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サティヤ・サイババ、灰を出した生き神の七十年に起きたこと全部

南インドの、地図に載っているかどうかも怪しいような寒村。そこで生まれた十四歳の少年が、ある日いきなり「オレは死んだ聖者の生まれ変わりだ」と言い出した。普通なら家族が青ざめて医者に連れていって終わる話だ。ところがこの少年は、そこから七十年かけて世界数百万人を動かす「生き神」になってしまった。手のひらから灰を出し、空中から指輪を取り出す。

無料の巨大病院を建て、干上がった大地に水を引き、そして同時に、猛烈な数の疑惑と告発に取り囲まれた。サティヤ・サイババ。日本でも一時期、テレビをつければ顔が映っていたあの人だ。順を追って全部書く。

寒村の少年が「オレはあいつの生まれ変わりだ」と言い出した日

生まれたのは一九二六年十一月二十三日。場所はアーンドラ・プラデーシュ州アナンタプル県プッタパルティ。当時のプッタパルティは人口数百人規模の、電気も水道もろくにない村だった。本名はサティヤナーラーヤナ・ラージュ。家はバトラージュという、宗教的な歌や語りを生業にしてきた層に属していた。

つまり生まれつき、神話を語る文化のど真ん中にいた子どもだ。伝記類によると、この子は小さい頃から変わっていたらしい。空っぽの袋から菓子を出して友達に配った、動物を殺すのを異様に嫌がった、村の芝居で神様の役をやると場の空気が変わった。もちろんこの手の逸話は後から盛られるのが世の常だから、そのまま信じる必要はない。

ただ、村の中で「あの子はちょっと違う」という評判が早いうちから立っていたこと自体は、複数の証言が一致している。転機は一九四〇年の春に来る。当時サティヤは、兄セーシャマ・ラージュが教師をしていた縁でウラヴァコンダという町に移り、そこの学校に通っていた。三月八日、サソリに刺されたとされる。これが伝記の定番シーンだ。

刺された後、彼は数時間から一昼夜にわたって意識を失い、目覚めた後の様子が明らかにおかしくなった。急に黙り込む。急に笑い出す。そして、習ったこともないはずのサンスクリット語の詩を朗々と唱え始めた。家族は当然パニックになる。

医者を呼び、祈祷師を呼び、悪霊祓いのようなことまでやらせたらしい。この時期の少年の様子は、信者側の記述だと「神性が目覚める過程」になる。懐疑派の記述だと「思春期の解離症状か、あるいは最初から演出」になる。解釈は真っ二つになる。どちらにせよ、家の中がえらいことになっていたのは確かだ。

そして一九四〇年五月二十三日。ここが全部の起点になる。

ウラヴァコンダの兄の家で、少年は集まった人々の前で言い放った。オレはシルディのサイババだ、と。そのうえで手を一振りする。ジャスミンの花を宙に投げると、それが床の上でテルグ文字の「サイババ」という綴りになった、という話が伝わっている。信者組織はこの日を「アヴァター宣言の日」として毎年祝っている。

さらに同じ年の十月二十日、彼は家を出る。この時の台詞がまた効いている。私はもうお前たちのサティヤではない、私はサイだ、信者たちが呼んでいる。そう言って学校の鞄を投げ捨て、家族の元を去った。十三歳か十四歳の少年が言う台詞としては、あまりに完成されすぎている。

だからこそ人は忘れない。

一九一八年に死んだ、もう一人の「サイババ」

ここで背景の説明がいる。サティヤが「生まれ変わりだ」と名乗った相手、シルディのサイババとは誰なのか。日本で「サイババ」というとアフロの人しか出てこないが、インドでは元祖のほうがむしろ格上に扱われている場面も多い。シルディのサイババは、一八三八年頃に生まれ、一九一八年十月十五日に亡くなったとされる人物だ。「頃」「とされる」ばかりなのは、この人の出自が本当に分からないからだ。

ヒンドゥー教徒なのかムスリムなのかも判然としない。生まれた場所も両親も不明。十六歳くらいでマハーラーシュトラ州シルディ村に現れて、以後そこに居着いた。住んだのは廃墟同然のモスクで、彼はそこを「ドワルカマイ」というヒンドゥー的な名で呼んだ。モスクに住みながらヒンドゥーの神の名を唱え、ムスリムの言葉も使う。

この宗教横断ぶりが、当時の人たちには強烈だった。彼は火を絶やさなかった。ドゥニと呼ばれる聖なる焚き火だ。そこから出た灰を「ウディ」と呼び、訪ねてきた人に配った。病人に配り、悩んでいる者に配り、それで治ったという話が山ほど残った。

灰を配る聖者。この一点を押さえておくと、後のサティヤ・サイババのヴィブーティが何の再演なのかが一発で分かる。そしてシルディのサイババは、死ぬ前に「八年後に戻ってくる」という趣旨のことを言ったらしい。一九一八年に八を足すと一九二六年。サティヤ・サイババの生年とぴったり合う。

信者にとってはこれが決定的な符合だ。懐疑派にとっては、後付けで合わせただけの数字遊びに見える。ここも真っ二つだ。インドにはそもそも、聖者を「神の化身」として遇する分厚い文化がある。アヴァターラという概念があり、ヴィシュヌが時代ごとに姿を変えて現れるという物語が何千年も語られてきた。

だから「オレは化身だ」という主張は、インドでは異物ではない。むしろ受け皿が最初から用意されている。サティヤ・サイババは、その受け皿にドンピシャの形で自分をはめ込んだ。

手のひらから灰が湧く――「奇跡は私の名刺だ」

さて、本題の顕現だ。ここが人を集めた最大の装置なので、種類ごとに丁寧に見ていく。まずヴィブーティ。聖なる灰だ。サイババは信者の前で右手を差し出し、手首をくるくると回す。

数秒。そして手のひらを開くと、そこに灰色がかった白い粉が湧いている。それを信者の額に塗ったり、手のひらに落としたり、袋に詰めて渡したりする。彼はこの灰を「無常の象徴」だと説明した。何もかも燃えれば灰になる、その灰を身に付けることで執着を手放せ、という理屈だ。

理屈自体はヒンドゥーの伝統に沿っている。量がまた尋常じゃない。一日に何百人、多い日には何千人にこれを配った。晩年の映像を見ると、手を回す動作はかなり大ざっぱで短い。それでも灰は出る。

信者にとっては「毎日休みなく起こる奇跡」であり、だからこそ日常の一部として受け入れられていった。彼自身、奇跡というのは私の名刺代わりにすぎない、大事なのはそっちじゃなくて教えのほうだ、という意味のことを繰り返し語っている。この「奇跡を軽く扱う態度」がまた、逆に説得力を生んでしまうところがある。

指輪、時計、そして自分の顔が入ったロケット

次が物品の物質化。こっちは灰よりインパクトが強い。サイババは面会に来た人と話しながら、ふっと手を回して指輪を出す。それを相手の指にはめる。サイズがぴったりだったという証言がやたら多い。

時計も出す。スイス製の腕時計が出てきた、という話がいくつも残っている。ペンダント、ロケット、数珠、小さな神像。ロケットの中には彼自身の肖像が入っていることが多かった。面白いのは、この物品配布が単なる見世物ではなく、関係の証書として機能していたことだ。

指輪をもらった人は「選ばれた」ことになる。それを日本に持ち帰って周りに見せる。周りが騒ぐ。その人の証言が本になる。こうして物が人を巻き込んでいく。

物質化は、信仰共同体の入会証を無限に発行できる装置でもあった。もう一つ有名なのが、金の鎖や大きなネックレスの物質化。壇上で、大勢の目の前で、大きな金の装身具をすっと出す。これは効果が絶大だった反面、後に最大の火種にもなる。理由は後で書く。

そしてもっと不可解な系統として、写真から灰が湧く現象がある。信者の家に飾ってあるサイババの写真、そのガラスの内側に灰が積もる。あるいは甘い蜜のようなものが滲む。世界中の信者宅で報告された。これは本人が現場にいないので、手品説では説明しづらい。

ただし後で書くように、日本のテレビ番組がこの灰を化学分析にかけて、なかなか身も蓋もない結果を出している。

シヴァラートリの夜、口からタマゴが出てくる

顕現のなかで最も強烈だったのがリンゴードバヴァ、リンガム出現だ。シヴァ神を祀るマハーシヴァラートリの夜、サイババは壇上で歌を歌わせながら、次第に苦しそうな様子を見せ始める。息が荒くなる。上体を折る。周囲が心配する空気になる。

そして、口から卵形の物体をせり出させる。水晶製だったり金製だったり、大きさも様々。それがリンガム、シヴァの象徴だ。取り出されたリンガムは高く掲げられ、群衆は絶叫する。信者側の説明はこうだ。

リンガムは彼の体内で生成されており、宇宙卵ヒラニヤガルバの顕現というわけだ。あの苦しみは、無限のエネルギーを有限の肉体から通す痛みなのだ、と。実際、目撃した人の手記を読むと、この儀式の生々しさに参ってしまった人がとても多い。派手な手品より、苦しんでいる姿のほうが人を掴む。一方、懐疑派は迷わず「呑み込んで戻しているだけ」と言う。

実際、物体を呑み込んで吐き戻す技はマジックの古典芸で、フーディーニが十九世紀末に糸を付けた卵形の物体で練習した話が知られている。二〇〇四年にイギリスの放送局が撮影した回では、口から何かが出てくる決定的な瞬間が確認できなかった。タオルで手元を隠していたように見える、という指摘が出た。この年サイババは儀式中に体調を崩する。

後から通訳を通じて「今回のリンガムは三トンあった」という趣旨のことを言ったらしい。その直後に小さな机の上にちょこんと置いていたので、その説明はさすがに苦しかった。

アフロと橙色のローブと、ピンクの巨大病院

拠点の話をする。プッタパルティに作られたアシュラムが「プラシャンティ・ニラヤム」、日本語なら至高の平安の館。一九五〇年に完成した。最初は小さな建物だったが、信者が増えるにつれ膨れ上がり、最終的には町ごと飲み込んだ。中心にあるのがサイ・クルワント・ホール。

柱が並び、シャンデリアが下がり、床は大理石。ここで毎朝と毎夕、ダルシャンが行われた。ダルシャンとは「見る」こと、聖者を目にすること自体が恩寵だという考え方だ。多い日には一万人から一万五千人が座って待つ。男女は別の列に分けられ、手紙を持った人たちが前列を目指して押し合う。

晩年、サイババは赤い電動車椅子で現れた。壇上には金の獅子像が置かれ、信者はそれを玉座と呼んだ。町の変貌ぶりも異常だった。土しかなかった村に、飛行場ができ、プラネタリウムができ、大学ができ、高級ホテルができた。飲食店はほぼ全部ベジタリアン。

街のあちこちに「常に助けよ、決して傷つけるな」「すべてを愛し、すべてに仕えよ」という標語が書かれている。オートリキシャにも彼の顔が描かれている。宗教都市というより、一人の人物を中心に設計されたテーマパークに近い。そして目玉が病院だ。一九九一年、プッタパルティに超専門病院が開院した。

心臓外科と泌尿器科を中心とする本格的な施設だった。設計は聖なる幾何学の研究で知られる建築家が手がけたのだ。外観はピンク色の壮麗なドーム建築になった。そしてここが肝心なのだが、治療費は無料。手術も入院も無料。

二〇〇一年にはバンガロール近郊のホワイトフィールドにも同種の病院を開いた。ハードロックカフェの創業者アイザック・タイグレットが巨額の寄付をした話は有名で、彼は事業を離れてアシュラムに住み着いた。

この「無料の心臓手術」というのは、インドの農村部の貧困層にとって文字通り命の話だ。批判者がどれだけ手品説を突きつけても、実際に無料で手術を受けて生き延びた家族には響かない。ここが、この現象を単純な詐欺話として片付けられなくしている部分だ。

干上がった大地に、十八か月で水を引いた

社会事業のもう一つの柱が上水道だ。アナンタプル県はインドでも屈指の乾燥地帯で、水にフッ素が過剰に含まれ、飲むと骨や歯がやられる地域が広がっていた。一九九五年三月、サイババの財団はここに巨大な給水事業を立ち上げる。パイプラインの総延長はおよそ二千キロ。対象は七百三十一の村、給水人口は百二十万人以上。

総事業費は三十億ルピー規模と報じられた。驚くのは工期だ。同年十一月十八日に完成している。着工から一年に満たない。当時の首相ナラシンハ・ラオが式典に出席した。

インドの公共事業が何年も遅れるのが常態だった時代に、宗教団体が数か月で水を通してしまった。この事実は、彼を批判する立場の人からも認められている。後に第二期として別の県まで対象を広げ、二〇〇二年にはチェンナイへの導水事業にも乗り出した。政治家の関与も凄まじかった。首相経験者、最高裁長官経験者、大統領。

歴代の要人が続々とプッタパルティに参拝した。最高裁の元長官が公の場で「彼は神性そのものだ」と述べたことすらある。この政治的な厚みは、後述する事件の捜査が進まなかった背景としてしばしば指摘される。

日本がサイババに沸いた、あの数年

日本での火の付き方は独特だった。きっかけは一九九〇年代前半、青山圭秀という理系の研究者が書いた本だ。一九九三年の『理性のゆらぎ』、翌年の『真実のサイババ』。理性と科学の側にいる人間がインドで体験してしまった、という構図が、当時の読者にはめっぽう効いた。オカルト本ではなく「知性の敗北記」として読めたのが強かった。

両方ベストセラーになったのだ。同時期にテレビが乗る。特番が組まれ、ワイドショーが追いかけ、心霊番組の常連だった霊能者が絡み、視聴率が動いた。決定打になったのが、女流棋士の林葉直子がインドへ渡ったことだった。この件がワイドショーで連日扱われ、「サイババ」という単語が一気に茶の間の語彙になったのだ。

将棋、失踪、インド、聖者。ワイドショーが好きな要素が全部乗っている。日本人の団体参拝ツアーも組まれた。プッタパルティに日本人が押し寄せ、アシュラムの宿舎に泊まり、朝四時に起きてダルシャンの列に並んだ。当時は日本人だけで二十人前後が常駐していた時期もあったという。

日本語のサイババ関連書籍が次々出て、講演会が開かれ、灰を分けてもらった人が周囲に配った。九〇年代の日本は、バブル崩壊後の空白と、オウム真理教事件前後の精神的な混乱と、ニューエイジ的な思想の輸入がちょうど重なっていた。そこに「実際に物を出す生き神」が現れたのだ。刺さらないわけがなかった。

体験談その一――朝四時、鳩が飛ぶホールで待った日本人

九〇年代にプッタパルティを訪ねた日本人の手記を読み比べると、驚くほど共通の型がある。まず、着いた瞬間に面食らう。バンガロールから車で三時間半、砂埃と痩せた木しかない道を延々と走った先に、いきなりピンクとクリーム色の巨大建築群が現れる。ここに来るまでの村々の貧しさとの落差で、まず頭が混乱する。宿舎はコンクリートの大部屋で、扇風機が回るだけ。

暑い。同室者のいびきで眠れない。トイレの水も出たり出なかったりする。それでも朝三時台には起きて列に並ぶ。ホールの床に座って待つ。

天井が高く、鳩が縦横に飛び回っている。バジャンという讃歌が始まる。何百人、何千人の声が重なる。言葉は分からない。分からないのに、涙が出たという記述が本当に多い。

ここが面白いところで、彼らは奇跡を見る前にもう半分やられている。長距離移動、睡眠不足、暑さ、空腹、そして集団の詠唱。宗教的高揚を作る条件がきれいに揃っている。そして橙色のローブとアフロが現れる。人垣がざわめく。

手紙を差し出す手が林立する。彼はゆっくり歩き、誰かの手紙を取り、誰かの前で手を回して灰を出す。多くの日本人参拝者にとって、自分が直接何かをもらえた回数は少ない。ほとんどは遠くから見ただけだ。それでも「見た」ということが一生の話になる。

帰国後、その人は語り部になる。ダルシャンという仕組みは、恩寵の総量ではなく物語の総量を増やす装置だった。

体験談その二――千回近く近くにいた男が、ある日書いた告発文

イギリス人ピアニストのデヴィッド・ベイリーの話は、この件で最も語られる転向劇だ。彼は一九九〇年代を通じて、サイババの最側近と言っていい位置にいた。アシュラムでピアノを弾き、公式行事で演奏し、世界中の信者向けにサイババの言葉を伝える講演をして回った。インドを訪れた回数は百回を超えたとされる。彼と妻のフェイは、信者の間では羨望の対象だった。

物理的にも精神的にも、これ以上ないほど内側にいた人だ。その彼が、一九九九年から二〇〇〇年にかけて信仰を捨てた。そして『ザ・ファインディングス』という文書を書き、内部で見聞きしたこと、面会に呼ばれた若い男性たちから聞いたという話を並べた。この文書が英語圏の信者コミュニティを直撃したのだ。既に個別の告発はぽつぽつ出ていたが、最側近が書いたという事実の重さが桁違いだった。

もちろん、信者側はベイリーの証言を強く否定した。動機を疑う声、内容の正確さを疑う声、彼自身の言動を問題視する声が組織の内外から出たのだ。ベイリーが挙げた話の多くは伝聞であり、本人が直接見たものではないという指摘もある。この論争は今も決着していない。ただ、彼の離反を境に、英語圏でサイババを論じる空気が明確に変わったのは間違いない。

「奇跡は本物か」の議論から、「組織の中で何が起きていたのか」の議論へと軸が移った。

体験談その三――誰もいないホールで、抜け殻を見た人

三つ目は、彼が亡くなった後の話だ。二〇一八年、七年ぶりにプッタパルティを再訪した日本人旅行者の記録がある。施設そのものは驚くほどきれいに維持されていた。宿舎も食堂もスーパーもプラネタリウムも動いている。値段は信じられないほど安く、月一万円以下で暮らせてしまう。

物理的には何も壊れていない。壊れていたのは空気のほうだった。かつて朝の暗いうちから人が押し寄せ、歌声で建物が震えたホールに、人がいない。時間になっても部屋から出てこない滞在者が多い。だらだらしている。

かつて二十人ほどいた日本人は、数えるほどに減っていた。代わりに増えていたのがロシア人で、生活費の安さが理由だという。書き手はそれを「残り香」と表現した。うまい言い方だと思う。中心にいた一人がいなくなると、機能は残っても引力が消える。

そして後継の話がまとまらない。予言された転生者はまだ生まれていない。信者組織の中では分裂の噂が絶えない。巨大な設備だけが、来ない人を待って磨かれている。この光景は、生き神という現象の構造をこれ以上なく分かりやすく示している。

求心力は建物にはなく、あの人の身体にしかなかったのだ。

「あれ、何か取りましたよ」――編集室で気づいてしまったこと

さて、疑いの側を丁寧に見ていく。ここを雑にやると記事として意味がない。日本のテレビ局が撮った映像に関する証言が残っている。一九九四年六月に放送された民放の特番の取材で、カメラはサイババがヴィブーティを出す一部始終を押さえていた。後日、編集作業をしていたスタッフが映像を止めて言った。

あれ、何か取りましたよ、と。サイババが信者の持つ皿に手を入れ、その指の間から白っぽい何かをつまみ出す。それから例の手を回す動作に入っていた、というのだ。この証言は後に懐疑派団体の書き手によって記録され、書籍と記事として公表された。番組はその映像を、その部分を切らずにそのまま放送したという。

これは手品説にとって非常に強い材料だ。ヴィブーティは固形に固めておけば手の中に隠せる。手を回している間に指で崩せば、粉になって落ちてくる。プロのマジシャンが同じことを再現するのは難しくない。実際、二〇〇〇年代にアメリカのマジシャンでもある懐疑主義者が来日した。

テレビ番組でサイババの手つきを「雑な手品」と切り捨て、その場で灰を出してみせた。

インドの合理主義者たちも、街頭で同じ芸を延々とやっては「これは手品です」と説明して回ったのだ。もっと決定的だとされているのが一九九二年八月の映像だ。ハイデラバードでの大きな式典で、当時の首相も出席していた。サイババが金の鎖を物質化する場面で、公共放送のカメラが、側近が背後から鎖を手渡す瞬間を捉えてしまった、と報じられている。

放送局側は複製の廃棄を指示したとされるが、独立系の制作者が持っていたテープが出回り、街中でコピーが売られた。現在も動画共有サイトに複数のバージョンが残っている。信者側はカメラアングルによる錯覚だと反論しているが、この映像は反論としてかなり分が悪い。

灰を化学分析にかけたら、消石灰とドロマイトだった

写真から湧く灰についても検証が行われている。別の日本のテレビ番組が、信者宅でサイババの写真から出現したというヴィブーティを採取し、成分分析に出した。結果は水酸化カルシウムとドロマイト。要するに消石灰と苦灰石で、建材やら土壌改良やらに使われるありふれた工業原料だった。分析した側の説明はこうだ。

生石灰は空気中の水分を吸うと発熱しながら膨張し、体積が何倍にも膨らんで白い粉になる。写真の額の隙間に少量仕込んでおけば、湿気を吸って徐々に「湧いて」くるように見える。この説明は現象の見た目とよく合う。もっとも、この分析は世界中で報告された全事例を否定するものではない。あくまで検証できた検体の話だ。

信者側は「本物と偽物が混ざっているだけで、本物がある」と言う。懐疑派は「なぜ検証可能な検体だけがいつも工業原料なのか」と返す。この応酬が延々続いてきた。

大学の学長が三通の手紙を出して、待ち続けた話

インド国内での検証運動にも歴史がある。一九七六年、バンガロール大学の学長を務めていた物理学者ホスール・ナラシンハイアが「奇跡と検証可能な迷信を調査する委員会」を立ち上げた。彼自身、独立運動に参加した経歴を持つ剛直な人物で、最初の調査対象にサイババを選んだ。そして本人宛に三通の手紙を書いた。内容は明快で、管理された条件のもとで物質化を実演してほしい、というものだ。

サイババは応じなかった。返答として伝わっているのは、科学は感覚で捉えられる領域に限って探究すべきである。霊性はその感覚を超えたところにある、という趣旨の言葉だ。委員会側は、この拒否こそが答えだと受け取った。信者側は、神が人間の実験に付き合う義理はない、と受け取った。

この委員会はインド社会でかなりの論争を巻き起こしたが、学長の退任とともに一九七七年に解散したのだ。アイスランドの心理学者エルレンドゥル・ハラルドソンは、もっと長い時間をかけた。彼は一九七〇年代からサイババの周辺を訪ね続ける。物質化を目撃した人々に片端から聞き取りをして『モダン・ミラクルズ』という調査報告を書いた。彼の姿勢は最後まで両論併記に近く、断定を避け続けた。

ただ、その彼をもってしても、管理された条件での実演の約束は一度も取り付けられなかったのだ。何十年も接触しながら、決定的な検証だけは常にすり抜けられた。この事実の重みは大きい。

生涯かけて追いかけた男、ババ・プレムアナンド

インドの合理主義運動を語るときに外せないのが、ババ・プレムアナンドという人物だ。一九三〇年生まれ、二〇〇九年没。ケーララ出身で、若い頃は独立運動に参加する。一時は神智学に傾倒していたが、スリランカの懐疑主義者アブラハム・コーヴールと出会って完全に反対側に振り切れた。彼は一九七〇年代半ばからサイババ批判を始め、以後三十年以上やめなかった。

街頭でヴィブーティを出してみせる。灰を出し、時計を出し、そして必ず種を明かす。奇跡ではなく手品だと説明して回る。この方法が一番強い。反論ではなく実演で殴るからだ。

一九八六年には五百人規模の行進を組んでプッタパルティに向かおうとして逮捕されている。同じ年、彼は変わった訴訟を起こした。サイババが金を物質化しているのなら、それは金の管理を定めた当時の法律に違反する、という理屈だ。金製品の製造や所持は当時のインドで厳しく規制されていた。裁判所は訴えを退けた。

控訴審で彼は、霊的な力は法的な免責理由にならないはずだと主張したが、これも通らなかったのだ。負けは負けだ。ただ、この訴訟は「奇跡を主張するなら法の下でも一貫させろ」という論点を社会に投げつけた点で、記憶されている。彼は『インディアン・スケプティック』という月刊誌を自分で出し続ける。超常能力を管理条件下で示せた者に賞金を出すという挑戦を掲げ続けた。

この賞金は最後まで誰にも渡らなかった。本人は生涯で四度の殺害未遂に遭ったと語り、暴行によるけがも負ったと述べている。信者側からは、彼の主張には誇張や事実誤認が多いという批判が繰り返し出された。この人の評価もまた、立場によって真っ二つに割れている。

一九九三年六月六日の夜、寝室で何が起きたのか

ここからは慎重に書く。断定していい話が非常に少ないからだ。一九九三年六月六日の夜、プラシャンティ・ニラヤムにあるサイババの住居に、四人の若い男が入った。四人はいずれも彼の関係者、多くの報道では信者あるいは学生とされている。電報を届けに来たと言って入ろうとした、という説明が残っている。

彼らは刃物を持っていた。制止した側近との間で乱闘になり、側近二名が刺されて死亡、二名が負傷した。サイババ本人は無事で、警報が鳴らされ、警察が到着したのだ。ここから先が問題だ。警察は四人が立てこもった部屋に踏み込み、四人全員を射殺した。

警察側の説明は、扉が開いた際に襲いかかってきたので撃った、というもわけだ。ところが後の調査では、封鎖から発砲までの間に説明のつかない時間の空白があることが指摘されたのだ。捜査当局の報告書は、地元警察の公式説明に虚偽と矛盾が多く含まれていると結論づけたと報じられている。現場の保全や遺体の移動をめぐって、地元警察官が問われる事態にもなった。しかし、事件は最終的に決着しなかった。

関係した警察官が一時拘束されたものの起訴には至らず、事案は立ち消えになったと報じられている。財団側は当初、これは内部の問題であり法執行機関の捜査を望まない、という立場を表明したとされる。サイババ自身は暗殺未遂などではないと述べた。生き残って逮捕された二人は、後に、殺すつもりなどなく、財団の一部の人間について直接伝えたかっただけだと供述したらしい。

つまり、動機も、経緯も、警察の発砲の妥当性も、どれ一つ確定していない。四人が襲撃者だったのか、それとも別の構図があったのか、公的に確定した結論は存在しない。批判者はこの未解明さ自体が権力の影響を示すと言い、擁護者は憶測で語るべきではないと言う。三十年以上経った今も、この夜のことは分かっていない、というのが唯一正確な書き方だ。

二〇〇〇年前後、告発が世界に広がった

もう一つの、より重い論争がある。性的な虐待の告発だ。ここは特に慎重に扱う。以下は「こういう告発があり、こういう反論があった」という事実の並記であって、書き手が何かを認定するものではない。一九九〇年代末から二〇〇〇年代にかけて、複数の元信者が公の場で告発を行った。

北米、ヨーロッパの元信者たちが実名で名乗り出て、少年期や青年期に面会室で受けたとする行為について証言した。これらの証言をまとめた文書がインターネット上で拡散し、既存の信者コミュニティを分断したのだ。二〇〇〇年九月、国際連合の専門機関である国連教育科学文化機関が、プッタパルティで予定されていた教育関係の会議への共催を取りやめた。理由として、こうした告発に深い懸念を持つ旨の声明を出した。

国際機関が距離を取ったことで、告発は一気に「一部の元信者の主張」から「国際的な論点」になったのだ。二〇〇四年、イギリスの公共放送が調査番組を放送した。番組には元信者の証言と、合理主義者による手品の再現が組み込まれていた。制作側は、七〇年代に遡る性的な性質の申し立てが当局によって捜査された形跡がないことを指摘したのだ。法的な経緯も一応ある。

二〇〇五年一月、アメリカのカリフォルニア州の裁判所に、元信者の男性が関連団体を相手取って訴えを起こした。しかし二〇〇六年四月、審理の過程で原告側の主張と食い違う証言が出たことなどから、原告は訴えを取り下げた。信者側はこの取り下げを、告発全体の信憑性を崩すものとして強く主張してきたのだ。批判側は、取り下げは訴訟戦術上の判断であって告発内容の否定ではないと反論した。

サイババ本人は、告発をすべて否定した。彼は生涯にわたって一度も刑事訴追を受けておらず、インドの司法によって有罪と認定された事実はない。当時の首相を含むインドの多数の要人が、告発を根拠のない中傷だとする趣旨の共同声明に名を連ねた。二〇〇八年には最高裁に捜査を求める申し立てが出されたが、中央捜査機関による捜査は行われなかった。整理するとこうなる。

実名の告発が複数存在し、国際機関と大手放送局が問題として扱った。一方で、司法手続で事実認定された虐待は存在せず、一件の民事訴訟は原告が取り下げた。この両方が同時に事実だ。告発した人を貶めるのも、告発内容を確定した事実として扱うのも、どちらも公正ではない。読む側は、この居心地の悪い宙吊りのまま受け止めるしかない。

二〇一一年四月二十四日、奇跡は起きなかった

晩年、彼の体はかなり弱っていた。二〇〇〇年代半ば以降は歩行が難しくなり、電動車椅子でホールに現れるようになる。腕が思うように上がらない様子も報じられた。かつて何千人の前で軽々と手を回して灰を出していた人が、ほとんど動かないまま連れてこられて、また連れて帰られる。二〇一一年三月二十八日、彼は自分が作らせた病院に入院した。

心肺の問題だった。以後、一か月近く集中治療室にいたのだ。この間、プッタパルティには世界中から信者が集まり、外で祈り続けた。彼は九十六歳まで生きると自ら語っていた。だから信者の多くは、まだ十年以上あるはずだと信じていたのだ。

ここで死ぬわけがない、と。四月二十四日午前七時四十分、心肺機能不全により死去。享年八十四とも八十五とも報じられた。自分が建てた無料の巨大病院の集中治療室で、現代医学の設備に囲まれて亡くなった。灰も指輪も出さず、蘇生もしなかったのだ。

この事実を、批判者は象徴的だと言い、信者は肉体を脱いだだけだと言った。葬儀は国家的な礼遇のもとで行われた。遺体はサイ・クルワント・ホールに安置され、サフラン色の布に包まれたのだ。六千人規模の警官が動員された。首相、大統領、著名人が弔問に訪れた。

遺体はホールの一角に埋葬され、そこは今も参拝の場になっている。その後、財団の資産をめぐる話が続いた。同年六月、彼が住んでいた私的な居室の金庫が開けられ、多額の現金と大量の金銀が見つかったとインドの各紙が報じた。金額や重量については報道ごとに数字が異なり、確定した公式発表があるわけではない。ただ、この報道は信者に少なからぬ衝撃を与えた。

何も所有しないと語り続けた人の部屋から、何が出てきたのか。この件も、真偽と解釈をめぐって長く言い合いが続いた。

「八年後に生まれ変わる」予言は、どうなったのか

最後に転生予言だ。ここが今、最も生っぽい論点になっている。サイババは生前、自分は三代続く化身の二番目であり、次にプレーマ・サイババとして生まれ変わると語っていた。時期は自分が体を離れてから八年後。場所はカルナータカ州のマンディヤ県あたり、カーヴェリ川の流域の村。

信者に物質化して渡した指輪に、その次代の顔が刻まれていたという話まで残っている。ところが計算が合わない。彼は九十六歳まで生きると言っていた。実際には八十四で亡くなった。すると転生の時期も全部ずれる。

信者組織はこれを太陰暦での数え方だと説明し直したが、その説明も彼自身が過去に語っていた年齢と整合しない。生まれる村の名前も、伝わっている候補が複数ある。ある村が将来改名されるのだ、という後付けの説明も出た。そして肝心の点。予言に基づけば、二〇一九年前後、あるいは修正版に従えば二〇三〇年前後に、その子は生まれることになる。

二〇二六年の今、公式に承認された転生者は存在しない。一方で、自分こそがそれだと名乗る人物は既に複数現れている。予言の日付が近づけば近づくほど、この手の名乗りは増える。宗教史のいつものパターンだ。面白いのは、この予言が信者共同体を今も繋ぎ止めていることだ。

中心人物がいなくなった団体は普通なら崩れる。ところが「必ず戻ってくる」という約束があると、待つこと自体が信仰の実践になる。プッタパルティの設備が今も丁寧に維持されているのは、たぶんそのためだ。あそこは廃墟ではなく、待合室なのだ。

なぜ、これほどの人が集まったのか

ここまで書いてきて、一番答えたいのはこれというわけである。手品説がこれだけ具体的に出ているのに、なぜ数百万人が動いたのか。理由は一つじゃない。まず、彼は「毎日会えた」。多くの新宗教の教祖は滅多に姿を見せないが、彼は朝夕、何十年もホールに出続けた。

誰でも行けば見られる。この日常性が強い。次に、彼は物を渡した。抽象的な救いではなく、手のひらに落ちる灰と、指にはまる指輪。触れる証拠は信仰の質を変える。

そして病院と水道だ。批判者がどれだけ映像を分析しても、無料で心臓手術を受けた家族には届かない。奇跡が疑わしくても、水道の水は実際に出る。この「疑えない実績」が、疑わしい部分を丸ごと担保してしまった。これは宗教だけの話ではなく、あらゆる権威の構造に共通する仕組みだ。

さらに、彼は「疑うな」と繰り返し説いた。疑いは毒だ、疑いは死だ、という趣旨の言葉を残している。信じることそのものを徳と定義すれば、反証は入ってこられない。実際、内部にいた人が「彼は時々インチキな奇跡もやる、でも神にはユーモアがあるから」と語った例が記録されている。この論法の前では、どんな証拠も無力化される。

最後に、時代だ。七〇年代からのニューエイジ運動が東洋の聖者を求め、九〇年代の日本が精神的な受け皿を探していた。そこに、灰を出しながら「すべての宗教は一つだ」と言う人物が現れた。教えの中身は驚くほど穏当だ。愛せ、仕えよ、傷つけるな。

攻撃性がなく、既存の宗教を否定せず、誰でも入れる。この間口の広さが、世界中に信者を作った最大の理由かもしれない。

改めて全体を眺めると、サティヤ・サイババという現象は、二つのまったく違う物語が一つの身体に同居していたことに尽きる。片方は、南インドの乾いた土地に生まれた宗教的伝統の正統な継承者としての物語だ。灰を配る聖者という型はシルディのサイババが完成させ、さらに遡ればヒンドゥーの聖灰信仰がある。化身思想があり、遍歴聖者の系譜がある。彼は何も新しいことをしていない。

ただ、その型を二十世紀後半の交通と通信の環境に接続した。これがとてつもなくうまくいった。飛行機で人が来る。カメラが回る。本が翻訳される。

伝統的な聖者像が、初めてグローバルな流通に乗った瞬間だった。もう片方は、検証を回避し続けた七十年という物語だ。ここは擁護のしようがないと思う。一九七六年に大学の学長が三通も手紙を書いた。世界的な超常現象研究者が何十年も張り付いた。

合理主義者が街頭で同じ手品を再現し続けたのだ。テレビ局のカメラが不審な瞬間を捉えた。それでも一度として、管理された条件での実演は行われなかった。彼の言い分は「霊性は感覚を超える」だったが、灰も指輪も時計も、思い切り感覚の側にある物体だ。感覚に訴える方法で権威を作り、感覚での検証だけは拒む。

この非対称は、どれだけ好意的に見ても不誠実だと言われて仕方がない。一方で、批判の側も万能ではなかったことは書いておきたい。手品説は多くの場面を説明するが、すべてを説明しきってはいない。世界中の信者宅で報告された写真からの灰は、検体を分析できたものについては工業原料だったが、報告全体を潰せたわけではない。目撃証言の中には、状況的に仕込みが難しいものも残っている。

そこを「全部インチキだ」と一息に断じるのは、証拠の要求水準を自分にだけ甘くする態度だ。分かっているのは、検証できた範囲では自然な説明が付いた、というところまでだ。一九九三年の事件と、性的な虐待の告発。この二つについては、書けば書くほど「分からない」という結論に戻ってくる。前者は動機も発砲の妥当性も公的に確定せず、捜査は途中で止まった。

後者は複数の実名告発と国際機関の距離取りがあり、同時に司法による事実認定はなく、民事訴訟は取り下げられた。ここで書き手が有罪認定をするのは越権だし、逆に告発者を嘘つき扱いするのも同じくらい不当だ。声を上げた人には上げた人の重さがあり、否定した側には推定無罪という原則がある。宙吊りは気持ち悪い。

でも、気持ち悪さを解消するために片方を切り捨てるのが、この手の話で一番やってはいけないことだと思う。分からないものを分からないまま持ち続ける筋力が要る。社会事業の評価も、単純にはならない。無料の心臓手術は本物だ。二千キロのパイプラインも本物だ。

乾いた県に水を通した事実は、彼を最も嫌う人でさえ否定していない。だが「良いことをしたから他は不問」でもないし、「疑惑があるから功績も無効」でもない。両方が同時に立っている。人間はそういうふうにできている。むしろこの併存こそが、信者が離れられなかった最大の理由だ。

手品説を突きつけられても、病院を見れば揺り戻される。この往復運動の中で、人は何十年も留まってしまう。そして今、二〇二六年。予言された転生者はまだ現れていない。プッタパルティの巨大なホールは、以前ほどの熱を持たないまま維持されている。

日本人の常駐者はほとんどいなくなり、九〇年代にあの熱狂を経験した人たちも、多くは静かに年を取った。この件から何を持ち帰るかというと、たぶん「体験は本物でも、説明は間違いうる」ということだ。ホールで涙が出たことは嘘じゃない。何千人の声が重なる中で床に座っていた感覚も、灰を額に塗られた瞬間の衝撃も、当人にとっては疑いようのない実在だ。

ただ、その体験が「あの人が神だから起きた」ことの証明にはならない。体験の真正さと、原因の説明は別物だ。ここを混ぜないでいられるかどうかで、宗教の話は一気に読み方が変わる。最後に一つだけ現実的なことを書いておく。この手の話に触れるとき、健康の問題だけは切り分けたほうがいい。

信仰や祈りが心の支えになることはあるし、それ自体を否定する気はまったくない。ただ、治療の判断は医療の側でやるべきだ。皮肉なことに、サイババ自身がそれを一番はっきり示している。彼は最期、自分が建てさせた病院の集中治療室で、現代医学の機械に囲まれて息を引き取った。灰でも指輪でもなく、心電図と人工呼吸器の前で。

あの光景をどう読むかは人それぞれだが、少なくとも一つだけは確かだ。彼は最後の最後に、医学のほうを選んだ。

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