クスコの市場の片隅。ラパスの魔女通りの階段脇、プーノ湖畔の日曜市の裏手。
アンデスの町には、たいていこういう人がいる。小さな布を膝の上に広げて、じっと座っている人だ。
布の上には乾いた緑の葉が積まれている。その前に誰かが腰をおろす。旅の話をする人もいれば、病の話をする人もいる。なくした金の話をする人もいるし、息子が帰ってこないと訴える人もいる。
座っている人は葉をひとつまみ取る。口元に近づけて、そっと息を吹きかける。そして手を離す。葉は布の上に落ちて、ばらばらに散らばる。
そこから読みが始まる。
これがこの記事の主題だ。アンデスの民間信仰のなかで、大地への供物(デスパチョ、パゴ・ア・ラ・ティエラ)と並んで、いちばん日常的に行われてきた技法がある。コカの葉による占いだ。それを担う職能者たちの世界を、歴史から、世界観から、道具から順番に書いていく。
読み筋から、唱え言から、禁忌からも見ていく。そして日本で暮らす人がこの技法とどう向き合えるかまで扱う。
- この記事で書く三つのこと
- 先に四つだけ断っておく
- 用語のルール――ケチュア語をベースに、アイマラ語は言語名を添えて
- コカ葉占いって、つまり何なのか
- 先スペイン期――コカはいつからアンデスにあったのか
- 神話に出てくるママ・クカ――起源譚はいくつもある
- インカ帝国期のコカ――国家が管理する作物だった
- インカにあったコカ以外の占い
- インカの宗教職能者――ウィリャク・ウムからワトゥクまで
- 征服がもたらした断絶と、それでも残ったもの――1530年代から1550年代
- リマの教会会議とコカ論争――1551年・1567年・1583年
- トレド副王の改革とコカ経済――1570年代
- タキ・オンコイ――1560年代の反乱と、占い師の政治性
- 偶像崇拝根絶(エストリパシオン)――17世紀の告発記録
- 審問記録から見えるコカ占いの実際
- カトリックとの習合――聖人暦、十字架、「ミサ」という語
- 独立と共和国期――コカの商品化と占いの周縁化
- 20世紀前半――「コカ問題」が国際化していく
- 1961年単一条約とコカ葉の法的地位
- 1955年のケロ調査と「最後のインカ」という語り
- 1970年代以降のクスコ――観光とスピリチュアル市場
- ボリビアの現代政治とコカ――2009年憲法と、条約からの離脱と復帰
- 2020年代の再検討――世界保健機関の専門委員会の結論
- 三つの世界――ハナン・パチャ、カイ・パチャ、ウク・パチャ
- パチャママとアプ――大地と山、それぞれの位置の取り方
- アイニ――占いを支える互酬の原理
- サミとフチャ――「軽い」と「重い」のエネルギー観
- アニム、ソンコ、ヌナ――魂と心をめぐる語彙
- なぜコカが「話す」とされるのか
- パコとは何者か――語義と職能の幅
- パンパミサヨックとアルトミサヨック――二つの型
- ハトゥン・パコ、クラック・アクリェック――上位称号をめぐる注意
- ヤチャック、ハンピック、ワトゥク――機能で呼び分ける
- ライカ――「悪しき術者」というラベルの歴史性
- アイマラ語圏のヤティリ――ここからはアイマラ語で話す
- チャマカニとコリリ――アイマラ語圏の周辺職能
- 選ばれ方――落雷、双子、渦巻き毛、夢
- 修行――白い食事、無塩、山での誓い
- ミサ/ミシャという道具の包み――中身は何か
- 報酬と倫理――値段のつけ方の慣習
- コカの葉という植物――種、産地、品質
- 良い葉と使えない葉――選別の基準
- ウンクーニャとイスタリャ――読み布の格
- キントゥ――三枚一組の意味と組み方
- プクイ――息を送るという行為
- アクリイとピチャル――噛む作法と占いの境界
- 盤面の設え――布、印葉、鈴、十字架
- 投げ方の三系統
- 表裏の読み――もっとも基本的な指標
- 距離と方位――印葉との関係で読む
- 葉の形と欠け――道、人、書類、家畜
- 色調――緑、黄、黒の読み分け
- 重なりと群――「図」を読む段階
- 時間の読み――月、日、年をどう当てるか
- 読み筋を一覧にすると
- 読みの限界――「わからない」と言える技法
- 問いの立て方――答えられる問いと答えられない問い
- 八月という月――なぜこの時期に読むのか
- 年中行事のなかの葉読み
- 場面別――旅立ち、病、失せ物、縁組、種蒔き
- デスパチョとの関係――占いと供物の順序
- 唱え言について――扱い方の断り
- 唱え言その一 場を開く挨拶
- 唱え言その二 パチャママへの呼びかけ
- 唱え言その三 アプへの呼びかけ
- 唱え言その四 コカに問う言葉
- 唱え言その五 三度の息に添える言葉
- 唱え言その六 読み直しを願う言葉
- 唱え言その七 場を閉じる言葉
- 唱え言その八 アイマラ語の短い挨拶
- 唱え言を並べ直すと
- 唱え言を使ううえでの注意
- 禁忌――してはいけないこと
- 後始末――葉と供物をどうするか
- 日本で行う場合の大前提――コカの葉は持てない
- 何を代わりに用いるか――選ぶときの原則
- 代替素材の比較
- 代替素材で組む「三枚一組」
- 日本での盤面――布と印の作り方
- 日本語での唱え言をどう作るか
- 体験談を読む前に
- 体験談その一 峠で読んでもらった話(肯定的)
- 体験談その二 市場の一角で(肯定的だけど留保つき)
- 体験談その三 日本で代替物を使ってみた話(中間的)
- 体験談その四 高額な「浄化」を勧められた話(否定的)
- 体験談その五 繰り返し読んで、かえって混乱した話(否定的)
- コールドリーディングと確証バイアスの話
- 物理的な偏りとプラセボの話
- 観光化と文化盗用の議論
- 高額ツアーと霊感商法への注意
- それでも残るもの――民俗知としての価値
- よくある質問
- 出てきた語をまとめて振り返る
- ここまでの話を振り返っておく
- 今日から日本でできる、実践編
- 最後に一言
この記事で書く三つのこと
この記事が扱うのは、大きく三つの層だ。
まず一つ目。技法としてのコカ葉占いそのもの。布の上に葉を落として、表か裏か、印葉からの距離か、形か、色か、そういうところから読み取っていく具体的な手続きを追う。ペルー南部のクスコやプーノ、ボリビア高地のラパスやオルロに濃く分布していて、地域や読み手によって作法はかなり違う。
二つ目は、職能としてのパコやヤチャックの話。誰がこれをやるのか、どうやってその立場になるのか、共同体のなかでどんな役割を果たしてきたのか。占いは単独の技術じゃない。治療も、供物も、争いの仲裁も、農事の助言も含めた複合的な職能の一部として、ずっと存在してきた。
三つ目は、現代における受け止められ方と摩擦。1950年代以降の学術的な「発見」、1970年代以降の観光化、1990年代以降の英語圏スピリチュアル市場への流入、そして先住民自身による再定義。ここには文化盗用の議論も、高額商法の問題も絡んでくる。
先に四つだけ断っておく
一つ目。この記事は医療でも法律でも投資判断の代わりにもならない。体調が不安なら医療機関へ、契約や相続で困っているなら弁護士や司法書士へ、資産の判断は有資格の専門家に相談してほしい。占いの結果を理由に受診や手続きを先延ばしにするのはやめたほうがいい。
二つ目。コカの葉は日本国内では手に入らないし、持つこともできない。麻薬及び向精神薬取締法で規制対象になっているからだ。この前提を踏まえたうえで、記事の後半では「それでも何ができるか」を具体的に書く。
三つ目。この記事が扱うのは、自己防御や浄化、厄除け、鎮宅、鎮魂といった、誰かを傷つけない目的の実践だけだ。他人を害する目的の術は、歴史の記述としても手順としても書かない。
四つ目。動物の供犠については、歴史的な記述にとどめる。アンデスの儀礼の歴史には家畜を供える儀礼が含まれるけれど、この記事は読者にそれを実行してほしいという手順としては一切扱わない。
用語のルール――ケチュア語をベースに、アイマラ語は言語名を添えて
アンデス高地には系統の違う二つの主要言語がある。ケチュア語(クスコ周辺、ペルー中南部からボリビア一部)と、アイマラ語(チチカカ湖周辺、ボリビア高地、ペルー南端、チリ北部)だ。隣り合っていて語彙の貸し借りもあるけど、別系統の言語で、同じものを指す語も違う。
この分野の日本語記事では、この二つの語形がよく無自覚に混ざる。この記事では次のルールでいく。
本文の標準表記はクスコ系ケチュア語にする。パコ、ヤチャック、キントゥ、アプ、ウンクーニャといった語がそれだ。
アイマラ語圏の話をするところでは、「アイマラ語で」とはっきり書いてから語形を出す。ヤティリ、アチャチラ、チャマカニなどがそれにあたる。
植民地期以降に定着したスペイン語由来の語、ミサ、メサ、デスパチョ、パゴ・ア・ラ・ティエラといったものは、スペイン語形のまま使う。
ケチュア語の綴りは正書法によってk/q、ph/p’などの揺れがあるので、この記事では一つの綴りに統一して、初めて出てきたところで別の綴りも併記しておく。
紙垂や祝詞、護符、結界といった日本固有の宗教用語は、アンデスの事物には流用しない。
コカ葉占いって、つまり何なのか
いちばん短く言うなら、コカ葉占いは、コカの葉を布の上に落として、その落ち方から答えを読む占いの技法らしい。ケチュア語では「クカ・カワイ(kuka qhaway)」、つまり「コカを見ること」と呼ばれる。読み手は「クカ・カワック(kuka qhawaq)」、「コカを見る人」だ。
スペイン語圏では「レクトゥラ・デ・ラ・オハ・デ・コカ(lectura de la hoja de coca)」、「コカの葉の読み」というのが通称になっている。
ここで注意しておきたいのは、この技法が占いであると同時に、対話の形式でもあるということだ。読み手は一方的に神託を告げるわけじゃない。依頼者から話を聞いて、葉を見て、また問いを重ねて、また葉を落とす。ヨーロッパ由来のカード占いが「引いた札を解釈する」構造なのに対して、コカ葉占いは「葉と依頼者と読み手の三者が行ったり来たりする」構造をとる。
この違いは、後で扱う懐疑的な検証のところでも大事になってくる。
先スペイン期――コカはいつからアンデスにあったのか
コカ(学名Erythroxylum coca ほか)は、アンデス東斜面の温暖湿潤な中標高帯に自生する。だいたい標高500メートルから2,000メートルくらいのところだ。栽培されている低木だ。高地、標高3,500メートルを超えるようなところでは育たない。つまり高地に住む人にとって、コカはいつも「下から運ばれてくるもの」だった。
その希少性そのものが、儀礼的な価値の一部になっている。
考古学的には、南米沿岸部の遺跡から、コカの葉や、葉に加える石灰入れ(ジプタ、リプタ)の遺物が、かなり古い時代から出土している。ペルー北高地のチャビン期、だいたい紀元前1200年頃から紀元前500年頃の造形には、コカを噛んでいるとみられる頬の膨らみを表した表現があるとされている。ナスカ、モチェ、ティワナクといった文化の図像や副葬品にも、コカに関わる要素が指摘されている。
年代の細かいところは研究によって幅があるけど、コカの儀礼的な利用がインカ帝国よりずっと古いことは、広く合意されていると言っていい。
大事なのは、コカが最初から「占いの道具」だったとは限らないという点だ。作業の疲労や空腹を軽くしたり高地に順応するための噛用、湿布や煎じ薬としての薬用、社会関係を確認するための贈答、大地や山への献納としての供物。こういう複数の用途が重なり合っていて、占いはそのうちの一つとして分化していった、と考えるほうが実態に近い。
神話に出てくるママ・クカ――起源譚はいくつもある
ここからは伝承の話になる。史実として読まないでほしい。
コカの起源を語る口承は、各地にいくつもある。共通しているのは、コカが「もともと人だった」あるいは「人の死から生まれた」という筋立てだ。代表的な型を並べてみる。
一つは、女の死体から生えた型。美しい女が殺されて埋められた場所から、緑の低木が生えてきた。人々がその葉を噛むと、悲しみが和らいだ。以来、その葉は「ママ・クカ(母なるコカ)」と呼ばれるようになった。
もう一つは、神からの贈り物型。太陽か創造神が、苦しむ人々を憐れんで葉を与えたという話だ。ただし「征服者がこれを使えば、彼らには毒になる」という条件がついている型もある。これは植民地期以降にできた、あるいは形を変えた可能性が高い。
山の贈与型もある。山の主であるアプが、飢えと寒さに耐える牧夫に葉を授けたという話だ。以来、葉は山への返礼としても捧げられるようになった。
そして交換の起源型。人が最初に他人と分け合ったのがコカの葉で、それによって「アイニ(互酬)」という関係の型ができた、という話だ。
これらは互いに矛盾しているけれど、口承としては矛盾したまま並んで存在している。どれか一つを「本来の神話」と決めつける書き方は、この分野では避けたほうがいい。
インカ帝国期のコカ――国家が管理する作物だった
15世紀から16世紀前半にかけてのインカ国家、タワンティンスウユでは、コカは国家が管理する作物だった。東斜面のコカ栽培地は国家や有力者の直轄地とされて、収穫は国家の倉庫に集められる。宗教儀礼や軍事遠征、褒賞として配られたと記録されている。
植民地期のスペイン人年代記作者たちは、「インカ時代にはコカは貴人と祭司が使うもので、庶民が自由に噛むことは制限されていた」と繰り返し書いている。ただ、この記述には注意がいる。征服者側の年代記には、インカを「秩序ある帝国」として描きたい動機と、コカの規制を正当化したい動機の両方があった。
実際には地域や身分によってかなり幅があって、庶民が日常的に使っていたことも広くあったと考える研究のほうが有力だ。
儀礼の場では、コカは次のような局面で使われたと伝えられている。神殿の祭祀では、火に投じて焚いて、灰や煙の立ち方を見た。出征や行軍のときは兵に配られて、峠の石積み(アパチェタ)に献じられた。農耕暦では、種蒔きや収穫の始まりに大地へ供えられたのだ。
使者や飛脚には、長距離移動の携行品として支給された。占いでは、葉を焚いたり投げたり、噛んで唾の色を見たりした。贈答や服属の場面では、首長どうしの贈与や、服属の証としての献上に使われたのだ。
インカ期の宗教史には、山の頂上などで行われた人身供犠(カパコチャ)の記録がある。その儀礼のなかでもコカが使われたと年代記は述べている。これはあくまで歴史的な事実として書くにとどめる。現代の実践とは何の関係もない。
インカにあったコカ以外の占い
ちなみに、コカだけが占いの道具だったわけではない。
インカ期の占いは多様で、コカはその一部にすぎない。年代記や植民地期の報告から知られている技法を並べてみる。
火の占いは、供物を焚いて、炎の色や音、煙の傾きを読むものだ。獣の内臓を見る占いは、家畜の肺や心臓の状態から吉凶を判じた。これは歴史記述として挙げるだけにとどめておく。蜘蛛の占いは、器に入れた蜘蛛の脚の伸び方や欠け方を見るもので、脚が欠けていると凶とされたと伝えられている。
トウモロコシの粒の占いは、粒を数えて偶数か奇数かで判じるもので、これは今でも広く行われている。唾の占いは、コカを噛んだ唾を手や地面に落として、その形を読むものだ。夢の占いは、夢の内容を定型的に解釈するもので、現在のアンデス民間信仰でもいちばん日常的な占いの一つになっている。石や砂の占いは、小石を握って掌を開き、配置を読むものだ。
こういう多様性を押さえておくと、コカ葉占いだけを「アンデスの占い」とイコールで結んでしまう間違いを避けられる。
インカの宗教職能者――ウィリャク・ウムからワトゥクまで
インカ国家には位階化された祭司団がある。その頂点に「ウィリャク・ウム(willaq umu)」と呼ばれる最高祭司がいたと伝えられる。その下に、太陽神殿に属する祭司、地方の聖所(ワカ)を管理する者、暦と天文を扱う者、そして占いを専門とする者がいた。
占い師を指す語として年代記によく出てくるのが「ワトゥク(watuq)」だ。ケチュア語の動詞ワトゥイ(watuy、推し量る、言い当てる、訪ねる)からきていて、「推し量る人」という意味になる。現代のアンデスでも、占い一般を指してワトゥイという語を使う地域がある。
「アマウタ(amawta)」は賢者や教師を指す語で、暦や口承、道徳を伝える職能を意味した。現代の観光やスピリチュアルの文脈では「アマウタ」がしばしば「シャーマンの上位者」という意味で使われるけど、歴史的な用法とは必ずしも一致しない。
ここで注意しておきたいことがある。インカ期の職能名と、現代アンデス農村の職能名と、現代の観光・研修市場で流通している称号は、三つの別々の体系だ。三者を連続したものとして語る文章はよくあるけど、史料的な裏付けは薄い。この記事では、それぞれを別の節として扱っていく。
征服がもたらした断絶と、それでも残ったもの――1530年代から1550年代
1532年のカハマルカでの衝突以降、インカ国家の中枢は急速に解体した。国家祭祀は止まり、太陽神殿の祭司団は散り散りになり、ワカの多くは壊されるか没収された。それでも、共同体レベルの職能者と、家庭内の作法は残ったのだ。国家が消えても、畑に種を蒔く前に地面へコカを供える習慣までは消えなかったからだ。
この時期、コカに対するスペイン人側の態度は割れていた。一方には「悪魔崇拝の道具だから根絶すべきだ」という宗教者の主張がある。もう一方には「先住民労働者にコカを与えなければ鉱山労働が成り立たない」という植民者や鉱山主の実利があった。特にポトシ銀山(現在のボリビア)が稼働し始めてからは、コカは植民地経済の巨大な商品になる。
コカの交易税は植民地財政の重要な収入源になった。
この二重性、宗教的には否定されながら経済的には推進されるという状態が、そのあと何世紀にもわたるコカの位置を決めていくことになる。
リマの教会会議とコカ論争――1551年・1567年・1583年
植民地期ペルーの教会は、リマで開かれた一連の教会会議を通じて宣教の方針を定めていった。コカと先住民の占いは、そのたびに議題にのぼっている。
第1回リマ教会会議は1551年から1552年頃に開かれ、先住民の「偶像崇拝」の禁止を打ち出した。コカの儀礼利用もこの批判の対象に含まれたとされる。第2回リマ教会会議は1567年から1568年頃、先住民の宗教実践への統制を強め、占い師や治療者を摘発する方針が具体化したと伝えられる。第3回リマ教会会議は1582年から1583年頃、ケチュア語とアイマラ語による教理書や告解書の整備を決めた。
告解の問答項目には「コカで占ったか」に相当する設問が組み込まれた。
この第3回会議の意義は大きい。宣教のために先住民言語の教理書を作るということは、先住民の宗教語彙をスペイン側が体系的に把握するということでもあった。皮肉なことに、この過程で作られた辞書や教理書、告解書が、今日われわれがアンデスの在来宗教の語彙を知るための主な史料になっている。
告解書に「コカの葉で占ったか」「コカを焼いて問うたか」といった設問が並んでいる。この事実は裏を返せば証拠でもある。16世紀後半の時点でコカ葉占いが広く行われていたことの証拠だ。禁令があるということは、その行為があったということだ。
トレド副王の改革とコカ経済――1570年代
1569年に着任した副王のもとで進められた統治改革は、先住民の集住化や労役制度の再編、鉱山労働の組織化などを含んでいて、アンデス社会の構造を大きく変えた。散らばっていた集落は「レドゥクシオン」と呼ばれる計画村落に集められ、教会が村の中心に置かれた。
この改革は、コカ葉占いに二つの影響を与えている。一つは空間的な隠蔽だ。集住化によって家々は教会の目が届く範囲に置かれるようになったので、占いや供物は村落の外れや山道、峠、そして夜間へと移っていった。「人目につかない場所で行う」という今も続く作法の一部は、この時期の統制と無関係じゃない。
もう一つはコカの商品化だ。鉱山労働に欠かせない物資としてコカ交易が拡大し、東斜面のコカ農園、チャクラ、のちのユンガス農園が整備された。儀礼用の葉と労働用の葉が同じ流通に乗るようになった。この構造は今も続いている。
タキ・オンコイ――1560年代の反乱と、占い師の政治性
1560年代半ば、ペルー中南部のアヤクチョ周辺を中心に、「タキ・オンコイ(taki unquy、踊りの病)」と呼ばれる宗教運動が広がったと記録されている。参加者は震えたり踊ったりしてトランス状態に入る。壊されたはずのワカ(聖所の霊)がよみがえって、スペイン人とその神を追い払うと語ったとされる。
この運動は1560年代後半から1570年代初頭にかけて、教会側の摘発担当者によって鎮圧されたと伝えられている。
この出来事が示しているのは、アンデスの宗教職能者が、ただの「迷信の担い手」じゃなくて政治的な主体として扱われていたということだ。占い師や治療者は、共同体の判断に影響を与える存在で、だからこそ植民地権力にとって危険だった。この後の摘発文書のなかで、コカ占いを行う者はしばしば「反乱の温床」として名指しされている。
現代の観光文脈では、パコやヤティリはもっぱら「癒しの人」として紹介される。でも歴史をたどると、彼らは共同体の意思決定に関わる公的な役職でもあった。この側面を落としてしまうと、職能の理解は半分になる。
偶像崇拝根絶(エストリパシオン)――17世紀の告発記録
17世紀初頭、リマ大司教区を中心に「偶像崇拝根絶」と呼ばれる組織的な摘発運動が始まった。だいたい1609年前後を起点として断続的に続き、17世紀半ばまでに膨大な審問記録が作られている。
摘発の手順は次のようなものだったと記録されている。まず摘発官と通訳、書記が村に入る。説教をして、自白と密告を促す。隠された聖所やミイラ、祭具、コカの束を捜索する。
職能者を特定して尋問する。そして祭具を焼却し、聖所を破壊し、職能者には鞭打ちや剃髪、追放、強制労働といった処罰を科す。
これらの記録は残酷な史料だけど、同時に、17世紀のアンデスの宗教実践をもっとも詳細に記した史料群でもある。押収品のリストには、コカの束、貝殻、白い脂、小さな石像、糸で結ばれた房などが並んでいて、現代のデスパチョの中身と驚くほど重なっている。
審問記録から見えるコカ占いの実際
念のため断っておくと、以下は告発する側が残した記録だ。そこに歪みがあることは前提として読んでほしい。
審問記録から復元できるコカ占いの姿は、だいたい次のようなものだ。
問いの内容は、失せ物、盗人の特定、病の原因、旅の可否、結婚の可否、雨の有無、家畜の行方といったものだった。手続きとしては、葉を布や地面に落とす、葉を焚いて煙を見る、葉を噛んで唾を見る、といったことが行われた。場所は家の中の暗がりや、夜間の屋外、山の中腹。同伴物としては小さな石や貝殻、酒(チチャ)、動物の脂が使われた。
報酬は食物や布、少額の貨幣だった。
注目したいのは、「病の原因を占う」という使い方がいちばん多いことだ。アンデスの民間医療では、病は身体だけの問題として理解されない。大地への義務を怠った、聖所の近くで無礼を働いた、他人との関係が壊れた。そういう関係性の失調として理解される。
占いは診断の一部で、治療、つまり供物を捧げ直す、関係を修復する、という行為と一続きになっていた。この構造は現代でもほとんど変わっていない。
カトリックとの習合――聖人暦、十字架、「ミサ」という語
植民地期を通じて、アンデス在来の宗教実践はカトリックの語彙や枠組みを取り込んでいった。この習合は表面的な偽装なんかじゃなくて、構造的な融合だ。
暦の重ね合わせがある。農耕暦の節目が、聖人の祝日やキリスト教の祭日と重なるように配置された。8月初旬の大地への供物、2月から3月のカーニバル期の家畜儀礼、6月の冬至期の祭りなどがそれにあたる。
十字架もそうだ。山頂や峠に十字架が立てられたけど、その足元にはコカと酒が供えられ続けた。十字架は在来の聖所を否定したんじゃなくて、その上に重ねられた。
「ミサ」という語もそう。職能者が持つ祭具の包みは、スペイン語の「メサ(mesa、机・祭壇)」あるいは「ミサ(misa、ミサ聖祭)」に由来する語で呼ばれるようになった。これがケチュア語化して「ミサ(misa)」「ミシャ(misha)」となる。「ミサを持つ人」を意味する「ミサヨック(misayuq)」という職能名が生まれた。
聖母との重層もある。大地の女神と聖母マリアが重ねて語られる場面が出てくる。ただ、両者を単純に同一視する説明は雑で、地域と話者によって関係の捉え方は違う。
ここで押さえておきたいのは、現代アンデスのコカ葉占いに見られるカトリック的な要素、十字架、聖人の名、「ミサ」という語、鈴。これらは後から混じった不純物なんかじゃなくて、少なくとも400年以上にわたって実践の一部だったということだ。「本来の姿に戻す」ためにそれらを取り除くという発想は、実は近代のロマン主義に属するものだ。
独立と共和国期――コカの商品化と占いの周縁化
19世紀前半の独立以降、アンデス諸国では先住民の宗教実践は法的迫害の対象からは外れたけど、代わりに「後進性の象徴」という近代主義的な蔑視の対象になった。都市の知識人にとって、コカを噛む農民は「近代化を妨げる存在」で、コカで占う者は「無知につけ込む詐欺師」だった。
同じ時期、コカは別の道をたどっていたのだ。19世紀半ば、コカの葉から有効成分が単離されて、ヨーロッパと北米で医薬品や強壮剤、清涼飲料の原料として大量に消費されるようになった。ここで「葉」と「抽出成分」が別物であるという区別が、国際的な議論から失われていく。この混同が20世紀の国際規制につながって、そして今日、日本でコカの葉を扱えない直接の理由になっている。
占いそのものは、都市では周縁化しつつ農村では続いていった。20世紀の民族誌は、クスコ県やプーノ県の村々の様子を繰り返し報告している。種蒔きの可否、家畜の行方、病の原因、結婚の相性。こうした問いに対して、コカの葉が日常的に使われていた。
20世紀前半――「コカ問題」が国際化していく
20世紀に入ると、コカ葉の噛用は国際的な保健問題として枠づけられるようになる。1940年代末から1950年にかけて国際連合の調査団がアンデス諸国を訪れ、まとめられた報告書は、コカの噛用が栄養不良や無気力、低い生産性の原因だと結論づけた。この報告書は後年、方法論の粗さと文化的な偏見が強く批判されているけど、その後の国際条約の枠組みを決定づけた点で、影響は決定的だった。
この時期、アンデスの知識人のなかから反論も出てきたのだ。噛用は高地の労働と寒冷に適応した文化的な技術であって、栄養不良の原因じゃなくて貧困の結果に伴う習慣だ、という主張だ。この論争の構図は今も続いている。
1961年単一条約とコカ葉の法的地位
ここからが、この主題のいちばんややこしいところかもしれない。
1961年に採択された「麻薬に関する単一条約」は、コカの葉を最も厳しい附表I(スケジュールI)に置いた。さらに同条約の第49条は、締約国がコカ噛用を経過的に認める場合でも、条約発効から25年以内に廃止しなければならないと定めた。この経過期間は1980年代末に満了している。
つまり国際法の建前では、アンデス各国におけるコカ噛用と、それに伴う占いや供物の実践は、長らく「廃止されるべき慣習」として位置づけられてきたことになる。1988年に採択された麻薬・向精神薬の不正取引に関する条約は、伝統的用途への配慮に触れる条文を含んでいるけど、1961年条約の附表そのものを変えるものではない。
この経緯を年表として整理しておく。1950年、国際連合の調査団による報告書が噛用を有害と結論づけて、規制の根拠になった。1961年、麻薬に関する単一条約が採択されて、コカ葉が附表Iに収載され、第49条で25年以内の噛用廃止が規定された。1988年、不正取引防止条約が採択されて、伝統的用途への配慮には言及したものの、附表は変わらなかったのだ。
2009年、ボリビアの新憲法が制定されて、コカを文化遺産として保護する条項が置かれた。2011年から2013年にかけて、ボリビアが条約からいったん脱退し、留保つきで復帰した。自国領域内の伝統的噛用を認める留保を付けての復帰だったのだ。2025年には、世界保健機関の専門委員会が批判的レビューを行い、現行の管理水準の維持を勧告した。
伝統的用途を禁ずる最も厳しい分類への移行は勧告しなかった。
1955年のケロ調査と「最後のインカ」という語り
1955年、クスコの大学に拠点を置く研究者が率いた調査団が、クスコ県パウカルタンボ郡の高地に暮らすケロ(Q’ero)の人々を訪れたのだ。標高4,000メートルを超える集落から、標高1,800メートルを下回る谷まで、垂直に広がる生活圏を持つ牧畜と農耕の共同体だ。
この調査をきっかけに、ケロは「もっともインカ的な生活様式を保った共同体」として広く知られるようになった。この時期に「インカリ神話」、殺されたインカ王の身体が地下で再生しつつあるという口承が、初めて活字になったとも言われている。
ただ、ここには注意がいる。「最後のインカ」という枠づけは、調査する側の関心と、当時のペルーの先住民主義的な文化政策の文脈のなかで形づくられたものでもある。ケロの人々自身は、自分たちを博物館的な残存物としてじゃなく、現に生きている共同体として理解している。
この記事でケロに触れるのは、彼らの実践がその後の国際的な受容に大きな影響を与えたからで、「純粋な原型」がそこにあるという主張のためじゃない。
1970年代以降のクスコ――観光とスピリチュアル市場
1970年代からクスコは国際観光地として急成長した。マチュ・ピチュへの動線上にあるこの街には、遺跡見学だけじゃなくて「精神的な体験」を求める旅行者が集まるようになる。1980年代から1990年代にかけて、英語圏では「アンデスの叡智」を紹介する書籍が何冊も出版される。講座やリトリートの形式が整えられていった。
この過程で起きたことを、価値判断を交えずに並べてみる。数日かかっていた儀礼が、数時間の時間割に収まるように整理された。従来は食物や布、労働の交換だった対価が、貨幣で明示されるようになった。「レベル」や「段位」に相当する呼称が体系化されて、修了証に類するものが発行される例も出てきたのだ。
通訳を介した英語やスペイン語での説明が標準になる。ケチュア語の唱え言は音として保存されつつ、意味の共有は薄れていく傾向が生まれた。ケチュア語圏とアイマラ語圏の語彙や、地域ごとに違う作法が、一つの「アンデス伝統」として平準化されていった。
これらは劣化とも読めるし、適応とも読める。実際、観光収入によって儀礼の担い手が生計を立てられるようになって、若い世代が技法を学ぶ動機が生まれた側面もある。この両義性については、後段の懐疑的検証のところで改めて立ち返る。
ボリビアの現代政治とコカ――2009年憲法と、条約からの離脱と復帰
ボリビアでは1980年代以降、コカ生産者組合が有力な社会運動体になる。2000年代には政権の中核を担うまでになった。2009年に制定された新憲法は、コカを自然状態においては麻薬ではない。文化遺産であり社会的結束の要因であるとして、その保護を国家の責務として掲げる条項を置いている。
さらにボリビアは、1961年条約のコカ葉に関する規定が国内の実情と相容れないとして、2011年に条約を脱退する。2013年初頭に、自国領域内における伝統的なコカ噛用を認める留保を付けて復帰した。この留保に対して複数の国が異議を申し立てたけど、異議国が所定の数に達しなかったので、留保は成立している。
ペルーでは事情が違って、コカ葉の合法的な流通は国営企業による専売を軸にした制度のもとに置かれてきた。実際には制度外の流通も広く存在すると報じられている。制度の細部は変動するので、渡航するなら現地の最新の規則を確認する必要がある。
2020年代の再検討――世界保健機関の専門委員会の結論
2020年代に入って、ボリビアなどの求めに応じて、世界保健機関の薬物依存に関する専門委員会がコカ葉の批判的レビューを実施した。2025年10月に開かれた会合の結論として、この委員会はコカ葉を1961年条約の附表Iにとどめることを勧告した。同時に、伝統的な噛用や茶としての消費が重大な公衆衛生上のリスクをもたらすものではないという認識を示す。
伝統的用途を禁止することになる最も厳しい分類への移行は勧告しなかったと報じられている。
結果として、コカ葉の国際的な法的地位は当面変わらない。日本にとっての意味ははっきりしている。今後しばらく、日本国内でコカの葉を合法的に手に入れられる見通しはない。この前提のうえで、この記事の後半は「では何ができるか」を扱う。
三つの世界――ハナン・パチャ、カイ・パチャ、ウク・パチャ
アンデスの民間宇宙観は、しばしば三つの層として語られる。ケチュア語の「パチャ(pacha)」は、空間と時間の両方を指す語で、「世界」とも「時代」とも訳せる。
上の世界は「ハナン・パチャ(hanan pacha)」と呼ばれ、天空や高み、遠くを指す。太陽、月、星、雷、コンドルが結びつく存在だ。この世界は「カイ・パチャ(kay pacha)」で、いま、ここ、地表を指す。人間や家畜、作物、ピューマが結びつく。
内の世界は「ウク・パチャ(ukhu pacha)」で、内側、地下、水の底を指す。死者、種子、鉱物、蛇が結びつく。
大事なのは、この三層が善悪の階層じゃないということだ。地下は地獄じゃなくて、種子が発芽して金属が育つ「生成の場」だ。上の世界も天国じゃない。三層は循環でつながっていて、水は地下から湧いて天に昇り、雨として戻ってくる。
コカ葉占いは、この三層のあいだの連絡を前提にしている。葉が落ちるという出来事は、上からの情報が地表に到達する瞬間として読まれる。だから多くの読み手は、葉を放す前に必ず上、つまり山や天に向けて息を送る。
パチャママとアプ――大地と山、それぞれの位置の取り方
「パチャママ(Pachamama)」は大地そのもの、あるいは大地であるところの母を指す。「アプ(apu)」は山の主、峰そのものを指す。両者の関係は上下や夫婦の関係に単純化できないけれど、実践としてはだいたい次のように扱われる。
パチャママは近くて、面としてあって、常にそこにいる存在だ。だから供物は地面に注がれて、埋められる。アプは遠くて、点としてあって、名を呼ばれて来る存在だ。だから供物は峰の方角に向けて捧げられ、名を列挙して呼ばれる。
コカ葉占いでは、まずパチャママに断りを入れて、次にその土地を見下ろすアプの名を呼ぶ、という順番が一般的だ。
アプには固有名がある。地域ごとに主要な峰の名が唱えられて、その順序は「近い峰から遠い峰へ」あるいは「小さい峰から大きい峰へ」と並べられることが多い。旅行者向けの儀礼では、有名な高峰の名が定型的に唱えられることがあるけど、本来はその土地から見える山を呼ぶのが筋だ。
アイニ――占いを支える互酬の原理
アンデス社会を理解するうえで鍵になる語が「アイニ(ayni)」だ。今日あなたが私の畑を手伝えば、明日私があなたの畑を手伝う。この対称的な労働交換の原理が、人と人のあいだだけじゃなくて、人と大地、人と山とのあいだにも適用される。
だからコカ葉占いは「無料の情報照会」じゃない。葉を借りて未来を覗くという行為には、必ず返礼が伴う。返礼の形は、供物だったり、言葉だったり、読み手への報酬だったりする。「ただで教えてもらう」という発想そのものが、この体系では成り立たない。
この点は日本の読者にとっても実践的な意味を持つ。後段で示す代替的な作法でも、「先に何かを差し出す」という構造を保つことが、形式の核心を落とさないための条件になる。
サミとフチャ――「軽い」と「重い」のエネルギー観
現代のアンデス系実践でよく使われる対概念に、「サミ(sami)」と「フチャ(hucha)」がある。おおまかに言うと、サミは軽く流れるもの、フチャは重く滞るものを指す。サミは軽やかさや生気、流れを意味していて、吸い込んだり受け取ったり、行き渡らせたりするものとして扱われる。フチャは重さや滞り、消化されていないものを意味していて、大地に渡して消化してもらうものとして扱われる。
注意したいのは、フチャが「悪」や「邪気」ではないとされる点だ。消化されていない食物のようなもので、大地に渡せば分解されて養分になる。「祓う」「退ける」じゃなくて「渡す」という動詞が使われるところに、この体系の特徴がある。日本語で説明するときに「浄化」「祓い」といった語を安易に当てはめると、この違いが消えてしまう。
なお、サミとフチャの語をこの対概念として体系的に使う語り方は、20世紀後半以降の実践や教授の場で整理された面が強いとも指摘されている。古い民族誌における用法とは重心が違いうることを、留保として付けておく。
アニム、ソンコ、ヌナ――魂と心をめぐる語彙
病や不調の診断でしばしば登場するのが、魂や生気に関わる語だ。
「アニム(animu)」は、スペイン語のアニマに由来する語で、人に宿る生気を指す。驚愕や転倒によって身体から離れることがあるとされていて、呼び戻す作法がある。「ソンコ(sunqu)」は心臓であり、感情と意志の座だ。「ソンコが重い」は悲嘆や不安を表す。
「ヌナ(nuna)」は魂、精神を指す語で、地域によって用法の幅が大きい。
コカ葉占いで「アニムが離れている」と読まれた場合、処方は薬じゃなくて、離れた場所に戻って呼びかける、あるいは布と食物を使って呼び戻す作法になる。ここでも、占いと治療が地続きであることが分かる。
繰り返しておくけど、これは医療の代替じゃない。転倒後の意識障害、発熱、外傷、精神的な危機は、いずれも医療機関の領域だ。
なぜコカが「話す」とされるのか
数ある植物のうち、なぜコカが占具になったのか。現地の説明と、外からの分析の両方を並べてみる。
現地でよく語られる説明はこうだ。コカは「母」であり、人の言葉を解する存在だ。コカは山からも大地からも受け取られる、両者に共通の通貨である。噛めば身体に入り、供せば地に入る。
人と大地の両方を経由する唯一の物だ。
外からの分析としてよく挙げられる要因もある。葉が明確な表裏を持っていて、二値の情報を読み取りやすい。葉の形や大きさ、欠けに個体差が大きくて、多値の情報を読み取りやすい。軽くて、落下時に空気抵抗で予測不能に舞うので、偶然性を確保しやすい。
常に手元にあって、供物や嗜好、贈答と兼用できるので、儀礼の敷居が低い。高価すぎず安価すぎず、返礼の単位として扱いやすい。
この二つの説明は排他的じゃない。占具として優れた物理的特性を持つ植物が、同時に社会的にも宗教的にも中心的な位置を占めていた。この重なりが、この技法の持続を支えたと考えるのが妥当だろう。
パコとは何者か――語義と職能の幅
ケチュア語の「パコ(paqo、paq’oとも綴られる)」は、アンデスの儀礼を執り行う人を指す、いちばん一般的な語だ。日本語では「祭司」「呪術師」「シャーマン」などと訳されるけど、どれも過不足がある。
実態としてのパコは、いくつもの仕事を兼ねている。大地と山への供物、デスパチョやパゴ・ア・ラ・ティエラを組んで捧げる。コカの葉で問いに答える。病や不調の原因を見立てて、手当てする。
家の新築、旅立ち、婚礼、農事の節目に立ち会う。共同体内の争いに助言する。亡くなった人にまつわる作法を扱う。
つまり、司祭であり占い師であり治療者であり相談役でもある、そういう地位であって、そのどれか一つに還元できない。多くのパコは同時に農民であり牧夫であって、専業じゃない。
パンパミサヨックとアルトミサヨック――二つの型
パコのなかでいちばん広く知られている区分が、この二つだ。どちらも「ミサ(misa、道具の包み)を持つ者(-yuq)」という構成の語になっている。
パンパミサヨック(pampamisayuq)は「平地のミサを持つ者」という意味で、供物を組んで地面に捧げ、コカで読む。儀礼の実務家という立ち位置だ。アルトミサヨック(altomisayuq、altoはスペイン語由来)は「高いミサを持つ者」という意味で、山の主、アプと直接に言葉を交わすとされている。神秘的な交信の担い手だ。
一般に、コカ葉占いはどちらの立場でも行われるけど、失せ物や旅、縁組といった日常的な相談はパンパミサヨックの領分とされることが多い。アルトミサヨックが関わるのは、もっと重い局面、長患いや原因不明の不運、共同体規模の問題だ。
アルトミサヨックの交信は、暗闇のなかで行われる形式が知られている。灯を消した部屋で、山の主が声として現れて、質問に答えるとされる。この形式については、腹話や助手の関与を疑う指摘が古くからあって、後段の懐疑的検証のところで扱う。
ハトゥン・パコ、クラック・アクリェック――上位称号をめぐる注意
正直に言うと、この段はかなり慎重に読んでほしい部分だ。
近年の教授や研修の文脈では、これらの上にさらに称号が置かれる。「ハトゥン・パコ(hatun paqo、大いなるパコ)」や「クラック・アクリェック(kuraq akulleq、年長の噛む者)」だ。
さらにアルトミサヨックを三段に分ける整理が示されることもある。「アイリュ(共同体)」「リャクタ(町)」「スユ(大地方)」の三段だ。
これらの称号自体はケチュア語として成立している。ただ、七段階などに整然と体系化された「レベル制」が伝統的な村落社会に存在したという史料的な裏づけは乏しい。段位表や修了証、段階別講座という形式は、20世紀後半以降、外国人受講者を含む教授の場で整えられた面が強い。
だからこの記事では、これらの称号を次のように扱う。語として存在していて現地でも使われることは認める。でも「古代から続く階梯」としては提示しない。称号の有無を、技量や誠実さの保証とも見なさない。
ヤチャック、ハンピック、ワトゥク――機能で呼び分ける
パコが総称であるのに対して、機能に即した呼び分けもある。
「ヤチャック(yachaq)」は動詞ヤチャイ(yachay、知る、学ぶ)からきていて、「知る人」を意味する。知識を持つ者一般を指し、教える立場も含む。「ハンピック(hampiq)」は名詞ハンピ(hampi、薬、手当て)からきていて、「手当てする人」を意味する。薬草や按摩、呼び戻しを行う治療者だ。
「ワトゥク(watuq)」は動詞ワトゥイ(watuy、推し量る、当てる)からきていて、「推し量る人」を意味する。占いを専門とする者を指す。「クカ・カワック(kuka qhawaq)」は動詞カワイ(qhaway、見る)からきている。「コカを見る人」を意味する。
葉読みの専門家だ。
実際の村では、これらは兼務される。ある人がヤチャックであり、ハンピックであり、クカ・カワックである、という状態が普通だ。逆に言えば、「私はアルトミサヨックである」と名乗ることよりも、「あの人はよく当てる」と近所の人が言うことのほうが、現地では意味を持つ。
ライカ――「悪しき術者」というラベルの歴史性
まあ、この語の使われ方そのものが歴史の産物なんだよな。
ケチュア語の「ライカ(layqa)」、アイマラ語でもほぼ同形の語が使われている。いずれも「妖術をなす者」として否定的に語られる。蛇や蛙を用いて他人を害するとされていて、共同体から忌避される立場だ。
ただ、この語の使われ方には歴史がある。植民地期の摘発文書のなかで、ライカはキリスト教側が在来の宗教職能者に貼ったラベルとしても機能した。つまり「良いパコ、悪いライカ」という線引き自体が、部分的には外部から持ち込まれた区分を含んでいる。
この記事はこれを歴史的な記述としてのみ扱っていて、他者を害する術の内容や手順は一切書かない。読者が現地でこの語を耳にした場合も、それは告発の言葉であって、実践の案内じゃないと理解しておいてほしい。
アイマラ語圏のヤティリ――ここからはアイマラ語で話す
ここではっきり断っておく。ここから数節は、アイマラ語圏、ボリビア高地やチチカカ湖周辺、ペルー南端の職能について書く。使う語はすべてアイマラ語で、前節までのケチュア語形とは別系統だ。混用しないように、語形を並べるときは言語名を付けておく。
アイマラ語の「ヤティリ(yatiri)」は、動詞ヤティニャ(yatiña、知る)からきていて、「知る人」を意味する。ケチュア語のヤチャックと語義は並行しているけど、別の言語の別の語だ。
ヤティリの中心的な仕事は、コカの葉を読むことだ。ボリビアの都市部でも、市場の一角や自宅で相談を受けるヤティリは珍しくなくて、開業に近い形で活動する人もいる。近年は職能団体を組織して、公的な認知を求める動きも報じられている。
ヤティリが使う布は、アイマラ語で「タリ(tari)」と呼ばれる小型の織物、あるいは「アワイヨ(awayu)」と呼ばれる大判の織物だ。ケチュア語圏の「ウンクーニャ(unkhuña)」に相当するけど、名称も文様の体系も違う。
チャマカニとコリリ――アイマラ語圏の周辺職能
アイマラ語圏には、ヤティリのほかにも呼称がある。いずれもアイマラ語だ。
「チャマカニ(ch’amakani)」は「闇を持つ者」という意味で、灯を消した場で行う交信を担うとされている。ヤティリを指導する立場に置かれることがある。ケチュア語圏のアルトミサヨックと機能が近いけど、別の語だ。「コリリ(qulliri)」は薬草を用いる治療者で、特別な召命を必要とせず、知識と経験によってなる。
ケチュア語圏のハンピックに相当する働きだ。「プリタ(purita)」は落雷を受けた人を指す語で、ヤティリになる資格の徴とされる。「ライカ(layqa)」は、ケチュア語圏と同じく、他者を害する術者として否定的に語られる呼称だ。
ヤティリの補助として、祖先を表す物が用いられるという記述もある。これは民族誌上の記述として挙げるにとどめて、詳しい扱い方は書かない。
選ばれ方――落雷、双子、渦巻き毛、夢
パコにもヤティリにも共通するのが、「自分で志願してなるものじゃない」という建前だ。徴(しるし)によって選ばれる、とされている。よく挙げられる徴を並べてみる。
まず、落雷を受けて生き延びたこと。もっとも強い徴とされていて、二度受けて生き延びた場合はとくに強いという語りもある。次に、双子として生まれたこと。胎盤を被って生まれた、あるいは逆子だったこと。
頭髪に二つの旋毛があること。繰り返し同じ夢を見ること。山に呼ばれる夢、死者に呼ばれる夢が典型とされる。そして、重い病から回復したこと。
病そのものが召命の合図と解される。
以上、六つを挙げた。地域と語り手によって数え方は違うし、これがすべてでもない。
落雷の徴については、そのまま真に受けるべきじゃない事情がある。高地の牧畜地帯は落雷が多くて、羊やリャマを追う人が被雷する事故は現実に起きている。生還者が特別視される背景には、高い致死率のなかで生き残ったという事実の重みがある。徴の物語は、その経験に社会的な位置を与える装置でもある。
修行――白い食事、無塩、山での誓い
徴を得ただけでは職能者にはならない。師について学ぶ期間がある。報告される内容は地域差が大きいけれど、だいたい次の要素を含んでいる。
準備の段階は、数週間から数か月かけて、塩と香辛料を断つ食事、いわゆる白い食事、性的な節制、静かな場所での起居を行う。随行の段階は1年から3年程度で、師の儀礼に付き従って、供物の組み方、唱え言、葉の読みを覚える。試しの段階は随時で、師の立ち会いのもとで実際に読んでみて、当たり外れを検証される。受けの段階は1日から数日で、山の上で誓約をして、自身の布と道具を受け取り、名を告げる。
期間は合計すると、だいたい1年強から3年強の幅に収まる報告が多い。ただ「終わり」が明確にない、生涯続く学びとして語られることも多い。
ミサ/ミシャという道具の包み――中身は何か
職能者は自分の包みを持つ。ケチュア語圏では「ミサ(misa)」あるいは「ミシャ(misha)」、アイマラ語圏では別の呼称が使われる。中身は個人によって大きく違うけど、典型的な構成を挙げてみる。
「クヤ(khuya)」と呼ばれる小石。山で拾ったもの、師から譲られたもの、雷が落ちた場所の石など、数個から数十個ある。織物。包みそのものである布と、上に広げる読み布。
貝殻だ。海の貝、スポンディルスなどが高地で使われる例は古代から知られている。小さな金属片、十字架、聖人の像。これは植民地期以降の要素だ。
香草や樹脂。焚いて使う。コカの葉の常備分。小瓶。
酒あるいは香水が入っている。
包みは他人に無断で開けさせない、地面に直接置かない、といった扱いの規範が伴う。この「道具に格がある」という感覚は、読み布についても同じだ。
報酬と倫理――値段のつけ方の慣習
お金の話は避けて通れない。ここははっきり言っておきたい。
伝統的な村落では、読みの報酬は貨幣とは限らなかった。食物、布、労働、家畜の一部といった形が普通だった。都市化と観光化のなかで貨幣払いが一般化したけど、次のような慣習は各地に残っていると報告されている。
値段を先に言わない。読み手が金額を提示するのは無作法とされる地域がある。受け取りを拒まない。差し出されたものは受ける。
葉に払うのであって人に払うのではない、という建前がある。外れた場合の扱いが定められていることもある。返す、次回無償で読む、といった具合だ。
一方、観光市場では明示的な料金表が普通になった。これ自体は悪いことじゃない。むしろ金額が不透明なまま高額の「浄化」や「解呪」を勧められる場合こそ危険だ。この点は後段で改めて扱う。
コカの葉という植物――種、産地、品質
コカ属の栽培種は複数ある。アンデス東斜面で広く栽培されるものと、より乾いた地域や低地で栽培されるものとで、葉の形と味が違う。占いの場で使われるのは、多くの場合、産地の市場で日常的に流通している乾燥葉だ。
葉の大きさは、だいたい長さ3センチメートルから6センチメートル、幅1.5センチメートルから3センチメートルくらい。乾燥すると縁がやや内側に丸まって、表側、葉の上面に沿って主脈が浮き出る。この主脈の走り方が、後で述べる「表裏の判定」で決定的な手がかりになる。
品質は、色(濃い緑が上とされる)、香り、割れの少なさ、乾き具合で判断される。占い用には、噛用に回す葉より整った葉が選り分けられるのが普通だ。市場では「儀礼用」として選別済みの葉が別の値段で売られていることもある。
良い葉と使えない葉――選別の基準
読み手はまず葉を選ぶ。この選別自体が儀礼の一部で、雑にはやらない。
濃い緑で無傷、主脈が明瞭な葉は、キントゥや印葉に使われる。もっとも「よく話す」葉とされる。やや小ぶりだけど無傷な葉は、散らす葉として数を確保するために使われる。黄変している葉は読みには残すけど、「消耗」「古い問題」の徴として意味を帯びる。
黒ずみやカビのある葉は取り除かれる。問いを濁すとされるからだ。裂けている、欠けている葉は、読みに残す場合と除く場合があって、これは読み手の流儀による。残す場合は「途切れ」を意味する。
粉々に砕けている葉は、形として読めないので取り除かれる。
砕けた葉や埃は布の外へ払う。この払う動作を、大地への一次的な返礼と位置づける読み手もいる。
ウンクーニャとイスタリャ――読み布の格
ケチュア語圏で読み布として使われるのは、「ウンクーニャ(unkhuña)」と呼ばれる正方形に近い小型の織物だ。同じ種類の布は「イスタリャ(istalla)」とも呼ばれて、地域と用途で呼び分けられる。アイマラ語圏では前に述べたとおり「タリ」「アワイヨ」が使われる。
布には格の差がある。日常の布は食物やコカを包むもので、市場で買える。読みの布は占いにだけ使うもので、他の用途には転用しない。受けの布は修行の終わりに師から渡された布で、生涯使うし、人に触れさせない。
布の文様は帯状に構成されていて、地域ごとに定型がある。占いにおいて文様そのものを読む流儀もあるけど、もっと一般的なのは、布を単なる盤面として使って、葉の落ちた位置関係を読むやり方だ。
布は、四隅を整えて広げる。皺があると葉の転がりに影響するので、手のひらで撫でて平らにする。地面に直接置かず、別の布や板を下に敷く流儀もある。
キントゥ――三枚一組の意味と組み方
「キントゥ(k’intu)」は、コカの葉を三枚そろえて一組にしたものを指す。アンデスの儀礼における最小単位で、供物にも、挨拶にも、占いの開始にも使われる。
組み方の要点を順に述べる。まず、傷のない葉を三枚選ぶ。大きさをそろえる必要はないけど、極端に大きさが違うものは避けるとされる。葉柄(へた)を手前にそろえて重ねる。
三枚の柄が一点に集まるように持つ。主脈の浮き出る面を上に向ける。葉の裏側にあたる面が浮いて見える場合もあるので、実物で確認しておく。上に向いた面が「表」として扱われる。
もっとも色が濃く整った葉を最上段に置く。扇のように少しずつずらして、三枚が見えるようにする。
三という数の説明は多様だ。三層の世界に対応させる説明、体・心・魂に対応させる説明、過去・現在・未来に対応させる説明などがある。地域と語り手で違う。どれか一つが正統ということはない。
プクイ――息を送るという行為
キントゥを組んだら、口元に近づけて息を吹く。ケチュア語で「プクイ(phukuy、吹くこと)」と呼ばれる。関連して「サマイ(samay、息・休息・生気)」という語があって、息を送ることは生気を渡すことだと説明される。
作法の要点はこうだ。強く吹き飛ばさない。葉が飛ぶほど吹くのは無作法とされる。息が葉に触れる程度でいい。
三度に分けて吹く流儀が一般的で、一度目は大地へ、二度目は山へ、三度目は自分の問いへ、と割り当てる説明が多い。吹くときは葉を上に向けるか、呼びかける方角に向ける。吹きながら、あるいは吹く直前に、呼びかけの言葉を唱える。声に出さず心のなかで唱える場合もある。
この動作は、占いの前だけじゃなくて、供物のとき、山道で立ち止まったとき、酒を飲む前など、日常のさまざまな場面で行われる。アンデスにおけるもっとも基本的な礼の型と言っていい。
アクリイとピチャル――噛む作法と占いの境界
コカを口に含む行為は、ケチュア語で「アクリイ(akulliy)」「ハルパイ(hallpay)」と呼ばれる。スペイン語では「ピチャル(pijchar)」「アクリカル(acullicar)」などと言うらしい。葉を頬に溜めて、少量のアルカリ剤(灰や石灰)を加えてゆっくり成分を出す。
占いの場では、読み手が口に葉を含んだまま読むことがある。これは嗜好じゃなくて、葉と身体をつなげておくためだと説明される。また、依頼者にも数枚を渡して、口に含むよう促す流儀もある。
ここで、日本の読者に向けてはっきり述べておく。この作法は日本国内では再現できない。後で述べるとおり、コカの葉は日本では入手も所持もできない。この節は現地の実践の記述であって、代替物を口に含むことを勧めるものでもない。
盤面の設え――布、印葉、鈴、十字架
読みを始める前の設えを整理しておく。
読み布は平らに広げて四隅を整える。これが盤面になり、世界の見立てになる。印葉のうち表にあたる葉は、布の一方の端の中央付近に置いて、「通る側」「進む側」の基準点になる。印葉のうち裏にあたる葉は、反対側の端の中央付近に置いて、「滞る側」「退く側」の基準点になる。
読む葉の山は、布の手前、読み手の側に置いておいて、これを掴んで落とす。小さな器は布の脇に置いて、酒や水を少量入れておき、開始と終了に地へ注ぐ。鈴は布の脇に置いて、開始や区切りに鳴らす。用いない読み手も多い。
十字架や聖像は布の奥、上手に置く。これは植民地期以降の要素で、用いない読み手も多い。
印葉を二枚立てる方式は、ボリビア高地からペルー南部にかけて広く報告される。読み手によっては印葉を置かず、布の区画だけで読む。
投げ方の三系統
葉の落とし方には、大きく三つの系統がある。
第一系統は、一握りを落とすやり方だ。山から一握り、だいたい30枚から60枚を掴んで、胸の高さから布の中央へ落とす。散らばりの全体像を読む。ボリビア高地でよく見られる方式だ。
第二系統は、少数を落とすやり方だ。3枚から12枚といった少数を選んで、一枚ずつ、あるいはまとめて落とす。個々の葉の意味を細かく読む。クスコ周辺でよく見られる方式だ。
第三系統は、十二枚を並べるやり方だ。12枚を使って、月や方位に対応させて配置する。他の系統に比べて体系的だけど、比較的新しい整理と見る立場もある。
三系統を挙げた。実際には混合する読み手も多い。
高さは重要だ。低すぎると散らばらないし、高すぎると布から出てしまう。胸から腹の高さ、布からおよそ30センチメートルから50センチメートル程度が目安として語られる。
表裏の読み――もっとも基本的な指標
もっとも基本的で、どの流儀にも共通するのが表裏の読みだ。表向き、つまり主脈が上を向いていて緑の濃い面が見える状態は、開く、通る、良い知らせ、肯定を意味する。裏向き、淡い面が上を向いている状態は、閉じる、待つ、条件が整わない、否定を意味する。
判定は、まず全体の枚数比で行う。表向きが多ければ全体として肯定的、裏向きが多ければ否定的、という粗い読みが最初に出る。次に、印葉の近くにある葉、あるいは区画ごとの偏りを見る。
留意点が二つある。一つは、裏向きが「凶」ではないということだ。「いまはその時ではない」という時間の情報として読まれることが多い。もう一つは、乾燥葉には反りがあるので、そもそも表向きに落ちやすい、あるいは裏向きに落ちやすいという物理的な偏りがあるということだ。
この偏りについては、後段の懐疑的検証で扱う。
距離と方位――印葉との関係で読む
印葉を置いた場合、各葉と印葉の距離が読みの軸になる。表の印葉に接しているか重なっている葉は、すでに動き出している、近いと読まれる。表の印葉に近い葉は、条件が整いつつあると読まれる。中央付近の葉は、未決、当人の判断次第と読まれる。
裏の印葉に近い葉は、妨げがある、待つほうがいいと読まれる。裏の印葉に接しているか重なっている葉は、いまは動かないほうがいいと読まれる。布の外に出た葉は、その件は自分の管轄外、あるいは読み直しと読まれる。
布から出た葉の扱いは流儀が分かれる。「関係のない事柄」として捨てる読み手もいれば、「外部からの介入」として重く見る読み手、「読み直しの合図」とする読み手もいる。
葉の先端が指す方向も読まれる。先端が向いた方角にその事柄が動く、という単純な規則が広く用いられる。ただ方角の基準、依頼者から見てか山の方角かは読み手によって違うので、現地で読んでもらう際は尋ねるといい。
葉の形と欠け――道、人、書類、家畜
個々の葉の形は、具体的な事物に見立てられる。よく報告される対応を挙げてみる。
細長い葉は道、旅、移動、時間の経過を表す。丸みのある大きな葉は家、土地、まとまった財を表す。小さな葉は子ども、小さな用件、少額を表す。二枚が並んで重なっているのは、人と人の関係、夫婦や共同者を表す。
一枚が別の葉の上に乗っているのは、影響を与える側と受ける側を表す。縁が欠けた葉は損失、削られるもの、健康の消耗を表す。裂けた葉は途切れ、割り込み、決裂を表す。先端が折れているのは計画の頓挫、あるいは締切の到来を表す。
葉柄だけが残っているのは、関係の名残、形式だけが続いている状態を表す。
これらは固定した辞書じゃない。読み手は依頼者の話を聞いたうえで、その文脈に沿って形を意味づける。同じ形でも、問いが違えば読みは変わる。この可塑性こそが、後段で扱う懐疑的検証の焦点でもある。
色調――緑、黄、黒の読み分け
濃い緑は力がある、健康、進展を意味する。新しい葉ほど濃い緑になる。明るい緑は始まったばかり、若い、未熟を意味する。肯定にも未成熟にも読まれる。
黄色は消耗、疲れ、古い問題、金銭を意味する。金銭と結びつける流儀もある。茶や黒ずみは停滞、長引く問題、過去の重みを意味する。「悪」とは読まない読み手が多い。
斑(まだら)は混乱、二つの事柄の混在を意味する。問いを分けるよう促すサインとされる。
色の読みには物理的な下地がある。黄変や黒ずみは乾燥と保管の結果であって、依頼者の運命とは無関係だ。この点を承知したうえで、それでも読み手は色を読む。偶然の分布に意味を与えるのが占いという技法である、という理解を、ここでは素直に受け止めておきたい。
重なりと群――「図」を読む段階
熟練した読み手は、個々の葉じゃなくて、葉の集合が描く形(スペイン語でfigura、図)を読むと言われる。報告される「図」の例を挙げてみる。
円形に散っているのは、全体が回っている状態で、決着が近いか、あるいは堂々巡りを意味する。一列に並んでいるのは道、旅、あるいは手続きの流れを意味する。二つの群に分かれているのは、選択肢が二つあるか、関係者が二派に分かれていることを意味する。中央が空いて周囲に散っているのは、当事者が不在、決める人がいないことを意味する。
一枚だけ遠くに離れているのは、離れている人、遠方の情報を意味する。団子状に重なっているのは、もつれ、ほどく必要があることを意味する。
ここまで来ると、読みは占いというよりも投影法的な面接に近づく。読み手は図を言葉にして、依頼者はそれに反応して、その反応がさらに読みを規定する。この往復こそが実際の相談の中身だ。
時間の読み――月、日、年をどう当てるか
具体的な時期を尋ねられたとき、読み手は数を用いる。よく報告されるやり方を挙げてみる。
枚数を数える方法。印葉と目的の葉のあいだにある葉の枚数を数えて、日数や月数と読む。区画を割り当てる方法。布を四つに割って、それぞれを季節や四半期に割り当てる。
重ねて数える方法。重なった葉の枚数を「段階の数」と読んで、一段階を一か月などと換算する。再度落とす方法。時期だけを問い直して落とし直す。
いずれの方法も、単位(日か月か年か)は読み手が決める。ここに恣意性が入る。逆に言えば、時期の断定が細かく出てくる読みほど、注意深く聞いたほうがいい。
読み筋を一覧にすると
ここまでの指標を整理しておく。表裏は、主脈の面が上か下かを見るもので、表向きなら開く・通る、裏向きなら閉じる・待つと読む。枚数比は、表向きと裏向きの数を見るもので、表が多いか裏が多いかで判断する。距離は、印葉との近さを見るもので、表の印葉に近いか裏の印葉に近いかで判断する。
方向は、葉先の指す向きを見るもので、依頼者から外向きなら進む、内向きなら戻ると読む。形は、細長い・丸い・小さいといった形を見るもので、目的に合う形か、欠けや裂けがあるかで判断する。色は、緑・黄・黒を見るもので、濃い緑か、黄変や黒ずみかで判断する。重なりは、上下関係を見るもので、整った段かもつれた団子状かで判断する。
群の形は、全体の配置を見るもので、一列や円か、散逸や中央の空白かで判断する。布外は、外に出た葉を見るもので、流儀によって管轄外や読み直しと判断する。
九つの指標を挙げた。実際の読みではこれらを同時に見て、矛盾する指標があれば依頼者に問い返す。
読みの限界――「わからない」と言える技法
良い読み手の条件として現地でしばしば語られるのは、当てる能力じゃなくて、「わからない」と言える態度だ。葉が散らばりすぎて読めない、問いが漠然としすぎている、いまは答えが出ていない。こうした返答は失敗じゃなくて、正常な結果とされる。
読み直しの規則も定められていることが多い。同じ問いを三度までは落とし直してよくて、それ以上は日を改める、といった形だ。何度も落とし直して望む答えが出るまで続けることは、葉を軽んじる行いとして戒められる。
問いの立て方――答えられる問いと答えられない問い
技法として成立する問いには型がある。答えやすい問いには型がある。「この道を進んでよいか」という可否を問うもの。「この件で気をつけるべきは何か」という着眼点を問うもの。
「いま欠けているものは何か」という不足を問うもの。「時期はいつごろか」という大まかな時期を問うもの。この四つだ。
答えにくい、あるいは扱ってはならない問いもある。「あの人は私をどう思っているか」というのは他者の内心で、本人に聞くべき事柄だ。「誰が犯人か」というのは名指しが害を生むので、現地でも慎重に扱われる。「この病気は治るか」というのは医療の判断で、読み手が答えるべきじゃない。
「株はどうなるか」「訴訟に勝てるか」というのは投資や法律の判断だ。「相手を思いどおりにするにはどうするか」というのは他者への干渉で、この記事は扱わない。
この記事は、他者を害する目的、他者を操作する目的の問いと手順を一切扱わない。特定の実在する人物を名指しして働きかけるような使い方も、記述しない。占いは自分の判断を整えるためのものとして扱う。
八月という月――なぜこの時期に読むのか
アンデスの民間暦において、八月は特別な位置を占める。南半球では乾季の終わりにあたって、農事の準備が始まる時期だ。この時期、大地が「口を開けている」「腹を空かせている」と語られて、供物を捧げるのにもっとも適した月とされる。八月一日を筆頭に、八月中の折々に大地への供物が行われる。
葉読みもこの月に集中する。理由として語られることは三つある。大地が受け取りやすい時期なので応答も得やすいこと。農事の年が始まる前にその年の見通しを立てる必要があること。そして供物と読みが一続きの行事として組まれていることだ。
現代の都市部でも、八月には市場の儀礼用品売り場が賑わって、読み手の予約が埋まる。観光地では八月に合わせた催しが組まれる。
年中行事のなかの葉読み
8月は大地への供物の月で、年の見通しを読んだり、供物の内容を決めるために読んだりする。2月から3月のカーニバル期は、家畜と家に飾りをつける行事があって、家畜の増減や家の安泰を読む。6月の冬至期の祭りは太陽に関わる祭礼だけど、クスコの大規模な催しは20世紀の再構成である。在来の農村儀礼とは区別される。
種蒔き前には、蒔く日や蒔く場所を読む。収穫後には、翌年の配分を読む。新築や旅立ち、婚礼といった随時の場面でも、日取りと可否を読む。
なお、六月の大規模な祭典は観光行事としてよく知られているけど、これは20世紀に文献をもとに再構成された催しで、農村で継承されてきた儀礼とは性格が違う。両者を同一視しないのが、この分野の記述の基本だ。
場面別――旅立ち、病、失せ物、縁組、種蒔き
旅立ちの場面では、「行ってよいか」「いつ出るか」を問い、葉先の方向や表裏比を焦点に読んで、出発前に峠で供えるのが典型的な処方になる。病の場面では、「原因は何か」を問い、欠けた葉や黒ずみ、離れた葉を焦点に読んで、医療にかかりつつ供物を整え直すのが処方になる。失せ物の場面では、「どこにあるか」を問い、方角や距離、群の形を焦点に読んで、指された方角を探すのが処方になる。
縁組の場面では、「合うか」を問い、二枚の重なり方を焦点に読んで、時期を待つか話し合うのが処方になる。種蒔きの場面では、「いつ、どこに蒔くか」を問い、区画の偏りを焦点に読んで、畑に供えてから蒔くのが処方になる。家の新築の場面では、「この場所でよいか」を問い、中央の空きと四隅を焦点に読んで、基礎に供えるのが処方になる。
病の項に処方として「医療にかかる」と書いたのは、綺麗事じゃない。現代のアンデス農村でも、読み手が「これは診療所へ行きなさい」と言うことは普通にある。在来の職能者と近代医療は、現地では対立するものじゃなくて併用される。
デスパチョとの関係――占いと供物の順序
大地への供物、デスパチョやパゴ・ア・ラ・ティエラと葉読みは、しばしば一続きに行われる。順序には型がある。
もっとも一般的なのは、読んでから供えるやり方だ。何を、どこに、いつ供えるべきかを読みで決める。重い問いの場合は、供えてから読むやり方をとることもある。まず供物を捧げて挨拶を済ませてから問う。
日常的な小規模の読みでは、読みのなかで供えるやり方もある。読みの途中でキントゥを組んで、供えながら進む。
この記事は葉読みを主題にしているので、供物の組み方の詳細には立ち入らない。ただ一点、両者に共通する原理を述べておく。先に差し出して、あとで受け取る。これがアイニであって、この順序を逆にする実践は、現地の理解からは外れる。
唱え言について――扱い方の断り
以下に、コカ葉占いの場で使われる呼びかけの言葉を、原綴、カタカナ音写、日本語訳の三段で示す。掲げるにあたって四点を断っておきたい。
一つ目。これは固定された式文じゃない。アンデスの唱え言は即興的で、読み手ごと、場ごとに変わる。「正しい文言」というものは存在しない。
以下は各地で報告される定型的な言い回しを、標準的な語法に整えたものだ。
二つ目。綴りは正書法によって揺れる。ケチュア語の表記には複数の方式がある。母音を三つとするか五つとするかで、あるいは放出音や帯気音をどう表すかで綴りが変わる。
この記事では一つの方式に統一した。
三つ目。カタカナ音写は近似でしかない。ケチュア語のq(口蓋垂音)、放出音(k’、p’、t’など)、帯気音(ph、khなど)は日本語に対応する音がない。カタカナは目安と考えてほしい。
四つ目。唱えることそのものが目的じゃない。意味の分からない音を繰り返すことに、この体系では価値が置かれない。日本語で意味を理解して、必要なら日本語で唱えるほうが筋が通る。
唱え言その一 場を開く挨拶
原綴は「Pachamama, santa tierra, kay k’intuchayta chaskiykuway.」。音写は「パチャママ、サンタ・ティエラ、カイ・キントゥチャイタ・チャスキイクワイ」。訳は「パチャママよ、聖なる大地よ、この小さなキントゥをお受けとりください」。
「サンタ・ティエラ(santa tierra)」はスペイン語由来の呼びかけで、植民地期以降に定着した。ケチュア語の文のなかにスペイン語の呼称が混ざるのは、この分野ではごく普通のことだ。
唱え言その二 パチャママへの呼びかけ
原綴は「Pachamama, hallp’a mama, kawsayniyta uywaykuway, ñanniyta kicharipuway.」。音写は「パチャママ、ハルパ・ママ、カウサイニイタ・ウイワイクワイ、ニャンニイタ・キチャリプワイ」。訳は「パチャママよ、土の母よ、わたしの命を養ってください、わたしの道を開いてください」。
「ウイワイ(uyway)」は「養う、育てる、飼う」を意味する動詞だ。人が大地に養われるという関係が、この一語に凝縮している。
唱え言その三 アプへの呼びかけ
原綴は「Apukuna, hatun urqukuna, kaymanta qhawariwaychis, uyariwaychis.」。音写は「アプクナ、ハトゥン・ウルククナ、カイマンタ・カワリワイチス、ウヤリワイチス」。訳は「アプたちよ、大いなる山々よ、ここからわたしを見守ってください、わたしの言うことを聞いてください」。
実際の場では、この後にその土地から見える峰の名を順に呼ぶ。「アプ○○よ、アプ○○よ、来てください」という形だ。名前を入れる部分を空欄として示しておく。原綴は「Apu___, Apu___, hamuychis, uyariwaychis.」。
音写は「アプ○○、アプ○○、ハムイチス、ウヤリワイチス」。訳は「アプ○○よ、アプ○○よ、来てください、聞いてください」。
唱え言その四 コカに問う言葉
原綴は「Mama Kuka, sut’inta willariway. Ama pakawaychu.」。音写は「ママ・クカ、スティンタ・ウィリャリワイ、アマ・パカワイチュ」。訳は「母なるコカよ、ほんとうのことを告げてください、隠さないでください」。
「スティ(sut’i)」は「真実、はっきりしたもの、名」を意味する。「スティンタ(sut’inta)」で「真実を、はっきりと」となる。
問いそのものは、この後に自分の言葉で述べる。ケチュア語で述べる必要はなく、現地でもスペイン語で問いを述べる読み手は多い。
唱え言その五 三度の息に添える言葉
キントゥに息を吹く三度に、それぞれ短い語を添える形式がある。一度目は「Pachamamapaq.」、音写は「パチャママパック」、訳は「パチャママのために」。二度目は「Apukunapaq.」、音写は「アプクナパック」、訳は「アプたちのために」。三度目は「Kay tapuyniypaq.」、音写は「カイ・タプイニイパック」、訳は「この、わたしの問いのために」。
接尾辞「-paq」は「―のために、―へ」を表す。三度の順序は流儀によって違って、山を先に呼ぶ地域もある。
唱え言その六 読み直しを願う言葉
原綴は「Manan hamut’anichu. Huk kutita willariway.」。音写は「マナン・ハムタニチュ、フク・クティタ・ウィリャリワイ」。訳は「わたしには読み取れません、もう一度お告げください」。
「わからない」を口に出すこと自体が作法だ。この一言を挟まずに何度も落とし直すのは、葉を軽んじる行いとされる。
唱え言その七 場を閉じる言葉
原綴は「Añaychayki, Pachamama. Añaychaykichis, Apukuna. Kunanmanta wiñaypaq.」。音写は「アニャイチャイキ、パチャママ、アニャイチャイキチス、アプクナ、クナンマンタ・ウィニャイパック」。訳は「ありがとうございます、パチャママよ、ありがとうございます、アプたちよ、いまから、いつまでも」。
閉じの言葉には、親愛を示す呼びかけが添えられることがある。原綴は「Urpillay, sunqullay.」、音写は「ウルピリャイ、ソンクリャイ」、訳は「わたしの小鳩よ、わたしの心よ」。
これは恋歌や別れの歌にも出てくる言い回しで、大地や相手への親愛を表す。厳粛一辺倒じゃないところに、この文化の手ざわりがある。
唱え言その八 アイマラ語の短い挨拶
ここでもはっきり断っておく。ここに挙げる二つはアイマラ語で、前七項のケチュア語とは別系統だ。同じ場でケチュア語形とアイマラ語形を混ぜて唱えるのは、現地の作法としても不自然になる。どちらかに統一するのが筋だ。
原綴は「Jallalla Pachamama, jallalla achachilanaka.」。音写は「ハラーヤ・パチャママ、ハラーヤ・アチャチラナカ」。訳は「パチャママに栄えあれ、アチャチラ(祖霊であり山)たちに栄えあれ」。
原綴は「Yuspagara.」。音写は「ユスパガラ」。訳は「ありがとうございます」。スペイン語の「神があなたに報いますように」に由来する借用語だ。
唱え言を並べ直すと
八項を挙げた。一番は場を開くもので、ケチュア語でキントゥを受け取ってほしいと願う言葉。二番は大地へ向けたもので、命を養い道を開いてほしいと願う言葉。三番は山へ向けたもので、見守り聞いてほしいと願い、峰の名を呼ぶ言葉だ。
四番は葉へ問うもので、真実を告げ隠さないでほしいと願う言葉。五番は息を吹くときのもので、三度の息にそれぞれ宛先を添える言葉。六番は読み直しを願うもので、読み取れないと述べてもう一度願う言葉だ。七番は閉じるもので、礼を述べて親愛の語を添える言葉。
八番はアイマラ語の挨拶と礼で、栄えあれ、ありがとうという言葉。うちケチュア語が七項、アイマラ語が一項になる。
唱え言を使ううえでの注意
他者に向けて唱えない。ここに挙げた文言はすべて、自分と大地、山とのあいだの言葉だ。誰かを対象にした働きかけには使わない。
録音した音を機械的に流さない。意味を伴わない反復は、この体系では敬意と見なされない。
翻訳して唱えてよい。日本語で「大地よ、この葉を受け取ってください」と述べることは、原語を誤って唱えるより誠実だ。
場所の名を勝手に呼ばない。現地の峰の名を、その土地にいないのに呼ぶことについては、現地でも意見が分かれる。日本で行うなら、自分が実際に見ている山や、暮らす土地の名を用いるほうが筋が通る。
禁忌――してはいけないこと
各地の報告と実践者の語りから、繰り返し挙げられる禁忌を整理しておく。
読み布を跨がない。広げた布の上を人や物が越えない。踏むのは論外だ。葉を落とさない、踏まない。
落ちた葉は拾う。踏んだ葉は読みに使わない。片手で渡さない。葉や道具は両手で受け渡す。
数を偽らない。キントゥは必ず三枚で、足りないからと二枚で済ませない。同じ問いを繰り返し落とさない。三度までとする流儀が多くて、以降は日を改める。
望む答えが出るまで続けない。もっとも強く戒められる行いだ。他人の道具に触れない。断りなく他人の包みを開けない。
他者を害する問いを立てない。誰かを陥れる目的の問いは、現地でも拒まれる。酔ったまま読まない。酒は供えるものであって、読み手が酩酊して読むことは戒められる。
報酬を先に値切らない。差し出す側の姿勢が問われる。写真や録画を無断で撮らない。現地でもっとも摩擦を生みやすい点で、必ず事前に尋ねる。
十一項を挙げた。地域と読み手によって増減する。
後始末――葉と供物をどうするか
読みが終わったあとの葉の始末には、三つの型がある。
焚くやり方では、供物として火に入れる。焚く場所は屋外の、人の通らない場所とされる。燃え方、よく燃えるか途中で消えるか、煙がまっすぐ立つか。これを最後の徴として読む読み手もいる。
残った灰は、地面に埋めるか、流水に流すか、風の吹く場所で散らす。灰を家の中に置いたままにしないという点は、各地で共通している。
埋めるやり方では、地面に穴を掘って、葉と少量の酒を入れて埋め戻す。埋める場所は自分の土地か、断りを入れた土地に限る。他人の土地や公共の場に埋めることは、現地でも問題になる。
流すやり方では、川や湧き水に流す。水は地下(ウク・パチャ)へつながるとされる。ただし現代においては、環境と法令の観点から自然水域に物を流すのは避けるべきだ。日本で代替物を用いる場合はなおさらだ。
いずれの場合も、共通する原則がある。読みに使ったものを、ごみとして捨てたまま忘れない。感謝の一言を述べて始末する。この一手間が形式の要だ。
日本で行う場合の大前提――コカの葉は持てない
まず確認しておく。日本国内において、コカの葉は麻薬及び向精神薬取締法の規制の対象で、一般の個人が入手・所持・栽培することはできない。海外で合法的に販売されているコカ茶やコカ飴を含めて、日本への持ち込みは認められない。土産物として持ち帰った、知らなかった、儀礼のためだった。
いずれも理由にならない。研究機関等での取扱いは、法令に基づく許可のもとで行われる例外だ。
したがって、日本でこの技法を再現しようとすることには、はじめから越えられない一線がある。この記事は、その一線を迂回する方法を提示しない。代わりに、コカの葉を使わずに、この技法の構造だけを自分の生活に置き換えるやり方を示す。
構造とは何か。整理すると次の五つになる。先に差し出す、アイニ。三枚一組にそろえる、キントゥ。
息を送る、プクイ、偶然の配置を読む、表裏や距離や形だ。礼を述べて始末する。
このうちコカの葉が必須なのは、四番目の「読む対象」だけだ。そこを別の物に置き換えれば、残りは成立する。
何を代わりに用いるか――選ぶときの原則
代替物を選ぶにあたっては、次の四つの原則を置きたい。
一つ目は、合法で安全で誰でも入手できることだ。毒性のあるもの、規制対象のものは選ばない。二つ目は、表裏が明確で、落下時に不規則に舞うことだ。これがないと読みが成立しない。
三つ目は、個体差があることだ。大きさや形、色に幅がないと、粗い二値情報しか得られない。四つ目は、その土地のものであることだ。遠い異国の植物を取り寄せるより、自分の暮らす土地の葉を使うほうが、この体系の理屈には合う。
四つ目の原則は特に強調しておきたい。アンデスの人がコカを使うのは、それがその土地で採れて、その土地の関係のなかで流通しているからだ。日本でコカの模造品を追い求めることは、この原理からむしろ遠ざかる。
代替素材の比較
いくつか候補を並べてみる。
ツバキやサザンカの葉は、庭木や公園で手に入る。表裏の明瞭さは高くて、光沢面と裏面がはっきり分かれる。個体差は中程度。厚みがあって扱いやすいけど、乾かすと反る。
クスノキの葉は、街路樹の落葉を拾えば手に入る。表裏の明瞭さは高い。個体差は中程度。香りがあって、落葉を拾えば採取の問題が起きにくい。
ササやクマザサの葉は、山野や園芸店で手に入る。表裏の明瞭さは中程度。個体差は低くて細長く均質だけど、細長い形は「道」の読みに向く。
ケヤキやサクラの落ち葉は、秋の路上で拾える。表裏の明瞭さは中程度。個体差は高い。季節限定だけど、色調の幅が大きくて読みやすい。
茶葉、大ぶりの荒茶は市販されている。表裏の明瞭さは低い。個体差は中程度。飲用にもなるけど、小さすぎて形が読みにくい。
月桂樹(ローリエ)は市販の乾燥品が手に入る。表裏の明瞭さは中程度。個体差は低い。常時入手できるけど、均質すぎて個体差に乏しい。
小豆や大豆は市販されている。表裏の明瞭さは低くて、そもそも表裏がない。個体差も低い。数を数える用途には向くけど、表裏の読みはできない。
木の小片に片面だけ印をつけたものは自作できる。表裏の明瞭さは非常に高いけど、個体差はない。二値情報に特化していて、他の指標が読めない。
八種を挙げた。総合的には、光沢のある常緑樹の葉、ツバキ、サザンカ、クスノキなどを、落葉または剪定枝から拾って乾かしたものが、表裏、個体差、入手のいずれの点でも扱いやすい。
採取にあたっては当然の配慮が必要になる。他人の敷地の樹木を無断で折らない。公園や社寺の樹木の採取は管理者の規則に従う。国立公園などの規制区域では採取しない。落ちた葉を拾うのがもっとも問題が少ない。
代替素材で組む「三枚一組」
キントゥの構造だけを移してみる。まず拾った葉を洗って汚れを落とす。数日から一週間、新聞紙に挟んで陰干しする。傷のない葉を三枚選ぶ。
大きさをそろえる。葉柄を手前にそろえて重ねて、光沢のある面を上に向ける。もっとも色の良い葉を最上段にする。口元に近づけて、静かに三度息を吹く。
強く吹き飛ばさない。
この三枚は、読みには使わずに、供える側に回すといい。読む葉と供える葉を分けるのは、アンデスの実践でも普通の切り分けだ。
日本での盤面――布と印の作り方
布は、無地または規則的な織り柄の、30センチメートル四方から45センチメートル四方のものを使う。木綿か麻がいい。この用途にだけ使って、他に転用しない。
印は、印葉にあたるものとして大ぶりの葉を二枚選んで、一枚は光沢面を上に、もう一枚は裏面を上にして布の両端に置く。区画は、布を四つに割って考える。手前二区画を「過ぎたこと」「いま」、奥二区画を「近い先ゆき」「遠い先ゆき」とする。器は、小さな器に水を少量入れておいて、始めと終わりに庭や鉢の土に注ぐ。
酒を使う場合も少量にとどめる。火については、屋内で葉を焚くのは避ける。始末は後で述べる。
日本の宗教的な道具、御札やしめ縄、神棚の器具などをこの盤面に流用しない。別系統の作法を混ぜると、どちらの筋も通らなくなる。これは優劣の問題じゃなくて、整合の問題だ。
日本語での唱え言をどう作るか
原語をなぞるより、意味を自分の言葉にするほうがいい。構成だけを借りる。
まず呼びかけ。「この土地の大地よ、この山よ」と、自分がいま暮らす土地、窓から見える山、通っている川の名を呼ぶ。次に差し出し。「この三枚をお受けとりください」。
それから問い。「わたしは今、○○について迷っています、何を見落としているか、教えてください」と、具体的に、可否か着眼点の形にする。そして息。三度吹く。
一度目は大地へ、二度目は山へ、三度目は問いへ。落とす。胸の高さから、布の中央に落とす。読む。
表裏の比、印との距離、形、色、群の形を順に見る。礼。「ありがとうございました、いまから、いつまでも」。最後に始末。
葉を集めて、土に埋めるか、燃えるごみとして出す前に一言添える。
八段である。所要はだいたい15分から20分。急いで済ませない。
体験談を読む前に
以下に五件の体験談を置く。いずれも公開されている手記や投稿、旅行記の類に見られる語りを、内容の傾向を保ったまま匿名化して、時期や地名、年齢などを丸めて再構成したものだ。特定の個人や団体、店舗を指すものじゃないし、事実の記録として読むべきものでもない。五件のうち二件は、効果を感じなかった、あるいは否定的な評価にいたった例だ。
体験談その一 峠で読んでもらった話(肯定的)
三十代の会社員。転職を決めかねていた時期に南米を旅した。宿の主人に紹介された年配の男性が、峠の脇の岩陰に小さな布を広げた。言葉はほとんど通じなくて、片言のスペイン語と身振りだけ。
彼は葉を三枚そろえてわたしに渡して、息を吹くよう身振りで示した。何を吹き込むのか分からないまま、頭のなかで「どうしたらいいか」とだけ念じた。彼が一握りを落とすと、葉は布の右側に固まったのだ。彼は右手のほうを指して、次に自分の胸を指して、それから両手を広げた。
通訳を通して後で聞いた説明は「行けばよい。ただし一人では足りない。誰かに頼め」というものだった。帰国後、転職の相談を先輩にした。
結果として、その人の紹介で今の職に就いている。あの読みが当たったのかどうかは分からない。ただ「誰かに頼め」という一言を、あの峠で言われたから覚えていたのだとは思う。
体験談その二 市場の一角で(肯定的だけど留保つき)
四十代の自営業。高地の都市の市場で、椅子を二つ置いただけの場所に座る女性に読んでもらった。料金は事前に提示された。彼女は最初に十分ほど、こちらの話をひたすら聞いたのだ。
仕事のこと、家族のこと、体調のこと。それから布を広げて、葉を落とした。彼女の説明は驚くほど具体的で、話していないはずのことまで当てられた気がした。だが宿に戻って自分のメモを読み返すと、最初の十分間で自分が言ったことを、彼女は形を変えて返していただけだと分かる箇所がいくつもあったのだ。
それでも損をしたとは思っていない。誰かに一時間まるごと話を聞いてもらって、整理して返してもらう。その体験に相応の値段がついていた、という理解に落ち着いた。
体験談その三 日本で代替物を使ってみた話(中間的)
五十代の主婦。現地に行く機会はないけど、家の庭のツバキの葉を乾かして、見よう見まねで始めた。布は使わない古い風呂敷。庭に向かって座り、三枚そろえて息を吹き、落とす。
当たる当たらないという感覚はほとんどない。ただ、落とす前に自分の問いを言葉にしなければならないので、「何に困っているのか」を毎回はっきりさせることになる。これが思いのほか効いた。半年ほど続けて、悩みごとの半分は「問いの立て方が悪かっただけ」だったと気づいた。
葉は庭の隅に埋めている。それも含めて、月に二度ほどの手習いのようなものになっている。
体験談その四 高額な「浄化」を勧められた話(否定的)
二十代の学生。旅行中、日本語が通じる案内人に「特別な読み手」を紹介された。読みそのものは短時間で終わって、その場で「あなたには重いものがついている、このままでは家族にも及ぶ」と言われた。続けて、除くための儀礼が必要で、そのためには決まった額の費用がかかると説明されたのだ。
提示された額は、当時の自分の旅費の残り全部に近かった。断ると態度が変わって、「後悔することになる」と繰り返された。その場は逃げるように離れたのだ。帰国して数年経つが、とくに何も起きていない。
あとで知ったのは、現地の人自身が、こういう客引きを迷惑がっているということだった。伝統そのものが悪いんじゃなくて、伝統の名を借りた商売がある、というだけの話だと今は思っている。
体験談その五 繰り返し読んで、かえって混乱した話(否定的)
三十代の会社員。人間関係で悩んで、代替物を使った自己流の葉読みを毎日のように続けた。最初のうちは落ち着いたが、次第に「望まない結果が出ると落とし直す」ようになった。ある日、同じ問いで七回続けて落としていることに気づいたのだ。
結果はそのつど違って、どれを信じればいいのか分からなくなった。判断が遅れて、結局その人間関係は自然消滅した。いま振り返ると、葉に決めてもらおうとして、自分で決めることを先送りしていたのだ。作法として「三度まで」と決まっているのを後から知った。
あの回数制限は、当てるための規則じゃなくて、依存を防ぐための規則だったのだと思う。もうやっていない。
コールドリーディングと確証バイアスの話
体験談その二が示すといる。この技法の相談場面には、読み手が依頼者から情報を引き出して、それを再構成して返す構造が組み込まれている。これはコールドリーディングと呼ばれる技術の要素と重なる。
具体的には次のような機構が働く。事前の傾聴。読む前に長く話を聞いて、その情報が読みの素材になる。多義的な言明。
「近くに、あなたを支える人がいるが、まだ気づいていない」といった、ほとんど誰にでも当てはまる表現、いわゆるバーナム効果だ。反応の観察。言明に対する依頼者の表情や相槌を見て、次の言明を調整する。外れの吸収。
「まだその時期ではない」「あなたが気づいていないだけ」と再解釈する余地が用意されている。
依頼者の側にも機構がある。確証バイアス、当たった部分を鮮明に記憶して外れた部分を忘れる傾向だ。主観的妥当化、曖昧な言明に自分の状況を当てはめて理解する働きだ。体験談その一の「行けばよい、誰かに頼め」という読みが後の出来事と結びついて記憶されたのも、この機構で説明がつく。
大事なのは、これらの機構が働いていることと、読み手が意図的に騙していることは別だという点だ。誠実な読み手も、この機構のなかで読んでいる。
物理的な偏りとプラセボの話
コカ葉占いの中心的な指標である「表裏」には、物理的な問題がある。
乾燥した葉は、乾く過程で縁が一方向に反る。反った葉を落とすと、凸面を下にして安定する確率のほうが高い。つまり表裏の出方は五分五分じゃなくて、葉の反り方と落とす高さに依存した偏りを持っている。
同じように、投げる高さや手の開き方、風の有無によって散らばり方は変わる。「布の右側に固まった」という出来事は、投げ手の腕の角度で説明がつくことが多い。読み手は長年の経験でこの偏りを体得していて、無自覚に散らばりを制御している可能性がある。
一方でこうした指摘があっても、読みが依頼者にもたらす効果は消えない。プラセボ効果、意味づけと期待そのものが心理的・生理的な変化を生む働きは、儀礼的な文脈で強く現れることが知られている。体験談その三の「問いの立て方がはっきりした」という感想は、まさにこの領域の効果だ。
整理するとこうなる。「葉が未来の出来事を示す」という主張は検証可能だけど、統制された条件下で確認された報告はない。「葉の落ち方が偶然でない」という主張も検証可能だけど、物理的な偏りで説明できる余地が大きい。「読みが依頼者の判断を整える」という主張は部分的に検証可能で、面接効果や整理効果として説明できる。
「儀礼が不安を軽減する」という主張も部分的に検証可能で、儀礼一般についての報告がある。「共同体の関係を再確認する」という主張は社会学的に観察可能で、民族誌が繰り返し報告している。
つまり、「当たる」という主張には根拠が乏しいけど、「役に立つ」という側面には説明がつく。この二つを混同しないことが、この技法と誠実に付き合う条件になる。
観光化と文化盗用の議論
近年、この分野をめぐって繰り返される論点を整理しておく。感情的な断定を避けて、双方の主張を並べてみる。
「盗用である」とする側の主張はこうだ。儀礼の担い手が、自分たちの実践が外部で商品化されることに関与も同意もしていない場合がある。称号や段位が外国で発行されて、現地の共同体の承認と無関係に流通している。収益の大半が仲介者にわたって、現地に還元されない構造がある。
文脈を切り離した「エッセンス」の抽出は、実践を痩せさせる。
「交流である」とする側の主張はこうだ。アンデスの実践はもともと外来要素を取り込み続けてきた。カトリック、スペイン語、貨幣がそうだ。純粋な原型は存在しない。
儀礼を担う人が観光収入で生計を立てて、それによって技法が次世代に継承されている面がある。外部の関心が、国内で蔑視されてきた実践の社会的地位を押し上げた面がある。誰が「本物」を認定するのかという問題自体が、新たな権威を生む。
どちらも一理ある。実践者として最低限とりうる姿勢を挙げるなら、次の四点になるだろう。出所を偽らない。自分がやっているのが「アンデスの伝統そのもの」なのか「構造を借りた自分の作法」なのかを、はっきり区別して言う。
称号を名乗らない。現地の共同体の承認なしに、現地の職能名を自称しない。教えて対価を得ることに慎重になる。自分が受け取っていないものを、他人に授けることはできない。
その土地のもので行う。日本にいるなら日本の葉と日本の山で行う。これは代替じゃなくて、原理に沿った選択だ。
高額ツアーと霊感商法への注意
体験談その四が典型だ。この分野には、次のような勧誘の型が繰り返し現れる。
読みの直後に不安を煽るのは危険な兆候だ。「重いものがついている」「家族に及ぶ」は、判断力を奪うための定型句だ。解決に高額の費用を求めるのも危険である。本来の慣行では、値段を先に大きく提示することは無作法とされる。
その場での決断を迫るのも危険だ。「今日でないと手遅れ」に合理的な根拠はない。断ると態度が変わるのも危険だ。脅しは、伝統的な作法とは無関係の営業手法だ。
次々と追加の儀礼を勧めるのも危険である。費用が青天井になる構造だ。医療機関に行くなと言われたら、これが出たら即座に離れたほうがいい。生命に関わる。
家族や友人との関係を断つよう勧められるのも危険だ。孤立させる手口だ。借入や資産の処分を勧められるのも危険である。被害が回復困難になる。
八つの兆候を挙げた。一つでも当てはまれば、その場を離れていい。
困ったときの相談先も書いておく。日本国内なら、消費者ホットライン188(いやや)。最寄りの消費生活センターにつながる。契約してしまった後でも相談できる。
身体や生命に危険が及ぶおそれがある場合は110(警察)か119(消防・救急)。金銭被害や契約の問題は、消費生活センターのほか、弁護士会の相談窓口も使える。海外で被害に遭った場合も、帰国後に消費生活センターへ相談できる。渡航中は在外公館の窓口がある。
それでも残るもの――民俗知としての価値
ここまで批判的に検討してきたけど、この技法を「迷信」の一語で片づけるのは、別の意味で不正確だ。
まず、社会的な機能がある。共同体の争いにおいて、第三者である読み手が葉を落として、その結果を根拠に和解の形を作る。これは紛争解決の装置だ。人間の判断じゃなくて「葉が言った」ことにする仕組みは、当事者の面目を保つ働きを持つ。
次に、記憶の装置としての機能がある。唱え言のなかで峰の名が順に呼ばれることによって、その土地の地理と歴史が世代を越えて保持される。
それから、判断の外部化という機能がある。人は、決めなければならない事柄を先送りする。葉を落とすという手続きは、「今日この場で決める」ための締切を作る。体験談その五が示すのは、この機能が失敗したときに何が起きるかだ。
だからこそ「三度まで」という制限が組み込まれている。
最後に、関係の確認という機能がある。読みに行くという行為自体が、読み手との、共同体との、そして土地との関係を更新する。
四つの機能を挙げた。いずれも「未来が分かる」こととは無関係に成立する。この技法が数百年にわたって続いてきた理由は、おそらくこちら側にある。
よくある質問
コカの葉を海外から取り寄せることはできますか。できない。日本国内に持ち込むこと自体が法に触れる。海外の通信販売で購入して発送させる行為も同じだ。
この点に例外はないと考えたほうがいい。
現地でコカ茶を飲むのは問題ありませんか。現地の法に従うこと。ただし飲んだ後に日本へ帰国する場合、体内に成分が残っている状態での検査等に関する扱いは国と時期によって違う。飲み残しや茶葉を持ち帰ることは日本への持ち込みにあたる。
渡航前に最新の情報を確認してほしい。
日本でやるとご利益が薄いのでは。「ご利益」という枠組み自体が、この体系のものじゃない。アイニ(互酬)は、その土地との関係のなかで成り立つ。日本にいるなら日本の土地との関係を結ぶほうが、原理に沿っている。
神社やお寺の作法と混ぜてもよいですか。混ぜないことを勧める。優劣じゃなくて、それぞれの作法が内部で整合しているからだ。混ぜると、どちらの筋も通らない中途半端な形になりやすい。
別々の機会に、別々に行うのがいい。
家族に反対されています。反対されてまで続けるものじゃない。この技法は本来、共同体のなかで共有される行いだ。家庭内に対立を生むなら、その時点で目的から外れている。
当たらなかったのですが。当たらないことは正常な結果だ。当たることを前提に生活の判断を委ねると、体験談その五のような状態になる。
資格や講座はありますか。日本語圏でも各種の講座が存在する。受講は個人の自由だけど、費用の総額、途中解約の条件、称号の意味(誰が誰に対して認定するのか)を事前に確認してほしい。高額な段階制の講座には、体験談その四と同じ構造が入り込む余地がある。
出てきた語をまとめて振り返る
ここまでに出てきた語を、言語ごとにまとめて振り返っておく。
ケチュア語ではこれだけの語が出てきた。パチャ(pacha)は世界、時間、大地を意味する。パチャママ(Pachamama)は大地であるところの母。ハナン・パチャ(hanan pacha)は上の世界。
カイ・パチャ(kay pacha)はこの世界、ウク・パチャ(ukhu pacha)は内の世界、地下だ。アイニ(ayni)は互酬、労働と好意の交換、サミ(sami)は軽やかさ、生気。
フチャ(hucha)は重さ、滞り。サマイ(samay)は息、休息、生気。プクイ(phukuy)は吹くこと。キントゥ(k’intu)は三枚一組の葉。
クカ(kuka)はコカ。クカ・カワイ(kuka qhaway)はコカを見ること、つまり葉読み。クカ・カワック(kuka qhawaq)はコカを見る人。アクリイ(akulliy)は葉を口に含むこと。
ウンクーニャ(unkhuña)は小型の織物、読み布。パコ(paqo)は儀礼を執り行う人、パンパミサヨック(pampamisayuq)は平地のミサを持つ者。アルトミサヨック(altomisayuq)は高いミサを持つ者だ。
ヤチャック(yachaq)は知る人、ハンピック(hampiq)は手当てする人。ワトゥク(watuq)は推し量る人、占う人。ライカ(layqa)は他者を害するとされる術者で、否定的な呼称だ。
クヤ(khuya)は道具の包みに入れる小石。以上、ケチュア語が25語になる。
アイマラ語ではこれだけの語が出てきた。ヤティリ(yatiri)は知る人、コカを読む職能者。チャマカニ(ch’amakani)は闇を持つ者、コリリ(qulliri)は薬草を用いる治療者。
アチャチラ(achachila)は祖霊であり山だ。タリ(tari)は小型の織物、アワイヨ(awayu)は大判の織物。以上、アイマラ語が6語になる。
スペイン語ではこれだけの語が出てきた。デスパチョ(despacho)は大地への供物の包み。パゴ・ア・ラ・ティエラ(pago a la tierra)は大地への支払い。メサ(mesa)は机、祭壇、転じて道具の包み。
以上、スペイン語が3語になる。
合わせてケチュア語25語、アイマラ語6語、スペイン語3語、計34語を挙げたことになる。
ここまでの話を振り返っておく
コカ葉占いは、コカの葉を布に落として、表裏、距離、形、色、群の形から読む占いだ。ケチュア語でクカ・カワイ、スペイン語でコカの葉の読みと呼ばれる。
起源はインカ帝国よりはるかに古い。インカ期には国家管理下の作物になって、植民地期には宗教的には弾圧される。経済的には推進されるという二重の位置に置かれた。
現代のコカ葉占いに見られるカトリック的な要素は、後付けの不純物じゃなくて、400年以上にわたって実践の一部だった。
担い手はケチュア語圏でパコ(パンパミサヨック、アルトミサヨックなど)、アイマラ語圏でヤティリと呼ばれる。両者は別系統の語で、混用しない。
「七段階の階梯」のような整然としたレベル制は、20世紀後半以降の教授の場で整えられた面が強い。
技法の核心は五つ。先に差し出す、三枚そろえる、息を送る、偶然の配置を読む、礼を述べて始末する。
日本ではコカの葉を入手・所持できない。代替として、その土地の常緑樹の葉を用いるのが原理にも沿う。
「当たる」という主張には根拠が乏しいけど、「判断を整える」「不安を軽くする」「関係を確認する」という機能は説明がつく。
不安を煽って高額の儀礼を勧める勧誘には応じない。困ったら消費者ホットライン188。
この記事は、医療、法律、投資の判断を代替しない。
今日から日本でできる、実践編
ここまでの記述を踏まえて、日本国内で、法に触れず、他者に危害を加えず、自分の判断を整えるために行う「葉読み」の実行手順を、そのまま使える形にまとめておく。2026年8月時点でまとめた内容で、この章だけを読んでも実行できるように、必要な情報は重複を厭わず載せておく。
この章が扱うのは、自己の内省、不安の整理、厄除け、鎮宅、鎮魂といった、他者に危害を加えない目的の実践に限られる。他者を害する、他者を操作する、特定の人物を対象に働きかける、といった目的の手順は一切含まない。またこの章も、医療、法律、投資の判断を代替しない。体調不良は医療機関へ、契約や相続は有資格の専門家へ、資産の判断は有資格者へ相談すること。
コカの葉は日本国内では入手・所持できない。この章は一貫して、日本国内で合法に得られる植物のみを使う。
一 用意するもの
必要な品物を一つずつ挙げていく。
読む葉は12枚から30枚。ツバキ、サザンカ、クスノキなどの落葉を拾って陰干ししたものを使う。盤面に落として読む本体になる。ケヤキやサクラの落ち葉でも代用できる。
供える葉は3枚。同じ葉のなかで、もっとも整った3枚を選ぶ。キントゥとして息を送って供える。これは3枚という数自体が形式の核なので、代用はできない。
印の葉は2枚。同じ葉のなかで、大ぶりで形の良いものを選ぶ。盤面の両端に置く基準点になる。これは小石2個でも代用できる。
読み布は1枚、30センチメートル四方から45センチメートル四方のもの。木綿か麻。無地または規則的な織り柄がいい。盤面になる。
手ぬぐいや風呂敷でも代用できる。
下敷きは1枚。板、盆、厚紙。布を地面に直接置かないために使う。省略してもいい。
器は小さいもの1個。陶器か木。水を入れて、始めと終わりに土へ注ぐ。湯呑みでも代用できる。
水は小さじ2杯程度、およそ10ミリリットル。水道水でいい。注ぐために使う。日本酒少量でも代用できる。
記録用の紙と筆記具は1組。市販のもの。読みを書き留めるために使う。手帳や端末でも代用できる。
小さな箱か袋は1個。布袋が望ましい。道具一式をまとめて保管するために使う。紙箱でも代用できる。
後始末用の土は、自宅の庭、鉢、プランターのもの。葉と水を返す先になる。自治体の分別に従うなら、可燃ごみでも代用できる。
十品を挙げた。合計の費用は、布と器を手持ちで賄えば実質ゼロ円。すべて新規に用意しても数千円の範囲に収まる。高額な道具は不要だ。
「特別な石」「加持された布」などを高値で勧められた場合は、その時点で疑っていい。
葉の準備は当日にはできない。次の手順で、数日前から用意しておく。まず落ち葉を拾う。他人の敷地の樹木は折らない。
公園や社寺は管理者の規則に従う。規制区域では採らない。次に水でさっと洗って、布で押さえて水気を取る。それから新聞紙に挟んで、重石をせずに3日から7日、風通しのよい日陰で乾かす。
反りが出たら、それを含めて個体差として扱う。使う分だけを箱に移して、残りは湿気を避けて保管する。
二 日時・方角・回数の目安
時期は8月中、とくに8月1日から8月15日ごろがいい。アンデスで大地への供物が集中する月だからだ。それ以外の時期でもかまわない。8月以外なら、新月の日、満月の日、季節の変わり目、自分の節目の日がいい。
「思い立った日」でもいい。無理に暦を合わせなくていい。
時刻は、日の出から午前中、または日没前の1時間がいい。深夜は避ける。判断力が落ちる時間帯に問いを立てないほうがいい。
所要時間は合計75分、1時間15分。内訳は次の節で説明する。
方角の第一候補は、その場所から見える一番高い山の方角。建物に遮られていても、地図で確かめた方角でいい。第二候補は、近くの川の上流の方角。水は地下と天をつなぐとされるからだ。
第三候補は、日の出の方角。山も川も分からない場合はこれでいい。
座る向きは、選んだ方角に正対して座る。布は自分と方角のあいだに広げる。
息を吹く回数は3回。強く吹き飛ばさない。キントゥの枚数は3枚。減らさない。
読む葉の枚数は12枚から30枚。少ないほど個々の葉を細かく読むことになる。落とす高さは、布から30センチメートルから50センチメートル。低いと散らばらず、高いと布から出てしまう。
1回の場での問いは1つだけ。複数の問いを混ぜない。同じ問いの落とし直しは最大3回まで。望む答えが出るまで続けない。
同じ問いの再訪は中7日以上あける。日を改める。1日の実施回数は1回。1日に何度も行わない。
連続実施は週1回までを目安にする。毎日行うと依存に傾く。
三 だいたいの流れ(合計75分)
順を追って説明する。
一つ目、場を整える。10分。端末の通知を切る。座る場所を掃く。
下敷きを置いて、布を広げて、四隅を整える。ここまでで累計10分。
二つ目、身を整える。5分。手を洗う。方角に正対して座る。
呼吸を数えて落ち着ける。累計15分。
三つ目、場を開く。5分。器の水を土に少量注ぐ。開きの言葉を唱える。
累計20分。
四つ目、キントゥを組む。5分。整った3枚を選んで、葉柄をそろえて、光沢面を上にして重ねる。累計25分。
五つ目、息を送る。3分。3回吹く。1回目は大地へ、2回目は山へ、3回目は問いへ。
累計28分。
六つ目、問いを述べる。5分。声に出して、具体的に、可否か着眼点の形で述べる。累計33分。
七つ目、落とす。2分。読む葉を一握り取って、布から30センチメートルから50センチメートルの高さで落とす。累計35分。
八つ目、読む。15分。表裏の比、印との距離、葉先の向き、形、色、群の形の順に見る。累計50分。
九つ目、書き留める。10分。配置を簡単に描いて、読んだ内容と、そのとき浮かんだ考えを書く。累計60分。
十番目、礼を述べる。3分。閉じの言葉を唱える。器の残りの水を土に注ぐ。
累計63分。
十一番目、後始末、12分。キントゥと読んだ葉を集めて、布をたたんで、次の節の作法で始末する。累計75分。
十一工程、合計75分。所要時間を足し直すと、10足す5足す5足す5足す3足す5足す2足す15足す10足す3足す12で75になる。
急ぐ場合でも、三つ目の場を開く工程、五つ目の息の工程、十番目の礼の工程、十一番目の後始末の工程は省かない。省いていいのは九つ目の書き留める工程だけだけど、これを省くと後で自分の読みを検証できなくなるので、できれば残したほうがいい。
四 唱え言(全文・読み・意味)
以下を順に唱える。ケチュア語版と日本語版のどちらか一方に統一する。混ぜない。アイマラ語の語(ヤティリ、アチャチラなど)をここに混ぜることもしない。
開きの言葉から見ていく。原綴は「Pachamama, santa tierra, kay k’intuchayta chaskiykuway.」。音写は「パチャママ、サンタ・ティエラ、カイ・キントゥチャイタ・チャスキイクワイ」。意味は「パチャママよ、聖なる大地よ、この小さなキントゥをお受けとりください」。
日本語版なら「この土地の大地よ、わたしはいま、ここに座っています、この三枚を、どうかお受けとりください」。
大地への呼びかけ。原綴は「Pachamama, hallp’a mama, kawsayniyta uywaykuway, ñanniyta kicharipuway.」。音写は「パチャママ、ハルパ・ママ、カウサイニイタ・ウイワイクワイ、ニャンニイタ・キチャリプワイ」。意味は「パチャママよ、土の母よ、わたしの命を養ってください、わたしの道を開いてください」。
日本語版なら「土の母よ、わたしの日々を養ってくださっていることに礼を申します、どうか、わたしの道を開いてください」。
山への呼びかけ。原綴は「Apukuna, hatun urqukuna, kaymanta qhawariwaychis, uyariwaychis.」。音写は「アプクナ、ハトゥン・ウルククナ、カイマンタ・カワリワイチス、ウヤリワイチス」。意味は「アプたちよ、大いなる山々よ、ここからわたしを見守ってください、聞いてください」。
続けて、自分が選んだ方角にある山の名を、実際に呼ぶ。遠い異国の峰の名じゃなくて、自分の暮らす土地から見える山の名を呼ぶ。原綴は「Apu___, Apu___, hamuychis, uyariwaychis.」。音写は「アプ○○、アプ○○、ハムイチス、ウヤリワイチス」。
意味は「アプ○○よ、アプ○○よ、来てください、聞いてください」。日本語版なら「○○の山よ、○○の川よ、ここからわたしを見ていてください、わたしの言うことを聞いてください」。
三度の息に添える言葉。1回目は「Pachamamapaq.」、音写は「パチャママパック」、意味は「パチャママのために」、日本語版なら「大地へ」。2回目は「Apukunapaq.」、音写は「アプクナパック」、意味は「アプたちのために」、日本語版なら「山へ」。
3回目は「Kay tapuyniypaq.」、音写は「カイ・タプイニイパック」、意味は「この、わたしの問いのために」、日本語版なら「この問いへ」。
次が葉に問う言葉になる。原綴は「Mama Kuka, sut’inta willariway. Ama pakawaychu.」。音写は「ママ・クカ、スティンタ・ウィリャリワイ、アマ・パカワイチュ」。意味は「母なるコカよ、ほんとうのことを告げてください、隠さないでください」。
日本ではコカを使わないので、この一節は日本語版に置き換えるのが筋だ。日本語版なら「この葉よ、わたしにほんとうのことを見せてください、都合のよいことだけを見せないでください」。
続けて、自分の問いを声に出して述べる。問いは次のいずれかの形にする。「わたしは○○について、進んでよいでしょうか」という可否の形。「わたしは○○において、何を見落としているでしょうか」という着眼点の形。
「わたしに、いま欠けているものは何でしょうか」という不足の形だ。「この件は、おおよそいつごろ動くでしょうか」という時期の形。
読み直しを願う言葉。配置が読み取れないときに唱える。これを唱えずに落とし直さない。原綴は「Manan hamut’anichu. Huk kutita willariway.」。
音写は「マナン・ハムタニチュ、フク・クティタ・ウィリャリワイ」。意味は「わたしには読み取れません、もう一度お告げください」。日本語版なら「わたしには読み取れませんでした、もう一度、見せてください」。
最後が閉じの言葉だ。原綴は「Añaychayki, Pachamama. Añaychaykichis, Apukuna. Kunanmanta wiñaypaq.」。音写は「アニャイチャイキ、パチャママ、アニャイチャイキチス、アプクナ、クナンマンタ・ウィニャイパック」。意味は「ありがとうございます、パチャママよ、ありがとうございます、アプたちよ、いまから、いつまでも」。
もう一つ、原綴は「Urpillay, sunqullay.」。音写は「ウルピリャイ、ソンクリャイ」。意味は「わたしの小鳩よ、わたしの心よ」。日本語版なら「ありがとうございました、この土地の大地よ、この山よ、いまから、いつまでも」。
五 読み方の手順
落とした後、次の順で見る。一つの指標だけで結論を出さない。
まず、表裏の比を数える。光沢面(表)が上を向いている葉と、裏面が上を向いている葉を数える。表が多ければ全体として「開く」、裏が多ければ「待つ」。
次に、印の葉との距離を見る。表の印に近い葉が多ければ進む方向、裏の印に近い葉が多ければ滞る方向。
葉先の向きを見る。自分から外に向かう葉が多ければ動きが出る、自分に向かう葉が多ければ戻ってくるものがある。
形を見る。細長い葉は道と移動、丸い葉は家と土地、小さい葉は小さな用件、欠けた葉は損失、裂けた葉は途切れ。
色を見る。濃い色は力、淡い色は始まり、黄や茶は消耗と古い問題。
重なりを見る。上に乗った葉が影響を与える側、下の葉が受ける側。もつれた団子状はほどく必要がある事柄。
群の形を見る。一列は道、円は循環、二群は選択肢が二つ、中央の空白は決める人が不在。
布の外に出た葉を確認する。「自分の管轄外」と読むか、読み直しの合図と読むかを、あらかじめ自分で決めておく。
最後に、矛盾を残す。指標どうしが食い違ったら、無理に一つの結論にまとめない。「二つの読みが同時に出ている」と書き留める。
九段の手順である。九番目を軽んじると、確証バイアスに引きずられて「望んだ結論」だけを拾うことになる。
六 後始末
キントゥの3枚は、自宅の土(庭、鉢、プランター)に浅く埋める。一言添える。他人の土地や公共の緑地には埋めない。
読んだ葉は、集めてキントゥと同じ土に返す。量が多い場合は自治体の分別に従って可燃ごみへ。その際も一言添える。路上や河川敷に撒かない。
自然水域に流さない。
器の水は、残りを土に注ぐ。流しに捨てたまま忘れない。
布は、葉の屑を払って、たたんで袋に納める。他の用途に転用しない。踏まない、跨がない。
印の葉は、次回も使う場合は別に保管する。傷んだら他の葉と同じく土へ返す。
記録は、日付、問い、配置、読み、そのとき考えたことを残す。
焚く場合は、屋外の安全な場所で、火の扱いの規則を守る範囲でのみ行う。灰は冷ましてから土へ。屋内で焚かない。灰を家の中に置いたままにしない。
乾燥時や強風時は行わない。
七項である。焚く作法は本来アンデスの後始末の中心だけど、日本では消防や条例上の制約があるので、原則として「埋める」または「一言添えて可燃ごみへ」を勧める。形式より、返す意志のほうが大事だ。
七 禁忌(この章にしぼった再掲)
他者を害する問い、他者を操作する問いを立てない。本稿の適用範囲外だし、現地でも拒まれる。特定の実在する人物を名指しして働きかけない。同じ理由だ。
コカの葉を入手・所持しようとしない。日本の法に触れる。望む答えが出るまで落とし直さない、最大3回まで。依存と判断の先送りを招く。
1回の場で複数の問いを混ぜない。読みが濁る。深夜、酩酊時、強い動揺のさなかに行わない。判断力が落ちているときに問いを立てない。
布を跨がない、踏まない。盤面の格を保つ。キントゥを3枚未満にしない。形式の核だ。
日本の宗教の道具(御札、神棚の器具など)を混ぜない。別系統の作法が互いを損なう。ケチュア語形とアイマラ語形を同じ場で混ぜない。別言語だ。
現地の職能名を自称しない。共同体の承認と無関係な自称は誠実じゃない。他人に対価をとって「鑑定」しない。受け取っていないものを授けることはできない。
読みの結果を理由に受診や手続き、支払いを先延ばしにしない。実害が生じる。不安を煽って高額の儀礼を勧める相手に応じない。消費者被害だ。
困ったら消費者ホットライン188。家族の反対を押し切って続けない。共同体のなかで行う技法であるという原理に反する。
十五項を挙げた。
八 記録の書式(そのまま写して使える)
工程九で書き留める内容の型を示しておく。読みを検証可能にしておくことは、この技法と誠実に付き合うための最低限の作業だ。書式は次の七項でいい。
一つ目、日付と時刻。年月日と、始めた時刻を書く。たとえば2026年8月11日、午前9時20分。
二つ目、場所と方角。どこで、どちらを向いて座ったか。たとえば自宅の縁側、北西の山に正対。
三つ目、問い。実際に声に出した文言をそのまま書く。たとえば「この仕事を引き受けてよいでしょうか」。
四つ目、枚数。落とした葉の総数と、表裏の内訳、たとえば18枚、表11・裏7。
五つ目、配置、簡単な図だ。布の四角を描いて、葉の位置に印をつける。たとえば右下に7枚が固まる、1枚が布の外。
六つ目、読み。指標ごとに読んだこと。矛盾があれば矛盾のまま書く。たとえば表が多く「開く」。
ただし欠けた葉が2枚あって「削られるもの」も出ている。
七つ目、自分の考え。読みを見て自分が実際に何を思ったか。たとえば引き受けたいが、時間が足りない不安がある。
七項のうち、もっとも大切なのは七番目だ。占いの効用の多くは、この「自分が実際に何を思ったか」を言語化するところに宿る。逆に、七番目を書かずに一番から六番だけを積み上げると、記録は当たり外れの帳簿になって、判断の道具ではなくなる。
記録は、数か月後に読み返すことを前提に残す。読み返すときの点検項目を挙げておく。あのとき出た読みは、その後の出来事とどう関係したか。関係しなかった読みはどれか。
自分は、どの読みを鮮明に覚えていて、どの読みを忘れていたか。同じ問いを何度も立てていないか。立てていたなら、それは何を先送りしていた合図か。問いの立て方は、回を追って具体的になっているか。
四項である。この点検は、確証バイアスに対するもっとも実際的な対抗手段になる。当たった読みだけを覚えている自分を、記録が客観的に示してくれるからだ。
なお、記録は他人に見せるためのものじゃない。他人の相談内容を勝手に記録に残さない、記録を根拠に他人へ助言しない。この二点は守りたい。
九 この章の要点
準備は、落ち葉を拾って3日から7日陰干しする。布、器、記録用紙を用意する。日時は、8月中が望ましいけど、思い立った日でいい。日中に行う。
1回75分。方角は、見える一番高い山、なければ川の上流、それもなければ日の出の方角。流れは、場を整える、開きの言葉、キントゥを組む、三度息を吹く、問いを述べる、落とす、九段の手順で読む、書き留める、礼を述べる、埋めて返す、という順番だ。回数は、1つの問い、落とし直しは3回まで、同じ問いは中7日、週1回まで。
忘れないでほしいのは、先に差し出して、あとで受け取ること。分からないときは「分からない」と書くこと。決めるのは自分だということ。
最後に一言
この記事は民俗と宗教史の解説であって、医療、法律、投資の判断を代替しない。実在の人物や団体、店舗については、いずれも留保つきの記述にとどめている。この記事が扱ったのは、自己の内省、浄化、厄除け、鎮宅、鎮魂といった、他者に危害を加えない目的の実践のみだ。金銭や契約でお困りのときは、消費者ホットライン188へ。
