スウェーデンの王立鉱山局に、とんでもなく優秀な役人がいた。鉱山の測量から製鉄技術、通貨政策まで一手に引き受ける実務家。ラテン語で分厚い科学書を何冊も出し、貴族院にも議席を持っていた。57歳まで、その男の人生に怪しいところは一つもなかった。ところがある日を境に、彼は天使と会話しはじめる。
しかも死ぬまで27年間、それをやめなかった。エマヌエル・スウェーデンボルグ。近代ヨーロッパが生んだ、いちばん説明のつかない男の話をする。
- ウプサラの神童――11歳で大学に放り込まれた男
- 空飛ぶ機械と潜水艦の設計図を書いた男
- 血と脳を追いかけて――気づけば魂の在処を探していた
- 1743年、夢日記がだんだんおかしくなっていく
- 1745年4月、ロンドンの安宿で起きたこと
- 『天界の秘義』――匿名で8年、全8巻の怪物
- 天界と霊界と地獄――三階建ての世界
- 地獄に悪魔はいない、という話
- 「照応」という、彼の思想のいちばん奥にある鍵
- 霊視事件その一――ヨーテボリの晩餐会で叫んだ男
- 霊視事件その二――消えた領収書はどこへ行った
- 霊視事件その三――女王が青ざめた日
- カント『視霊者の夢』――あれは壮大な照れ隠しだった
- ヨーテボリの異端審問――老人は本気で裁判にかけられた
- 自分が死ぬ日を予言して、その通りに死んだ
- 死後15年で教団ができた
- ブレイク、エマソン、バルザック――そしてヘレン・ケラー
- 近代スピリチュアリズムの父、ということになっている
- 鈴木大拙が2か月で訳した『天界と地獄』
- なぜこの話は、ここまで信じられたのか
ウプサラの神童――11歳で大学に放り込まれた男
生まれは1688年1月29日、ストックホルム。父はイェスペル・スヴェードベリという聖職者で、のちにスカラの主教まで登り詰める大物だ。この父親がまた癖の強い人でな。ルター派の正統派でありながら、天使や霊の実在を本気で信じていて、家の中でその手の話を平気でした。息子は後年、こう振り返っている。
子どものころから自分は霊のことばかり考えている。両親は「この子は天使を通してしゃべっている」と言っていた、と。血は争えないというやつだ。11歳でウプサラ大学に入学している。当時のスウェーデンでは飛び抜けて早いわけでもないが、それでも早い。
姉の夫であるエリック・ベンゼリウスがウプサラ大学の図書館長で、この義兄が事実上の教育係になった。
ベンゼリウスは当時のスウェーデンでは珍しく、ヨーロッパの最新の学問を追いかけていた人物だ。少年スウェーデンボルグにニュートンの名前を吹き込んだのもこの人だ。1709年に大学を出ると、翌1710年にはロンドンへ渡る。ここからの遊学が、彼の人生を決定づけた。ロンドンでの過ごし方が異常だった。
金がないので職人の家に下宿するんだが、下宿先を次々に変えていく。
時計職人の家、家具職人の家、真鍮細工師の家、レンズ磨きの家。そのたびに親方の技を盗んで、道具の使い方を覚えていった。本人が義兄に書き送った手紙に、そう書いてある。彼は理論を紙の上で読むだけの学者になるつもりがなかった。手を動かして自分で作れないものは分かったことにならない、という思想の持ち主だったんだよな。
天文台にも通い詰めてフラムスティードの観測を見学し、ハレーやニュートンの著作を読み漁った。ニュートン本人に会おうとして果たせなかった、という話も残っている。
空飛ぶ機械と潜水艦の設計図を書いた男
帰国後の彼は、要するにスウェーデンの科学振興の中心人物になる。1716年から18年にかけて『北方のダイダロス』という科学誌を刊行した。北欧初の科学雑誌と言っていい。ここに載せた図面がえげつない。固定翼と操縦席を持つ滑空機の設計図。
潜水艇の構想、空気銃、水圧式の揚水装置、船を陸上で運ぶための機構。26歳のころに描いたとされる飛行機械の図は、いまもスミソニアンに関連資料が残っている。
動力さえあれば理屈の上では飛べる形をしていたと評価されている。ライト兄弟の190年前だぞ。1716年、カール12世に見出されて王立鉱山局の臨時監督官に任命される。この王様がまた戦争ばかりしている人で、スウェーデンボルグはノルウェー遠征のときに軍艦を陸路で山越えさせる装置を設計して実際に運用させた。
1719年、一家が貴族に叙される。姓がスヴェードベリからスヴェーデンボリ、つまりスウェーデンボルグに変わる。以後、貴族院に議席を持つ身分になった。通貨や酒税や鉄鉱石の輸出について、彼は真面目に政策提言を書いている。徹頭徹尾、実務の人だった。
科学者としての本丸は1734年の『哲学的・鉱物学的著作』、通称『プリンキピア』と呼ばれる第一巻だ。
ここで彼は、宇宙の物質が無限に小さな渦運動の点から積み上がっていくという壮大な理論を展開した。原子論とも波動論ともつかない、独特の宇宙生成論だ。星雲から太陽系ができたという説を、カントやラプラスより先に書いていたという指摘もある。結晶学の分野でも先駆者の一人に数えられている。要するに、この時点で彼は「ヨーロッパの片隅にいる一流の科学者」として完全に確立していた。
血と脳を追いかけて――気づけば魂の在処を探していた
40代後半から、彼の関心が急に生理学と解剖学に振れる。1740年から41年に『経済的な魂の王国』、44年から45年に『動物の王国』を出した。目的ははっきりしていた。魂が肉体のどこにあるのかを、解剖学的に突き止めることだ。当時としては正気の研究テーマではあった。
デカルト以来、松果体だの脳室だのと候補が挙がっていたからな。彼が特に執着したのが大脳皮質と脳脊髄液だった。脳が呼吸に同期してゆっくり膨張収縮しているという観察を書き残している。これは現代の脳科学から見ても筋のいい記述だと評価されることがある。大脳皮質が精神活動の座であるという主張も、当時としてはかなり先を行っていた。
ところが、書けば書くほど答えが遠のいていく。血液を追い、繊維を追い、神経を追い、それでも魂は出てこない。1744年ごろの彼は、ヨーロッパ中の解剖学の文献を頭に詰め込んだ上で、完全に行き詰まっていた。そこへ、あれが来る。
1743年、夢日記がだんだんおかしくなっていく
1743年の夏からオランダを回り、1744年にはロンドンへ。この旅行のあいだ、彼は個人的な日記をつけていた。のちに『夢日記』と呼ばれるやつだ。生前は一切公開されていない。死後もしばらく行方が知れず、19世紀に発見されて世に出た。
これが実に生々しい。最初のうちは普通の旅日記なんだ。船が揺れた、宿が高い、あの学者に会った。それが秋を過ぎるあたりから崩れていく。眠っていると体が震える。
強烈な光が見える。ベッドの上で体が持ち上げられるような感覚がある。誰かに抱きしめられる夢を見る。自分の傲慢さを責める夢を見る。歯が抜ける夢を見る。
そして彼は、それをいちいち几帳面に記録した。科学者の癖が抜けないんだよな。異常事態に襲われながら、症例報告みたいに書き続けている。1744年4月、デルフトでの復活祭の夜が有名だ。祈っていると、目の前にイエス・キリストが現れた、と彼は書いている。
「これでいいのか」と問われ、彼は泣きながら答えたという。日記には、自分がキリストの胸に顔をうずめて泣いたという描写まである。翌朝の記述は妙に静かで、自分は選ばれたのだと確信した、といったことが書いてある。この時期の日記には、性的な夢や自己嫌悪の記述も遠慮なく出てくる。後世の信奉者にとっては都合が悪いくらい人間くさい文書で、だからこそ偽作ではなさそうだ、とも言われている。
1745年4月、ロンドンの安宿で起きたこと
決定打は1745年の4月、ロンドンだ。この話は彼が晩年、複数の知人に直接語ったものが伝わっている。宿の食堂で夕食をとっていた。よく食べる人だったらしく、その日もがっついていた。すると視界が霧のように暗くなり、床に爬虫類のようなものが這い回るのが見えたのだ。
真っ暗になったところで、部屋の隅に人影が現れた。その人物は、はっきりとこう言った。「食べ過ぎるな」。それだけ言って消えた。彼は震えながら宿に戻り、その晩、同じ人物が再び現れる。
今度は自分は神であると名乗り、聖書の霊的な意味を人々に明かすために君を選んだ、と告げた。そして同時に、彼の霊的な視力が開かれた。この日から死ぬまで、彼は霊界と現世を自由に行き来できるようになった、と主張する。この話の面白いところは、最初の言葉が「食べ過ぎるな」であることだ。神の啓示にしてはあまりに間が抜けている。
だが逆に、作り話ならこんなセリフは選ばないという見方もできる。彼は聞いた通りに伝えただけなんだろう。ちなみにこの宿の場所については諸説ある。ロンドンのビショップスゲート近辺だったという伝承が根強いが、確定していない。
『天界の秘義』――匿名で8年、全8巻の怪物
1747年、彼は王立鉱山局に辞表を出した。給料の半分を年金として受け取り、以後は著述に専念する。同僚たちは驚いたが、彼は理由を説明しなかった。そしてヘブライ語を猛勉強しはじめる。59歳での語学の詰め込みだ。
頭の作りが違う。1749年から1756年にかけて、ロンドンで『天界の秘義』が刊行された。ラテン語、全8巻。著者名は書いていない。匿名だ。
内容は創世記と出エジプト記の逐語的な注解で、一句一句に霊的な意味を当てはめていく。そこに、霊界で見聞きしたという報告が挟み込まれる形式になっている。分量が異常でな。日本語訳にすれば数千ページ規模になる。しかも彼は出版費用を全額自腹で払い、売り上げは全部寄付に回した。
無名の匿名本が売れるはずもなく、初期の売り上げはほとんどゼロだったという記録が残っている。その後も彼は書き続けた。1758年だけで『天界と地獄』『最後の審判』『新エルサレムとその天界の教義』『白馬』『地球以外の諸地球』を一気に出している。『地球以外の諸地球』は今読むと相当ぶっ飛んでいて、月や火星や金星や木星や土星の住人たちと会話した記録が延々と続く。
木星人は四つん這いで歩き、顔がよく発達していて、嘘をつかない。火星人は言葉ではなく顔で語る。この本があるせいで、彼は近代のコンタクティー、つまり宇宙人交信者の元祖に数え上げられることもあるんだよな。
天界と霊界と地獄――三階建ての世界
彼の描いた死後の世界は、驚くほど具体的で、驚くほど官僚的に整理されている。人は死んでも、自分が死んだことにすぐ気づかない。これが彼の基本線だ。死後、人はまず「霊たちの世界」に入る。ここは天界と地獄の中間にある広大な中継地帯で、地上の生活とほとんど区別がつかない。
家があり、街があり、仕事があり、会話がある。だから多くの霊が、自分はまだ生きていると思い込んで平然と暮らしている。彼はそういう霊と何度も話をして、「あなたは死んでいますよ」と告げたと書いている。相手はたいてい信じない。この描写が異様に説得力があってな。
20世紀の臨死体験の証言と重なる部分が多いと、繰り返し指摘されてきた。霊たちの世界での滞在は、数日から数十年に及ぶ。ここで人は少しずつ外面の仮面を剥がされていく。地上で被っていた社会的な人格が落ち、内側の本当の愛だけが残る。この過程を彼は「外なるものが脱がれる」と表現した。
そして最後に、その人の本質的な愛が向かう方向へ、自分の足で歩いていく。天界の方向へ歩く者は天界へ入り、地獄の方向へ歩く者は地獄へ落ちる。誰も裁かない。誰も突き落とさない。自分で選んで自分で行くんだ。
天界は三層になっている。いちばん奥の天的天界、中間の霊的天界、外側の自然的天界。それぞれの層はさらに無数の社会に分かれていて、似た愛を持つ者同士が集まって共同体を作っている。天使は最初から天使だったのではなく、全員が元人間だ。天界には家があり、庭があり、都市があり、学校があり、結婚がある。
天使たちは働いている。歌って過ごしているのではなく、それぞれの職務を持ち、共同体の役に立つことをしている。彼の天界観のいちばん独特な点はここだ。天国とは休息ではなく、有用な仕事そのものだと彼は言い切った。
地獄に悪魔はいない、という話
地獄の描写も奇妙だ。悪臭のする沼、廃墟、洞窟、汚れた小屋。そこで霊たちが互いに支配し合い、傷つけ合っている。だが、そこを統べる大魔王はいない。サタンという固有名の存在も、ルシファーという堕天使もいない。
彼にとって悪魔とは、地上で自己愛と支配欲に生きた人間の成れの果てのことだ。悪魔は元人間である。それだけだ。しかももっと不気味なことに、地獄の住人は地獄を出たがらない。彼らにとって天界の光は焼けつくように痛く、天界の空気は息が詰まる。
だから自分から悪臭のする穴に逃げ帰っていく。神は誰も地獄に落とさない。人が自分でそこを選ぶ。この理屈が、当時のルター派神学からすると大問題だった。神の裁きも罰も出てこないからだ。
同時に、これがあとの時代に受けた最大の理由でもある。恐怖で脅す地獄ではなく、自己選択の結果としての地獄。近代人の感覚にやたらと馴染むんだよな。
「照応」という、彼の思想のいちばん奥にある鍵
ここまでの話をまとめる装置が「照応」だ。原語ではコレスポンデンス。彼の全思想の背骨と言っていい。自然界のあらゆるものは、霊界のあらゆるものの写しである。これが照応の教説だ。
太陽は神の愛に照応する。光は真理に照応する。熱は善に照応する。心臓は愛に、肺は理解に照応する。馬は知性に、羊は無垢に、蛇は感覚的な狡さに照応する。
石は真理の外側の形に、水は真理そのものに照応する。この対応表が頭に入っていると、聖書は全然違う本に見えてくる、と彼は言う。ノアの洪水は水害の記録ではなく、古代教会の霊的な滅亡を記した文書になる。エジプトは学問と記憶知を意味し、そこからの脱出は理性の奴隷状態からの解放を意味する。彼はこの照応の知識を、古代人はみな持っていたと主張した。
エジプトの象形文字も、ギリシャの神話も、もとは照応の言語だったが、時代が下るにつれて意味が忘れられる。ただの偶像崇拝や作り話に堕したのだ、と。この「失われた古代の叡智」という筋書きは、19世紀のオカルティストたちがこぞって採用する定型になっていく。神智学もそう、黄金の夜明けもそう。象徴主義の詩人たちが「万物は照応する」と歌ったとき、その言葉の出どころはこの老人だった。
霊視事件その一――ヨーテボリの晩餐会で叫んだ男
さて、彼の名前を全ヨーロッパに轟かせたのは、神学書ではない。三つの事件だ。順に見ていく。1759年7月19日の夕方。彼はイギリスから船で帰国し、ヨーテボリに上陸した。
ストックホルムまでは400キロ以上、当時の街道で数日かかる距離だ。地元の商人ウィリアム・カステルの屋敷で歓迎の晩餐が開かれ、15人ほどが集まっていた。午後6時ごろ、庭に出ていた彼が真っ青な顔で戻ってくる。そして言った。ストックホルムで火事が起きている、と。
そこからが尋常じゃない。彼は落ち着かず、何度も外へ出ては戻ってきた。そのたびに実況を続ける。火はスーデルマルム地区で燃えている。私の友人の家はもう焼けた。
火はどんどん広がっている。私の家も危ない。そして午後8時ごろ、彼は安堵の表情でこう告げた。消し止められた。私の家から三軒目で火は止まった、と。
その場にいた人々は動揺した。当然だ。ヨーテボリはストックホルムから離れすぎている。翌日、話は街中に広まり、総督が彼を呼び出して直接説明を求めた。彼は火の出た場所、燃え広がった方向、焼けた家の数、鎮火の時刻まで詳しく述べた。
そして二日後、ストックホルムから商人組合の急使が到着する。火事の報せだった。内容は一致していた。三日後には王室の急使が来て、被害の詳細が届く。これも一致していた。
これがヨーロッパ中で語られた話の骨格だ。ただし正直に言うと、記録の面ではかなり厄介な事件でもある。晩餐に居合わせた15人の名簿は残っていない。ヨーテボリの新聞にはこの騒ぎの同時代報道が見当たらない。カントが伝聞を書き留めたのは1766年、事件の7年後だ。
カントの手紙とされる文書には「1756年9月」という誤った日付が書かれていたりもする。実際の火災は7月19日の木曜、午後4時過ぎに出火して翌朝まで燃えたと記録されているが、伝承では土曜の出来事になっていたりする。細部が語り継がれるうちに揺れているんだよな。それでも、事件から数年のうちにヨーロッパ中の知識人がこの話をしていたことだけは間違いない。
霊視事件その二――消えた領収書はどこへ行った
二つ目はもっと生活感のある話で、個人的にはこれがいちばん好きだ。ストックホルム駐在のオランダ公使にド・マルテヴィルという人物がいた。彼が死んだあと、未亡人のもとに銀細工師から請求書が届く。故人が生前に注文した高価な銀食器の代金がまだ払われていない、という内容だ。額がでかい。
未亡人は、夫は几帳面な人で払わないはずがないと確信していた。だが家中を探しても領収書が出てこない。証拠がなければ二重払いするしかない。困り果てた彼女は、噂の視霊者を訪ねた。夫に聞いてくれませんか、と。
彼は引き受けた。数日後、彼女の家で開かれた集まりに現れて、こう告げる。ご主人と話しました。二階の部屋にある書き物机の、上から二番目の引き出しを抜いてください。その奥に板があって、隠しの仕切りになっています。
そこに領収書と、これこれの手紙が入っています。一同ぞろぞろと二階へ上がった。この場面の描写が伝承ごとに微妙に違うんだが、共通しているのは、引き出しを抜いた奥に確かに隠し板がある。そこから領収書が出てきたということだ。オランダ語で書かれた重要な書簡も一緒に入っていた。
未亡人は二重払いを免れた。カントはこの話を、火事の話より信頼できるかもしれないという扱いで書き留めている。種明かしを試みる人ももちろんいる。故人が生前に机の仕掛けを誰かに話していて、それが巡り巡って耳に入ったのではないか。あるいは当時の高級家具に隠し引き出しがあるのは常識で、当てずっぽうが当たっただけではないか。
どちらも筋は通る。ただ、引き出しの段数まで指定していたという伝承が正しいなら、当てずっぽうにしては精度が高すぎる。
霊視事件その三――女王が青ざめた日
三つ目が、いちばん政治的に重い事件だ。当時のスウェーデン王妃ロヴィーサ・ウルリカは、プロイセン王フリードリヒ大王の妹にあたる。1758年6月、彼女の弟アウグスト・ヴィルヘルムがプロイセンで死んだ。姉弟の仲は複雑で、いろいろ心残りがあったらしい。その年の秋、宮廷に招かれたスウェーデンボルグに、王妃は半ば冗談まじりに言った。
あなた、霊と話せるんですってね。じゃあ弟に会って、聞いてきてくださらない。彼は承知した。周りの貴族たちは笑っていたと思う。宮廷の余興だ。
数週間後、彼は再び宮廷に現れる。そして王妃に、人払いを願い出た。二人だけになった窓際で、彼は何かを短く伝えた。証言によれば、王妃は顔色を失い、よろめいて椅子にすがったのだ。そして言ったという。
それは、この世で私と弟しか知らないことです、と。側にいた侍女が、王妃が真っ青になっていたと証言している。内容が何だったのかは、ついに明かされなかった。王妃自身が生涯口を閉ざした。だからこの事件は、中身が空っぽのまま、衝撃の反応だけが伝わっている。
カントは、この話は大使の報告から来ていて特別に調査もされたと書き、三つの中で最も信憑性が高いと評価した。一方で懐疑側の説明も存在する。当時のスウェーデン宮廷は帽子党と夜会帽党の政争の真っ只中で、王妃はクーデター未遂の当事者でもあった。彼女の私的な事情に通じた人間は宮廷に何人もいた。スウェーデンボルグ自身も貴族院議員で、有力政治家のホプケン伯爵と親しかったのだ。
情報が耳に入る経路はいくらでもある、という指摘だ。ただし、それだと王妃のあの反応の説明にはなりにくい。彼女が「私と弟しか知らない」と断言した以上、宮廷の噂話ではないことになるからな。もっとも、その断言自体が後世の脚色である可能性も当然ある。
カント『視霊者の夢』――あれは壮大な照れ隠しだった
ここでイマヌエル・カントが登場する。哲学の教科書に必ず出てくるあのカントだ。1760年代前半、ケーニヒスベルクの若い私講師だったカントは、この北欧の視霊者の噂に完全に取り憑かれていた。ただの物好きではない。彼は自腹で調査している。
イギリス人の知人を通じてスウェーデンボルグ本人に手紙を書かせた。ストックホルムへ行く友人には現地調査を頼んだ。そして『天界の秘義』全8巻を、7ポンドという当時としては馬鹿にならない額を払って取り寄せた。ラテン語の分厚い本を、彼は最後まで読んだ。その結果が1766年、匿名で出版された『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』だ。
日本では『視霊者の夢』の名で知られる。この本の調子がひたすら妙でな。
全編が皮肉と自嘲でできている。霊界の話を大真面目に検討するふりをして、最後には「これは形而上学そのものへの当てこすりだ」という方向に着地する。霊魂の存在を空想で語る哲学者と、霊を見たと言い張る老人と、何が違うのか。どっちも同じ夢想家じゃないか、と。カントが本当に言いたかったのは、この一撃で当時のドイツ形而上学、つまりヴォルフ学派の空中楼閣を叩き潰すことだった。
だからスウェーデンボルグは、いわば標的の身代わりにされた面がある。実際カントは同じ本の中で、三つの霊視事件を「否定しがたい」という調子で紹介してもいるんだよな。読者は混乱する。信じているのか信じていないのか分からない。そして大事なのは、この本の後にカントの哲学が決定的に変わったことだ。
『純粋理性批判』の中心的な制限は、人間の理性が経験の外側について何かを知ることはできない、というものだ。この制限は、この視霊者との格闘の中で形になったと見る研究者は多い。つまり近代哲学の最大の分水嶺の裏側に、この老人の霊界話が挟まっている。スウェーデンボルグ側の人々はこれを「カントは負けを認められなかっただけだ」と言う。カント研究者は「あれは方法論的な決別だ」と言う。
どちらも譲らない。
ヨーテボリの異端審問――老人は本気で裁判にかけられた
1768年から1770年にかけて、スウェーデン国内で本格的な騒動になる。きっかけはヨーテボリだった。この街の高等学校の教師ガブリエル・ベイエルと、同僚のヨハン・ローセーン。この二人の聖職者が、スウェーデンボルグの著作に傾倒して説教に取り入れはじめた。これに神学教授オーロフ・エークボムが噛みついたのだ。
異端であると告発したんだ。
ヨーテボリの教区会議が動き、王立控訴院が動き、ついには国王評議会にまで話が上がった。争点は明確だった。スウェーデンボルグはルター派の根幹である信仰義認、つまり信仰のみによって救われるという教義を全否定していたのだ。三位一体についても、父と子と聖霊が三つの位格であるという教会の正統教義を「三神論だ」と切り捨て、神は一つの人格しかないと主張していた。これは当時のスウェーデンでは完全にアウトだ。
彼の著作の輸入と頒布が事実上禁じられ、ベイエルとローセーンは職を失いかけた。このとき80歳を過ぎていた老人は、退かなかった。国王グスタフ3世に上訴し、貴族院議員としての立場から弁明書を出したのだ。私の著作は主から直接与えられたもので、人間の教会会議が裁けるものではない、というのが彼の主張だ。裁判は決着しないまま、彼の死によってうやむやに終わった。
結局のところ、彼が焚刑を免れたのは貴族の身分と王室の庇護があったからだ。もし彼が平民だったら、と考えるとぞっとする。ヨーロッパで最後の魔女裁判が行われてから、まだ何十年も経っていない時代の話だからな。
自分が死ぬ日を予言して、その通りに死んだ
最晩年、彼は1771年に最後の大著『真のキリスト教』をアムステルダムで出し、ロンドンへ渡る。そして1771年の暮れに脳卒中で倒れ、しばらく話せなくなった。この時期の逸話がすさまじい。メソジストの創始者ジョン・ウェスレーが、スウェーデンボルグに会ってみたいと仲間内で口にしていた。まだ本人には何も伝えていない。
そこへ突然、スウェーデンボルグから手紙が届く。あなたが私に会いたがっていることを霊界で知らされました、と書いてあった。ウェスレーは仰天して、記録にそのことを残している。ただし彼は巡回説教で忙しく、面会は先延ばしになった。そのうちに老人は死んでしまう。
ウェスレーはのちに、スウェーデンボルグを狂人扱いする文章を書いているが、あの手紙のことは否定していない。そして最期。彼はロンドンのクラーケンウェルにある下宿に住んでいた。家主はリチャード・シーアズミスというかつら職人で、家政婦のエリザベス・レイノルズが世話をしていた。1772年の初め、彼は二人にこう告げたのだ。
私は3月29日に霊界へ行きます、と。日付まで指定した。彼らは半信半疑だった。3月29日の午後、彼は時計を尋ねたのだ。時刻を聞くと、ありがとう、神の祝福を、と言って静かに息を引き取った。
家政婦は後年、この一部始終を証言し、まるで嬉しい用事に出かける人のようだったと語っている。臨終の少し前、牧師に「あなたの書いたことは真実ですか、それとも作り話ですか」と問われ、彼はこう答えたとされる。私が書いたことはすべて真実です。もっと書けたはずでした。遺体はロンドンのスウェーデン人教会に葬られた。
1908年、スウェーデン政府が遺骨の返還を求め、軍艦で本国へ運んで、ウプサラ大聖堂に安置したのだ。国家として彼を偉人と認めたわけだ。ちなみに頭蓋骨が一時期行方不明になって競売に出回るという珍事があり、1978年にようやく墓に戻された。死んでからも話題に事欠かない男だ。
死後15年で教団ができた
彼自身は、新しい教会を作れとは一言も言っていない。既存の教会の中で教えが理解されればいい、というのが彼の立場だった。ところが人間はそうならない。1782年から83年ごろ、ロンドンの印刷業者ロバート・ハインドマーシュが新聞に広告を出した。スウェーデンボルグの著作に関心のある方は連絡を、という趣旨だ。
反応はたった数人。セントポール大聖堂近くのコーヒーハウスに、五、六人が集まった。それが始まりだ。1787年には独立した教派として組織される。1788年1月27日、グレート・イーストチープの礼拝堂で最初の公的な礼拝が行われた。
新エルサレム教会、通称ニュー・チャーチの誕生である。1789年4月には第一回総会が開かれた。この総会の参加者名簿に、ある夫婦の署名が残っている。ウィリアム・ブレイクとキャサリン・ブレイク。あの詩人にして画家のブレイクだ。
彼はスウェーデンボルグの本に書き込みをしながら読み、影響を受け、そして反発した。翌1790年に出した『天国と地獄の結婚』は、タイトルからしてスウェーデンボルグへの真っ向からの挑戦になっている。ブレイクは書いた。スウェーデンボルグの著作は既存の教義の焼き直しにすぎず、彼は天使としか話さなかったから天使の意見しか持ち帰らなかったのだ、と。辛辣だ。
だが、その辛辣さ自体が影響の深さを証明している。アメリカへは1784年、ジェームズ・グレンという人物がフィラデルフィアで講演したのが最初とされる。1792年にはボルティモアで最初の教会ができた。そしてこの教派の宣教史でいちばん愉快なのが、ジョン・チャップマンという男だ。開拓地を裸足で歩き回り、リンゴの苗木を配って歩いた伝説の人物、ジョニー・アップルシード。
彼は熱心な新教会信者で、スウェーデンボルグの本を持ち歩き、開拓民に配るために本をページごとに引きちぎって渡していたという。次の家に行ったら続きを渡す。分割払いの聖典配布だ。アメリカ開拓史の民話の中に、スウェーデンボルグはこっそり紛れ込んでいる。19世紀末には統治方式をめぐって分裂が起き、1897年にジェネラル・チャーチが分かれた。
本拠地はペンシルベニア州ブリン・アシン。ここには壮麗なゴシック様式の大聖堂が建っていて、いまも新教会の中心地になっている。日本にも複数の系統の関連組織があり、東京で活動が続いている。
ブレイク、エマソン、バルザック――そしてヘレン・ケラー
信者の数で言えば、新エルサレム教会は世界的にはごく小さな教派だ。ところが影響の広がりは規模とまるで釣り合わない。文学と思想の世界に、この老人の指紋はべたべた付いている。ラルフ・ウォルドー・エマソンは『代表的人間像』という本の中で、スウェーデンボルグを人類の代表的な六人の一人に選んだ。プラトンやシェイクスピアやナポレオンと並べて、である。
ただしエマソンの評価は両義的で、この人は途方もない天才だが、自分の神学の檻に閉じこもってしまった、という留保をつけている。オノレ・ド・バルザックは完全にやられていた。『セラフィタ』という小説は、スウェーデンボルグの天使論をそのまま骨組みにした作品だ。両性具有の天使的存在が北欧の氷の峡谷で人々を導く話で、バルザック本人が自分の最高傑作だと考えていた。
ボードレールの詩「万物照応」も、スウェーデンボルグ経由の照応思想が土台にある。象徴主義という文学運動の根っこの一本は、確実にここに繋がっている。ヘレン・ケラーは、生涯にわたる新教会の信者だった。1927年に『私の宗教』という本を書いて、自分の信仰がスウェーデンボルグに基づいていることを公にしている。
見えず聞こえない世界に生きた人が、目に見える世界はすべて目に見えない世界の写しである、という照応の教説に出会ったとき何が起きたか。彼女はこう書いている。この教えは、私の暗闇に窓を開けた、と。この一点だけでも、この思想がただの珍説では終わらなかったことが分かる。ほかにも、ゲーテ、ドストエフスキー、イェイツ、ストリンドベリ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス。
名前を挙げていくとキリがない。カール・グスタフ・ユングも若いころにスウェーデンボルグを読み込んでいて、共時性の概念の背景にこの読書があったと指摘されている。
近代スピリチュアリズムの父、ということになっている
19世紀半ば、アメリカで心霊主義が爆発する。1848年のニューヨーク州ハイズヴィルで、フォックス姉妹の家に叩音現象が起きた。あれが近代スピリチュアリズムの公式の出発点とされる。だが、その下地を作った男が別にいる。アンドリュー・ジャクソン・デイヴィス、通称ポキプシーの予言者だ。
デイヴィスはニューヨーク州の靴屋の徒弟で、ほとんど無教育だった。ところが磁気催眠のトランス状態に入ると、突然びっくりするほど流暢な講話を始める。1844年、彼は森の中で幻視を体験し、そこでガレノスとスウェーデンボルグの霊に会ったと主張した。以後、彼の口述筆記による大著が次々に世に出る。1847年の『自然の原理』は当時のベストセラーになった。
その内容は、はっきり言ってスウェーデンボルグの霊界論の焼き直しに近い。つまりこういう流れだ。スウェーデンボルグが霊界の地図を書く。それがアメリカに渡り、デイヴィスが平易な言葉と磁気催眠という当時の流行技術に載せ替える。そこへフォックス姉妹の叩音が来て、誰でも霊と話せるという実践面が加わる。
こうして近代スピリチュアリズムができあがった。死後の世界には階層があり、魂は成長し、霊は生者と交信できる。この基本セットは、ほぼ全部スウェーデンボルグ由来だ。だから新教会の人々は複雑な顔をする。彼らにしてみれば、スウェーデンボルグ本人は霊媒行為を厳しく戒めていた。
生きた人間が自分から霊を呼び出すのは危険だ、たちの悪い霊に取り憑かれるだけだと繰り返し書いている。自分の場合は主から特別に開かれたのであって、真似をするなという立場だ。にもかかわらず、彼は霊媒たちの守護聖人みたいな扱いになった。19世紀のイギリスでは、新教会と心霊主義者のあいだで論争が起きている。うちの先生を勝手に旗印にするな、というわけだ。
この綱引きは今も続いている。
鈴木大拙が2か月で訳した『天界と地獄』
日本への入り方が、また変わっている。持ち込んだのが禅の鈴木大拙だからだ。大拙は20代でアメリカに渡り、イリノイ州のオープン・コート出版社で編集の仕事をしていた。そこでアルバート・エドマンズというイギリス人の学者と知り合う。仏教とキリスト教の比較をやっていた人物で、この人が大拙に『天界と地獄』を渡して、読んでみろと勧めた。
これが最初の接触だ。1908年、大拙がロンドンに滞在していたとき、英国スウェーデンボルグ協会から使者が来る。あの本を日本語に訳してくれないか、という依頼だった。当時の日本にスウェーデンボルグを紹介できる人材がほかにいなかったんだろう。大拙はラテン語ができなかったので、協会がラテン語に堪能な学者を相談役につけた。
彼はラテン語原典とドイツ語訳とフランス語訳を参照しながら、主に英訳から重訳した。かかった期間が正味2か月足らず。あの分量をだ。仕事が速すぎる。1909年7月、ロンドンでスウェーデンボルグ協会創立100年を記念する国際大会が開かれた。
大拙は日本語版訳者として招かれ、46名の副議長のうち唯一の東洋人として名を連ねた。写真も残っている。同年に帰国し、翌1910年、つまり明治43年の3月に、有楽社から『天界と地獄』の日本語訳が出た。出版費用は協会持ちだった。大拙の仕事はこれで終わらない。
大正2年に『スウェデンボルグ』という小伝、大正3年に『新エルサレムとその教説』と『神智と神愛』、大正4年に『神慮論』を訳出した。つまり明治42年から大正4年にかけて、この禅学者は主要著作を一気に日本語にしている。後年の大拙は表向き仏教一本の人として通っていたが、83歳のときの手紙に、私は今でもスエデンボルグに関心を持っている、と書き残している。91歳のときには新訳版に題辞を寄せた。
生涯付き合った相手だったわけだ。なぜ禅の人がこれをやったのか。よく言われるのは、大拙が仏教の唯識や華厳と照応の教説に構造的な似たものを見た、という説明だ。事象と事象が互いに映し合うという華厳の世界観と、自然界と霊界が対応するという照応論は、確かに肌ざわりが近い。日本ではその後、柳宗悦がブレイク論を通じてスウェーデンボルグに触れ、大正期の教養層にじわじわ広まった。
戦後は今村孝が長年かけて霊界著作の翻訳に取り組み、アルカナ出版という版元が主要著作を出し続けた。この版元、主筆が亡くなったとき、ホームページに「霊界入りしてしまった」と書いたという話が界隈で語り草になっている。洒落が効いていて、いい話だ。
なぜこの話は、ここまで信じられたのか
最後に、いちばん面白い問いに行く。なぜ彼は信じられたのか。第一に、経歴だ。これがとにかく大きい。彼は無学な農民でも、貧しい霊媒でも、金に困った山師でもない。
ヨーロッパで通用する科学者で、王立鉱山局の高官で、貴族院議員だった。地位も金もあった。著作は全部自費出版で、収益は寄付に回している。霊視で商売した形跡が一切ない。相談に来た人からも金を取っていない。
詐欺師の動機がどこにも見当たらないんだよな。この一点で、彼の証言は他の視霊者と全く違う重さを持つ。第二に、書き方だ。彼の霊界報告は、酔ったような詩ではない。徹底して散文的で、退屈なほど几帳面で、報告書の文体で書かれている。
何時何分に何を見たか、誰と何を話したか、その霊はどういう性質だったか。鉱山の視察報告と同じ調子で霊界を記述する。この温度の低さが、逆にとんでもない説得力を生んだ。熱狂して語る人間より、淡々と語る人間のほうが不気味に信用できてしまう。人間の心理はそうできている。
第三に、時代の空隙だ。18世紀後半のヨーロッパは、啓蒙主義が教会の権威を掘り崩していた時期にあたる。理性が全部を説明するという建前と、それでも死後どうなるのか知りたいという欲求のあいだに、ぽっかり穴が開いていた。そこへ、科学者の資格を持った男が「霊界は実在する、私は行って見てきた、しかも合理的な構造をしている」と言いに来た。信仰でも迷信でもなく、報告として。
これが刺さらないわけがない。第四に、教義の中身が優しかった。地獄は自己選択の結果であって神の罰ではない。キリスト教徒でない者も救われる。異教徒であっても善に生きた者は天界に入る。
幼くして死んだ子は天使に育てられる。真実の愛による結婚は死後も続く。この最後の一つがとくに効いたと思う。愛する人と死後も一緒にいられる、という教えは、当時のどの正統神学も明確には約束してくれなかったものだ。しかも彼は結婚愛を専門に扱った本まで書いている。
人は聞きたいことを聞かせてくれる相手を信じる。第五に、事件の中身が検証可能な形をしていた。火事の実況、引き出しの中の領収書、姉弟しか知らない秘密。どれも「証人がいて」「事後に照合できる」形の話だ。抽象的な霊界論なら反論も検証もしようがないが、この三つは具体的な出来事として語れる。
だから語り継がれ、語り継がれるうちに細部が磨かれ、さらに強力な話になっていった。細部が磨かれるという点が曲者でな。伝承というのは、聞き手が納得しやすい方向へ勝手に整形されていく。日付がずれ、証人が増え、セリフが決まっていく。三つの事件が今日われわれの知っている完成度で伝わっているのは、220年以上かけて何百人もの語り手が最適化した結果でもある。
改めて全体を見渡すと、この男の異様さは霊視能力そのものよりも、その前半生と後半生の落差にある。57歳まで彼は完璧に合理的だった。鉱山の排水機構を設計し、通貨の秤量について国会に意見書を出す。脳の解剖図を描いていた男が、ある日を境に天使との会話を記録しはじめる。しかもその記録の文体が、前半生の科学論文と何一つ変わらない。
そこが不気味なんだ。普通、こういう転向をした人間は文体まで変わる。恍惚とした調子になったり、預言者めいた大文字の言葉を使い出したりする。彼は違った。徹底して事実報告の口調のまま、あちら側を書き続けた。
彼にとってはどちらも同じ「観察」だったんだろう。世界の側が二層構造をしている。自分はたまたま両方を測量できる立場に置かれた、というだけの話として処理していた気配がある。医学的な説明を試みる人はもちろんいる。いちばんよく持ち出されるのは側頭葉てんかんだ。
強烈な宗教的恍惚、既視感、光の幻視、体外離脱感、そして病歴として繰り返し起こるという特徴。1743年から45年にかけての『夢日記』に記された症状群は、確かにこの診断とかなりの部分で重なる。書きたいという衝動が異常に亢進する多書症という症状も、この疾患群では知られている。27年で膨大な著作を残した事実は、それで説明がつくと主張する研究者もいる。
統合失調症説を唱える人もいたが、こちらは分が悪い。彼は死ぬまで社会機能を完全に保っていたからだ。国会に出て発言し、財産を管理し、複数言語で緻密な神学書を書き、人と普通に会話する。ユーモアの感覚も失っていない。人格の解体がまるで起きていない。
ヤスパースが彼の症例を検討して、通常の精神病像には収まらないと結論したのも、そのあたりが理由だ。
結局のところ、医学的な説明はどれも「体験の生理学的な引き金」までは言える。だが「なぜその内容が首尾一貫していて、なぜあれだけの体系になったのか」には答えられない。てんかん発作から『天界の秘義』全8巻は出てこない。もう一つ考えたいのは、彼の思想が結果的に何をしたかだ。彼は既存の教会と真っ向からぶつかったが、無神論には行かなかった。
神を否定せず、しかし神の裁きを取り下げた。
人は自分の愛の向く方向へ自分で歩いていく、という一点で、彼は宗教から恐怖の装置を抜き取ったんだ。これがどれほど大きな転換だったか、現代の感覚では分かりにくい。18世紀の民衆にとって、地獄はまだ生々しい恐怖だった。永遠の劫火に落とされるかどうかが、日々の不安の中心にあった。そこへ「神は誰も落とさない、あなたが自分で選ぶ」という説明が来る。
これは恐怖の除去であると同時に、責任の全面的な移譲でもある。近代的な自己責任の宗教版と言ってもいい。死後の運命が自分の内面の質だけで決まるという構図は、19世紀以降のあらゆる自己啓発思想と精神世界思想の原型になった。ニューエイジと呼ばれる巨大な文化の遺伝子を辿ると、かなりの本数がこの老人に行き着く。現代への効き目という意味では、臨死体験研究との接続がやはり強烈だ。
1970年代にレイモンド・ムーディが臨死体験の共通パターンをまとめたとき、多くの人が指摘した。トンネル、光の存在、生涯の回顧、先に死んだ親族との再会、戻りたくないという感覚。これらは全部200年前にスウェーデンボルグが書いていることじゃないか、と。ムーディ自身も彼の著作に言及している。もちろん、これには冷めた読み方も可能だ。
西洋文化の中で死後世界のイメージそのものがスウェーデンボルグ以降に整形されたのだから、後の証言が彼に似るのは当たり前だ、という説明だ。文化的な鋳型を先に作った側と、その鋳型で語られた証言を比べて一致を喜ぶのは循環である、と。この批判は鋭い。ただ、それでも説明しきれない部分は残る。
彼が書いた「死者は自分が死んだことに気づかない」という点。そして「回顧のとき自分が他人にした行為を相手の側から体験する」という描写。これらは当時の神学的な常識にはまるでない発想で、しかも後年の証言で繰り返し出てくる。偶然にしてはよくできている。結局、この話をどう扱うかは、読む側の構えの問題に落ちる。
全部を実話として受け取るなら、人類史上もっとも詳細な異界の実地報告書がここにある。
全部を病理として片づけるなら、脳の異常が生んだ壮大で首尾一貫した幻覚系ということになる。全部を文学として読むなら、18世紀ヨーロッパが生んだ最大級の想像力の記念碑だ。この三つの読み方のどれを選んでも、テキストの価値は不思議とあまり減らない。そこがこの男の一番厄介で、一番魅力的なところなんだよな。
ヨーテボリの晩餐会で真っ青な顔をして戻ってきた老人の姿だけが、事実関係の検証をすり抜けて、いまも妙に鮮明に残っている。庭から戻り、震える声でストックホルムが燃えていると告げ、二時間後に安堵の息をついて、私の家から三軒目で止まったと言った男。あの晩の情景が本当だったのかどうかは、たぶん永遠に決着しない。
決着しないまま260年以上語り継がれてきたという事実のほうが、下手な証拠よりよほど不気味だと思う。人はどうやら、確定してしまった話より、確定しない話のほうを長く覚えていられるらしい。
