手のひらに、ある朝いきなり穴が開く。血が出る。医者が診ても原因が分からない。傷はふさがらないくせに、化膿もしない。
しかも位置が、なぜかキリストが十字架にかけられたときの傷とぴったり同じ。これが聖痕、スティグマータだ。
八百年ぶん記録が残っていて、いまも報告が止まらない。信じるか信じないかの前に、まず話としてめちゃくちゃ面白い。だから今日はこれを、最初から最後まで通しで語らせてほしい。
- 焼き印を意味する言葉だった
- 記録の九割は女性なのに、有名なのは男二人
- 一二二四年九月、ラヴェルナ山で
- 六枚の翼を持つセラフィムが降りてきた
- 隠そうとした、という一点が効いている
- 手のひらか、手首か
- バルベ説にも、反論がある
- 誰にも見えない傷を持っていた女
- 聖痕は、修道会同士の喧嘩の火種でもあった
- 三週間、昼夜を問わず監視された
- 詩人が書き取った幻視と、その代償
- 木曜の夜に始まり、金曜の午後に止まる
- 金曜のたびに、村ひとつが観客席になった
- 十五日間の監視と、退室を求められた瞬間
- 五十年、包帯を外さなかった男
- 見ていた人たちが、何を書き残したか
- 教会はむしろ、聖痕を嫌ってきた
- 石炭酸の伝票をめぐる、終わらない喧嘩
- 医学はこの傷を、どう説明してきたか
- 催眠で、傷は作れるのか
- カトリックの外には、ほとんど出てこない
- なぜ十三世紀まで、一件も出なかったのか
- 写真と巡礼バスが、この現象を作り変えた
- 日本では三つの層に分かれて流通している
- いまはスマホの画面の中で起きている
- なぜこの話は、こんなにも人を掴んで離さないのか
- 四本の軸で見ると、矛盾が矛盾でなくなる
- 記録の九割が女性だった、という事実の重さ
- この話は、いちばん面白いところに差し掛かっている
焼き印を意味する言葉だった
聖痕という言葉自体は、ギリシャ語のスティグマ、つまり「しるし」「焼き印」から来ている。もともとは奴隷や家畜に押した烙印を指す、けっこう即物的な単語だった。
それが新約聖書のガラテヤの信徒への手紙の一節から、宗教的な意味を帯びていく。パウロが「わたしは自分の体にイエスの焼き印を受けている」と書いた箇所だ。ただしパウロが言っているのは比喩なのか実際の傷なのか、これがもう二千年ぶん議論の種になっている。
現象としての聖痕は、典型的には五箇所に出る。両手、両足、そして脇腹。十字架刑で釘が打たれた場所と、槍で突かれたとされる場所だ。
これに加えて、額に茨の冠に対応する点々とした傷が出る例、背中に鞭打ちの痕が出る例、肩に十字架を担いだ痕が出る例まである。血の涙、血の汗を伴う報告もある。
痛みは激烈で、しかも週の特定の曜日、とくに金曜日に強まるという証言がやたら多い。キリストが死んだのが金曜日だからだ。
記録の九割は女性なのに、有名なのは男二人
面白いのはここからだ。記録に残る聖痕者はざっと二百五十人から三百人規模と見積もられていて、その圧倒的多数が女性である。
十九世紀のフランスの医師アンベール・グールベールが集めた古典的な集計では、女性が二百八十人に対して男性が四十一人。近年アントワープ大学のグループが作ったデータベースでも、二百四十四例のうち九割超が女性という数字が出ている。
なのに、一般によく知られている聖痕者は圧倒的に男二人だ。アッシジのフランチェスコと、ピオ神父。この「知名度と実数のねじれ」だけでも、一晩語れるくらい示唆に富んでいる。
一二二四年九月、ラヴェルナ山で
すべての起点は、イタリア中部トスカーナの山にある。
フィレンツェとアレッツォの東、アペニン山脈の中腹に、ラヴェルナという岩だらけの山がある。一二二四年の夏、当時四十代前半のアッシジのフランチェスコは、数人の仲間だけを連れてこの山に登った。
目的は九月二十九日の大天使ミカエルの祝日に向けた、四十日間の断食黙想。同行したのは、彼がもっとも信頼していた修道士レオ、それにアンジェロやルフィーノといった初期からの仲間たちだ。
このときのフランチェスコは、すでにボロボロだった。エジプトからパレスチナへの遠征でもらってきたとされる目の病気で視力はかなり落ちていて、胃も内臓も痛めていた。
自分が創った修道会は数千人規模まで膨れ上がり、清貧をどこまで守るかで内部が割れ、彼自身はすでに総長職を退いている。要するに、身体的にも精神的にも追い詰められた四十二歳が、岩山にこもって飲まず食わずでひたすら十字架のことを考え続けていた。これが舞台設定になる。
六枚の翼を持つセラフィムが降りてきた
そして九月十四日、十字架称賛の祝日の朝方。
伝承によれば、フランチェスコは山の上で祈っているとき、空から六枚の翼を持つセラフィムが降りてくるのを見た。熾天使だ。ただの天使ではない。その翼の真ん中に、十字架につけられた人間の姿があった。
ボナヴェントゥラの伝記は、この光景を「美しくもあり、痛ましくもあった」と書いている。フランチェスコは歓喜と苦痛が同時に押し寄せてくるのを感じた。そして幻が消えたあと、彼の両手と両足に釘の跡が、右脇腹に槍で刺されたような傷が残っていた。
初期の伝記作者トマス・ダ・チェラーノの記述はやけに具体的だ。手足の傷は釘そのものが肉になったような形をしていたという。手のひら側は丸く、甲側では細長く、しかも肉の一部が飛び出して釘の先端が折れ曲がったような格好になっていた、と。足も同様で、そのせいで歩くのが困難になったとも書かれている。脇腹の傷はときどき血がにじみ、下着や外衣に染みを作ったという。
隠そうとした、という一点が効いている
フランチェスコ本人は、これを隠そうとした。手を袖に引っ込め、靴下と靴を履くようになり、人前で傷を見せることを極端に嫌がった。
この「隠そうとした」という点は、後世の聖痕論議でかなり重い意味を持つことになる。見せびらかす聖痕者は疑われ、隠す聖痕者は信頼される、という無言のルールがここで生まれたようなものだからだ。
彼が亡くなったのは二年後の一二二六年十月三日、アッシジ郊外のポルツィウンコラ。遺体の傍らにいた修道士レオは、その姿を「十字架から降ろされたばかりの人のようだった」と書き残している。
修道会の実務を仕切っていた修道士エリアは、フランチェスコの死を知らせる回状を各地に送り、そのなかで聖痕について公式に触れた。この回状こそ、聖痕という現象がキリスト教世界に公式文書として登場した最初の瞬間だ。フランチェスコの列聖は異例の速さで、二年後の一二二八年に教皇グレゴリウス九世が行っている。
もちろん、歴史家の側からは冷静な指摘もある。フランチェスコ生前の文書に聖痕への言及が乏しいこと。エリアの回状以降に記述がどんどん劇的になっていくこと。修道会の正統性を強化する政治的な文脈があったこと。
とはいえ、目撃者が複数いて、死の直後に文書化され、当時から検証と論争にさらされた事例であることも確かだ。単純な作り話で片づけるには証言の層が厚すぎる。ここが聖痕という主題のややこしさであり、面白さでもある。
手のひらか、手首か
聖痕の話で必ず出てくる、地味だけど破壊力のある論点がこれだ。
中世以来の宗教画では、キリストの釘の傷はほぼ例外なく手のひらのど真ん中に描かれている。聖痕者たちの傷も、圧倒的に手のひらに出る。
ところが二十世紀に入って、フランスの外科医ピエール・バルベがこう言い出した。手のひらに釘を打っても、成人男性の体重は支えられない。組織が裂けて指の間から抜けてしまう。実際に遺体を使って試したら、そうなった。だから実際の釘は手首、具体的には手根骨のあいだの「デストーの間隙」と呼ばれるすき間を通っていたはずだ、と。
これは効いた。なにしろ、聖遺物として名高いトリノの聖骸布に写っている手の像でも、血の跡は手のひらではなく手首寄りに見える。バルベの説は聖骸布研究と結びつき、一気に広まった。
そしてここから、あの厄介な問いが生まれる。もし本物の釘が手首を貫いていたのなら、なぜ聖痕者の傷は揃いも揃って手のひらに出るのか。それは、彼らが本物の磔刑ではなく「自分が見てきた絵の磔刑」を再現しているからではないのか。傷は事実ではなく、イメージに従っている。この一撃はかなり鋭い。
バルベ説にも、反論がある
ただ、バルベ説も磐石ではない。
アメリカの検死医フレデリック・ズジベは、デストーの間隙は小指側にあるのに聖骸布の血痕は親指側にあると指摘し、解剖学的に位置が合わないと批判した。バルベが唱えた正中神経の損傷による指の屈曲という説明も、神経の走行から見て成立しにくいと反論している。
ズジベ自身は、手のひらの付け根、母指球のしわのあたりから手首方向へ斜めに釘を通せば体重を支えられると主張し、志願者を使った吊り下げ実験まで行っている。つまり「手のひらでも成立しうる」という反論だ。
どっちが正しいのかは、正直まだ決着していない。ただ、この論争が聖痕の議論に持ち込んだ視点は決定的だった。傷の位置は文化の産物かもしれない、という視点である。
そしてこの視点で見直すと、面白い事実が浮かび上がる。中世から近代までの聖痕者はほぼ全員が手のひら。ところがバルベ説が広まった二十世紀後半以降、手首寄りに傷が出たという報告がちらほら混ざり始めるのだ。時代の常識が変われば、傷の場所も変わる。これを「信仰が科学に追随した」と読むか、「観察側の期待が変わっただけ」と読むかは、あなた次第だ。
誰にも見えない傷を持っていた女
フランチェスコの次に語られるべきは、たぶんこの人だ。カテリーナ・ベニンカーサ、日本ではシエナのカタリナと呼ばれる。
一三四七年三月二十五日にトスカーナのシエナで生まれ、一三八〇年四月二十九日にローマで亡くなった。享年三十三。染色職人の家の二十四番目の子どもという、それだけで一冊書けそうな出自だ。
彼女は正規の修道院には入らず、ドミニコ会の在俗第三会「マンテラーテ」に属したまま、政治の中枢に食い込んでいった。アヴィニョンに移っていた教皇グレゴリウス十一世をローマに帰らせた立役者として、教科書にも載る人物である。
その彼女が聖痕を受けたとされるのが、一三七五年、ピサの聖クリスティーナ聖堂でのことだ。十字架像の前で祈っていたとき、そこから五条の光が伸びてきて自分の手足と脇に突き刺さった、と彼女は語っている。
ただし彼女はその場で祈った。この傷が他人の目に見えないようにしてほしい、と。以後、傷は彼女自身にだけ見え、外からは何も分からなかった。激痛だけがあった。これが有名な「見えない聖痕」である。
聖痕は、修道会同士の喧嘩の火種でもあった
正直に言うと、この「見えない」という設定は、検証という観点からはお手上げだ。だが当時の文脈では別の意味を持っていた。
この頃すでにフランシスコ会は「聖痕はわれらのフランチェスコだけの特権である」という立場を強く打ち出していた。だからドミニコ会の女性が聖痕を受けたという主張は、修道会同士のプライドをかけた喧嘩の火種になったのだ。
実際、後の時代にはカタリナの聖痕をめぐって教皇庁が仲裁に乗り出す事態にまでなっている。
聖痕は最初期から、純粋な神秘現象であると同時に、組織のメンツと利害が絡む政治案件でもあった。ここは押さえておきたい。カタリナは一四六一年にピウス二世によって列聖され、一九七〇年にはパウロ六世によって女性として初めて教会博士に列せられている。
三週間、昼夜を問わず監視された
時代は一気に飛んで十九世紀初頭のドイツ。アンナ・カタリナ・エンメリックは一七七四年、ヴェストファーレンの貧しい農家に生まれた。
持参金が用意できず修道院に何度も断られ、ようやく一八〇二年、デュルメンのアウグスチノ会修道院に入る。ところがナポレオン戦争のあおりで修道院は解散、彼女は町の一室で寝たきりの生活に入る。そして一八一二年から翌年にかけて、彼女の胸に十字形の傷が、手足に釘状の傷が現れたと報告された。
ここからが本題だ。当時のデュルメンは、フランス支配下の行政区だった。宗教的な熱狂を警戒する当局は、これを詐欺の可能性がある案件として扱う。
まず教会側が医師を派遣して調査し、続いて一八一九年、世俗の当局が彼女を自宅から引き離した。別の建物で三週間にわたって昼夜を問わず監視するという、かなり過酷な検証だ。看視人が交代で張りつき、面会も制限された。今でいえば密室に閉じ込めて二十四時間カメラを回すようなものである。
結果として、詐欺の証拠は見つからなかった。
詩人が書き取った幻視と、その代償
エンメリックの名前がここまで有名になったのは、しかし傷そのものよりも、彼女の「幻視」のせいだ。
詩人クレメンス・ブレンターノが一八一九年から彼女の死の一八二四年まで枕元に通い詰め、語られる内容を書き取り続けた。イエスの受難の場面を分単位で描写したその記録は、後に書物として出版され、二十世紀に至るまで凄まじい影響力を持つ。
マリアの家がエフェソスで発見されるきっかけになったのも、ある映画監督がキリストの受難を映画化するときに種本にしたのも、この記録である。
ただ、ここには大きな注釈がつく。バチカンの審査過程で、ブレンターノが書き残したもののうち、確実にエンメリック本人に帰せられる部分はごく一部にすぎないと判断されたのだ。大半は詩人の文学的な創作が混ざっている、と。
だから二〇〇四年十月三日にヨハネ・パウロ二世が彼女を列福したとき、その根拠からブレンターノの著作は意図的に外され、彼女個人の徳と忍耐だけが評価対象とされた。
神秘家の証言が、記録者というフィルターを通った瞬間にどれだけ変質するか。この事例は聖痕研究における最高の教材のひとつだ。
木曜の夜に始まり、金曜の午後に止まる
イタリア中部ルッカ。ジェンマ・ガルガーニは一八七八年に生まれ、一九〇三年に二十五歳で亡くなった。
薬剤師の父を早くに亡くし、家は没落。彼女自身も脊椎カリエスや髄膜炎に苦しみ、十代の大半を病床で過ごしている。一八九九年六月八日、二十一歳のとき、祈りのさなかに最初の聖痕が現れたとされる。彼女自身の言葉によれば、痛みを感じた場所から血が出ていた。
ジェンマの聖痕には、はっきりした周期があった。木曜日の夜に始まり、金曜日の午後に止まる。まるでタイマーが仕込まれているみたいに、毎週それが繰り返された。
修道会の霊的指導者ジェルマーノ・ルオッポロ神父は一九〇〇年九月から彼女を導き、大量の書簡を残した。この記録の厚さのおかげで、ジェンマの症例は聖痕研究でよく引かれる。
一方で、彼女を診た医師ピエトロ・プファンナーは冷ややかだった。手のひらに血の染みは確かにあるが、拭き取ると下には傷がない。だから自分でつけたものだろう、というのが彼の見立てだ。
ここで注意したいのは、この医師の観察が「血は出ていない」ではなく「血はあるが皮膚は破れていない」だった点である。この状態、実は聖痕の記録に繰り返し出てくるパターンで、後の医学的説明を組み立てるうえでの重要な手がかりになる。ジェンマは一九〇三年、結核が悪化して聖土曜日に亡くなった。一九三三年に列福、一九四〇年に列聖されている。
金曜のたびに、村ひとつが観客席になった
二十世紀の聖痕現象を「見世物」に変えてしまった人が、この人だ。
テレーゼ・ノイマンは一八九八年、ドイツ南部バイエルンのコナースロイトという小さな村に生まれた。仕立て屋の娘で、農場で働く屈強な女性だったという。
一九一八年、火事の消火作業を手伝っている最中に腰を痛め、そこから視力を失い、下半身も動かなくなった。何年も寝たきりだった。
転機は一九二三年。リジューのテレーズが列福された日に視力が戻り、一九二五年の列聖の日に歩けるようになったと彼女は語る。そして翌一九二六年の四旬節、心臓の上あたりに傷が現れ、続いて手足に釘の傷が出た。
以後、彼女は毎週金曜日になると受難の幻視に入り、目や頭から出血し、キリストが辿った道のりを再体験するようになる。
十五日間の監視と、退室を求められた瞬間
ここからのコナースロイトが凄い。金曜になると、村に人が押し寄せた。ドイツ中から、やがてヨーロッパ中から。彼女の家の前に列ができ、部屋に通された人々が寝台のまわりを取り囲み、その場で起きることを見つめた。
しかも彼女は、一九二六年以降ほとんど何も食べず、聖体だけで生きていると主張していた。無食、イネディアの主張だ。
当然、教会当局も黙っていられない。一九二七年、司教の指示で修道会の看護師四人が交代制で十五日間、彼女を昼夜監視した。この観察では飲食の証拠は見つからなかったとされる。
ただし懐疑派は、この観察に穴があると指摘した。体重が期間中に大きく落ちてまた戻っていること。監視の枠外の時間があったこと。そしていちばん引っかかるのが、出血が始まる直前に観察者が退室を求められる場面が繰り返しあったという証言だ。
ドイツの聖職者ヨーゼフ・ハナウアーは生涯をかけてノイマン批判を書き続けた人物で、彼女の周囲に情報操作があったと主張している。逆に、彼女の実家や支持者は現在も熱心に擁護している。決定的な検証は行われないまま、彼女は一九六二年に亡くなった。二〇〇五年、レーゲンスブルク教区は彼女の列福調査の開始を認めている。
ちなみに、日本でこの人の名前が意外なルートから知られているのを知っているだろうか。インドのヨガ行者パラマハンサ・ヨガナンダが自伝のなかでコナースロイト訪問記を書いていて、この本が日本でも長く読まれてきた。カトリックの神秘家がヨガの本経由で日本の読者に届く、という妙な回路が実在するのだ。
五十年、包帯を外さなかった男
そしてここからが本丸だ。フランチェスコ・フォルジョーネ、修道名ピオ。
一八八七年五月二十五日、南イタリアのピエトレルチーナに生まれた。一九〇二年にカプチン・フランシスコ会に入り、一九一〇年に司祭になる。
生涯の大半を過ごしたのは、プーリア州ガルガーノ半島のサン・ジョヴァンニ・ロトンド。当時は本当に何もない山の町だった。
聖痕が現れたのは一九一八年九月二十日の朝。修道院の聖歌隊席で祈っていたときのことだという。
彼自身が霊的指導者への手紙に、その瞬間を書き残している。誰かが自分に向かってきて、手足と脇腹を貫かれる感覚があった。気を失いかけ、正気に戻ると手足と脇から血が流れていた。
恥ずかしさで死にそうだ、この傷を取り去ってくださるよう神に願っている。それが当時の彼の言い分だ。派手に見せびらかす気配は、まるでない。
この傷は五十年ふさがらなかった。彼はいつも半指の手袋か包帯で手を覆い、ミサのときだけそれを外す。
だから傷を最も近くで見たのは、毎朝のミサに立ち会った侍者と、最前列の巡礼者たちだった。彼のミサは異様に長い。一時間半から二時間かかることもざらだったという。
聖体奉挙で彼が両手を掲げると、包帯を外した手のひらの傷が会衆から見える。それ目当てに、夜明け前から人が並んだ。
もうひとつの仕事が告解だ。ピオ神父は一日十時間以上を告解室で過ごしたと言われる。
自分でも忘れていた罪を言い当てられた、という話が無数に残っている。逆に、態度が悪いと判断した相手には赦しを与えず追い返したという証言も多い。優しいだけの人ではない。
そのくせ告解室の前には整理券制の予約待ちができ、数日待ちが常態化した。
彼はこの寒村に、巨大な病院まで建てている。「苦しみの救済の家」と名づけられた総合病院で、構想が一九四〇年、開院が一九五六年。
資金は世界中から集まった寄付でまかなわれた。清貧の誓願を立てた修道士が巨額の金を扱うため、特別に免除の許可を取る必要があったほどだ。この病院は今も現役で、イタリア南部有数の規模を誇る。
亡くなったのは一九六八年九月二十三日の午前二時半、八十一歳。ここで語り継がれるのが、傷の消え方になる。
死の直前の数日で傷はふさがり始めた。聖痕を受けたちょうど五十年後にあたる九月二十日には、外から何も見えなくなっていたという。
遺体を確認した医師も修道士も、そこにあったのは滑らかな皮膚だけだったと証言している。二〇〇八年、死後四十年を経て遺体が発掘されたが、やはり傷は見当たらなかった。
彼はいま、サン・ジョヴァンニ・ロトンドの黄金のモザイクに覆われた地下聖堂に安置されている。列福が一九九九年、列聖が二〇〇二年。列聖式には三十万人が集まった。
見ていた人たちが、何を書き残したか
聖痕の話は、当人の主張だけでは半分しか成り立たない。周りが何を見て、何を書いたか。そこが肝になる。
一件目は、一九二一年にバチカンの命でサン・ジョヴァンニ・ロトンドへ派遣された、ロッシ司教の調査だ。
彼は噂を集めに来たのではない。正式な審問官として修道士たちに宣誓させ、証言を取り、ピオ神父本人の身体も検分している。
報告書には、手のひらの傷について、皮膚が破れていないのに数センチ大の範囲から血がにじみ出ていると書かれた。脇腹の傷は三角形で、色は赤ワインのようだったという。
彼は結論の前に、四つの可能性を並べている。病理的な現象か、外傷か、悪魔的なものか、それとも奇跡か。
そのうえで、自分は奇跡の方に傾くが断定はしない、と書いた。この慎重さがむしろリアルで、報告書としての信頼度を上げている。
二件目は、医師ジョルジョ・フェスタの検分だ。彼は一九一九年と一九二五年の二度、ピオ神父を診ている。
二度目の検分は、実はヘルニアの手術のためだった。ここが面白い。ピオ神父は麻酔をほとんど受け付けず、意識を失いかけながらも、途中で医師に傷を見せることを拒もうとしたという逸話が残る。
フェスタが問題にしたのは、傷が数年たっても拡大も縮小もせず、周囲の皮膚に炎症も浮腫も壊死もない点だった。
普通、開いたままの創傷は感染するか、肉芽が盛り上がって塞がるかのどちらかになる。そのどちらも起きていない。彼はこれを医学的に説明できないと結論づけた。
同じ頃、別の医師ルイジ・ロマネッリも一九一九年に複数回診察している。傷が表面的なかすり傷ではなく、しかし感染の兆候もないことを記録した。
ちなみにロマネッリは、指で押さえると手の甲側と手のひら側で感触が通じるように思えた、とも書いている。この一文が後々、貫通していたのかという論争を呼ぶことになる。
三件目は巡礼者側の証言だ。彼らが繰り返し語ったのは、傷そのものよりも匂いだった。
バラやスミレやジャスミンのような芳香が、彼の近くで、あるいは彼がいないはずの場所で唐突に立ちのぼる。手紙のなかから匂いがした、車の中で急に匂いに包まれた。そんな体験談が数え切れないほど残っている。
もちろんこれは、聖性の香りというカトリックの伝統的なモチーフでもある。期待が知覚を作った可能性は大いにある。それでも証言の量と一貫性は無視しにくい。
似た構造の証言は、コナースロイトのテレーゼ・ノイマンの寝室に通された人々からも出ている。彼らは金曜の朝、暗い部屋で、寝台の上の女性が身をよじりながら短い言葉を口にするのを見た。
何を言っているのか分からない、聞き慣れない響きの言葉だった。そう書き残した人が複数いる。あのざわつきごと、村の金曜日は記録に残っている。
教会はむしろ、聖痕を嫌ってきた
ここで教会側の動きを整理しておきたい。外から見ると、教会は聖痕を歓迎していると思われがちだ。実態はまったく逆になる。
カトリック教会は歴史上、聖痕に対してほぼ一貫して疑い深い。記録に残る二百数十人のうち、列聖まで至ったのはごく少数で、二十世紀末の時点で七人程度と言われる。
残りは黙殺されるか、生前に厳しく制限されるか、公に否定されるかのどれかだった。
理由はいくつかある。まず、聖痕は本人の聖性を証明しない。教会の審査基準で評価されるのは、現象そのものではなく、その人物が示した徳の英雄的な度合いになる。
むしろ派手な現象は、審査の邪魔になることさえある。
次に、詐称の前例が実在する。十六世紀スペイン、コルドバの修道女マグダレーナ・デ・ラ・クルスは、生前に絶大な尊敬を集めた聖痕者だった。ところが重病の床で、自ら偽装を告白している。
この事件は教会の記憶に深く刻まれ、以後の審査を格段に厳しくした。
さらに、聖痕者の周囲には必ず群衆と金が集まる。修道院の運営、地元経済、政治的な担ぎ上げ。教会が警戒するのは、しばしば現象そのものではなく、周囲に発生する熱狂の方だ。
ピオ神父の場合、それが最悪の形で噴き出した。
一九二〇年代、彼の名声が爆発的に広まると同時に、地元の聖職者同士の対立、寄付金をめぐる疑惑、教区と修道会の縄張り争いが絡み合う。
検邪聖省は一九二三年、彼をめぐる現象が超自然的なものであるとは確認されていない、という趣旨の声明を出した。
一九三一年には、公開ミサの禁止、告解を聞くことの禁止、外部との文通の大幅制限が下される。司祭にとっては、ほぼ死刑宣告に等しい措置だ。
彼はこの間、朝早く誰もいない礼拝堂でひとりミサを立てて過ごしている。
制限は一九三三年に教皇ピウス十一世の判断で段階的に解かれ、告解を聞く許可も翌年に戻った。だが監視の目は続く。
一九六〇年代に入っても、ヨハネ二十三世の時代に彼をめぐる調査が行われている。修道院に盗聴機器が持ち込まれたという話まで伝わっている。
公平を期すなら、こう言うのが正確だと思う。教会は彼を封じたが、同時に切り捨てもしなかった。
制限を課しながら調査を続け、最終的には最高の栄誉である列聖にまで至らせている。この振れ幅の大きさが、この組織の奇跡の扱い方を何より雄弁に語っている。
石炭酸の伝票をめぐる、終わらない喧嘩
ピオ神父に関して、いちばんややこしい論点がこれだ。
二〇〇七年、イタリアの歴史家セルジョ・ルッツァットが、教会関係の文書庫で見つけた資料をもとに一冊の本を書いた。
そこには、一九一九年に若い修道女が薬局で石炭酸を買った際の証言が含まれていた。フェノールのことだ。それはピオ神父に頼まれたもので、他言しないよう言われた、という趣旨になる。
石炭酸は当時ごく一般的な消毒薬だが、濃度によっては皮膚を強く傷める腐食性の薬品でもある。加えて、ヴェラトリンという別の刺激性の物質を入手していたという記録も取り沙汰された。
この本はイタリアで大論争を巻き起こす。批判側の主張はシンプルだ。常時ふさがらない傷を維持するには、何らかの手段が要るのではないか。
実際、彼を検分した病理学者アミーコ・ビニャミは早い時期から、傷は皮膚壊死の一種で、ヨードチンキなどの消毒薬を繰り返し使えば維持されうると述べていた。
心理学者で医師でもあったアゴスティーノ・ジェメッリは、もっと手厳しい。彼はヒステリー性の人格であり、傷は自己暗示と自己適用の産物だと断じている。
これに対する擁護側の反論も、それなりに筋が通っている。
まず、当時の修道院はスペイン風邪の流行下にあった。注射器の煮沸消毒に石炭酸を使うのは、ごく普通の実務になる。ピオ神父自身も、注射器を消毒するために頼んだと説明した。
秘密にしてくれと言ったとされる点も、修道院内の物資調達の規則や、彼が自分の身体への詮索を極端に嫌ったことを背景に読める。
ヴェラトリンについては、いたずらに使うつもりだったと本人が語っている。実際に修道院内でくしゃみを誘発する悪ふざけをした逸話も伝わる。この人、生真面目一辺倒ではなく、けっこうな冗談好きだったらしい。
さらにジェメッリは、実際にはピオ神父の身体を詳しく検分していない。検邪聖省の許可がないと診察できないという手続きの壁があり、短時間の面会だけで結論を書いたとされる。これは彼の判断の重みを下げる。
他方、擁護したフェスタやロマネッリの側にも、信仰的な前提が判断に影響した可能性は否定できない。要するに、両陣営とも決定的な証拠を持っていない。
だからこの記事の立場を、はっきりさせておく。語れるのは、こういう疑義が提出され、こういう反論がなされた、という事実の並びまでだ。
ある人物を詐欺師と断定するに足る証拠は、少なくとも公開資料の範囲には存在しない。逆に、超自然的な原因を証明する資料もない。
教会は列聖にあたって、この論点も含めて審査したうえで、彼の徳を理由に聖人と宣言した。ルッツァット自身も、彼を単純な詐欺師として描いたわけではないと述べている。
彼が描こうとしたのは、大衆の熱狂とカトリック文化の力学の方だった。喧嘩の中身を正確に伝えるなら、そこまで含めたい。
医学はこの傷を、どう説明してきたか
では医学の側は何を言ってきたのか。個人的には、ここがいちばん面白い。
十九世紀末、聖痕は本格的に医学の対象になった。パリのサルペトリエール病院を中心とする神経学の潮流のなかで、ヒステリーの一症状として位置づけられたのだ。
当時の医学は、いま私たちが解離性障害や転換性障害と呼ぶものを、ヒステリーという枠組みに詰め込んでいた。強い心理的葛藤が身体症状として表に出る、という考え方になる。
一八九八年には、イギリスの医学誌が、聖痕はもはや自然科学の領域に入ったと宣言している。
具体的な機序も、いくつか持ち出された。
ひとつは皮膚描記症だ。皮膚を軽くこすると、その部分がミミズ腫れのように赤く盛り上がる体質のことで、人口の数パーセントに見られる。極端な例では、皮膚に文字を書くとその形に発赤が浮かぶ。
これが受難の黙想と結びつけば、意図せずして傷らしき痕が皮膚に現れる、という筋書きが成り立つ。
ふたつめは、自律神経系を介した皮下出血だ。いわゆるガードナー・ダイアモンド症候群、痛みを伴う紫斑の症候群になる。
精神的ストレスに反応して自分の赤血球成分への過敏反応が起き、外傷がないのに皮下出血と痛みが出る。圧倒的に女性に多いという特徴が、聖痕者の男女比とやけによく合う。
カラブリアのナツッツァ・エヴォロという二十世紀後半の著名な聖痕者について、イタリアの心理療法家はこの症候群で説明できると主張している。
三つめは、血液の滲出そのものだ。ジェンマ・ガルガーニを診た医師が記録した、皮膚は破れていないのに血がある、という状態には前例がある。
血汗症と呼ばれる極めて稀な状態で、極度のストレス下に汗腺周囲の微小血管が破綻し、汗に血液が混じって皮膚表面に出てくる。報告例は少ないが、査読つきの医学文献に載っている。
四つめが、もっとも身も蓋もない説明。つまり、自分でつけた傷だ。ここには意識的な偽装と、解離状態での無自覚な自傷の両方が含まれる。
心理学者レナード・ズスニは、聖痕を自傷によるものと、情動が引き起こす皮膚現象の二種類に大別している。
歴史的な仮説もある。アッシジのフランチェスコの傷について、一九三五年に医師エドワード・ハートゥングは、トラコーマと四日熱マラリアの合併から生じた紫斑ではないかと論じた。
一九八七年には、ハンセン病との関連を示唆する説も出ている。どれも決定打ではないが、彼の晩年の健康状態が相当に悪かったことは間違いない。病態が現象の下地になった可能性は残る。
ここで押さえておきたいのは、これらの説明が詐欺だったと言っているわけではない点になる。
むしろ十九世紀以来の医学は、安易な詐欺説を方法論的に雑だと退けてきた。血が本当に出ているなら、その血がどこから来たのかを説明するのが医学の仕事だ、という立ち位置になる。この態度がいちばんフェアだと思う。
催眠で、傷は作れるのか
医学的説明のなかでも群を抜いて刺激的なのが、催眠と暗示による再現実験だ。
もっとも有名なのが、一九三二年のドイツで行われたケースになる。医師アルフレート・レヒラーの患者だった、エリザベート・Kと呼ばれる女性が主人公だ。
彼女はある聖金曜日、キリストの受難を描いた映像を見た。その夜、レヒラーは催眠状態の彼女に、映像で見た釘の場面を思い浮かべるよう示唆する。
翌朝、彼女の手足には血のにじむ腫れが現れていたという。
実験はさらに続いた。額に茨の冠に対応する出血が誘発され、涙に血が混じる現象まで観察されたと報告されている。
この実験、いま同じ形でやれば倫理委員会を通らないだろうし、記録の精度にも当然疑問符はつく。実験者の期待が結果に影響した可能性も、患者自身が無意識に手を加えた可能性も、排除しきれない。
それでも、この報告が突きつけた問いは強烈だ。もし暗示だけで受難の傷が皮膚に出るのなら、聖痕は超自然の証明ではなくなる。
代わりに、人間の心が身体をどこまで動かせるかという能力の証明になる。奇跡が心理学に翻訳されただけで、不思議さの総量は少しも減っていない。むしろ増えている気さえする。
カトリックの外には、ほとんど出てこない
これも定番の論点だ。ざっくり言うと、聖痕は圧倒的にカトリックの現象になる。
東方正教会はこの現象について公式の立場を取っておらず、正教圏からの報告はほぼ皆無に近い。プロテスタント圏でも稀だ。
この偏りは統計の話であると同時に、神学の話でもある。
正教の霊性は復活と栄光を強く志向し、キリストの受難を身体で追体験するという方向の信心が発達しなかった。対して西方のカトリック、とくに十三世紀以降の信心は、キリストの人間としての苦しみに寄り添うことを中心に据えている。
傷が出るかどうかの前に、傷を欲する文化があるかどうかが違う。
とはいえ、例外がないわけではない。アントワープ大学の研究グループが英国とアイルランドの一八〇〇年から一九四〇年までを洗い直したところ、十六件の事例が見つかった。
内訳が興味深い。メソジスト、長老派、聖公会の修道女、さらには自ら信仰を持たないと言明した人物まで含まれている。傷の出方も、五つの傷という定型に収まらないものが多い。
文化の型が緩いところでは、現象の形も緩くなる。そういうことなのかもしれない。
近代アメリカの事例として繰り返し引かれるのが、一九七二年、カリフォルニア州オークランドの十歳の少女の件だ。バプテスト派の家庭の子だった。
四旬節の終わり頃、彼女の手のひらから断続的に出血が始まる。続いて足、脇腹、額にも及んだ。
この件は精神科医らによる医学論文の形で報告され、以後ずっと聖痕研究の文献に載り続けている。出血は聖金曜日を過ぎると止まったという。
彼女はカトリックではなく、聖痕という言葉すら詳しく知らなかったとされる。一方で、直前に受難を扱った本を読んでいたという情報もある。
彼女はその後の数年、教会の行事で人前に出たあと、公の記録から姿を消した。子どもだった彼女がその後どう生きたのかは分からない。
この後味の悪さも含めて、聖痕という現象の周辺には人間の生活があることを忘れないでおきたい。
カトリック圏の外に目を向ければ、まったく別の文脈で似た報告もある。
仏教美術のなかにも掌に開いた光の痕を思わせる表現があり、西洋の研究者がこれを聖痕と呼んだ例がある。オリノコ川デルタのワラオの人々のあいだでは、守護霊の観想を極めた者の掌に開口部が生じるという伝承が報告されている。
二十世紀初頭のドイツでは、降霊会の場で血の痕が現れると称した霊媒がいた。こちらは精神科医によって偽装と判断されている。
どこまでを同じ現象と見なすかは、定義次第だ。ただ、身体に印が現れることに意味を見出す発想自体は、文化を超えてかなり広く分布している。
なぜ十三世紀まで、一件も出なかったのか
個人的にいちばん唸る論点がこれだ。キリストの磔刑から聖痕の最初の記録まで、およそ千二百年が空いている。この空白は何なのか。
鍵は、西ヨーロッパの信心のかたちが十二世紀から十三世紀にかけて劇的に変わったことにある。
それ以前のキリスト像は、勝利者としての、栄光の中にある王としてのキリストだった。十字架像でさえ、目を開いて堂々と立つ姿で表現されることが多い。
ところがこの時期を境に、苦しむ人間としてのキリストが前面に出てくる。十字架像はうなだれ、肋骨が浮き、血が流れるようになった。
信者に求められる態度も変わる。キリストの痛みを我が事として感じること、共に苦しむこと。これが最高の信心とされるようになる。
この転換を最前線で引っ張ったのが、ほかならぬフランチェスコと彼の修道会だった。
清貧と、キリストの生き様の文字通りの模倣を掲げ、貧しい人々のあいだで説教して歩いた彼らは、受難への集中的な黙想を広く普及させた。十字架の道行きという信心業が定着していくのも、この延長線上にある。
つまりフランチェスコの手に傷が現れたとき、それを受け止める文脈が、ちょうど社会に用意されたところだった。
もうひとつの土壌が、聖遺物の文化だ。
中世ヨーロッパは、聖人の骨や衣服の断片、聖十字架の木片、聖なる釘や槍といった物体に、途方もない価値を認める社会だった。都市も修道院も、有力な聖遺物を持つことで巡礼者を呼び、経済的にも政治的にも潤う。
この世界観のなかでは、聖性は抽象的な観念ではなく、物質に宿るものになる。
だとすれば、生きた人間の身体そのものが聖なるしるしを帯びるというのは、突飛な発想どころではない。当時の常識の、自然な延長になる。生きている聖遺物、という言い方をする研究者もいる。
実際、聖痕者の血や布片が信心の対象として保存された例は数多い。
写真と巡礼バスが、この現象を作り変えた
そして時代は近代に入る。ここで聖痕は、まったく新しい環境に置かれた。写真、新聞、映画、そして鉄道と自動車だ。
十九世紀までの聖痕者は、村と修道院の閉じた世界のなかで語られる存在だった。ところが二十世紀に入ると、彼らの姿は写真に撮られ、雑誌に載り、映画のニュース映像になる。
コナースロイトのテレーゼ・ノイマンは、まさにこの時代の申し子だ。血に濡れた顔の写真が複製されて広く出回り、それを見た人々がバスや列車を乗り継いで村に押しかけた。
カナダのマリー・ローズ・フェロンの茨の冠の傷も、繰り返し写真に収められている。
写真は証拠になると同時に、期待を作った。次に聖痕を受ける人は、その写真を見て育つのだ。
サン・ジョヴァンニ・ロトンドは、この構造の完成形と言っていい。
かつて巡礼者が徒歩とロバで登った山の町は、いまではイタリア有数の巡礼地になり、年間数百万人が訪れる。教会は巨大な新聖堂を建て、ホテルと土産物屋が立ち並び、ピオ神父の顔がプリントされたあらゆる商品が売られている。
聖痕という個人的で密やかな現象が、産業のスケールに達した瞬間だ。
ここには批判もある。信心が商業化されすぎているという声は、カトリック内部からも上がる。だが同時に、その巡礼が生んだ寄付があの病院を建て、地域の医療を支えてきたのも事実になる。単純な話ではない。
二十世紀末には、大衆文化がここに乗ってきた。
一九九九年の映画「スティグマータ 聖痕」は、信仰を持たない都会の女性に聖痕が現れ、教会の秘密調査官が派遣されるという筋立てで、日本でも劇場公開された。
作品としての評価は割れている。それでも、聖痕という単語を英語圏でも日本語圏でも一般名詞として定着させた功績は大きい。オカルト好きの多くが、この現象を最初に知ったのはこの映画経由のはずだ。
日本では三つの層に分かれて流通している
日本での受容は、ちょっと変わった経路をたどっている。
そもそもキリスト教人口が一パーセント前後という国だから、聖痕を信心として受け止める層は最初から極めて薄い。
カトリック教会関係の出版社が、フランチェスコやピオ神父の伝記を継続的に翻訳して刊行してきた。これがいわば正統ルートになる。
ピオ神父の記念日である九月二十三日には、日本国内の教会でも彼を紹介する記事や説教が出る。彼の絵札やメダイを扱う専門店も国内にある。
ところが、それとはまったく別の、もっと太いルートがあった。オカルト雑誌と超常現象特集だ。
一九七〇年代から八〇年代にかけて、日本の書店には世界の謎を集めた本が山積みになり、テレビでは超常現象の特番が高視聴率を取っていた。そのラインナップに、心霊写真やUFOや超能力と並んで、聖痕は必ず入っている。
文脈も何もなく、ただ手のひらから血が出る不思議な人々として紹介されたわけだ。神学も歴史も抜きの、純粋な怪奇現象としての扱いになる。
これはいまも尾を引いている。日本語で聖痕を検索すると、教会系の記事とオカルトまとめが同じ画面に並ぶ。
さらに横入りしてきたのが、前に触れたヨガの自伝経由の紹介だ。インドの行者が書いたベストセラーのなかにコナースロイト訪問記が入っていたおかげで、精神世界系の読者がテレーゼ・ノイマンの名前を知るという奇妙な流通が生まれた。
そこにアニメや漫画の影響も加わる。日本のフィクションでは、聖痕はしばしば主人公の特別さを示す紋章として、あるいは超常的な力の代償として描かれる。
宗教的な苦痛の意味は抜け落ちて、格好いい設定だけが残る。この抽象化は日本に限った話ではないが、キリスト教的な下地が薄いぶん、日本ではより徹底している。
結果として、日本語圏における聖痕のイメージは三層構造になった。教会の中の信心としての層、オカルト読み物としての層、そしてフィクションの意匠としての層。
この三つは、ほとんど交わらないまま並存している。だからこそ、歴史と医学と信心をまとめて通しで語る話が、日本語では意外なくらい少ない。この記事を書いている動機のかなりの部分は、そこにある。
いまはスマホの画面の中で起きている
現代の状況にも触れておきたい。二十一世紀に入っても、聖痕を主張する人は世界各地に存在する。おおまかな推計では、同時代に二百人規模がいるとも言われる。
カラブリアのナツッツァ・エヴォロは、二〇〇九年に亡くなるまで多くの信奉者を集めた。布に血で文字が浮かぶという現象で知られ、その文字にヘブライ語やアラム語が含まれていたという主張もあった。
彼女の場合、教区が二〇一九年に彼女の設立した財団を解散させるなど、教会側の対応は一貫して慎重だ。他にもイタリア、南米、フィリピン、東欧などから、断続的に報告が出ている。
現代ならではなのが、報告の広がり方になる。
かつては司教が調査団を送り、医師が報告書を書き、数年かけて評価が定まった。いまは動画が投稿されて、数時間で数百万回再生される。検証よりも拡散の方が圧倒的に速い。
オンラインの考察コミュニティでは、投稿された映像のフレーム単位の分析、傷の位置と角度の検討、照明と血の粘度の議論が飛び交う。懐疑派の分析は驚くほど技術的で、しばしば的確だ。
一方で、信じる側のコミュニティも同じ場所にいる。双方の議論は、ほぼ噛み合わないまま並走している。
超常現象の調査で知られたジョー・ニッケルのような懐疑派の調査者は、近年の事例の多くについて、偽装と区別がつかないと結論づけてきた。
彼らが強調するのは、傷が出る瞬間を第三者が管理された条件下で観察した記録が、驚くほど少ないという事実になる。ノイマンのときも、現代の事例でも、決定的な瞬間の直前に必ず何かが視界を遮る。この構造的な繰り返しは、確かに気になる。
それでも、この現象が消えることはないだろう。人が自分の身体で信仰を表現したいと願う限り、そして人の身体が心の状態にここまで敏感である限り、報告は出続けるはずだ。
なぜこの話は、こんなにも人を掴んで離さないのか
最後に、いちばん答えの難しい問いを置きたい。なぜ聖痕は、信者にも無信仰の人間にも、これほど強く刺さるのか。
ひとつは、証拠が身体にあるという分かりやすさだ。
神の声を聞いたと言われても、他人には検証しようがない。でも手に穴が開いていれば、見える。写真に撮れる。医者が測れる。
証明できるはずだという期待を、聖痕は他のどんな宗教現象より強く喚起する。にもかかわらず、実際には決して証明されない。
あと一歩で決着するはずなのに、絶対に決着しない。この構造が、人間の好奇心にとって最悪に中毒性がある。
ふたつめは、痛みの物語だ。
聖痕者はほぼ例外なく、長期の病や強烈な喪失を経験している。寝たきりだった人、失明した人、家族を次々に亡くした人。
彼らにとって聖痕は、意味のない苦しみを意味のある苦しみに変換する装置だった。私の痛みは無駄ではない、それは誰かの痛みと繋がっている。
この読み替えの力は、宗教の核心そのものになる。だからこの話は、宗教の話に見えて、実は苦しみをどう抱えるかという万人の話でもある。
三つめは、身体と心の境界が揺らぐことへの、根源的な畏れだ。
もし本当に、強く思うだけで皮膚が裂けるのだとしたら。心が身体をそこまで支配できるのだとしたら。
それは奇跡が否定されて安心する話ではなく、もっと不気味で、もっと深い謎が残る話になる。医学的説明は、この現象から神を追い出すかもしれない。だが不思議さは追い出せていない。
そして四つめ。この話には、いつも人がいる。
山にこもった疲れ果てた中年の男がいて、監視付きの部屋で三週間耐えた病身の元修道女がいる。木曜の夜に痛みで眠れなかった二十一歳がいて、村中の視線を浴び続けた女性がいた。そして、包帯を五十年巻き続けた老司祭がいる。
彼らが本当は何を経験したのか、私たちには永遠に分からない。分からないけれど、その分からなさに敬意を払いながら、記録を突き合わせ、証言を並べ、疑い、また考える。
この作業自体がやたら面白い。聖痕という主題が八百年間手放されずにきた理由は、たぶんそこにある。
四本の軸で見ると、矛盾が矛盾でなくなる
ここまで通しで並べてきて、あらためて浮かび上がる構造をまとめておきたい。
聖痕を眺めるとき、私たちはつい、本物か偽物かという一本の軸で考えたくなる。だがこの軸は、実のところほとんど何も説明しない。
本当に必要なのは、少なくとも四本の軸だ。身体で何が起きているかという医学の軸がある。それを誰がどう見て記録したかという証言の軸があり、その記録を組織がどう処理したかという制度の軸がある。そして、それらが置かれた文化がどんな形をしていたかという時代の軸が要る。
この四本を分けて考えると、これまで矛盾に見えていたものが、きれいに整理され始める。
たとえば、傷の位置の問題。医学の軸だけで見れば、手のひらの傷は磔刑の物理学と合わない、で終わってしまう。
だが時代の軸を入れると、聖痕者たちが見て育った十字架像がすべて手のひらだったという事実が効いてくる。さらに証言の軸を入れると、観察者もまた手のひらに傷があることを期待して見ていたと分かる。
ここまで来て初めて、傷が事実ではなくイメージに従うという現象の全体像が見えてくる。
そしてさらに面白いのは、この構造を認めたとしても、じゃあなぜ実際に血が出るのかという問いはまったく解決していない点だ。
文化は傷の場所を決めることはできても、皮膚から血を出すことはできない。イメージが位置を決め、身体が血を出す。この二重構造こそが、聖痕という現象の核だと思う。
制度の軸についても、もう少し踏み込んでおきたい。
カトリック教会が聖痕に取ってきた態度は、外から見ると分かりにくいほど厳しい。だがこれは、教会が奇跡を軽んじているからではなく、むしろ奇跡という概念を守りたいからだ。
もし誰かが手のひらから血を出しただけで聖人扱いされる制度なら、その制度は数十年で崩壊する。
だから教会は、現象そのものを認定の根拠から慎重に外し、代わりに徳の積み重ねという、地味だが偽装のしにくい基準を置いた。ピオ神父の列聖も、その論理の上にある。
彼が聖人とされたのは、傷があったからではない。告解室で何十年も人の話を聞き続け、病院を建て、制限を課された年月を沈黙で耐えたからだ。
この順序は、聖痕を語るときに絶対に取り違えてはならないところだと思う。
逆に言えば、彼をめぐる疑義がどれほど提出されようと、それは彼の人格の全体を打ち消すものではない。同時に、その疑義が存在した事実を消してしまうのも不誠実になる。
両方を並べて置いておく。それがこの主題に対する唯一まともな態度だと、書き終えたいま強く思う。
記録の九割が女性だった、という事実の重さ
書きながら気になり続けていたのが、聖痕者の圧倒的な女性比率だ。九割前後という数字は、偶然で説明できる幅を完全に超えている。
ここには複数の要因が重なっている。
医学的な要因としては、心因性紫斑の症候群が女性に強く偏るという事実がある。
社会的な要因としては、中世から近代にかけて、女性が宗教的な権威にアクセスする経路が極端に限られていたことが大きい。説教ができない、司祭になれない、神学を学ぶ機会も乏しい。
そのなかで、身体に直接しるしが現れるという現象は、制度を通さずに霊的な権威を得られる、ほとんど唯一の回路だった。
シエナのカタリナが教皇を動かせたのも、彼女が神秘家として認知されていたからだ。聖痕は、声を持たなかった人々が声を持つための言語だった。この読み方は、たぶんかなり本質を突いている。
そして同時に、その回路を選んだ人々が払った代償の大きさも忘れたくない。彼女たちの多くは、若くして病み、若くして死んでいる。
この話は、いちばん面白いところに差し掛かっている
最後に、この現象の現在地について。
二十一世紀の私たちは、心と身体の相互作用について、二十世紀初頭の医師たちよりはるかに多くを知っている。
プラセボが実際に測定可能な生理的変化を起こすこと。慢性的なストレスが免疫や皮膚の状態を大きく変えること。解離状態で人が自分の行為を自覚しないまま実行しうること。
これらはもう論争的な仮説ではなく、標準的な知識になっている。
この知識を持って聖痕を眺めると、この現象はオカルトの棚から医学の棚へ、静かに移動しつつあるように見える。
だがそれは、話がつまらなくなったということでは全然ない。
むしろ逆だ。人間の心がどこまで身体を書き換えられるのかという問いは、超自然の存在を仮定するより遥かに射程が広く、遥かに検証可能で、遥かに私たち自身の話になる。
八百年前にラヴェルナの岩山で始まった話は、いまも終わっていない。終わっていないどころか、いちばん面白いところに差し掛かっているのかもしれない。
次に手のひらから血を流す誰かが現れたとき、私たちがどんな目でそれを見るのか。その視線のあり方こそが、この八百年で私たちが何を学んだかの答え合わせになるはずだ。
