎょう」と読む。ここで一巻が終わった。
心経は坐禅会のほか、葬式でも法事でも祈祷でも読まれるので、覚えておくと一番つぶしが利く。漢字を目で追うだけだと途中で迷子になるので、最初はふりがなの付いた経本を借りたほうが早かった。暗記は後回しでいい。
読む速さは会によって違い、ゆっくり一字ずつ進める所もあれば、二分足らずで一巻を終える所もある。周りの声に合わせて息継ぎの場所を探していくうちに、自然と同じ速さへ乗っていく。合わせようとしなくていい。
心経の現代語訳は数えきれないほど出ていて、訳者によって受ける印象がかなり変わってくる。ここに置いた訳も一つの読み方でしかないので、気になったら複数の訳を並べて比べてみてほしい。
四弘誓願文
心経のあとに四弘誓願文を三度唱える会が多い。四つの誓いを並べただけの短い文なので、覚えるのも早かった。
一句目は「衆生無辺誓願度」で、「しゅじょうむへんせいがんど」と読む。救うべき者にきりはないが、それでも救うと誓う。
二句目は「煩悩無尽誓願断」。「ぼんのうむじんせいがんだん」と読み、煩いは尽きないが、それでも断つと誓った。
三句目は「法門無量誓願学」。「ほうもんむりょうせいがんがく」と読み、教えははかりきれないが、それでも学ぶと誓う。
四句目は「仏道無上誓願成」で、「ぶつどうむじょうせいがんじょう」と読む。仏の道に上はないが、それでも成し遂げると誓う。
四つとも、できるはずのない内容をあえて誓う形になっている。達成の見込みで引き受けていない。そこが願の立て方の芯だった。
唱えるときは一句ごとに区切らず、四句を一息の流れで押していく。三度繰り返したところで終わる。
四弘誓願文を使うのは禅宗だけじゃない。天台や真言の勤めにも同じ四句が入っていて、宗派を越えて共有されてきた誓いの形になっている。出どころはかなり古い。
唱えるときに手を合わせるか、経本を持つかは会によって違う。三度繰り返す途中で声が揃ってくるので、初めての人でも二度目からは何とか付いていけるようになる。先に一度聞いておくと楽だ。
誓いの数を四つに絞った形が定着したのは中国でのことで、経典の中には似た誓願がいくつも散らばっている。宗派によって四句の順番や漢字の当て方が少し違うので、手元の経本に合わせて唱えれば足りた。
普回向
締めは普回向になる。読んだ功徳をよそへ回す文で、これが済めば読経はおしまいだ。
原文は「願以此功徳普及於一切我等与衆生皆共成仏道」。読みは「がんにしくどくふぎゅうおいっさいがとうよしゅじょうかいぐじょうぶつどう」になる。
訓で読み下すと「願わくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」。こちらで唱える会もあった。
現代の言葉に置き換えるなら、この読経で生まれた善いはたらきを手元に置かず、全部よそへまわすという宣言になる。自分と他の生き物がそろって仏の道を成し遂げられるように、と願う。
三度唱える会もあれば一度で終える会もある。唱え終えたら合掌して低頭。ここで声が止む。
普回向という名前の「普」は、あまねく行き渡らせるという意味で使われている。自分のために読んだ経の功徳を、自分の外へ全部押し出してしまう形が回向の基本的な型になった。取っておかない。
法事の場では、この前に亡くなった人の名を読み上げる段が入る。坐禅会だと名前を読まずに普回向だけで締める形が多く、誰のためという指定を置かないまま終わっていく。宛名のない手紙みたいな形。
回向という考え方は、自分の積んだ善い行いを他人へ振り替えられるという前提の上に立っている。功徳を貯め込まずに配る方向へ動かすところに、この短い文の作りがよく表れていた。
祈祷のときに唱える陀羅尼
祈祷の場で中心に来るのは大悲心陀羅尼で、大悲呪とも呼ぶ。訳さずに音だけを写した文句が八十四句ほど続いた。
もとをたどると、青い首の観音についての呪文だった。ヒンドゥーの神の名が混ざった古い形が経典に取り込まれ、千手観音のものへ変わっていく。
中国では宋のころに禅の規則書へ入った。十三世紀の清規に読誦の場面が載り、以後は唱える場所が増えていく。日本へ入ったのは鎌倉の終わりから室町にかけてだ。
曹洞の勤めでは朝課と晩課の両方で読む。施餓鬼や盂蘭盆ではこれを最初に置く寺が多く、祈祷の法要でも声を出す段の頭に来た。
唱え方は速い。節を付けず、木魚に乗せて途切れさせずに進める。意味を考えずに音を通すのが作法で、訳さないこと自体が作法の一部になっている。
晩唐のころには、この呪で不思議を起こした僧の話がいくつも流れた。中国語圏では心経と並ぶ人気の文句として扱われている。
大悲心陀羅尼を漢字で書くと八十四句ほどになり、通して読むと三分から四分かかる。音を写しただけの文字が並ぶので、漢字の意味をいくら追っても内容にはたどり着けない作りになっている。音そのものが本体だ。
祈祷の場では、これを三回続けて読む形が多い。木魚の速さがだんだん上がっていって、終わり際には息継ぎの場所を探すのが難しくなるくらいまで走る。聞いている側は正直、圧倒される。
陀羅尼を訳さない理由として、音の連なりそのものに働きがあるという考え方が古くから添えられてきた。漢訳の経典の中でも、真言と陀羅尼だけは音写のまま残されているのが通例になる。
祈祷諷経の組み立て
諷経というのは声をそろえて経を読むこと。祈祷諷経は、その読経を願いごとへ差し向ける形を指した。
流れは決まっている。はじめに鐘と太鼓で場を開き、香を焚き、本尊へ礼をする。それから陀羅尼を読んでいく。
読み終わると回向文が入った。誰のための祈りか、何を願うのか、声に出して読み上げる段になって、ここで名前や町名が読まれる。
正月の転読大般若だと、六百巻の経箱を開き、蛇腹の本を落としながら読む。風が起きる。その風に当たりに来る人が並んだ。
締めに撥遣が来る。招いた仏や神に帰っていただく段で、これを抜くと場が開いたままになった。開いたら閉じる、が儀式の骨格だ。
日取りにも決まりがある寺が多い。正月、節分、春秋の彼岸、夏の土用。願いの種類で日を選ぶ形は、暦の考え方がそのまま入り込んだ名残りだった。
諷経の「諷」は、声に出して唱えるという意味の字で、黙読とは区別されてきた。声を出すこと自体が儀式の一部なので、口を動かさずに聞いているだけの参列者も、その場にいる限り加わっている扱いになる。黙っていても構わない。
回向文で読み上げる願いごとは、事前に紙へ書いて受付へ出す形が一般的だ。家内安全、身体健全、商売繁盛、交通安全、厄除開運といった決まり文句が並んでいて、その中から選ぶ。自由記入の欄がある寺もある。
祈祷の途中で太鼓や銅拍子が入る寺もあり、音の厚みで場の切り替えを示していく。鐘の数、太鼓の打ち方、立つ位置まで細かく決まっていて、僧はそれを頭より先に体で覚えている。
札の受け方と祀り方
祈祷が済むと札が渡される。受け取るときは両手で、片手では受けない。押しいただいてから胸の高さで持つ。
持ち帰る道中は、紙袋なり風呂敷なりに入れて立てて運ぶ。折らない。人に踏まれる高さへ置かない。
家での置き場は目線より上になる。神棚があればその中か横、なければ本棚の上や鴨居の上に白い紙か布を敷き、その上へ立てた。
向きは南か東を向くように置くのが一般的だ。壁に貼るなら画鋲を札に刺さず、上下を紙で挟んで留める。
置いたら水を上げる。毎朝でなくていい。気づいたときに手を合わせ、埃を払っておけば十分な扱いになる。
期限はおおむね一年。年が明けたら新しい物に替える。古い札は受けた寺へ返すのが筋で、正月のどんど焼きへ出す地域もあった。
返しに行けないなら、近くの寺社の納札所へ納める。郵送を受ける寺もあるので、先に問い合わせておく。自分で燃やすなら塩を振って白紙に包み、火の始末まで見届けた。
札の材質は木の板と紙の二通りで、木の札のほうが値が張り、扱いも丁寧さを求められる。紙の札は折り目が付くと見栄えが悪くなるので、持ち帰るときに筒へ入れてくれる寺もあった。受け取り方で扱いが決まる。
置き場所として避けるのは、トイレの近く、台所の火の上、寝床の足元のあたり。人が下をくぐる鴨居の上なら構わないが、人の頭より低い位置は避けるのが一般的な作法になっている。高さが基準になる。
同じ家に複数の寺社の札を並べても構わない、という言い方が一般的だ。並べるなら高さを揃え、真ん中を空けずに横一列にして、どれか一つを下げるような置き方を避ければいい。
祈祷を頼むときは、願いごとのほかに名前と生年月日、住所を書いて出す形が一般的になる。読み上げる段で使うためのもので、書きたくない項目があれば受付でその旨を伝えれば調整してもらえた。
筮竹を握る前に
易を立てる道具は三つある。竹を細く削った筮竹が五十本、それを立てておく筮筒、卦を並べる算木が六本。
筮竹は長さ五十センチ弱が標準で、三十センチ台の短い物もある。算木は断面が四角い短い棒で、二面が黒、残る二面に赤い筋が入っていた。
立てる前に問いを一つへ絞る。二つ三つをまとめて聞かない。聞き方が曖昧だと、出た卦の読みようがなくなるからだ。
場所は静かなところを選ぶ。机を拭き、手を洗った。座って背を立て、深く息を三度。ここまでが準備になる。
筮竹は竹ひごを束ねた物で、専門店だと数千円から、良い物になると数万円の値が付く。五十本きっちり揃っているかどうかを最初に数えておかないと、途中で計算が合わなくなって卦が狂った。買ったら必ず数える。
算木は六本一組で、断面が正方形の短い棒。二面を黒、残る二面に赤い筋を入れてあって、転がして向きを変えるだけで陰陽を切り替えられる作りになっている。使い方は単純なんだよね。
筮竹を使わずにコインやさいころで卦を立てるやり方も昔からあって、手早さでは断然そちらが勝つ。それでも竹を握る手順を踏む人が多いのは、数える動作そのものが問いを整える時間になるからだ。
五十本から一本を抜く
五十という数は易の古い言葉から来ている。大衍の数は五十、そのうち用いるのは四十九、と書かれた一節があった。
抜いた一本は太極と呼ぶ。動かさない一本だ。筮筒に戻すか、机の端に横たえて最後まで触らない。
残るのは四十九本になる。これを全部左手で握り、問いを胸の中で三度繰り返す。声に出す流儀もあった。
ここから先は、分二、掛一、「せつし」、帰奇という四つの動作の繰り返しになる。せつしと帰奇のほうは常用の字形で書けない漢字を含むので、読みだけを出した。
呼び名は難しいが、やることは数えるだけだ。左右に分け、一本を挟み、決まった数ずつ払い、余りをよける。この四段が全部だった。
大衍の数を五十とした理由については、昔から解釈が何通りも並んでいて、決着していない。天地の数を足した五十五から五を引いた、暦の数から導いた、といった説がそれぞれの立場で唱えられてきた。根拠は一つに絞られない。
太極の一本を抜くのは、動かない中心を場に一つ置くためだという説き方をする。その一本を筮筒へ戻すか机の端へ置くかは流儀の違いで、どちらにしても最後まで手を触れない。触ると場が崩れる。
四十九本という数は、四で割ると一余るように仕組まれていて、余りが必ず出る形になっている。余りを集めて読むのが易の立て方の芯なので、きれいに割り切れてしまう数では卦が立たなくなった。
略筮法の手順
いちばん簡単なのが略筮法になる。三度の操作で卦を出すので三変筮法とも呼び、物事の可否や当面の重点を見る場面で使う。
四十九本を握った両手を、適当なところで二つに分ける。これが分二。右手の分を机へ置く。
置いたほうの束から一本を抜き、左手の小指と薬指のあいだへ挟む。これが掛一で、天と地に人を加えた三つを立てる意味が当てられていた。
残った左手の束を、二本ずつ数えながら払っていく。八本のまとまりで落とし、八以下が残るまで続けた。
残った本数へ、挟んでいた一本を足す。その数が下の卦になる。一なら乾、二なら兌、三は離、四は震、五は巽、六は坎、七は艮、八なら坤。
同じ手つきをもう一度繰り返して上の卦を出す。これで六本の線が揃った。下から三本、上から三本という並びになる。
三度目は変爻を求める段だ。同じように分けて一本を挟み、今度は六本ずつのまとまりで払っていくと、余りが爻の位置を示す。
余り一なら初爻、二なら二爻、と下から数えていく。六なら上爻。ここが動く線で、読むときの中心になった。
三度で終わるので、慣れれば五分もかからない。辻に立っていた易者が使っていたのも、たいていこの手順だ。
略筮法で出てくるのは、上下の卦と動く爻が一本ずつという、ごく単純な形になる。得た卦の辞と、動いた爻の辞を読み合わせて答えを組み立てるので、読む側の言葉の力がそのまま出た。手順より読みが難しい。
八本ずつ払うときは、二本を一度につまんで四回落とすやり方が速い。一本ずつ数えると途中で見失うので、二本ひと組で数える癖を最初に付けておいたほうがいい。指の動きで覚える。
八卦の並び順は、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤という先天の配列で覚える。この順番を体に入れておかないと、余りの数から卦の名へ変換するところで毎回つまずくことになった。
払った筮竹は机の左側へまとめ、次の操作に混ぜないようにしておく。数え間違いの大半はここで起きるので、一段ごとに束を分けて置く癖をつけておくと、途中で分からなくなる事故が減った。
中筮法と本筮法
中筮法は六度の操作で組む。六変筮法とも呼び、一本の爻を一回の操作で決めるので、六本なら六回で済んだ。
売り買いや交渉のように、話が動いていく事柄を見るときに使う流儀がある。時間の経過を線ごとに追える形だからだ。
いちばん手のかかるのが本筮法になる。十八変筮法ともいい、一本の爻を出すのに三回、六本で十八回の操作を重ねていく。
一回ぶんの中身が四段に分かれる。左右に分けるのが分二。一本を挟むのが掛一。四本ずつ数えて払うのがせつしだ。
四で割った余りを指のあいだへ挟み込むのが帰奇になる。左の束と右の束それぞれに余りが出て、それを合わせて脇へよけた。
これを三回やると、手元に残る本数が三十六、三十二、二十八、二十四のどれかになる。四で割れば九、八、七、六の数が出た。
九は陽の動く線で、六は陰の動く線。七は動かない陽、八は動かない陰。古い言い方だと老陽、老陰、少陽、少陰と呼ぶ。
十八回で六本ぶんの数が揃い、卦が一つ出来上がる。四たび営んで易を成し、十有八変して卦を成す、という一文がこの段取りをそのまま指していた。
本筮法を一回通すと、慣れた人でも十五分から二十分はかかる。その手間を惜しまない理由として、爻ごとに老陰と老陽の区別が出るので、変化の読みが細かくなるという点が挙がる。情報量が違う。
中筮法は本筮法を三分の一に縮めた形で、一回の操作で一本の爻を決めていく。略筮法だと動く爻が一本しか出ないのに対し、中筮法なら複数の爻が同時に動く形も拾えるようになる。使い分けの基準はそこ。
どの筮法を使うかは相談の重さで決める人が多く、軽い判断なら略筮、腰を据えるなら本筮という分け方になる。同じ問いを二度立て直さないのが共通の決まりで、出た卦が気に入らないから引き直す、はやらない。
算木の並べ方と記録
出た爻は算木で表す。机の上へ横向きに並べ、下から順に積み上げていく。いちばん手前が初爻になる。
陽の線は黒い面を上にして、一本の棒に見せる。陰の線は赤い筋の面を上にして、切れ目のある形に見せた。棒の向きを変えるだけで陰陽が切り替わる。
六本が並んだら、下三本と上三本をそれぞれ八卦の名で読む。上が乾で下が坤なら天地否、という具合に卦の名が決まった。
記録は紙に取る。日付、時刻、場所、立てた人、問いの文、出た卦、動いた爻。ここまで書いておくと、後から突き合わせができた。
三か月後に同じ紙を見て、出た卦の言葉と実際の成り行きを並べてみる。これを重ねた人ほど、卦の言葉を自分の言い回しで語れるようになっていく。
終わったら道具を仕舞う。筮竹は揃えて筮筒へ立てる。曲がった竹や割れた竹は抜いて替えた。
算木は布に巻くか箱へ納める。人に踏まれる場所や、湿気の多い場所には置かない。貸し借りをしない流儀も多かった。
太極の一本も忘れずに戻す。机を拭いて終わり。一件ごとに区切る習慣が、問いを混ぜない工夫になっていた。
算木を並べずに紙へ線を書くやり方も広く使われていて、陽は一本の棒、陰は二つに切れた棒で描く。下から上へ六段、書く順序を間違えると別の卦になってしまうので、初爻の位置だけは必ず印を付ける。下から積む。
記録には、そのとき自分が何を考えていたかも短く添えておく。後から読み返したときに、卦の言葉より自分の書いた一行のほうが効いてくる場面が、けっこうあった。日記に近い使い方になる。
動いた爻を陰陽反転させると、之卦という二つめの卦が出てくる。もとの卦を今の状態、之卦を移っていく先として並べて読む形が、易の読み方の基本的な組み立てになっていた。
卦の名を調べるときは、上の卦と下の卦の組み合わせから六十四通りの表を引く。手元に一覧を置いておけば探すのは一瞬で、慣れるまでは無理に覚えようとしないほうが手が止まらずに済んだ。
今ある会へ行くとき
寺の坐禅会は思ったより敷居が低い。朝六時からの回が無料で、予約も要らない所がある。都内の禅寺でも珍しくなかった。
予約の要否は会によって違う。迷ったら電話で「初めてですが予約は要りますか」と一言聞けば済む。メールで受ける寺も増えた。
持ち物はタオル。汗を拭くのに使い、膝の下へ折って敷く手もある。靴下、飲み物、小銭、書き留める物。これだけあれば足りた。
服装はゆったりした物にする。伸びる素材のズボンかジャージが坐りやすく、細いジーンズとタイトスカートでは足が組めない。
色は白、黒、紺、灰のあたりが無難だ。香水は控える。指輪と時計は外す。堂内は静かなので、金属が床に当たる音がよく響いた。
費用は無料から千五百円くらいが目安になる。志納と書かれていたら決まった額はなく、千円札を一枚、封筒に入れて出す人が多い。
当日の流れはどこも似ている。受付を済ませ、初めての人だけ作法の説明を受けて、それから一回目の坐が二十五分から四十分ほど。
経行を挟んで二回目に入る。終わったら法話が十分か二十分、お茶が出る会もあって、全部で一時間半から二時間といったところだ。
祈祷が付く会だと、坐禅のあとに読経と祈祷が入る。札を受けるかどうかはたいてい任意になっていて、断っても構わない。
質問は終わってからする。坐っているあいだの私語は避ける。分からないことは後で聞けばいい。
足が痛くて途中で崩したくなったら、崩していい。音を立てずに組み替える。我慢比べの場じゃないんだよな。
一回行って合わなければ、それで終わりでいい。続ける人は週に一度か月に一度のペースで通っている。自分の速度で足を運ぶ。
祈祷坐禅会のように複数の要素を混ぜた会は、寺が開くものより占いの店や個人が開くものに多い。料金も一回数千円から、鑑定が付くと一万円を超える設定まで幅があるので、先に金額を確かめておく。聞くのは失礼じゃない。
初回で見ておきたいのは、断りたいときに断れる空気があるかどうかという一点だ。物販や追加の鑑定を強く勧めてくる場だと、坐っている時間まで落ち着かなくなるので、合わないなら続けなくていい。相性の問題として扱う。
坐禅の会を探すなら、宗派の本部が出している寺院の一覧や、各地の教化センターの案内が手がかりになる。近所の寺に直接電話して「坐禅の会はやっていますか」と聞くのが、結局いちばん早かった。
遅刻したときは、堂の外で待って次の区切りに入るのが決まりになっている。止静の途中で戸を開けると全員の坐りが切れてしまうので、五分の遅れでも外で待つほうが結局は迷惑にならない。
