古代中国の宮廷には、不思議な技を身につけた者たちが出入りしていた。彼らは星を読み、雲の形から吉凶を占い、丹砂を炉にかけて不老不死の薬を練っていた。あるいは病人の脈を取って薬方を処方していたのだ。彼らは「方士(ほうし)」と呼ばれ、その身につけた技術の総体は「方術(ほうじゅつ)」と称された。
方術には、神仙となって不老不死を得る術、天地の気を読んで吉凶を占う術があった。病を治す医術や、丹薬を練る錬丹術もそこに含まれたのだ。これらは今日の目から見れば占い・宗教・医学・化学と全く異なる分野に見える。だが古代中国では、これらは一つの言葉のもとに緩やかに束ねられていたのだ。「一定の方角・方法(方)に従って行う技(術)」という言葉である。
本稿では、この方術という広大で捉えどころのない体系がどのように成立し、どのような思想を背景に発展する。
日本にどう伝わったのかを丹念にたどる。そのうえで後半では、実際に今日でも実践できる形で伝えられている技法を、できる限り具体的な手順に即して紹介する。取り上げるのは導引術、辟穀、房中術の思想、卜占、望気、招福除災の符呪などである。なお本稿で扱う方術は、あくまで古代から伝わる伝統文化・民俗信仰としての技法というわけだ。疾病の治療や診断を保証するものではない。
また特定の個人に不幸や害をもたらすことを目的とした呪詛の類は一切扱わない。実践に際しては、あくまで自己の心身を調えるものとして向き合っていただきたい。日々の暮らしに小さな彩りと安心をもたらす民俗的な作法である。
方術とは何か――「方士」という階級と「わざの体系」
方術という言葉を字義通りに解けば、「方(ほう)」は方法・処方・方角を、「術」はわざ・技術を意味する。つまり方術とは本来、「一定の手順や理に従って事を為す技術」という、きわめて広い射程を持つ言葉であった。実際、『荘子』天下篇において「方術」は、天下に散らばった諸子百家の学問すべてを指して用いられている。必ずしも神秘的な術だけを意味する言葉ではなかった。
ところが戦国時代から秦漢にかけて、燕・斉の沿海地方を中心に、不老不死の仙人になることを説く者たちが現れる。彼らは神仙の住む蓬莱・方丈・瀛州の三神山への渡航を献策する。あるいは天文・暦法・占筮・医術・房中の秘技を身につけた特異な知識人集団が現れる。すると「方術」という言葉は次第にこの神仙・術数系の技芸を指す語として意味を狭めていった。この技を担った者たちが「方士」である。
方士は、儒者のように経典を講じることを本業とはしなかった。かといって単なる呪術師や巫祝(ふしゅく、シャーマン的な祭祀者)とも一線を画す、独特の存在であった。彼らは天文・暦数・医薬・錬丹といった当時の最先端の実学的知識を持ち合わせていたのだ。同時に神仙思想という壮大な宗教的世界観を背負っていたのだ。
歴史学者の顧頡剛が指摘したように、方士たちの活動の中心には「神仙となって不老不死を得る」という一点がある。
そのための手段として、薬物・丹砂・導引・呼吸・房中・祭祀・占術といった多様な技芸が動員された。つまり方術は、雑多な技術の寄せ集めというよりも、「不老不死・神仙」という一つの究極目標に向けて編成されていた。当時としては極めて体系的な知の総体だったのである。
起源をたどる――戦国斉の方士たちと始皇帝、そして徐福伝説
方術の担い手である方士の集団が歴史の表舞台にはっきりと姿を現す時期がある。それは戦国時代末期、渤海に面した燕・斉の地においてであったとされる。この地域では古くから、海上遥かに浮かぶ蓬莱・方丈・瀛州という三つの神山に不老不死の仙人が住むとされていた。そこには死者を蘇らせ人を不老不死にする霊薬があるという伝説も語り継がれていた。
斉の威王・宣王、燕の昭王といった諸侯たちは、この伝説に強く心を動かされる。
方士たちを重用して神山への使者を派遣したと『史記』封禅書は伝えている。この流れを決定的な形で歴史に刻んだのが、中国を統一した秦の始皇帝というわけだ。始皇帝は天下統一の偉業を成し遂げた後、死への恐怖と権力への執着を抱えた。そこから不老不死の探求に異常なまでの情熱を注ぐようになった。その象徴的な人物が方士・徐福である。
『史記』秦始皇本紀によれば、徐福は始皇帝に上書し、東方の海上に三神山がある。
そこには仙人が住んで不死の薬を持っていると説いた。始皇帝はこれを信じた。数千人の童男童女、五穀の種、百工(さまざまな職人)を伴わせて徐福を東方へ船出させたと伝えられる。しかし徐福は三神山に到達できなかった。あるいは最初から霊薬など存在しないことを知っていたのかもしれない。
莫大な財と人員を得るための方便として神仙譚を利用したのではないかとも疑われている。
結局徐福は秦に戻ることなく、「平原広沢」を得てそこに留まり王となったと『史記』は記している。後世この徐福が日本列島に漂着したとする伝説が各地に残ることとなった。始皇帝自身は、方士・盧生らの進言に従って自らの居所を秘匿し「真人」と自称するなど神仙思想に深く傾倒した。ただ、結局不老不死の薬を得ることなく、東方巡幸の途上で客死したのだ。
前漢武帝と方士たち――李少君・少翁・欒大の栄光と没落
方士の活動がもう一つの頂点を迎えるのが、前漢の武帝の治世である。武帝もまた始皇帝と同様、不老不死と神仙への渇望を強く抱いた皇帝であった。方士・李少君は竈神を祀って穀物を絶ち、丹砂を黄金に変える術を体得したと称して武帝に取り入った。少翁は死んだ王夫人の姿を幻術によって夜な夜な武帝の前に現出させたと伝えられる。
さらに欒大は、五利将軍・天道将軍といった仰々しい将軍号と印綬を次々に授けられるほどの寵愛を受けた。だがいずれも約束した神仙との交信や不死の薬の獲得を果たせなかった。少翁と欒大は最終的に処刑されるという末路をたどったのだ。この一連の逸話は『史記』封禅書に詳しく記されている。
方術は権力者の欲望と結びつくことで栄華を極めた。同時に、実効性を伴わない場合には激しい粛清の対象ともなった。方士という存在の危うさを如実に物語っている。
『史記』日者列伝・亀策列伝と方術の記録化
方術・方士のありようを知るうえで欠かせないのが、司馬遷『史記』における記録だ。日者列伝は占いを職業とする者たちを扱い、亀策列伝は亀甲や蓍草(めどぎ)による占いの由来と実践を詳述する。この二篇は、方術の一分野である卜占(ぼくせん)の実態を伝える最古級のまとまった史料である。
日者列伝には、庶民のために市井で占いを行う卜者・司馬季主の逸話が描かれている。儒者である宋忠・賈誼が彼を訪ね、その学識の深さと処世観に感服する様子が記されている。ここからうかがえるのは、方術の担い手が必ずしも宮廷の高官だけではないことだ。市井にあって民衆の求めに応じる存在でもあった。
方術から方技へ――『後漢書』方術伝と『魏志』方技伝の変化
方術という語の内実は、後漢から三国時代にかけて微妙な変化を遂げる。范曄『後漢書』には「方術伝」が立てられる。天文・暦算・占候・讖緯(しんい、予言的な経典解釈)に通じた人物がいる。神異な奇跡を行ったとされる術者たちの伝も集められている。ここでの方術は、しばしば王朝の吉凶や革命に関わる予言的知識として、政治的な重みを帯びていた。
一方、陳寿『三国志』魏志には「方技伝」が立てられる。
名医・華佗、卜占の名手・管輅(かんろ)、方術と医薬に通じた人物たちの事績が記録されている。
研究者の間では、この「方術」から「方技」への呼称の変化は、単なる言葉の言い換えにとどまらないと指摘されている。それは、国家の命運を左右するような神秘的・予言的な性格の強い術数(方術)からの移行だった。向かった先は、個人の病を治し身の回りの吉凶を判断する技能である。より実務的・経験的な技能(方技)へと、術のあり方そのものが移り変わっていった。
この過程で、古代医学は呪術的な色彩の強さを徐々に失っていった。脈診・薬方・鍼灸といった経験の蓄積に基づく体系へと姿を変えていったのだ。
葛洪と『抱朴子』――神仙思想の体系化
方術の思想的な集大成として特筆すべきが、東晋の道士・葛洪(かっこう)が著した『抱朴子』である。内篇と外篇からなるこの書のうち、内篇は神仙の実在を論証する。不老不死を得るための具体的な方法を詳細に論じたものとして知られる。
葛洪は、神仙になるための方術を多岐にわたるものとして整理する。「金丹(きんたん)」「服餌(ふくじ、薬草や鉱物の服用)」「導引」がそこに並ぶ。さらに「行気(呼吸法)」「房中」「符箓(ふろく、護符)」なども含まれる。なかでも丹砂を練って作る金丹こそが最上の道であると説いた。
黄金は火に投じても百たび錬っても消え失せない。その不朽の性質を体内に取り込むことで人もまた不朽の存在になれる。こうした思想は、後の錬丹術の理論的な核となった。同時に葛洪は、方術を単なる迷信としてではない。実際に効果を検証しうる体系的な「学」として位置づけようとした。
神仙は誰もが正しい修行によって到達しうる存在だと説いた。この点に大きな特徴がある。
『抱朴子』はまた、当時流布していたさまざまな方術書・仙薬のリストを載せる。まがい物の方士を見分ける基準についても言及している。方術という営みが古代においてすでに玉石混交の状態にあったことをうかがわせる。
方術の分類――山・医・命・相・卜という「五術」
方術という広大な体系を整理する枠組みが、後世の道家・術家の間で用いられてきた。それが「山・医・命・相・卜」という五つの分類、いわゆる「五術」である。「山」は、仙道の修練によって心身を鍛え、悟りや長寿を得ようとする実践を指す。導引・吐納(呼吸法)・辟穀(穀断ち)・房中がここに含まれる。存思(内観瞑想)・霊符・呪禁など、身体と精神に直接働きかける技法群もそこに並ぶ。
「医」は、脈診や薬方に基づく治療技術(経方・医経)を指す。後の中国医学(中医学)へとつながっていく実務的な分野というわけだ。「命」は、生まれた年月日時の干支をもとに人の運命を読み解く技術で、後世の四柱推命や紫微斗数がこれにあたる。「相」は、人相・手相・家相・墓相など、目に見える形から吉凶を判断する技術である。
「卜」は、亀甲やめどぎ、銅銭、あるいはタロットのような道具を用いる。その場その場の問いに対する答えを得る占術を指す。易占や断易がその代表である。
命術・相術・卜術については、当データベースの既存記事がある。「占い(命術)」「占い(相術)」「占い(卜術)」で詳しく扱われている。そのため、本稿ではあくまで方術全体の枠組みの中での位置づけにとどめる。後段の実践パートでは主に「山」の分野に重点を置いて紹介する。導引・辟穀・房中術の思想、および方士に特徴的だった卜占・望気・符呪の実践がそれにあたる。
錬丹術――外丹から内丹への転回
方術の中でも特に不老不死への渇望を象徴するのが錬丹術である。漢代に萌芽したこの技術は、「外丹(がいたん)」として発展する。丹砂(硫化水銀)や鉛、水銀といった鉱物を炉にかけ、加熱や化合を繰り返す。そうして「金丹」と呼ばれる仙薬を精製しようとする技術である。東晋の葛洪によって理論的に大成された。
唐代には皇帝までもがこぞって金丹を服用する。
その隆盛は頂点を迎えた。だが実際には水銀を含む丹薬の慢性中毒によって、複数の唐代皇帝が命を落とす結果を招いたとされる。この痛ましい経験の蓄積を経て、宋代以降、方術の重心は外部の鉱物に頼る外丹から次第に離れていった。代わりに重んじられたのが「内丹(ないたん)」である。自らの身体そのものを「炉」に見立て、体内の精・気・神を練り上げていく道へと移っていった。
内丹術は、丹田を鼎(かなえ)に見立てて気を巡らせるという理論構造を持つ。
この考え方はのちの気功における「小周天」などの実践理論に色濃く受け継がれている。錬丹術および内丹の具体的な理論と実践については、当データベースの既存記事「気功とは何か」でも詳しく扱っている。そのため、あわせて参照されたい。
日本への伝来と陰陽道への影響
方術は、五世紀から六世紀にかけて、仏教・儒教とともに朝鮮半島経由で日本列島へも流入したと考えられている。天文・暦数・占筮といった中国由来の学問技術は、当初は渡来系の僧侶や技術者によって担われた。七世紀後半になると、これらは陰陽寮という国家機関のもとで組織化される。俗人の陰陽師が活躍するようになった。この過程で成立した日本独自の呪術・占術体系が「陰陽道」というわけだ。
陰陽道は、中国の陰陽五行思想や道教の方術から多くの要素を色濃く取り入れた。方角の吉凶を判じる「方違(かたたがえ)」、忌むべき日や方角を避ける「物忌(ものいみ)」がある。道教的な祭祀である泰山府君祭、そして呪術的な足の運び方である「反閇(へんばい)」もそこに含まれる。
反閇は、中国の方士や道士が邪気を払い大地の霊威を鎮めるために行ったとされる「禹歩(うほ)」を起源とする。禹歩は、伝説上の聖王・禹が治水事業の際に足を痛めたことに由来するという特殊な歩き方である。日本では天皇の即位式や貴人の外出に際して、陰陽師が呪文を唱えながら特定の順序で足を踏みしめた。道中の安全を祈願する儀礼として定着した。
このように、方術は単に個別の技法として輸入されただけではない。日本の宮廷儀礼や民俗信仰の基層に深く組み込まれていった。今日の神社の祭祀作法や、方位除け・厄除けといった民間信仰の随所に、その名残をとどめている。
具体的な実践方法
ここからは、方術に含まれる技法のうち、今日でも比較的安全に、かつ具体的な形で伝えられている実践を紹介する。いずれも古代中国の方士たちが体系化する。後世の道家・道教、あるいは日本の民間信仰の中で受け継がれてきたものである。実際に個人の健康法・民俗行事として今も紹介され続けているものを横断的にまとめた。
導引術――気血を「導き引く」体操法
導引術は、身体を伸ばしたり曲げたり、あるいは動物の動きを模したりすることだ。体内の気血の巡りを「導き引く」とされる古代の身体技法であり、方術の「山」の分野の中核をなす実践である。1973年に発掘された馬王堆漢墓の帛書「導引図」には、四十種類以上の姿勢が彩色で描かれている。後世の気功・太極拳の源流の一つとされる。
基本的な実践としては、静かな場所で足を肩幅程度に開いて立つ。両膝をわずかに緩め、背筋を無理なく伸ばす。そのうえで両腕をゆっくりと大きく開閉させながら、鼻からの呼吸に動作を合わせていく。手を天に向かって伸び上がるように上げながら息を吸う。そこから体を左右に伸ばしながらゆっくりと息を吐く。
この単純な動作の反復から始めるのが、初心者にも取り組みやすいとされる。
導引術そのものの詳細な功法には、站樁功・八段錦・五禽戯・六字訣などがある。これらについては、当データベースの既存記事「気功とは何か」でより詳しく解説している。そのため、本稿では方術全体の中での位置づけの確認にとどめる。
辟穀――穀物を断ち仙気を養う
辟穀(へきこく)は、文字通り「穀物を避ける」ことを意味する。日常の穀類の摂取を断つことで体内の濁った気を除き、仙人となるための清浄な体質を得ようとする方術というわけだ。穀物を消化する過程では、体内に「三尸(さんし)」という害虫のような存在が生じるとされる。古代の方士たちは、これを絶つために穀断ちを行ったと伝えられる。
伝統的な辟穀では、松の実・胡麻・棗(なつめ)といった木の実や、山中に自生する薬草を少量ずつ摂った。そのうえで数日から長い場合は数十日にわたって米や麦などの主食を断った。専門知識と段階的な準備を要する高度な養生法であったのだ。
現代においては、こうした本格的な辟穀は身体への負担が大きい。専門家の指導なしに安易に試みるべきではない。その思想を踏まえた簡易な取り組みもある。月に一度、日中の食事を野菜スープや白湯を中心とした軽いものに置き換える形である。体を労わる「胃腸を休める日」を設け、辟穀の精神を穏やかに取り入れている実践者もいる。
いずれにせよ、長期間の絶食や極端な食事制限は健康を害する危険がある。そのため、実践する場合は必ず無理のない範囲にとどめ、体調に異変を感じた場合はただちに中止する。必要であれば医師に相談することが欠かせない。
房中術――陰陽の調和による養生の思想
房中術は、男女の交わりを陰陽の気の調和として捉える。節度をもって行うことで心身の健康と長寿を得ようとする、方術の中でも特異な位置を占める分野である。房中術は『易経』に由来する陰陽思想を土台とし、男を陽、女を陰と位置づける。両者の気の交流が自然の理にかなった形で行われれば、心身の調和と長生きにつながる。この考え方が、房中術の根本にある。
前漢の墓から出土した文献『合陰陽』『天下至道談』などから、その起源は戦国時代にまで遡ると考えられている。唐代の医家・孫思邈は、著書『千金要方』の中でこう述べる。房中の道は特に四十歳を過ぎた者の健康維持に欠かせないものだと位置づけた。もっとも、宋代以降、儒教の理学(朱子学)が禁欲的な思想を強めていく。「天理を存し人欲を滅す」という考えである。
すると房中術は淫らな技巧として貶められる。多くの文献が散逸することとなった。
今日にその内実を伝えるのは、平安期の医学書『医心方』の「房内篇」に引用された断片である。『医心方』は遣唐使の時代に日本へ伝わった知識をもとに編まれ、『素女経』『洞玄子』などを引く。本来の房中術が単なる技巧の指南ではなく、節度と養生を重んじる思想であったことを物語っている。本稿では、その歴史的な思想背景の紹介にとどめ、具体的な性技法の詳述は行わない。
卜占技法――亀甲・蓍草から易占へ
方術の中で最も広く庶民にも親しまれてきたのが卜占だ。古代の卜占の中心にあったのは、「亀卜(きぼく)」と「筮(ぜい)」の二つであった。亀卜は、亀の甲羅を火で炙り、そこに生じたひび割れの形から吉凶を読む。筮は、蓍草(めどぎ、後には筮竹)を操作して卦を立てる。『史記』亀策列伝には、亀甲を灼く際の詳細な作法や、吉凶を判じる際の言い伝えが記録されている。
今日でも簡易に体験できる形としては、三枚の硬貨を使う「擲銭法(てきせんほう)」がよく知られている。これは、まず静かに心を落ち着けて占いたい事柄を思い浮かべる。そのうえで三枚の同じ硬貨を両手で包み込むように振り、机の上に投げ落とす。表を陽、裏を陰として、出た組み合わせによって「老陽」「少陰」「少陽」「老陰」のいずれかを判定する。
これを六回繰り返して下から上へ積み上げることで六十四卦のうちの一卦を立てる、という手順を踏む。得られた卦の意味を『易経』の卦辞・爻辞に照らして読み解くことだ。目下の問いに対する示唆を得るのが易占の基本的な流れである。
望気術――雲気を読み天地の兆しを察する
望気(ぼうき)は、方術に特有の観察技法である。空にたなびく雲や靄の色・形・動きから、遠方の軍勢の動静や土地に宿る運気、あるいは人物の吉凶を読み取ろうとする。『史記』などの史書には、方士が「東南に天子の気あり」といった形で雲気を読む場面がある。権力者の運命や戦の趨勢を占ったとする逸話がしばしば見られる。
この望気の伝統は、後世、より実務的な知恵にも姿を変えて受け継がれていった。天候の変化を経験則から読み解く「観天望気」がそれである。
実践としては、早朝または夕暮れ時、空気の澄んだ場所に立つ。東西南北それぞれの空に立ちのぼる雲の色や形を、しばらく静かに眺める。赤みを帯びた雲は喜びごとの兆し、黒く低く垂れこめた雲は障りの兆し、といった伝統的な見立てを参考にする。そのうえで自らの直感と照らし合わせて記録していく方法が、現代の実践者の間でも民俗的な習わしとして行われている。
招福除災の符呪――護符を書き、身を祓う
方術の中でも特に民間に広く根を下ろしたのが、護符(符箓)を用いた招福除災の技法である。葛洪は『抱朴子』の中で符箓を神仙術の一部として位置づけた。それ以来、道士たちは朱墨で特殊な図形や文字を紙に描いてきた。そしてこれを身につけたり住居に貼ったりするのだ。邪気を祓い福を招く力があるとしてきた。
護符の末尾には、しばしば「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」という一句が記される。これは「律令のように速やかに事を成し遂げよ」という意味の命令文というわけだ。漢代の行政文書の決まり文句に由来するとされる、方術由来の符呪に共通する定型句として知られている。この符箓の文化は、平安期の日本にも伝わり、鎮宅霊符や陰陽道の護符として独自の発展を遂げた。
当データベースの既存記事「霊符とは何か」「鎮宅とは何か」でも、この系譜を詳しく扱っている。あわせて参照されたい。
ここでは、これまで紹介してきた方術の諸要素を一つにまとめた儀式を紹介する。組み合わせるのは、望気による兆しの観察、禹歩に由来する反閇の歩法、そして招福除災の符箓である。この儀式は、特定の人物に害をなすことを目的としたものではない。あくまで自分自身の身を祓い清め、日々の暮らしに福を招き入れることを目的とした、自己防御・浄化のための作法である。
①用意するもの
・半紙または白い無地の和紙を一枚(なければ白いコピー用紙でも代用可)。・筆と朱色の墨、あるいは朱色や赤色の細字ペン、・盛り塩用の粗塩をひとつまみ、白い小皿。・清めのための白湯または塩水を入れた湯呑み一つ。・耐熱性の小皿または灰皿(後述の焚き上げ用)。
・マッチまたはライター、・可能であれば榊や松の小枝など、常緑の葉を一枝。
②行う日時・方角・回数
伝統的に方術の儀礼は、陽の気が満ち始める早朝に行うのが良いとされる。日の出前後の「卯の刻」、おおむね午前五時から七時頃である。これは、望気の実践と同様、空気が澄み、心身の雑念が少ない時間帯を選ぶという考え方に基づく。方角は東(陽の気が生まれる方角)または自分にとっての吉方位に向かって行う。月の満ち欠けでいえば新月から満月に向かう「上弦」の時期に行うのが望ましいとされる。
動作の回数は、北斗七星にちなんで「七」を基本単位とし、後述する反閇の歩みや呪文の唱えも七回を一区切りとして行う。
③唱える言葉(全文)
儀式の中で唱える言葉は、以下の通りである。「謹み請う、東方青龍、南方朱雀、西方白虎、北方玄武、中央后土。天地の正気、我が身に満ち、濁れる気は退き、清き福は来たれ。祓いたまえ清めたまえ、災いは遠く去り、幸いは近く寄れ。急急如律令。
」この一節は、方術・道教で東西南北を守護するとされる四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)に呼びかける。あわせて中央を司るとされる土地の神(后土)にも呼びかける。自らの身に天地の正しい気が満ちること、濁った気や災いが遠ざかり、福が近づくことを願う内容になっている。最後の「急急如律令」は、前述の通り符呪の結びに用いられる伝統的な定型句である。
④動作の流れ
まず儀式を行う場所を静かに整え、盛り塩を部屋の入口や儀式を行う場所の外側に軽くひとつまみ撒いて、場を清める。次に湯呑みの白湯または塩水を一口含み、心身の内側を清めるつもりで静かに飲み下す。続いて、用意した半紙を目の前に置き、朱墨または朱色のペンで、紙の中央に大きく「福」の一字を書く。
その周囲を囲むように、右上に「東」、右下に「南」、左下に「西」、左上に「北」と四方の文字を小さく書き添える。最後に紙の下部に「急急如律令」と書き記す。この符を両手で捧げ持ち、目を閉じて先に紹介した唱え言葉を、静かにはっきりとした声で一度唱える。符を文机や台の上に置いたら、次に禹歩に由来する足の運びを行う。両足を揃えて立ち、まず左足を一歩前に出し、右足をその横に引き寄せて揃える。
続いて右足を一歩前に出し、左足を引き寄せて揃える。この「左・右・揃える」を一区切りとし、これを三回、合計九歩を基本とする。本儀式では先の唱え言葉をもう一度、歩みに合わせてゆっくりと七回唱える。そうしながら、同じ場でこの足の運びを七回繰り返す。急がず、一歩一歩を地面にしっかりと踏みしめる意識で行うのが要点であり、勢いよく踏み鳴らす必要はない。
七回の反復を終えたら、その場に静かに立ち止まる。両手を胸の前で軽く合わせて数回深呼吸をする。天地の気が自分の内側に満ちていく様子を静かにイメージしながら、儀式の中心部分を締めくくる。最後に、榊や常緑の葉を用意している場合は、その葉先で符の上を軽く三度なでるようにし、清めの仕上げとする。
⑤後始末・処分方法
儀式に用いた符は、屋内に長く放置せず、その日のうちか、遅くとも数日以内に焚き上げて処分する。屋外の安全な場所で耐熱皿の上に符を置く。庭先やベランダなど、燃えやすいものが周囲にない場所を選ぶ。そこでマッチやライターで火をつけて燃やし尽くす。この時、煙が立ちのぼる様子を静かに見送りながら、願いが天へと届くことをイメージするとよいとされる。
燃え残った灰は完全に冷めたことを確認したうえで、白い紙に包む。近隣の神社の「古札納め所」やどんど焼きの機会があれば、そこに納める。それが難しい場合は清浄な土の上に撒いて土に還す。盛り塩に使った塩は、翌朝には新しいものに取り替え、使用済みの塩は流水で洗い流すか、庭の隅にまいて処分する。
符や塩を家庭ごみとしてそのまま廃棄することは、伝統的な作法としては望ましくないとされている。そのため、できる限り自然に還す形での処分を心がけたい。
体験談
実際にこうした符呪や反閇に類する作法を取り入れている実践者からは、さまざまな声が寄せられている。
ある女性は、転職活動が長引き気持ちが沈んでいた時期に、早朝に東を向いて符を書いた。ゆっくりと足を運ぶ作法を数日続けたという。「儀式そのものよりも、毎朝静かに自分と向き合う時間を持てたことが大きかった」と彼女は振り返る。儀式を始めて二週間ほどで面接の連絡が重なり始めたという偶然も相まって、前向きな気持ちを取り戻せたと語っている。
また、古神道や陰陽道の作法を趣味として学んでいるという別の実践者もいる。この実践者は、反閇の足運びを実際に自宅の廊下で試した。「最初はぎこちなく感じたが、七回、九回と繰り返すうちに、呼吸と歩みが自然に一致してくる感覚があった」という。単なる形式的な動作ではない。身体感覚として「気持ちが定まる」実感があったと述べている。
一方で、こうした符呪の効果については懐疑的な声も根強い。あるインターネット掲示板の投稿者はこう書く。「効果があるかは正直わからない。朝の数分間、雑念を払って自分の願いを言葉にする時間そのものに意味があると思う」。儀式そのものよりも、そこに向き合う心の作法に価値を見出す立場である。
方士たちが二千年以上前に体系化した方術は、不老不死という壮大な夢を追い求めた歴史であった。それは同時に、日々の暮らしの中に静けさと秩序をもたらそうとした、地に足のついた生活の知恵の集積でもあった。星を読み、雲を眺め、亀の甲羅にひびを入れ、丹砂を練り、そして紙に朱で文字を記す。形はさまざまでも、その根底には変わらぬ願いが流れ続けている。
目に見えない天地の理と自らの心身とを調和させようとする願いである。
