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オシラサマの遊ばせ方、命日に布を重ねて白粉を塗り、祭文で背中を払うまで

桑の棒に布をかぶせた一対の神

オシラサマは、桑の木の棒に顔を彫るか描くかして、布を何枚もかぶせた神さまだ。長さはおよそ一尺、三十センチほど。男女、あるいは馬と娘の二体で一対になっていて、家の神、蚕の神、目の神として東北の家々で祀られてきた。岩手県立博物館は、頭まですっぽり布をかぶる包頭衣型と、頭を出す貫頭衣型の二つに分けて紹介していた。

由来は短く済ませておく。『遠野物語』第六十九話では、娘と夫婦になった馬を父が桑の木に吊って殺し、首を切り落とすと、娘はその首に乗って天へ昇った。そのとき馬を吊った桑の枝で像を作ったのがオシラサマの始まりだという。中国の『捜神記』にある蚕の由来話とよく似ていて、桑と蚕と馬が一本の筋でつながっている。

この神を祀ることを、土地の人は遊ばせると呼んだ。拝むより遊ばせる。箱から出して布を着せ、顔に化粧をし、手に取って振る。行事の名もオシラアソバセ、オシラ遊び、オシラホロキと土地ごとに違っていた。

命日を一月、三月、九月の十六日から選ぶ

オシラサマの祭日は命日と呼ぶ。岩手県立博物館の解説では、一月十六日、三月十六日、九月十六日のいずれかを祭日にする家が多かった。一日だけの家もあれば、年に二回、三回と重ねる家もある。遠野では旧暦で数える家が多かったので、新暦に直すと年ごとに日がずれる。

『遠野物語』第十四話は、正月十五日に小字中の人がその家に集まって祀ると書いていた。十五日か十六日か。どちらも小正月のうちだ。文化庁の解説も、小正月前後に女性たちが祀る習俗としてまとめている。

家によっては別の日を立てた。岩手県立博物館の資料では、田野畑村沼袋の旧家が先代の月忌にあたる旧暦十月十五日を拝み日にしていた。この家はオシラサマを先祖供養のカバカワ、別名まいりのほとけとして祀ってきたという。宮城の唐桑の一対は、年に二回服を新しくしていたという。青森の南部では、イタコが旧暦の十一月ごろから家々を回りはじめる土地もあった。

日取りは、家で代々守ってきた日にまず合わせる。決まりが分からなくなった家は、本家や親類の年長の女性に聞く。何月の何日に誰が集まり、何を供えていたか。それでも分からなければ、小正月の十六日に合わせておく家が多い、というところから考えればいい。

旧暦の一月十六日は、旧正月から数えて十六日目にあたる。旧正月は新暦の一月下旬から二月中旬のあいだを動くので、命日は二月の上旬から三月の上旬のどこかに落ちる。

令和八年なら三月四日。令和九年は旧正月が二月六日なので、命日は二月二十一日になる。旧暦を載せた暦で、その年の日を先に拾っておくと慌てずにすむ。伝承園の祈願祭は新暦の二月十六日に立ててあって、新暦の十六日で祀る所もあるわけだ。どちらで数えるかも、家の決まりのうち。

オセンダクの布を二体分そろえる

命日に着せる新しい布をオセンダクと呼ぶ。オセンタク、オセズと呼ぶ土地もあった。数は一体に一枚、一対なら二枚。遠野市立博物館も岩手県の文化情報大事典も、祭日にはオセンダクと呼ぶ新しい布を一枚、神体に着せ足すと説明していた。

裁ち方は神体の型で決まる。『遠野物語』第十四話の作りは、四角な布の真ん中に穴をあけ、上から通して衣裳にするものだった。これが貫頭衣型で、穴は棒の頭がちょうど抜ける大きさにしておく。包頭衣型なら穴はあけず、頭ごとくるめる四角に裁つだけで足りる。

布地や色の決まりを書いた公的な資料は、今回見つけられなかった。八戸のイタコの話では、江戸や明治の布をまとったオシラサマがいまも祀られているそうだ。文化庁の紹介では、津軽の久渡寺へ連れてこられるオシラサマはきらびやかな衣装を着せて祭壇に飾られていた。色柄は、その家が代々重ねてきた布に合わせるのが確かだ。

白粉と神饌を用意して座敷を空ける

布のほかに要るのは白粉と神饌だ。白粉は顔に塗る化粧用のもの。『遠野物語』第十四話にも、祭りの式として神像の顔に白粉を塗ることがあると出てくる。塗る家と塗らない家があるので、これも家の決まりに従う。

神饌の品目を細かく決めた記録は、確かめられなかった。田野畑村の旧家では拝み日の夜に親類縁者六十人ほどが集まり、精進料理でともに飲食していたと岩手県立博物館の解説にある。肉を嫌う神なので、供え物にも集まりの料理にも獣や鳥の肉と卵を入れない。この禁忌は後の節でまとめて書く。

座敷は、神体を置く台と、人が輪になって座れる広さがあれば足りる。飾り立てる必要はない。祀るのはたいてい本家で、分家や親類、近所の女の人たちがそこへ集まった。河北新報は、遠野のオシラサマの祭りを男子禁制の習わしとして伝えていた。

神棚から下ろして女たちの前に据える

命日の朝、神棚や床の間に納めてある箱からオシラサマを出す。久しぶりの対面。民俗の記録にある流れは、神棚などから出して神饌を供え、新しい衣を重ね着させる順だった。出したら二体を並べて台に据える。

仕切るのは家の女性だ。本家の老婆が養蚕の由来を語るおしら祭文を唱え、少女が神体を背負って遊ばせたと記録にある。同じ家筋の女性たちが集まって祀る形がもとだった、と見る研究者もいた。イタコを呼ばない家は、ここから先を全部家の者だけで進める。

神饌を供えてから白粉を塗る

据えたら、最初に神饌を供える。着替えと化粧はその後だ。民俗の記録にある命日の流れも、神饌が先で衣が後の順になっていた。

白粉を塗る手つきの細部まで書いた記録は、見当たらなかった。確かめられたのは、顔に白粉を塗るという一点だけ。文化庁も小正月の習俗として、女性たちがその顔に白粉を塗ると明記していた。遠野物語の第十四話が描く神像も、布の穴から頭を出す作りだった。

古い布をはがさず上から一枚着せ足す

新しい布は、いま着ている布の上から重ねる。古い布ははがさない。岩手県立博物館の解説どおり、年を経るごとにオシラサマの胴は丸くふくらんでいく。貫頭衣型なら布の穴に棒の頭を通し、包頭衣型なら頭からすっぽりかぶせる。

一年に一枚なら、五十年で五十枚。着ぶくれた姿。いちばん内側の布は、何代も前の人が着せたものになる。布はそのまま一家の年代記だ。

重ねずに取り替える土地もあった。唐桑の一対は年に二回、オセンタクと称して着せている服を新しいものと交換していたと、東北歴史博物館の解説にある。重ねるか替えるかは土地と家の作法で、よその流儀を持ち込まないほうがいい。

替えて外した布をどう始末したかは、はっきりした記録を見つけられなかった。手がかりは一つだけ。陸前高田市立博物館の特別展には、オセンダクの布で作ったサルッコ、猿をかたどった小さな縫い物が五点並んでいた。外した布を捨てずに別の形へ縫い直す使い道も、あったのかもしれない。

少女が背負って家の中を遊ばせる

着替えが済むと、子どもの出番になる。少女がオシラサマを背負い、家の中を歩き回って遊ばせる。ただの余興に見えて、これも祀り方の一部だ。

祭文の書き出しにも、手に取ったからこそ手になじんで遊んだ神、という言葉が出てくる。しまい込むより手に取ってにぎやかにするほうを喜ぶ神、と祀る人たちは受け止めてきた。背負う役を少女に割り振るのも記録のとおりだ。

イタコを頼むなら小正月より前に声をかける

イタコを呼ぶ家では、早めに頼んでおく。南部のイタコは冬のあいだ呼ばれるままに家々を回ったので、命日が近づいてから声をかけたのでは間に合わなかった。八戸の事例でも、小正月の一月十五日あたりか、旧暦で十一月ごろから始める土地があると伝えていた。

いまは遊ばせを引き受ける巫女がごく少ない。正直、頼み先探しがいちばんの難所。ジェイビープレスの連載記事は、現役でいちばん若いイタコが年に五件ほどの依頼を受けているだけだと書いていた。祀る家の側も、どこへ何を頼めばいいか分からなくなっているらしい。

頼むときは、命日の日付と神体の数、家で重ねてきたオセンダクの作法、白粉を塗るかどうかを先に伝えておくと話が早い。礼金の額は、公的な資料では確かめられなかった。イタコが見つからない年は、家の女性だけで布を着せて祀るか、後で書く久渡寺の講へ連れていくかを選ぶことになる。

弓を打ち鳴らして村の神から寄せる

座敷に通されたイタコは、オシラサマの前に座って神寄せから入る。いきなり祭文には入らない。弓の弦を打ち鳴らし、イラタカ数珠を擦りながら、神々を呼ぶ文句を唱えていく。

イラタカ数珠は、黒いムクロジの実を長くつないだ数珠に、獣の角や牙などを下げたものだ。擦ると硬い音が鳴る。津軽では、梓弓の弦を細い竹の棒で叩いて音を出す使い方があったという。道具はイタコが持ってくるので、家の側で用意する物はない。

青森県三戸郡南郷村、いまの八戸市に林ませというイタコがいた。この人が弟子に伝えた文句を、青森県立郷土館が平成二十五年の研究紀要第三十七号で翻刻している。神寄せの書き出しは「一の弓 まず打ちならしのはじめよぶ」。読みは、いちのゆみ、まずうちならしのはじめよぶ。弓の一打ち目で呼び始める、という意味になる。

この一打ち目に続けて、まずその村の神々から招く文句が入る。二の弓、三の弓と打つごとに、呼ぶ範囲が広がっていく作りだった。村の神、土地の神、遠くの神という順で寄せ終えてから、ようやくオシラサマの番が来る。

両手に一体ずつ持ってオシラ祭文を語る

神を寄せ終えたら、イタコは左右の手に一体ずつオシラサマを持つ。右と左に一体。祭文を唱えながら、それを振って踊らせる。この振る所作が、遊ばせるということの中身だ。手に持ったまま上下左右に振る、と書く記録もある。

祭文の書き出しは「オシラほうろぎ 手に取ればこそ手になづーて遊だ神かな」。読みは、おしらほうろぎ、てにとればこそてになずうてあそんだかみかな。手に取ったからこそ手になじんで遊んでくれた神さまだ、というくらいの意味になる。

続く一句は「そもしもしらわの御本地 くわしく読み上げたのみたてまつる」。読みは、そもそもしらわのごほんじ、くわしくよみあげたのみたてまつる。オシラの神の本当の由来を詳しく読み上げますので、どうかお聞きください、という前置きだ。

ここから長者の姫と馬の話が、節をつけて延々と続いていった。長い語り。死んだ人を降ろす口寄せとは、ここが違う。遊ばせで呼ぶのは神で、仏を呼ぶ場ではなかった。

神体で背中を払い、頭と腰の痛みを除く

祭文の途中には、オシラサマで人の背中を払う段がある。文句は「オシラサマで背中をはらうとき 頭の痛みなく 肩の痛みなく 腰の痛みなく」。読みは、おしらさまでせなかをはらうとき、あたまのいたみなく、かたのいたみなく、こしのいたみなく。頭も肩も腰も痛まずにすむように、という願いそのままの言葉だ。

続けて「十六善のオシラ神をもって 三百六十五日のケガレをはらいたまい 清めたまい」と唱える。読みは、じゅうろくぜんのおしらがみをもって、さんびゃくろくじゅうごにちのけがれをはらいたまい、きよめたまい。十六日の命日に来るオシラの神の力で、一年分の穢れを払い清めてください、という意味になる。

払い方には土地の差がある。

文化庁の紹介する久渡寺の講では、オシラ様で肩や背中を叩くと痛いところが治るそうだ、と伝えていた。田野畑村の旧家では、オシラサマを腰や頭などに当てがって痛みの平癒を祈った。叩くか、なでるか、当てるか。その家とイタコのやり方に任せればいい。寺の講に出れば、護摩にかざした大幣で参拝者もまとめて祓われるので、払いの所作はそこで受けられることになる。

祭文のあとで一年の吉凶を聞く

祭文が終わると占いに移る。イタコはオシラサマを手にしたまま、その年の家の吉凶を告げた。八戸のイタコの話でも、遊ばせのあとに家族親族一同の占いごとをしていくと語られていた。

占いの中身は作柄や病、火の用心といった一年の注意ごとだ。文化庁の紹介では、久渡寺でも昭和三十年ごろまで、イタコが祭文を唱えて今年一年の豊作や災害を占っていた。集まった人が一人ずつ前へ出て、自分の一年を見てもらう形もある。久渡寺の大祭でも、死んだ人を降ろす口寄せはオシラサマの祈祷とは分けて、本堂前に建てたイタコの小屋で別に受けていた。座を分ける作法。

告げられたことは、その年の暮らしの目安として聞いておく。当たる外れるを確かめる場というより、家族が一年の心構えを分け合う場だった。気になることを言われたら、次の命日にまた聞けばいい。

布を着せたまま箱へ戻し、供え物を下ろす

占いまで済んだら、オシラサマを元へ戻す。これで座は閉じる。新しい布を着せたまま箱に納め、神棚や床の間へ上げる。次の命日まで、むやみに取り出さない。

供えた神饌は下ろして、集まった人たちでいただく。田野畑村の旧家が拝み日の夜に六十人ほどで精進料理を囲んだのも、この直会の形だ。料理に肉や卵を入れないのは、供え物と同じ決まりになる。献立は精進料理の考え方で組めば迷わない。

イタコには礼を渡して、次の家へ送り出した。白粉の残りや布の裁ちくずの扱いを決めた記録は、見つけられなかった。分からないものは、家の年長の人のやり方に合わせておけばいい。

イタコを呼ばない年は家の女たちだけで回す

イタコを呼べない年でも、命日の祀りそのものは家でできる。本家の老婆が自分でおしら祭文を唱えた、という記録のとおりだ。巫女がいなければ始まらない行事じゃない。

朝のうちに箱から二体を出し、台に並べて神饌を供える。白粉を塗る家は顔に塗り、新しい布を一枚ずつ上から着せ足す。着替えが済んだら少女が背負って家の中を回り、祭文を覚えている年長の女性がいれば唱えてもらう。

祭文を知る人がいない家は、文句を自分で作らない。うろ覚えの祭文をつぎはぎして唱えることもしない。田野畑村の旧家のように、オシラサマを腰や頭に当てがって痛みのないよう願うだけでも、記録に残る所作の一つになる。済んだら箱へ戻し、神饌を下ろしてみんなでいただく。

イタコが当日になって来られなくなった時も、流れは同じ。布を着せる所までは家の者だけで済ませられる。祭文と占いは、イタコに頼める次の機会に回せばいい。

命日の座で避けること

命日の座でしてはいけないことも、記録から拾っておく。供え物と直会の料理に肉と卵を入れない。重ねる家では、古い布をはがさない。替える土地の作法と重ねる土地の作法を、一つの家の中で混ぜない。

遊ばせは神を呼ぶ場で、死んだ人を降ろす口寄せとは座が違う。久渡寺の大祭でも、口寄せはオシラサマの祈祷とは座を分けて受けていた。子どもが神体を背負って回るのを、うるさいと止めるのも避けたい。遊ばせるための日なのだから。

祀る家が一年じゅう守る肉と卵の禁

オシラサマの禁忌でいちばん知られているのが食べ物だ。肉と卵。二足、四足の生き物の肉を嫌い、卵も嫌う。二足は鶏などの鳥、四足は獣。これを供えてしまうと大病を患うとか、祟りで顔が曲がるとか言われてきた。

陸前高田市立博物館は、オシラサマを持つ家に共通する禁忌の第一に「四足二足食の禁」を挙げていた。『遠野物語拾遺』第八十二話には、この神のある家の馬喰の男が出てくる。鹿の肉をうんと食ったが少しも口は曲がらなかった、と威張って語っていたそうだ。口が曲がる、という言い伝えがそれだけ広く知られていたわけだ。

どこまで守るかは家ごとに違う。供え物にだけ入れない家もあれば、家族がふだんから口にしない家もあった。祀る家へ嫁いだり、祀る役を継いだりした人は、その家の決まりを年長の人に確かめておく。

もう一つ重いのが、一度祀ったら止められないという掟だ。拝むのをやめたり、祀り方が粗末だったりすると、家族に祟りがあると言われた。国際日本文化研究センターの伝承データベースには、目を患う、口が曲がる、腹を病むといった咎めの例が集められていた。

久渡寺の大白羅講へオシラサマを連れていく

家の座敷で遊ばせられない年は、寺へ連れていく道もある。弘前市坂元の久渡寺では、毎年五月十五日と十六日にオシラ講の大祭を開く。以前は旧暦の四月だった。津軽だけでなく秋田県北部からも、家や村のオシラサマを持った人が集まってくる。

寺の講は大白羅講とも呼ばれる。当日は早朝から、オシラサマを行李などに入れて寺へ運ぶ。本堂で重ね着させるので、新しいオセンダクも一対分忘れずに持っていく。

寺に着いたら、本堂で衣装を重ね着させ、受付の印を押してもらい、壇に並べる。オセンダクに御朱印を押すことを位を上げると呼び、毎年参ると位が上がるという言い伝えもあった。印は重ねた布の上に押してもらうので、その年の布は着せてから受付へ出すことになる。朱の印が年ごとに増えていく布。

昼食の後、護摩が焚かれる。護摩にかざした大幣で、オシラサマと参拝者がまとめて祓われた。かつては境内のイタコが、津軽三十三観音の御詠歌とオシラ祭文を唱えていた。弘前市の解説では、いまはイタコが来ることはないという。

お祓いが済むと、参拝者は自分のオシラサマを受け取って帰る。持ち帰ったら箱に納めて、いつもの神棚へ戻す。祈祷料の額は公的な案内で確かめられなかったので、行く前に寺へ問い合わせておくと安心だ。

青森県の文化財のページは、この講の問い合わせ先として弘前市教育委員会の文化財の担当を挙げていた。寺の行事そのものは寺へ、習俗としての記録は市へ、と聞き分けると話が通りやすい。弘前市の観光案内では、ふだんの参拝は九時から十六時半となっていた。大祭の日は早朝から人が集まるので、朝のうちに着くつもりで家を出る。山寺の朝。

伝承園のオシラ堂で布を一枚着せる

家にオシラサマがなくても、布を着せる作法には加われる。遠野に行けばいい。遠野市土淵町の伝承園には御蚕神堂、通称オシラ堂があり、およそ千体のオシラサマが壁一面に並んでいた。園の案内は、願い事を布に書いてオシラサマに着せてお祈りすると、願い事が叶うと紹介している。

布は園で一枚百円で求められると紹介する記事があった。願い事を書いたら一体を選んで着せ、手を合わせる。ほかの人が着せた布は動かさずにおく。入園料は一般四百五十円、高校生以下三百五十円、未就学の子は無料。

開園は三月から十一月が九時から十七時、十二月から二月が九時から十六時で、入園の受付はどちらも閉園の三十分前までになる。冬の夕方は早い。令和八年は二月十六日の十一時から約二十分、オシラサマ祈願祭の御祈願が行われ、語り部の話も添えられていた。家の命日の祀りとは別の、誰でも加われる略式の場だ。

祀りきれなくなった時の預け先

止められない神だから、手放すときこそ慎重にしたい。継ぐ人がいない、家を離れる、そんな事情が出たら、最初に本家や親類へ相談する。引き取り手が決まるまでは、いつもの神棚でいつもどおり祀り続けておく。分家や親類の中に引き受けてくれる女性がいるなら、祀り手を移す相談もそこで済ませて、命日と布の重ね方まで一緒に引き継いでもらう。

家筋で引き取れないときは、寺や博物館に預けた例がある。捨てない、が前提。久渡寺には、祀り手がいなくなった無縁のオシラサマが観音堂の裏手の土蔵に安置されている、と紹介するサイトもあった。宮城の唐桑の一対は東北歴史博物館に、田野畑村沼袋の一対は岩手県立博物館に収められている。

陸前高田市立博物館は令和七年の冬、三十七世帯に伝わるオシラサマ百十一体を集めて、特別展で一度に並べてみせた。祀る家と博物館がつながっている土地もあるわけだ。自分で焼いたり捨てたりしてよいとする記録は、見つけられなかった。預ける前に寺や地元の博物館、教育委員会へ問い合わせ、受け入れの可否と段取りを聞いておく。

預けるときは、どの家で、いつから、どの日を命日にして、布を重ねてきたか替えてきたかを紙に書いて添える。陸前高田市立博物館は、津波で傷んだ一体が札を失い、どの家のものか分からなくなったと伝えていた。札一枚の重み。家の名と祀り方が分かれば、預かった側も次の祀り方を決めやすい。

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