寺の本堂で炎が立ち上がり、太鼓が腹に響く。
僧侶たちが一斉に何かを唱えはじめると、意味はわからないのに、体のほうが先に反応する。密教のまじないというのは、まずそういう体験として人の前に現れるらしい。
ここで扱うのは、真言宗と天台宗に伝わる密教、つまり金剛乗の系統の実践だ。護身、厄除け、招福、健康祈願、学業成就、良縁祈願。一般の参拝者が実際に取り入れられる範囲の作法を、できるかぎり具体的に記録していく。
先に断っておく。他人を呪詛したり攻撃したりする調伏法や呪殺法の類は一切扱わない。ここにあるのは自分と自分の場所を守るための伝統だけだ。
もうひとつ、大事な前提がある。
正式な印契、つまり印相と真言の多くは、本来「伝法灌頂(でんぼうかんじょう)」という師資相承の儀礼を経てはじめて許される「三密加持」の一部だとされる。阿闍梨(あじゃり)の指導のもとで行うのが本則だ。
だから以下に並べるのは、書籍や寺院の公式サイト、参拝者の体験記録などですでに広く公開されている範囲の情報にとどまる。初心者が寺参りや自宅の祈念に取り入れられる形へ整理したもの、と読んでほしい。
- まず何を用意するのか
- いつ、何回唱えるのか
- 唱える言葉を、省略せずに
- 般若心経を全文で
- 十三仏真言――十三の仏を順に
- 手はどう組み、体はどう動かすのか
- 護摩祈祷に参列する
- 授かったあとの扱い
- 目的別に、本尊と真言を選び分ける
- 真言宗と天台宗は、どこが違うのか
- 実際に受けた人たちは何を語っているか
- 護符のデザインという試み
- 護身法――すべての修法の前に置かれる五段
- 第一段から第五段まで
- 五段を通してみる
- 阿字観――一字を観る瞑想
- 四つの段階を踏む
- 部屋の設えと坐り方
- 息を整える
- 終わり方が大事になる
- 初心者が気をつけること
- 坐った人が書き残したこと
- 陀羅尼という長い呪句
- 仏頂尊勝陀羅尼
- 大悲心陀羅尼
- 消災呪
- 十一面観音と大随求
- 土砂に光明真言を加持する
- 土砂の準備と加持
- 土砂の使い道と後始末
- 写経と写仏という行
- 書く手順と願文の書式
- 書いたあとをどうするか
- 法具は何を意味しているのか
- 在家が法具を持つなら
- 四度加行と、在家が受けられるもの
- 高野山と比叡山の実例
- 暦と方角を、どう扱うか
- 十二天が守る方角
- 暦を扱ううえでの注意
- 鎮宅――家と土地を鎮める
- 梵字札に書かれる種子
- 札をどこに貼るか
- 呪詛除け――向けられたものから身を守る
- いま「呪い」と呼ばれているもの
- 自己防御としての作法
- 安全のための禁忌
- お金の話は、はっきりさせておく
- 五つの匿名の記録から
- 疑ってみる――何が起きているのか
- それでも残るもの
- 目的別の早見――本尊と真言
- 一日をどう組み立てるか
- 鎮宅安全の守り札を、自分で書くなら
- 最後に、もう一度だけ
まず何を用意するのか
密教系のおまじないや祈念を自宅で行う場合、伝統的に使われてきた道具がいくつかある。順に見ていこう。
数珠(じゅず、念珠)。真言宗では「振分数珠(ふりわけじゅず)」と呼ばれる、主珠が百八個ある本連数珠が正式とされる。ただ入手しやすい片手数珠、いわゆる略式数珠でも代用してよいとする寺院が多い。
蝋燭(ろうそく)は白色か朱色の和蝋燭を一、二本。ちなみに数はそれほど厳密ではなく、仏前・神前用の小型の燭台とセットで用意する。
線香は白檀系または沈香系のお香を一本から三本ほど。香炉がなければ、灰を入れた小皿でも代わりになる。
御守り用の紙も要る。奉書紙や和紙、半紙を数枚。祈念の言葉や梵字を清書し、後で触れる「身代わり札」として用いる場合に使う。
清書には筆または筆ペンと墨。梵字や真言を書くための道具だ。
そして本尊。不動明王、大日如来など、祈願の目的に対応する本尊の御影(みえい)や小さな仏像、掛け軸を正面に安置する。
お供え物は水、塩、洗米、季節の花などを小皿に。白い布か敷紙も一枚あるといい。数珠や御守りを一時的に置くとき、直接床や机に置かないための敷物になる。
ただ、これらは必須ではない。
寺院での正式な護摩祈祷に参列する場合、祭壇も法具一式も寺の側が用意してくれる。参拝者が持っていくのは数珠と初穂料、つまり御布施だけで足りるとされる。
いつ、何回唱えるのか
時間帯には伝統的な目安がある。
「朝勤行(あさごんぎょう)」として日の出のあとの清浄な時間帯。あるいは「暮れ六つ」前後の夕刻。このどちらかが適するとされてきた。
逆に、心身が乱れやすい深夜の実施は避けるべきだと案内する寺院が多い。
方角にも決まりがあり、大日如来や光明真言を唱えるときは、本尊が東または中央を向くように安置する。中央は宇宙の中心である大日如来を象徴するからで、行者自身は本尊に正対する形が基本になる。
真言を唱える回数は、一回、七回、二十一回、二十八回、百八回のいずれかが伝統的な単位とされる。百八は煩悩の数に由来し、数珠の珠数と対応しているわけだ。
初心者はまず七回か二十一回から始めるといい。慣れてきたら数珠を一珠ずつ繰りながら、百八回、つまり一連を目安に唱える方法が広く紹介されている。
面白いのは、回数より継続のほうが重視される点だ。毎日同じ時刻に続けることが、単発で多く唱えるよりも大切だとされる傾向がある。
参拝や護摩祈祷の頻度についても目安があり、毎月同じ日に参拝する月参り。年始、厄年、節分、彼岸といった節目の参拝。寺によっては毎日あるいは毎月の定例で護摩祈祷を行っているところもある。
唱える言葉を、省略せずに
ここからは代表的な真言と経典を、要約せずに記録していく。
読誦の際の発音には寺院や宗派による伝承の差がある。実際に唱えるなら、菩提寺や参拝先の指導に従うのが望ましいとされる点は、先に書いておく。
まず光明真言(こうみょうしんごん)。大日如来の光明によってあらゆる罪障と穢れを浄化し、除災招福を祈るとされる真言だ。真言宗と天台宗に共通する代表格になる。
「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」と唱える。
漢字音写では、唵(おん)阿謨伽(あぼきゃ)尾盧左曩(べいろしゃのう)摩訶母捺囉(まかぼだら)と続く。さらに麼抳(まに)鉢納麼(はんどま)入縛攞(じんばら)鉢囉韈哆耶(はらばりたや)吽(うん)と表記される。
次に不動明王真言の慈救咒(じくしゅ)。中咒とも呼ばれ、不動明王に護身、厄除け、迷いの打破を祈るとき、最も一般的に唱えられる。
「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」と誦する。
意味はおおむねこうで、あまねき金剛の眷属に帰依したてまつる。激しい怒りの相をもつ守護者よ、我が煩悩と障害を打ち砕き、願いを成就させたまえ。
短縮形もあり、一字咒、つまり小咒は「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」でおしまいだ。
大日如来真言も挙げておく。密教の教主である大日如来に諸願成就を祈る真言で、金剛界と胎蔵界の真言の一例になる。「オン アビラウンケン バザラ ダトバン」と唱える。
般若心経を全文で
護身と厄除けの読誦経典として最も広く唱えられるのが般若心経(はんにゃしんぎょう)だ。全文を追っていこう。
まず題名から。「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と唱えはじめる。
続いて「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」と誦する。
「舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」と進む。
「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」がこれに続く。
「是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」と誦していく。
「無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽」と重ねる。
「無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故」でひと区切りになる。
「菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖」と続けて誦する。
「遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」と唱える。
「三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提」と進む。
「故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪」と誦する。
「能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰」から結びの呪へ入っていく。
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」で終わる。
これで一巻になり、正直、慣れれば数分で誦し終える長さだ。
十三仏真言――十三の仏を順に
十三仏真言(じゅうさんぶつしんごん)は、初七日から三十三回忌までの追善供養に用いられる。同時に、現世の護身や招福の祈願にも使われるとされ、十三の仏と菩薩の真言を順に並べていこう。
一番目は不動明王。「ノウマク サンマンダ バザラダン センダマカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」と唱える。
二番目は釈迦如来で「ノウマク サンマンダ ボダナン バク」。三番目は文殊菩薩の「オン アラハシャノウ」だ。
四番目、普賢菩薩は「オン サンマヤ サトバン」と誦する。五番目の地蔵菩薩は「オン カカカビ サンマエイ ソワカ」になる。
六番目は弥勒菩薩で「オン マイタレイヤ ソワカ」。七番目の薬師如来は「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」と唱える。
八番目、観世音菩薩は「オン アロリキャ ソワカ」。九番目の勢至菩薩は「オン サンザンサク ソワカ」だ。
十番目は阿弥陀如来で「オン アミリタ テイセイ カラ ウン」。十一番目の阿閦如来は「オン アキシュビヤ ウン」と誦する。
十二番目、大日如来は「オン アビラウンケン バザラ ダトバン」。そして十三番目の虚空蔵菩薩が「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ」になる。
これらの真言は、それぞれの仏と菩薩が象徴する徳にあやかって選ぶ。智慧、慈悲、除災、延命といった徳の違いだ。
目的別の選び方も紹介されており、学業成就には文殊菩薩、健康祈願には薬師如来、良縁祈願には観世音菩薩。そんな組み合わせが多いみたいだ。
手はどう組み、体はどう動かすのか
作法の話に移ろう。まずは合掌と数珠の持ち方からだ。
姿勢を正して正座するか、椅子に座る。そのうえで両手を合わせる合掌を行う。
数珠は両手の中指にかけ、房を下に垂らして親指で軽く押さえる形が一般的とされる。真言宗では日常の合掌時に、二重(にじゅう)にした数珠を両手の中指にかけて軽くひねり、八の字にする寺院もある。金剛合掌に近い形らしい。
次が印契(印相)になり、ただしこれは本来、師僧からの伝授、いわゆる面授を要する秘儀とされる。ここでは最もよく知られた型だけを参考として挙げる。
金剛合掌は、両手の指を深く組み合わせ、指先を交互に立てる合掌だ。密教の勤行の基本姿勢とされる。
智拳印(ちけんいん)は大日如来、金剛界を象徴する印になる。左手の人差し指を立て、右手で軽く包み込むように握る。衆生と仏が一体であることを表すという。
刀印(とういん)は不動明王を祈念するときに用いられる印だ。人差し指と中指を立てて剣に見立てる形で、護身の意味合いを持つとされる。
とはいえ、一般の参拝者がこれらの印を実際に結ぶ機会は少ない。多くの寺院は「見よう見まねではなく、まず合掌と読誦から始めてほしい」と案内している。ここは素直に従っておきたい。
護摩祈祷に参列する
護摩祈祷(ごまきとう)は、護摩壇に炎を焚き、護摩木を焼くことで煩悩を焼き払い、諸願成就を祈る修法だ。護摩木というのは願い事を書いた木札のことになり、真言宗と天台宗に共通する代表的な修法とされる。
参列の流れを追っていこう。
参列前に申込用紙へ祈願内容、氏名、生年月日を記入し、あわせて初穂料、つまり御布施を納める。
堂内では私語を慎み、案内に従って着席する。
導師である僧侶が入堂すると、鳴り物とともに読経と真言の唱和が始まる。太鼓、鐘、法螺貝。参列者も配布された経本に沿って唱和するよう促されることが多い。
自分の護摩木が炎に投じられるタイミングで合掌し、そこで真言や経文を心の中で、あるいは小声で唱える。
終盤には「宝剣加持(ほうけんかじ)」を行う寺院もある。僧侶が不動明王の剣に見立てた法具で、参列者一人ひとりの肩や頭に触れて祈願する所作だ。
祈祷が終わったら合掌一礼し、堂内を静かに退出し、これで一巡になる。
授かったあとの扱い
新しく授かった御守りは、常に身につけるか、自宅では神棚や仏壇など高く清浄な場所へ安置するのが望ましいとされる。中身を開けたり、床に直置きしたりすることは避ける。
古い御札と御守りには返納という段取りがある。
一年ごとにお返しし、新しいご加護を受け直す。この考え方は「常若(とこわか)」の思想に通じるもので、返納の方法は主に四つある。
最も丁寧なのは、授かった寺院や神社の「古札納所(こさつおさめしょ)」へ直接納めること。社務所や寺務所に手渡ししてもよい。
二つ目がどんど焼き、左義長への持ち込みだ。正月明けに行われる火祭りで、しめ縄や破魔矢とともにお焚き上げしてもらう。
三つ目は郵送での返納になる。遠方の場合、白い紙に包み、お納め料を添えて授与所宛てに送る方法を案内している寺院もある。
四つ目は、やむを得ない場合の自宅での簡易供養だ。感謝を述べたのち塩で清め、白紙に包んでから処分する方法が紹介されている。
いずれの場合も、神社で授かったものは神社へ、寺院で授かったものは寺院へ返す。これが基本作法とされ、神仏を混同しないという考え方だ。
御守りを他人に譲ったり売買したりすることも避けるべきとされている。
目的別に、本尊と真言を選び分ける
護身と招福を土台にしたうえで、目的に応じて本尊と真言を選ぶ実践例も広く紹介されている。代表的な組み合わせを見ていこう。
健康祈願なら薬師如来、正式には薬師瑠璃光如来を本尊にする。真言は「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」を七の倍数で唱える。七回、二十一回、四十九回といった数だ。参拝時には身体の患部に近い方角を向いて祈念するとよい、と案内する寺院もある。
学業成就は知恵を司る文殊菩薩になる。真言「オン アラハシャノウ」を、試験前など特定の期日に向けて毎朝一定回数唱える方法が紹介されている。合格祈願の護摩札を学習机の正面、目線より高い位置に安置する作法も見られる。
良縁祈願は観世音菩薩だ。「オン アロリキャ ソワカ」を唱え、月に一度、満月または新月の夜に静かに祈念するという体験談がブログなどで語られている。良縁の御守りは肌身離さず持つか、鞄の内側に入れておくとよいとされる。
厄除けと方除けは不動明王の慈救咒が中心になる。節分や厄年の年始参りといった節目に護摩祈祷へ参列し、あわせて方位除けの祈祷を受ける組み合わせが一般的だ。
これらに共通する考え方がひとつある。単発で唱えて終わるのではなく、二十一日間、百日間といった一定期間続けることに意味を見出す姿勢だ。複数の解説サイトや体験談に共通して現れる傾向になる。
真言宗と天台宗は、どこが違うのか
同じ密教を背景に持ちながら、両宗派の実践には違いがある。平安期に唐から伝わった真言密教が東密、天台密教が台密と呼ばれる。順に比べてみよう。
開祖と拠点が違う。真言宗は空海(弘法大師)が高野山を拠点に開いた。中心教義は「即身成仏」、この身のまま悟りに至るという考え方だ。天台宗は最澄が比叡山を拠点に開き、法華経に基づく「一乗思想」、すべての人が成仏できるという教えを中心に据えている。
修法の重心も違う。真言宗は護摩祈祷、阿字観瞑想、灌頂(かんじょう)といった密教儀礼そのものを重視する傾向が強い。天台宗は法華経の読誦、止観、念仏を組み合わせた「顕密併修」を特徴とし、護摩は数ある修法のひとつという位置づけになる。止観は座禅に近い観法のことだ。
本尊との結びつきにも差があり、真言宗では不動明王と大日如来への帰依がとくに強調される寺院が多い。天台宗は比叡山の総本堂に薬師如来を祀るなど、宗派や寺院ごとに本尊が多様だ。
真言の唱え方の細部も揺れる。光明真言や大日如来真言について、真言宗智山派と天台宗とで発音や区切り方に若干の違いがあると紹介するサイトもある。「唱え方は所属する寺院と師僧の指導に従うのが正しい」というのが結論になっている。
在家への開放度も対照的だ。真言宗は伝統的に阿闍梨による伝授を重んじ、印契や秘印は非公開とする傾向が強いとされる。一方の天台宗は、法華経読誦を中心とした在家向けの実践が比較的広く開かれているという解説もある。写経や唱題に近い形だ。
ただ、複数の解説が共通して指摘するのはこの一点になる。最終的には、自分が菩提寺としている寺院と僧侶の作法に合わせることがいちばん大事だ、という点である。
実際に受けた人たちは何を語っているか
護摩祈祷については、個人ブログ、note、Yahoo!知恵袋、SNSなどに多数の体験談が投稿されている。横断して眺めてみよう。
まず肯定的な声から。
あるnoteの投稿者は、深川不動尊での護摩焚きを振り返っている。燃え盛る炎に護摩木が次々と投じられ、複数の僧侶が一斉に読経し、太鼓と法螺貝の振動が体全体を貫く。その圧倒的な感覚に驚いたという。思考ではなく身体で何かを感じる体験だった、と書いている。
同じ投稿者は「僧侶たちの全力の姿勢を見て、仏様は本当にいるのだと腹の底から理解した」という趣旨の感想を残している。
別のnote投稿者は、川越の成田山での初めての護摩祈祷を「バンドのライブハウス公演」に例えた。太鼓をバスドラム、読経をボーカルパートに見立てるという、はっきり言って、なかなか大胆な比喩だ。
この人は身体的な変化も報告している。慢性的な肩こりが祈祷後の数時間で軽くなり、翌日には肩だけが軽く回るようになったという。祈祷終盤の宝剣加持で僧侶に肩を軽く叩かれる所作についても、具体的に描写されている。
個人ブログ「占い・吉方位・スピリチュアル体験談」では、光明真言を続けて唱えることで「心が落ち着き、物事の巡りが良くなった感覚があった」という体験が語られている。
光明真言や不動明王真言を扱うまとめサイトにも、参拝者の声が並ぶ。唱えているうちに雑念が消えて集中できた。印を結びながら唱えたら気持ちが引き締まった。そういった短い感想が多い。
一方で、懐疑的な意見もはっきり存在する。
Yahoo!知恵袋には「護摩の効果はいつ頃わかるか」という質問がある。これに対し「毎月三、四回護摩祈祷に通ったが祈願成就はまったくなかった」という回答がベストアンサーに選ばれている例がある。「火を焚いて願いが叶うなら誰も苦労しない」という手厳しい声もあった。
僧侶の在り方、たとえば肉食妻帯を問題視する意見や、祈祷と金銭授受の関係を疑問視する意見も見られる。
ただ同じスレッドには反論も投稿されており、効果を実感できるかどうかは信心の度合いや続け方次第だ。一度で結果を求めるものではなく、日々の心の持ちようが変わることに意味がある。そんな、体験を重んじる立場だ。
不動明王の真言についての質問も興味深い。一字咒、慈救咒、火界咒の違いを尋ねた質問に対する。「経典や儀軌によって説かれる真言が異なるだけで、基本的な効果に優劣はない」という回答がベストアンサーになっている。唱える回数も儀式によって僧侶の間で異なるという、実務的な知見が共有されている。
SNSの口コミにも傾向がある。節分や厄年の時期には、護摩祈祷や御守り授与の様子を写真付きで報告する投稿が増える。炎の迫力に圧倒された。毎年ここで護摩を焚いてもらうと気持ちが切り替わる。
そんな短い感想が並ぶ。
作法面での悩みも一定数あり、御守りを何年も返納せずに持ち続けている。お焚き上げのタイミングがわからず、こうした声が、返納とお焚き上げの情報needsの高さをうかがわせる。
総合すると、密教の護身と招福のまじないは「効果の有無」よりも「所作を通じて心を整える」実践として語られることが多い。そして体感の個人差が大きい。これは共通して指摘される点だ。
護符のデザインという試み
護身と招福を象徴する梵字風のモチーフを用いた護符デザインを作図した記録も残されている。
中央に金色の梵字風モチーフを置き、周囲を五色の装飾枠と蓮華、光の意匠で囲む構成だ。五色は青、黄、赤、白、黒になる。
実際に寺院で授与される御守りや御札の意匠を参考にしつつ、特定の宗派や寺院の正式な図案を模写したものではない。あくまでオリジナルのデザインという位置づけになっている。
護身法――すべての修法の前に置かれる五段
ここからは補遺に入り、先に触れなかった実践項目を、成立の歴史と由来までさかのぼって補っていく。
扱う範囲は前と同じで、自己防御、浄化、厄除け、呪詛除け(呪い返し)、魔除け、鎮魂、鎮宅に限る。他者へ危害を及ぼす調伏法や呪殺法の類は一切記載しない。
全編を通じての大前提も、もう一度だけ確認しておきたい。
密教の修法は本来「三密加持」の三つが揃ってはじめて成立するとされる。身密が印契、口密が真言、意密が観想だ。そのうち印契と観想の細部は、阿闍梨からの面授、つまり伝授(でんじゅ)を経てはじめて許されるというのが伝統的な建前になる。
以下に記すのは、寺院公式サイト、宗派の教学誌、仏教学の研究論文、在家向け解説書、参拝者の記録など、すでに広く公刊されている範囲の情報にとどまる。実修にあたっては菩提寺や所属寺院の指導に従うのが望ましい。
さて、護身法(ごしんぼう)である。
これは密教のあらゆる修法の冒頭に置かれる、いわば「前行の前行」だ。行者が本尊を勧請し供養する前に、まず自分自身の身と口と意を清める。次に仏の三部、すなわち仏部・蓮華部・金剛部の加護をその身に受ける。最後に金剛の甲冑(かっちゅう)をまとって外からの障礙(しょうげ)を防ぐ。
そういう段取りになる。
典拠は『大日経』『金剛頂経』系の儀軌に説かれる次第だ。日本の真言宗はこれを「十八道念誦次第」の一部として体系化したとされる。四度加行の最初に習う基本中の基本でありながら、在家の日常勤行の冒頭に置く寺院も少なくないと紹介されている。
天台宗、つまり台密でも同趣旨の護身法が伝えられている。宗派や流派によって段数を五段とするか、浄三業と三部三昧耶を分けて六段や九段と数えるかに異同があるという。ここでは最も一般的な五段の構成で記していく。浄三業、仏部三昧耶、蓮華部三昧耶、金剛部三昧耶、被甲護身の五つだ。
念のため書いておく。以下の真言は書籍や寺院サイトですでに公開されているものだが、印契の細部と観想の内容は師僧の口伝によるところが大きく、みだりに行うべきではないとされる。「印の写真や真言は書物にも掲載されているが、その真意は口伝による」と明記する寺院系サイトもある。密教の勤行がどんな論理で組み立てられているかを理解するための資料として読んでほしい。
第一段から第五段まで
第一段は浄三業(じょうさんごう)だ。
意味は「三つの業を浄める」になり、身体の行い、言葉の行い、心の働き。修法に入る前に、行者自身が日常のうちに積み重ねた濁りを洗い落とす段だ。
印は蓮華合掌(れんげがっしょう)。両掌を合わせ、掌の内側にわずかな空間をつくり、蓮のつぼみに見立てる形とされる。
真言は「オン ソワハンバ シュダ サラバ タラマ ソワハンバ シュド カン」と誦する。
漢字音写は、唵(おん)娑嚩婆嚩秫馱(そわはんばしゅだ)薩嚩達磨(さらばたらま)娑嚩婆嚩秫度(そわはんばしゅど)憾(かん)になる。
意味はおおよそこう解され、オーン、自性は清浄なり。一切の法は自性清浄なり。ゆえに我もまた清浄なり。
一切の法とは、存在するものすべてのことだ。
ここが密教的で面白い。「本来清浄である」という事実を確認する言葉であって、「これから汚れを落とす」という願望文ではない。そういう言い回しの特徴があると説明されることが多い。ここは覚えておいてほしい。
第二段は仏部三昧耶(ぶつぶさんまや)になる。
密教では諸尊を三部に分ける。仏部は如来の智慧、蓮華部は観音の慈悲、金剛部は明王と金剛薩埵の力だ。三昧耶(さんまや)は「本誓」「約束」の意で、その部の仏が衆生を救うと立てた誓いに自らを重ねるという趣旨になる。仏部は身体の加護に配当されることが多い。
印は仏部三昧耶印。虚心合掌から二頭指、つまり人差し指を離して立てる形と説明されるものが一般的だ。虚心合掌は両掌を軽く合わせ、掌中に空間をつくる形になる。
真言は「オン タタギャト ドハンバヤ ソワカ」と唱える。
漢字音写は唵(おん)怛他蘖都(たたぎゃと)納婆嚩耶(どはんばや)娑嚩訶(そわか)だ。意味は「オーン、如来を生じたてまつる、スヴァーハー」。如来の徳が我が身に生起することを願う句とされる。
第三段が蓮華部三昧耶(れんげぶさんまや)になる。
観音と菩薩の慈悲の部で、口、つまり言葉の加護に配当されるという説明が多い。
印は蓮華部三昧耶印、別名を八葉印(はちよういん)という。両掌を合わせ、親指と小指の先を合わせたまま、残る六指を蓮の花弁のように開く形とされる。
真言は「オン ハンドモ ドハンバヤ ソワカ」だ。漢字音写は唵(おん)跛納謨(はんども)納婆嚩耶(どはんばや)娑嚩訶(そわか)になる。
意味は「オーン、蓮華を生じたてまつる、スヴァーハー」。泥中にありながら泥に染まらぬ蓮華、つまり清浄なる慈悲心を自らのうちに開く。そんな観想を伴うとされる。
第四段は金剛部三昧耶(こんごうぶさんまや)になる。
金剛薩埵と明王の力の部で、意、つまり心の加護に配当されるという説明が多い。
印は金剛部三昧耶印。左手を掌が外を向くように胸前へ置き、右手をその背に重ねる。両親指と両小指を鉤(かぎ)状に交差させる形と説明されることが多い。
真言は「オン バザロ ドハンバヤ ソワカ」。漢字音写は唵(おん)嚩日嚧(ばざろ)納婆嚩耶(どはんばや)娑嚩訶(そわか)だ。
意味は「オーン、金剛を生じたてまつる、スヴァーハー」になる。何ものにも壊されない金剛石のごとき決意、すなわち菩提心を起こす句とされる。
第五段が被甲護身(ひこうごしん)だ。
「甲(よろい)を被(こうむ)って身を護る」という意味になる。ここまでで浄め、三部の加護を受けた身に、最後に不可視の甲冑を着せて結界とする段だ。
印は被甲護身印。内縛して二中指を立て、その先を合わせ、二人差し指を中指の背に添える形などと説明される。
真言は「オン バザラギニ ハラネンハタヤ ソワカ」と誦する。漢字音写は唵(おん)嚩日囉銀儞(ばざらぎに)鉢囉捻跛跢野(はらねんはたや)娑嚩訶(そわか)になる。
意味は「オーン、金剛の火焔よ、燃え盛りたまえ、スヴァーハー」。金剛の火が身を包み、障りとなるものを寄せつけないという観想を伴うとされる。
この段だけは独特の動きを伴う。印を結んだまま五処(ごしょ)に加持するのだ。
印を額(ひたい)、右肩、左肩、心臓(胸)、喉(のど)の順に軽く当てる。そして最後に頭上で印を解き散らす。これを「頂に散ずる」と表現する流派が多い。五処は身体の要所を象徴し、そこに金剛の甲を着せる意味になる。
ただし当てる順序と箇所には流派差がある。額から両肩、心、喉という順のほか、額、右肩、左肩、心、喉、頂とする伝もあると紹介されている。
五段を通してみる
流れを一本につないでおこう。
まず姿勢を正し、呼吸を落ち着ける。次に蓮華合掌で浄三業真言を三遍。続けて仏部三昧耶印と真言を三遍。
さらに蓮華部三昧耶印と真言を三遍、金剛部三昧耶印と真言を三遍と進む。最後に被甲護身印と真言を三遍唱え、五処に加持し、頂に散ずる。
各段の遍数は三遍とする次第が多い。ただ一遍や七遍とする伝もある。
所要時間は慣れれば二、三分程度だ。これを済ませてから本尊の真言や経の読誦に入る、というのが密教勤行の標準的な組み立てとされる。
逆にいえば、先に紹介した光明真言や不動明王真言も、本来はこの護身法のあとに置かれるべきものになる。順番には意味があるわけだ。
在家がここまで行うべきかについては見解が分かれている。「印は結ばず、真言だけを合掌して唱えるにとどめるのが無難」とする案内が比較的多い。「印を結びたいなら必ず寺院で習うこと」と釘を刺す解説も目立つ。ここでもその立場を取っておく。
阿字観――一字を観る瞑想
阿字観(あじかん)は、梵字の「阿(ア)」一字を観想する真言密教独自の瞑想法だ。
典拠は密教の根本経典『大日経』にさかのぼるとされ、日本には平安初期、空海が伝えたと説明される。
最も古い体系的な指南書は『阿字観用心口決(あじかんようじんくけつ)』だ。空海が口述し、高弟の実慧(じちえ)が筆録したと伝わる。平安末期の興教大師覚鑁(かくばん)が複数の『阿字観』を著してから、鎌倉期以降に修法として整えられていったと解説されている。伝本は数百種におよぶともいわれ、流派ごとに細部の作法が異なるらしい。
なぜ「阿」なのか。ここが面白いところだ。
悉曇(しったん)、つまり梵字において「阿」は最初の音であり、あらゆる音の母胎とされる。同時にサンスクリットの否定接頭辞でもある。そこから「本来生ぜず」、すなわち本不生(ほんぷしょう)の理を表すとされてきた。
つまり万物の根源であり、大日如来そのものを示す一字という位置づけになる。この一字を観じることで「己の心と大日如来が本来ひとつである」と体得する。即身成仏の教義を、坐って実地に確かめる装置が阿字観だ、と説明されることが多い。
四つの段階を踏む
現代の道場では、いきなり阿字観に入らせなく、次のような段階を踏ませるのが一般的とされる。
第一段階は数息観(すそくかん)で、吐く息を一つ、二つと十まで数え、再び一に戻る。数える対象があることで雑念に気づきやすくなり、呼吸の間隔は徐々に長くしていく。
第二段階が阿息観(あそくかん)になり、呼気に合わせて「あー」と長く声を出す。声を出す発声法と、声を出さず息の中に「阿」を観ずる法がある。鼻先十五センチほどの空間に阿字を観想する、と説く伝もある。
第三段階は月輪観(がちりんかん)で、直径一尺、およそ三十センチほどの満月を胸中に観じる。最初は掛軸の月輪を目で見て、目を閉じてゆっくり胸中に引き入れる。
慣れたら月輪を身体大、部屋大、宇宙大へと広げ、また元の大きさに収める。これを広観と斂観(こうかん・れんかん)という。
第四段階が阿字観そのものになり、月輪の中に蓮華に乗った阿字を観じ、それが自らの心そのものであると観ずる。
初心者向けの体験会では、阿息観、月輪観、阿字観の三段で説明されることも多い。
部屋の設えと坐り方
正面に「阿字月輪図(あじがちりんず)」を掛ける。白い満月の中に、金泥または墨で梵字の阿字が書かれ、その下に蓮華が描かれた掛軸だ。
座る位置から掛軸まではおおよそ一メートル前後。阿字が目線よりわずかに低くなる高さに掛けるのが標準とされる。
掛軸が用意できない場合、白い紙に円を描くだけでも月輪観の代用になると案内する寺院もある。前には香炉、燭台、花の三具足を置き、部屋は明るすぎず暗すぎない程度に整える。
坐法、いわゆる調身についても決まりがある。
結跏趺坐(けっかふざ)または半跏趺坐(はんかふざ)が基本で、椅子坐でも可とする道場が多い。
坐蒲(ざふ)や座布団を二つ折りにして尻の下に敷き、骨盤をわずかに前傾させる。背筋は伸ばしすぎず、脱力しすぎず。左右に数回揺れて中心を定める。
手は法界定印(ほっかいじょういん)を結ぶ。右手を下、左手を上に重ね、両親指の先を軽く触れさせて楕円をつくる。流派により左右が逆の伝もあり、足も手も右が上、と指導する道場の報告がある。
目は半眼にし、閉じきらず、およそ五十センチ先の床、または掛軸の阿字に視線を落とす。完全に閉じると眠気と妄想が増えるため半眼にする、と説明される。
息を整える
調息、つまり阿字の呼吸へ入っていく。
まず口から細く長く息を吐ききる。吐く息とともに身体の濁りが出ていくと観ずる。
次に鼻から静かに吸う。ある道場の指導では、新鮮で白い霧のような空気が全身に満ちるとイメージさせるという。
これを数回繰り返して呼吸を整えたのち、阿息観に移る。口をうすく開き、吐く息に乗せて「あーーー」と低く長く声を出す。
声の観想は段階的に広げていく。最初は五十センチ先へ、次に一メートル、二メートル、三メートルへ。声、すなわち阿字が部屋を満たし、やがて聞こえなくなるところまで広がっていくと観ずる。
十分に落ち着いたら発声をやめる。そして息の出入りそのものの中に阿字を観じる。
呼吸の比率は「吐く息を吸う息の二倍程度」を目安とする指導が多い。無理に長く止めない、息を詰めなく、これが共通する注意点だ。
時間についても目安がある。寺院の体験会は、説明を含めて三十分から一時間、実際に坐るのは十五分から三十分程度というものが多い。
ある総本山の道場では週四日、一日四回の開催で定員は十四名程度だったという参加者の記録がある。時刻は午前九時、午前十一時、午後一時半、午後三時半。実際に坐る時間は五分ほどの体験メニューもあった。
自宅で行う場合は、まず五分から始めるといい。二週間ほどかけて十五分、慣れて二十分から三十分。そんなペースが無難とされる。
終わり方が大事になる
瞑想を「開いたまま」終えないこと。ここは強調されている。
まず広げた月輪と阿字を、元の一尺の大きさに戻し、さらに胸中へ収める。これが斂観だ。
次に静かに深呼吸を三回。それから掌をこすり合わせて温め、目、顔、首、肩、腰、膝の順に軽くさする。
左右にゆっくり身体を揺らし、足をほどく。しびれが残っているうちに立ち上がらない。
最後に合掌し、伝統的には三力偈(さんりきげ)を唱えて終える。
「以我功徳力(いがくどくりき) 如来加持力(にょらいかじりき) 及以法界力(ぎゅういほっかいりき)」と誦する。続けて「周遍衆生界(しゅうへんしゅじょうかい) 一切願満足(いっさいがんまんぞく)」と唱える。
意味はこうだ。我が功徳の力と、如来の加持の力と、法界の力とをもって、あまねく衆生界に及び、一切の願いが満たされんことを。
この一句で「自分のためだけの瞑想」を「他へ回向する行」に転じる。そういう構造になっているのが面白い。
初心者が気をつけること
とくに過換気について、先に言っておきたい。
深呼吸をしすぎないこと。阿息観で長く声を出そうと力むと、意図せず過換気、いわゆる過呼吸になることがある。手足のしびれ、めまい、動悸、不安感を招く。
これは霊的な現象でも好転反応でもなく、血中二酸化炭素が下がったことによる生理的な反応だ。
少しでもしびれや息苦しさを感じたら、ただちに中止し、呼吸を自然に任せ、楽な姿勢で休む。なお、紙袋を口に当てる旧来の方法は現在は推奨されていないため、行わないこと。
息を止めないことも徹底したい。止息を伴う行法は、師の指導下でのみ行うべきものとされる。
空腹時、満腹時、飲酒後は避ける。眠気が強いときも無理をせず、阿字観は眠りではない。眠ければ寝てから行えばいい。
不快な映像や強い感情が浮かんだら中断し、「出てきたものと戦わない」のが原則だ。恐怖や混乱が続くようなら実践を止め、必要に応じて医療の相談につなげる。
未成年や、精神的に不安定な時期にある人は、単独での長時間の観法を避ける。これについては後であらためて触れる。
場所と時間を固定するのも効く。同じ部屋、同じ時刻で行うほうが、心身が「これから坐る」という準備状態に入りやすいとされる。
坐った人が書き残したこと
公開された記録から、体験の質感を拾ってみよう。
ある参加者の記録では、指導した僧侶が終了後にこう声をかけたという。「今で五分が経ちました。煩悩を感じることも瞑想です。そして皆さまは今日、仏の一歩目を踏み出しました」
雑念が出ることを失敗とみなさなく、この点は複数の記録に共通して現れる特徴になっている。
別の参加者は、阿息観、月輪観、阿字観の三段を丁寧に誘導され、終わったあと「思考が軽くなった」と記している。
一方で率直な記述もあり、五分でも足がしびれて集中どころではなかった。何も起きなかった。体感の個人差はやはり大きいようだ。
陀羅尼という長い呪句
真言(マントラ)が比較的短い句であるのに対し、陀羅尼(ダーラニー)は長文の呪句を指す。総持とも訳される。
長いぶん暗誦は難しい。それでも「一句一句に無数の意味が畳み込まれているため訳さずに音のまま持つ」というのが古来の建前だ。漢訳経典でも意訳されず、音写のまま伝わってきた。
ここでは護身、除災、滅罪を目的として日本で広く読誦されてきた三種を、省略せず記録していく。
読み方は宗派と寺院による伝承差が大きい。実際に唱える際は、所属寺院の経本に従うのが原則とされる。
仏頂尊勝陀羅尼
正式には「浄除一切悪道仏頂尊勝陀羅尼」という。出典は『仏頂尊勝陀羅尼経』で、唐代に複数の漢訳が並存した。
念のため書いておくと、経の説話がこれまた劇的だ。
善住(ぜんじゅう)という天人が、あと七日で命終し、そののち幾度も悪趣に生まれ変わると予告される。悪趣とは畜生や餓鬼のことで、恐怖した善住は帝釈天に助けを求める。
帝釈天が仏に問うたところ、仏が頂から光を放って説いたのがこの陀羅尼だった。頂とはうずまき状の肉髻(にっけい)を指す。これを唱持したことで善住は寿命を延ばし、悪道を免れたという筋になる。
ここから延命、滅罪、悪道からの救済の陀羅尼として重んじられた。中国と日本では石柱に刻んで建てる「尊勝陀羅尼幢(どうとう)」が各地に造られている。
日本では真言宗と天台宗はもとより、臨済宗など禅宗でも常用経典のひとつとして読誦されてきたと解説されている。唱える場面は、追善供養、年忌法要、病者のための祈り、そして自身の滅罪と延命の祈願などだ。
全文の読みを追っていこう。
「のうぼ ばぎゃばてい たれろきや はらち びししゅだや ぼだや ばぎゃばてい」と始まる。
「たにやた おん びしゅだや びしゅだや さまさまさまんだ」と続けて誦する。
「はばしゃそはらだ ぎゃち ぎゃかのう そまはんば びしゅてい」と進む。
「あびしんしゃ とまん そぎゃた はらばしゃのう あみりた びせいけい」と重ねていく。
「まか まんだら はだい あから あから あゆさんだらに」と誦する。
「しゅだや しゅだや ぎゃぎゃのう びしゅてい うしゅにしゃ びじゃや びしゅてい」と唱える。
「さかさら あらしんめいさんそにてい さらば たたぎゃた ばろきゃに」と続く。
「さたはらみた はりほらに さらば たたぎゃた きりだや ちしゅたのう ちしゅちた」と進む。
「まか もだれい ばざらぎゃや そぎゃたのう びしゅてい」と誦する。
「さらば はらだ はやとり ぎゃちはり びしゅてい はらちにはらだや あよくしゅてい」と唱える。
「さんまや ちしゅちてい まに まに まかまに たただぼだ くち はりしゅてい」と続けていく。
「ぎゃや はりびしゅてい さらば ぎゃち はりしゅてい」と誦する。
「さらば たたぎゃたしつ しゃ めい さんまじんばそ えんと」と唱える。
「さらば たたぎゃた さんまじんばそ ちしゅちてい ぼじや ぼじや びぼじや びぼじや」と重ねる。
「ぼだや ぼだや びぼだや びぼだや さんまんだ はりしゅてい」と続ける。
「さらば たたぎゃた きりだや ちしゅたのう ちしゅちた まかぼだれい そわか」で結ばれる。
大意はおおむねこう訳されており、世尊に帰命したてまつる。三界にもっともすぐれた仏陀よ。しかしてまた説く、オーン、浄めたまえ浄めたまえ、あまねく等しく照らしたまえ。
甘露の潅頂をもって我を清め、寿命を保たせ、一切如来の心に住したまえ、スヴァーハー。
長大なので、まずは冒頭の「のうぼ ばぎゃばてい」までを繰り返す。そこから徐々に区切りを伸ばして覚える方法が案内されることが多い。
大悲心陀羅尼
千手観音、正しくは千手千眼観自在菩薩の陀羅尼で、大悲呪(だいひしゅ)とも呼ばれる。
出典は伽梵達摩(がぼんだつま)訳『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』、いわゆる『千手経』になる。七世紀半ば、永徽・顕慶年間のころ、于闐(ホータン)で漢訳されたのが最古とされる。西暦でいえば六五〇年から六六一年あたりだ。
八世紀の開元年間以降、陀羅尼だけが経から独立して流布し、東アジア全域へ広まった。
日本では禅宗、つまり曹洞宗と臨済宗の朝課と晩課で毎日読誦される。真言宗と天台宗でも観音法や災難除けの読誦に用いられる。曹洞宗では朝課仏殿諷経、開山歴住諷経、晩課諷経、鎮守諷経などで読誦すると説明されている。
「大悲」の名のとおり、あらゆる苦を抜く観音の慈悲にすがる呪だ。病苦、災難、怨敵の難からの救済が説かれる。
曹洞宗系の読誦法による全文を追っていこう。
「なむからたんのー とらやーやー なむおりやー ぼりょきーちー しふらーやー」と始まる。
「ふじさとぼーやー もこさとぼーやー もーこーきゃーるにきゃーやー」と続けて誦する。
「えん さーはらはーえいしゅーたんのーとんしゃー なむしきりーといもー」と進む。
「おりやー ぼりょきーちー しふらー りんとーぼー なむのーらー」と唱える。
「きんじーきーりー もーこーほーどー しゃーみーさーぼー」と重ねていく。
「おーとーじょーしゅーべん おーしゅーいん さーぼーさーとーのーもー」と誦する。
「ぼーぎゃー もーはーてーちょー とーじーとーえん おーぼーりょーきー」と続く。
「るーぎゃーちー きゃーらーちー いーきりもーこー ふじさーとー」と唱える。
「さーぼーさーぼー もーらーもーらー もーきーもーきー りーとーいん」と進む。
「くーりょーくーりょー けーもーとーりょーとーりょー ほーじゃーやーちー」と誦する。
「もーこーほーじゃーやーちー とーらーとーらー ちりにー しふらーやー」と唱える。
「しゃーろーしゃーろー もーもーはーもらー ほーちーりー ゆーきーゆーきー」と続けていく。
「しーのーしーのー おらさんふらしゃーりー はーざーはーざん ふらしゃーやー」と誦する。
「くーりょーくーりょー もーらー くーりょーくーりょー きーりー」と唱える。
「しゃーろーしゃーろー しーりーしーりー すーりょーすーりょー」と進む。
「ふじやーふじやー ふどやーふどやー みーちりやー のらきんじー」と誦する。
「ちりしゅにのー ほやもの そもこー しどやー そもこー もこしどやー そもこー」と唱える。
「しどゆーきー しふらーやー そもこー のらきんじー そもこー」と続く。
「もーらーのーらー そもこー しらすーおもぎゃーやー そもこー」と誦する。
「そぼもこ しどやー そもこー しゃきらー おしどーやー そもこー」と唱える。
「ほどもぎゃ しどやー そもこー のらきんじー はーぎゃらやー そもこー」と進む。
「もーほりしんぎゃらやー そもこー」で全文が終わる。
読誦の際は、意味を追わずに一定のリズムで淡々と誦す。それが伝統的な作法とされる。
テンポは宗派で違う。禅宗では木魚に合わせて速く唱えるが、密教系の寺院では鈴(りん)を打ち、ゆるやかに誦する場合が多い。
消災呪
正式には「仏説熾盛光大威徳消災吉祥陀羅尼」という。消災妙吉祥陀羅尼とも呼ばれる。
熾盛光仏頂(しじょうこうぶっちょう)を本尊とし、日月星宿の変異による災いを消し去るとされる。天変地異や凶星の障りのことだ。天災、火災、盗難、病難、凶事の予兆に対する除災を目的として唱えられてきた。
密教では「熾盛光法」「星供(ほしく)」といった修法の中核に据えられる。禅宗でも祈祷諷経の常用として広く読まれている。
経に説かれる趣旨はこうだ。国が乱れ災難が起こるとき、道場を設け仏像を安置し結界を結んでこの陀羅尼を誦せば、災いはたちまち消えるだろう。
全文の読みは短い。
「のうもうさんまんだ もとなん おはらち ことしゃ そのなん とうじとえん」と始まる。
「ぎゃぎゃ ぎゃきぎゃき うんぬん しふらしふら はらしふら はらしふら」と続けて誦する。
「ちしゅさ ちしゅさ ちしゅり ちしゅり そはじゃ そはじゃ せんちぎゃ しりえい そもこ」で終わる。
短いので暗誦しやすいだろうね。日々の勤行の締めや、災難の報に接したときの祈りとして、三遍、七遍、二十一遍と誦する例が紹介されている。
十一面観音と大随求
参考として、もう二種を挙げておく。
十一面観音は、頭上に十一の面を戴き、あらゆる方角の衆生を見落とさず救うとされる観音だ。日本では『十一面神呪心経』『十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経』などに基づき、除病、除災、除障の本尊として古くから信仰されてきた。
真言は二種がよく知られる。
大呪は「オン ロケイ ジンバラ キリク ソワカ」と誦し、漢字では唵、嚕鶏、入縛羅、紇哩、娑嚩訶。意味は「おお、世を照らす光明の主よ」と解される。
小呪は「オン マカ キャロニキャ ソワカ」で、漢字では唵、摩訶、迦嚕尼迦、娑嚩訶。「おお、大いなる慈悲を成す者よ」と解される。
大随求(だいずいく)菩薩の陀羅尼も触れておきたい。求めに随って願いを叶え、災厄、毒、怨敵から身を護るとされる。
平安期以来、経文を小さく刷って腕や首に懸ける「随求陀羅尼」として、身に着ける形で流行した。長大な大呪のほか、次の短呪が広く紹介されている。
「オン バラバラ サンバラサンバラ インダリヤ ビシュダニ ウン ウン ロロ シャレイ ソワカ」と唱える。
これらはいずれも護身と除災の側に属する句だ。他者を害する用途に用いるものではない、と諸解説が明記している。
土砂に光明真言を加持する
光明真言土砂加持(どしゃかじ)という作法がある。
清浄な砂に光明真言を加持し、その砂を亡骸や墓、あるいは家屋や土地にまく。それによって罪障が消え、悪趣を離れると説く作法だ。
典拠は不空(ふくう)訳『不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言経』とされる。この経に説かれる真言こそが、先に挙げた光明真言、正式には不空大灌頂光真言になる。
経が説く趣旨はこうで、この真言を土砂に百八遍加持する。その砂を亡者の屍の上、あるいは墓の上に散じれば、たとえ悪業によって悪道に堕ちていたとしても、光明が届いて苦を除かれる。
日本では鎌倉初期の明恵房高弁(みょうえぼうこうべん)が『光明真言土砂勧信記』などを著してこの作法を強く勧めた。以後、宗派を超えて広まったとされる。
近世以降は真言律宗の総本山などで大規模な「光明真言土砂加持大法会」が営まれるようになった。秋に数日間にわたって不断に光明真言を誦し続ける法会を勤める寺院が、いまもあると案内されている。
真言宗の各本山でも「土砂加持法要」として、お盆、彼岸、年忌の時期に行われる例が広く見られる。
土砂の準備と加持
用いるのは清浄な白砂とされ、海砂、川砂、山砂を洗って乾かし、篩(ふるい)にかけて小石や異物を除く。
もっとも近年は、寺院が用意した加持土砂を授与品として頒布する例が一般的だ。在家が自分で砂を集める必要はほとんどない。
器は素焼きの小壺、白磁の器、あるいは白い紙包みが用いられ、金属器は避けるとする伝もある。自宅で用意する場合、まず器ごと塩水で拭き清め、白布を敷いた上に置くと案内される。
加持の回数にも決まりがある。
経の説くところに従い、光明真言を百八遍誦すのが基本だ。数珠を一珠ずつ繰りながら誦し、一連で百八遍になる。
百八遍を一座とし、これを七座、つまり七日間重ねる伝もある。あるいは千八十遍、一万遍と積み上げる伝もあるという。寺院の大法会では、僧侶が交代で数日間にわたり不断に誦し続ける形をとると紹介されている。
加持のあいだは、土砂そのものが光明に照らされて金色に輝いていると観想する。
在家が行う場合は、寺院で加持された土砂を頂いてくるのが本則になる。自宅での加持はあくまで補いという位置づけの説明が多い。
土砂の使い道と後始末
もっとも本来的な用途は墓に散じることだ。納骨のとき、あるいは墓参の折に、墓石の周囲や納骨室にひとつまみ散じる。
葬送にも用いられ、枕元、棺の中、あるいは埋葬時に散じる。地域や宗派により作法が異なる。
家屋と土地の清めにも使う。新築、引越し、改築の際、あるいは事故や災難のあった場所に散じる。四隅と中央に少量ずつ、というやり方が広く紹介されている。
携帯する使い方もあり、小袋や紙包みにして持つ。病者の枕元に置く例も紹介されている。
仏壇に供える形もあり、小皿に盛って供え、必要なときに用いる。
後始末にも作法がある。
使い残した土砂は、湿気と匂い移りを避け、密閉できる小瓶か和紙包みに入れる。そして仏壇や神棚など清浄な場所に保管する。
年単位で更新する、つまり新しい法会の折に頂き直すことを勧める案内が多い。
不要になった土砂は、ごみとして捨てなく、自宅の敷地の土に還すか、授かった寺院に納めるのが丁寧とされる。土に還す場合は、白紙に包み、感謝を述べてから散じる。場所は人が踏まないところ、庭の隅や樹木の根元などがいい。
賃貸住宅などで土に還す場所がない場合はどうするか。白紙に包んで塩を添え、寺院の古札納所に納める。あるいは郵送でのお焚き上げを受け付けている寺院に送る、という方法が案内されている。
写経と写仏という行
写経は、印刷技術のない時代の経典複製という実務から始まった。それがやがて「書写すること自体が功徳になる」という信仰へ転じたわけだ。
奈良時代には国家事業としての写経所が置かれた。平安期以降は、個人の追善供養と現世祈願の手段として定着していく。
密教でも、真言や陀羅尼を書写して塔に納める伝統があり、種子(しゅじ)を書く「一字書写」の伝統もある。種子とは仏を一字で表す梵字のことだ。
写仏は仏画をなぞる、あるいは描き起こす行になる。写経より新しい在家向けの実践として、近年広まったとされる。
用意するものを見ていこう。
写経用紙は、一行十七文字の罫線が入った専用紙が一般的で、手本を下に敷いてなぞる「なぞり書き用」もある。
筆記具は小筆と墨、硯や墨壺が正式になり、ただ初心者は筆ペンで十分とされる。ボールペン用の写経用紙もある。
文鎮と下敷き、いわゆる毛氈も用意し、手本は般若心経のもの、または種子や真言の手本だ。
香を焚き、手を洗い口をすすいでから机に向かう。そんな所作を勧める寺院が多い。
書く手順と願文の書式
机を整え、姿勢を正すところから始まる。正座でも椅子でもいいが、背筋は伸ばす。
合掌し、軽く一礼し、開経偈(かいきょうげ)を唱えてから始める作法もある。「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義」と誦する句だ。
筆は親指、人差し指、中指の三本で、鉛筆を持つように持つ。
題名の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」から一字ずつ丁寧に書いていく。速く書かない、上手に書こうとせず、これが共通の指導になっている。
書き間違えたときも、消したり塗りつぶしたりせず、そのまま書き進めるのが一般的な作法とされる。誤字の右横に小さく正字を添える、あるいは誤字の右肩に点を打つ、という流儀もある。
本文を書き終えたら、末尾に願文(がんもん)を記す。最後に合掌し、回向文を唱えて終える寺院が多い。回向文は「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」だ。
願文の書式にも型があり、おおむね次の要素を縦に並べる。
まず「為(ため)」。誰のため、何のために書いたかを記す。追善なら「為 ○○家先祖代々 菩提」、現世祈願なら「為 家内安全」「為 無病息災」といった具合だ。
次に願意(がんい)。四字熟語で簡潔に記すのが通例になる。家内安全、無病息災、身体健全、心願成就、病気平癒、交通安全、厄難消除、諸災消滅、先祖供養、学業成就。こうした語が並ぶ。
そして日付。年号と年月日を書く。
最後に住所と氏名。住所は市区町村までとする例も多い。氏名の下に「謹書」「敬白」と添える。
ここでひとつ古来の作法があり、願文に他者への不利益を書かない、という決まりだ。
写経は本来、自他ともに救われることを願う「回向」の行になる。誰かの失敗や不幸を願う文言を書くのは趣旨に反するとされる。実際、多くの寺院の案内には「祈願は前向きな内容で」と明記されている。
書いたあとをどうするか
納経(のうきょう)という制度があり、多くの寺院に納経所があり、書き上げた写経を納めることができる。納経料は数百円から千円台を添える例が一般的だ。四国八十八ヶ所などの霊場では、納経が本来の参拝作法になる。
郵送での奉納も可能だ。郵送で写経や写仏を受け付け、法要ののちお焚き上げする寺院や専門の受付先も存在する。遠方の場合の選択肢とされる。
納めた写経は、一定期間供養されたのちお焚き上げされることが多い。なお、自宅で焼却するのは火災の危険があるので行わない。
自宅保管も可とされており、「納得した場所であればどこでもよい」と案内する寺院もある。写経セットと一緒に箱に入れて保管する人、床の間や神棚、仏壇に供える人など、実際さまざまらしい。
ただし共通の注意があり、床に直置きしない。湿気の多い場所に置かなく、上に物を積まない。
この三つになる。
枚数がたまったら年に一度まとめて納経し、そんな運用が現実的だと紹介されている。
写仏についても触れておこう。
用紙は仏画の下絵が薄く印刷されたものを使う。不動明王、観音菩薩、大日如来などの種類がある。
面相筆、つまり細筆で輪郭をなぞる。彩色は必須ではない。
顔、とくに眼は最後に描くとする流儀が多い。「眼を入れる」ことで仏が完成するという考え方による。
完成後の扱いは写経に準じる。額装して自宅に掛ける場合、仏画は本来礼拝の対象だから、目線より高い位置に掛ける。トイレや寝室の足元側などは避けるとされる。
法具は何を意味しているのか
密教法具の中核をなすのが金剛杵(こんごうしょ)だ。
サンスクリットのヴァジュラの訳語で、もとは古代インドの神インドラ、つまり帝釈天が手にする雷霆(らいてい)の武器だった。それが密教に取り込まれ、「煩悩を打ち砕く堅固な菩提心の象徴」へと意味を転じている。
硬くて何ものにも壊されない、すなわちダイヤモンド(金剛石)という含意も重ねられた。
前提として、これらは本来、四度加行を終え伝法灌頂を受けた阿闍梨が修法に用いる道具になる。在家が所持することは必須でも推奨でもなく、多くの寺院系解説がそう明記している。
独鈷杵(とっこしょ)は、先端の鈷(こ)が一本のもの。両端が一本ずつの単純な形で、「一」は不二、一如を表すとされ、煩悩を一点で貫く鋭さの象徴になる。修験道でも用いられ、護身具としての伝承もある。
三鈷杵(さんこしょ)は鈷が三本。身、口、意の三密、あるいは仏部、蓮華部、金剛部の三部を表すとされる。
ちなみに三鈷杵には有名な伝説がある。空海が唐から帰国の際に日本へ投げたところ、高野山の松に掛かっていたという「飛行三鈷杵(ひぎょうさんこしょ)」の話だ。高野山の「三鈷の松」の由来とされている。
五鈷杵(ごこしょ)は鈷が五本になり、五智如来と五智を表すとされ、金剛界の修法で中心的に用いられる。五智とは法界体性智などのことで、密教法具の中でもっとも代表的な形になる。
金剛鈴(こんごうれい)は、金剛杵の片端を鈴にしたもので、鈷の数により独鈷鈴、三鈷鈴、五鈷鈴などがある。修法の中で振り鳴らし、諸尊を驚覚(きょうかく)させ、また衆生を眠りから覚ます音とされる。杵が智、鈴が定を表し、対で用いられる。
輪宝(りんぼう)は、転輪聖王(てんりんじょうおう)の七宝のひとつ「輪」に由来する。仏の教えが車輪のように転じて広がること、いわゆる転法輪を表す。八輻、千輻など輻(や)の数に異同があり、修法壇の四隅や、寺院の紋章に用いられる。
洒水器(しゃすいき)は、清浄な香水(こうずい)を入れる器になる。散杖(さんじょう)という細い棒でこの水を含ませ、壇や供物、参列者に注いで清める。この「洒水加持」は、いまも葬儀、地鎮祭、祈祷で広く行われる所作だ。対になる塗香器(ずこうき)は、手や身体に塗って清める粉末の香を入れる器になる。
在家が法具を持つなら
実際のところ、意見は割れている。
「お守りや厄除けとして身に付けたり、自宅に飾る人もみられる」と述べる寺院系サイトがある。一方で「修法に用いる道具であって装身具ではない」と釘を刺す解説も多い。
両論あることを踏まえたうえで、持つなら次の扱いが穏当とされる。
床に直置きせず、白布か三方(さんぼう)、専用の金剛盤の上に置く。
人に向けない、振り回さなく、先端が鋭いものもあり、実務的にも危険だ。
他人に貸さない、みだりに触らせない。
仏壇や祭壇に安置する場合、本尊より高い位置に置かない。
持ち歩く場合は袋に入れる。金属探知機のある場所や機内持ち込みでは、形状によって刃物と誤認される可能性があるため注意が要る。
購入時にも気をつける点がある。
仏具店や寺院の授与所で扱われるほか、通信販売でも入手できる。真鍮製と銅製が一般的で、価格は数千円から数十万円まで幅広い。
避けるべきものもはっきりしている。「開眼済み」「霊力を込めた」などをうたって相場から大きく外れた価格で販売するもの。購入しなければ災いが起きると告げるもの。これらは霊感商法の典型的な手口と重なる。
骨董として流通する古い法具の中には、文化財に該当するものもある。来歴の不明なものは購入を控えるのが無難だ。
そもそも「持たなくても実践に支障はない」というのが、在家に対する一般的な回答になっている。
処分についても書いておく。
もっとも丁寧なのは、授かった寺院、または近隣の真言宗や天台宗の寺院に相談することだ。魂抜き、いわゆる撥遣(はっけん)の上で引き取ってもらう。無料で応じる寺院もある。
仏具店が下取りや引き取りを行っている場合もある。
やむを得ず自分で処分する場合は、塩で清め、白紙に包んで感謝を述べてから、自治体の金属ごみの区分に従う。ただ「金属だから資源ごみ」と機械的に扱うことに抵抗を覚える人が多い。寺院への相談を勧める案内が大半だ。
転売については意見が分かれる。御守り同様に売買を避けるべきとする立場が強い一方、法具は消耗品でもあるため中古の流通が存在するのも事実になる。少なくとも、由来を偽って高値で売ることは避けるべきとされる。
四度加行と、在家が受けられるもの
四度加行(しどけぎょう)は、密教に入門した者が伝法灌頂を受けて阿闍梨となるために必要な四段階の修行を指す。真言宗と天台宗のいずれにも同名の行がある。
第一が十八道法(じゅうはちどうほう)だ。仏を迎え、供養し、送り出すまでの作法を十八の段階、十八契印に整理したものになる。護身法、結界法、道場荘厳法、勧請法、結護法、供養法などから成る。先に見た護身法は、この十八道の冒頭に位置する。
第二が金剛界法(こんごうかいほう)。金剛界大日如来を本尊とし、金剛界曼荼羅の諸尊を供養し、智慧の側面を修する行だ。
第三が胎蔵界法(たいぞうかいほう)になり、胎蔵界大日如来を本尊とし、胎蔵界曼荼羅の諸尊を供養する。こちらは慈悲と理の側面を修する。
第四が護摩法(ごまほう)で、炉に火を焚き、供物を投じて煩悩を焼き、諸願成就を祈る。息災、増益、敬愛、調伏、鉤召の五種法に分けられるが、在家に開かれるのは息災と増益が中心になる。
各段階には前行(ぜんぎょう)と正行(しょうぎょう)があり、加行そのものが伝法灌頂の前段階にあたる。
期間は宗派と道場により異なる。たとえば高野山系の大学課程では、春期五十日と夏期五十日の合計およそ百日で実施される例が案内されている。
修行中は一日数座の勤行を早朝から深夜まで繰り返す。食事、睡眠、入浴に厳しい制限がかかると伝えられる。これを終えて伝法灌頂を受けて、はじめて印契と真言を「授かって用いる」立場になる。そういう建前だ。
では在家はどうか。四度加行を受けることは原則としてできなく、僧籍を得るための修行だからだ。
ただし、密教と縁を結ぶための儀式はいくつか開かれている。
結縁灌頂(けちえんかんじょう)がその代表になる。「灌頂」は頭頂に水を注ぐインドの即位儀礼に由来し、密教では位を授ける儀式を指す。
そのうち結縁灌頂は、僧俗を問わず誰でも受けられる入門的な灌頂だ。核となるのが「投華得仏(とうけとくぶつ)」になる。目隠しをして曼荼羅の上に華を投じ、落ちた場所の仏を自らの有縁の仏、つまり得仏とする。そののち阿闍梨から智慧の水を頭に注がれ、印と真言を面授される。
三昧耶戒(さんまやかい)は、灌頂に先立って授けられる密教の戒になる。
もっと軽い形で参加できるものもあり、授戒会、写経会、阿字観会、護摩参列などだ。
高野山と比叡山の実例
高野山では、伽藍と金堂を会場として結縁灌頂が行われるとされる。
春には胎蔵界結縁灌頂、例年五月三日から五日。秋には金剛界結縁灌頂、例年十月一日から三日という日程だ。
初日には「庭儀(ていぎ)結縁灌頂三昧耶戒」という行道を伴う儀式が営まれることがある。僧俗を問わず参加できると案内されている。受付方法と冥加料は年により変わるため、必ず事前に公式の案内を確認する必要がある。
比叡山でも、特定の大法会にあわせて一般向けの結縁灌頂が開壇される例がある。
ある年の案内では、冥加料は一万五千円だった。必要な持ち物は半袈裟と数珠で、持っていない場合は当日購入できる。服装は和装でも洋装でも構わない。
申込は郵送のみで受付期間が定められ、同一年内に複数回受けることはできないとされていた。
当日の流れも案内されており、受付後に約三十分の説明があり、儀式の意味と心得が伝えられる。その後、十二名程度が一組となって潅頂道場に入り、約一時間。待機時間を含めて全体で二時間から三時間程度だ。
終了時に得仏の証と遂業書が授けられる。
参加にあたっての一般的な留意点も挙げておこう。
事前申込制で定員制であることが多い。当日受付は期待しないほうがいい。
道場内は撮影禁止、私語厳禁になり、写真の公開可否は必ず確認する。
儀式の途中で退出できない場面があるため、体調が万全でないときは無理をしない。長時間の正座が難しい場合は、事前に申し出れば椅子を用意してもらえることが多い。
授かった印と真言は「みだりに他言しない」と誓約させられる場合がある。そこで面授されるものは、この記事のような公開文書には書けない領域になる。
暦と方角を、どう扱うか
宿曜(すくよう)の話から入ろう。
『宿曜経』は、インド由来の占星術を仏教が取り込んだ経典だ。日本には平安初期、空海、円仁、円珍らの入唐僧によって密教の一分野としてもたらされたとされる。
九五七年に日延が符天暦を将来したことで研究が活発化した。九六三年には僧の法蔵が、天皇の御本命供の時期をめぐって陰陽道の賀茂保憲と論争したと伝えられる。御本命供とは生年の星を供養する修法のことで、このころ日本の宿曜道が確立したとみられている。
平安後期には能算と明算の父子、末期には珍賀や慶算といった宿曜師が現れ、派を成して勢力を争ったという。
南北朝以降、貴族社会の衰退とともに宿曜道は没落した。陰陽道に吸収される形で歴史の表舞台から消えたと説明される。現代の「宿曜占星術」は、この系譜を近代以降に再構成したものという位置づけになる。
宿曜は二十七宿、または二十八宿と七曜、十二宮を組み合わせる。生まれ日の宿によって性質や相性、日々の吉凶を読む仕組みだ。
実践に組み込む場合の考え方としては、「良い日を選ぶ」より「悪い日に無理をしない」という使い方が穏当とされる。体調や心の乱れやすい日をあらかじめ想定して、予定を軽くし、そういう運用になる。
十二天が守る方角
密教では、八方に上下と日月を加えた十二の天部が世界を守護すると考える。八方とは四方と四隅のことだ。
もとはインド神話とバラモン教の神々が仏教に取り込まれ、護法善神となったものになる。日本では平安初期の九世紀から作例が確認されている。
灌頂の道場では、十二天の掛軸を四周に掛けめぐらす作法があり、方角と守護尊の対応を順に見ていこう。
東は帝釈天(たいしゃくてん)が守る。諸天の主であり、雷霆と威勢を司るとされる。
東南は火天(かてん)で、火、浄化、護摩の炉を象徴する。
南は焔摩天(えんまてん)が守護し、死と裁き、そして秩序を司るとされる。
西南は羅刹天(らせつてん)になり、鬼神を統べ、災いを制する。
西は水天(すいてん)で、水、雨、海を象徴する。
西北は風天(ふうてん)が守る。風と気の流れを司るとされる。
北は毘沙門天(びしゃもんてん)になり、財宝、守護、北方鎮護を象徴する。
東北は伊舎那天(いしゃなてん)で、鬼門を鎮めるとされる。
上、つまり天は梵天(ぼんてん)が守護し、世界の創造と上方を司る。
下、つまり地は地天(じてん)になり、大地と堅牢を象徴するとされる。
日は日天(にってん)が守る。太陽と昼を司る。
月は月天(がってん)で、月と夜を象徴するとされる。
時刻の考え方にも触れておこう。
密教の勤行は伝統的に「六時」に配当されてきた。晨朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜の六つだ。
在家がこれをそのまま守るのは非現実的になる。だから朝、昼、夜の「三時」に整理し、さらに実生活では朝夕の二回、あるいは朝一回に絞るのが一般的とされる。『阿字義』も「日々の三時に阿字を観ぜよ」と説くと紹介されている。
暦を扱ううえでの注意
複数の寺院系解説が繰り返し述べる注意点があり、まあ、ここは押さえておいてほしい。
「凶日だから何もできない」という使い方をしない。暦は行動を縛る枷ではなく、心身の周期を意識するための目盛りとして扱う。そういう説明が多い。
方角を理由に他人の行動を制限せず、家族に「その方角へ行くな」と強制する。就職や結婚を方位で否定する。こうした使い方は、本来の趣旨から外れるとされる。
暦や方位を口実にした金銭要求は疑う。「この方角が悪いので高額の祈祷が必要」という誘導は、霊感商法の典型的な話法と重なる。
そして、医療、法律、投資の判断を暦に委ねない。手術日、裁判の期日、売買のタイミングを暦で決めるのは危険だ。
鎮宅――家と土地を鎮める
「鎮宅(ちんたく)」は、家と土地を鎮め、住む人を守る一連の実践を指す。
密教では新築時の地鎮法、鬼門の鎮め、屋内への札の奉安などが行われてきた。
基本にあるのは「清浄を保つ」という単純な発想だ。実際、寺院の案内の多くが、掃除と換気と整理整頓が第一だと述べている。札や法具はその上に置かれる補助にすぎない、という位置づけになる。
設えの基本を並べておこう。
神棚と仏壇を分ける。神社の御札は神棚へ、寺院の御札は仏壇または別の清浄な場所へ。両者を同じ棚に混在させるのは避けるとされる。
高さは目線より上に。人が見下ろす位置に置かない。
方角は、御札の正面が東または南を向くように置くのが一般的な作法とされる。つまり札は西または北の壁を背にすることになる。
避ける場所もはっきりしており、トイレや浴室の隣接壁。台所の火のすぐ上、寝室の足元側。
階段の下、つまり人が上を歩く位置、出入りのたびに揺れる扉の上だ。
供え方にも注意があり、水は毎朝取り替える。榊や花は枯らさなく、枯れたまま放置するくらいなら置かないほうがよい、という指摘は多い。
梵字札に書かれる種子
種子(しゅじ)とは、仏尊を一字の梵字で表したもので、札、念珠、印鑑、位牌などに用いられる。主なものを見ていこう。
カーン、あるいはカンマンは不動明王を表す。厄除け、魔除け、障礙の打破に対応するとされる。
バンは大日如来、金剛界のほうで、総合的な加護と中心を意味する。
アーンクも大日如来だが、こちらは胎蔵界になり、やはり総合的な加護を表す。
キリークは阿弥陀如来と千手観音を表す。諸願成就、安心、往生に対応する。
サは聖観音で、慈悲と、苦難からの救いを意味する。
マンは文殊菩薩になり、智慧と学業に対応する。
アンは普賢菩薩で、延命と災難除けを表す。
サクは勢至菩薩になり、智慧の光と決断を意味する。
カは地蔵菩薩で、子ども、旅、境界の守りに対応する。
ユは弥勒菩薩になり、未来と忍耐を表す。
バイは薬師如来で、健康と病気平癒に対応する。
タラークは虚空蔵菩薩になり、記憶と福徳を意味する。
バクは釈迦如来で、教えの根本を表す。
ウーンは阿閦如来になり、不動の心を意味する。
干支ごとの守り本尊という習俗も広く行われている。子が千手観音、丑と寅が虚空蔵菩薩、卯が文殊菩薩、辰と巳が普賢菩薩。午が勢至菩薩、未と申が大日如来、酉が不動明王、戌と亥が阿弥陀如来という対応だ。その種子を用いる形になる。
札をどこに貼るか
表鬼門は北東、裏鬼門は南西とされる。家の中心、つまり建坪の中心から見て、それぞれ四十五度の範囲が該当する。
鬼門札は、可能であれば家の中心から見た当該方角の最も外側の壁に貼るのが望ましいとされる。屋外に貼れない場合は屋内側でよい。強力な両面テープで留める、という実務的な案内が見られる。
屋内に貼る場合、札の裏面、つまり押印のない面を壁側でなく室内側に向けるとする流儀もある。寺院により指示が異なるため、授与元の案内に従うのが確実だ。
玄関に貼る場合は、扉の内側の目線より高い位置になる。扉に直接貼ると開閉のたびに衝撃が加わるので、脇の壁面に貼る例が多い。
鬼門筋に置かないほうがよいとされるものもあり、水回り、つまり風呂やトイレ。火の設備、ごみ置き場。
建物の欠けや張り出し。
ただ、既存の間取りは変えられない。その場合は「清潔に保つ」ことで対応する、という現実的な案内が一般的になっている。
画鋲で札に穴を開けないこと。テープや専用の札立てを使う。
交換周期は一年ごとが基本だ。多くの寺社が、節分に古札を納め、立春から新しい札を祀るという周期を案内している。節分は二月三日ごろ、立春は二月四日ごろになり、授与日を起点に一年後、とする案内もある。
年末年始にまとめて入れ替える家庭も多い。破損、汚損、落下したときは、期日にかかわらず新しくするのが望ましいとされる。
処分方法は御守りと同じ考え方になる。
授かった寺社の古札納所に納めるのが基本で、神社の札は神社へ、寺院の札は寺院へ。
正月明けのどんど焼き、左義長でお焚き上げしてもらう方法もある。
遠方の場合、白紙に包み、お納め料を同封して郵送での返納を受け付ける寺社もある。魂抜きとお焚き上げを無料で受け付けると案内する寺院もある。
やむを得ず自宅で処分する場合は、感謝を述べ、塩で清め、白紙に包んでから他のごみと分けて出す方法が紹介されている。なお、庭で焼く行為は多くの自治体で野焼きとして規制されているため行わない。
呪詛除け――向けられたものから身を守る
ここで扱うのは、自分に向けられたと感じる悪意や敵意、執着から自らを守り、その影響を断ち切るための伝統的な考え方と作法だけだ。
他者に不幸、病気、死などをもたらす調伏法や呪殺法の手順は記載しない。特定の実在の人物を対象とする祈願の作法も書かない。
伝統教団の側でも、他者を害する目的の修法は本来「衆生救済」の一部として厳格な条件下でのみ論じられてきた。個人が私怨で行うことは、戒律上も教義上も否定されており、そう説明されるのが通例だ。
伝統的な考え方をいくつか見ていこう。
陰陽道には「還呪詛(げんじゅそ)」という発想が古くから伝えられる。他者から向けられた呪詛を、霊符などの力でそのまま送り返すというものだ。ただしこれは高度に専門的な技術とされ、修行を積んだ者のみが扱うものだったと説明される。
密教のアプローチは違う。送り返すのではなく、向けられた悪意そのものを浄化して無害化するという考え方だ。
降三世明王や不動明王など忿怒尊の力は「相手を打ち倒す」ためのものではない。「煩悩と障礙を焼き払う」ためのものだと解説されることが多い。この立場では、そもそも「返す」という発想自体が新たな連鎖を生むため避けるべきとされる。
「人を呪わば穴二つ」という警句もある。呪詛返しを素人が行うと、そのはたらきに自分が巻き込まれ、かえって運気や健康を損なうという戒めだ。
これは民俗的な言い伝えであると同時に、正直きわめて現実的な指摘でもある。「相手を恨み続ける状態」が本人の心身を消耗させるのは、誰でも思い当たるところだろう。
生霊(いきりょう)を返すとされる作法が伝承として語られることもある。ただ扱いは寺院や流派によって大きく異なり、公開の場で手順が詳述されることは少ない。
いま「呪い」と呼ばれているもの
現代の解説の多くは、「呪い」を、日常生活やインターネット上で向けられる嫉妬、恨み、執着といった強い負の感情の総称として説明する。
実務的にいえば、次のような状況が「呪われている」と表現されることが多い。
職場、学校、家庭で継続的に敵意を向けられており、ネット上で執拗な誹謗中傷を受けている。別れた相手や元同僚からの粘着的な連絡が続いている。原因のはっきりしない体調不良と強い不安が同時に続いている。
これらは、まず現実的な対処が先になる。
相談窓口への連絡。記録の保存、通報、環境の変更。
医療機関の受診だ。宗教的な作法は、それらを補う位置に置くのが健全とされる。
この順序を逆にするものには気をつけたい。作法だけで解決しようとする、または解決すると誘導するもの。それが霊感商法の入口になりやすい。
自己防御としての作法
伝統的に行われてきた範囲の作法を並べておく。
ひとつめは不動明王の慈救咒を誦することだ。「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」を、七遍、二十一遍、百八遍と誦する。
観想は「自分の周囲に炎の壁が立ち、悪意が届かない」というもの。ここで肝心なのは、誰か特定の人物を念頭に置かないことだ。特定の相手を思い描いた時点で、それは防御ではなく攻撃の側に転じる。それが伝統的な戒めになっている。
ふたつめは護身法を修すること。先に記した五段で、とくに被甲護身は、まさにこの目的のために置かれた段になる。金剛の甲が身を包み、外からの障礙が届かないと観ずる。
みっつめは光明真言による浄化になり、百八遍。自分に付着した濁りが光に洗われて落ちると観ずる。土砂加持の土砂があれば、住まいの四隅に少量散じる。
よっつめは清め塩による結界で、玄関の内側の両脇、部屋の四隅に、小皿に盛った塩を置く。粗塩を用い、湿ったら取り替える。月に一、二度が目安とされる。
使い終えた塩は食用にせず、流すか、白紙に包んで捨てる。
いつつめは水と香による清め。洒水加持の在家版として、清水を張った器に指を浸し、部屋の四隅に軽く弾いて散じる。線香や塗香を焚いて空間を整える。
むっつめが鏡の作法になり、邪気を跳ね返す象徴として、玄関に八角鏡などを置く習俗が広く行われている。ただし「玄関の正面に置くと入ってきた良い気も跳ね返す」として、正面を避けて側面に置くべきとする説も多い。流儀は一定しない。
ななつめは、不動明王や降三世明王などの札を奉安すること。設えは先に記したとおりだ。
やっつめ、もっとも確実とされるのは寺院での祈祷を受けることになる。専門家に委ねるわけだ。真言宗と天台宗の寺院では「災難除け」「厄除け」「開運」といった名称で受け付けている。
ここでひとつ見分け方があり、正規の寺院は「呪詛返し」という名目を掲げないのが通例だ。逆にその名を前面に出して高額を請求する事業者には注意が要る。
縁切りについても考え方があり、「悪縁を断つ」ことを願う参拝は日本各地で広く行われてきた。
ただ伝統的な言い回しは「悪縁を断ち、良縁を結ぶ」と対になっている。断つのは「縁」であって「人」ではなく、そういう建て付けだ。
願文を書く際も、「悪しき縁が離れ、平穏が戻りますように」といった形が推奨される。特定の人物の不幸を願う文言を書くことは、どの寺社でも作法に反するとされる。
やってはいけないことも明確だ。
特定の人物の名前、写真、身体の一部を用いる作法は、目的が何であれ行わない。
「呪い返し」を名目に、他人を害する行為を計画したり実行したりしない。作法の問題である以前に、脅迫、名誉毀損、器物損壊、ストーカー規制法違反など、現実の法律に触れる可能性がある。
深夜に一人で長時間、恨みや恐怖を抱えたまま念じ続けなく、心身への負担が大きく、状態を悪化させやすい。
「呪いをかけた犯人を特定する」ことに執着しない。多くの場合、特定は不可能であり、疑心が生活を壊してしまう。
安全のための禁忌
身体に関わるものから挙げていく。
過換気、いわゆる過呼吸には繰り返し注意したい。長い読誦、発声、呼吸法は、意図せずこれを招くことがある。手足のしびれ、口周りのぴりぴり感、めまい、動悸、強い不安。こうした症状が出たら、ただちに中止して呼吸を自然に任せ、休む。
紙袋を口に当てる方法は現在は推奨されていない。症状が長引く、または初めての強い症状であれば医療機関を受診する。
断食と水断ちについて。伝統的な行の一部に断食があるのは事実で、それでも、指導者と医療的な管理のない断食は行わない。とくに糖尿病、腎疾患、摂食障害の既往がある人、妊娠中の人、成長期の子どもには危険になる。
不眠と徹夜の勤行も避けたい。睡眠を削って行を積む方法が語られることがあるが、睡眠不足は判断力と情動の安定を著しく損なう。「眠らずに唱え続けたら不思議な体験をした」という記述は珍しくない。ただそれは、断眠による知覚変容として説明できる場合が多い。
正座と長時間の坐については、しびれたまま立ち上がらないこと。膝や腰に持病がある人は椅子坐にする。
火の管理は徹底し、自宅で護摩を焚くことは、原則として行わない。
ろうそくと線香についても手順があり、燃えやすいものを近くに置かない。不燃性の受け皿を使う。その場を離れない。
就寝前に必ず消す。カーテン、障子、仏具の房に注意する。
就寝中の線香は火災の原因のひとつとして繰り返し注意喚起されている。電池式のろうそくや電気式の香炉を用いるのも合理的な選択だ。
集合住宅では、香の煙が近隣の迷惑になることがあり、換気に配慮したい。
人に関わる注意もある。
未成年は、保護者の理解のない実践を避ける。とくに長時間の瞑想、断食、深夜の行、金銭を伴う祈祷への申込は行わない。学校と家庭の生活を犠牲にしない。
精神的に不安定な時期にある人にも注意が要る。強い不安、抑うつ、不眠が続いており、幻覚や妄想の症状がある。自傷や希死念慮がある。
こうした状態では、長時間の瞑想や単独での観法が症状を悪化させることがあると指摘されている。
まず医療につながることが優先され、宗教的実践はそれを補うものであって、代替ではない。
服薬中の人は、自己判断で薬を減らしたり中止したりしない。「祈祷を受けたから薬をやめてよい」と告げるものがあれば、それは危険な誘導だ。
家族や同居人への配慮も要る。香、読誦の音、祭壇の設置は、同居人の生活に影響し、合意を取っておきたい。
お金の話は、はっきりさせておく
正規の寺院における祈祷料、初穂料、御布施は、多くの場合、数千円から数万円の範囲で目安が示されている。祈祷の種類や規模で幅はある。
疑うべきものもはっきりしており、金額を明示せず「気持ちで」と言いながら少額を拒む。払わなければ災いが起きると告げる。こうしたものは正規の作法とは異なる。
「先祖の因縁」「家系の障り」といった不安を煽り、高額な壺、印鑑、数珠、法具、祈祷を次々に勧める手口もある。霊感商法、開運商法として繰り返し注意喚起されてきたものだ。近年は、開運グッズや占いサイトを入口に請求額が高額化する傾向が指摘されている。
法律も整備されている。
不当寄附勧誘防止法、正式には法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律が、令和四年十二月に成立する。令和五年から順次施行されている。
この法律は、寄附の勧誘に際して次のような行為を禁じており、不退去や退去妨害。勧誘場所からの退去困難化。威迫する言動を交えること。
霊感等による知見を用いた告知により不安を煽ること。
そして、これらによって困惑して行った寄附については取り消すことができると定めている。借入れや、自宅や生活に必要な財産の処分を要求して資金を調達させる行為も禁止された。
消費者契約法にも、いわゆる霊感商法による契約の取消権が定められている。
困ったときの相談先も覚えておきたい。消費者ホットライン「188(いやや)」だ。局番なしで188に電話すると、最寄りの消費生活センターなどにつながる。
このほか、消費者庁が法人等による不当な寄附勧誘に関する情報提供の窓口を設けている。法テラス、各都道府県の消費生活センター、警察相談専用電話「#9110」なども窓口になる。
家族や本人が高額の支出をしてしまった場合は、契約書、領収書、勧誘時のやり取りの記録を保存しておく。後の相談で役立つ。
そして、ここに記した実践はいずれも、医療、法律、投資、進路などの判断を代替するものではない。
病気の治療は医療機関で受ける。祈祷や真言は治療の代わりにならない。「病気平癒」の祈願は、治療を受けたうえで心を支えるものと位置づけられる。
法律問題は弁護士、法テラス、行政の相談窓口へ。投資や資産運用の判断を暦や占いや祈祷で決めなく、「この日に買えば必ず上がる」といった助言に従わない。進学、就職、結婚の可否を方位や宿で断定的に決めない。
五つの匿名の記録から
以下は、公開されている複数の記録と投稿に見られる典型的なパターンを、実在の特定個人が識別できない形に再構成したものだ。特定の寺院、団体、人物を示すものではない。
ひとつめ。四十代の会社員が、護身法を日課にした例になる。
厄年をきっかけに近所の真言宗寺院の勤行に通い始めた。僧侶から「印は結ばなくていいので、真言だけ順に唱えてみなさい」と言われ、朝の五分間だけ護身法の五つの真言を唱えるようになった。
半年ほど続けて、本人が挙げる変化はふたつで、朝の五分が固定されたことで起床時刻が安定したのだ。唱え終えるまで携帯電話を見なくなった。
「霊的な体験は何もない」と本人は明言している。そのうえで「効いたかどうかはわからないが、生活の順番が変わったのは確か」と述べている。
ふたつめ。三十代の自営業者が、阿字観の道場に通った例だ。
不眠に悩み、寺院の阿字観会に月一回参加した。初回は足のしびれで何も観じられなかった。二回目に阿息観で「あー」と声を出したところ、思いがけず涙が出たという。
指導した僧侶は「よくあることです、続けなさい」とだけ言ったと記録されている。
半年後、自宅でも十分程度の月輪観を行うようになり、寝つきが改善したと感じている。ただし本人は「瞑想のおかげなのか、通うために生活リズムを整えたおかげなのか、区別はつかない」と書き添えている。
みっつめ。五十代で介護中の家族が、土砂加持を受けた例になる。
親の看取りにあたり、菩提寺の土砂加持法要に参列して加持土砂を頂いた。納骨の際に墓所へ少量散じ、残りは仏壇に供えている。
本人は「亡くなった人に対して自分にできることがまだ残っている、と思えたことが大きかった」と述べる。効果を問われては、こう答えており、「何かが変わったとは言えない。ただ、あのとき何もしなかったら、もっと後悔していたと思う」
儀礼が果たす役割を、端的に示す証言だ。
よっつめ。二十代の学生が、写経を続けた例になる。
試験勉強の合間に写経を始めた。一行十七字の罫紙に、一日一行だけと決めて書く。願文には「学業成就」と書いた。
三か月続けて、本人が挙げる効果は「集中の切り替えが早くなった」。一方で正直な記述もあり、途中で何度も面倒になり、二週間空いたこともある。上手く書こうとして疲れた時期があり、それをやめたら楽になった。
書き損じを消さずに進める作法については、「間違いを許す練習になった」という感想を残している。
いつつめ。四十代の会社員が「合わなかった」例だ。
人間関係の悩みから、知人に勧められて厄除けの祈祷を受けた。その後、自宅に札を祀り、毎晩三十分ほど真言を唱える生活を三か月続けた。
しかし状況は変わらなかったのだ。次第に「回数が足りないのではないか」「唱え方が間違っているのではないか」と考えるようになる。就寝時刻が遅くなって体調を崩した。
最終的に、産業医の勧めで部署異動の相談を行った。環境が変わったことで悩みは軽減している。
本人はこう振り返っている。「祈っている間、自分は問題に取り組んでいるつもりでいたが、実際には先延ばしにしていた」。そして「宗教が悪いのではなく、自分の使い方が間違っていた」と結論づけた。
実践が現実的な対処を代替してしまう危うさを示す事例として、これは覚えておきたい。
疑ってみる――何が起きているのか
伝統を記録する以上、それを疑う視点も併記しておこう。
まず読誦のリズムと呼吸生理だ。
真言と陀羅尼の読誦は、必然的に「長く吐いて短く吸う」呼吸を強制する。呼吸生理の研究では、毎分六回前後のゆっくりした呼吸が心拍変動を大きくすることが知られている。圧受容器反射との共鳴を通じて、副交感神経の働きを高めるという仕組みだ。
心拍変動バイオフィードバックと呼ばれる技法は、まさにこの共鳴周波数の呼吸を意図的に行うものになる。読誦、詠唱、念仏、題目といった実践は、洋の東西を問わず、結果的にこの範囲の呼吸を生み出す構造を持っている。
つまり「唱えていると落ち着く」という体感には、超自然的な説明を持ち出すまでもない生理学的な下地がある。
加えて、発声そのものが呼気の制御を要し、長母音の共鳴は胸腔と頭蓋に振動を与える。集団読誦では、太鼓や鈴の一定リズムに同調することで、注意の対象が単純化される。これは瞑想研究でいう「一点集中型」の条件に近い。
次にプラセボ効果と儀礼の構造について。
祈祷や加持を受けたあとに症状が軽くなったという報告は多い。プラセボ効果は、痛み、不安、倦怠感といった主観的な症状に対してとくに強く現れることが知られている。
そして儀礼は、その条件をほぼ完璧に揃えており、権威ある施術者。非日常的な空間。明確な始まりと終わり。
宝剣加持のような身体接触。費用の支払い。そして「これで良くなる」という明示的な期待。
先に紹介した「祈祷後に肩こりが軽くなった」という体験も、この枠組みで無理なく説明できる。
ただしプラセボ効果は「気のせい」ではなく、実際に測定される反応だ。だからこそ「効いた」という体験そのものを否定する必要はない。それでも、それを根拠に治療を中断してよいことにはならない。
三つめが確証バイアスになる。
真言を唱え始めたあと、良いことが起きれば「効いた」と記憶される。悪いことが起きれば「信心が足りない」「もっと唱えるべき」と解釈される。どちらに転んでも実践は補強される構造だ。
先の五つめの記録が示すのは、この構造が悪い方向に働いた場合になる。「回数が足りない」という説明は、あらゆる不成功を吸収してしまうため、反証が不可能になる。
四つめは平均への回帰だ。
人が祈願に踏み切るのは、たいてい状態が最も悪いときになる。体調不良、対人関係の破綻、経済的な行き詰まり。極端な値は放っておいても平均へ戻る傾向がある。
「底で祈った、その後よくなった」という時系列は、統計的にきわめて生じやすい。護摩に通っても願いは叶わなかったという懐疑的な証言が一定数存在することも、この非対称性を裏づけている。
それでも残るもの
以上を差し引いても、これらの実践には無視できない実務的機能が残る。
時間の構造化がひとつ。毎朝五分、毎月一日という固定点が、生活のリズムを作る。
注意の切り替えがふたつめ。唱えているあいだ、反芻思考から強制的に離れ、反芻思考とは、同じ悩みを繰り返し考えることだ。
儀礼による区切りが三つめになり、喪失や不安に対して「何かをした」という感覚を与える。人類学が繰り返し指摘してきた儀礼の機能で、三つめの記録がその典型になる。
共同体への接続が四つめ。法要、護摩、写経会は、孤立を緩和する社会的接点でもある。
そして五つめ、言語化されない感情の器という機能がある。悲しみや恐れを、言葉で説明せずに置いておける場所を提供する。
つまり、超自然的な効力を措定しなくとも、これらの実践が人の役に立ちうる理由はいくつも見つかる。
逆にいえば「効くから正しい」でも「非科学的だから無価値」でもない。その中間の立場が、記録者としてはもっとも誠実だろう。
危険なのは、実践が現実的な対処の代替になったとき。そして金銭的な搾取の道具になったときで、そこにだけは明確な線を引く必要がある。
目的別の早見――本尊と真言
最後に、目的から逆引きできる形で整理しておく。
総合的な加護と浄化には大日如来。種子はバン、真言は「オン アビラウンケン バザラ ダトバン」で、七回、二十一回、百八回が目安になる。
罪障の浄化と除災も大日如来で、こちらは光明真言を用いる。種子はバン、「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」を百八回。
厄除け、魔除け、障礙の打破は不動明王になる。種子はカーン、慈救咒「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」を二十一回か百八回。
健康と病気平癒は薬師如来、種子はバイ、「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」を七回、二十一回、四十九回。
学業と智慧は文殊菩薩で、種子はマン、「オン アラハシャノウ」を七回か二十一回だ。
慈悲と苦難からの救いは聖観音になり、種子はサ、「オン アロリキャ ソワカ」を七回、二十一回、百八回。
除病と除障は十一面観音、種子はキャ、「オン マカ キャロニキャ ソワカ」を二十一回。
諸願と安心は千手観音で、種子はキリーク、「オン バザラ タラマ キリク」を二十一回か百八回だ。
延命と滅罪は尊勝仏頂になり、種子はボロン、先に全文を挙げた仏頂尊勝陀羅尼を一回、三回、七回。
天変地異と災難除けは熾盛光仏頂。こちらは消災呪を三回、七回、二十一回と誦する。
大いなる慈悲と苦の抜済は千手観音で、種子はキリーク、大悲心陀羅尼を一回か三回。
子どもと旅の安全は地蔵菩薩になり、種子はカ、「オン カカカビ サンマエイ ソワカ」を七回か二十一回。
記憶と福徳は虚空蔵菩薩だ。種子はタラーク、「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ」を七回か二十一回。
一日をどう組み立てるか
無理のない標準例を、時間帯ごとに並べておこう。
起床直後に一分。手を洗い口をすすぎ、仏壇や札の前で水を替える。「清める」の基本になる。
朝、日の出のあとに三分から五分。合掌一礼し、護身法の真言を五段それぞれ三遍、続けて本尊の真言を七遍か二十一遍。印は結ばず合掌のみでも構わない。
余裕がある日は十分ほど追加し、般若心経を一巻、または月輪観。週末だけでもいい。
昼の休憩時に三十秒。本尊の真言を心の中で七遍。声に出さなくていい。
夕方、暮れ六つ前後に三分。光明真言を二十一遍。一日の濁りを落とすという位置づけだ。
夜、就寝前に五分から十五分。阿息観または月輪観、そして収功として斂観と三力偈。過換気には注意し、眠ければ行わない。
就寝前にもう三十秒。火の元の確認で、ろうそくと線香を必ず消す。これに例外はない。
毎月同じ日には月参りを。菩提寺や有縁の寺社へ足を運ぶ。護摩の定例日に合わせる例もある。
節分と立春には古札を納め、新しい札を奉安し、交換周期の基準になる。
春秋の彼岸と盆には、写経の納経や土砂加持法要への参列を。年中行事として組み込む形だ。
日課は「短くても毎日」が、伝統的にも実務的にも推奨され、続かないときは回数を減らしてでも形を残す。それが多くの寺院の助言になっている。
鎮宅安全の守り札を、自分で書くなら
鎮宅の設えに対応する守り札の図案例も記録されている。特定の宗派や寺院で授与されている正式な御札の意匠を模写したものではない。
和紙、注連縄、日輪、月輪、蓮華、麻の葉文様、五色。日本の護符に共通して見られる要素を組み合わせた学習用の一例という位置づけだ。中央の墨書きも実在の種子字ではなく、抽象化した意匠として描かれている。
書き方はこうで、奉書紙または半紙を縦長に裁つ。墨で外枠、中央の意匠、そして「鎮宅安全」を書く。朱で「祓 清 守」と内罫を入れる。
書く前に手と口をすすぎ、机上を拭き清める。書いている間は雑談をしないのが通例とされ、書き損じは丸めて捨てず、処分方法に従う。
貼付位置も決まっており、玄関の内側の鴨居上、つまり目線より高い位置。または家の中心から見て鬼門、北東にあたる壁の高い位置になり、札の面が室内を向くように貼る。
画鋲で札面を貫かないこと。両面テープ、または札を挟む木製の札差しを用いるのが望ましいとされる。台所、洗面所、トイレなど水回りと、火気の直上は避ける。
交換周期は一年が目安になり、正月または授与を受けた月を起点にする。汚れ、破れ、日焼けが生じた場合は期間内でも新しくする。
処分は古い札と同じだ。白紙に包み、授かった寺院の古札納所へ納めるか、どんど焼きや左義長でお焚き上げする。
自作の札でやむを得ず自宅で処分する場合は、感謝を述べたのち粗塩をひとつまみ添える。白紙に包んでから、他のごみと分けて出す。神社で授かったものは神社へ、寺院で授かったものは寺院へ。この基本作法は変わらない。
この図案は自己防御、浄化、厄除け、鎮宅を目的とした意匠になる。他者に危害を加える目的の呪符や鬼字の類は一切含まない。実際に寺院で御札を求める場合は、その寺院の作法と授与品の扱いに関する案内に従ってほしい。
最後に、もう一度だけ
ここに記したのは、真言宗と天台宗を中心とする密教の、護身、浄化、厄除け、鎮宅、そして自己防御としての呪詛除けに関する伝統的な実践だ。他者に危害を及ぼす調伏や呪殺の類は一切扱っていない。
掲載した真言、陀羅尼、作法は、すでに公刊され公開されている情報に基づく一般的な紹介になる。印契と観想の細部は伝授を要するとされる。実践にあたっては、菩提寺や信頼できる寺院、僧侶の指導を仰いでほしい。
そしてどの記述も、医療、法律、投資、進路などの専門的判断を代替するものではない。不安を煽って高額の金銭を求める勧誘に接した場合は、消費者ホットライン「188」などの公的相談窓口を利用してほしい。
実在の寺社、団体、人物に関する記述は、公開情報に基づく「とされる」範囲の記録にとどまる。そこは差し引いて読んでほしい。
炎と太鼓の記憶は残る。それが何だったのかは、たぶん一生わからず、わからないまま手を合わせる。密教のまじないというのは、そういう場所に立っている実践なのだと思う。
