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太乙神数――三式の筆頭に数えられた「国家の占術」、積年数から局を立て計神・主客算を読む実践まで

太乙神数と書いて、たいおつしんすう、あるいはたいいつしんすうと読む。中国の術数体系のなかで、奇門遁甲と六壬神課とあわせて三式と総称される、三つの高等占術のひとつだ。

三式のうち六壬が人事を担い、奇門が地の利を担うとされるのに対して、太乙が担うのは天時になる。

つまり、個人の恋愛や転職といった身近な問いを扱う術ではない。王朝の興亡、戦乱の帰趨、天災の周期、時代そのものの潮流。桁のちがう時間スケールを相手にする術として語り継がれてきた。

歴代の王朝がこれを宮中の奥深くに封じ、民間が学ぶことを禁じたと伝えられるのも、その主題が国家の命運だったからだ。

ここでは、太乙神数がどのような思想を土台に成立し、どのような文献の系譜をたどり、日本にどう伝わったのかを追っていく。そのうえで、積年数の算出から立局、計神と文昌と始撃の配置までを追う。主算と客算と定算、四将の導出、格局の判定、読み解きの順序と応期の見方までを、紙と鉛筆で追える形に噛みくだいて示す。

あわせて架空設定の実占例を二件、立局から結論まで内部の数値をすべて整合させて詳しく解く。最後に現代の評判と懐疑論、そして通し手順としての実践儀式版を置いておく。

先に断っておきたいことがある。太乙神数は、三式のなかでも群を抜いて資料の伝存状況が悪く、流派ごとの計算法の食い違いが大きい術なのだ。

とりわけ立局の起点となる積年数の紀元は、依拠する古典によって数百万年から一千万年以上も差が開く。ここで示す手順は、現在ひろく紹介されている算法のうち内部整合が取れるものを一系統に整理したものであって、これが唯一の正統だという主張ではない。

他の伝書に当たれば別の数値、別の順序が出てくる。そこはあらかじめ織り込んでおいてほしい。

天と地と人で分けあう、三つの式

三式という呼び名は、太乙式、奇門式、六壬式の三つが、いずれも式と呼ばれる占盤を回転させて答えを得る系統だったことに由来する。

式盤というのは、円い天盤と方形の地盤を重ね、天盤を回して時刻や干支に合わせ、両盤の対応関係から吉凶を読む道具のことだ。漢代の墓から実物が出土していて、この形式が遅くとも紀元前後には成立していたことが確かめられている。

三式の分担は、しばしば天と地と人の三才になぞらえて説明される。太乙は天、奇門は地、六壬は人、というわけだ。

六壬は、いま目の前で起きている出来事、これから会う相手の腹の内、失せ物の行方といった人事の細部を、時刻の干支から立てた課式で読む。奇門遁甲は、どの方位に、いつ動けば追い風を得られるかという地の利を、八門と九星と八神の配置から読む。

これに対して太乙は、個々の人間の都合をいったん脇に置く。いま自分たちが置かれている時代がどの局面にあるのかを、天の運行そのものの周期から読もうとする。

この分担は、扱う時間の粒度の差でもある。六壬は時刻単位、奇門は時刻から日と月の単位、太乙は年単位から数十年、数百年単位を主戦場とする。

太乙にも月計と日計と時計はあるのだが、それらは本来、年計という大きな枠組みのなかで局面を細分するために置かれた副次的な盤にすぎない。太乙という術の重心はあくまで年計、すなわちその年に天下はどう動くか、という一点にある。

もうひとつ、三式のなかで太乙だけが持つ際立った特徴がある。主客という枠組みだ。

太乙の盤には、こちら側である主と、あちら側である客を代表する神が置かれ、それぞれの勢力を数値化した算という数が与えられる。主算と客算のどちらが大きいか、どちらの将が要所を押さえているか。太乙の判断は、この二勢力の力学として下される。

もともとが軍事と国政の術であることが、この構造にはっきり刻まれているわけだ。誰が勝つか、いつ攻めるべきか、守りに回るべきか。太乙が問うているのは、突きつめればそれになる。

動かない一点の名前――太一という言葉

術の名に冠された太乙は、本来は太一と書かれていた。この語は、中国思想史のなかで二つの層を持っている。

ひとつは哲学的な層で、万物が分かれ出てくる以前の根源、名づけようのない究極の一を指す。荘子の天下篇には、関尹と老聃の学を評して太一に主とす、という趣旨の記述があり、道の根源を太一と呼ぶ用法が早くから存在したことがうかがえる。

呂氏春秋の大楽篇はさらに踏みこんでいる。音楽の根源をたどって太一より出づとし、太一が両儀を生み、両儀が陰陽を生むという生成の順序を語る。ここでの太一は、宇宙が展開していく出発点そのものだ。

一九九三年に湖北省で発見された郭店楚簡のなかに、太一生水と題される一群の竹簡があった。これによって、この思想がさらに具体的な宇宙生成論として展開されていたことが明らかになる。

太一がまず水を生み、水が反って太一を輔け、そこから天が成り、天が反って太一を輔けて地が成る。互いに輔け合いながら段階的に世界が形をとっていく図式が語られている。戦国期の楚の地に、こうした太一中心の生成論が確かに流布していたことを示す資料として、思想史上きわめて重要な発見とされる。

もうひとつは信仰の層で、太一は天の中心に坐す最高神の名でもあった。

北極星、すなわち北辰は、天球が回転しても動かない一点だ。動かないものが動くものすべてを統べる、という発想から、北辰は天帝の座と見なされ、そこに坐す神が太一と呼ばれた。前漢の武帝期には太一を祀る国家祭祀が整えられ、太一は国家の最高神として遇されたと伝えられる。

天の中心に不動の一があり、そのまわりを星辰が巡る。この構図が、そのまま太乙神数の盤の構造になっている。

盤の中央に中五宮があり、太乙はそこには入らず八つの宮を巡り続ける。この規定は、動かざる中心と巡る一者という北辰観を、術数の言葉に翻訳したものにほかならない。

なお太乙という表記が定着したのは比較的あとのことで、唐代以降の文献では両方の表記が併用される。日本の陰陽道関係の史料では太一の表記が優勢だ。ここでは術の名としては太乙、思想と信仰の文脈では太一と書き分けておく。

洛書と九宮――太乙盤の骨格を組む

太乙神数の盤は、洛書に発する九宮の枠組みを土台にしている。

伝説では、禹が洪水を治めたとき洛水から現れた神亀の背に数の配列があり、それが洛書だとされる。もっともこれは後代に整えられた由来譚とされていて、実際の成立過程は別に考えられている。

九宮とは、この三×三の方陣を八卦の方位と結びつけたものだ。中央を除く八つの宮が、それぞれ乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤の八卦と、北西、西、南、東、南東、北、北東、南西の方位に対応する。

ここで注意を要するのが、太乙神数における宮の番号づけになる。洛書の数、つまり坎一、坤二、震三、巽四、中五、乾六、兌七、艮八、離九という並びとは異なる、独自の体系をとるのだ。

太乙では次のように定める。一宮が乾で北西、五行は金になる。二宮が離で南の火、三宮が艮で北東の土、四宮が震で東の木だ。

五宮は中宮で中央、五行は土になる。六宮が兌で西の金、七宮が坤で南西の土だ。八宮が坎で北の水、九宮が巽で南東の木になる。

この並びをよく見てほしい。一が維、二が正、三が維、四が正、そして中、六が正、七が維、八が正、九が維と、四隅の維の宮と四方の正の宮が交互に現れる。しかも中五宮を挟んで前後対称になっている。

太乙の盤は、この番号順に運行を進める。すなわち乾の一から離の二、艮の三、震の四、そして兌の六、坤の七、坎の八、巽の九と巡り、また乾の一へ戻る。中五宮には決して入らない。

古典にいう、太乙は八宮を考治して中五宮に入らず、である。中央は太一そのものの座であって、めぐる駒が踏み入る場所ではない、という理屈になる。

実物の式盤としては、円い天盤に十六神や星辰を、方形の地盤に九宮と八卦を刻んだものが用いられたと伝えられる。ただし太乙式盤の完形品の出土例は乏しく、六壬式盤に比べて実物資料が圧倒的に少ない。

現在ひろく流布する太乙盤の図像は、宋以降の書物に載る図を元に復元されたものと考えるのが穏当だろう。木製の盤を用いるという伝承も各種あるが、どの木を使うべきかといった材質にまつわる由来譚は、流派ごとの言い伝えの域を出ない。術の成否を左右するものではない。

実務上は、方眼紙に九宮を描いて済ませてまったく差し支えない。

唐に骨格、宋に運用、明に集大成

太乙神数の起源については、黄帝が蚩尤との戦いに用いた、周の武王の代に体系化された、諸葛孔明が大成した、といった伝説がいくつも語られてきた。

これらはいずれも後代の仮託とされるもので、史実として確認されているわけではない。術数の世界では、権威づけのために古代の英雄や軍師の名を冠する習慣が根強く、太乙もその例に漏れないというだけの話だ。

実証的にたどれる範囲でいえば、太乙という名の術数が体系だった書物として姿を現すのは唐代になる。

現存する太乙書のなかで最も古く、かつ最も重視されるのが、唐の王希明が撰したと伝えられる太乙金鏡式経だ。全十巻で、太乙の総論、積年の算法、九宮の配置、十六神と八将の意味、格局の判定、そして占断の実例にあたる部分までを備えた、体系的な教科書というべき構成をもつ。

王希明については伝記的な情報が乏しい。玄宗期に暦や天文にかかわった人物とされるが、詳細は不明とするほかない。

この書はのちに四庫全書の子部術数類に収録された。四庫の編纂者は、この種の術数書に対しておおむね醒めた態度をとり、取るべきところもあるが附会が多い、という趣旨の評を与えるのが常だった。それでも太乙の書が正史に準ずる大叢書に収められたこと自体が、この術の格の高さを示している。

宋代に入ると、太乙は国家的な関心事になった。仁宗の景祐年間に編まれたと伝えられる景祐太乙福応集要経は、太乙の算法と応験の対応を集成したもので、朝廷の需要に応えて編纂された官撰書の性格を帯びる。

宋代には司天監に太乙を専門に扱う部署が置かれ、天変の解釈と太乙の局とを突き合わせる作業が行われていたと伝えられる。北宋の都には太乙宮が営まれ、十年ごとに遊行する太乙神を祀る儀礼が国家祭祀として整備された。

術としての太乙と、神としての太一の信仰とが、宋代においてはきわめて近い距離にあったことがうかがえる。

明代には、太乙の集大成というべき太乙統宗宝鑑が編まれる。全十巻前後の大部の書で、積年の紀元、七十二局の一覧、十六神と各種神将の配置法、格局の分類までを含む。

さらに、歴代王朝の興亡を太乙の局に当てはめて検証する、歴史の答え合わせのような部分まで備えている。現在流通している太乙の実技書の多くは、直接間接にこの書に依拠していると言っていい。

ただし太乙統宗宝鑑の積年紀元は、太乙金鏡式経のそれと一致しない。この食い違いが、今日に至るまで流派差の最大の原因になっている。

このほか、明清期には太乙淘金歌、太乙秘書、太乙局といった名の写本や刊本が断続的に現れるが、多くは統宗系の抄出か、その注釈だ。

総じて言えば、太乙の文献は唐に骨格が立ち、宋に国家的な運用が加わり、明に集大成され、清以降はもっぱら整理と再解釈の時代に入った、と整理してよさそうだ。

なぜ民間に伝わらなかったのか

太乙が三式の筆頭と持ち上げられながら、実際には奇門遁甲や六壬に比べてはるかに伝承者が少ないのはなぜか。理由は単純で、歴代の王朝が、この術を民間に置くことを許さなかったからだ。

太乙が扱うのは、王朝の交代、天子の寿命、兵乱の起こる年といった主題になる。これらを算出できる技術が民間に流れることは、統治の側から見れば端的に危険だった。

天命が去ったと算出した者が現れれば、それは反乱の口実になる。中国では歴代、天文の観測と讖緯、つまり未来を予言する秘説の類が厳しく統制され、私的に天文図書を蔵すること自体が罪とされた時代が長い。太乙の書もまた、その統制の網のなかにあった。

このため、太乙の伝承は宮廷の天文機関の内部という、きわめて細い管を通ってしか流れなかった。

書物が官庫に封じられれば、写本は増えない。写本が増えなければ、注釈も練れない。注釈が練れなければ、技術は洗練されずに固まる。

太乙の計算法が流派ごとに大きく食い違ってしまった背景には、この開かれた検証の場を持てなかったという事情が横たわっている。奇門遁甲や六壬が、多少の異説を抱えつつも実技の骨格については広い合意を得ているのとは対照的だ。

もっとも、禁書とされたゆえに最高の術である、という語り口には注意しておきたい。禁じられていたのは太乙だけではなく、天文と讖緯の書一般だった。

太乙が特別に強力だから封じられた、という因果は、後世の宣伝文句が作った物語という面が大きい。禁制の事実と、術の有効性とは、別に考えるべきことになる。

養老令が名指しで禁じた「太一式」

日本には、律令国家の形成期に、唐の制度と一括して式占の技術が入ってきた。中務省に属する陰陽寮が、天文と暦と漏刻とともに卜占を司り、そこで用いられたのが式盤だ。

注目すべき記録がある。養老令の雑令に含まれる規定だ。

玄象器物、天文図書、讖書、兵書、七曜暦、そして太一式と雷公式といった品目を挙げて、私家がこれを所持してはならないと定めている。つまり日本の律令は、成立の当初から太一式を名指しで私的所持の禁止対象に含めていたことになる。

唐令の規定を写したものではあるが、日本においても太一式が実在の技術として認識され、統制対象と考えられていたことを示している。この一条は、太乙が日本に伝わっていたことの、もっとも堅い証拠のひとつだ。

もっとも、その後の日本における実際の運用は、太一式よりも六壬式に大きく傾いた。

陰陽寮の日常業務は、日の吉凶、方角の禁忌、物忌の判定といった、宮廷生活の細部にかかわる具体的な問いへの回答になる。年単位、世紀単位の大局を語る太乙は、そうした需要にそぐわなかった。

平安中期以降、陰陽師の占といえば六壬による式占をさすようになり、太一の名は、術としてよりも神名や方位神の文脈で残っていく。

方位神としての太一神が遊行する方角を避けるといった作法は、平安期の記録類や、女房向けの有職故実書として知られる簾中抄のような書物にも顔を出す。ここでの太一は、もはや局を立てて読む対象ではなく、避けるべき方角を知らせる神になっている。

江戸期に入ると、暦学と術数の書が中国から大量に舶載され、太乙の書も一部が渡来した。しかしこの時代の日本の術数の主流は、四柱推命と方位術、そして易だった。太乙は名前だけは知られているが実際に立局できる者はほとんどいない術、という位置に置かれ続ける。

明治以降、そして戦後の東洋占術ブームのなかで、太乙は三式の最高峰という枕詞とともに繰り返し紹介されてきた。だが実技を伴った日本語の解説書は、六壬や奇門に比べて今日なおきわめて少ない。

どこで意見が割れるのか――現代の流派差

現在、太乙を実践する人々のあいだで見解が分かれる主要な論点は、四つに集約できる。

第一が、積年数の紀元だ。太乙金鏡式経系と太乙統宗宝鑑系とで起点となる年が異なり、その差は百万年から一千万年の単位に及ぶ。

紀元が変われば七十二局における入局数が変わり、太乙の落宮も変わる。つまり同じ年を占っても、まったく別の盤が立つことになる。これは太乙が抱える最大の難問であり、後で触れる懐疑論の中心的な論点でもある。

第二が、陽遁と陰遁の切り替えになる。太乙を一貫して順行させる立場と、一定の周期で陰遁に転じて逆行させる立場があり、後者では太乙の起点も一宮ではなく九宮になる。

第三が、算の扱いだ。主算と客算を求める際に、中五宮を通過する数として算入するか除外するか。また十を超えた数から十を去るのか九を去るのか。ここで大将と参将の落ちる宮が変わってくる。

第四が、月計と日計と時計の立て方になる。年計から按分する立場と、月と日と時それぞれに独立の積数を立てる立場がある。近年、時局を重視する系統では後者が主流で、天と地と人の三種の積時数を別々に計算する精密な手続きを説く。

ここから先の実践編では、統宗系の枠組みを基礎に、内部整合が取れる形で一系統に統一した手順を示していく。他系統を採る場合でも、積年の紀元と算の扱いの二点さえ揃えれば、以降の手順はおおむね共通に使えるはずだ。

用意するものは、驚くほど少ない

太乙は、道具の点ではむしろ質素な術になる。必要なのは四つに尽きる。

第一に、万年暦。年の干支、二十四節気の入り時刻、月と日の干支を確認するために要る。太乙の年は原則として立春を境とするため、一月や二月生まれ、あるいは年始の出来事を扱うときは、節入り時刻の確認が欠かせない。

第二に、太乙局の一覧表になる。七十二局それぞれについて、太乙の落宮、文昌の位置、計神の位置などを整理した表だ。

市販の実技書に付されている場合もあるが、なければ自作するのがいい。むしろ自作の過程そのものが最良の学習になる。一から七十二までの入局数について、これから示す手順で太乙宮と文昌を機械的に埋めていけば、一日か二日で表は完成する。

第三に、方眼紙。三×三の枡を大きめに描き、中央を中五宮、周囲八枡に一、二、三、四、六、七、八、九の番号を、さきほどの対応どおりに配する。

方位は、上を南、下を北にとる中国式の作図法が伝統だが、上を北にしても計算には影響しない。慣れた方でかまわない。ただし一度決めたら生涯変えないこと。盤の向きが日によって変わると、直観が育たない。

第四に、筆記具になる。太乙は消しゴムを使わない術だと言われている。書き損じたら、その紙は破棄して新しい紙に引き直す。

理由は実務的なもので、算の途中で数字を書き換えると、どこで間違えたかが追えなくなるからだ。

なお、実物の式盤は必須ではない。式盤があれば所作は荘重になるが、太乙の本体は数の操作であり、盤は計算結果を可視化する装置にすぎない。まず紙で立てられるようになってから、道具のことを考えればいい。

占う日時と、机に向かうまでの作法

太乙を立てるにあたって、細かな禁忌を並べる流派もあれば、まったく気にしない流派もある。共通して言われるのは、次のようなことだ。

占う時刻は、心身が静かな時間を選ぶ。伝統的には、夜半から明け方にかけての静かな刻限、あるいは早朝が適するとされる。飲酒後、極度の疲労時、強い感情に揺さぶられている最中は避けたい。

太乙は算術の術であり、計算間違いが致命傷になる。心が乱れているときに立てた局は、たいてい算を誤っている。

手を洗い、机上を片づけ、余計なものを置かない。占う主題を、一文で紙の余白に書き出しておく。

これは形式ではなく実務だ。太乙は情報量の多い盤で、読みはじめると何を問うていたのかを見失いやすい。問いを先に固定しておくことで、盤に振り回されずに済む。

同じ問いを、日を措かずに何度も立て直さないこと。太乙は年計を主とする術であるから、そもそも同じ年の局は一つしかない。

時計を立てる場合でも、望む答えが出るまで刻限を変えて立て直す行為は、術の側から見ても、判断の質という点から見ても、意味を持たない。

積年数――一千万年を数える

太乙の立局は、積年数の算出から始まる。積年数とは、上元甲子と呼ばれる遠い過去の起点から、占おうとする年までに積み上がった年数の総計のことだ。

上元甲子とは、干支が甲子に戻り、かつ冬至と朔と夜半が一致するという理想的な条件が揃った瞬間を指す、計算上の原点になる。実際にそのような瞬間が観測されたわけではなく、暦法上の逆算によって設定された仮想の起点と考えるのが正しい。

問題は、この起点をいつに置くかだ。おおむね次のような異同が知られている。

太乙金鏡式経系では、きわめて遠い過去の癸亥の年に、甲子の夜半と朔と冬至が重なったとして起点を置き、そこからの累積を積年とする。その数は百九十万年を超える桁になる。

太乙統宗宝鑑系では、別の起点を採り、一千万年を超える桁の積年を用いる。現在、一般向けの解説で紀元前一千万年余りを起点とすると紹介されるのは、おおむねこの系統だ。

さらに、宋代以降に暦法が改訂されるたびに積年が調整された形跡があり、同じ統宗系を名乗っていても数値が一致しないことがある。

実務上は、次のように割り切ってかまわない。まず依拠する一冊を決め、そこに載るある基準年の積年数を出発点として控える。次に、占う年との差を足し引きする。そして生涯そのひとつの系統だけを使い続ける。

太乙において肝心なのは絶対的な積年の正しさではなく、同じ物差しを使い続けることで応験の蓄積が比較可能になることだ、という考え方になる。これは信仰でも開き直りでもない。複数の紀元が並立して優劣を決めがたい以上、取りうる唯一の合理的な態度だからだ。

積年数が得られたら、次の計算を行う。積年数を七十二で割り、その余りを取る。余りが零のときは七十二とする。

この数を入局数と呼び、一から七十二までの値をとる。この入局数が、以下すべての計算の入口になる。

なお、より古い手続きでは、積年をまず三百六十で割り、さらにその余りを七十二で割る、という二段階を踏む。三百六十年を一周紀とし、七十二年を一元とする周期観に対応した手順だ。

ただ七十二は三百六十の約数であるから、入局数そのものは一段階で割っても変わらない。二段階を踏むのは、周紀の何番目にあたるかという情報を別に保持したいときになる。

年計、月計、日計、時計という四つの層

太乙の盤には四つの層がある。

年計は、その年一年の大局を見る。太乙の本体であり、国運、経済の潮流、社会の空気といった大きな主題に対応する。入局数はさきほどの方法で求める。

月計は、年内の各月の局面を見る。年計の入局数を基準に、月ごとに一定数を進める方式と、独立に積月数を立てる方式がある。前者では、年計の入局数に対して、その年の正月から数えた月数を加えて七十二で割り直す、という簡便法が用いられる。

日計は、日単位の局面を見る。積日数を立てて七十二で割るのが本則だ。

時計は、一時辰ごとの局面を見る。近年、時局を専門に扱う系統では、天と地と人の三種の積時数を別々に算出する。それらが六十甲子の序数と整合することを確認したうえで局を確定する、という精密な手続きを説く。三つの積時数がすべて合致してはじめて正しい局が成立する、という考え方になる。

初学のうちは、年計だけを繰り返し立てることを勧めたい。年計は年に一度しか立たないから練習量が確保できない、と思われるかもしれない。

だが過去の年について立局し、実際に何が起きたかと突き合わせる作業が、そのまま練習になる。太乙が歴史と結びつけて語られてきたのは、この検証形式が術に内在しているからだ。

太乙が入る宮を求める

入局数が定まったら、太乙の落宮を求める。規則はこうなる。

太乙は、ひとつの宮に三年とどまり、次の宮へ移る。八つの宮を巡るから、一周に二十四年かかる。これを一紀と呼ぶ。

三紀すなわち七十二年で一元となり、入局数が七十二を数えたところで太乙は出発点の宮に戻る。七十二局という数え方は、ここから出ている。

具体的な手順を追ってみよう。まず入局数を三で割り、余りが出るときは商に一を加える。すなわち入局数を三で割った切り上げの値を求める。これを宮次と呼び、一から二十四までの値をとる。

次に宮次から一を引き、八で割った余りを求め、それに一を加える。得られた値を歩数とする。歩数は一から八までの値になる。

歩数に応じて、太乙の宮を定める。一歩目が乾一宮、二歩目が離二宮、三歩目が艮三宮、四歩目が震四宮になる。五歩目が兌六宮、六歩目が坤七宮、七歩目が坎八宮、八歩目が巽九宮だ。中五宮は数えない。

これが陽遁の順行になる。陰遁を立てる系統では、太乙は巽九宮から起こして逆行する。ここから先は陽遁で統一しておく。

十六の神を環に並べる

太乙の盤には、九つの宮とは別に、十六の神を配した環がある。十二支に四隅の艮と巽と坤と乾を加えて十六とし、それぞれに神名を与えたものだ。この十六神が、文昌や始撃の位置を指定する座標系になる。

順に並べていこう。一番目が地主で、位は子、坎八宮に属する。二番目が陽徳で丑、これも坎八宮。三番目が和徳で艮、艮三宮になる。

四番目が呂申で寅、震四宮。五番目が高叢で卯、震四宮。六番目が軒轅で辰、これも震四宮に属する。

七番目が招揺で巽、巽九宮。八番目が天道で巳、離二宮になる。九番目が大炅で午、離二宮。十番目が大神で未、これも離二宮だ。

十一番目が大威で坤、坤七宮。十二番目が武徳で申、兌六宮になる。十三番目が太簇で酉、兌六宮。十四番目が陰主で戌、これも兌六宮に属する。

十五番目が陰徳で乾、乾一宮。そして十六番目が大義で亥、坎八宮になる。

四方の正宮、つまり坎と震と離と兌には三神ずつ、四隅の維宮である艮と巽と坤と乾には一神ずつが属する。

この非対称は、十六を八で割り切れないことの帰結だ。そして太乙の判断を独特なものにしている。正宮に落ちた神は仲間を持ち、維宮に落ちた神は孤立する、という読みが生じるからだ。

神名の含意も、季節の推移と結びつけて説かれてきた。地主は動揺と言論、陽徳は施しと育成、和徳は和合、呂申は運用と主宰を表す。

高叢は繁茂、軒轅は転換、招揺は動きと号令、天道は道理になる。大炅は光明と威烈、大神は成熟、大威は威厳と粛正、武徳は伝送と移動だ。

太簇は改易と粛殺、陰主は隠れたもの、陰徳は陰徳の報い、大義は義と決着を表す。これらは占断の際に、事柄の性質を色づけする語彙として用いる。

なお、神名の割り当てには流派差がある。午に大威を配し、坤に大炅を配する伝もあり、ここでの配当が唯一のものではない。ただし一度決めた配当は変えないこと。

計神、文昌、始撃――盤に三つの点を打つ

盤の骨格ができたら、三つの重要な点を打つ。

計神は、時間の進行そのものを示す指標になる。計都と表記する系統もあるが、指すものは同じと考えていい。

陽遁では、寅、すなわち呂申を起点として十二支を順行させて求める。具体的には、入局数を十二で割った余りを歩数とし、余りが零のときは十二とする。寅を一歩目として、その歩数だけ十二支を順に進んだ位置が計神だ。

ちなみに入局数は積年数を七十二で割った余りであり、七十二は十二の倍数であるから、積年数を十二で割った余りを直接使っても同じ結果になる。

文昌は、天目とも呼ぶ。こちら側、すなわち主の目にあたる。

入局数から十八を繰り返し引き、残った数を歩数とする。武徳、つまり申を一歩目として、十六神の環を順行させ、その歩数だけ進んだ位置が文昌になる。

残りが十七または十八になった場合は、さらに十六を引いて一と二に折り返す系統と、そのまま第十七と第十八の神を認めず再度十八を引く系統がある。ここでは前者を採っておく。

始撃は、客目とも呼ぶ。あちら側、すなわち相手方の目にあたる。

求め方はこうなる。計神にあたる神を、十六神の環の和徳、つまり艮の位置に重ねる。そこから十六神を順行させて環全体に振り直し、太乙の在る宮の中心にあたる位にどの神が来ているかを見る。その神が始撃だ。

四方の正宮については、中心となる支を用いる。坎なら子、震なら卯、離なら午、兌なら酉になる。四隅の維宮については、その維そのものを用いる。

計神は時間、文昌は自分の視座、始撃は相手の視座。この三点が揃うと、盤は静止画から動く図に変わる。

算と四将――勢力を数で測る

太乙の判断の中核が、算になる。

主算は、文昌の在る宮から太乙の在る宮までの距離を、宮の番号の和として測る。手順としては、文昌の在る宮の次の宮から数えはじめ、太乙の在る宮まで、通過した各宮の番号をすべて足し合わせる。

宮の巡り順は一、二、三、四、六、七、八、九の順で、中五宮は飛ばして数えない。文昌と太乙が同じ宮にある場合は、一周して八宮すべての番号を足し、四十とする。

客算は、始撃の在る宮を起点として、まったく同じ方法で太乙の在る宮まで数えた和になる。

定算は、主算と客算の和とする。主客双方の勢いを合算し、その局全体の帰趨を示す数と解する。年計と月計では定算まで見るのが通例だが、時計では主客のみを見て定を略す流派も多い。

算が得られたら、四つの将を配る。

大将は、算の一の位の数が示す宮に置く。十以上の数からは十を繰り返し引き、残った一桁の数を宮の番号とする。残りが零になる場合は中五宮に落ちたものとみなし、無将と呼ぶ。

参将は、算を三で割った商が示す宮に置く。商が十以上になるときは、同じく十を引いて一桁にする。零になれば中五宮であり、やはり無将だ。

こうして、主大将、主参将、客大将、客参将の四つが定まる。定算からも定大将と定参将を出しておく。

将が中五宮に落ちて無将となるのは、珍しいことではない。およそ十回に一度は起こる。無将はその勢力の当該部門が機能しないという、はっきりした意味を持つ判断材料であって、計算の失敗ではない。

将の性格はこう解される。大将は主力、正面の力、公然と動く部分。参将は副将、補佐、後方支援、隠れて働く部分になる。

主大将が強く主参将が無将であれば、こちらは正面では戦えるが後が続かない。客大将が無将で客参将が旺じていれば、相手は表向き弱いが裏で手を打っている。四将の強弱の組み合わせが、局面の質感を作っていく。

格局を判定する

太乙は、算の大小だけでなく、太乙と文昌と始撃と四将の位置関係が作る特定の型を、格局として判定する。主要なものを挙げていこう。

掩は、太乙と文昌が同じ宮に入る型になる。上が下を掩うの意で、こちら側の視野が太乙そのものに覆われる。判断が自分の思い込みに引きずられやすい局面を示す。国事であれば、上位者の意向が現場の実情を覆い隠す形になる。

迫は、太乙の在る宮の隣宮に始撃が入る型だ。宮の隣とは、一、二、三、四、六、七、八、九の巡り順における前後の宮をいう。相手が至近まで詰めてきている状態で、猶予がないことを示す。

囚は、大将または参将が太乙と同じ宮に入る型になる。将が太乙の座に踏み込むのは、力が中枢に及びすぎることを意味し、しばしば身動きの取れなさとして現れる。

撃は、始撃の在る宮の五行が、太乙の在る宮の五行を剋す型だ。相手方が主導権を握る形になる。逆に太乙の宮が始撃の宮を剋していれば撃は成立せず、こちらが相手を制する。五行の対応は、さきほどの宮の番号と五行の表による。

関は、主側の将と客側の将が同じ宮に会する型になる。両者の力が同じ一点にかかることを示し、交渉であれば争点が一つに絞られる、衝突であれば正面から当たる、という読みになる。

格は、将が太乙の在る宮と対冲の位置に立つ型だ。対冲は、乾一宮と巽九宮、離二宮と坎八宮、艮三宮と坤七宮、震四宮と兌六宮の四組になる。真っ向から対立する構図を示す。

このほか、対、提、無天、無地といった名の型を立てる系統もある。名称と定義には流派差が大きいから、実践にあたっては、まず右の六つを確実に判定できるようにしたい。そのうえで依拠する伝書の分類を上乗せしていくのがいい。

読み解きは、この順序で

太乙にも八門と九星を重ねる作法がある。八門は開、休、生、傷、杜、景、死、驚の八つで、九宮のうち中五を除く八宮にそれぞれ固定して配し、九星は太乙の落宮を基準に飛泊させる。

ただし、これらは奇門遁甲から後代に流入した層と見る研究者もある。太乙固有の判断としては、あくまで補助的な位置づけにとどめるのが穏当だろう。八門を見るのは、事柄の入口の性質を知りたいときに限る、という程度の運用でいい。

読み解きの順序は、次のように固定しておくと迷わない。

第一に、太乙の落宮を見る。局全体の座標が定まる。宮の五行と方位が、その年、あるいはその時の基調になる。

第二に、主算と客算を比べる。数の大きいほうを有余、小さいほうを不足とし、有余の側に勢いがあると読む。差が小さければ拮抗、著しく開けば一方的だ。

第三に、四将の配置を見る。どの宮に落ちたか、無将はあるか、太乙や対冲との関係はどうか。

第四に、格局を判定する。掩、迫、囚、撃、関、格の順に、成立しているかどうかを機械的に確認していく。

第五に、文昌と始撃の神名を見る。ここではじめて、事柄の質感を表す語彙が入ってくる。文昌が大義であれば決着や義理が主題になり、始撃が招揺であれば相手方が動き回っていることを示す、という具合になる。

第六に、以上を一つの文章にまとめる。太乙の判断は、断片の寄せ集めでは意味をなさない。誰が優勢で、何が争点で、どこに落とし穴があり、いつ動くか。これを必ず一続きの文にする。

いつ結果が現れるか

応期の見方に移ろう。太乙では、次の見方が広く用いられる。

主算と客算の差を取り、その一の位の数を単位数とする。年計であればその数だけの年、月計であれば月、日計であれば日、時計であれば時辰を、応期の目安とする。差の一の位が零になるときは、十とする。

もうひとつ、太乙の落宮そのものを応期の指標とする方法がある。太乙は一宮に三年とどまるから、入局数を三で割った余りによって、その宮に入って何年目かが分かる。

一年目であれば事はまだ形をなさず、二年目に顕在化し、三年目に転じる、という三段階の読みになる。この見方は年計に固有のもので、他の層には転用しない。

さらに、格局から応期を読む場合もある。迫が成立していれば事は急、掩が成立していれば事は遅れる、といった具合だ。

三つの見方が食い違うときは、算の差を主とし、他を補正に使う。

実占例その一――東雲屋の年

ここからは架空の設定になる。実在の人物や団体とは関係がない。

架空の商家である東雲屋が、翌年の事業方針を決めるにあたり、その年一年の基調を年計で見ることにした。占者は自分の依拠する伝書に従い、対象年の積年数を一〇一五五九九四と算出している。

立局する

積年数を七十二で割る。七十二に一四一〇五五を掛けると一〇一五五九六〇であるから、余りは三四になる。よって入局数は三四、七十二局のうち第三十四局にあたる。

太乙の落宮を求めよう。三四を三で割ると一一余り一であるから、切り上げて宮次は一二。宮次から一を引いて一一、これを八で割った余りは三、これに一を加えて歩数は四になる。

四歩目は震四宮だ。よって太乙は震四宮、東方、五行は木。入局数三四は、宮次一二の三年間、すなわち三四と三五と三六のうち一年目にあたる。

計神を求める。入局数三四を十二で割った余りは一〇。寅を一歩目として十支進むと、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥で亥に至る。亥の神は大義だから、計神は大義、坎八宮に属する。

文昌、すなわち天目を求めよう。入局数三四から十八を引いて一六。武徳、つまり申を一歩目として十六神を順行し、一六歩進む。

武徳、太簇、陰主、陰徳、大義、地主、陽徳、和徳、呂申、高叢、軒轅、招揺、天道、大炅、大神、大威で、大威に至る。文昌は大威、坤七宮に属する。

始撃、すなわち客目を求める。計神である大義は第十六神だから、これを環の和徳、つまり艮の位置に重ねる。そこから順行させると、艮位に大義、寅位に地主、卯位に陽徳、辰位に和徳と並んでいく。

太乙は震四宮にあり、震の中心は卯だ。卯位に来ているのは陽徳になる。よって始撃は陽徳、本位は丑、坎八宮に属する。

算と将を出す

主算を求める。文昌は坤七宮、太乙は震四宮だ。七宮の次の宮から数え、八、九、一、二、三、四と進む。和は八足す九足す一足す二足す三足す四で二七になる。主算は二七だ。

主大将は、二七から十を二度引いて七、坤七宮に置く。主参将は、二七を三で割って商九、巽九宮に置く。

客算を求めよう。始撃は坎八宮、太乙は震四宮。八宮の次から数え、九、一、二、三、四と進む。和は九足す一足す二足す三足す四で一九になる。客算は一九だ。

客大将は、一九から十を引いて九、巽九宮に置く。客参将は、一九を三で割って商六、余り一。商を取って六、兌六宮に置く。

定算は、主算二七と客算一九の和で四六になる。定大将は、四六から十を四度引いて六で兌六宮。定参将は、四六を三で割って商一五、十を引いて五、すなわち中五宮に落ちる。定参将は無将だ。

盤を一覧にしておこう。太乙は震、東で四宮、五行は木になる。計神は大義で亥、坎八宮の水だ。文昌は大威で坤、坤七宮の土。始撃は陽徳で丑、坎八宮の水になる。

主大将は坤七宮の土、主参将は巽九宮の木。客大将は巽九宮の木、客参将は兌六宮の金だ。定大将は兌六宮の金、定参将は中五宮で無将になる。主算二七、客算一九、定算四六。

格局を判定する

掩は、太乙が四宮、文昌が七宮で別宮であるから不成立になる。

迫も不成立だ。太乙四宮の隣宮は三宮の艮と六宮の兌であるのに対し、始撃は八宮にある。相手はまだ間合いの外にいる。

囚は、主大将が七宮、客大将が九宮で、いずれも太乙の四宮ではないから不成立。

撃はどうか。始撃が坎八宮で水、太乙が震四宮で木になる。水は木を生じる関係であるから、剋ではない。撃は不成立であり、むしろ相手方の動きがこちらの勢いを育てる形になっている。

関は成立する。主参将と客大将が、ともに巽九宮に会しているからだ。

格も成立する。太乙の震四宮に対する対冲は兌六宮であり、客参将と定大将がともにそこに立っている。さらに、定参将が中五宮に落ちて無将になっている。

読む

太乙は震四宮、東方の木にある。震は動き出すこと、雷が鳴って蟄虫が地を出ることを象る宮だ。入局してまだ一年目であり、事はまだ形をなしていない。

この年は、大きな変化の初動が起こる年であって、決着の年ではない。

主算二七に対し客算一九、差は八で、主に余りがある。東雲屋の側に勢いがあるわけだ。ただし、その余裕は圧倒的というほどではない。

主大将が坤七宮の土に落ち、文昌と同宮に重なっている。自分の目と自分の主力が同じ場所にあるということは、見えている範囲では強いが、見えていない範囲には手が届かないことを意味する。

しかも太乙の宮である震の木は、この坤の土を剋している。すなわち、この年の趨勢そのものが、東雲屋の主力の立つ地盤を削る方向に働く。主力を置いた場所が、そのままでは持ちこたえないという読みになる。

主参将と客大将が巽九宮で会し、関を成す。争点は一点に絞られる。巽は風であり、進退の定まらぬもの、遠方との往来、風説を象る。この一点をめぐって、こちらの後方部門と相手方の主力とが正面から向き合う構図だ。

客参将と定大将は兌六宮、太乙と対冲の位置にあって格を成している。兌は金であり、口舌、交渉、そして決断の刃を象る。相手方の補佐と、局全体の帰趨とが、ともにここに立っているわけだ。

すなわち、最終的な決着は交渉の席で、言葉によって付く。

定参将が中五宮に落ちて無将であることは、この局に最後まで面倒を見る者がいないことを示している。決着はつくが、その後始末を引き受ける力が盤上に見当たらない。決めたあとの手当てを、あらかじめ別に用意しておく必要がある。

文昌は大威、始撃は陽徳になる。大威は威厳と粛正、陽徳は施しと育成を含意する。こちらは筋を通し規律で押す姿勢、相手は与えて懐柔する姿勢だ。性質が正反対であるから、同じ土俵で押し合っても噛み合わない。

応期は、主算二七と客算一九の差である八になる。年計であるから八年、と読むのが原則だ。

ただ、太乙が入局一年目にあることを併せて考えれば、この局の主題そのものは八年の周期で完結するもので、当年はその第一歩にすぎない、と解するのが妥当だろう。当年内の動きとしては、対冲の兌六宮すなわち西方、そして口舌にかかわる領域に注意すべき、と方位の指標として使う。

一文にまとめる

この年、東雲屋は勢いにおいてまさるが、主力を置いた地盤そのものが趨勢に削られる年になる。争点は遠方との往来と風説をめぐる一点に絞られ、決着は交渉の席で言葉によってつく。

ただし決めたあとを引き継ぐ者が盤上にないため、後始末の手を先に用意しておくこと。事はこの年に始まり、八年をかけて完結する。

実占例その二――岐路の一刻

こちらも架空の設定になる。ある人物が、長く続けてきた仕事を続けるか畳むかの判断を、ある日のある時辰に問うた。占者は時局を立てる系統に従い、天の積時数を五四一二八〇九と算出している。

立局する

五四一二八〇九を七十二で割る。七十二に七五一七七を掛けると五四一二七四四であるから、余りは六五。入局数は六五になる。

太乙の落宮を求めよう。六五を三で割ると二一余り二、切り上げて宮次は二二。二二から一を引いて二一、八で割った余りは五、一を加えて歩数は六になる。六歩目は坤七宮だ。太乙は坤七宮、南西、五行は土。

計神を求める。六五を十二で割った余りは五。寅を一歩目として五支進むと、寅、卯、辰、巳、午で午に至る。午の神は大炅だから、計神は大炅、離二宮になる。

文昌を求めよう。六五から十八を三度引いて一一。武徳を一歩目として十一歩進むと、武徳、太簇、陰主、陰徳、大義、地主、陽徳、和徳、呂申、高叢、軒轅で軒轅に至る。文昌は軒轅、辰で震四宮だ。

始撃を求める。計神である大炅は第九神だから、これを和徳、つまり艮の位置に重ね、順行させる。

艮位に大炅、寅位に大神、卯位に大威、辰位に武徳、巽位に太簇、巳位に陰主、午位に陰徳、未位に大義、坤位に地主と並んでいく。太乙は坤七宮にあり、坤は維宮であるから坤位そのものを見る。坤位に来ているのは地主だ。始撃は地主、子で坎八宮になる。

算と将を出す

主算を求める。文昌は震四宮、太乙は坤七宮。四宮の次から数え、六、七と進む。和は六足す七で一三になる。

主大将は一三から十を引いて三、艮三宮。主参将は一三を三で割って商四、余り一。商を取って四、震四宮に置く。

客算を求めよう。始撃は坎八宮、太乙は坤七宮。八宮の次から数え、九、一、二、三、四、六、七と進む。和は九足す一足す二足す三足す四足す六足す七で三二になる。

客大将は三二から十を三度引いて二、離二宮。客参将は三二を三で割って商一〇、十を引いて零、すなわち中五宮に落ちる。客参将は無将だ。時計であるから、ここでは定算を省く。

盤を一覧にしておく。太乙は坤、南西で七宮、五行は土になる。計神は大炅で午、離二宮の火だ。文昌は軒轅で辰、震四宮の木。始撃は地主で子、坎八宮の水になる。

主大将は艮三宮の土、主参将は震四宮の木。客大将は離二宮の火、客参将は中五宮で無将だ。主算一三、客算三二。

格局を判定する

掩は、太乙が七宮、文昌が四宮で別宮につき不成立になる。

迫は成立する。太乙の坤七宮の隣宮は六宮の兌と八宮の坎であり、始撃は坎八宮にあるからだ。相手方は至近まで来ている。

囚は、主大将が三宮、主参将が四宮、客大将が二宮で、いずれも太乙の七宮ではないから不成立。

撃も不成立になる。始撃は坎八宮で水、太乙は坤七宮で土だ。土は水を剋す。すなわち太乙のほうが始撃を制している。

関は、主側の将である三宮と四宮、客側の将である二宮と無将が重ならないから不成立。

格は成立する。太乙坤七宮の対冲は艮三宮であり、主大将がそこに立っているからだ。そして客参将は中五宮に落ちて無将になっている。

読む

太乙は坤七宮、南西の土にある。坤は大地であり、受け容れること、蓄えること、そして労苦を象る宮だ。この時、事の座は抱え込むことの側にある。

主算一三に対して客算三二。差は一九で、数の上では客が圧倒的に有余だ。相手方、あるいはこの問いにおける外からの力のほうが、勢いは大きい。

しかし、それを三つの要素が打ち消している。

第一に、迫は成立しているが撃は成立していない。相手は間合いに入っているものの、五行の関係では太乙が始撃を剋している。近くまで来てはいるが、押し切る力はない。

第二に、客参将が中五宮に落ちて無将になっている。相手方には後続がない。数の大きさは一時の勢いであって、支える構造を欠いているわけだ。

第三に、主大将が太乙と対冲の艮三宮に立ち、格を成している。艮は山であり、止まること、境界、そして終わりと始まりの継ぎ目を象る。真っ向から対立する位置に、こちらの主力が止まるという象の宮を得ている。

主参将は震四宮の木にあり、太乙の坤七宮の土を剋す。こちらの後方部門が、抱え込む力を切り崩す方向に働いている。畳むという選択肢を、後ろから押しているのは自分自身の内側だ、という読みになる。

文昌は軒轅、始撃は地主。軒轅は転換を、地主は動揺と言論を含意する。こちらの視座はすでに転換に向いており、相手方の圧力の正体は周囲のざわめきだ。

総じて、この局は外からの圧力は大きく見えるが実体を欠き、こちらは正面で止まる位置を得ており、内側からは転換の力が働いている、と読める。

応期は、客算三二と主算一三の差一九、その一の位を取って九になる。時局であるから九時辰、すなわち一昼夜に満たない時間のうちに、状況の性質がはっきりする。

一文にまとめる

外からの声は大きいが、それを支える後続はない。こちらは対冲の位置に主力を得て正面から止まっており、押し切られる形ではない。

ただし内側からは転換の力が働いており、抱え込む姿勢そのものが削られつつある。九時辰のうちに事の性質は明らかになるから、それを見てから決めていい。今この場での即断を要する局ではない。

唱える言葉――啓白と謝辞

太乙において呪文の詠唱は必須ではない。算を正しく行うことが術の本体であり、言葉は心を整えるための作法にすぎない、というのが多くの伝書の立場になる。

ただし、立局の前後に短い言葉を置く習慣は各地に見られる。以下は、一般に紹介される形式を整えたものであって、特定の流派の秘伝ではない。

立局の前に唱える啓白は、こうなる。謹啓太一、統御九宮、垂鑑愚誠、示以吉凶、無隠無誣、唯真是従。

読み下すとこうだ。謹んで太一に啓す。九宮を統べ御したまう。愚かなる誠を垂れ鑑みたまい、示すに吉凶を以てしたまえ。隠すことなく、誣うることなく、ただ真にのみ是れ従わん。

音写しておく。キンケイ、タイイツ、トウギョ、キュウキュウ、スイカン、グセイ、ジイ、キッキョウ、ムオン、ムブ、ユイシン、ゼジュウ、と読み上げる。

読解を終え、課式を閉じるときの謝辞は短い。課式已成、謹謝太一、各還本位。

読み下せば、課式已に成れり、謹んで太一に謝したてまつる、各々、本位に還りたまえ、となる。音写すれば、カシキ、イセイ、キンシャ、タイイツ、カクカン、ホンイ、となる。

言葉の内容に注意してほしい。啓白は、隠すな、偽るな、真にのみ従う、と述べている。これは神への要求であると同時に、占者自身への戒めなのだ。

都合のよい答えが出るまで盤を立て直さない、出た局を捻じ曲げて読まない。その約束をここで自分に課しているのだと理解するのがいい。

謝辞の各々本位に還りたまえは、盤上に呼び出した神々を元の位置に戻し、局を閉じる宣言になる。これを唱えたら、その課式についてはもう考えない。

なお、これらの言葉を唱えなければ占ってはならない、という規則はない。唱えるかどうかよりも、唱えるならば毎回同じ言葉を同じ順序で唱えることのほうが、はるかに肝心になる。

禁忌と占者の心得

太乙を扱ううえで、伝統的に、また実務的に守られてきた事柄を挙げていく。

第一に、他者に害を及ぼす目的で立局しないこと。太乙はもともと軍事と国政の術であり、勝敗を問う構造を内蔵している。

しかし、それはどう身を処すかを知るための構造であって、誰かを陥れるための道具ではない。相手を害する手立てを盤に問うことは、この術の伝統においても明確に戒められてきた。ここでも、そうした目的の手順は一切扱わない。

第二に、他人の生死を問わないこと。寿命、死期、生死の別を太乙に問うてはならない、というのは三式に共通する古い戒めになる。

理由は倫理的なものと実務的なものの両方だ。当たっても外れても、問うた者と問われた者の双方を損なうからになる。

第三に、専門的判断の代替にしないこと。健康や病状にかかわることは医療の専門家に、権利義務にかかわることは法律の専門家に、資産の運用にかかわることは相応の資格を持つ専門家に相談してほしい。太乙の局をもってそれらの判断に代えてはならない。

太乙は、決断の前に自分の立ち位置を整理するための枠組みであって、診断でも鑑定でも投資助言でもない。この一線を曖昧にすることは、術の側から見ても、社会の側から見ても、最も避けるべき事柄になる。

第四に、同じ問いを立て直さないこと。さきほど書いたとおりだ。

第五に、他人の依頼を受けて立てた局の内容を、依頼者の同意なく第三者に語らないこと。

第六に、断定しないこと。太乙の判断は、局面の構造を述べるものであって、未来の事実を述べるものではない。こうなる、ではなく、こういう構造にある、と語る習慣を、最初から身につけておくといい。

第七に、盤を立てられない日を作ること。毎日立てると、盤に依存する。太乙は年計を主とする術であり、日々の細かな判断に使う道具ではない。

第八に、記録を残すこと。立局の日付、積年数、入局数、太乙宮、三点、算、四将、格局、そして自分の読みを、必ず書き留める。

後日、実際に何が起きたかを同じ紙に書き加える。これを続けることでしか、太乙は上達しない。そしてこの記録こそが、あとで触れる懐疑論に自分なりに向き合うための唯一の材料になる。

課式の後始末と処分

読み終えた課式の紙をどう扱うかについては、いくつかの慣行が伝わっている。

第一の考え方は、保存する立場だ。太乙は検証を伴ってはじめて意味をなす術であるから、課式は記録として残すべきだ、とする。

この場合、日付順に綴じて一冊にまとめ、他人の目に触れない場所に保管する。他人の相談を受けて立てた局については、依頼者を特定できる情報を書き込まないか、記号に置き換えておくのが望ましい。

第二の考え方は、読み終えたら処分する立場になる。盤に残った結論に自分が縛られることを避けるため、というのが理由だ。

この場合、紙を折り畳んで細かく裂き、燃やすか、可燃物として静かに処分する。火を用いる場合は、屋外の安全な場所で、周囲に燃え移るものがないことを必ず確認し、消火の用意をしたうえで行う。集合住宅のベランダや、風の強い日の焼却は絶対に避けること。

実際のところ、現代の生活環境では焼却を諦めて、裂いて捨てるだけで十分だ。作法の眼目はもう見返さないという区切りをつけることにあり、火そのものに意味があるわけではない。

第三に、折衷案として、算の記録だけを別紙に転記して残し、盤を描いた紙は処分する、という方法がある。数字だけあれば盤はいつでも再現できるから、記録の目的は達せられる。実務的にはこれが最も扱いやすい。

いずれの方法をとるにせよ、共通する作法が二つある。ひとつは、処分の前にさきほどの謝辞を唱えるか、心のうちでこれで終わりと区切ること。もうひとつは、他人の依頼で立てた課式を、依頼者の同意なく残さないことだ。

なお、課式の紙を人に譲る、売る、あるいは護符として持たせるといった扱いは、太乙の伝統には属さない。課式は計算の記録であって、呪物ではない。

学ぶ人たちは何を語っているか

太乙は、日本語圏では名前は有名だが実践者がほとんどいない術として知られている。占い専門の店舗や鑑定サービスで扱われることはごく稀で、看板に太乙神数を掲げる鑑定師は、他の術に比べて圧倒的に少ない。

以下は、公開されている学習記録や体験の記述から得られる典型的な声を、個人が特定されない形にまとめ、匿名化して再構成したものになる。個別の事例であり、術の有効性を示すものではない。

四十代の会社員は、奇門遁甲と六壬を一通り学んだあと太乙に手を出したが、最初の三か月は積年数の紀元をどれにするかで足踏みしたという。

複数の本を並べたら、書いてある数字がまるで違う。どれかが間違っているのではなく、そもそも系統が違うのだと気づくまでに時間がかかった。最終的には一冊に決めて、他は見ないことにする。決めてしまえば先へ進めた。そう語っている。

三十代の自営業者は、年計を過去二十年分立てて、自分の事業の実際の推移と突き合わせる作業を一年かけて行ったという。

当たったところもあるし、まるで違うところもある。ただ、外れた年の局を見直すと、自分がその年に何を争点だと思っていたかが、盤の争点とずれていたことが分かる。太乙が外れたというより、自分の問題設定が的外れだったのだと思うようになった。

この、盤が外れたのか、自分の問いが外れたのか区別がつかないという感想は、太乙の学習者に共通して見られるものらしい。

五十代の会社経営者は、太乙を意思決定そのものには使っていないという。決めるのは自分だ。ただ、局を立てると、自分が何を見落としているかのチェックリストになる。

主客の算を比べると、自分が相手の力を過大評価していたか過小評価していたかが可視化される。それだけで十分に元は取れている。そう述べている。

一方で、否定的な感想も少なくない。二十代の学習者は、一局立てるのに半日かかるのに、出てくる答えは大局は動くが決着はまだ、程度の、どうとでも読める文章だった、と述べている。労力と情報量が釣り合わない、というわけだ。

六壬や奇門に比べて手間が桁違いに大きく、しかも得られる判断が抽象的であること。これが太乙の実用性に対する最も一般的な批判になる。

また、ソフトウェアによる自動排盤が普及したことで、盤は出せるが読めない層が増えたという指摘も繰り返し語られている。

太乙は排盤の手続きが複雑なため、自動化の恩恵が大きい術ではある。だが手で算を追う経験を飛ばすと、格局の意味が身体に入らない。実践者の多くが、最初の百局は必ず手で立てよ、と口を揃えるのはこのためだ。

太乙をどう疑うべきか

太乙神数に対しては、いくつもの角度から根本的な疑問が投げかけられている。学ぶ者は、これらを避けるのではなく、正面から抱えたまま進むほうが健全だろう。

最も重い問題は、積年数の紀元が流派によって異なることになる。さきほど触れたとおり、太乙金鏡式経系と太乙統宗宝鑑系では起点が数百万年から一千万年以上も食い違う。

積年数が違えば七十二で割った余りが違い、入局数が違い、太乙の落宮が違う。つまり同じ年について、系統が違えばまったく別の盤が立ち、まったく別の結論が出るわけだ。

ここで問題になるのは、どちらが正しいかを判定する手段が存在しないことになる。二つの系統が並立して、いずれも歴史上の出来事によく合致すると主張している。

同じ歴史に二つの異なる盤が同じくらいよく合うのなら、それは盤が歴史を説明しているのではなく、盤がどんな歴史にも合うように読めるということではないのか。この問いに、太乙の側から説得力のある回答はまだ出ていない。

第二に、統計的な検証がほとんど存在しない。太乙の応験を、事前に基準を定め、対照群を置き、盲検化した形で検証した研究は、公表されているかぎり見当たらない。

歴史上の事件と局との対応は、そのほぼすべてが事後の当てはめになる。結果を知ったうえで盤を見れば、盤のどこかに対応物を見つけることは容易だ。これは太乙に限らず、長期予測を標榜する術数全般に共通する構造的な弱点になる。

第三に、バーナム効果の問題がある。太乙の判断は、その性質上、抽象度が高い。

勢いは相手にあるが実体を欠く、大きな変化の初動にあたる。こうした記述は、誰のどんな状況にも、多かれ少なかれ当てはまってしまう。読者はそこに自分の状況を投影し、当たったと感じる。太乙の判断が具体的な固有名や日付を含まないことは、この効果を強く働かせる方向に作用する。

第四に、確証バイアスだ。学習者は、当たった局を鮮明に記憶し、外れた局は自分の問いの立て方が悪かった、読みが未熟だった、として、術そのものへの反証として数えない傾向がある。

さきほど紹介した、盤が外れたのか自分の問いが外れたのか区別がつかないという感想は、まさにこの構造を言い当てている。反証不可能な形で運用されるかぎり、太乙が当たるかどうかは経験的に問えない。

第五に、伝承の断絶という問題がある。太乙は禁書として封じられた期間が長く、実技の連続した師承が確認できる系統は乏しい。現在流通している手順の多くは、明清の書物から再構成されたものであり、その再構成が原典の意図どおりであるかを確かめる手立てはない。

こうした批判を踏まえたうえで、なお太乙を学ぶ意義があるとすれば、それは予測装置としてではなく、思考の枠組みとしてだろう。

主客という二項で局面を分解し、大将と参将という正面と後方の二層で勢力を測り、算という数値で優劣を明示し、格局という型で位置関係を確認する。この手続きは、当たるか否かとは別に、状況を整理する道具としての価値を持ちうる。

さきほどの経営者がチェックリストとして使っていると述べたのは、この意味になる。太乙を、未来を知る術としてではなく、現在を記述する言語として扱う。それが、懐疑論と共存できる唯一の姿勢だと言っていい。

六壬、奇門、そして紫微斗数との距離

太乙と奇門遁甲と六壬神課、そして紫微斗数の違いを整理しておこう。

まず六壬神課との違いから。六壬は、問いが発せられたその時刻の干支から課式を立て、四課三伝を組み、十二天将を配して読む。

扱うのは目の前の具体的な事柄であり、答えはあの人は来るか、これは見つかるか、といった水準まで降りてくる。応期も日単位、時辰単位で出る。

これに対して太乙は、時刻ではなく積年という遠大な数から局を立て、答えはこの局面はどういう構造にあるか、という水準にとどまる。六壬が顕微鏡なら、太乙は望遠鏡だ。同じ式を名乗りながら、解像度と視野が正反対に設計されている。

奇門遁甲との違いはどうか。奇門は、節気と時刻から陰陽の局を立て、九宮に三奇六儀と八門と九星と八神を配して、どの方位が有利かを読む。実践の眼目は方位取りであり、いつ、どちらへ動くかという行動指針が直接に出る。

太乙も九宮を使うが、方位は結論ではなく、局面の構造を示す座標にすぎない。奇門が行動の術であるのに対し、太乙は認識の術になる。

なお、太乙に見える八門と九星は、奇門から後代に流入した層と見る立場が有力だ。両者の九宮の番号づけ自体が異なる、つまり奇門は洛書数、太乙は独自の番号を使うという点にも注意しておきたい。

紫微斗数との違いも見ておこう。紫微斗数は、生年月日時から十二宮を立て、紫微をはじめとする諸星を配して、その人の生涯の傾向と各時期の運を読む命術になる。対象はあくまで個人であり、命盤は一生涯変わらない。

太乙は、個人ではなく時代そのものを対象とし、盤は年ごと、あるいは月と日と時ごとに立て替わる。紫微斗数がその人がどういう人かを問うのに対し、太乙はいまがどういう時かを問う。

両者はしばしば北極星の術という共通点で並べられる。紫微は北極星の別名であり、太乙もまた北辰の神だからだ。ただ、共通するのは象徴だけで、技法的な接点はほとんどない。

四者の関係はこう整理できる。個人の資質と生涯を見るなら紫微斗数を使う。目の前の一件を見るなら六壬、動く方位と時を選ぶなら奇門だ。そして時代の局面を見るなら太乙になる。

太乙が三式の筆頭と呼ばれるのは、必ずしも精度が高いからではなく、扱う主題が最も大きいからだ。そう理解しておくのが正確だろう。

通し手順――一局を立てて閉じるまで

ここからは、太乙の年計を一局立てて読み、閉じるまでの通し手順になる。初学者が単独で紙上で完結できるように組んである。所要時間はおよそ二時間から半日。焦らず、途中で切り上げてかまわない。

前日までに、依拠する伝書を一冊決めておく。積年数の紀元がどの系統かを確認し、基準年の積年数を書き写しておくこと。以後、この一冊以外の数値を混ぜない。

当日は、心身の落ち着いた時刻を選ぶ。夜半から明け方、あるいは早朝が伝統的に適するとされる。飲酒後、過労時、強い感情のさなかは避ける。

机上を片づけ、万年暦、太乙局一覧表、方眼紙、筆記具、記録用のノートだけを置く。一覧表が未作成なら白紙でかまわない。他のものは視界から外す。

手を洗う。座り、呼吸を数回整える。

記録用ノートの新しい頁に、日付と時刻、そして占う主題を一文で書く。何を知りたいのかを、後から読んで意味の通る文にすること。主題が二つ以上あるときは、今日はそのうち一つだけを扱うと決めておく。

主題が禁忌に触れていないかを確認する。他者に害を及ぼす目的、他人の生死、医療や法律や投資の専門的判断の代替。いずれかに当たるなら、ここで中止する。

唱えるならば、啓白を唱える。謹啓太一、統御九宮、垂鑑愚誠、示以吉凶、無隠無誣、唯真是従。唱えないと決めているなら、その方針を毎回同じように守る。

方眼紙に三×三の枡を大きく描く。中央に中五と記し、周囲八枡に一の乾で北西、二の離で南、三の艮で北東、四の震で東、六の兌で西、七の坤で南西、八の坎で北、九の巽で南東を記入していく。方位の向きは一度決めたら生涯変えない。

万年暦で対象年の年干支と立春の入り時刻を確認する。年の境が立春であることを忘れないこと。

積年数を算出する。基準年の積年数に、対象年との差を加減する。得られた数をノートに大きく書いておく。

積年数を七十二で割り、余りを求める。余りが零なら七十二とする。これが入局数だ。ノートに記す。

入局数を三で割り、切り上げて宮次を得る。宮次から一を引き、八で割った余りに一を加えて歩数を得る。

歩数に従い、乾一、離二、艮三、震四、兌六、坤七、坎八、巽九の順で太乙の宮を定める。中五宮は数えない。方眼紙の該当する枡に、太乙と書き入れる。

入局数を三で割った余りから、太乙がその宮に入って何年目かを確認する。一年目か二年目か三年目か、ノートに記しておく。

入局数を十二で割った余りを求める。零なら十二とする。寅を一歩目として十二支をその歩数だけ進め、計神の位を定める。十六神の対応で神名と所属宮を確認し、方眼紙に計神と書き入れる。

入局数から十八を繰り返し引き、残りを歩数とする。武徳、つまり申を一歩目として十六神を順行させ、その歩数だけ進んだ位が文昌、すなわち天目になる。方眼紙に文昌と書き入れる。

計神にあたる神を十六神の環の和徳、つまり艮の位置に重ね、順行させて環全体に振り直す。太乙の在る宮の中心の位、正宮なら子か卯か午か酉、維宮なら維そのものに来た神が始撃、すなわち客目だ。方眼紙に始撃と書き入れる。

主算を求める。文昌の宮の次の宮から数えはじめ、一、二、三、四、六、七、八、九の順で太乙の宮まで、通過した宮の番号をすべて加算する。同宮なら一周して四十とする。ノートに記す。

客算を求める。始撃の宮を起点として、同じ方法で太乙の宮まで加算する。これもノートに記す。

定算を求める。主算と客算を足すだけだ。年計では必ず求めておく。

主大将を置く。主算から十を繰り返し引き、残った一桁の数の宮に置く。零になれば中五宮、すなわち無将とする。

主参将を置く。主算を三で割った商を用い、十以上なら十を引いて一桁にし、その宮に置く。零なら無将になる。

客大将と客参将を、客算から同じ方法で置く。定大将と定参将も、定算から同じ方法で置く。

ここでいったん筆を置き、方眼紙の全体を眺める。太乙、計神、文昌、始撃、そして六つの将が、すべて書き込まれているかを確認する。

書き漏らしや書き損じがあれば、その紙は破棄し、入局数のところから書き直す。消しゴムは使わない。

格局を機械的に判定する。掩は太乙と文昌が同宮か、迫は始撃が太乙の隣宮か、囚は将が太乙と同宮か。撃は始撃の宮の五行が太乙の宮の五行を剋すか、関は主側の将と客側の将が同宮に会するか、格は将が太乙の対冲の宮にあるか。成立したものだけをノートに書き出す。

主算と客算を比べる。大きいほうを有余、小さいほうを不足とし、差の数を控えておく。

太乙の宮の意味、つまり方位と五行と卦の象を、まず一文で書く。これがその局の基調になる。

四将の配置を読む。どの宮に落ちたか、無将はあるか、太乙や対冲との関係はどうか。それぞれ一文で書いていく。

五行の生剋を確認する。太乙の宮と文昌の宮、太乙の宮と始撃の宮、太乙の宮と各将の宮。剋している方向、生じている方向を矢印で図に書き込む。

文昌と始撃の神名の含意を書く。こちらの姿勢、相手方の姿勢として言い換えておく。

応期を求める。主算と客算の差の一の位を単位数とする。零なら十だ。年計なら年数、時計なら時辰数になる。太乙の入宮何年目かの情報と併せて解釈する。

以上を、断片の羅列ではなく一続きの文章にまとめる。誰が優勢で、何が争点で、どこに落とし穴があり、いつ動くか。この四点を必ず含める。断定形ではなく、構造を述べる形で書く。

まとめの文を声に出して一度読む。自分が最初に望んでいた答えに引き寄せて書いていないかを確認する。引き寄せていると感じたら、その箇所に印をつけ、書き直す。

唱えるならば謝辞を唱える。課式已成、謹謝太一、各還本位。

課式を処分するか保存するかを、あらかじめ決めた方針に従って実行する。保存するなら日付順に綴じ、他人の目に触れない場所に置く。処分するなら細かく裂いて捨てる。焼却する場合は屋外の安全な場所で、消火の用意をしたうえで行い、風の強い日や集合住宅では行わない。

ノートには、算の数値と読みだけを残す。後日、実際に何が起きたかを同じ頁に書き加えるための余白を、下半分に空けておくこと。

その日は、同じ主題について二度目の局を立てない。翌日以降も、同じ年の年計は立て直さない。

三か月後、六か月後、一年後に、ノートの余白を埋めていく。当たった点、外れた点、そして自分の問いの立て方が適切だったか。この三つを分けて書くことが、確証バイアスに対する唯一の実務的な防波堤になる。

以上を、最低でも三十局繰り返す。太乙が自分にとって何であるかは、それだけの記録が溜まってはじめて、自分の言葉で言えるようになる。

中央の座は、空いたまま

太乙神数は、三式の筆頭と称えられながら、実際にはもっとも学びにくく、もっとも検証しにくい術になる。

積年の紀元は定まらず、伝承は細り、答えは抽象的で、手間だけは膨大にかかる。

それでもこの術が千年以上にわたって語り継がれてきたのは、おそらく、いまがどういう時代なのかを知りたいという欲求が、人間にとってきわめて根深いものだからだろう。

北辰は動かず、万象はそのまわりを巡る。太乙の盤は、その古い宇宙観をそのまま図にしたものだ。中央の座は空けたまま、八つの宮を数が巡っていく。

占者にできるのは、いま数がどこにあるかを数えることだけであって、中央に何が座しているかを見ることではない。太乙という術が最後に教えるのは、案外そういうことなのかもしれない。

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