施餓鬼棚は、本堂の奥ではなく外縁や山門の脇に出る。四隅に笹竹、中央に三界万霊の位牌。祀る者のいない霊や、餓鬼道で飢えている霊に飯と水を施して送り返すための棚だ。在家はここで施す側に回る。
- 焔口の予言と、阿難が授かった陀羅尼
- 器一つに飯と水を盛り、陀羅尼七遍で浄地へ注ぐ
- 施餓鬼棚は三尺以下の高さで、堂の外寄りに組む
- 中央に三界万霊の位牌を立て、浄飯に小幡を挿す
- 五如来幡は右から宝勝、妙色身、甘露王、広博身、離怖畏と掛ける
- 水の子を蓮の葉に盛り、みそはぎの束を水鉢に添える
- 餓鬼を呼び集め、喉を開き、食を変えて送り出す次第
- 変食陀羅尼、甘露水陀羅尼、水輪の真言を唱える
- 塔婆は七月中に申し込み、家名か戒名を用紙に書いて出す
- 施餓鬼料は白封筒に御布施と書き、水引は掛けない
- 当日は棚の前で洗米と水を手向け、それから焼香する
- 塔婆と施餓鬼旗は墓に立て、木札は仏壇に一年祀る
- 家で行う略式は、生飯を七粒取り分けて生飯偈を唱える
- 墓参りに水の華を撒き、施餓鬼会は菩提寺へ頼む
- 一年たった塔婆、幡、木札、供物の始末
- 川施餓鬼は船から経木を流し、河原で塔婆を焚く
- 宗派で違う呼び名と唱えるもの、施餓鬼をしない家
焔口の予言と、阿難が授かった陀羅尼
施餓鬼のもとは、唐の不空が訳した『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』だ。釈迦の弟子の阿難が静かな所で教えを念じていた夜、焔口という餓鬼が現れた。口から火を吹き、喉は針のように細い。お前は三日後に死んで餓鬼に生まれる、と告げたという。
助かりたければ無数の餓鬼と婆羅門の仙人に一斛ずつ飲食を施せ、というのが焔口の条件だった。一人で賄える量じゃない。阿難が釈迦に相談すると、釈迦は器一杯の食を無量に変える陀羅尼を授け、阿難はこの法で寿命を延ばしたと経は結んでいる。
日本では平安時代に真言宗の修法として勤められ、鎌倉時代から宗派を越えて広まった。もとは日を選ばない法で僧が毎夕勤めるものだとする文献もあるが、飢えた霊に施すところが盂蘭盆と重なって盆の前後に寄った。清昌寺は七月十五日、増上寺は七月十八日、大慶寺は八月八日。日取りは寺ごとにばらばらだ。
器一つに飯と水を盛り、陀羅尼七遍で浄地へ注ぐ
経が説く施し方は、道具が器一つで済む。拍子抜けするほど簡単。清らかな器に浄水を入れて少しの飯と餅のような食べ物を盛り、右手を器に当てて陀羅尼を七遍、続けて四如来の名を唱えた。それから指を七回はじき、腕を伸ばして中身を清らかな地面へ注ぐ。
施す相手で遍数と注ぐ先が変わる。餓鬼に施すなら七遍唱えて、器の中身を清らかな地面に注ぐのが経の決まりだった。婆羅門の仙人なら二七遍、つまり十四遍唱えて、清らかな流れの水に注いだ。仏法僧の三宝に供えるなら二十一遍になる。
経が唱えさせる四如来は、多宝如来、妙色身如来、広博身如来、離怖畏如来。浄土宗の辞典が引く作法も、浄器に浄水を加えて少飯を盛り、右手で器を按じて陀羅尼を誦し、食を浄地に注ぐ形だった。流れる水に注ぐ一節は、あとで触れる川施餓鬼の下敷きになったらしい。
棚を東に向けて設けよという指示も経にある、と埼玉の浄土宗龍藏寺が紹介していた。寺の施餓鬼棚は、この器一つを大きく広げたものだと思えばいい。棚を組むのも、陀羅尼を唱えるのも、飯を注ぐのも、ぜんぶこの一節から来ている。
施餓鬼棚は三尺以下の高さで、堂の外寄りに組む
棚を出す場所は堂の外寄りになる。浄土宗の辞典は、施餓鬼の壇は堂外の外縁などに設け、高さは三尺以下とする古伝を載せていた。三尺はおよそ九十センチで、大人の腰くらいの高さになる。餓鬼は仏の座る奥まで上がれない客という扱いなので、縁側や外陣の端に置いた低めの棚でもてなすわけだ。
浄土宗では昭和十四年版の『法要集』で、外陣に祭壇を設けて五如来を安置し、その外縁に餓鬼壇を置く形を決めていた。平成二年版からは、施餓鬼法の部分だけ祭壇に向き、ほかは本尊に向いて勤める形に改めた。精霊の位牌は内陣の位牌壇へ移している。
曹洞宗の貞昌院は本堂の須弥壇と向かい合う位置に施食棚を置き、法要の途中で住職が南面の施餓鬼棚へ向きを変えていた。東向きにするか、本尊と向かい合わせにするか。これは寺の建て方で決まるらしい。
骨組みは台と四本の笹竹で足りる。形は単純。台の四隅に青い笹竹を立て、竹と竹のあいだに縄を張って囲い、そこへ幡を結んでいく。岡山の曹洞宗景福寺も、四方に竹笹を立てた祭壇を作り、いろいろな幡を立てると案内していた。古い手引きの『諸回向宝鑑』には、施餓鬼棚の図まで載っている。
中央に三界万霊の位牌を立て、浄飯に小幡を挿す
棚の中央には三界万霊と書いた位牌を立てるが、景福寺のように塔の形をした三界万霊塔を据える寺もある。三界は欲界、色界、無色界で、迷いの世界を丸ごと指す言葉。家の先祖も名の知れない行き倒れも、この一基にまとめて招く。
浄土宗の辞典によると、本来の餓鬼壇に置くのは餓鬼道の衆生の位牌と飯と浄水だけで、灯明は使わなかった。施餓鬼会の壇になると、五如来、三界万霊と精霊の位牌、飯、浄水、供物、香華灯燭まで並ぶ。景福寺は、灯と華と香を供えて、桶にご飯と水の子と水を入れると書いていた。
飯の上には幡を立てる。二種類ある。五色の紙を重ねて五輪の形に切り出したのが五輪幡で、真幡ともいう。もう一つの小幡は五色の紙を六本の手と四本の足の形に切り抜いたもので、これを五輪幡と一緒に盛った浄飯に挿した。四手四足で切る寺もある。
飯のまわりには山の幸と海の幸を並べる。野菜や果物、昆布や干し椎茸のような乾物が多い。清昌寺は、供物を持ち込むなら飾る準備があるので七月十日までに寺へ、と案内していた。檀家が供え物を出す寺では、この締め切りも覚えておきたい。
五如来幡は右から宝勝、妙色身、甘露王、広博身、離怖畏と掛ける
棚の正面奥には五如来幡を掛ける。浄土宗の辞典では、並びは右から宝勝如来、妙色身如来、甘露王如来、広博身如来、離怖畏如来の順。幡の真ん中に「南無宝勝如来」のように一尊ずつ宝号を書く。真ん中に来る甘露王如来は阿弥陀如来の別名だと、龍藏寺は説明していた。並び全体は金剛界曼荼羅にならった形だという。
幡の形は六本の手と四本の足がついた人形のような姿で、六手は六波羅蜜を、四足は四弘誓願を表すという。五色に染め分けるときは、上から青、黄、赤、白、黒の順にした。青を緑に、黒を紫に代えてもいい。
宗派で入る如来が一つ違う。曹洞宗の甘露門では、宝勝如来の代わりに多宝如来が入る。宗教用具の全国組合が紹介する五色幡も、多宝、妙色身、甘露王、広博身、離怖畏の五尊だった。臨済宗の開甘露門は宝勝と多宝の両方に阿弥陀如来を加え、七如来を唱えるそうだ。
四隅の笹には、細長い五色の紙を施餓鬼幡として下げる。棚幡とも呼ぶ。七夕の短冊を笹に結ぶのと同じ要領で、張った縄に結んでいけばいい。景福寺は、五色は五如来の働きをたたえる色だと書いていた。
水の子を蓮の葉に盛り、みそはぎの束を水鉢に添える
位牌の前に供えるのが水の子だ。材料は米と茄子だけ。洗った米に茄子を細かい賽の目に切って混ぜ、土地によっては胡瓜も刻んで足す。これを蓮の葉に載せて棚に置いた。
隣には水を張った鉢を置き、盆のころに湿地で咲く紫の花のみそはぎを束ねて一つ浸しておく。禊萩とも書く。浄土宗の辞典は、棚経でこのみそはぎの束で鉢の水を振りかけると書いていた。みそはぎが手に入らなければ、樒の葉で代える。
桶に入れたご飯と水の子と水が棚の真ん中の三点で、そのまわりに乾物と果物を並べ、花と香を添えれば形は整う。灯明を置くかどうかは寺によって違い、餓鬼壇には灯明を使わないとする古い形もあった。ご飯と水の子と水、この三つが施餓鬼棚の芯だ。飾りはその次。
餓鬼を呼び集め、喉を開き、食を変えて送り出す次第
僧の側の次第は不空訳の『施諸餓鬼飲食及水法』に沿っていて、浄土宗の辞典はそれを六つの段に分けて並べていた。普集餓鬼陀羅尼で四方の餓鬼を棚の前に集め、開地獄咽喉陀羅尼で地獄の門と細い喉を開く。
そこから変食陀羅尼などで、わずかな供物を無量の飲食に変えて施す。腹が満ちたら三帰を授け、発菩提心陀羅尼と三昧耶陀羅尼で悟りを求める心を起こさせる。最後が餓鬼回向の文。実際には変食陀羅尼と根本陀羅尼だけを唱える寺が多い、と辞典は書き添えていた。
曹洞宗の貞昌院の次第はこうだ。鐘を三会打ち、七下鐘で導師が上殿する。上香して一同で三拝し、般若心経を読んで本尊に上供と回向をすませると、もう一度三拝して住持が南へ向きを変えた。
鼓と鈸を三通鳴らし、拈香の法語、大悲呪と進んで甘露門に入る。五如来に焼香して普回向。修証義を読むあいだに参詣者が焼香し、施餓鬼回向、鼓鈸三通、散堂で閉じた。呼んで、開いて、食べさせて、送る。追い払う手順がどこにも無いのが、施餓鬼らしいところだ。
変食陀羅尼、甘露水陀羅尼、水輪の真言を唱える
施餓鬼で必ず出てくる陀羅尼が三つある。どれも短い。一息で言える。漢字で音を写したものなので、読みは宗派や寺でわずかに揺れる。家で唱えるなら、菩提寺の経本の読みに合わせておくのが確かだ。
一つめが変食陀羅尼。甘露門では無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼の名で入っている。原文は「曩莫 薩嚩怛佗蘗多 嚩嚕吉帝 唵 三婆羅 三婆羅 吽」。読みは「ノウマク サラバ タタギャタ バロキテイ オン サンバラ サンバラ ウン」。すべての如来が見そなわすものに帰命します、集め満たしたまえ、というあたりの意味になる。
二つめが甘露水陀羅尼で、甘露門では蒙甘露法味陀羅尼と呼ぶ。原文は「曩莫 蘇嚕頗也 怛佗蘗多也 怛儞也佗 唵 蘇嚕蘇嚕 鉢羅蘇嚕 鉢羅蘇嚕 娑嚩賀」。読みは「ノウマク ソロバヤ タタギャタヤ タニヤタ オン ソロソロ ハラソロ ハラソロ ソワカ」。
浄土宗の辞典によると、ソロバヤタタギャタヤは妙色身如来のこと。ソロは流れる、注ぐという語だそうだ。妙色身如来に帰命します、流れよ流れよ、あまねく流れよ、というくらいの意味になる。
三つめが一字水輪の真言。曹洞宗は毘盧舎那一字心水輪観陀羅尼、臨済宗の開甘露門は施乳海陀羅尼と呼ぶ。原文は「曩莫 三満多没多南 鑁」。読みは「ノウマク サンマンダ ボダナン バン」。あまねく諸仏に帰命します、という短い真言で、バンは水を表す一字だった。
塔婆は七月中に申し込み、家名か戒名を用紙に書いて出す
在家の仕事は塔婆の申し込みから始まる。檀家なら、盆が近づくと寺から施餓鬼の案内と一緒に申込用紙や葉書が郵便で届くことが多い。松山の正宗寺は、葉書に書いて返送するか、同封の用紙の二次元コードからネットで注文する形だった。締め切りは七月二十一日。わりと早い。
藤枝の日蓮宗大慶寺は八月七日までで、なるべく七月中にと頼んでいた。用紙を持っていくほか、電話やファクス、メールでも受け付ける。締め切りは寺ごとにばらばらなので、案内が届いたらその日のうちに書いてしまうのが楽だ。
用紙に書くのは家名か故人の名。正宗寺の用紙は、家名で頼むなら一の欄に名字を、戒名で頼むなら二の欄に戒名か故人の名を書き、合計の本数を添える形だった。大慶寺の例では「〇〇家先祖代々」「〇〇信士・〇〇信女」のほか、「〇〇家水子」や愛犬で頼む家もあった。
塔婆そのものは寺が書く。こちらは名前を出すだけ。表の上には五大を表す梵字のキャ、カ、ラ、バ、アが並び、その下に戒名や家名、施主の名が入る。大慶寺の値段は、三尺の施餓鬼塔婆が一本二千円、初盆用の四尺が一本三千円。先祖代々に一本、初盆の故人に一本と、分けて頼むこともできる。
施餓鬼料は白封筒に御布施と書き、水引は掛けない
塔婆代とは別に、施餓鬼の回向料を包む。大慶寺はお気持ちで結構、三千円から一万円の方が多いと書いていた。回向料の受付は八月一日から十日まで。正宗寺は、塔婆の代金と墓地の管理費を合わせて八月三十一日までに払う形にしていた。
包み方は仏具店の案内がくわしく、白無地の封筒か奉書紙を使い、お布施は僧へのお礼なので水引は掛けないとしていた。表には濃い墨で「御布施」と書き、下に施主の名を入れる。薄墨は使わない。寺の案内に「御施餓鬼料」とあれば、その表書きに合わせればいい。迷ったら御布施で通る。
裏には右に金額を漢数字で、左に住所と名前を書き、塔婆代を別に包むなら表書きは「御塔婆料」にする。新札を用意して、肖像のある側が袋の上に来る向きで入れた。持ち歩くときは袱紗に包み、受付で取り出して渡す。
大慶寺の表書きは「施餓鬼回向料」だった。回向料は寺へ持って行くほか、郵便振替でも納められる。塔婆の申し込みは、ラインでも受けていた。
当日は棚の前で洗米と水を手向け、それから焼香する
服装は平服でいい、と大慶寺も正宗寺も書いていた。喪服は要らない。黒や紺、灰色あたりの落ち着いた色にして、数珠を持つ。正宗寺は、新盆の家族は位牌を持ってきてもいいとしていた。
臨済宗妙心寺派の清昌寺は七月十五日の午後一時半から本堂で勤め、参る順を決めていた。着いたら餓鬼棚で洗米と水を施す。次に位牌堂で焼香し、旗の引換券を渡して施餓鬼旗を受け取った。その旗を墓に立ててお参りする流れだ。
水向けの手の動きはこうなる。すぐ済む。棚の前の器から洗米をひとつまみ取って水の子の上に落とし、みそはぎか樒の葉を水鉢に浸して、棚へ向けて振って水を落とす。合掌して一礼したら、後ろの人に場所を譲る。
同じ妙心寺派の東光寺では、檀信徒は焼香をせず水向けで参ると説明していた。洗米と、葉につけた水を供える形。作法に自信が無くても、先に行う和尚や前の人を真似れば難しくない、とも書いていた。
僧が水向けをするのは、変食陀羅尼を唱えているあいだだと浄土宗の辞典にある。曹洞宗の貞昌院では、修証義を読むあいだに参詣者が焼香していた。自分の番がいつ来るかは、受付で聞いておくと慌てずに済む。
参れない年もある。正宗寺は法要を自由参加とし、申し込んだ塔婆は施餓鬼が終わり次第引き渡すと案内していた。申し込みと支払いさえ済ませておけば、本人が本堂にいなくても塔婆は回向を受けるわけだ。
受付で布施と供え物を出し、法話と読経を聞いてから焼香に進む、という順の寺もある。初盆の家だけ供え物を納める決まりの土地もあった。静岡の遠州では、初盆の家が籠盛と施餓鬼米を寺に納めるのが習わしだ。
塔婆と施餓鬼旗は墓に立て、木札は仏壇に一年祀る
塔婆は法要が済んだら渡される。大慶寺では午後二時の法要のあと、三時半から配っていた。受け取ったら墓の後ろの塔婆立てに差し、古い塔婆が詰まって場所が無ければ、いちばん古いものから抜いて寺に預ける。
大慶寺は、盆の月で塔婆の扱いを分けていた。七月盆の家は施餓鬼塔婆をそのまま墓に納め、八月盆の家はいったん自宅の盆棚に立てて、盆が明けてから墓へ移す。当日に受け取りへ行けなくても、後日でいい。遠方の家の分は、寺が墓に建てておくとしていた。
施餓鬼旗は、清昌寺の案内だと下から三段目くらいまでほどいて墓に立てる。雨風で破れても自然に破れていくものだから、気にせずそのままでいいとしていた。水溶性の紙の五如来幡を配る龍藏寺は、墓地に納め置くなら風で飛ばないように、と頼んでいた。
墓では、柄杓で墓石に水をかけて手を合わせる。塔婆にもみそはぎや樒の葉で水を振りかけた。浄土宗の辞典によると、塔婆の字が消えるまでかけるという寺もあった。ちょっと驚く。
龍藏寺は盆施餓鬼の木札も出している。七月一日に魂入れをして受付で渡し、一年間お仏壇などに祀ってもらうが、墓に供えたい家はそれでもいいという扱いだった。
家で行う略式は、生飯を七粒取り分けて生飯偈を唱える
施餓鬼そのものは僧の修法で、在家が家で陀羅尼を唱えても、寺で勤める施餓鬼会と同じ扱いにはならない。代わりに、禅寺の食事作法に毎食の小さな施餓鬼が残っている。生飯と書いて、さばと読む。食前に少しの食を取り分けて、鬼界の衆生に施すものだ。
取る量は、浄土宗の辞典で七粒ほど。麺なら指先ほどの長さ、餅なら指の甲くらいの大きさとある。仏壇店の解説では三粒か七粒が多いという。天台宗の法話も、食前の斎食儀で出生食偈を唱え、七粒のご飯を供えると紹介していた。黄檗宗の宝林寺の用語集は、右手の親指と薬指で飯をつまみ、左の掌の上で三回まわしてから飯台に置くと書いていた。
取り分けるときに唱えるのが生飯偈。原文は「汝等鬼神衆 我今施汝供 此食遍十方 一切鬼神供」。読みは「にょとうきじんしゅ がこんせにょく しじきへんじっぽう いっさいきじんく」。お前たち鬼神に今この供物を施す、この食が十方に行き渡り、すべての鬼神に供えられますように、という意味だ。
家でやるなら、茶碗によそったご飯から七粒を取り、小皿か食卓の端に置いて偈を唱える。食べ終えたら粒を集めて外へ出すのが決まりで、寺では生飯台という台や地面に撒き、鳥の餌になった。庭の無い家なら、ベランダの鉢植えの土の上でも鳥は来るかもしれない。
墓参りに水の華を撒き、施餓鬼会は菩提寺へ頼む
墓参りのときの水の華も、施餓鬼を簡略にしたものだと説く寺がある。洗米や小豆、茄子や胡瓜のように、火を通さずに食べられるものを細かく刻んで墓のまわりに撒く。量はひとつかみで足りる。
これはあくまで略式で、寺の施餓鬼会の代わりにはならない。塔婆を上げたい、無縁の霊まで回向してほしい、という家は菩提寺の施餓鬼会に申し込む。申し込み先は菩提寺が第一になる。
一年たった塔婆、幡、木札、供物の始末
棚そのものは寺が片付ける。在家の手元に残るのは、塔婆と幡と木札と供物の四つくらいだ。塔婆は次の施餓鬼か年忌で新しいものを立てるときに抜き、寺に連絡してお焚き上げを頼む。自分で燃やしたり、ごみ袋に入れたりはしない。
龍藏寺の木札は、一年たったら自分でお焚き上げするか、翌年の申し込みのときか施餓鬼会の日に寺へ納める。水溶性の五如来幡は、近くで精霊流しができるなら一緒に流してもいい。間違ってもトイレに流さないように、と住職がわざわざ書いていた。流した人が本当にいたのかもしれない。笑えない話だ。
寺からお下がりでもらった菓子や果物は、家族で分けて食べてしまう。家で供えた水の子は、庭の隅や植木鉢の土に埋めるか、水気を切って半紙に包んで燃えるごみに出す、という案内がある。お盆のあとに寺へ持っていけば引き取るところもある。
川施餓鬼は船から経木を流し、河原で塔婆を焚く
水で亡くなった人を供養するため、川辺や船の上で勤めるのが川施餓鬼だ。浄土宗の辞典は、塔婆や経木、幡や位牌を川に流す形や、夏の夕方の灯籠流しを挙げていた。川端に塔婆を立てて水をかける流れ灌頂も、その一つ。お産で亡くなった女性の供養として、川辺でこれを行う土地も多かった。東京の深川では、震災と空襲で亡くなった人を毎年七月二十五日に送っている。
大阪市此花区の日蓮宗正蓮寺は、八月二十六日に川施餓鬼を営む。午前十時の新盆会の法要に続いて、唱題の行進、塔婆と経木の供養、法話、稚児の法要と焼香。午後三時ごろ、練供養の行列が乗船場へ向かう。並びは先見、金棒、旗幡、纏、稚児、御輿、大太鼓、僧侶、団扇太鼓、檀信徒の順だった。
船が新淀川の中央まで出ると、いよいよ経木流し。先頭の船で導師が読経しながら経木を流し、参列者は御題目を唱えながらそれに合わせて経木を流していく。かつては川の中に、五色の幣をつけた笹と塔婆を立てた精霊棚がいくつも組まれていた。船の列はその前を進んだという。
日蓮宗の興徳寺は、八月十六日に芝川の河畔で川施餓鬼を勤めた。松明の行列で河原へ出て、全員でお経とお題目を唱えて焼香し、塔婆と一緒にお焚き上げをする。昔は橋の上から川へ投げ込んでいたそうだ。
宮城の松島では、瑞巌寺の大施餓鬼会が八月十六日に海岸の広場で営まれる。五十人ほどの僧が寺から行列を組んで浜へ出て、組んだ木の棚で塔婆を焚き上げながら回向した。法要は一時間ほど。塔婆は一本千円で納められる。
山梨の笛吹市石和町にある日蓮宗の遠妙寺は、毎年九月の最終土曜に川施餓鬼会を勤める。寺の縁起では、文永十一年に日蓮が石和川で三日三晩の川施餓鬼を修した。河原の小石に経文を一字ずつ書いた一字一石の経石で、沈められた鵜匠の霊を供養したという。家で真似て供物を川へ流すより、こうした寺の行事に加わって経木や塔婆を託すほうが筋が通る。
宗派で違う呼び名と唱えるもの、施餓鬼をしない家
浄土真宗は施餓鬼をしない。ここは例外。亡くなった人はすぐ阿弥陀仏の浄土に往生すると考えるからで、水の子も原則として作らない。真宗の家なら、施餓鬼塔婆を頼む場面もまず無い。
曹洞宗は一九八八年の行持規範から施食会と呼び、甘露門を読む。施す者と施される者のあいだに尊いも卑しいもあってはならない、というのが改めた理由だった。檀家のあいだでは、いまも「おせがき」で通じる。
臨済宗は開甘露門を読み、清昌寺や東光寺のように水向けを参詣の中心に置く寺があった。浄土宗は五如来を外陣に祀り、変食陀羅尼と根本陀羅尼を中心に勤める。日蓮宗は題目と法華経で勤め、正蓮寺や興徳寺のように川へ出る寺が目立つ。
呼び名が違っても、在家がやることはほぼ同じだ。塔婆を申し込み、回向料を包み、当日は棚に水を手向けて焼香し、旗と塔婆を墓に立てる。一年たったら寺に返す。この順番さえ押さえておけば、どの宗派の施餓鬼会でも戸惑うことは少ない。
