- 用水路の角で三匹の猿に会った話
- 腹のなかに三匹住んでいるという前提
- 宋から持ち帰られた一巻が下敷きになった
- 清少納言が徹夜の席から外された夜
- 武士が持ち込み、村が受け取った
- 青い肌の明王が本尊の席に座る
- 帝釈天と猿田彦が同じ座敷にならぶ
- 見ざる言わざる聞かざるが足元にならんだ
- 石が爆発的に増えた百年
- 関東と関西では石の数がまるで違う
- 昭和三十年代に講が静かに畳まれた
- 図に描いた掛軸の見取り
- 自分でその年の庚申日を割り出す
- 宵に集まり、暁に散る
- 座を設け、灯明を上げ、供物を並べる
- 青面金剛の真言を唱える
- 般若心経をどこへ挟むか
- 猿田彦を祀る家の祝詞
- 帳面と宿と掛軸の受け渡し
- 三年十八回を満じて石を建てる
- 今の暮らしで、一人か数人でやる略式
- この夜に授かった子をめぐる言い伝え
- 明けたあとの片づけと、古い札の始末
用水路の角で三匹の猿に会った話
近所を歩いていて、用水路が折れる角に苔だらけの石が立っていた。高さは腰ほど。正面の下のほうに猿が三匹ならんでいて、まんなかの一匹が口をふさいでいる。しゃがんで見た。その上には腕を六本もった仏が彫ってある。
町内の年配の人に聞いてみた。庚申さんだよ、と即答が返ってくる。子どものころは、あの石の前に筵を敷いて大人が夜通し騒いでいたらしい。酒と、うどんと、話し声。朝方まで灯りが消えなかったという。
その石が何なのか、なぜ寝てはいけないのか。聞くと出てくるのが、腹の虫の話だった。
腹のなかに三匹住んでいるという前提
道教に三尸説という考えがある。人の体内に三尸という虫が棲みついていて、庚申の日の夜、宿主が眠ったすきに体を抜け出す。そのまま天へ昇って、その人間の罪をぜんぶ報告してしまう。報告を受けた側は寿命を削る。だから削られたくなければ寝るな、という筋書きだった。
三匹には持ち場がある。上尸は頭にいて、顔の病や煩悩を引き起こす。中尸は腹におさまって内臓を病ませる。下尸は下半身で、色欲と短命を担当した。姿の描かれ方もばらばらで、上尸は道士の格好、中尸は獣、下尸は牛の頭に人の足という奇妙な取り合わせ。
もともとは不老長寿を求める側の教えだった。虫を追い出せば長く生きられる。追い出す方法として断穀や服薬が説かれていて、徹夜はそのうちの一手にすぎない。日本へ渡ってきたとき、この徹夜の部分だけが妙に大きく育った。
虫を追い出す手立てとしては、穀物を断つ法や薬を服む法のほうが本場では手厚く説かれていた。日本へ渡ったあとは、その面倒な部分がごっそり落ちて、寝ないという一点だけが大きく残る。手順が単純だったからこそ、身分を問わずどこまでも広がっていったのだと思う。
三尸が天へ昇る先を天帝とする説と、司命という寿命を司る神とする説と、帝釈天とする説が並んでいて、どれが正しいという決着は日本では付かなかった。告げ口の中身も、日ごろの過ちぜんぶという広い言いかたから、三尸それぞれの持ち場に応じた罪という細かい言いかたまで幅がある。削られる寿命の量にも三百日や百日といった数字が当てられ、写本ごとに違っていた。
宋から持ち帰られた一巻が下敷きになった
日本へ入ってきた経路は、ひとすじではない。正直、たどり切れない部分がある。ただ、天台僧の成尋が宋から持ち帰った『庚申経』が出発点にあたる、という見方が有力とされる。経典と作法がセットで運び込まれた形。
円仁の書き残した一行は、唐でも正月の庚申の夜に人が眠らずにいた事実を伝えている。向こうで行われていた作法をそのまま持ち帰って宮中で再現した、という順序が見えてくる。渡来した当初の庚申は、あくまで知識人の手のなかで動いていた行事だった。
宮中の庚申には、天皇の御前に殿上人が伺候して、和歌や管絃を夜通し続けるという決まった形ができあがっていた。参加した人の名前と、その夜に詠まれた歌が日記へ書き留められるので、誰が誰と親しかったかが後から読み取れる資料になっている。信仰の行事というより、年に六回か七回の定期的な社交の場として回っていた。
記録の上でいちばん早いところは、貞観五年、八六三年。清和天皇の代に、宮中で庚申御遊という宴が開かれた。円仁は「夜、人は咸く睡らず」と書き残していて、唐の正月の庚申の夜と同じやりかただと説明を添えている。
九世紀の終わりから十世紀にかけて、宮中の庚申は年中行事の側へ組み込まれていく。守庚申と呼ばれた。もともとは身を慎んで静かに起きている行だったのに、だんだん遊びの色が濃くなる。
十五世紀後半になると、『老子守庚申求長生経』をもとにして僧侶が『庚申縁起』を作った。寛仁四年の作と伝わる本もある。趣旨と実践をまとめた啓蒙書で、四天王寺を中心に各地へ広まっていった。
清少納言が徹夜の席から外された夜
『枕草子』に庚申の夜が出てくる。内大臣の藤原伊周が主催した席で、歌を詠みあう趣向になっていた。清少納言はその輪に加わろうとしない。
伊周から歌が届く。あの元輔の娘と言われているあなたが、今夜の席から外れているとはね、という意味の一首だった。父の名を持ち出されている。返歌でうまくかわしたやりとりが、そのまま本に書き込まれた。
この一場面が、平安の庚申待の空気をよく伝える。詩を作り、歌を詠み、楽器を鳴らし、碁を打つ。眠気覚ましという名目の、かなり豪勢な夜遊び。
『御堂関白記』をはじめとする摂関期の日記類にも、庚申の記事がぽつぽつ現れる。誰と誰が集まったか、何をして夜を明かしたか。虫を恐れる緊張感よりも、交際の記録としての色が濃い。
貴族の守庚申には、身を慎んで静かに夜を明かす建前と、集まって遊び倒す実際が同居していた。建前が細っていく過程は、日記の記事がだんだん宴の献立や顔ぶれへ寄っていくところに表れる。十世紀の終わりごろには、もうほとんど遊興の行事へ傾いてしまっていた。
武士が持ち込み、村が受け取った
鎌倉から室町にかけて、庚申は武士の層へ広がる。十五世紀の中ごろから「庚申待」という呼び名が定着していった。文明三年、一四七一年の板碑が、いまのところ最も古い現物とされる。埼玉に残る一基。
庚申講という集まりが各地に組まれた。村の全戸で組むところもあれば、有志だけの小さな講もある。石を建てる前の段階では、板碑の形で祈りの跡を残した。
講は宗教の場だけで終わらない。葬式組を兼ねたり、金を融通しあう互助の枠になったりした。六十日に一度、必ず全員の顔が揃う集まり。村を動かす装置として、これほど都合のいい仕組みも少ない。
板碑の段階では、石の表面に梵字や庚申供養の文字を刻むだけの素朴な作りが中心だった。それが像を彫り込んだ立体的な石塔へ変わるまでに、およそ二百年ほどの時間がかかっている。武士の行事が村の行事へ下りてくる歩みと、石の形が変わる歩みは重なっていた。
室町期の庚申板碑には、造立した人の名前を何十人も刻んだものがあり、村の全戸が名を連ねた例も見つかっている。石を建てる費用を頭割りにして出し合い、その証拠として名前を残すというやりかたは、この段階ですでに固まっていた。江戸の庚申塔に講中の人数を刻む習慣は、板碑の時代から真っすぐ続いてきたもの。
青い肌の明王が本尊の席に座る
中世に入って、庚申は仏教の側から本尊を与えられた。青面金剛。もとは『陀羅尼集経』に説かれる夜叉で、疫病を追い払う役を負っていた。三尸の虫を食べてしまうという説明も、後から付いてくる。
姿がとにかく恐ろしい。怒った顔、生えた牙、たいていは六本の腕。武器や法具を握り、中央の二本は合掌の形をとる。名の通り、絵や木像では肌が青く塗られた。
八坂庚申堂の伝えでは、本尊の青面金剛は秦河勝が中国から招来したものだという。人を食う夜叉の姿で現れ、悪人を食らい善人は食わない。三尸の虫も食べる。そういう性格づけで、庚申の夜の番人にぴったりはまった。
青面金剛という尊格は、密教の経典のなかでは決して大物の扱いを受けていなかった。日本の庚申信仰が本尊を必要としたときに引き上げられ、そこで初めて広い信仰を受ける立場になる。疫病を追う夜叉という素性が、虫を押さえる役どころと運よく噛み合った。
青面金剛の持物は塔によってばらつきがあり、剣、三叉戟、法輪、弓、矢、索といった組み合わせが土地ごとに違って刻まれている。どれを持たせるかは石工の手本にしていた絵図で決まる部分が大きく、同じ村の塔がそろって似た持物になっている例も珍しくない。図像の規則が緩かったぶん、地域ごとの癖がそのまま石へ残った。
大阪の四天王寺庚申堂には、もう少し具体的な縁起がある。大宝元年、七〇一年の正月七日、その日が庚申にあたった。疫病に苦しむ人々を救おうと豪範僧都が天へ祈ったところ、帝釈天の使いとして童子が現れ、除災無病の霊験を示したという。日本最初の庚申尊出現の地として、いまも庚申まいりが続いている。
帝釈天と猿田彦が同じ座敷にならぶ
本尊がひとつに決まらなかったのが、庚申の面白いところ。仏教の系統では青面金剛を据える。三尸の報告先が帝釈天だという説明が広まったので、帝釈天そのものを祀る寺もできた。柴又が代表格。
神道の系統では猿田彦大神を据える。庚申の「申」が猿に通じるという、いかにも日本的な結びつけかた。猿田彦は道の神で、辻や境に立つ神格。庚申塔の置き場所とぴったり重なった。
日吉山王の信仰と習合した地域では、猿が神使として扱われる。ここから猿の図像が塔へ流れ込んだ。仏と神と虫が、六十日に一度、同じ座敷に呼び集められる。理屈で整理するより、そのまま並べて拝んだ。
日吉山王の信仰では猿が神の使いに数えられ、比叡山の周辺で早くから猿の図像が親しまれた。庚申の申と山王の猿が近所で出会ったことが、あの三匹が石の下段に居座る下地を作っている。仏の下に神の使いが並ぶという妙な層の重なりが、そのまま定着してしまった。
神道の側で庚申の本尊とされた猿田彦大神は、天孫降臨のときに道の分かれ目に立って先導した神で、辻や坂や境という場所そのものと結びついていた。村の入口に立てる石の主として、これほど筋の通った神格もほかにない。仏教の青面金剛が押さえの役なら、猿田彦は道案内の役どころを受け持っていた。
明治の神仏分離のとき、この曖昧さが仇になる。ここからが苦しい時期だ。政府は庚申信仰を迷信の側に置き、塔の撤去を進めた。修験道の禁止令も重なって、修験が担っていた庚申の作法が一気に細った。神道の看板に架け替えて生き延びた講もあれば、そのまま畳んだ講もある。
見ざる言わざる聞かざるが足元にならんだ
三猿の意匠は、庚申塔の顔になった。起源をたどると古代エジプトまで遡るという説もあって、三匹の猿というモチーフ自体は世界のあちこちにある。日本では日光東照宮の彫刻が有名になった。
庚申の塔に入り込んだ筋道は、意外と素直だった。干支の申が猿を呼ぶ。そこへ「見ざる、言わざる、聞かざる」という語呂が乗る。三尸の虫に見せない、言わせない、聞かせない。虫の告げ口を封じるという読みかたが後から付いて、意匠として固まった。
大田区の調べでは、青面金剛の像が出てくるのは寛文十二年、一六七二年の塔が最古にあたる。三猿も同じころから増えていく。十八世紀の前半には、青面金剛の像か「庚申」の文字を彫った塔が大半を占めた。
鶏も彫られる。二羽ならべて二鶏と呼ぶ。干支で申の次が酉だからという説明と、鶏が夜明けを告げるからという説明が重なっている。庚申の夜を終わらせる合図の役まわり。塔のなかで、鶏は時計に近い。
日と月を上に配し、明王を中央へ据え、鶏を左右に置いて、猿を最下段へ並べる形になる。この上下の並びが決まってしまうと、あとは石工の腕と施主の懐具合で細部が動くだけ。庚申塔を何基か見比べると、同じ図を別の手が彫り直している感じが伝わってくる。
三猿の彫られかたにも決まった形があるわけではなく、正面を向いて横一列に並ぶ型、たがいに向き合う型、蹲踞の姿勢で手を口や耳へ当てる型が混ざっている。四匹目や五匹目の猿が加わった塔や、桃や酒器を手にした猿が彫られた塔も各地で見つかった。数が三匹に固定されたのは、あくまで多数派の型にすぎない。
足元に踏まれている小さな鬼が邪鬼。青面金剛の足の下で身をよじっている。この配置そのものが、厄を押さえこむ図になっていた。
石が爆発的に増えた百年
江戸に入ると、庚申は歴史上いちばん賑やかな時期を迎える。塔の数がとんでもないことになった。沖縄を除く四十六都道府県に現存する、という数え方もある。千葉の野田市だけで八百五十三基。兵庫の豊岡市但東町では七十七基が確認された。
初期の塔は、まだ本尊が定まっていない。まあ、そういう過渡期だった。大田区でいちばん古い万治四年、一六六一年の塔には地蔵菩薩が彫られた。翌年の塔は阿弥陀如来。試行錯誤の跡がそのまま石に残った。
後期になると、像を彫らず「庚申塔」「庚申」の三文字二文字だけを刻む形が増える。手間と費用の問題もあったはず。文字塔は地味だけれど、講が続いていた証としては同じ重さを持つ。
像を彫った塔は石工への支払いが重く、村の講にとってはかなり大きな出費にあたった。文字だけの塔が後期に増えた理由を、信仰が薄れたせいだと決めつけるのは少し早い。三年勤めた記録を残すという目的だけなら、文字が三つあれば用は足りていた。
江戸の後期になると、庚申塔と道祖神や馬頭観音を一基の石へまとめて刻む例が出てきて、村が石にかける費用を切り詰めていた様子がうかがえる。正面に庚申の文字を入れ、側面へ別の信仰の銘を回すという合わせ技が、街道沿いの塔にはよく見られた。石が足りない土地ほど、一基へ多くの役目を負わせている。
宮中の庚申も形を変えた。延宝四年、一六七六年には、青面金剛へ酒や菓子を供える形式になっている。貴族の遊びだった守庚申が、庶民の庚申待へ逆流してきた格好。
関東と関西では石の数がまるで違う
庚申塔の分布には、はっきりした偏りがある。関東はやたらと多い。京都や大阪では比較的少ない。信仰の発祥に近い四天王寺や八坂庚申堂がありながら、石を建てる習慣は関東ほど根づかなかった。
関東の塔でよく見るのが、笠付きの角柱型。上に屋根のような笠を載せ、正面に青面金剛、その下に三猿を配す。舟形の光背型もあり、こちらは一枚の板状の石を舟の形に整えて像を浮き彫りにする。自然石に文字だけ刻んだ質素な型も混じった。
野田市のように、その土地だけの意匠が育った地域もある。江戸の石工が請け負った凝った作りの塔が、村の素朴な塔と並んで立っていた。
笠付きの角柱は雨から彫りを守る作りで、風化の進みかたが舟形や自然石とはっきり違う。江戸から近い土地ほど手の込んだ型が入りやすく、遠い土地ほど自然石の文字塔が残った。石の型を見るだけで、その村と街道とのおおよその距離が読めてしまう。
庚申塔と道祖神が同じ辻に並んで立っている光景は関東でよく見かけるもので、外から入ってくる災いを境目で止めるという発想が二つの信仰で重なっていた。村の子どもが正月に塔の前で火を焚く行事と結びついた土地もあり、石の使われかたは信仰の枠を越えて広がっていった。道端の石は、村の暮らしの結び目でもある。
呼び名も土地ごとに違う。庚申講、庚申会、お日待ち。庚申の前夜を宵庚申と呼び、おさる待ちという言いかたも残った。関西では単に「おこうしんさん」で通る地域がある。講の呼称ひとつで、その土地が仏側と神側のどちらへ寄っていたかが透ける。
昭和三十年代に講が静かに畳まれた
明治の廃仏毀釈で一度衰えたあとも、第二次大戦までは各地でさかんに続いていた。本当に途切れたのは昭和三十年代からだという。
理由は素朴だった。電灯が入って夜が明るくなる。テレビが来て、家の外で夜を明かす必然が薄れる。
はっきり言って、ここが大きい。農作業の段取りが変わり、六十日ごとに全戸が集まる余裕も消えた。高度経済成長期の街道整備で、辻に立っていた塔の多くが撤去され、あるいは寺社の境内へ移された。
いま残る庚申塔の大半は、本来の場所にいない。集められて並んでいる姿をよく見る。もともとは村境や辻に一基ずつ立ち、道標を兼ねていた。台座の側面に、右は江戸道、などと刻まれた塔に出会うと、石が動かされる前の景色がふっと見える。
講そのものが消えたわけでもない。眠らずに過ごす習慣を守る集落はいくつも残り、講が村の常会として機能している例もある。円道寺のように、寺の行事として庚申講を続けている場所もある。
途切れた講でも、掛軸と帳面だけは誰かの家の押入れに残っている場合がわりとある。旧家の蔵から庚申帳が出てきて、村の人別や金の動きを知る資料として扱われた例も聞く。信仰の道具として作られた紙の束が、百年たって別の使われかたをしている。
図に描いた掛軸の見取り
ここに一枚、庚申の掛軸を図にしてみた。ラベルはラテン文字で入れてあるので、何がどこを指すか先に書いておく。
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上の左右にある円が日と月。ニチが太陽、ゲツが月で、六十日の巡りと夜通しの行をあらわす位置に置いた。中央の炎に包まれた立像がショウメンコンゴウ、つまり青面金剛。腕を六本ひろげ、外側の手に武器と法具を握り、中央の二本を合わせている。
足の下でつぶれているのがジャキ、邪鬼。押さえこまれる厄の側を受け持つ。左右のニケイが二鶏で、赤いほうが雄、くすんだほうが雌のつもり。夜明けを告げる役をここに置いた。
いちばん下の三匹がサンエン、三猿。左からミザル、イワザル、キカザルの順にならべてある。目をふさぐ猿、口をふさぐ猿、耳をふさぐ猿。塔によって順番は入れ替わるので、これが唯一の正解というわけでもない。
自分でその年の庚申日を割り出す
やろうと思ったとき、最初に詰まるのが日取り。庚申は日の干支なので、月日とは関係なく六十日ごとに淡々と巡ってくる。市販の暦を見れば載っているけれど、自分で数えられるようにしておくと安心できる。
土台は六十干支。十干の甲乙丙丁戊己庚辛壬癸と、十二支の子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥を順に組み合わせていくと、六十通りで一巡して元へ戻る。庚申は五十七番目。庚が十干の七番目、申が十二支の九番目にあたる組み合わせ。
数えかたは単純で、既知の庚申日をひとつ押さえて、そこから六十日ずつ足していくだけ。二〇二六年でいうと、二月十五日、四月十六日、六月十五日、八月十四日、十月十三日、十二月十二日の六回になる。二月十五日に六十日を足すと四月十六日。以下おなじ調子で進む。
年に六回か七回か、という揺れもここから出る。一年は三百六十五日で、六十で割ると六回と五日あまり。あまりの五日が積み重なって、元日近くに庚申が来た年は年末にもう一度回ってくる。そういう年が七回になった。うるう年だと六日あまるので、七回の年は少し出やすい。
過去へ戻したいときは六十を引けばいい。二〇二六年二月十五日から六十を引くと、前年の十二月十七日。前後にいくらでも伸ばせる。手元のカレンダーに六回だけ印を付けておけば、一年ぶんの支度は済む。
十干と十二支を別々に回すやりかたを覚えておくと、暦が手元に無い場所でも見当が付く。十干は十日で一巡し、十二支は十二日で一巡し、両方が揃うのが六十日ごとという仕組み。庚申の前日は己未、翌日は辛酉で、この並びも頭へ入れておくと確かめが早い。
手元の暦に日の干支が載っていない場合でも、庚申の日を扱う神社や寺の授与所で、その年の六回か七回の日付をまとめた紙を配っていることがある。四天王寺や八坂庚申堂のように庚申の行事を続けている寺では、次の庚申がいつなのか掲示されている場合も多い。自分で数えるのが面倒なら、そういう掲示を写してくればいい。
宵に集まり、暁に散る
昔の講のやりかたは、日が落ちてからの集合だった。宵の口に宿へ集まり、まず灯明を上げて掛軸の前を整える。それから拝み、そのあとが飲食と雑談。この順番が崩れる講はほとんどない。拝んでから食べる。
眠ってはいけない時間帯は、庚申の日の夜半から夜明けまで。三尸が抜け出すのが丑三つ時あたりという説明が広く行き渡っていて、そこを越えるまでが山場になる。鶏が鳴いたら終い、という言いかたをする土地もあった。
解散は明け方。空が白んだところで灯明を消し、供物を下げて、宿の主に挨拶をして帰る。夜通しといっても全員が完全に起き続けたわけでもなく、交替で仮眠を取る緩い講も普通にあった。厳しく守る講ほど、途中で寝た者を翌朝に冷やかす習わしがある。
前日の夜を宵庚申と呼んで、そちらも拝む土地がある。四天王寺の庚申まいりが宵庚申と本庚申の二日がかりで行われるのも、この考え方の延長にあたる。
夜通し起きているための工夫は、講ごとにずいぶんいろいろな形で編み出されていた。碁や将棋を持ち込む講、講員が順に昔話を語る講、うどんを打つ時間を夜半へずらす講。遊びの中身がそのまま土地の特色になっていて、聞いても信仰の話に聞こえない。
座を設け、灯明を上げ、供物を並べる
宿の座敷では、床の間か北側の壁を正面にして掛軸を掛けた。青面金剛の軸か、猿田彦の軸か。講の系統でどちらかに決まっている。軸の前に小さな台を置き、そこを供物の場にする。
掛軸を持たない講は、村の庚申塔の前に筵を敷いて座を作った。塔の周りを掃き、供えものを載せる板を石の前に据える。念のため書いておくと、どちらの場合でも、最初にやるのは掃除だった。ほこりを払い、水を打ち、それから火を入れる。
灯明は蝋燭か菜種油。二本立てて左右に置くのが一般的で、これを夜明けまで絶やさないのが決まりになっている。途中で消えないよう、替えの蝋燭を脇に用意しておく。線香は三本。仏式の講なら香炉に立て、神式なら榊と水に替える。
供物の中身は土地ごとにけっこう違う。洗米、神酒、煮干し、団子、季節の野菜。遠山郷の記録には、さい銭と供物と、うどんを煮たものが並ぶ。団子は米の団子で、円道寺では猿の形に抜いた庚申だんごを供え、拝み終わってから皆で分けて食べた。
こんにゃくを供える土地は、関西を中心にかなり広い。八坂庚申堂では庚申の日にこんにゃく焚きの祈祷があり、猿の形に抜いたこんにゃくが三つ振る舞われる。四天王寺の周辺でも、厄除けのためにこんにゃくを食べる風習が『難波鑑』に載った。延宝八年、一六八〇年の刊行。
忌む食べものもある。四つ足の獣の肉を避ける講が多い。青面金剛の眷属が夜叉なので、血肉のにおいを嗅ぐと荒れて験が薄れる、という説明が付く。
庚申の前日から精進にして、当日は魚も断つところがあった。卵を避ける土地、葱や韮を避ける土地もある。自分の土地の慣いが分からなければ、獣肉だけ外しておけば大きく外れない。
供物を選ぶ筋道は、その土地で手に入るものをそのまま上げるという一点へ落ち着く。畑で採れた大根や芋を供える村もあれば、海の近くでは煮干しや干物が並ぶこともあった。珍しい品を取り寄せて飾るより、いつも食べている物を上げるほうが庚申には合う。
青面金剛の真言を唱える
仏式の講で中心に置かれるのが青面金剛の真言。漢字の音写、読み、意味の順に並べておく。
原文の音写は「オン・提婆夜叉・畔陀畔陀・訶訶訶・莎訶」。冒頭のオンは、ふつうの活字に無い漢字で書かれる場合が多いので、ここではカタカナのままにした。
読みは「オン・デイバヤキシャ・バンダバンダ・カカカ・ソワカ」。
現代語に置き換えると、こうなる。オンは帰依をあらわす冒頭の語で、身をゆだねます、という呼びかけ。デイバヤキシャは天の夜叉、つまり青面金剛その人への呼び名。バンダバンダは縛れ、縛れ。
カカカは笑い声とも、噛み砕く音ともとれる響き。ソワカは成就あれ、という締めの語。つなげると「帰依します、天の夜叉よ、縛れ、縛れ、カカカ、成就あれ」といったところ。
縛る相手は三尸の虫。体から出ていこうとする虫を縛って押さえておけ、という筋になっている。噛み砕く読みを取るなら、虫を食べてしまう夜叉の性格とも噛み合う。
唱える回数は、三遍、七遍、二十一遍、百八遍のどれかで組むのが普通。講の席では二十一遍が多い。数珠は百八玉の本連を両手にかけ、親玉から一玉ずつ繰りながら唱える。二十一遍なら親玉の隣から数えて二十一玉。百八遍なら一周して親玉へ戻ったところで止める。
繰るのは右手の親指と人差し指。指先で玉を手前へ送るように動かす。速さは、一遍をひと呼吸で収める程度。焦って巻くと数が飛ぶので、遅いくらいでちょうどいい。数珠がなければ、指を折って数えてもかまわない。
唱えるときの声の大きさは、隣に座った人へ届くくらいでちょうどいいとされてきた。腹から出す必要はなく、途中で息が切れるようなら遍数を減らして落ち着いたほうがいい。座の全員で声を合わせる講では、いちばん遅い人の速さに揃えるのが決まりだった。
遍数を数えるのに数珠を使わず、小豆や米粒を二十一粒だけ小皿へ入れておき、一遍唱えるたびに隣の皿へ移していくやりかたを取る講もあった。手で触れる物が減っていくので、眠い頭でも数を間違えにくいという利点がある。数珠も豆も無いときは、紙に棒線を引いて数えるだけで足りた。
真言を唱える前に、肉気のものを口にしないほうがいいという言い伝えがある。夜叉の眷属が血肉のにおいを嫌うという、供物の禁忌と同じ理屈。当日の夕食を精進にしておけば足りる。
土地によっては、真言ではなく短い唱えごとを繰る。円道寺では「おんこうしんれい、こうしんれい、まいたれや、そわか」という庚申真言陀羅尼を二十一遍唱えた。遠山郷では「南無青面金剛童子」を百遍繰り返し、別の集落では「お庚申で庚申で、まいたらまいたら、すわか」という、意味の摩耗した文句が伝わっている。どれも間違いではなく、その土地で継がれてきた形がそのまま正しい。
般若心経をどこへ挟むか
庚申講の次第に『般若心経』が入る例はとても多い。ただし主役ではない。座を清め、場を仏事の枠へ入れるための前段として置かれる。
円道寺の次第を例にとる。三帰礼文から始まり、摩訶般若波羅蜜多心経を三巻。そのあとに観世音菩薩普門品偈が入り、消災妙吉祥陀羅尼を三遍、締めに庚申真言陀羅尼を二十一遍という並びになる。心経は真言の前。最後に住職が参加者の名を読み上げて心願成就を唱える。
自分でやるなら、そこまで長く組まなくていい。心経を一巻、そのあとに青面金剛の真言を二十一遍。この二段だけで型としては成り立つ。心経を暗記していなければ経本を見ながらで問題ない。見ながら読むのを不作法とする決まりは、庚申講の側にはなかった。
猿田彦を祀る家の祝詞
神道の系統で庚申を祀る家は、猿田彦大神の軸を掛ける。この場合に唱えるのは真言ではなく祝詞。祓詞と略拝詞の二つで足りる。
祓詞の原文は長いので、二つに割って示す。前半が「掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、禊ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等」。後半は「諸々の禍事・罪・穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を、聞こし食せと恐み恐みも白す」となる。
読みも切って並べる。「かけまくもかしこき、いざなぎのおおかみ、つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに」。続けて「みそぎはらへたまひしときに、なりませるはらへどのおおかみたち」。さらに「もろもろのまがごと、つみ、けがれ、あらむをば、はらへたまひきよめたまへとまをすことを」。締めが「きこしめせと、かしこみかしこみもまをす」。
現代語に直すと、こうなる。口に出すのも畏れ多い伊邪那岐の大神が、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊ぎ祓いをなさった。そのときにお生まれになった祓戸の神々よ、という呼びかけが前半にあたる。後半は、もろもろの災いごとや罪や穢れがありましたら祓い清めてくださいと申し上げます、という願い。最後の一句で、お聞き届けくださいと畏れ畏みつつ申し上げます、と結ぶ。
略拝詞はもっと短い。原文は「祓へ給ひ清め給へ、守り給ひ幸へ給へ」。読みは「はらへたまひきよめたまへ、まもりたまひさきはへたまへ」。意味は、祓ってください、清めてください、守ってください、幸わえてください、という四つの願い。北海道神社庁が示す形では「祓へ給ひ清め給へと白す事を、聞こし食せと恐み恐みも白す」を略拝詞として扱っていて、こちらでもかまわない。
唱える順は、二拝してから祓詞を一度。続けて略拝詞を三度。それから二拍手して、最後に一拝で締める。
拍手は肩幅より少し狭く手を開き、右手を少し下げて打つ。打ったあとで指先を揃える。念のため、急がないほうがいい。
神式の供物は洗米、塩、水、神酒、それに季節のもの。榊を一対立てる。線香は使わない。仏式と神式を同じ座敷で混ぜる講もあったけれど、自分でやるなら、どちらか片方に寄せたほうが手順が乱れない。
帳面と宿と掛軸の受け渡し
講には帳面がある。庚申帳、講中帳などと呼ばれた紙の綴じ本で、そこに講員の名前と宿の順番、集まった金の出入りを書き付けていく。表紙には「庚申講中」と講の名、それに書き始めた年号を入れるのが通例だった。
書く内容はそっけない。何年何月何日の庚申、宿は誰それの家、集まった者の名前、集めた金の額、使った額、残った額。これだけ。読み返して面白い読み物ではないけれど、講が何十年続いたかを後から知る手がかりが、この帳面にしか残っていない土地は多い。
宿は回り持ちにする。名簿の順に一軒ずつ送っていくやりかたが基本で、家の広さや台所の都合で順を入れ替える講もあった。遠山郷では南組と北組に分かれ、当宿と呼ばれる当番の家が猿田彦大神の幟を立てて、今夜はうちだと外へ知らせていた。
宿になった家は、座敷を空けて膳の支度をする。かかった実費は講の金から出すので、当番の負担が極端に偏らないよう帳面で調整した。うどんを打つ土地なら、その粉代も帳面に載る。
掛軸は講の共有財産。宿が移るたびに、軸も一緒に次の家へ渡っていく。桐箱に納め、風呂敷で包み、当番の家の主が自分の手で運ぶのが作法だった。人に頼んで届けさせるのを嫌う講もある。
受け渡しは、たいてい庚申の夜が明けてから。宿の主が軸を巻き、箱に納め、次の当番へ「お預かりください」と言って手渡す。受け取る側は両手で受け、その場で軽く礼をする。次の庚申まで、床の間の脇か仏壇の上に置いて預かった。
軸を広げるのは庚申の夜だけ。ふだんは巻いたまま、年に一度だけ虫干しに出す。絹地の軸は湿気に弱いので、梅雨明けの晴れた日を選んで陰干しにした。日に直接当てると色が飛ぶ。まあ、当たり前の話ではある。
三年十八回を満じて石を建てる
庚申塔を建てる慣行には、はっきりした条件があった。三年のあいだ庚申待を欠かさず勤める。六十日に一度なので、三年でおよそ十八回。この十八回を満じたところで、記念として石を建てるという段取りになっていた。
途中で一度でも抜けたら数え直す講もあれば、そこまで厳しくない講もある。いずれにせよ、思いつきで建てる物ではなかった。三年かけて積み上げた記録が、そのまま石の根拠になる。
石は地元の石工に注文する。型は土地の流儀に従い、関東なら笠付きの角柱や舟形の光背型、文字だけの自然石もあった。正面に青面金剛を彫るか、「庚申塔」の三文字を彫るか。ここで講の系統が決まる。
銘の刻みかたにも決まりがある。正面か向かって右の側面に造立の年号。「寛政十二庚申年」のように、干支を添えるのが普通だった。
左の側面には村の名と、講中の人数か全員の名前を刻む。「講中十七人」とだけ入れる簡素な形も多い。台座の側面には道標を彫り込むことがあって、右はふじ道、左は大山道、といった案内が刻まれ、塔はそのまま道しるべとして使われた。
建てる場所は三つに絞られる。ひとつは辻。道が分かれるところで、道標と兼ねやすい。ふたつめは村境。
外から入ってくる災いを、境で止める位置になる。三つめは墓地の入口。ここも内と外の境目にあたる。どれも、村の内側ではなく縁に立つ。
建立のときは、寺か神社へ頼んで開眼をしてもらった。仏式なら住職に来てもらい、石の前で読経と開眼の作法を受ける。神式なら神職に頼んで、修祓と祝詞で魂を入れる。頼みかたは今も変わらず、寺務所か社務所へ出向いて、いつ、どこに、どういう石を建てるかを伝えて日取りを決める。費用は講の金から出し、建立の一部始終を帳面へ書き残した。
石を注文してから据え付けまでは、ふつう数か月がかかるくらいの大きな仕事になる。石材を選び、下絵を決め、彫りが進む途中で講員が石屋を見に行くところまで含まれた。出来上がりを見てから直しを頼むのは難しいので、下絵で全員の目を通した。
当日は講員が全員集まる。石を据え、紅白の紙か注連縄を掛け、開眼が済んだところで供物を上げて拝む。そのあとは宿へ戻って直会の席。石を建てた年の庚申は、講にとっていちばんの晴れ舞台になった。
据える向きは、道を歩く人の側へ正面が向くように決めるのがふつうの作法だった。村境の塔なら外から来る道を向き、墓地の入口なら参道のほうへ顔を出す形になる。いまも残る塔で正面が藪を向いていたら、後から動かされた石だと考えていい。
今の暮らしで、一人か数人でやる略式
講を組める人が周りにいなくても、庚申待は一人でできる。略式にすれば、支度も後始末も一時間ほどで済む。
用意するものは多くない。ろうそく二本と燭台、線香三本と香炉、小皿を三枚か四枚、コップ一つ、それに掛軸の代わりになるもの。近所の庚申塔を写した写真でもいいし、青面金剛の札を寺で受けてきてもいい。何も手に入らなければ、白い紙に「青面金剛」と墨で書いて壁に貼る。神式なら「猿田彦大神」と書く。
日取りはその年の庚申日。場所は部屋の北側の壁、もしくは床の間。札や軸を目の高さより上に掛け、その前に小机を置く。方角にこだわるなら、自分が北を向いて拝む形にすると、四天王寺のこんにゃくを北向きで食べる作法とも揃う。
供物は、洗米を小皿に山盛り一つ、塩を一つまみ、水をコップに一杯、それに酒を少し。野菜かこんにゃくを一皿添えると庚申らしくなる。獣肉は外す。並べたら、ろうそくに火を灯し、線香を三本立てる。
拝む順はこう。正座して手を合わせ、心経を一巻読む。続けて青面金剛の真言を二十一遍。
数珠があれば繰る。終わったら合掌したまま、無病息災でも何でも、願うことを口の中で言う。神式なら祓詞を一度、略拝詞を三度、二拝二拍手一拝で締める。
そのあとが本番になる。夜半から明け方まで、寝ないで過ごす。昔の講がやっていたのと同じで、静かにしている必要はまったくない。
本を読む、手紙を書く、たまった繕い物をする。数人でやるなら話し込んでいればいい。庚申の夜が長く続いたのは、これが口実のある夜更かしだったからでもある。
数人でやる場合は、誰かの家へ集まる形にして、飲み物と軽い食べ物を持ち寄ればいい。昔の講がそうだったように、拝むのは最初の二十分ほどで、残りの時間は雑談で埋まる。用意する側の負担を軽くしておくほうが、次の庚申の日まで続きやすい。
丑三つ時を越えたあたりで、線香を一本足すと区切りがつく。空が白んだら灯明を消して終わり。眠くなったら寝てもいい。途中で寝た者を翌朝に笑う、という程度の緩さで続いてきた行事なので、きっちり守れなかったからといって何かが壊れるわけでもない。
この夜に授かった子をめぐる言い伝え
庚申の夜には、子どもに関わる言い伝えがいくつも付いている。この夜に身ごもった子は盗賊になる、という言いかたが広く伝わった。庚申が下尸の色欲と結びついていたことと、申が猿に通じることが重なって出てきた俗信とみられる。
伝承の側では、親がその言い伝えを避けるための手続きをいくつも用意していた。生まれた日をずらして届ける。形だけの捨て子にして、あらかじめ頼んでおいた人に拾ってもらう。拾われた子は名を付け替えて、改めて実の親のもとへ戻る。こうすれば言い伝えの筋から外れる、という理屈だった。
石川五右衛門がこの夜の生まれだという話も、近世に付けられた飾りとして流布した。史実としての裏付けはない。有名な盗賊を後から庚申の夜に結びつけた、よくある型の説明話にすぎない。
こうした俗信は、いま誰かに当てはめて語る種類のものではない。六十日に一度の禁忌が、生活のどこまで食い込んでいたかを示す記録として読んでおけば足りる。庚申は長寿を願う行事でありながら、同時に人を縛る側の顔も持っていた。
明けたあとの片づけと、古い札の始末
後始末にも順番がある。まず灯明。息で吹き消さず、手であおぐか、火消しをかぶせて消す。仏前に息を吹きかけるのを嫌う作法が、そのまま庚申の座にも当てはまる。線香は燃え尽きるまで置き、灰は香炉に溜めておく。
供物は明け方に下げる。洗米は炊いて食べる。塩は台所へ回すか、玄関の外へまく。
水と酒は流しへ捨てず、庭の木の根元か、鉢植えの土へかける。団子やこんにゃくは、その場で講員で分けて食べるのが本来の形だった。下げた供物を捨てるのを強く嫌う土地は多い。
野菜も同じで、持ち帰って食べる。傷んで食べられなくなったものだけ、紙に包んで土に返す。ごみとして出さなければならないときは、塩を少し振って白い紙に包んでから出す。この扱いは庚申に限らず、神仏へ上げた物ぜんぶに共通する。
洗米を下げたあとに炊くとき、ふだんの米と混ぜてしまってかまわないとする土地が多い。別に炊いて一人で食べきる決まりを置く講もあり、このあたりは家ごとの流儀で割れる。どちらにしても、上げた物を捨てないという一線だけは広く共通していた。
掛軸は巻いて桐箱へ。紐は真結びではなく、片方を引けばほどける結びにする。次に開ける人が困らないようにという、それだけの理由。箱書きのある軸なら、蓋の向きを揃えて納める。
札や幟は、一年たったら寺社へ返す。仏式の札は受けた寺へ、神式の札は神社へ。どちらも古札納所に納めれば、お焚き上げで処分してもらえる。年末年始のどんど焼きに出してもいい。自分で燃やすのは避けたほうが無難で、焼く場所と煙で近所と揉める例がわりとある。
近所の庚申塔に手を合わせたいだけなら、支度は何もいらない。通りがかりに立ち止まって、一礼して、水を一杯かける。それだけでも講の人たちがやっていたことの端に触れている。石の前の草を引いて、苔を落としすぎない程度に掃く。塔の顔が見えるようになるまで手を入れたら、もう一度合掌して、そこで切り上げる。
