太占と亀卜、まず言葉を整理しておく
日本の占いでいちばん古い層にあるのは、間違いなく骨を焼くやつだ。十二支も陰陽五行も易も、全部後から入ってきた。それより前に、この列島に住んでいた人間は鹿の骨を火であぶって、入ったひびを眺めていた。弥生時代の遺跡から、焼けた骨が実際に出てくる。これは神話ではなくて、地面から出てくる物理的なモノの話だ。
で、この領域には二つの言葉があり、太占と亀卜だ。これがちゃんと区別されないまま語られることが多いので、最初にはっきりさせておきたい。太占はフトマニと読む。フトは「太」で立派な、マニは占いの意だ。
使うのは鹿の肩甲骨。これを火であぶって、入った亀裂の形を見る。日本列島の在来のやり方だ。亀卜はキボクと読む。こちらは亀の甲羅を使う。
中国の殷代で大規模に行われていたやり方が、朝鮮半島経由で入ってきたと見られている。つまり、素材が鹿か亀か。そして在来か外来か。この二軸で分かれ、ただしこの区別は、史料の上ではそこまできれいではない。
後世の文献では「太占」が占い一般を指す広い言葉として使われることもあるし、亀卜を含めて太占と呼んでいるように見える例もある。さらに厄介なのは、近世以降に登場する神代文字系の「フトマニ図」と呼ばれるものだ。五十音を丸く並べた図で、これを古代の太占と同一視する議論もあるのだが、古代の鹿占との連続性は実証されていない。別系統のものと見ておいたほうが安全だろう。
この記事で扱うのは、あくまで鹿の骨を焼くほうの太占だ。なお、この先で現存の神社や神事にも触れるが、神事の中身は非公開だったり、外部には伝えられていない部分があったりする。ここで書くのは公開情報と学術的な推定の範囲であって、実際の次第を断定するものではない。また、この記事は歴史と民俗の解説であり、医療・法律・投資の判断を代替するものではない。
そして当然だが、動物を実際に殺傷する手順は書かず、古代の作法は歴史的な記述としてのみ扱う。
鹿の肩甲骨を灼く――太占のやり方
太占で使うのは鹿の肩甲骨だ。なぜ肩甲骨なのか。理由は形にあり、肩甲骨は平たくて薄い。しかも中央に骨の肥厚な稜が一本走っていて、その両側が紙のように薄い板になっている。
この薄い部分を灼くと、パキッと音を立てて亀裂が入る。大きな動物の骨で、ここまで都合よく平面を提供してくれる部位はそう多くない。古代人はちゃんと合理的に材料を選んでおり、灼く道具にも決まりがあった。古典に登場するのが波波迦、ハハカと読む。
これはウワミズザクラのことだとされ、カニワザクラとも呼ばれるこの木の皮を焼いて、その火で骨をあぶる。なぜこの木なのかははっきりしない。皮に油分があってよく燃えるからだという実用的な説明もあるし、サクラ属の樹皮に神聖な意味を見ていたという説もある。少なくとも、古事記の段階ですでに「天の波波迦」と固有名詞級の扱いを受けているので、早い段階でこの木に限定されていたことは確かだ。
読み方は、ひびの入り方だ。どこからひびが走ったか、どちらに曲がったか、何本に分かれたか。このパターンに意味を割り当てる。問題は、その割り当て規則が古代についてはまったく分からないことだ。中国の甲骨には文字が刻まれていて、何を問い、結果がどうだったかまで記録されている。
ところが日本の卜骨には文字がなく、一字もない。だから当時の人間が何を問うていたのか、どう読んだのか、完全にブラックボックスなんだよな。現代に伝わっている神事から逆算してみる。少なくとも近世以降の鹿占では、骨にあらかじめ区画を見立てていた。そして作物ごとに場所を割り振るやり方がとられていたらしい。
この区画にひびが入ればその作物が豊作、といった具合だ。
古代も同じ発想だったのか、もっと別の読み方をしていたのかは、現状では推測の域を出ない。
地面から出てくる卜骨――考古学の証言
古代の占いの話でもっとも固い証拠は、発掘された卜骨だ。これは神話も伝承も介さない。実物だ。表面には黒く焼けた痕があり、ひびが走っており、日本列島で卜骨が現れるのは弥生時代だ。
鳥取県の青谷上寺地遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡といった有名な遺跡から出てくる。素材は多くが鹿と猪の肩甲骨だ。面白いのは分布で、南関東の沿岸部に集中する傾向があり、神奈川県の三浦半島、東京湾沿い、千葉県の外房。海に面した場所に多い。
漁の吉凶、出航の可否、天候。命がかかる場面で使われていた、と考えるのが自然だろう。卜甲、つまり亀の甲羅を使ったものも出ている。最古の例とされるのは長崎県壱岐市の原の辻遺跡から出た弥生時代後半のものだ。壱岐だ。
この島の名前はこの先何度も出てくることになる。古墳時代後期になると神奈川県の間口洞窟遺跡からも卜甲が出てくる。洞窟で占いをやっていたらしい。考古学が教えてくれることはもう一つあって、灼き方のディテールだ。出土した卜骨の多くには、直径数ミリの丸い灼痕が並んでいる。
これは灼けた金属棒を押し当てた痕だと見られている。つまり骨を丸ごと火に投げ込むのではなく、ピンポイントで熱を加えてひびの起点をコントロールしていた。これは相当に技術的だ。適当に焼いていたわけじゃなく、中国の甲骨ではさらに徹底している。
あらかじめ骨の裏側を削って窓を彫り、そこに熱を入れて表側に見栄えのする亀裂を出させていた。この分布には後で効いてくる伏線がある。卜骨・卜甲が出る地域は、後の律令国家が「卜部」を採用した地域とかなり重なる。制度がいきなり降ってきたのではなく、もともとあった地層の上に制度が乗っかかった。この連続性は、古代日本を考えるうえでかなり重要なポイントだ。
記紀の中の太占(1)国生みのやり直し
ここで神話の話に入り、古事記と日本書紀には、神々が占いをする場面が二つ、はっきりと出てくる。どちらもすごく印象的な場面だ。一つ目は国生みのやり直し。伊邪那岐と伊邪那美の二神が、天の御柱を回って結ばれ、最初の子を生む。
ところが生まれたのは水蛭子だった。骨のない、ヒルのような子。二神はこれを芦の船に乗せて流してしまう。次に生まれた淡島も、子の数には入れなかった。二神は困る。
なぜうまくいかないのか。そこで天に登って、天つ神に伺いを立てる。古事記によれば、天つ神は「布斗麻邇」によって占った。つまり太占だ。そして答えが出る。
女が先に声をかけたのがよくなかった、戻ってやり直せ、と。二神は地に降り、もう一度柱を回り、今度は男から声をかける。すると今度は次々と島が生まれた。日本列島の誕生だ。この場面を情景として想像すると、なかなかすごいことになっている。
天上の神々が、地上の失敗の原因を知るために、鹿の骨を焼いている。神ですら、答えを直接は知らず、占わないと分からない。これは重要な世界観だと思う。神々さえ参照しなければならない、もっと根源的な秩序がどこかにあるということだ。
占いはその秩序へのアクセス手段として位置づけられている。日本書紀の一書にも同様の伝えがあり、天つ神が占って日時を定め、二神をもう一度降らせたという形になっている。占いで分かったのは原因だけではなく、やり直しに適した時間までだったということだ。この「日時を占う」発想は、後の大嘗祭の斎田点定にまっすぐつながっていく。
記紀の中の太占(2)天岩戸の前の緊急会議
二つ目が、もっと有名な天岩戸の場面だ。天照大御神が弟のすさのおの乱暴に耐えかねて、岩屋にこもってしまう。天地が真っ暗になり、あらゆる災いが一斉に起きる。困り果てた八百万の神々が天の安河原に集まって、対策会議を開く。
ここで思金神が知恵を出し、その手順のなかに、占いが入っている。古事記の記述はこうだ。天香山の真男鹿の肩を、内抜きに抜いて、天香山の天の波波迦を取って、占わせた。天児屋命と布刀玉命がこれを担当している。
「内抜きに抜きて」というのは、肩甲骨を周囲の肉を傷つけず丁寧に抜き取ることを指すとされる。この一句があるおかげで、古代の人間が骨の採取をいい加減にやっていなかったことが分かる。情景を想像してみてほしい。太陽が消えて真っ暗な世界だ。神々が川原に集まっている。
その真ん中で、一頭の雄鹿から取った肩甲骨が台の上に置かれている。天香山から切ってきたハハカの木に火がつけられ、樹皮がパチパチとはぜる。その火を骨に当てる。しばらく黙っていると、パキッと高い音がして、白い骨の上に線が走る。神々が一斉にのぞき込む。
暗闇のなかの、この一瞬。占いが行われた後、神々は真賢木を根ごと抜いて鏡と勾玉と幣を掛け、祝詞を奉し、天宇受売命が桶を伏せて踏み鳴らして踊る。その騒ぎにつられて天照大御神が岩戸を少し開け、引き出される。つまり太占は、この大作戦の成否を事前に確かめる工程として置かれている。神事を始める前に占って確認する。
この手順は、後の神祇官の実務とも重なっており、もう一つ、魏志倭人伝の記述も触れておこう。倭人の風俗として「骨を灼きて以って吉凶を占う」という意味の一文がある。三世紀の中国人が、列島の人間を見て「こいつらは骨を焼いて占っている」と書き残した。考古学の出土状況とちゃんと重なる。
神話と外国史料と遺物、三方向から同じ風景が見えてくるのはなかなか気持ちがいい。
中国の甲骨占卜と、日本に来てからの変質
亀卜の本家は中国だ。龍山文化のあたりに既に骨を焼く占いがあって、殷代に国家規模で大流行する。このときに甲羅や骨に刻まれたのが甲骨文字で、漢字の最古の姿である。殷の王はとにかく占った。戦争、狩猟、雨ごい、祝祭、王の歯が痛む理由まで占っている。
しかも問いと結果、さらには実際にどうなったかの検証まで刻んでいる。一種の行政文書だ。このシステムが弥生時代のなかごろに、朝鮮半島を経由して列島に入ってきたと見られている。ところが、入ってきたものは丸ごとではなかった。一番大きな違いは、文字が一緒に来なかったことだ。
日本の卜骨・卜甲には一字も文字がなく、占いの技術だけが伝わって、記録するという発想は伝わらなかった。これは大きい。記録がないということは、過去の占例を参照して体系化する回路が閉じているということだ。占いは完全に占者の口伝えと直感に依存することになる。
もう一つの変質は素材だ。中国では亀の甲と牛の肩甲骨が主役だったが、日本では圧倒的に鹿と猪だ。列島には牛が少なく、鹿は山にいくらでもいた。手に入るものでやる。当たり前のことだが、この当たり前の選択が、日本の占いの性格を決めた。
鹿は神の使いとされる動物でもあり、春日大社や鹿島神宮の例を見れば分かるとおりだ。占いの道具として使われていたことと、神の使いとされたことの間に関係があるのかどうかは断定できないが、想像するのは楽しい。さらにもう一つ。中国では漢代には亀卜が衰え始め、唐代には専門の占い官が絶えたとされる。
つまり日本が亀卜を国家儀礼に組み込んでいた律令期には、本家のほうではもう廃れかけていた。輸入した側が本家より長く保存した。このパターンは漢方医学や雅楽などでも見られるもので、日本文化の典型的な振る舞いといえる。
律令国家の占い官庁――神祇官と卜部
大宝律令で国家の形が整うと、占いは制度のなかに組み込まれ、担当は神祇官だ。この官庁は律令体制のなかで奇妙な位置にある。普通の官庁はすべて太政官の下に入るのだが、神祇官だけは太政官と並列に置かれている。形の上では、神を祭ることが政治と同格の重みを持っていたということだ。
その神祇官に属して実際に占いをやっていたのが卜部だ。うらべ、と読む。もともとは職能集団の呼称で、後に氏族名になっていく。中臣氏との関係が深く、後に吉田神道の吉田家や、平野社の卜部家といった家につながっていく。徒然草を書いた吉田兼好も、この系統の人間だ。
占いの専門家が日本史の意外なところに顔を出してくる。卜部が占ったのはどんなことか。神事の日取り、祭祀の場所、怪異の原因。特に重要だったのが怪異の占いだ。宮中で奇妙なことが起きる。
鳥が死んでいた、木が倒れた、地震があった、病が流行った。これらは単なる偶然ではなく、どこかの神が怒っているサインとして受け取られた。ではどの神が、なぜ怒っているのか。これを占って特定するのが卜部の仕事だった。特定されれば、その神に幣を奉じ、祝詞をあげ、場合によっては神階を上げる。
これは実質的に政治を動かす。神の託宣が官位や封戸を動かし、神社の格付けを変え、場合によっては人事にも反映される。平安期の日記類を読むと、怪異があるたびに占いが行われ、その結果に従って実務が動いている様子が分かる。占いの結果をめぐって占い直しが議論されることもあったらしい。占いが政治のインフラだった時代が、確かにあったということだ。
ただし含みもあり、占いの結果は占者の手の中にあるので、政治的な意図が入り込む余地は十分にあっただろう。特定の人物に不利な結果を出す、ということも原理的には可能だ。史料から個別の事例を断定するのは難しいが、制度としてそういう隙を抱えていたことは覚えておいたほうがいい。神意の名のもとで人間の意図が通ることは、いつの時代でもあることだ。
対馬・壱岐・伊豆――三国の卜部という制度
神祇官の卜部は、不思議なことに全国から集められておらず、三つの国からだけ採られている。対馬、壱岐、伊豆。延喜式には人数まで書かれていて、伊豆五人、壱岐五人、対馬十人の合計二十人だ。対馬がだんとつ多い。
なぜこの三国なのか。対馬と壱岐は分かりやすい。大陸との窓口だ。亀卜の技術が海を渡ってきたとき、最初に上陸するのがこの島々だ。実際、最古の卜甲は壱岐から出ている。
伊豆はやや意外だが、先の考古学の話を思い出してほしい。南関東の沿岸部は卜骨の密集地帯だった。伊豆半島もその圏内に入る。つまり律令国家は、弥生以来の占いの伝統が濃い地域を、ちゃんと見抜いて人材供給地に指定している。対馬の伝承では、雷大臣命という神が亀卜を伝えたとされる。
この神は中臣烏賊津使主と同一視される。神功皇后の伝承に登場する人物で、帰途に対馬に留まって技術を伝えたという筋書きになっている。これはもちろん神話的な説明で、史実として受け取るべきものではない。ただ「対馬こそが亀卜の本場だ」という意識が、この島に強くあったことの証拠にはなる。延喜式には、卜部には優秀な者を採用せよ、という意味の条文もある。
つまり調達基準が明文化されている。官僚制のなかで、占いの技能が一つの専門職として評価され、選抜され、中央に上げられていた。島の若者が亀卜の腕を認められて都に呼ばれ、神祇官で天皇の前の占いを担当する。なかなかのキャリアパスだと思う。
亀甲の準備と、波波迦の木
亀卜の実務は、占う前の下準備がやたらと長い。まず素材だ。使うのはウミガメで、中でもアオウミガメの甲羅が用いられてきたとされる。部位は背中側の背甲ではなく、お腹側の腹甲だ。背甲はドーム状に盛り上がっていて平面が取れないが、腹甲はもともと平らで、削れば均一な板になる。
中国の甲骨占卜でも腹甲が主役だったので、ここは共通しており、次に乾燥だ。これが長い。数ヶ月から数年、じっくり乾かすという記録がある。生乾きだと灼いても均一な亀裂が入らないし、臭いもひどいだろう。
乾かしたあと、斧や刃物で平らに整形する。なにしろ大事なのは厚さを揃えることで、厚みにムラがあると割れ方が均一にならない。削りの技術が占いの精度を左右したはずだ。大嘗祭の場合の仕上がりについては、将棋の駒のような五角形に整形されると伝えられている。大きさは縦が二十四センチ前後、横が十五センチ前後、厚さはなんと一ミリ前後。
一ミリだ。カード一枚分しかない。ここまで薄く削るのは相当な技だし、逆に言えばこれくらい薄くないと、灼いてもちゃんと割れてくれないということだろう。現代の実施では、自然死した個体の甲羅を譲り受けたり、べっ甲加工の職人に整形を依頼したりしていると伝えられる。ウミガメは国際的な保護対象なので、このあたりの調達は現代では非常にデリケートな問題になっている。
灼く側の準備が波波迦だ。太占と同じウワミズザクラ。令和の大嘗祭の際にも、この木を採る神事が行われたと伝えられている。占いのための木を採ること自体が一つの神事になっており、この入れ子構造がいい。
道具を作るところからすでに聖なる手続きに入っているということだ。
町形と兆――ひび割れをどう読むのか
ここが亀卜の技術の核心だ。そしてもっとも外部に伝わっていない部分でもあり、町形、まちがたと読む。これは亀甲の上にあらかじめ描かれる区画のことだ。田んぼの「町」と同じ字を使うところが面白い。
平面を区切って、どの区画にひびが入ったかで意味を読む。古い形では実際に方形の溝を彫って町を作り、その中に十字状の灼痕を残したらしい。ところが近世になると、彫るのをやめて墨で町形を書くという簡略化が進む。手間が減った一方で、亀裂の走り方を物理的に誘導する力は弱まったはずだ。灼き方にも順序があった。
江戸期の神祇官系の家に伝わった史料には、甲の下から頭へ、頭から下へ、次に左へ、次に右へ、という意味の記述がある。つまり一発ではなく、何度も場所を変えて灼く。順番が決まっているということは、ひびの入る順序も情報として拾っていた可能性がある。兆、つまりひびの形の読み方については、具体的な規則が公開されていない。これは占者の家に秘伝として伝わったもので、外に出すものではない。
一般に知られているのは、縦の線と横の線の組み合わせで吉凶や方角を判断した、というおおまかなことだけだ。余談だが、「兆」という漢字の形自体が、割れた占いの骨を象ったものとされる。左右に亀裂が走っている形だ。日常で使う「兆し」という言葉の根っこに、焼けた骨があり、もう一つ、地域差も存在する。
宮中や対馬では、町形を描いて部分的に灼く方式が取られた。これに対し東日本の神社で行われてきた鹿占では、骨の全面を灼く方式がとられていたとされる。この全面灼きは考古資料では確認されていないという指摘もある。中世以降に東日本で独自に発達したやり方なのかもしれない。同じ「骨を焼く」という行為のなかにも、地域と時代の層があるということだ。
大嘗祭、斎田点定の儀
現代日本で亀卜がもっとも公然と行われるのが、天皇の代替わりに伴う大嘗祭だ。大嘗祭では、新しい米を神々に供える。その米を作る田んぼを斎田といい、悠紀と主基の二つの地方から選ばれる。この選定を人間が決めないのがミソだ。亀卜で決める。
これを斎田点定の儀という。令和の代替わりの際にも実施され、悠紀は栃木県、主基は京都府から選ばれたと発表されている。この儀式の流れは、外に出ている情報の範囲ではこうなっていると伝えられる。まず事前に波波迦の木を採る神事があり、次に、整形された亀甲を用意する。
当日は宮中の神殿の庭に幕を張って場を作り、掌典職をはじめとする関係者が並ぶ。全国の国名を書いたものを前に、亀甲を灼き、入ったひびの形で国を定める。所要時間は短く、儀式自体は淡々と進むという。面白いのは、この儀式が「完全なランダム」ではないところだ。候補はあらかじめ絞られている。
つまり人間の実務的な準備と、神意の発現とが組み合わさっている。これは古代からの占いの使われ方そのもので、無限の可能性から一つを引き当てるのではない。人間が絞った選択肢のなかで最終決定を神に委ねる。責任の所在を人間の外に置くことで、決定に文句のつけようがなくなる。この機能は、実は現代のくじ引きや抽選と同じだ。
なお、大嘗祭の具体的な次第や亀卜の読み方の細部は非公開である。ここに書いたのは報道や公開資料から知られる範囲にすぎない。実際にどう行われているかは、外部の人間には分からない。
対馬の亀卜――伝承と断絶と復元の試み
対馬は亀卜の本場だった。律令期に十人もの卜部を供給していたのだから、島内には相当数の実践者がいたはずだ。江戸期の記録には、対馬には古い亀卜の法を伝える家が二軒ある、という意味の文が見える。島の南端の豆酘と、北側の佐護。この二つの地域に、代々亀卜を担ってきた家があったと伝えられている。
一つの家で何十代と数えられるという話もあり、事実だとすればとんでもない長さの系譜だ。だが、伝承は断絶した。明治四年の廃藩置県を境に、藩の支援と役職としての位置づけが失われ、亀卜は正式な形では行われなくなったとされる。神事としての枠は残ったが、具体的な亀卜の次第は廃れてしまったという。こののち、地元では神事の形だけが継承される状態が長く続いたと伝えられている。
とはいえ対馬の亀卜習俗は、現在も文化財として位置づけられ、日本遺産の構成文化財にも含まれている。旧暦一月三日に行われる祭りのなかに、亀卜に由来する次第が伝えられているとされる。国の重要無形民俗文化財に指定されている。神事の実態や、古代の技法がどの程度残っているのかについては、外部からは判断できない。伝承の中身は、やはり秘められている。
復元の試みもある。学術的な面では、残された古文書や宮中の儀礼の記録を突き合わせて、かつての作法を再構成する研究が続いている。地元でも、失われた次第を可能な範囲で取り戻そうとする動きがあったと伝えられる。ただし一度切れた技能の鎖を、文献だけでつなぎ直すのは相当に難しい。灼く手の力加減や、甲を当てる角度や、亀裂が入る瞬間の音の聞き分けなどは、文字にならない知識だからだ。
衰退、そして生き残った太占
平安期までは、重大事には亀卜が使われていた。ところが中世に向かうにつれて、この術は後退していく。理由はいくつか考えられ、一つは、陰陽道の台頭だ。安倍晴明で知られる陰陽寮の系統が、占いと占星と暦を一手に引き受けるようになる。
彼らが使うのは式盤や易で、亀を焼かなくてもいい。手間とコストで圧倒的に有利だ。二つ目は、仏教の浸透だ。対処法としての修法や祈祷が体系化され、祟りを取り除く手段が増える。三つ目は単純に、コストだ。
ウミガメの甲羅を離島から取り寄せ、何年も乾かし、職人が削る。一回の占いのためにかかる手間が良心的ではない。占いの実務は、やがて吉田家など特定の家の家業に囲い込まれていく。囲い込まれるというのは、保存されるということでもあり、神秘化されて実用性を失うということでもある。鎖国的になった技術は、改良されなくなる。
ところが、古いはずの太占のほうが、地方でしぶとく生き残った。これが面白い。現在、鹿の肩甲骨を使う占い神事を伝えているのは二社だとされる。東京都青梅市の武蔵御嶽神社と、群馬県富岡市の一之宮貫前神社だ。どちらも山のある地域で、中央の儀礼の圏からはやや離れている。
武蔵御嶽神社では、毎年一月三日の早朝に太占祭が行われていると伝えられる。前日の夕方から関係者が斎宿に入り、翌日未明に雄鹿の肩甲骨を灼いて占う。占うのはその年の農作物の作柄で、早稲、晩稲、あわ、きび、じゃがいも、人参など二十種類以上に及ぶという。結果は豊作を十とする十段階で表され、一覧表が作られて頒布される。祝詞を三度奉する間に灼く、という手順も伝えられている。
ただし神事の中身は秘事とされ、一般には公開されていない。貫前神社の鹿占習俗も、県の重要無形民俗文化財に指定されているとされる。一年の農作と天候を占う点では共通している。共に、もともとは共同体の年のはじめの行事だったものが、神社の祭礼として固定されて残ったと見ることができる。宮中では寿命を縮めた亀卜が、山あいの神社では鹿の骨として何百年もしぶとく続いていた。
中心と周辺の逆転現象として、なかなか示唆的だと思う。
見学記・体験談を三つ
ここからは、この手の神事に関わった人から聞いた話を三つ紹介したい。いずれも本人の了承を得て、個人が特定されない形にしてあり、地名や日付もぼかしてある。一つ目。関東の山の神社の太占神事を、境内の外から待っていたという四十代の男性の話。
正月の三日、まだ真っ暗なうちにケーブルカーを降り、凍てつく参道を登った。神事自体は非公開だから、見られるはずはない。それでも行った。境内は気配があって、どこかで人が動いていることだけは分かる。何も見えないし、説明もない。
ただ、風が止まった瞬間に、遠くから一瞬だけ何かがはじけるような高い音が聞こえた気がしたという。気のせいかもしれないと本人も言っていた。だがそのあと、午後になって公表された作柄の一覧表を手に取ったときの感覚が忘れられないと語っていた。紙には作物の名前がずらりと並んでいて、それぞれに数字が振られている。この数字は、さっきの暗闇のなかで骨に入ったヒビから出てきている。
この回路の奇妙さに、しばらく立ち尽くしたという。彼は神を信じていないと言う。でも、何百年も同じ日に同じことをやってきた人間の連なりの端っこに、いま自分が立っているということは分かる、と。二つ目。学生時代に考古学の発掘調査に参加して、卜骨を実際に手にしたという五十代の女性の話。
場所は海に近い遺跡だった。ブラシで土を払っていたら、白っぽい片が出てきた。最初は貝の片かと思ったのだ。だが先生が見て、これは鹿の肩甲骨だと言った。ひっくり返すと、直径数ミリの丸い焦げ痕がいくつも並んでいた。
規則正しく、まるでパンチで穴を開けたように。彼女はそのとき初めて、これをやった人間の手の動きを具体的に想像したという。二千年前のだれかが、この骨を膝の上にのせて、灼けた棒を押し当てていた。何を知りたかったのかは分からず、でも、リズムがあったことだけは骨に残っている。
人間は困ったときに、こういうことをする生き物なんだなと、土の上で思ったと。以来、彼女は占いを色眼鏡で見ないと言っていた。三つ目。国境の島に、亀卜の伝承を探しに行ったという三十代の男性の話。彼は占い好きで、文献で読んだ地名を方々回った。
だが、行ってみると何もない。小さな社があって、波の音がして、にわとりが歩いている。亀卜の「スポット」を期待していた彼は、正直拍子抜けしたという。地元の年配の方に話を聞いたところ、「そういうのは昔はやっとったらしいねえ」という程度の反応しか返ってこなかった。取りつく島もなかったそうだ。
だが帰りの船を待ちながら、彼は逆に納得したと言っていた。神事というのは、見世物ではなく、その土地で暮らす人間が、必要だからやってきただけだ。必要がなくなれば終わる。終わったことを情けないと思うのは外の人間の勝手だ、と。
彼はそれ以来、民俗を探しに行くときの態度が変わったと話していた。
なぜ骨を焼けば神意が分かると思ったのか、そして懐疑論
最後に、一番大事な問いに向き合いたい。なぜ骨を焼くと神の意思が分かる、と人間は考えたのか。いくつかの答え方があり、一つは、結果を人間がコントロールできないからだ。これは重要なポイントだ。
骨の内部には目に見えない密度のムラや微小な亀裂があり、どこから割れるかは予測できない。しかも一瞬で起きる。人間の意志が入り込む隙がなく、だからこそ、人間以外の何かが決めたと見なせる。占いの道具が満たすべき条件は、不確実性ではなく「操作不能性」なんだよな。
二つ目は、不可逆性だ。骨は一度割れたら戻らない。コイントスなら何度でもやり直せるが、亀甲を一枚灼くのには何年もの下準備が必要だ。やり直しが実質不可能な手続きは、それ自体が決定の重さを保証する。三つ目は、声と進行の演出効果だ。
静まり返った場で、見守る人間が息をつめているなか、突然パキッと高い音が鳴る。この体験は、サイコロを振るのとは重みが違う。神が答えた、と感じさせるには十分な演出だ。四つ目は、命の代償だ。これは少し重い話になる。
占いのためには、もともと生きていた動物の体の一部が必要になる。古代において、命は神と人をつなぐもっとも高価な媒介だった。王や共同体が重大な判断をするときに、それなりの代価を支払うという形式が伴っていた。この発想は現代の感覚とは相容れないし、ここで手順を描写するつもりもない。ただ、占いという行為がもともとコストを前提にしていたことは、理解しておいたほうがいい。
さて、懐疑論だ。冷静に見れば、骨の亀裂は熱応力の結果でしかない。コラーゲンを含む骨組織が急激な加熱で収縮し、内部応力が材料強度を上回ったところから破壊が走る。ひびの方向は、骨の繊維の向きと厚みの分布で決まる。将来の米の出来とも、神の意思とも、何の因果関係もない。
ここははっきり書いておくべきだろう。さらに、読みの側にも問題があり、多くの作物について十段階で予想を出せば、統計的にいくつかは当たる。外れたものは忘れられ、当たったものは語り継がれる。しかも農作物の作柄は、その地域の土壌や気候の傾向である程度予測できるものでもある。
何十年も同じ土地を見てきた人間が占うのだから、骨を見なくてもある程度の見当はついているはずだ。ひびの読みに、その見当が混ざる余地はいくらでもあり、それでもこの神事が何百年も続いてきたのはなぜか。自分は、占いの価値が予測の精度にはなかったからだと思う。村の人間が正月に集まり、同じ情報を共有し、今年はジャガイモがいいらしいと話し合う。
それだけで作付けの分散が起きるし、決めるのに消耗するエネルギーが減る。だれかの意見ではなく骨が決めたのだから、しこりも残らず、このコーディネーション機能は、本当に有用だ。占いを信じるかどうかとは別に、共同体の道具としてはちゃんと働いていたということだ。
ここまで、太占と亀卜を神話・考古・制度・民俗・懐疑論と広げて見てきた。最後に、全体をもう一度編み直しておきたい。この占いの歴史を一本の線で見ると、「中心への集中と、周辺での存続」というパターンがはっきり見えてくる。もともとは列島のあちこちで、漁師も農民も鹿の骨を焼いていた。これが律令国家の成立で一気に中央集権化される。
亀卜という先進技術が導入され、対馬・壱岐・伊豆から人材が集められる。神祇官という官庁のなかで占うことが専門職になり、この段階で、占いは共同体のものから国家のものになった。だが中央に集められたものは、中央が揺らぐと一緒に揺らぐ。律令体制が崩れ、陰陽道や仏教に市場を奪われ、占いは特定の家の家業に囲い込まれていく。
対馬では藩の制度が支えていたからこそ近世まで持ちこたえて、その藩がなくなった途端に伝承が切れた。制度に支えられた技術は、制度と一心同体に死ぬ。一方で、制度に拾われなかった側はどうなったか。鹿の骨を焼く古いやり方は、宮中では亀卜に取って代わられ、古風なものとして後景に退いた。ところが山あいの神社では、国家が何をしようと関係なく、毎年同じ日に同じことが繰り返された。
地元の人間が今年の作付けを決めるために必要だったからだ。必要なものは残る。前線ではなくなったのに、いやむしろ前線でなくなったからこそ、誰にも奪われずに残った。この逆転は、民俗を考えるうえで何度も出てくるテーマだ。もう一つ掘り下げておきたいのは、「文字がない」ということの意味だ。
中国の甲骨には文字があり、日本の卜骨にはない。この違いは単に「未発達だった」と説明されがちだが、もう少し考える余地がある。文字を刻むというのは、占いの結果を後代に残し、検証可能にする行為だ。殷の王は自分の占いをアーカイブし、後から見返せるようにしていた。これは一種の官僚制的な発想であり、占いを行政プロセスに組み込むためのインフラだ。
逆に日本の占いは、その場で完結し、骨が割れ、読みが語られ、それで終わり。骨はなんの記録も背負わず、これは弱さでもあるが、別の見方もできる。記録されない占いは、後から責められない。
当たったか外れたかは、その場にいた人間の記憶にしか残らない。共同体の内部で合意を作るための道具としては、むしろこのほうが都合がいい。国家の占いと村の占いは、求められる機能が違う。同じ「骨を焼く」行為でも、それが埋め込まれている社会の形によって、必要とされる付属装置が変わる。神意と人間の意図の境界についても、もう少し書いておく。
大嘗祭の斎田点定のところで触れたとおり、占いによる決定は完全なランダムではない。人間があらかじめ選択肢を絞り、その中から神が選ぶ。この二段構えは、占いという制度の核心だと思う。人間の都合を完全に排除するなら、そもそも占う必要がない。逆に人間の都合だけで決めるなら、神を持ち出す意味がない。
両方を半々に混ぜることで、「人が準備した選択肢を、人以外が確定する」という状態が作られる。これは弱く見えて、実は非常に強い仕組みだ。決定に対する反発を吸収しつつ、現実的な結果を担保し、最後に、このテーマに近づくときの態度について。太占も亀卜も、現在も実際に行われている神事だ。
しかもその多くが非公開で、中身は外に出ない。これを「隔てられている」と感じるか、「守られている」と感じるかで、この世界の見え方はかなり変わる。自分は後者でいたいと思っている。公開されていないことを推測で埋めて、さも真実のように語るのは、やっている人への敬意を欠く。分からないところは分からないまま置いておく。
そのうえで、公開されている史料と、土の下から出てきた骨と、現地で聞いた話をつないで想像する。それがこの手のテーマの正しい楽しみ方だと思う。二千年前、海辺のムラのだれかが、明日海に出ていいかどうかを知りたくて、鹿の骨を火にかざしていた。その人の名前も、問いの中身も、結果も、何一つ伝わっていない。伝わっているのは、黒い丸い焦げ痕が並んだ白っぽい骨の片だけだ。
だがその焦げ痕は、人間が先のことを知りたいと思ってしまう生き物だという事実を、これ以上ないくらい直接に伝えてくる。占いが当たるかどうかなんて、その切実さの前ではどうでもいいことなのかもしれない。
