ケンタッキーの田舎町に、声を失った写真屋がいた。二十三歳。喉が潰れて、ささやき声しか出ない。医者は匙を投げた。
その男が、催眠術で眠らされた瞬間に、突然はっきりした声でしゃべりだす。しかも自分の喉の状態を、まるで解剖学の教科書を朗読するみたいに説明しはじめる。血流を増やせ、と。言われた通りにしたら、二十分後に声が戻った。
これがエドガー・ケイシーという男の、全部の始まりだ。ここから四十四年間、彼は眠っては他人の体内を透視し、前世を語り、地球の未来を予告し続ける。
記録に残っているだけで一万四千三百六件。全部が速記で書き取られ、今もバージニアビーチの建物の中に、青いバインダーに綴じられて並んでいる。
この記事では、その男の生涯をできるだけ細かいところまで追いかける。眉唾だと思って読んでもらって全然かまわない。むしろその方が面白い。
- 教科書を枕の下に敷いて眠った少年
- 綴りの試験ができない子の逸話
- 野球のボールが背中に当たった日
- 一九〇〇年四月、声が消えた
- アル・レインという男が現れる
- 奇跡は一回きりではなかったらしい
- 五歳の少女が三年ぶりに家族の名を呼んだ
- 信じたのが誰だったか、のほうが効く
- ニューヨーク・タイムズが火をつけた
- 蜜月は二年で終わった
- 写真館は二度焼け、破産した
- テキサスで石油を掘って、一滴も出なかった
- 一つの質問が、すべてをひっくり返した
- 一万四千件が読める最大の理由
- 千六百人のうち七百人がアトランティス人だった
- 自分を神話の中心に置く構造
- スフィンクスの下に眠る記録の間
- 一九六八年、ビミニの海底に石畳が出た
- 地質学者の答えは身も蓋もない
- 外れ続けた終末のカレンダー
- 一九九八年に何も起きなかった後
- 日本が沈む、と言ったことになっている
- マンガ版まで出た
- ひまし油とアトミダインと腸内洗浄
- ここは正直に書いておく
- 病院は三年、大学は三か月で消えた
- 大恐慌が全部持っていった
- 眠れる予言者は逮捕された
- 一九四三年、手紙が津波のように来た
- 自分の葬儀の日を告げて死んだ
- 火傷を負った七歳の息子が見たもの
- 速記帳を握り続けた女
- 一週間泊まり込んだ超心理学者
- 今日もバージニアビーチに来る六万人
- 日本の食卓でひまし油を温める夫婦
- 懐疑派の刃、その一と二
- 懐疑派の刃、その三から五
- 予言の成績表は悲惨だ
- 懐疑派がちょっと答えにくい一件
- 出版界とオカルト界が彼をどう食べたか
- アトランティスの定型は、彼が父親だ
- なぜ、これほどまでに信じられたのか
- 二階建てだから終わらなかった
- 生涯は三つの地層に分かれている
- 批判と擁護が噛み合わない理由
- 誠実さの見た目は、正確さより強い
- 日本のケイシーは、予言者の看板を下ろして生き延びた
- どっちにも振り切れない男だった
教科書を枕の下に敷いて眠った少年
エドガー・ケイシーが生まれたのは一八七七年三月十八日。ケンタッキー州クリスチャン郡、ホプキンスビルから南に八マイルほど行ったビバリーという集落の農家だ。
父はレスリー・ケイシー、通称「スクワイア」。土地の顔役気取りだったが商才はまるでなく、家はいつも貧しかった。母はキャリー。ディサイプルス・オブ・クライストという、聖書をとにかく直読する厳格なプロテスタントの家庭である。
この子が変だという噂は早くから立っていた。庭の木の下で、いもしない子どもたちと遊んでいる。祖父が亡くなった後も、祖父と話したと平気で言う。天使を見た、と母に報告する。
田舎の敬虔な家庭で、これは扱いに困る話だっただろうね。ただ母のキャリーだけは息子を頭ごなしに否定しなかったらしい。この母親の態度が、後のケイシーの人格をかなり決めていると思う。
綴りの試験ができない子の逸話
有名なのが、教科書を枕の下に敷いて寝る話だ。
学校の綴りの試験がまるでできない。父親が苛立って、夜の食卓で綴り帳を何度も叩きつけて特訓する。エドガーはできない。泣きそうになる。
そのとき彼は父に「少し休ませてくれ、本を枕にして寝かせてくれ」と頼んだ。仮眠から起きた彼は、綴り帳の中身を全部そらんじたという。単語だけじゃなく、何ページの何行目に何が印刷されているかまで言えた、という話まで付いている。
この逸話は、後の伝記作家たちが繰り返し引用して伝説化させた。ただ、ここで先回りして言っておきたい。懐疑派が真っ先に叩くのがここなんだ。
ケイシーは「無学だった」ということになっている。教育は八年生まで。九年生に上がる金がなくて辞めた。でも彼はその後、書店で働いている。
本屋の店員だ。しかも猛烈な読書家だった。オカルト本もオステオパシーの専門書も読み漁っていた記録が残っている。
「無学な男が催眠状態で医学用語を操る」という売り文句の、前提そのものが微妙に崩れる。この話は後でもう一度きっちり扱う。
野球のボールが背中に当たった日
もうひとつ、少年時代の決定的な事件がある。野球のボールが背中に当たった、という話だ。
当たった後、エドガーは半ば錯乱状態になり、家に帰って奇妙なことを口走った。自分の首の後ろに湿布を貼れ、と具体的な処方を指示して、そのまま眠り込んだ。
翌朝、けろりとして起きてきて、何も覚えていない。指示通りの湿布は貼られていた。家族はぞっとしたという。眠って処方を出す、というパターンはこの時点でもう出ているわけだ。
一九〇〇年四月、声が消えた
大人になったケイシーは保険の外交員をやっていた。人当たりがよく、しゃべりが商売道具だった。その声が、一九〇〇年四月十八日に消える。
風邪をひいて薬を飲んだ後、喉が締まって声が出なくなった。ささやくのがやっと。医者を何人回っても原因がわからない。当時の記録では「声帯の麻痺」と呼ばれている。
外交員は廃業だ。仕方なく彼は写真館の助手になった。カメラの前なら黙っていてもいい。
その年の五月、地元紙が奇妙な記事を出す。この青年は催眠術をかけられているときだけ普通に話せる、という内容だ。巡回の催眠術師が町に来ていて、実験台にされていたらしい。眠っているときは声が出る。
起きると出ない。これは当時ちょっとした見世物ネタになった。
アル・レインという男が現れる
そこに登場するのが、アル・レインという男だ。正式にはアル・シー・レイン。オステオパシーを通信教育で学んでいた素人療術家で、催眠にも興味があった。町の噂を聞きつけて、ケイシーに実験を持ちかける。
一九〇一年三月三十一日。ホプキンスビルの一室で、レインはケイシーを仰向けに寝かせた。ケイシーは自分で腕を胸の上に組み、自己暗示で眠りに落ちる。この「自分で組んだ腕」というのが後々まで続く彼の型になる。
レインが「自分の身体の状態を見て、話しなさい」と暗示をかけた。
すると、それまでささやくのがやっとだったケイシーが、はっきりした声で話し出す。しかも自分のことを「われわれは」と複数形で呼んだ。これも生涯変わらなかった癖だ。
彼は言った。喉の内部の筋肉が部分的な麻痺を起こしている。これは心因性のものだ。血流を増やせば治る。暗示によって、この部分の循環を高めよ。
レインが言われた通りの暗示をかけた。ケイシーの喉と胸が見る間に赤くなっていったという。二十分ほど経って、眠ったままのケイシーが「もういい、循環を戻して、目を覚まさせろ」と言った。目覚めたケイシーは、咳払いをして、普通の声で「ありがとう」と言った。
奇跡は一回きりではなかったらしい
この場面は、ケイシー伝説のなかで一番よく再演されるシーンだ。ただし、ここも歴史記録とは食い違いがある。
地元紙は一九〇一年二月十二日の時点で、ケイシーの声が「自然に、説明のつかない形で戻った」と報じている。そして一九〇二年四月には、ケイシー自身が「オステオパスのA・C・レインの治療のおかげで治った」と公に感謝している。
つまり、声の回復は一回きりの劇的な奇跡じゃなくて、断続的に良くなったり悪くなったりした長い経過だった可能性が高い。実際、彼の声は一九一五年二月にも三か月の沈黙のあとで戻った、という記録が残っている。生涯にわたって喉は彼の弱点だったんだ。
だがレインは味をしめた。眠ったケイシーは、自分だけじゃなく他人の身体も見えるんじゃないか。試したら見えた。しかもレインの患者の症状を、会ったこともないのに言い当てた。
ケイシーは怖がる。彼は敬虔なクリスチャンで、日曜学校で教える立場だ。悪魔の業だったらどうするんだ、と本気で悩んだ。彼が出した条件はひとつ。
金は取らない。無料でやる。それならいい、と。
五歳の少女が三年ぶりに家族の名を呼んだ
ケイシーの名前が町の外に広がった決定打が、この一件だ。
エイミー・ディートリッヒという五歳の女の子がいた。二歳のときにインフルエンザにかかって以来、日に二十回近い痙攣発作を起こすようになった。精神の発達も止まってしまい、まともに話せない。
父親のC・H・ディートリッヒは地元の学校の教育長で、町の名士だった。名士が全国の専門医を回り、金に糸目をつけずに手を尽くして、それでも治らなかった。
一九〇二年頃、ディートリッヒ家はケイシーに賭ける。眠ったケイシーはこう言ったとされる。この子は病気の直前に馬車から降りるとき、脊椎の下部を強く打っている。そのときの衝撃が原因だ。
インフルエンザの菌はその古傷に定着した。だから脊椎のその箇所を、正確な角度で整復すれば治る。
母親が「そういえば、その通りの事故があった」と青ざめた、という描写が伝記には出てくる。整復はレインが行った。回数を重ねるうちに発作が止まり、少女は言葉を取り戻し、ある日、三年ぶりに家族の名前を呼んだ。両親は泣いた。
信じたのが誰だったか、のほうが効く
この話がケイシー神話の中心にある。町の教育長の娘だ。だから証人がいて、地元では誰でも知っている話になった。眠れる予言者、という物語は、ここから地面を離れて飛び始めた。
もちろん検証はできない。当時の医療記録は残っていないし、症状の自然寛解の可能性も、整復以外の要因も、全部否定できない。
だが「効いた」と信じた家族が実在し、その証言が広がった。オカルトの伝播にとって、事実かどうかより、信じた人が誰だったかの方が効く。教育長の家の話、というのが決定的だったわけだ。
ニューヨーク・タイムズが火をつけた
一九〇九年、ケイシーはウェズリー・ハリントン・ケッチャムというホメオパシーの医師と出会う。ケッチャムは若く、野心的で、そしてケイシーの能力を「事業」として見ていた。
二人は一九一〇年にサイキック・リーディング・コーポレーションという会社を作る。ケイシーの父親レスリーがマネージャー役に収まり、速記者を雇い、リーディングを組織的に記録し始めた。
そして一九一〇年十月九日、ニューヨーク・タイムズが記事を出す。見出しは「催眠状態になると無学な男が医師になる」。ケッチャムがボストンの臨床研究学会に提出した報告が下敷きになっていた。
記事はこう書いている。この男は医学、外科、薬学の分野ではまったくの無学であるにもかかわらず、催眠状態においては、ボストンの医師と同じくらい容易に、最も複雑な専門用語を扱う。
ケッチャムの説明も引用されている。私の被験者はただ横になって腕を組み、自己暗示によって眠りに落ちる。彼の客観意識は完全に停止し、主観意識だけが働いている、と。
蜜月は二年で終わった
この記事の破壊力は凄まじかった。全国から手紙が殺到する。
同年十月二十日には地元紙がケイシーの帰郷を報じ、父親が「催眠リーディングの営業面を仕切っている」と書いている。翌一九一一年一月十七日には、ルイビルのシールバック・ホテルで公開実演までやった。眠れる予言者は、ここで初めて全米区の存在になる。
ただ、この蜜月は長く続かない。一九一二年、ケイシーはケッチャムが共同の稼ぎを賭博で溶かしていたことを知る。彼はその場で手を切った。
金の話が絡むと必ず壊れる。それがこの男の人生のパターンで、実はこれが何度も繰り返される。
写真館は二度焼け、破産した
ケイシーの人生を追っていて驚くのは、彼がずっと貧乏だったことだ。全国紙に載って、手紙が山のように来て、それでも金にならない。というより、彼自身が金にする気を最後まで持てなかった。
一九〇三年六月十七日、ガートルード・エヴァンスと結婚する。婚約は一八九七年三月十四日だから、六年待たせた計算になる。
長男ヒュー・リンが一九〇七年生まれ。次男ミルトン・ポーターは一九一一年に生まれて、翌年五月十七日に死んだ。この赤ん坊の死は決定的に重い。父が眠れば他人の病気を治せるという触れ込みなのに、自分の息子は死んだ。しかもその直後、妻ガートルードが結核を発症する。
三男エドガー・エヴァンスが一九一八年生まれ。この三男が後に、九十歳を超えるまで生きて、父親についての証言を残すことになる。
商売の方はひどいものだった。ホプキンスビルとボウリンググリーンの写真館で働き、自分のスタジオを構えたが、一九〇六年十二月二十五日、つまりクリスマスに焼けた。建て直したら一九〇七年にまた焼ける。一九〇八年に破産している。
テキサスで石油を掘って、一滴も出なかった
そして一九二〇年から一九二二年にかけて、テキサス州サンサバでの石油掘削だ。
眠ったケイシーが油田の位置を指定する。出資者を募る。一九二一年五月にはテキサスの新聞が「ケイシー石油会社がサンサバの北六マイルで掘削を計画」と報じた。掘った。
出ない。何度も掘り直す。結局、一滴も当たらなかった。
この失敗は懐疑派にとって最高の材料だ。人体の内部は透視できるのに、地下の石油は当てられないのか、と。
ケイシー本人にも言い分はあった。石油を掘る動機が不純だと力が働かない、というのが彼の説明である。実際、彼は綿花相場の予測をしてくれと持ちかけてきた商人に、日給百ドルという当時としては大金を提示されながら断っている。
競馬の結果を聞きに来る男も、埋蔵金の場所を聞きに来る男も、後を絶たなかった。断り続けた。ここは、彼をただの詐欺師だと決めつけにくくしている部分でもある。詐欺なら、もっと稼げたはずなんだ。
一つの質問が、すべてをひっくり返した
一九二三年、この物語の性質が根本から変わる。
デイトンの裕福な印刷業者、アーサー・ラマーズという男が現れた。ラマーズは神智学やヘルメス思想、占星術に深く傾倒していた人物だ。彼はケイシーに、病気の診断ではなく、宇宙の仕組みを聞かせろと迫った。占星術のホロスコープについて語れ、と。
眠ったケイシーが答えた。そして、その言葉のなかにこういう一節が混じる。この人物は、この地上への三度目の出現である。前は修道僧であった。
目覚めたケイシーは、速記された自分の言葉を読んで愕然とした。輪廻転生。生まれ変わり。彼にとってそれは聖書に反する異端の教えだ。
日曜学校で子どもたちに教えている自分が、寝ている間に転生を説いている。彼は本気で信仰の危機に陥った。
ラマーズは説得した。あらゆる宗教の底を貫いている基本の体系が、あなたによって裏づけられている。そこが肝心なのだ、と。ケイシーはデイトンに移り、迷いながらもこの路線を進むことを選ぶ。
一万四千件が読める最大の理由
一九二三年九月十日、この時期にグラディス・デイヴィスが専属速記者として雇われる。当時十八歳の若い女性だった。
彼女はこの後二十年以上、ケイシーの言葉を一字一句、シャープペンシルと速記帳で記録し続ける。一万四千件のリーディングが今も読める最大の理由は、この女性の執念だ。彼女がいなければ、ケイシーは口伝の伝説で終わっていた。
この一九二三年を境に、リーディングは二種類に分かれる。身体を診る「フィジカル・リーディング」と、魂の来歴を語る「ライフ・リーディング」だ。前者が全体の三分の二を占めるが、後の世界に効いたのは圧倒的に後者だった。
なお、ラマーズ自身は年内には資金繰りに詰まって脱落している。ケイシーの人生に現れるパトロンは、だいたいこうやって現れて、燃えて、消える。
千六百人のうち七百人がアトランティス人だった
ライフ・リーディングの中身は、はっきり言って途方もない。
ケイシーは相談者の魂が過去にどこで何をしていたかを語った。エジプト、ペルシャ、ローマ、十字軍時代のフランス、アメリカ独立戦争期の入植地。そして異様に多いのがアトランティスだ。
伝えられるところでは、ライフ・リーディングを受けた約千六百人のうち、七百人前後がアトランティスに前世を持つとされた。半分近い。
ケイシーの語るアトランティスは、プラトンの記述からかなり逸脱している。彼のアトランティスには巨大な水晶があった。太陽の光を集めて増幅し、エネルギーを取り出す装置だ。これが後世のオカルト界で「火の石」「トゥアオイの石」と呼ばれるものになる。
空を飛ぶ乗り物があった。光線兵器があった。そして、その力の乱用こそがアトランティスを三度にわたって沈めた、と彼は言う。最後の崩壊が紀元前一万五百年前後。
自分を神話の中心に置く構造
ここに「ラー・タ」という物語が絡む。ケイシーは自分自身の前世を、古代エジプトの高位神官ラー・タだったと語った。アトランティス崩壊から逃れてきた者たちを受け入れ、ギザに巨大な建造物を作った人物だ。
つまり彼のリーディングは、自分自身を神話の中心に置く構造をしていた。そして周囲の弟子や支援者たちも、そのラー・タ時代の仲間の生まれ変わりということになる。
この「あなたも仲間だった」という配置が、信者集団の結束をとんでもなく強くした。心理的には、かなり強力な仕掛けだと思う。
さらに厄介なのが人種起源説だ。ケイシーは白人、黒人、赤色人種、褐色人種、黄色人種の五つが地球上の別々の場所で同時に別個に創造された、という多元発生説を語っている。今の目で見れば完全にアウトの発想で、当時の擬似人類学の空気をそのまま吸い込んでいる。
埼玉大学の加藤有希子は、ケイシーの言説には社会的弱者に対して優位性を示したいという、コロニアリズム特有の歪んだ欲望が見て取れると指摘した。日本人のオーラ認識能力を揶揄する発言も記録に残っている。この部分を持ち上げる人はさすがに今はいないが、都合の悪い部分として黙殺されがちなのは事実だ。
スフィンクスの下に眠る記録の間
ケイシーの遺した予言のうち、いまだに人を動かし続けているのが「ホール・オブ・レコーズ」である。
彼は、アトランティスの叡智を記した記録が三か所に同一の内容で隠されている、と語った。バハマのビミニ、エジプト、そしてユカタン半島。
エジプトのそれについては、リーディングのなかで、スフィンクスと川のあいだにある、という言い方をしている。スフィンクスの前脚の下、あるいはその周辺の地下に、封印された部屋がある。そこにアトランティスの全記録が眠っている、と。
これが効いた。何十年にもわたって、スフィンクス周辺の地下探査には常にケイシー信奉者の資金と情熱が混じり込んできた。地中レーダー探査で空洞らしき反応が出るたびに、世界中のオカルト界隈が沸く。
実際、スフィンクス周辺に自然の空隙や未調査の穴があるのは事実だ。エジプト考古学の側は「地質学的な空洞だ」と言い続けているのに、話は一向に終わらない。
一九六八年、ビミニの海底に石畳が出た
そしてビミニだ。ケイシーは、こう言い残していた。ポセイディアは再び浮上する最初の部分のひとつになるだろう。それは六八年と六九年に起きると予期せよ。西インド諸島あるいはバハマだ、と。
一九六八年九月。ドクター・J・マンソン・ヴァレンタインという動物学者が、ノース・ビミニの沖、水深約七メートルの海底に、幾何学的に並んだ巨石の列を発見したと発表した。全長およそ五百八十メートル、J字形にカーブする石畳。すぐさま「ビミニ・ロード」と名づけられた。
これはもう、オカルト史に残る事件だった。予言された年に、予言された場所で、それらしいものが出てくる。しかもケイシーが死んで二十三年も経ってからだ。
A.R.E.の周辺は熱狂した。一九七五年にはデイヴィッド・ジンクが現地で「加工された、ほぞと溝のある石片」を見つけたと報告した。二〇〇七年にもビミニ北方で磨かれた三角形の石板が見つかったと報じられている。
地質学者の答えは身も蓋もない
地質学者たちの答えは、身も蓋もない。あれはビーチロックだ、と。
海岸の砂が炭酸カルシウムで固まって板状の岩になり、乾燥収縮と波で規則的に割れる。それが並ぶと人工物のように見える。年代測定でも、人類文明の残骸としては辻褄が合わないという結論が出ている。
だがビミニに潜った人間の多くは、地質学の説明を聞いた後でも「あれを見たら人工物だと思う」と言う。海の底の巨石列というのは、そういう説得力を持ってしまうんだ。
外れ続けた終末のカレンダー
ケイシーの予言のなかで、一番派手で、一番外れたのが地殻変動系である。
一九三二年から三六年にかけて、彼は一九三六年を大変動の年として名指しした。一九三三年二月には、サンフランシスコが一九三六年の地震で破壊されると語った。一九三六年一月には、ロサンゼルスとサンフランシスコが破壊され、その後にニューヨークが続くと語る。極移動が起き、アトランティスが海から浮上する、と。
いずれも起きなかった。ロサンゼルスもサンフランシスコもニューヨークも、九十年後の今も普通に立っている。
一九三六年三月、彼はこんな夢を報告している。自分が西暦二一〇〇年のネブラスカに生まれ変わっている。海はアメリカ西部の大半を覆っている。葉巻形の金属の飛行船に乗った科学者たちが彼を乗せて各地を回る。
アラバマは一部が水没し、ヴァージニア州ノーフォークは巨大な港湾都市になり、ニューヨークは破壊されている。この「二一〇〇年の自分」という夢は、SF的な魅力があるせいで今もよく引かれる。
一九五八年には、アトランティスで使われていた「死の光線」が再発見されると言った。中国は一九六八年までにキリスト教国になると言った。一九三三年は大恐慌にとって恩恵の年になるとも言う。全部外れている。
一九九八年に何も起きなかった後
そして極めつけが一九九八年だ。
ケイシーの言葉を後世が整理した形では、一九五八年から一九九八年にかけて地球規模の大変動が起き、その終端でキリストの再臨が起きるとされた。特に一九九八年前後は「地軸の移動」の年とされ、二十世紀末の終末論ブームで繰り返し引用された。何も起きていない。
ここで信奉者側の理屈も紹介しておく。ケイシーは予言のなかで「人々の祈りと意識の変化によって、災厄は軽減され、時期は変わりうる」という趣旨のことを何度も言っている。だから外れたのではなく、人類が回避した、という解釈が成り立つ。
これは反証不可能な構造だ。批判者は「後出しで何でも言える」と怒るし、信奉者は「そもそも運命は固定されていないと最初から言っていた」と返す。この平行線は五十年以上続いている。
日本が沈む、と言ったことになっている
日本人にとってケイシーの名前は、長いあいだ「日本沈没を予言した男」だった。
その中核にあるのが、リーディングのなかの一節だ。日本の大部分は海に沈むであろう、という趣旨の言葉が、地殻変動を語る文脈のなかに出てくる。年代を明示していない箇所と、一九五八年から一九九八年という期間が示された箇所が、日本の紹介本のなかで合成された。そして「一九九八年、日本沈没」という強烈な一行になる。
日本でこの説を爆発させたのが、五島勉だ。『ノストラダムスの大予言』で日本の終末ブームを作った、あの五島勉である。彼は青春出版社のプレイブックスから『「一九九八年日本崩壊」エドガー・ケーシーの大予告 日本人これから十年戦慄の興亡』を出した。副題からして煽りきっている。
ノストラダムスの一九九九年と、ケイシーの一九九八年。二つの終末が一年違いで並んでいるという構図は、当時の読者の背筋を凍らせるのに十分だった。
マンガ版まで出た
追随した本も多い。五十嵐康彦の『エドガー・ケイシー日本人への最後の警告 誰も正視できないこの国の終末』が広済堂から出た。平川陽一の『エドガー・ケイシー人類滅亡の大予言』は大陸書房から出ている。
極めつけは樹本ふみきよによる『エドガー・ケイシーの一九九八年・日本沈没 マンガ版』だ。マンガ版まで出たんだ。小学生が本屋の棚で立ち読みして震え上がる、という体験が全国で量産された。八〇年代後半から九〇年代の日本のオカルト受容を考えるとき、ノストラダムスの隣に必ずケイシーがいた。
面白いのは、日本のケイシー受容がここから二極化していったことだ。片方は今書いた終末予言路線。もう片方は、まったく違う顔をしている。健康法としてのケイシーである。
ひまし油とアトミダインと腸内洗浄
日本にはNPO法人日本エドガー・ケイシーセンターという団体がある。東京都渋谷区代々木に事務所を構え、アメリカのA.R.E.公認の窓口として活動している。会長は光田秀。
彼が翻訳と紹介を一手に引き受けてきたおかげで、日本のケイシー像は「予言者」から「療法家」へ大きく重心を移した。『完全版 眠れる予言者エドガー・ケイシー』や『エドガー・ケイシー療法のすべて』といったシリーズが版を重ね、療法の実践者を養成する講座まで開かれている。
ケイシー療法の看板が、ひまし油湿布だ。トウゴマの種子から取れる油をフランネル布に染み込ませ、腹部に当てて、その上から温める。ケイシーはリーディングのなかでこれを繰り返し勧め、肝臓と腸のはたらき、そして「同化と排泄のバランス」を整えるものとして扱った。信奉者のあいだでは「奇跡の油」とまで呼ばれる。
他にも彼が勧めたものは山ほどある。アトミダイン、化学者シャンカル・A・ビシーと共同で作った、ヨードを電気分解したとされる液体だ。腸内洗浄。オステオパシー的な整体。
湿布類もある。色光を当てる療法。磁気。マッサージまで並ぶ。
食事についても細かい。アルカリ性の食品を八割にせよ。牛乳と柑橘は一緒に取るな。コーヒーにクリームを入れるな。
砂糖の多いものと澱粉の多いものを同時に食べるな。精神状態が悪いと、どんなに栄養のある食べ物も体内で毒になる、とまで言っている。
ここは正直に書いておく
日本では、この療法路線に乗った医療機関も出た。がんや難病を扱うクリニックがケイシー療法を診療メニューに掲げ、内科や心療内科がコラムで紹介する。ホリスティック医学の先駆けとしてケイシーを位置づける言説も定着した。
ここは正直に書いておきたい。これらの多くは、現代医学の基準では有効性が確認されていない。ケイシーが語ったとされる処方のなかには、そのまま実行すると危険なものもある。
彼はがんに対してレートリル、つまり青酸配糖体を含む物質に相当するものを勧めたとされ、これは実際に中毒の危険がある。ウサギの血清や生肉を患部に当てる、クレオソートを使う、といった記録もある。
これらは「そう主張された歴史的記録」であって、実践を勧めるものじゃない。真似しない方がいい。この記事は面白い話をするためのもので、治療方針を決めるためのものじゃないんだ。
病院は三年、大学は三か月で消えた
ケイシーの人生には、ほんの数年だけ、すべてがうまく行きかけた時期がある。
一九二五年、彼はバージニアビーチに移る。眠ったなかで「あの海辺の町に行け」と告げられた、というのが本人の説明だ。
そこにニューヨーク証券取引所で働くモートン・ブルーメンタールという若い実業家が現れる。ブルーメンタールはケイシーのリーディングに心酔し、株で儲けた金を惜しみなく注ぎ込んだ。家を買い与え、一九二七年五月六日には全国調査協会をバージニア州で法人登記し、自ら会長に収まる。
そして一九二八年十月十一日、ケイシー病院の落成式が行われた。講堂があり、図書室があり、リーディングを保管する金庫室があり、事務室があり、十二台分の車庫があり、使用人の部屋があり、テニスコートまであった。当時の地元紙は、この一帯で最大の、というより唯一の芝生を持つ建物だと書いている。翌十月十二日に最初の患者が入院した。
一九三〇年九月二十二日には、アトランティック大学が開校する。ケイシーのリーディングを学問の土台に据えた大学だ。
大恐慌が全部持っていった
そしてここで大恐慌が来る。ブルーメンタールの資産が吹き飛んだ。
一九三〇年九月十六日、彼は経費削減のため病院の運営を自分の手に引き取る。関係は急速に悪化した。一九三一年二月二十六日、二十八日とする記録もあるが、協会は閉鎖された。大学は開校からほとんど間を置かずに機能を止めている。
ケイシーは自分のリーディングのファイル一式を病院から運び出し、自宅に持ち帰った。この持ち出しがなければ、一万四千件の記録は散逸していたかもしれない。
打ちのめされたケイシーのもとに、それでも人は集まった。一九三一年六月六日、六十一人が集会に集まり、七月七日、A.R.E.、つまり研究啓発協会が非営利法人としてバージニアビーチで設立される。
ケイシーは一日二回のリーディングを続けた。会員数は五百から六百で推移し、年に半分近くが入れ替わった。月刊の会報を出し、症例報告や書評、健康の助言を載せている。最初の年次大会は一九三二年六月に開かれ、同年二月には「失われた大陸アトランティス」という公開講演も行っている。集まった人々の出身はばらばらで、キリスト教各派、神智学、クリスチャン・サイエンス、心霊主義から流れ込んできた。
このA.R.E.には、法的な計算も入っていた。当時、州によっては占い行為が違法だったのだ。だから相談者に料金を払わせるのではなく、協会の会員になってもらう形式にした。会費であって、占い代ではない、という理屈である。
眠れる予言者は逮捕された
その用心も完全ではなかった。
一九三一年十一月、ニューヨークでケイシー、妻ガートルード、そして速記者グラディス・デイヴィスの三人が逮捕される。容疑は「占いを騙ったこと」。眠れる予言者が、警察に引っ張られた。
結果として告発は退けられた。当時の新聞は、この裁判で語られたリーディングの中身に、古代エジプト、エルドラド、そしてアトランティスといった古代文明の物語が含まれていた、と書いている。法廷という現実的きわまりない場所で、アトランティスの話がされていたわけだ。想像すると相当シュールな絵面だと思う。
一九三五年にはデトロイトでも似た摘発があり、こちらは有罪判決を受けたという記録もある。予言者の生涯は、こういう泥臭い法廷トラブルと隣り合わせだった。神秘のオーラだけで生きられた人間じゃないんだ。
一九四三年、手紙が津波のように来た
ケイシーの最期は、彼の人生でいちばん切ない部分だ。
一九四二年三月、一九四三年三月とする記録もあるが、トマス・サグルーが『There is a River』を出版した。ケイシーの生前に出た唯一の伝記だ。サグルーは自身が難病を抱え、ケイシーのリーディングを受けた当事者でもあった。この本が売れた。
そして一九四三年九月、大衆誌コロネットが「バージニアビーチの奇跡の男」という記事を出す。第二次世界大戦の真っ最中だ。戦地に送り出した息子の生死を知りたい母親が、全米に何十万人といた。
手紙が津波のように押し寄せた。予約は二年先まで埋まる。
ケイシー自身のリーディングは、一日五回までにせよ、それ以上やると身体がもたない、と警告している。彼はその警告を無視する。一日八回、多いときはそれ以上こなした。断れなかったんだ。
目の前に、息子の消息を知りたいと泣く母親の手紙が積み上がっている。彼は自分を削って応え続けた。一九四三年六月から一九四四年六月までの一年で、千三百八十五件のリーディングを出している。
自分の葬儀の日を告げて死んだ
一九四四年八月、彼は倒れた。自分に対して出したリーディングは、こう言った。よくなるか、死ぬかするまで休みなさい。
九月、バージニアの山中で静養している最中に脳卒中を起こす。十一月にバージニアビーチに戻った。右半身が動かなくなっていた。
そして彼は、自分がいつ死ぬかを口にする。一九四五年一月五日に自分は葬られるだろう、と。一九四五年一月三日、六十七歳で死去。葬儀は一月五日に行われた。
遺体はケンタッキー州ホプキンスビルのリバーサイド墓地に運ばれ、埋葬された。生まれた町に帰ったわけだ。
妻ガートルードは、その三か月後の四月一日に後を追うように死んだ。四十年以上、夫が眠るたびに枕元で暗示をかけ続けた人である。ケイシーが眠りに落ちた後、リーディングを導く暗示文を読み上げるのは、ほとんどの場合ガートルードの役目だった。夫婦で一つの装置みたいなものだったんだ。片方が壊れたら、もう片方も止まった。
火傷を負った七歳の息子が見たもの
三男のエドガー・エヴァンス・ケイシーは、二〇一三年に九十五歳で亡くなるまで、父についての生き証人であり続けた。海軍の技術者として働き、電気工学の学位を持ち、生涯を通じて「私は科学畑の人間だ」と言い続けた人物だ。
その彼が、九十一歳のときに雑誌の取材に語った話がある。
七歳のとき、彼は重度の火傷を負った。膝の裏側の皮膚が焼けて縮み、脚が伸びなくなった。医者は皮膚移植か、最悪の場合は歩行に障害が残ると言う。父親が眠って処方を出す。
指示に従って治療を続けた結果、彼の脚は伸びるようになり、学校ではスポーツをやっていた。傷跡は残ったが、機能は戻っている。
彼はこの体験を、生涯淡々と語り続けた。父を神格化しない。むしろ兄のヒュー・リンと共著で『エドガー・ケイシーの力の限界』という本を一九七一年に出している。父の失敗例、外れた予言、何も言葉が出てこなかった回、宝探しや石油掘削の空振りまで含めて並べた本だ。
この兄弟は、一万四千件のうち百五十件を無作為に抽出して医学的な成否を検討し、およそ八十五パーセントの成功率だと見積もった。ただし、この数字は身内による自己評価であり、成功の定義が緩いという批判は当然ある。それでも「失敗も並べた」という姿勢は、この一族の妙な誠実さを示している。
速記帳を握り続けた女
グラディス・デイヴィスという名前を、もう一度出しておきたい。一九二三年九月に十八歳で雇われ、ケイシーが死ぬまで、そしてその後も、彼の言葉を守り続けた女性だ。
彼女の仕事は地味である。ケイシーが眠る。誰かが暗示を読み上げる。ケイシーが「はい、われわれはここに身体を得ている」と語り出す。デイヴィスが速記する。
目覚めたケイシーは自分が何を言ったか覚えていないので、彼女の記録だけが唯一の証拠になる。これを二十年以上。彼女はケイシーの死後も、リーディングの索引作成に人生を捧げた。一万四千件を主題別に分類し、相互参照を付け、検索できる形に整えた。
彼女がいなければ何が起きたか。ケイシーは「そういう不思議な人がいたらしい」という口伝で終わっていた。逆に言うと、この記録の存在こそが懐疑派にとっても最大の材料になっている。膨大な記録があるから、外れた予言も検証できるわけだ。デイヴィスは、ケイシーの神格化と脱神格化を同時に可能にした人物なんだ。
なおデイヴィスとケイシー家の関係は、ライフ・リーディングによって「エジプト時代からの深い縁」と位置づけられていた。日常の労働関係を古代の宿縁として語り直す構造が、A.R.E.の初期メンバーの結束を異様に強くしていた。ラー・タの物語のなかで、みんなが役を割り振られていたわけだ。抜けられなくなる。
一週間泊まり込んだ超心理学者
一九三六年、超心理学者のJ・B・ラインが、ルシアン・H・ワーナーという調査員をバージニアビーチに送り込んだ。ラインはデューク大学でESPカードの実験をやっていた、当時の超心理学の看板人物である。
ワーナーは一週間ケイシーのもとに滞在し、リーディングの現場に立ち会い、自分自身のリーディングも受けた。彼が本部に送った報告は、驚くほど好意的だった。彼はケイシーに何かがあると考えている。ワーナーは別の超心理学者ガードナー・マーフィーのためのリーディングも手配している。
ところが、ワーナーが病気で倒れた。調査は途中で打ち切られ、そのまま再開されなかった。結果として、エドガー・ケイシーは超心理学の側から一度も正式な調査を完了されないまま死んだ。これは超心理学史における、かなり大きな取りこぼしだと思う。
ライン本人はもっと冷淡だった。彼はケイシーにカード当ての実験への参加を求めたが、ケイシーは断った。自分の能力はそういう形では働かない、というのが理由だ。しかも、ラインが自分の幼い娘のためにリーディングを受けたところ、その診断が娘の実際の状態とまったく合わなかった。ラインの関心はそこで冷めた。
ケイシー史のなかで一番惜しい分岐点はここだと思う。あそこで両者が噛み合っていたら、二十世紀のオカルト史はだいぶ違う形になっていたはずだ。
今日もバージニアビーチに来る六万人
現代の証言も入れておきたい。バージニアビーチの六十七丁目に立つ白い四階建てが、今のA.R.E.本部だ。健康センターとスパ、マッサージ学校、来訪者センター、そして北米最大級と称される神秘学専門図書館が入っている。
一万四千件のリーディングは青いバインダーに綴じられ、誰でも閲覧できる。年間およそ六万人が訪れる。
そこで働くジョイ・ブルームという女性は、初めてここへ車を走らせたときのことをこう語っている。まるで釣り上げられる魚みたいに、引き寄せられていく感じがした、と。彼女はひまし油湿布のおかげで腎結石を乗り越えたと信じていて、夫と二人でケイシーの教えに沿って暮らすようになってから、より幸せに、より健康になったと言う。
図書館スタッフのリンダ・カプティは元看護師だ。彼女はこう言っている。毎日、誰かが答えを探して図書館に入ってくる。そして笑顔になって帰るか、少なくとも希望を持って帰っていく、と。
この二つの証言には、ケイシー現象の核心が出ていると思う。誰も「予言が当たったから信じている」とは言っていないんだ。楽になった、希望が持てた、という話をしている。予言の的中率でこの現象を測ろうとすると、いつも的を外す。
日本の食卓でひまし油を温める夫婦
日本の個人ブログにも、ケイシー療法の実践記録は山ほど転がっている。そのなかのひとつが妙に生々しかったので紹介する。
ある夫婦が、三日やって四日休むというサイクルで、ひまし油湿布を三週間続けた。夫は十か月前の生活環境の激変から体調を崩していて、頭痛と食後の不調に悩まされていた。妻はバセドウ病が再発し、甲状腺ホルモンの数値が乱れて、手術を回避したいと考えている。
準備するものが多い。フランネルの布、ひまし油を一リットル、ラップ、ビニール袋、重曹、オリーブオイル、汚れてもいい服、拭き取り用のタオル、湯たんぽ、床に敷くレジャーシート。夕食後の時間を毎回一時間以上潰すことになる。正直、面倒くさい。
やってみると「気持ちいい」のだそうだ。じんわり温かくて、終わったあとは眠くなって、ぼーっとする。夫は「視界がはっきりする気がする」と言った。二か月後の血液検査で、妻の甲状腺ホルモンの数値は正常域に戻っていた。
そして彼女が書いていて印象的だったのは、数値の話ではない。医師に対して抱えていた怒りが感謝に変わって、穏やかに対処できるようになった、という部分だ。
医学的にこれをどう解釈するかは別の話になる。バセドウ病の数値は治療や自然経過でも変動する。だが、この文章を読むと、なぜケイシー療法が百年近く生き延びているのかがよくわかる。夫婦で床にシートを敷いて、油の匂いのなかで一時間温まる。
この時間そのものが、何かを変えているんだ。効くか効かないかとは別の次元で。
懐疑派の刃、その一と二
ここからは反証側だ。ケイシー批判は、感情論じゃなくてかなり手堅い。
第一の刃は手紙である。ケイシーの遠隔リーディングは、相談者が手紙で症状を書き送るところから始まる。ジェイムズ・ランディは指摘した。彼が受け取った手紙の多く、というより大半には、病状の具体的な記述が含まれていた、と。
つまり、透視するまでもなく情報は手元にあった。ケイシーの父親や助手が手紙を仕分けし、読み上げていた。決定的なのが、手紙を出した後に亡くなった人物に対して、生きているものとして診断を下したケースがあることだ。透視で全米を見通せるのに、生死の区別がつかないというのはどう説明するのか。
第二の刃は書店だ。ケイシーは「無学」という看板で売られたが、実際には本屋で働き、猛烈に読んだ。オカルト文献も、オステオパシーの本も。
マーティン・ガードナーは、ケイシーの語った内容の出所を、カール・ユング、P・D・ウスペンスキー、ヘレナ・ブラヴァツキーらの著作に遡らせて追跡した。ガードナーの結論はこうだ。彼のトランス発言は、あちこちのオカルト文献から拾い集めた断片に、無意識から出た新奇なものが時々混じったものだ。
ガードナーはまた、専門的なオステオパシーの用語を操りながら同時に民間療法を処方する、という奇妙な混合そのものを指摘している。それはまさに、オステオパシーの本を読んだ素人の語彙なんだ。
懐疑派の刃、その三から五
第三の刃は言葉づかいだ。ランディは、ケイシーが「私はこう感じる」「おそらく」といった留保表現を頻繁に使うことに注目した。断言を避ける。これは占い師の基本技術である。事後にいくらでも解釈の余地が残る。
第四の刃は身内だ。カレン・ストルツナウはこう書いている。彼の治癒は伝聞であり、彼の治療法はよくて無害、悪ければ危険な民間療法だった。ケイシーは自分の従兄弟を救えなかったし、赤ん坊で死んだ自分の息子も救えなかった、と。
これは痛い。妻ガートルードの結核リーディングも、肺に言及した点は当たりと数えられるが、胸椎や腰椎、遊走性の病変への言及は誤りだったと指摘されている。
第五の刃は、記録そのものの性質である。デイル・バイアースタインの評価は冷ややかだ。膨大な速記録は、それ単独では無価値である。なぜなら、それが本物の透視によるものなのか、助手からの情報なのか、患者の手紙からなのか、単なる観察からなのか、区別する手段がないからだ、と。
ケイシーは常に助手と組んでいた。催眠術師のレイン、ホメオパスのケッチャム。彼らの専門知識と、ケイシーの発言を切り分けることは、原理的にできない。
予言の成績表は悲惨だ
予言の成績表も悲惨である。カリフォルニアの海没、ニューヨークの壊滅、一九五八年の死の光線、一九六八年までの中国のキリスト教化。
リンドバーグ愛児誘拐事件については、ケイシーは複数のリーディングを出したが、その内容は「大半が誤りで、全部が無用だった」と評されている。宝探しでは何週間も掘って何も出なかった。
マイケル・シャーマーの総括はこうだ。九年生以上の教育を受けていないケイシーは、貪欲な読書によって幅広い知識を得て、そこから精緻な物語を織り上げた。彼は幼少期から空想傾向が強く、しばしば天使と話し、幻視を受けていた、と。
ロバート・トッド・キャロルの一言も刺さる。ケイシーはアトランティスにまつわるくだらない話の一部について、主犯格の一人である、と。
懐疑派がちょっと答えにくい一件
とはいえ、全部が全部きれいに片付くわけでもない。信奉者側が出す反例のなかで、いちばん扱いに困るのがエッセネ派の話だ。
超心理学者のステファン・シュワルツが指摘した件である。ケイシーはあるリーディングのなかで、死海のほとりの、後にクムランと呼ばれることになる場所にエッセネ派の共同体があったと語った。しかも、ある女性相談者がその共同体で占星術を教えていた、と述べた。
一九三〇年代の学界では、エッセネ派は男性のみの集団で、占星術には関心を持たないとされている。ケイシーの発言は、当時の常識に真っ向から反する。
そして一九四〇年代後半、死海文書が発見される。クムランの発掘が進むにつれ、この共同体に女性が含まれていた可能性を示す埋葬が見つかり、占星術的な内容を含む文書も出土した。ケイシーがそれを語ってから十年以上あとの話だ。
もちろん反論はできる。エッセネ派に関する当時の議論は完全に一枚岩だったわけじゃないし、ケイシーが読んでいた神智学系の文献にはエッセネ派を神秘主義的に描くものがあった。解釈の幅も広い。だが「読書で全部説明できる」と言い切るには、ちょっと具合が悪い部類の一件ではある。こういう一枚があるから、この論争は終わらないんだ。
出版界とオカルト界が彼をどう食べたか
ケイシー現象の広がり方は、出版史として見るとかなり分かりやすい。
まず一九四二年から四三年、サグルーの『There is a River』が土台を作った。次に一九五〇年、ジナ・サーミナラの『Many Mansions』が出る。ケイシーのライフ・リーディングを輪廻転生とカルマの実例集として整理した本で、ロングセラーになった。輪廻という東洋的な概念をアメリカの中産階級に馴染ませた本として、この一冊の影響は計り知れない。
一九六三年、ルース・モンゴメリーがケイシーの破局予言を「ポールシフト」という言葉で広めた。ポールシフトという語がオカルト界の定番になったのは、この流れが大きい。
そして一九六七年、ジェス・スターンの『The Sleeping Prophet』が出た。この本のタイトルが、そのままエドガー・ケイシーの通り名になる。今この記事のタイトルにも入っている「眠れる予言者」という呼び名は、彼の死後二十二年たってから、一冊の本が付けた渾名なんだ。
この本は爆発的に売れ、一九六七年から六八年にかけて関連書が八冊まとめて出るという事態になった。ちょうどヒッピー文化とニューエイジの黎明期である。時代がケイシーを呼んだ。
アトランティスの定型は、彼が父親だ
一九六八年にはドノヴァンが「アトランティス」を歌い、アトランティス神話は完全にポップカルチャーの共有財産になる。ケイシー流の「超科学文明としてのアトランティス」は、そこから何十年もかけて創作の世界に浸透していった。
日本では『ふしぎの海のナディア』が一九九〇年から九一年にかけて放送され、二〇〇一年にはディズニーが『アトランティス 失われた帝国』を公開した。水晶のエネルギー、超科学、滅びた高度文明。この定型の父親は、かなりの部分がケイシーだ。
一九七〇年にはデイヴィッド・カーンの『My Life With Edgar Cayce』が出た。カーンはケイシーの最も古い支援者の一人で、若い頃にリーディングで進路を告げられ、そのとおりに家具業で成功した実業家である。彼はケイシーの生涯にわたる友人であり、ケイシーが困窮するたびに支えた。
彼が語るケイシー像は、予言者というより、ひたすら人がよくて、金勘定ができなくて、断ることが下手な田舎の男だ。この「いい人だった」という証言の厚みが、詐欺師説をいまいち通りにくくしている。
一九八〇年代にはローリ・トーイが、ケイシーの予言をもとに「アイ・アム・アメリカ」という未来の北米地図を売り出した。西海岸が海に沈み、内陸に新しい海岸線ができている地図だ。今もネットで拡散し続けているあの手の水没地図の系譜は、かなりの部分がここに繋がる。SNS時代になっても、災害のたびに「ケイシーの地図」がまた回ってくる。これはもう、現代の民間伝承だと思う。
一九九九年には『My Life as a Seer』として、ケイシー自身の手による回想録が発掘され、出版された。
なぜ、これほどまでに信じられたのか
ここが一番面白いところだ。予言の的中率で言えば、ケイシーの成績は褒められたものじゃない。にもかかわらず、彼は死後八十年たっても現役である。年間六万人がバージニアビーチを訪れ、日本の渋谷では講座が開かれ、書店にはひまし油の本が並ぶ。なぜか。
理由の一つ目は、彼が金を取らなかったという物語だ。実際には協会の会費を通じて生活の糧を得ていたが、彼が生涯貧しかったのは事実である。写真館は焼け、破産し、石油は出ず、百ドルの日給を断り、最後は働きすぎて死んだ。この「聖人の型」に、彼の人生はきれいに嵌まってしまう。金目当ての詐欺師だと言い切ろうとすると、必ずこの経歴が邪魔をする。
二つ目は、記録の量だ。一万四千件という数字がまず圧倒的である。しかも全部が速記され、番号が振られ、索引が付いて保管されている。この「アーカイブ性」が、信仰に学問の顔をさせた。
信者は「調べればわかる」と言える。研究者ぶった言い方ができる。宗教的な確信に、資料的な体裁が与えられている団体は強い。
二階建てだから終わらなかった
三つ目は、二階建て構造である。
上の階には終末予言とアトランティスがある。派手で、話のネタになって、人を引きつける。下の階にはひまし油と食事療法がある。地味で、日常的で、しかも今日から実行できる。
上の階に惹かれて入ってきた人が、下の階で暮らし始める。予言が外れても、下の階は無傷なんだ。ノストラダムスには下の階がなかった。だから一九九九年で終わった。
ケイシーには下の階がある。だから一九九八年を過ぎても終わらない。この差はでかい。
四つ目は、前世という配役だ。ライフ・リーディングは、相談者に「あなたはエジプトで神殿にいた」「あなたはアトランティスの技師だった」という物語を与えた。退屈な日常を生きる人間に対する、途方もなく強力な贈り物である。しかも周囲の仲間たちと同じ物語のなかに配置される。
共同体ごと、神話のなかに住める。一度この配役をもらった人が、そこから降りるのはかなり難しい。
五つ目は、キリスト教との接続だ。ケイシーは生涯、聖書を年に一度通読することをやめなかった。彼のリーディングは、輪廻もアトランティスも語りながら、最終的にはキリストの愛に着地する。だからアメリカのキリスト教文化のなかで、決定的な異物にならずに済んだ。
神智学よりもずっと入りやすい入口だったんだ。日本に来たときは逆に、キリスト教色が薄められて健康法と予言だけが抽出されたのも面白い。
六つ目、そして一番大きいのが時代である。彼が名を上げた一九一〇年代は、医学がまだ今ほど確実じゃなかった。町医者に匙を投げられた人が、藁にもすがった。彼が大衆化した一九四三年は戦争のさなかで、息子の生死を知りたい親が国中にいる。
彼が再発見された一九六七年は、既成の権威が総崩れになった時代である。彼が日本に上陸した八〇年代は、バブルと終末願望が同居した奇妙な時期である。ケイシーはいつも、人が答えを渇望している時期に呼び出されている。
生涯は三つの地層に分かれている
ここまで書いてきて、改めて思うことがある。エドガー・ケイシーという現象の面白さは、「当たったか外れたか」という軸で測ろうとした瞬間に、指の間からこぼれ落ちるんだ。
整理しておくと、彼の生涯には三つの層がはっきり分かれている。
第一層は一九〇一年から一九二三年まで。喉の一件からラマーズが現れるまでの、純粋な「眠って病気を診る男」の時代だ。この時期の彼には、宇宙論も前世もアトランティスもない。あるのは、田舎町で困っている人の身体を透視して、整体と湿布を指示する、ひたすら地味な作業だけである。
第二層が一九二三年から一九四五年。輪廻転生とアトランティスと終末予言が接ぎ木された時代だ。
第三層が一九四五年以降、つまり本人が死んだ後に、出版界とオカルト業界とニューエイジ運動が彼を素材にして作り上げた時代である。この記事で一番情報量が多いのは、実は第三層だ。世界が知っている「眠れる予言者エドガー・ケイシー」の像は、大部分が彼の死後に組み立てられている。「眠れる予言者」という呼び名からして、死後二十二年目にジェス・スターンが付けたものなんだから。
批判と擁護が噛み合わない理由
この三層構造を意識すると、批判と擁護がなぜ噛み合わないかがよく見える。
懐疑派が撃っているのは主に第二層と第三層だ。外れた終末予言、荒唐無稽なアトランティス、危険な処方、人種起源説。全部、正しい批判である。
一方で信奉者が根拠にしているのは主に第一層と、第三層の実践部分にあたる健康法だ。声が戻った話、エイミー・ディートリッヒの話、火傷を負った息子の話、ひまし油で楽になった話。
この二つは同じ人物の話をしているようで、実は別の地層を掘っている。だから百年議論しても終わらない。
誠実さの見た目は、正確さより強い
もうひとつ、この現象を眺めるうえで外せないのが、記録という発明だ。
ケイシーの周りにいた人々は、彼の言葉を全部書き取り、番号を振り、保管した。グラディス・デイヴィスの速記帳から始まって、病院の金庫室、自宅に運び出したファイル、A.R.E.の青いバインダー、そして今はデジタルの検索システムまで。この執念は、宗教運動というよりアーカイブ事業に近い。
そしてこの記録癖が、皮肉な結果を生んだ。ケイシーは、批判者に自分の失敗をすべて差し出した唯一の予言者になったのだ。
ノストラダムスの四行詩は曖昧だから叩けない。だがケイシーは、何年何月何日にどの相談者に何と言ったかが全部残っている。ロサンゼルスが壊れると言ったのに壊れなかったことが、証拠付きで確認できる。
普通、これは致命傷になる。ところがならなかった。むしろ「これだけ記録が残っている団体は誠実だ」という評判の方が勝った。ここに、人が何を信頼と呼ぶかについての、けっこう深い教訓が転がっている気がする。誠実さの見た目は、正確さより強い。
日本のケイシーは、予言者の看板を下ろして生き延びた
日本での受容も、この目で見直すと味わいが増す。
八〇年代の日本に上陸したときのケイシーは、五島勉の手で終末予言の弾丸に加工された。一九九八年に日本が沈む、という一行が独り歩きし、マンガ版まで出て、小学生の背筋を凍らせた。
だがその年が過ぎても、日本は沈まない。ノストラダムスも一九九九年を越えて失効する。普通ならそこでブームは終わる。
ところが日本のケイシーは終わらなかった。光田秀を中心とする紹介者たちが、予言ではなく療法という「下の階」を丁寧に整備していたからだ。渋谷の事務所、実践者の養成講座、翻訳書のシリーズ、クリニックとの提携。
日本のケイシーは、予言者の看板を静かに下ろして、生活実践の体系として生き延びた。これは受容史としてかなり珍しい成功例だと思う。輸入されたオカルトが、終末の日付を失った後に別の顔で定着した例は、そう多くない。
どっちにも振り切れない男だった
最後に、この記事を書きながらずっと引っかかっていた話をひとつ書いておきたい。ケイシーの死に方だ。
彼は、自分のリーディングに「一日五回まで」と警告されていた。それを破って一日八回以上こなした。理由は、戦地に息子を送った母親たちの手紙が積み上がっていたからだ。断れなかった。そして倒れ、脳卒中を起こし、半身が動かなくなり、自分の葬儀の日付を告げて死んだ。
もし彼が完全な詐欺師だったなら、こんな死に方はしない。適当にあしらって、金を取って、長生きすればいい。もし彼が完全な本物だったなら、自分の警告くらい守れたはずだ。
この、どっちにも振り切れない中途半端さが、エドガー・ケイシーという人間の一番リアルな部分だと思う。彼はたぶん、自分でも自分のことがわかっていなかった。眠って出てきた言葉に、彼自身が驚き、怯え、それでも人が救われたと言うから続けた。輪廻転生を語る自分に信仰の危機を起こして、それでも日曜学校はやめない。そういう男だ。
一万四千三百六件。バージニアビーチの図書館で、青いバインダーは今日も誰かに開かれている。そこに書かれていることが本当かどうかは、正直、もう誰にも決められない。決められないまま、人はページをめくり続ける。
オカルトってだいたいそういうものだし、たぶんそれでいいんだと思う。あなたも一度、ひまし油の匂いを嗅いでみたくなったんじゃないか。やめとけとは言わないが、医者にはちゃんと行ってくれ。
