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月の出を待って夜を明かす――二十三夜と月待講の作法

散歩の途中、畑の角に頭の丸い石が立っているのに気づいて、軍手で苔をこすってみた。出てきたのは「廿三夜」の三文字。横には小さく「講中十八人」と彫ってあった。

十八人が代わる代わる宿を回し、夜通し起きて月を待ち、その記念にこの石を据えたわけだ。似た石は東北から九州まで、日本中の道ばたに立っている。ほとんどの人は通り過ぎる。道祖神でも庚申塔でもない、まったく別の系統の石。

石の名は月待塔という。決まった月齢の夜に講の仲間が集まって、月が昇るのを待って拝み、その満願なり区切りなりに建てた石を指す。待つ相手の月齢によって、十三夜、十七夜、十九夜、二十二夜、二十三夜、二十六夜と種類が分かれ、数字の違いがそのまま拝む仏の違いになった。

中でも二十三夜は飛び抜けて数が多く、全国どこの土地を歩いても見つかる。ただし供える物も、唱える文句も、宿の回し方も、土地ごとに細かく違っていた。石だけが残って、中身のほうは忘れられた。

板碑に彫られた、いちばん古い月待

文献に月待が顔を出すのは室町時代からで、板碑としていちばん古い例は埼玉県富士見市にある。石に入っているのは嘉吉元年、西暦でいうと一四四一年の銘。板碑は供養のために立てた板状の石塔で、関東では中世を通じてさかんに造られ、その一枚に月待の文字が混じっていた。

今は難波田城資料館に置いてある。六百年近く前の石だ。月を待つという行事の、確かめられるいちばん古い物証。

そこから江戸の文化文政にかけて、月待の講は全国的な流行になった。現在まで残る塔の大半がこの時期のもので、江戸も半ばを過ぎてから一気に建ったことになる。越谷市を歩いて調べた記録では、十九夜塔の最古が元禄十二年、いちばん新しい塔が万延二年だった。百六十年ほどのあいだに集中している。

さいたま市の南区には、講の始まりを戦に結びつける伝えが残る。合戦のたびに村の百姓が兵として駆り出され、留守を預かる家族が武運長久と安心立命を祈って夜を明かしたのが起こりだ、という筋書き。確かめようのない話ではあるが、講の出発点を不安の側に置く感覚は各地で聞く。

もっとさかのぼれば、月の満ち欠けそのものへの畏れに行き着く。欠けては満ち、消えてはまた現れる。その繰り返しを、人はずっと夜空で目にしてきた。死んで生き返るものとして月を見る感覚は、縄文の遺物の解釈にまで引っ張られることがある。

二十三夜だけが、なぜ全国に散ったのか

十三夜の本尊は虚空蔵菩薩、十五夜は阿弥陀如来、十九夜は如意輪観音、二十六夜は愛染明王というように、月齢ごとに拝む仏が決まっていた。二十三夜の本尊が勢至菩薩。ここから全国へ散っていく。

勢至は智慧の光であまねく衆生を照らす菩薩とされ、生きとし生けるものを一人残らず救うという性格が説かれてきた。この包容の広さのおかげで、宗派や土地柄を選ばずに受け入れられたのだろうという見方が強い。念仏の側からも、密教の側からも拝める本尊だった。

もう一つ、日取りそのものの都合が大きい。旧暦二十三日の月は下弦で、真夜中に東から昇って明け方に南へ回る。待ち時間がたっぷりあるから、夕方から集まって半日近く座り込む口実としては、二十三夜がちょうどよかった。

下弦の月は弦の側が上を向いた半月で、夕方の空にはまだ顔を出さず、人が寝入るころにようやく東の地平から現れてくる。十五夜だと日没とともに月が出てしまい、待つ間がない。まあ、待つ行事にならないわけだ。

浄土宗の広がりも効いている。勢至菩薩は阿弥陀如来の脇侍で、浄土宗の開祖は幼名を勢至丸といい、勢至の生まれ変わりだと信じられてきた。だから念仏を唱える講と月を待つ講が同じ座敷で重なり、そのまま一つの行事として定着した土地がいくつもある。

呼び名のほうも軽くなっていく。頭の「二十」を省いて「三夜待」「三夜供養」と呼び、東北では本尊ごと「三夜様」と呼んで親しんだ。塔の銘に「念三夜」と彫った例や、仏の名を出さずに「月天子」と彫った例も残る。

二十三夜が縁日として定着した土地では、講の枠を越えて近隣から人が集まるようになっていった。堂の前に露店が並び、月が昇るまで甘酒や餅を売る。信心と商いが同じ晩に同居していたわけで、月待を口実にした夜の市が村の現金収入を支えた例もある。堂の側も、月に一度の開帳を守ることで参詣の流れを保っていた。

勢至菩薩の側と、月読尊の側

月待の系統は、大きく二本に分かれて伝わってきた。仏として拝む側と、神として拝む側だ。

仏の側は勢至菩薩を本尊に据える。掛軸には合掌して立つ勢至の姿を描いたものか、種子のサクを一字だけ大きく書いたものを用いた。唱えるのは真言と宝号、それに念仏。寺と付き合いのある講なら、僧を呼んで経をあげてもらうこともあった。軸の前に据えるのは三方と一対の灯明。

神の側は月読尊を祀る。月讀神社の氏子圏や、神職が村の暮らしに近い土地でこの形が濃く出る。掛軸のかわりに幣束を立て、祝詞を奏上して柏手を打つ。屋久島の原集落に今も残る二十三夜では、参列者が二礼二拍手一礼で拝み、かつて僧が経をあげていた部分はもう置いていない。

二本といっても、きれいに割れているわけではなかった。勢至の軸を掛けたまま柏手を打つ講もあれば、塔に「月天子」と彫って神仏どちらとも取れるようにした例もある。明治の神仏分離までは、そのあたりが大らかだった。分離のあとは寺の側が勢至堂として残り、神社の側が月読尊を前に出す形で整理され、同じ講が二つに割れた土地もある。

十九夜は如意輪観音、二十二夜は女の講

十九夜待の本尊は如意輪観音で、頬に指を当てて片膝を立てた、あの姿で彫られる。十九夜塔のほとんどは女人講か念仏講の建てたもので、山形、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉のあたりに濃く分布している。

女たちが当番の家に集まって観音を拝み、子が無事に生まれるようにと願った。子安講と重なって運用された土地も多く、塔の脇銘には「女人講中」「施主五拾人」といった文字が並ぶ。如意輪観音は江戸中期から民間へ広く取り込まれ、女子の墓標としても数多く彫られたので、石屋には彫り慣れた姿だった。五十人の名を彫った石は、それだけで村の名簿に近い。

二十二夜待も同じ系統で、本尊は如意輪観音、土地によっては准胝観音を据えた。分布は埼玉県の北西部から群馬県の中西部にかけてびっしり固まっていて、熊谷市の江南地区にいたっては、月待塔のほとんどが二十二夜塔になる。地図に落とすと、はっきり色が分かれる。十九夜と二十二夜は、ほぼ女の行事。

男女の分担が決まっていた土地もあった。二十三夜は男が集まり、二十二夜は女が集まる、という分け方だ。とはいえ越谷の十九夜塔には男の名も混じっているから、線引きは村ごとにばらばらだったと見たほうがいい。

安産や子育ての願いを月待に託す形は、医療の代わりというより、産の前後を村の女たちが抱えて支える仕組みだった。出産の経験のある年上の女が、若い嫁に手順を教える場にもなる。塔の前に座って話を聞く時間が、そのまま引き継ぎになっていた。

庚申待とは、どこが似ていてどこが違うか

庚申待は六十日に一度、庚申の日の夜を眠らずに明かす行事だ。体のなかに棲む三尸の虫が、人が寝ているあいだに抜け出して天帝へ罪を告げに行く。それを防ぐために寝ずに朝を待つという、道教から来た理屈で成り立っている。

月待と庚申待は、並べてみると骨組みがほとんど同じになる。講を組み、宿を回り持ちにし、各戸から一人ずつ出し、飲み食いしながら夜を明かし、区切りに石塔を建てる。夜を越える寄り合いという形式を、そっくり共有していた。違っているのは中身のほう。

違うのは待つ相手と、眠らない理由のほうだ。庚申待は虫を逃がさないために起きているが、月待は月が昇るのを見届けるために起きている。庚申には初めから決まった本尊がなく、青面金剛や猿田彦が後から結びついたのに対して、月待は月齢ごとに拝む仏が最初から固定されていた。

土地によっては、同じ一基の石に「庚申」と「二十三夜」を並べて彫った。講の顔ぶれが重なっていたのだろうし、石屋に頼む手間も一度で済む。諏訪のあたりを歩くと、庚申塔の列の中に二十三夜塔が一基だけ混ざっている光景によく出くわす。庚申塔の数は月待塔をはるかに上回るけれど、二つを並べて彫った石が各地にあるのは、同じ顔ぶれが両方に名を連ねていたからだ。

日の出を待つ講、月の出を待つ講

日待は、月待の対になる行事になる。前の夜から潔斎して眠らずに過ごし、朝日が出るのを拝んで解散する。夜明けで終わる忌籠りの形が、そのまま名前になった。

日取りは旧暦の一月、五月、九月の十五日前後か十六日に置くことが多く、農事の忙しくない時期に合わせた土地もある。講員が頭屋に集まって斎戒し、神を祀って徹宵するという段取りは、月待とほとんど変わらない。家々で交代に宿を務め、各家から一人が出るという人の出し方まで同じだった。

「待ち」と名の付く行事は、まとめて待ちごとと呼ばれてきた。日待、月待、庚申待、甲子待。どれも夜を越えることを核にしていて、夜を越えること自体が信心の形だった。農閑期に合わせて日待を組み、農繁期の前後へ月待を挟むという形で、一年の寄り合いの数を土地ごとに調節していた節がある。

江戸も後期になると、中身はだいぶ緩む。連歌を詠み、囲碁を打ち、三味線を鳴らし、寄り合いの口実として残った講も多かった。佐賀の町に伝わる月待講では、月の出を拝む部分がすでに薄れ、親交のための集まりになっているという記録が残る。

東北と関東と中部で、石の顔つきが変わる

月待塔は、文字塔と刻像塔の二通りに分けられる。文字塔は「廿三夜」「二十三夜塔」「月待供養塔」と彫っただけの素っ気ない石で、刻像塔のほうは勢至菩薩や如意輪観音を浮き彫り、あるいは丸彫りにして据える。

関東の平野部では刻像塔が目立つ。舟形の光背を背負った勢至が合掌して立ち、台座に講中の名がびっしり入る。石が手に入りやすく、注文を受ける石工も多かった土地の特徴だろう。細かい衣の襞まで彫り出した石が、畑の縁にぽつんと残っていたりする。刻像塔の勢至は合掌した立ち姿がほとんどで、宝冠の正面に水瓶を戴いた形が彫ってあれば、ひとまず勢至と見ていい。

東北は「三夜様」の呼び名が強く、文字塔の比率が上がる。自然石をほとんど加工せずに立て、表面に三文字を彫っただけの石も珍しくない。雪国では細かい彫りが凍みて傷むからだ、という説明を土地の人から聞いたことがある。雪と石工と、その土地の懐具合。

中部から甲信にかけては、庚申塔との混在が濃くなる。十七夜塔は茨城、千葉、新潟、岐阜、静岡、愛知、兵庫、山口、愛媛、福岡、佐賀、鹿児島と、飛び地のように散らばっていて、分布の理屈がつかみにくい。移住や出稼ぎで持ち込まれた可能性を指摘する人もいる。

二十六夜待は関東以北が中心だった。江戸では旧暦七月二十六日の月に阿弥陀三尊が現れるといって、高輪から品川にかけての海べりが見物の人で埋まった。信心というより、月見の行楽に近い賑わいだったらしい。

講が消えたのは明治からだった

明治に入ると、講は急に細くなっていく。神仏分離で本尊の置き場が揺れ、太陽暦への切り替えで旧暦二十三日という日付そのものが暮らしから抜けた。日付が消えれば、集まる理由も消える。直接の引き金は、おそらく暦の切り替え。正直、そこが大きい。

徴兵と出稼ぎで村の若い男が減り、夜通し起きていられる人数が揃わなくなった。そこへ電灯が入ってくる。月の出を待たなくても、夜はもう明るい。待つという行為の切実さが、灯りひとつで薄くなった。

それでも昭和の初めまでは、各地で細々と続いていた。息の根を止めたのは戦後の農作業の機械化と、茶の間に入ったテレビだろう。寄り合いの娯楽という最後の役目まで取られてしまった。福島の信夫山のふもとでは、女だけで営んでいた二十三夜講が、やがて観音講へ姿を変えていった。

今は石だけが道端に立っている。動かすと祟るといって、道路を広げるときに塔の前で線を曲げた例もある。だから交差点の隅や歩道の途中に、不自然な形で残った石が多い。

石塔そのものも、明治から昭和にかけてずいぶん動かされた。耕地整理で畑の境が引き直され、道路の拡幅で辻が削られ、そのたびに塔は隅へ寄せられていった。寺の境内へまとめて移し、並べて据え直した土地も多い。だから今は、建てられた場所と立っている場所が食い違っている石のほうが多いと見ておいたほうがいい。

今も月の二十三日に開く堂がある

杉並の堀之内妙法寺には二十三夜堂があって、毎月二十三日だけ開帳し、法要を営んでいる。月天尊を描いた絵馬も伝わる。江戸の町場で月待が盛んだった名残がそのまま形になっている場所だ。

秩父の医王寺は、通称を二十三夜寺という。毎月二十三日限定の守りを授けていて、参道の石段を登ると勢至の堂が正面に据えてある。山の中腹から東の空が開けているから、月の出を拝む場所としてもよくできている。

茨城県土浦市には、十五人ほどの講が今も続いている。旧暦二十三日の縁日に本尊を開け、茶を飲んで世間話をして帰る。夜を明かすところまではやらないが、月を拝む所作は残していると聞いた。

屋久島の原集落に伝わる二十三夜は、旧暦正月二十三日に営まれる。夕方五時に公民館へ集まり、翌朝の日の出まで座り続ける、集落で一番長い行事だ。十人組から神様役を二人と、ござ持ち役を一人選んで正装で出す。神様役は行事のあいだ一言も口をきいてはいけない決まりで、出郷者や漁師の無事を願う形が核にある。

渋谷区の代官山には、延宝三年の銘で「廿三夜待一結衆」と彫った石が立つ。西暦なら一六七五年。江戸のかなり早い時期から、町場でも講が組まれていた証拠になる。毎月二十三日の開帳を守る堂は関東にいくつか残り、縁日に合わせて参れば、講の名残をとどめた掛軸や絵馬を見られることもある。

その年の旧暦二十三日を割り出す

ここから先が手順になる。まずは日取りの決め方から。

二十三夜は旧暦二十三日の夜と決まっていて、新暦のカレンダーには当然載っていない。割り出し方は二通りある。

一つめは月齢から逆算するやり方だ。旧暦の朔日は新月の日にあたるので、旧暦二十三日はその新月の日を一日目と数えて二十三日目になる。新月の日付は国立天文台の暦計算室が年間分を公開しているから、そこを起点に数えれば足りる。月齢でいえば二十二前後、下弦を少し過ぎたあたりの月が出る晩だ。旧暦は月の満ち欠けを基準にした暦だから、朔日から数えて二十三日目という言い方が、そのまま月齢二十二前後と重なる。

二つめは旧暦カレンダーをそのまま引くやり方になる。月齢と旧暦日を併記した暦が市販されているし、神社が年末に配る暦にも載っている。手っ取り早いのは間違いなくこちらだろう。

新暦の日付で固定してしまう土地もあった。毎月二十三日と決めて、月齢を問わずに集まる形だ。妙法寺や医王寺の開帳日がまさにそれで、講を絶やさないための工夫として、新暦二十三日へ移した例は各地にある。年に一度だけ営むなら、旧暦正月、五月、九月のいずれかの二十三日を選ぶのが古い形になる。

日取りが決まったら、宿になる家へ早めに知らせる。昔は一か月前の講の席で次の宿と日付を確かめ、帳面に書き込んでいた。

月の出が真夜中になる理屈

月は毎日およそ五十分ずつ遅れて昇っていく。新月は日の出と一緒に昇り、満月は日の入りと一緒に昇る。この二つを押さえておくと、あとは足し算で見当がつく。

満月は旧暦十五日ごろだから、二十三日はそこから八日あとになる。八日ぶんの遅れは五十分かける八で四百分、およそ六時間四十分だ。日没を午後六時とすれば、月の出はだいたい深夜零時半あたりに来る計算になる。

実際の二十三夜の月は、夜半に東の空から顔を出す。半円の弦が上を向き、丸みが右下に来た下弦の月だ。明け方には南の空へ回り、昼近くまで白いまま空に残る。講が朝まで解散しなかったのは、この動きに最後まで付き合ったからだ。

正確な時刻は緯度と経度で数十分ずれるので、前もって調べておいたほうがいい。国立天文台の暦計算室では、地点を指定するとその日の月の出入りと南中の時刻が出る。待ち時間の見当がつけば、途中で仮眠を挟む段取りも組める。

宿を決めて、順を帳面に書く

講は宿を回り持ちにする。当番になった家を頭屋と呼ぶ土地が多い。順番は家並みの順で回すか、始めるときにくじで決めて、一度決めたら何年も同じ順で回していく。

頭屋になった家は、座敷を一間空ける。畳を拭き、床の間を片づけ、人数ぶんの座布団を出す。膳は汁物と漬物、それに酒くらいでいい。豪勢にすると次の当番が困るから、頭屋の負担に上限を決めておく講が多かった。

参加は各戸から一人と決めるのが本来の形だ。女人講なら嫁が出るし、男の講なら家長が出る。どうしても出られない家は、米か銭を預けて参加したことにする。人ではなく家が講に入っているという考え方になる。

帳面が要る。講中帳、あるいは月待帳と呼ぶ。表紙に講の名と始めた年を書き、中には宿の順、その日の出席、預かった米や銭の高を書き留めていく。書き役は毎回同じ人が務めるほうがいい。字の癖が続くから、後から読み返すときに楽になる。

金の出し方も先に決めておく。毎回の膳の代金を頭屋が丸ごと持つ形だと負担が偏るから、講金を積み立てて宿へ渡す講が多かった。米を何合ずつ持ち寄る形にした土地もある。帳面の後ろのほうに、この積み立ての出入りを別に書き分けておくと、後から揉めずに済む。集めた金の残りは、塔を建てる費用に回した。

帳面は次の頭屋へ、掛軸と一緒に渡す。渡すときには双方が一礼する。この受け渡しが、講がまだ生きているという印になっていた。

座をこしらえ、掛軸を掛ける

床の間に掛軸を掛けるところから始める。勢至菩薩の立像を描いたものか、種子のサクを一字書いたものが本式だ。手に入らなければ、月待塔を写した拓本でも、月そのものを描いた軸でも構わない。講で共有する一幅を頭屋から頭屋へ回すのが、元の形になる。

軸の前に三方か折敷を据える。高さは座ったときの膝より少し上に来るくらい。下に半紙か白紙を敷き、灯明は左右に一対立てる。蝋燭でも行灯でもいいが、部屋の電灯は落とすか、落とせないなら絞って暗くする。

座は東へ開けておく。月が昇ってくる方角に人が向き直れるようにするためで、軸そのものは北か西の壁、つまり南か東を向く位置に掛ける。部屋の都合でどうにもならないときは、拝むときに体ごと東へ向き直れば足りる。

塔が近所にあるなら、塔の前で営む形もある。塔の正面に折敷を置き、両脇に灯明を立てる。雨風の強い晩は無理をせず、塔に水を一杯だけ手向けて座敷へ引き上げた。

座に着く前に手水を使う。桶か柄杓で水を汲み、左手、右手の順にかけてから、左手に受けた水で口をすすぐ。着物は新しいものに替えるのが古い作法で、身体を清めて着替えることが物忌みの一部になっていた。無理なら、洗ったものに着替えるだけでいい。

供える物と、供える向きと時刻

基本の五品は、洗米、塩、酒、水、それに餅か団子になる。洗米は研いで水を切った生米を小高く盛り、塩も同じように小高く盛る。酒は瓶子か徳利に入れ、蓋を取ってから供える。水はその日の朝いちばんに汲んだものがいい。洗米と塩と水の三つは神の側でも仏の側でも共通して供えるから、迷ったらこの三品だけ整えて、あとは土地のものを足せばいい。

餅の形は土地でずいぶん変わる。福島の講では、春は牡丹餅、秋は御萩を二十三個そろえて供えた。数を月の日付に合わせている。屋久島では月形の大きな白餅と、丸い大きな赤餅を対にして供え、それぞれ月なり、日なりと呼び分ける。紅白の餅や小さな白餅も一緒に並べる。

芋と初物の果物を添える。里芋を皮ごと茹でて盛る形が古く、旧暦二十三日が芋の穫れる時季に当たる月もあるから、これは収穫の供えを兼ねていた。柿、栗、梨、枝豆。その年に初めて穫れたものを、家の者が口にする前に軸の前へ置く。

尾頭付きの魚や貝を供える土地もある。屋久島では魚と貝、根菜の輪切り、御神酒を四本並べて据えた。海の村と山の村では、供え物が素直に食い違う。自分の暮らす土地で手に入るものを選べばいい。

器は素焼きか白い皿、あるいは木の折敷を使う。柄や絵の入ったものは避ける。供える向きは、供物のいちばんきれいな面を軸のほうへ向けるのが決まりだ。餅なら丸みの整った面、魚なら頭を上座側へ置く。

供える時刻は日没前と覚えておく。念のため書いておく。暗くなる前に全部並べ終えて、月が昇ってから慌てて足すのは嫌われた。並べ終えたところで一度だけ全員で拝み、そこから待ちの時間に入る。供える量は、その場で食べきれる分量。

月が出るまでの数時間をどう過ごすか

集まるのは日暮れどきで、午後五時から六時のあいだに宿へ入る講が多かった。屋久島の記録だと午後五時集合、その日の日の入りが五時四十八分、翌朝の日の出が七時十三分。十四時間近く座っていることになる。

日没から月の出までには、六時間前後の空白ができる。ここをどう埋めるかに講の性格が出た。念仏をひたすら繰り返す講、世間話と酒で潰す講、連歌を詠む講、どれも実際にあった形だ。夜半までの数時間を持て余さないよう、帳面の整理や来年の宿割り、村の相談ごとをこの晩にまとめて片づける講もあった。

飲食の作法は、控えめに、が原則になる。腹いっぱい食べれば眠くなるし、酒も回しはするが酔い潰れるほどは注がない。膳を下げたら茶に切り替える。魚肉を断って精進で通す講もあった。

寝てはいけないとされたのは、月の出の前後だ。おおむね夜十一時ごろから、月が昇りきるまで。ここで寝てしまうと講そのものが成り立たなくなる。それより前の時間帯なら仮眠を許した講もあるから、交代で横になる形にしてもいい。

潔斎の決まりも細かく伝わっている。体を洗って新しい着物に替え、男女が同じ床に就かない。鍼や灸を避け、薬を飲まない日ともされた。この晩は体に手を加えないという考え方で、健康の話ではなく忌みの作法として守られていた。

待つあいだに帳面を回す。出席の印をつけ、預かり物の高を書き入れ、次の宿を確かめる。書き終えたら表紙を閉じて軸の脇へ置いておく。

月が昇ったときの拝み方

誰かが縁側へ出て、東の空を見張る役に回る。ここからが待ちの時間だ。月の縁が山の端や屋根から離れた瞬間を「出た」と見て、声をかけて座を立たせる。見張りは若い者の役目。

全員で東を向いて立つ。座ったままでもいいが、立つほうが古い形だ。履物を履いて庭へ下りる講もあった。月と自分のあいだに屋根や梁を入れない位置を選んで並ぶ。

手は胸の高さで合わせる。指先が顎の下に来るくらいで、肘は張らずに脇を軽く締める。合掌のまま上体を少し折って頭を下げる。仏の側で営むなら合掌と低頭を三度、神の側で営むなら二礼二拍手一礼になる。拍手は胸の前で、右手をわずかに下げてから打つ。

拝む回数は三度が基本だ。土地によっては、その夜の日付にちなんで二十三回の礼拝を重ねた。数を増やすときは真言を唱えながら数珠の玉を繰ると、数を見失わずに済む。

拝み終えたら、月を見たまましばらく黙る。屋久島の神様役が一言も口をきかないのと同じで、この沈黙も作法のうちに入っている。それから座敷へ戻り、供物を下げる前にもう一度だけ軸へ向かって合掌する。

勢至菩薩の真言と宝号

唱える言葉に入る。はじめに真言から。

原文はカタカナで「オン・サンザンサク・ソワカ」と書く。読みは「おん、さんざんさく、そわか」。真言宗の寺で配る紙には「おん、さん、ざん、ざん、さく、そわか」と六つに割って書いてあることもある。写し取った言葉は同じで、唱えるときは息を継がずに一続きにする。

意味はこう取っておけばいい。オンは帰命、つまり身を投げ出して帰依しますという語で、サクは勢至菩薩を一字で表す種子、ソワカは成就を願って結ぶ言葉になる。現代語に直すなら「帰依します、勢至菩薩さま、どうか成りますように」といったところ。

唱える数は三遍、七遍、二十一遍、百八遍のどれかに決める。講では二十一遍が多かった。数珠を繰りながら、声は低めに、粒を揃えて唱える。

次に宝号を唱える。原文は「南無大勢至菩薩」。読みは「なむだいせいしぼさつ」。現代語訳は「大勢至菩薩さまにすべてをお任せします」になる。短く「南無勢至菩薩」と唱える土地もあった。

宝号は真言のあとに続ける。三遍でも十遍でもいい。全員で声を合わせるから、先導役を一人決めておくと揃いやすい。息が切れたら黙って口だけ動かしても構わない。

般若心経をどこに入れるか

心経を唱える講は多かった。入れる位置は決まっていて、月への拝礼が済んだあと、真言に入る前に置く。座をいったん落ち着かせる役目を負わせている。木魚や鉦を出すのも、この時点。

段取りで書くとこうなる。月に向かって拝む、座敷へ戻る、灯明を整える、心経を一巻、それから真言と宝号、締めに念仏。この順で組むと流れが途切れない。

心経は長いので、全員で唱えるなら木魚か鉦で拍を取る。導師役が「摩訶般若波羅蜜多心経」と題目を先に読み上げ、そこから全員が続いていく。読み終わりの「般若心経」まで含めて一巻と数える。

心経を省く講もあった。短い真言だけで通す形だ。入れるかどうかは、その講が寺と付き合いを持っているかどうかで自然に決まっていた。

月読尊の側で唱える詞

神の側で営むなら、祝詞を奏上する。使うのは祓詞と略拝詞で、神社本庁が示している形をそのまま使える。

祓詞の原文を切らずに写す。「掛けまくも畏き伊邪那岐大神」。「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等」。「諸諸の禍事、罪、穢有らむをば祓ひ給ひ清め給へと白す事を聞こし食せと恐み恐みも白す」。

読みはこうなる。「かけまくもかしこき、いざなぎのおおかみ」。「つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに、みそぎはらえたまいしときに、なりませる、はらえどのおおかみたち」。「もろもろのまがごと、つみ、けがれあらむをば、はらえたまい、きよめたまえと、もうすことを、きこしめせと、かしこみかしこみももうす」。

現代語に直すとこうなる。口に出すのも畏れ多い伊邪那岐大神が、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊をなさったときに、生まれ出た祓戸の神々よ。もろもろの災いや罪や穢れがあるならば、それを祓い清めてくださいと申し上げます。どうかお聞き届けくださいと、畏れ多いことながら申し上げます。

略拝詞のほうは短い。原文は「祓へ給ひ清め給へ、神ながら守り給ひ幸へ給へ」。読みは「はらえたまいきよめたまえ、かむながらまもりたまいさきわえたまえ」。訳すと「祓い清めてください。神のみこころのままに、守り、幸せにしてください」となる。

奏上の順はこうなる。手水を使って座に着き、深く二礼する。祓詞を奏上し、続けて月読尊の名を呼んで願いを申し上げ、略拝詞を三遍唱える。最後に二拍手して一礼する。月が出たあとも、同じ順でもう一度繰り返す。

願いを申し上げる部分は、自分の言葉で構わない。住所と名前を名乗り、何を願うのかを短く述べるだけでいい。長く述べる必要はないし、決まった文句もない。

月天の真言と、講で繰り返した名号

塔に「月天子」と彫った例があると先に書いた。月天は月そのものを仏格として扱う呼び名で、この系統で唱えるのが月天の真言になる。

原文はカタカナで「オン・センダラヤ・ソワカ」。読みは「おん、せんだらや、そわか」。センダラヤは月を指す梵語チャンドラの音を写した部分にあたる。訳すなら「帰依します、月天さま、どうか成りますように」。勢至の真言と並べて両方唱える講もあった。

念仏の講が重なった土地では、六字の名号をひたすら繰り返した。原文は「南無阿弥陀仏」、読みは「なむあみだぶつ」、訳は「阿弥陀仏にすべてをお任せします」になる。月が昇るまでの何時間かを、これだけで埋めた講もある。

月待の和讃や歌は、土地ごとに文句が違っていて、全国に通じる定型が見当たらない。無理に作らず、真言と宝号と名号だけで通したほうがいい。知らない文句を継ぎ足すと、次の代へ渡すときに必ず困る。

塔を建てるときの決まりごと

塔は講の記念として建てる。何回の月待を満じたら建てるという、全国共通の数え方は見つからない。銘を読むかぎり、講が続いた年数の区切りや、願が叶ったと感じた折に建てた例が多い。十年、三十年といった切りのいい年に合わせた土地もあった。

銘の刻み方には型がある。正面の中央に大きく「廿三夜」または「二十三夜塔」と彫り、上部に勢至の像か種子のサクを入れる。右脇に造立の年月日、左脇に「講中」と人数、女の講なら「女人講中」。台座や裏面には施主の名を並べていく。

年号は元号で入れる。「文政十年丁亥十月吉日」のように干支と月を添えるのが古い形で、日付までは刻まずに「吉日」で止めるのが通例だった。石工の名を小さく入れた石もある。彫る文字は、正面に三字か五字。

建てる場所は、辻、村境、道の分かれ目、寺の境内、墓地の入口。人がよく通る所を選ぶ。塔に道標を兼ねさせて、側面に「右江戸道」などと彫った石も残っている。私有地に据えるなら、土地の持ち主の了解を先に取っておく。

今から新しく建てるなら、石屋へ彫りを頼む前に置き場所を決めておく。据えたあとは動かさないのが約束になっている。事情があって移すときは、一度その前で拝んでから動かした。

古い塔を調べるときにも作法がある。苔は乾いた刷毛で払う程度にとどめ、金属のブラシは当てない。拓本を取るなら、その土地の持ち主か寺へ一声かけてからにする。水をかけて洗うと、風化した面がかえって剥がれ落ちる。石は一度削れたら戻らない。

ベランダと窓辺で、一人でやる場合

講を組まずに一人で営む形も、今なら十分に成り立つ。人数が要る作法ではないからだ。要るのは東の空と、少しの供物。はっきり言って、それだけでいい。

場所はベランダか、東向きの窓辺を選ぶ。東が建物で塞がっている部屋なら、窓を開けて空の見えるほうへ向けばいい。低い位置の月が隠れてしまうなら、昇りきった午前一時過ぎを待って拝む。

小さな台を置き、白い紙を敷く。供えるのは洗米、塩、水、酒を少しずつ。それに餅か団子を三つか五つ。数を無理に二十三へ揃えなくていい。芋を一つ茹でて添えると、それらしく整う。

灯りは落とす。蝋燭を一本だけ立てて、部屋の照明を消す。火が使えない住まいなら、小さな灯りを一つ点けて、ほかを全部消せばいい。月を見るのだから、目を暗さに慣らしておくほうが理にかなっている。集合住宅のベランダなら手すりの内側に台を置き、風でものが飛ばないよう押さえ、火を使うなら風防つきの燭台に替えておく。

日没前に供えて、一度合掌する。そこから待ちに入る。眠ってしまいそうなら、月の出の三十分前に目覚ましを掛けておく。国立天文台の暦計算室でその日その土地の月の出時刻を先に調べておけば、掛ける時刻も決まる。

月が出たら、窓を開けて東を向いて立つ。胸の高さで合掌し、頭を下げる。真言を二十一遍、宝号を三遍。神の側でやるなら二礼二拍手一礼に略拝詞を三遍。唱え終えたら、しばらく黙って月を見る。

数人で続けるなら、宿を回り持ちにする形だけ残すといい。今月はこの家、来月はあの家。帳面を一冊こしらえて、日付と出席を書き足していく。まあ、そのくらいで続く。それだけで講の形になる。

終わったあとの始末

供物は夜のうちに下げる。下げるときにも一礼する。洗米は翌朝の飯に混ぜて炊き、塩は水に溶いて玄関や庭に撒くか、風呂へ入れてしまう。酒は飲むか、庭木の根元へ流す。

餅と団子、芋と果物は、その場で分けて食べる。講では膳に直して皆で食べていた。一人なら翌朝の食事に回せばいい。

どうしても食べきれなければ紙に包み、塩をひとつまみ添えて処分する。埋められる庭があるなら、そちらのほうが古い作法に近い。下げた供物を分けて食べるところまでが月待の作法で、供えたまま終わらせず腹へ入れる形は、どの土地の記録にも出てくる。

魚や貝を供えた場合も、同じように下げて食べる。傷む前に下げるのが前提だから、供える量は最初から食べきれるぶんにしておく。

灯明は吹き消さない。手であおいで消すか、火消しをかぶせる。息を吹きかけて消すのを嫌う土地が多かった。蝋燭の残りは次の月まで取っておき、短くなったら新しいものに替える。溶けて垂れた蝋は紙に包んで捨てる。

掛軸は湿気を払ってから巻く。巻き終わりを締めすぎないのが傷めないこつだ。桐箱に戻し、帳面を添えて次の頭屋へ渡す。一人でやっているなら、箱ごと押し入れの上段へしまう。夏に一度、風を通す日を決めておくと黴が来ない。

古い札や、傷んで使えなくなった軸は、寺か神社へ納める。年明けのどんど焼きに出した土地もあった。自分で焼くなら庭に塩を撒いてから焼き、灰は土へ返す。集合住宅なら焼かずに納める一択になる。

三方や折敷は水洗いして陰干しにする。乾ききる前にしまうと黴が出る。敷いた白紙は次に使い回さず、丸めて処分する。

片づけが済んだら、帳面に日付と天気と月の出の時刻を書き足しておく。何年も続けると、その家の夜の記録になっていく。書くのは三行でいい。残すのは帳面だけ。

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