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甲府UFO事件から龍神信仰へ――コンタクティ・山畠克博、50年の転身

1975年、小学生二人が遭遇した「もの」

日本のUFO事例でいちばん名の通っているのが「甲府事件」だ。起きたのは1975年2月23日の夕方、場所は山梨県甲府市だった。正直、筋だけ聞くと子ども向けの怪談に近い。

甲府市立山城小学校の2年生で、いとこ同士の男子児童が二人いた。二人は帰宅途中にオレンジ色の光る物体に追われ、墓地に隠れた後、ブドウ畑に着陸した円盤を発見する。そこに現れたのは「チョコレート色でシワシワの搭乗者」で、うち一人は肩をたたかれたという。

家族が駆けつけた際には、搭乗者の姿はもう消えていた。それでも「燃えるような物体がブドウ畑にあった」と報告された。環境センターの管理人も、別の日に光体を目撃している。1982年には保険外交員が似た人物と遭遇したと証言し、そうした話が重なって事件は全国的な話題となった。

もちろん懐疑的な見方も少なくない。現場の検証では、矛盾点がいくつも指摘されている。まず「柱が折れているのに周囲の木々には傷がなかった」という点。次に「証言された円盤の大きさでは柱の間を通るのは物理的に不可能」という点。単なる小学生の創作や見間違えではないか、という議論は50年たった今もくすぶったままだ。

沈黙の50年を経て語り始めた当事者

2025年、事件から50周年の節目に、当時の少年の一人であった山畠克博が初めてメディアに復帰し、長い沈黙を破った。彼はその後、コンタクティー(宇宙人との接触体験者)として数々のUFO写真を撮影し続けてきた。約5年前に山梨へ帰郷してからは金櫻神社での龍神参拝を始め、自らを「地球修復担当の末端の広報委員」と表現するようにもなっている。

肩書きの言い回しがまた独特だ。「奇跡のリンゴ」の生産者として知られる木村秋則氏との接触を通じて、自分の使命に目覚めたという。金櫻神社での撮影で公開しているのは、白い球体(オーブ)の飛行映像や龍形の靄、UFOの姿だ。社殿を浮遊する緑色の物体、そして龍の横顔を捉えたとされる写真まである。

龍神を「宇宙からの使者」と解釈する発想

山畠氏は龍神を単なる日本の民俗信仰の対象ではなく、「宇宙からの使者」として位置づけている。こういう読み方をするのは、彼ひとりではない。

メソアメリカ・アステカ文明の羽の生えた蛇神ケツァルコアトルに、インド神話のナーガ(蛇神)。世界各地の水の神・龍の形をした神格は、エーリック・フォン・デニケンの「古代宇宙人説」以降、宇宙人接触モチーフに重ね合わされやすい。スピリチュアル系言説では、しばしばそう扱われてきた。

理由は単純で、龍の図像はUFOや宇宙船のイメージと重ねやすい形態的類似性を持っている。爬虫類のような体、飛翔する能力、天候を支配する力。並べてみると、たしかに似ていなくもないのかもしれない。

写真に写る「もの」の科学的見方

写真に写る「オーブ」や淡い光の物体には、写真工学の側からの説明もついている。フラッシュ撮影時に、空気中の塵・水滴や虫がレンズに近い位置で反射することがある。それが丸い光の玉として写り込む現象は、心霊写真家の間では日常的に知られている。

2000年代以降、デジタルカメラの普及と共にこの種の写真は急増した。同時に写真リテラシーの向上も進んだ。たいていは光学的に説明がつく、というのが写真の専門家のあいだでは通り相場になった。夢のない話ではある。

UFO体験からスピリチュアルの物語へ

山畠氏のたどった道は、UFO目撃談の研究でよく指摘される型にきれいに当てはまる。子どものころに強烈な体験をして、数十年かけてそれを使命感や信仰へ組み直していく型だ。

少年期の衝撃的なアブダクション体験が、宇宙人接触・隠された使命・宗教的覚醒へつながっていく。この現象は、欧米のUFO学の歴史でも繰り返し語られてきた。心理学者の中には、「トラウマ的体験を意味ある物語へと変換していく適応プロセス」として説明を試みる者もいる。

真実でも否定でもなく

甲府事件が実際に何だったのか、今から確かめる手立てはもう残っていない。ただ少年時の驚きの体験が、五十年かけて龍神信仰という別の形へ移っていった。人が説明のつかない体験にどう意味を与え、どう飲み込んでいくのか。その道筋を追える事例になっている。

現場に残ったものの話

山梨の知り合いに甲府の一件を振ると、たいてい「ああ、あれね」と軽い調子で返ってくる。地元ではもう半分笑い話。ただ当時の現場検証の記録を読んでいくと、そう簡単に笑って片づけにくい部分がいくつも出てくる。

ブドウ畑に立っていたコンクリート支柱が三本、根元から倒れていた。金網は重い物を載せたみたいに外へ押し広げられ、地面には穴がいくつも空き、リヤカーが通ったような轍まで残っていた。子どもの悪戯にしては、いくらなんでも手の込みすぎた現場。

現場になったブドウ畑の周りも、半世紀のあいだに家が増えて、当時の景色とはずいぶん変わってしまった。

調査に入ったのは、地元で理科を教えていた高校教員の前田進だった。放射線の測定器を現場へ持ち込み、周辺の土から人工の残留放射能を検出したと報告している。この報告はその後のUFO誌で繰り返し引かれることになり、甲府事件を「物証のある事例」として押し上げる材料になった。測定条件や数値の読み方については当時から異論も出ていて、そこは今も決着していない。

懐疑側から出た指摘のほうも、感情論ではなく現場の寸法に即した具体的なものだった。支柱が折れるほどの重量物が降りたのなら、すぐ脇に立っている木々が無傷なのはおかしい。さらに子どもたちが話した円盤の直径では、支柱と支柱の隙間を物理的に抜けられない。どう並べても寸法が合わない、という話に落ち着く。

もう一つ厄介なのが、証言が後から増えていった点だった。環境センターの管理人が別の日に光体を見たと語り、七年後の1982年には保険外交員が似た風体の相手と出会ったと証言している。核になる話の周りへ、似た話が次々と寄り集まっていく。民俗学者が怪異の伝播を扱うときに使う型そのものだ。

二人の証言そのものも、最初に話した内容と後年の取材で語られた内容とで、細かい部分が動いている。記憶はそういうものだ。

五十年ぶりに口を開くまで

当事者の二人は、長いあいだ取材を断り続けていた。小学二年生で全国紙に載り、テレビが押しかけ、学校でも囃された。大人になってから進んで蒸し返したい話ではなかったらしい。

当時の地元紙やテレビの扱い方を見ると、事件というより珍事として消費された色がかなり濃い。子どもには荷が重い。

風向きが変わったのは2025年だった。事件から五十年の節目に合わせて、地元では「UFOKOFU1975」という一般社団法人が動き出し、甲府事件を町おこしの資源として扱う枠組みができあがる。山畠克博はこの流れのなかで、五十年ぶりに自分の名前を出す側へ回った。

体験を語る場が「検証」ではなく「祝祭」になったところが大きい。真偽を詰めてくる相手の前では、当事者はどうしても身構えるし、最後には口を閉ざしてしまう。祭りにしてしまえば、当人は追及される側ではなく主賓になれる。五十年かかった沈黙の解け方として、これはこれで筋が通っていた。

語り直しの場ができると、体験は少しずつ形を整えていく。五十年前の記憶が今の言葉で語り直されて、きれいな輪郭を持つようになった。

円盤の時代、日本側の熱

ここで少し時計を戻したい。山畠氏が少年だった1975年より前に、日本にはすでに分厚いUFO文化の地層が出来上がっていた。

始まりは1955年。荒井欣一が「日本空飛ぶ円盤研究会」を立ち上げた。荒井は1923年の東京生まれで、戦中は陸軍航空部隊のレーダー技官、戦後は大蔵省を経て五反田で書店を営んでいた人物だ。ジョージ・アダムスキーの著書に火をつけられた口だった。

終戦から十年、空を見上げる趣味が公の場で許されるようになった時期と、この会の立ち上がりはきれいに重なっている。

会員は多いときで千人を超え、機関誌『宇宙機』を出して全国の目撃情報を集めていた。顔ぶれが濃い。三島由紀夫は1957年から入会し、定期観測会には大きな望遠鏡を担いで必ず顔を見せたと記録に残る。星新一、新田次郎、石原慎太郎といった書き手も、そろって名を連ねていた。1962年の小説『美しい星』は、この経験から出てきたものだ。

当時のUFO研究は今のスピリチュアルな空気とはだいぶ手触りが違って、望遠鏡と記録用紙を携えた理科系の趣味に近かった。

もう一つの潮流が1957年8月に生まれている。航空ジャーナリストの松村雄亮が立ち上げた「宇宙友好協会」、略称CBAだった。テレパシーで宇宙船へ呼びかける観測会を各地で開き、「ベントラ」という掛け声を日本中へ広めている。1959年6月27日に開かれた観測会の様子は、ラジオの電波にも乗った。

ちなみにベントラという掛け声の語源には諸説あって、はっきりした出典を示した資料は見当たらない。音の勢いだけが残った。

CBAはその後、坂道を転がるみたいに性格を変えていった。松村が宇宙人との接触成功を主張しはじめ、1960年から1962年にかけて極移動が起きると説き、会員には救済を約束するようになる。1960年1月に内部情報が漏れてスキャンダルになり、組織は大きく割れた。

終末の日付を切った団体がその日を越えたとき何が起きるかという筋書きを、CBAは日本でいち早くなぞってしまった。

そこから残ったのが、古代宇宙飛行士説への転回になる。1964年には北海道の平取町でモニュメント「ハヨピラ」の建設に着手し、1967年に完成させている。ただ松村の発病も重なって、団体としての活動そのものは立ち消えになった。日高の山肌に、階段状のコンクリート遺構だけが置き去りにされた。

この遺構はアイヌの聖地と重なる場所へ作られていて、後年その点が地元から強い批判を受けることにもなる。

この流れを追うと、日本のコンタクティが辿った道筋が見えてくる。最初は観測と研究。次の段階で交信が入り、交信が個人の体験になった時点で、話は検証の外側へ出てしまう。外へ出た体験は、自分を語るための言葉を探しはじめる。

科学の言葉では説明が付かず、かといって黙っていることもできないとき、人は自分の体験を置ける棚をどこかに探しにいく。

日本でその受け皿になりやすかったのが、神道と修験の語彙だった。使命、御役、お取り次ぎ、御神業。戦前の神道系新宗教が蓄えてきた言い回しが、そっくりそのまま宇宙人との接触体験に流用できた。なかでも龍神は、宇宙から来た存在と重ねたときの座りが飛び抜けてよかった。

空を飛び、水を操り、人の前にはめったに姿を見せず、しかも日本中どこの土地にも祀られた社がある。条件がそろいすぎていた。

龍はもともと水の神だった

龍を宇宙からの使者として読む発想そのものは、かなり新しい。けれど龍そのものは、日本の信仰のかなり古い層に属している。

土台にあるのは蛇だった。弥生から古墳期にかけて、水辺の蛇は農耕の守り手として扱われている。大和の三輪山の神が蛇体で現れるという話も、その延長線上に置ける。水を司る存在が蛇の形を取るのは、東アジアに広く見られる発想だ。

中国から龍の図像が入ってきたとき、日本側にはすでに蛇の信仰という受け皿があったので、置き換えは驚くほどすんなり進んだ。

記紀の神々でいうと、水の神はタカオカミノカミとクラオカミノカミになる。イザナギがカグツチを斬ったときに生まれた神で、雨と雪を分ける役を負っていた。ミヅハノメノカミは井戸と灌漑の神として各地に祀られた。この三柱は、後の時代に龍神と重ねて理解されるようになる。

神社の由緒書きで「龍神さま」と通称される社を辿っていくと、祭神の欄にはこのどれかの名前が書かれていることが多い。

そこへ仏教が龍を持ち込んだ。法華経の序品に名を連ねるのが、八大龍王と呼ばれる八尊の龍たち。難陀、跋難陀、娑伽羅、和修吉、徳叉迦、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅の八尊で、釈迦の説法を聞いた護法の龍たちとして書かれている。和修吉は別名を九頭龍王といい、これが後で効いてくる名前になる。

八大龍王は日本へ入ってくると、水の信仰と結びついてはっきり雨乞いの神になった。宮崎の高千穂には八大龍王水神社が建ち、岐阜の各務原市の苧ヶ瀬池には総本殿を名乗る社がある。奈良の天川村にある大峯山龍泉寺では、いまも毎年十月に八大龍王大祭が営まれている。

仏教側の八大龍王と、神道側の水神と、修験の行場がひとところに重なった土地では、呼び名だけが幾重にも積もっていく。

善女龍王と、雨を請う修法

龍神信仰の日本史で一番よく引かれるのが、824年の神泉苑の話だ。淳和天皇の御代、旱が長く続いた年だった。

伝えによると、先に祈雨を試みたのは興福寺の守敏だった。ところが効き目がない。そこで空海が大内裏に南接する神泉苑で修法に入る。守敏が国中の龍神を瓶へ封じ込めていたなか、善女龍王だけがその手を逃れていた。空海は天竺の無熱池からその一尊を呼び寄せ、大雨を降らせたという筋書きだ。

善女龍王は、大海を意味する娑伽羅龍王の娘だと書かれている。もともと八大龍王の周りにいた一尊が、日本で独立した祈雨の本尊へ育っていった形だ。図像は一定しない。高野山には平安末期の絵師・定智が描いた男神像が伝わり、こちらは国宝に指定されている。その一方で長谷川等伯は、同じ神を女童のようなあどけない姿で描いている。

いちばん広まったのは、雲に乗る龍の背へ唐の官人が立ち、左手に宝珠を盛った鉢を持つという図様だった。女神の名を持ちながら、絵の上では男の姿で描かれることが多かった。ねじれを抱えたまま定着したところが、この神の面白さになっている。

雨乞いの本尊としての善女龍王は、平安から中世にかけて各地の寺へ勧請され、池や淵のそばに小さな社を残していった。

九頭龍という名の神が二つ

九頭龍を祀る社でいちばん名が通っているのは、長野の戸隠と神奈川の箱根。由緒は別物で、神としての性格も少し違っている。

戸隠の九頭龍社は、奥社のすぐ隣に建つ。祭神は九頭龍大神。伝えでは849年、山で修行していた僧が法華経を唱えたときに九頭龍が現れ、この地の守護神になると誓ったという。戸隠の他の四社が岩戸伝説の神々を祀るのに対し、九頭龍社だけは地主神を祀っている。

御利益の並びが独特だ。水の神、雨乞いの神、虫歯の神、そして縁結びの神。虫歯が混じる理由は言葉遊びから来ていて、梨を供えて一生梨を断つと誓えば歯の病が癒えるという伝えが残る。「歯なし」から「なし」を引けば「歯」が残るという理屈だった。

荒唐無稽に見えて、こういう語呂合わせで願を掛ける型は全国の民間信仰に山ほどある。戸隠だけが特別ではない。

箱根のほうの縁起は、奈良時代の757年から始まっている。万巻上人が芦ノ湖の毒龍を調伏したという話で、上人は『方広経』を一万巻読んだことからその名で呼ばれた。縁起には、深い淵へ臨んで石台を築いて祈ったところ、毒龍が姿を改め、宝珠と錫杖と水瓶を捧げて降伏を乞うたと書かれている。

荒ぶる水神を僧が押さえ込み、押さえ込んだうえで土地の守り神として祀り直すという筋は、日本の縁起に繰り返し出てくる型だ。

箱根神社の月次祭は毎月一日と十五日に立つ。九頭龍神社の本宮は毎月十三日、芦ノ湖畔の新宮は十五日。参拝の日取りをこの月次祭に合わせて動く人は、昔からかなり多い。

年に一度の大祭が、七月三十一日の夕刻に営まれる湖水祭だった。庭上の儀を新宮で行った後、御供を唐櫃へ納めて列を組み、湖畔まで下りていく。御供船が湖心の祭場へ出て、米と酒とスルメと卵を、それぞれ九度に分けて湖中の九頭龍大神へ献じる。三升三合三勺という細かく量の決まった赤飯も、特殊神饌として供えられる。

量を三の数で刻むところに、古い祭祀の作法が残っている。この数は適当に決めたものではない。

室生の龍穴と、田無の五龍

奈良の室生には龍穴神社が建っている。主祭神はタカオカミノカミで、拝殿には「善女龍王社」の額が掛かる。延喜の制では貴船や丹生と並んで官幣小社に列せられた式内社で、應和元年には正四位下へ叙された。

古い記録には「祈雨止雨の奉幣に預り給ふ事度々にして」とある。朝廷が何度も雨を請いに使いを出した社ということだ。奥宮にあたる吉祥龍穴は、参道を谷底へ下りた先にある。滝の落ちる流れの対岸、岩肌に大きな穴がぽっかりと開いている。

龍穴という言い方は山の気脈が地表へ抜ける口を指す風水の用語でもあって、室生の場合は実際の岩穴とそれが重なっている。

東京の西東京市にある田無神社は、だいぶ毛色が違う。創建は不詳ながら、鎌倉期の正応年間に谷戸の宮山へ鎮座したと伝わり、古くは尉殿大権現と呼ばれていた。祭神は級津彦命と級戸辺命、それに大国主命。明治五年に社号を田無神社へ改め、このとき大国主命なども合わせて祀った。

ここの特徴は、五行思想に沿った五龍神の配置にある。中心の本殿に金龍神を据え、北参道へ黒龍神、手水舎の向かいに白龍神を祀る。さらに一之鳥居の近くへ赤龍神、土俵のそばに青龍神が置かれている。方位と色を対応させて、境内全体を一つの図として組んだ形だ。

東に青、南に赤、西に白、北に黒、そして中央に金という五行の色を、そのまま境内の地面へ落とし込んである。

金櫻神社が背負ってきた山

山畠氏が通う金櫻神社にも、長い歴史がある。社伝では雄略天皇の御代、465年に金峰山へ本宮を創建したと書かれる。山岳信仰の社で、幕末までは蔵王権現と呼ばれていた。金櫻神社という今の社名になったのは、明治に入る直前の慶応四年だった。

本宮の神体は、金峰山の頂に立つ五丈岩そのものになる。高さ二十メートルほどの花崗岩の塊で、麓から見上げると異様に目立つ。祭神は少名彦命と大己貴命、須佐之男命、日本武尊、櫛稲田媛命の五柱になる。

神宝に水晶がある。球形に磨いた「水の玉」が二つ、「火の玉」が三つ。昇仙峡一帯は日本の水晶研磨の発祥地とされる土地で、金櫻神社はその守り神でもあった。御神木の鬱金の桜は、淡い黄緑の花をつける珍しい品種として名が通っている。

花の色から金運の社としても人気が出て、今は参拝客の目当てもそちらへ寄っている。水晶より桜が強い。

1955年12月18日の火災では、社殿十二棟が焼け落ちた。左甚五郎の作と伝わる昇龍降龍の彫刻も、このとき失われている。今の社殿は1959年の再建だ。龍の彫刻を焼いた社で、七十年後に龍を写したという写真が撮られている。この巡り合わせを面白がって足を運ぶ参拝者は、けっこう多い。

金峰山は甲府盆地の水源でもあるので、五丈岩を拝むことと水の神を拝むことは、もともと地続きになっていた。

龍神祝詞はいつできたのか

ここから実践の話へ入る。龍神へ祈るとき、いちばんよく唱えられるのが「龍神祝詞」だ。

先に断っておくと、この祝詞は古典に出てこない。『延喜式』の祝詞二十七編にも中臣祓にもそれらしい文言はなく、神社本庁がまとめた祝詞集にも収録されていない。どう見ても近代に成立した文言で、そこは先に押さえておきたい。

広まったのは大正から昭和の初めにかけてだった。神道系の新宗教や古神道の私塾、山の行者の系統を経由して、手書きの写しが回っていったらしい。作者を特定できるだけの資料は、今のところ一つも出てきていない。琵琶湖の竹生島の社が古くからこの祝詞を掲げていたことから、そこを発信源に数える説もあるが、決め手には欠ける。

本文の語彙を見ていくと、成立の場所がなんとなく透けてくる。「一二三四五六七八九十の十種の御寶」は『先代旧事本紀』の十種神宝から来ている。瀛津鏡、辺津鏡、八握剱といった、ニギハヤヒが天降りのときに授かったという品々だ。この十種神宝を軸に据えるのは、物部系の古神道を掲げた近代の一派だった。

明治から大正にかけて、こうした系統の団体はいくつも立ち上がり、独自の祝詞や鎮魂の行法を次々に整えていった。

「六根」は仏教語で、眼と耳と鼻と舌と身と意を指す。「一切衆生」のほうも、そっくり仏教から来た言葉。神と仏を混ぜたまま作られている。明治の神仏分離を経た後に書かれた文言としては、かなり大らかな組み立て方をしていた。

古くないから価値がない、という話でもない。百年近く唱えられ続けた文言には、それだけの手触りがついている。由来を伏せたまま「古来の秘伝」として高値で売る手合いがいるので、そこだけ気をつけておけばいい。

近代の作だと分かったうえで唱えるのと、千年前から伝わると思い込んで唱えるのとでは、後で足をすくわれる確率が違ってくる。

龍神祝詞の全文と読み

原文から並べる。写しには句読点が入っていないので、唱えるときの息継ぎの位置で切ってある。

「高天原に坐し坐して、天と地に御働きを現し給う龍王は」。

「大宇宙根元の御祖の御使にして、一切を産み一切を育て、萬物を御支配あらせ給う王神なれば」。

「一二三四五六七八九十の十種の御寶を己がすがたと變じ給いて」。

「自在自由に天界地界人界を治め給う龍王神なるを尊み敬いて」。

「眞の六根一筋に御仕え申すことの由を受け引き給いて」。

「愚かなる心の数々を戒め給いて、一切衆生の罪穢の衣を脱ぎ去らしめ給いて」。

「萬物の病災をも立所に祓い清め給い、萬世界も御祖の御元に治めせしめ給えと」。

「祈願奉ることの由をきこしめして、六根の内に念じ申す大願を成就なさしめ給えと恐み恐み白す」。

読みも置いておく。漢字を目で追うより、音で覚えてしまったほうが早い。

「たかまがはらにましまして、てんとちにみはたらきをあらわしたまうりゅうおうは」。

「だいうちゅうこんげんのみおやのみつかいにして、いっさいをうみいっさいをそだて」。

「よろずのものをごしはいあらせたまうおうじんなれば」。

「ひふみよいむなやことのとくさのみたからをおのがすがたとへんじたまいて」。

「じざいじゆうにてんかいちかいじんかいをおさめたまうりゅうおうじんなるをとうとみうやまいて」。

「まことのむねひとすじにみつかえもうすことのよしをうけひきたまいて」。

「おろかなるこころのかずかずをいましめたまいて」。

「いっさいしゅじょうのつみけがれのころもをぬぎさらしめたまいて」。

「よろずのもののやまいわざわいをもたちどころにはらいきよめたまい」。

「よろずせかいもみおやのみもとにおさめせしめたまえと」。

「こいねがいたてまつることのよしをきこしめして」。

「むねのうちにねんじもうすたいがんをじょうじゅなさしめたまえとかしこみかしこみもうす」。

写しによって字の揺れる箇所がいくつかある。「自在自由」を「自由自在」とする本、「御祖」を「御親」と書く本、「罪穢」を「罪穢れ」と送る本。どれで唱えても咎められる筋のものではない。家に伝わってきた写しがあるなら、そちらを通したほうがいい。

唱えるときは意味の切れ目で息を継ぐと流れがよくなり、棒読みで急ぐと後半の願いの部分で必ず息が足りなくなる。

現代語にほどくと

意味が分からないまま音だけ流していると、途中で集中が切れる。一度は訳を通しておきたい。

前半はこうなる。高天原においでになり、天と地に働きを現される龍王よ。あなたは大宇宙の根元におわす御祖の使いであって、一切を産み、一切を育て、万物を治めておられる王の神だ。

中ほどへ進む。ヒフミヨイムナヤコトと数える十種の宝を自らの姿へ変じて、天の世界も地の世界も人の世界も思いのままに治められる龍王神。その御神徳を尊び、敬い申し上げます。

後半が願いの部分になる。偽りのない六根をひとすじに向けてお仕えいたしますので、その申し出をどうか受け入れてください。愚かな心の数々を戒めてください。生きとし生けるものから、罪と穢れの衣を脱がせてください。

そして結び。万物の病と災いをたちどころに祓い清め、万の世界を御祖のもとへ治めさせてください。この願いを聞き届けたうえで、六根の内で念じ申し上げる大願を成就させてください。恐れ多いことですが、謹んで申し上げます。

訳し直すと分かるが、自分の願い事だけを並べた文言ではなかった。一切衆生の罪穢、万物の病災、そして万世界の平定。大きいところから入って、最後の一行でようやく自分の願いへ降りてくる。この順番が逆になっている祝詞は、まず古いものではない。

自分の願いを先に立てて、周りへの祈りを後ろへ付け足す形は、近年の創作祝詞によく見られる書き方になる。

唱える前にやること、唱える回数

社頭で唱える場合の段取りから書く。鳥居の前では立ち止まって一礼し、参道は真ん中を避けて端を通る。真ん中は神の通り道とされるので、歩くなら左右どちらかへ寄っておく。

手水舎では柄杓を右手に取り、水を汲んで左手にかける。柄杓を左手へ持ち替えて、同じように右手を清める。もう一度右手に持ち直し、左の手のひらへ水を受けてから口をすすぐ。柄杓へ直接口をつけない。すすぎ終えたら、もう一度左手に水をかける。

最後に柄杓を立て、残った水を柄へ流してから伏せて置く。この一連は、一杯の水で足りるように組まれている。何度も汲み直す必要はない。禊を縮めた形なので、手順そのものが祓いになっていた。

拝殿の前まで来たら、賽銭は放らずに静かに入れる。投げつけない。鈴があれば鳴らす。そこから二拝二拍手一拝へ入り、拍手のあと手を合わせたところで自分の名前と住んでいる土地を告げる。

祝詞を上げるのは、この手を合わせた状態のままでいい。丁寧にやるなら、先に「祓詞」を唱えて身を清めてから龍神祝詞へ入る。唱え終えたら深い礼を一回。後ろに人が並んでいるときは、社殿の脇へ寄ってから唱えるほうが気が楽だ。

拝殿の正面を長く占領していると後ろの人がじりじりしてくるので、長い祝詞は脇へ外れてから上げるのが現実的だ。

回数に決まりはない。一回で終える人もいれば、三回と決めている人も多い。三、七、二十一という数え方は修験や密教の作法から流れ込んできたもので、龍神祝詞に固有の規定ではなかった。自分の中で数を固定してしまうと、途中で迷わなくなって雑念も減る。

三回と決めたなら、調子の悪い日でも三回でやめておく。増やしたり減らしたりしていると、唱えること自体がだんだん義務に変わっていく。

家で唱えるなら朝がいい。起きて顔を洗い、口をすすいでから神棚の前に立つ。水を替え、灯明があれば点け、そこで唱える。腹がふくれているときより、空腹のときのほうがよく声が出る。夜に唱えてはいけない決まりはないけれど、朝に固定したほうが習慣として続きやすい。

声の大きさは、自分の耳に届く程度で足りる。集合住宅なら小声でいい。黙読でも構わないという人もいる。ただ祝詞はもともと「宣り言」で、声に出して言葉を立てるところに意味があった。小さくても声にしたい。

途中で読み間違えたら、その行の頭から言い直す。最初から全部やり直さなくていい。噛んだくらいで台無しになるような、神経質な作法ではなかった。

覚えるまでは紙に書いて手元へ置けばいい。暗記できているかどうかより、毎日続いているかどうかのほうが後で効いてくる。

水場での拝み方

龍神は水の神なので、社殿より水辺で拝みたくなる。滝、湧水、池、井戸、川の淵。それぞれに勝手が違う。

念のため、先に場所の確認をしておきたい。社寺の管理下にある水場なら、掲示された作法にそのまま従うのが早い。立入禁止の札が出ている淵や滝は、危ないから禁じられている。信仰心で越えていい線ではない。

拝む前に手を清める。手水舎がなければ、水場の水を手ですくって左手、右手の順にかければいい。口はすすがない。山の水が飲めるとは限らない。塩をひとつまみ持参して、自分の足元へ撒いてから立つ人もいる。

立ち位置は水際から一歩だけ下がった場所。滝なら、正面より少し斜めに構えるほうがいい。真正面は水音が強すぎて、自分の声すら聞こえなくなる。二拝二拍手一拝の作法は社頭と変わらない。拍手の音が谷に返ってくると、間合いが取りやすくなる。

風が強い日や、落石の跡が新しい場所では、拝むのを早めに切り上げて下りる判断のほうを優先したい。

滝行をやるなら、これはまったく別の話になる。単独では入らない。指導する人のいる滝で、白衣を借りて作法込みで教わるのが筋だ。冷たい水へいきなり飛び込むのは、心臓にかなりの負担がかかる。持病のある人、酒を飲んだ人は入らない。

もっと軽い形が水垢離だった。滝には入らず、桶に汲んだ水を三度、肩から浴びる。古くは行者が参籠の前に行った作法で、家の風呂場でも真似られる。冷たい水をいきなり心臓に近い場所へかけない。足先から順に慣らしていく。

終わったあとは体を拭いて、すぐ乾いた服へ着替える。濡れたまま風に当たると、行のつもりがただの体調不良で終わる。

供物を水へ投げ込むのは避けたい。昔の雨乞いでは確かにやっていた。ただ今は水質の問題がついて回る。酒を注ぐなら、岸の石の上へ器ごと置いて、拝み終えたら持ち帰る。米や塩も同じで、紙に包んで持ち帰り、家の庭か植木の根元へ返す。

最近は社のほうから、供物の持ち帰りを明示して求める掲示が出ていることも増えてきた。

水を汲んで帰る場合、容器は新しいものを使う。飲用にするなら必ず煮沸する。神棚に供える水として使って、一日か二日で下げる。汲んだ水をいつまでも置いておくと、器の底に薄い膜が張ってくる。そうなる前に下げたい。

雨の日の水辺は、拝むにはいい。ただし増水した川へは近づかない。龍神が動く日だと言われても、足場は濡れて滑る。低い場所で短く拝んで、早めに引き上げる。それで足りる。

龍神を祀る神棚の設え

家へ龍神を迎えるなら、神棚の作りから整えたい。授かった御神札を置く場所を先に決めておく。

方角は南向きか東向きにする。南へ向ければ日の巡りを正面から受け、東へ向ければ朝日を受ける形になる。どちらも取れない間取りなら、明るくて人が集まる部屋を選べばいい。

高さの目安は目線より上。ただし手の届く範囲に収める。毎朝水を替えるので、脚立が要る高さにすると続かない。

避けたい場所ははっきりしていて、トイレと背中合わせの壁、人が出入りするドアの真上、押し入れの中あたりが代表になる。仏壇と正面で向かい合わせにもしない。拝むとき、どちらかへ尻を向けることになってしまう。

和室の鴨居の上へ棚板を渡す形が昔からの定番だが、今は洋室の壁へ取り付ける小型の宮形も普通に売られている。

御神札の並べ方には型がある。三社造りなら中央に神宮大麻、向かって右に氏神の札、左に崇敬する社の札を納める。龍神の札は、この左の位置へ入れる。一社造りの場合は手前から神宮大麻、氏神、崇敬社の順に重ねるので、龍神の札は一番後ろになる。

札を軽んじた置き方に見えるかもしれない。この順番は格の上下というより、伊勢と土地の神を先に立てるという神道の建て前から来ている。龍神を主として祀りたいなら、別に小さな宮形を用意して、神棚の脇へ据えるやり方もある。

札を一枚もらってきただけなら、宮形を買わずに白木の立てかけ台へ載せて、清潔な高い場所へ置くところから始めてもいい。

神具を揃える。水玉が一つ、皿が二枚、瓶子が一対、榊立てが一対、それに神鏡が一つ。これを三方か八足台に載せて並べる。全部を一度に買い揃えなくていい。水玉と皿と榊立てがあれば形になる。

配置はこうなる。中央の奥へ神鏡を据え、その手前に水玉を置く。水玉の向かって左に米の皿、右に塩の皿を並べる。酒を入れた瓶子は一対にして水玉の左右へ、榊立ては左右の端に立てる。米と塩の左右を逆に覚えている人がかなり多いので、そこだけ確かめておきたい。

神鏡は必須ではない。あると棚の中心が決まるので、置ける余裕があるなら揃えておきたい。

米は洗わない生米でいい。炊いた飯を供えるなら、家族が箸をつける前の一膳目を上げる。塩は精製塩より粗塩が向く。酒は清酒で、栓を開けたてのものを少量注ぐ。水は水道水で構わないが、朝いちばんに蛇口から出したものを使う。

龍神を祀る場合、水の扱いがとりわけ大事になってくる。水玉は毎朝替える。替えるとき蓋は開けたままにしておき、夕方に下げて蓋を閉じる。下げた水は捨てずに、植木へやるか自分で飲む。流しへそのまま流すのを嫌う家もある。

月に一度、器そのものを洗う。一日か十五日に合わせる家が多い。水玉と瓶子は口が細いので、細い柄のブラシがあると楽だった。洗剤の匂いが残ると酒に移ってしまうから、湯でよくすすぐ。洗った後は完全に乾かしてから戻す。

榊は枯れる前に替える。夏場は水が傷みやすいので、榊立ての水も同じ周期で替えたい。米と塩と酒は毎日替えるのが理想になる。難しければ一日と十五日に替える家が多く、それで咎められることはない。

拝礼は二拝二拍手一拝。朝、水を替えた後にやる。旅行へ出るときと帰ったときに一言添える人もいる。神棚へ手を合わせる回数より、水が濁っていないかを見る回数のほうが、たぶん効いてくる。

旅先の社で授かった札を後から加えるときは、宮形の中を一度空にして、順番を並べ直してから納める。

雨乞いの、荒っぽい作法

龍神への祈りは、もとをたどれば雨乞いだった。民俗の記録を読んでいくと、今の穏やかな作法とはずいぶん違う景色が出てくる。

大きく分けると五つの型がある。山野で火を焚く型、神仏へ芸能を奉納して頼み込む型、禁忌をわざと破る型の三つがまずあって、そこへ社に籠もる型と、雨の様子をまねる類感呪術の型が加わる。

火の型は全国に広がっていた。山頂で大きな火を焚き、鉦と太鼓を打ち鳴らして騒ぐ。煙で雲を作り、太鼓で雷を作るという趣向。中部から関東にかけては、神水を振り撒いて雨そのものをまねる手順も加わっていた。形を先に作っておいて、天へ催促していく段取り。

禁忌を破る型は、今の感覚だと相当に乱暴だった。龍が棲むという淵へ動物の骸や内臓を投げ込み、わざと水を汚す。怒った龍が雨を降らせるはず、という理屈になる。石の地蔵を縄で縛り上げたり、水をかけ続けて雨を強請ったりする地方もあった。

京都の貴船神社では、今も雨乞祭が三月九日に営まれている。古くは祈雨に黒馬、止雨に白馬を奉じた社で、後には生きた馬の代わりに板へ描いた馬を献じるようになった。絵馬の起こりをこの貴船に求める説は、昔からよく語られる。

こうした荒い作法を、家で真似る必要はない。水を汚す型はそのまま環境の問題になり、火の型は消防の話になってしまう。今やるなら、水を供えて祝詞を上げる形で足りる。ただ龍神信仰の根に「催促」という気の強さがあった点は、覚えておいて損がない。

願いを丁寧に述べるだけの祈りは、案外新しい作法になる。昔の人はもっと図々しかった。

札と供物の後始末

授かったものは、いつか返す。ここを曖昧にしたままだと、引き出しの奥に札が溜まっていく。

御神札の区切りは一年だ。授かった日から一年で数える。年の瀬から一月の半ばにかけて返す人が多い。厄除けや祈祷の札も同じ数え方でいい。十二月のうちに済ませておくと、正月を新しい札で迎えられる。

返す先は、授かった社になる。境内の「古札納所」や「納札所」と書かれた箱へ納める。お焚き上げ料を添えるなら白い封筒に入れて一緒に置き、金額は社によって考え方が違うので掲示があればそれに従う。案内が見当たらなければ賽銭箱へ入れておく。

返しそびれたら、どんど焼きという手がある。一月十四日から十五日ごろ、地域で正月飾りをまとめて焼く行事だ。左義長、さいと焼き、道祖神祭りと呼び名は土地ごとに変わる。年に一度、数日だけなので日程の確認は要る。

遠方の社から授かった札で、行き直すのが難しい場合。郵送での返納を受けている社もあるが、受けていない社も多い。送る前に必ず問い合わせる。黙って送りつけると先方が困る。

どうしても社へ返せないとき。白い紙に札を包み、一年の礼を言ってから、自治体の区分に従って手放す。塩をひとつまみ添える地域もある。次善の策ではあるけれど、引き出しに放置し続けるよりはずっといい。

水場で拾った小石や、自然の中から持ち帰ったものは、元の場所へ返すのが筋だった。返しに行けないなら、庭の土へ埋める。ごみと一緒にしない。持ち帰った時点で、返す手間まで込みで引き受けている。

授与品を人に譲るのも、本来はあまり筋がよくない。受けた本人が返すところまでで一組になっている。

神棚から下げた供物は、家で食べる。米は炊いて食べ、塩は料理に使い、酒は飲むか煮物へ回す。榊は枯れたら庭へ返す。捨てるのではなく、いただく。この切り替えができると、供物を絶やさずに続けやすくなる。

毎朝の水替えと、月に一度の器洗いと、年に一度の札の入れ替え。この三つが回っていれば、龍神を祀る形としてはもう十分だ。

山畠氏が金櫻神社で撮り続けている写真は、この長い流れのいちばん新しい端に乗っている。五丈岩の下から雨を請うた人たち。神泉苑で龍を呼んだという伝え。芦ノ湖へ赤飯を沈める神事。円盤を見た少年が水の神の前に立つまで、やっていることの形はそれほど変わっていない。

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