市が尾トンネル

神奈川県

1. 導入

横浜市青葉区の市が尾に、一本のトンネルがある。
東名高速の下をくぐる、薄暗いガード下だ。
鶴見川の方へ抜ける、生活道路の一部である。

昼に通れば、ただの地味な通路だ。
だが夜、このトンネルには奇妙な噂がある。
白い服の女が、歌いながら歩いてくるというのだ。

歌は「とおりゃんせ」。
真っ暗な道で、女と二人きり。
歌声だけが、近づいてくる。

このあたりでは有名な怪奇現象だと語られている。
奇怪千万は深夜、そのトンネルへ向かった。

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2. なぜ市が尾トンネルへ向かったのか

奇怪千万は千葉から、スーパーカブ110で青葉区へ入った。
選んだ理由は、噂の異様さにある。

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トンネルの怪談は、型が決まっている。
人影、足音、窓に映る顔。
だが、ここは違う。

歌だ。
とおりゃんせを歌いながら、向かってくる。
聴覚から来る怪異は、トンネルでは珍しい。

とおりゃんせという選曲も、引っかかった。
「行きはよいよい、帰りは怖い」。
通り抜ける場所で歌われるには、意味深すぎる。

もうひとつ、市が尾という土地も気になった。
この一帯は、古代の墓の密集地である。
その上を、東名高速が走っている。

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深夜、誰もいない時間を選んで向かった。

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3. 市が尾という土地

まず、この土地の背景を整理する。

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市が尾は、鶴見川沿いの古い土地だ。
台地の斜面には、市ケ尾横穴古墳群が残る。
古墳時代末期に掘られた、横穴式の墓の群れだ。

六世紀から七世紀にかけてのものとされ、
斜面に多数の墓穴が口を開けている。
千四百年前の死者たちが眠る丘である。

つまり市が尾は、古代からの葬地を抱えた土地だ。
その谷筋を、昭和になって東名高速が貫いた。
トンネルは、その高速の下をくぐる通路である。

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一方、白い女の噂の出どころは掴みにくい。
古い書き込みでは、こう語られている。
夜に一人で歩いていると、向こうから白い服の女が来た。

女は「とおりゃんせ、とおりゃんせ」と歌いながら、
まっすぐこちらへ向かってきたという。
体験者は正気を保つのがやっとで、走って逃げた。

事件や事故との結びつきは、確認できなかった。
噂だけが、土地に染みついている。

4. とおりゃんせという歌

この噂の核心は、歌にあると思う。
少し、とおりゃんせ自体を見ておきたい。

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とおりゃんせは、江戸期から伝わるわらべ歌だ。
関所か細道を、通してもらう問答の歌である。
天神様の細道を、七つのお祝いに札を納めに行く。

不気味なのは、結びの一節だ。
「行きはよいよい、帰りは怖い」。
なぜ帰りが怖いのか、歌は説明しない。

七歳までの子は神のうち、という古い観念。
関所の向こうは異界だという解釈。
間引きや人柱と結びつける説まである。

いずれにせよ、この歌は「境界」の歌だ。
こちら側とあちら側を隔てる、細い道の歌。

トンネルもまた、境界である。
暗い穴の向こうとこちら。
その境界で、境界の歌をうたう白い女。

噂として、出来すぎなほど筋が通っている。

5. 深夜、ガード下で

カブを停め、トンネルの手前に立った。
頭上を東名高速が走り、車の音が絶えず響く。
だがガード下の道そのものは、無人だった。

トンネルは短い。
出口の光が、向こうに小さく見えている。
それでも中は、照明が乏しく薄暗い。

壁は排気で黒ずみ、湿った匂いがした。
頭上を大型車が通るたび、低い振動が落ちてくる。
コンクリートの箱の中で、音が渦を巻く。

奇怪千万は、ゆっくり中へ入った。
足音が、壁に硬く反響する。
頭上の走行音と混ざり、耳の中が濁っていく。

その濁りの中で、ふと気づいた。
高速の音が、旋律のように聞こえる瞬間がある。
タイヤの継ぎ目音が、一定の拍子を刻むのだ。

トン、トン、トン。
歌に聞こえなくもない、規則的な音。
背筋のあたりが、すっと冷えた。

6. 歌は聞こえたか

トンネルの中ほどで、奇怪千万は足を止めた。
白い女は、いなかった。
歌声も、はっきりとは聞こえなかった。

だが、妙な瞬間が一度だけあった。
頭上の車が途切れ、静寂が落ちた数秒間。
遠くで、細い声のような音がした。

子どもの声にも、猫の声にも聞こえる。
高く、細く、尾を引く音だった。
一度きりで、それは途絶えた。

出口へ抜けると、鶴見川の方から風が来た。
振り返ると、トンネルは黒い口を開けている。
古墳群の眠る台地が、その上に黒く横たわっていた。

写真には、何も写らなかった。
録音を再生しても、あの細い声は入っていない。
車の走行音だけが、延々と続いていた。

7. 考察

体感を整理する。

旋律に聞こえた音は、継ぎ目音の錯覚だろう。
一定のリズムを持つ雑音は、歌に化けやすい。
脳が勝手に旋律を補完するのだ。

細い声は、猫か鳥か、ブレーキ音の反射か。
録音に残らなかった以上、判断材料がない。

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白い女の噂も、この線で説明はつく。
ガード下の反響と振動は、聴覚を惑わせる。
そこに暗さと孤独が加われば、歌声は生まれ得る。

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ただし、引っかかりは残る。
なぜ噂は「とおりゃんせ」を選んだのか。
数ある歌の中で、境界の歌を。

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錯覚が歌に化けるとしても、
曲目までは錯覚が決めない。
そこには、語り手たちの無意識が働いている。

8. 仮説

ひとつの仮説を残す。
この噂は、土地の記憶が形を変えたものだ。

市が尾は、千四百年前からの葬地である。
死者の穴が並ぶ丘の裾を、人々は行き来してきた。
生者の道と死者の領域が、隣り合う土地だ。

その境界を、東名高速が上書きした。
だが土地の性格は、消えない。
トンネルという新しい境界に、宿り直しただけだ。

とおりゃんせは、境界を通る歌である。
白い女は、境界の番人の姿である。
噂は無意識のうちに、この土地の構造を言い当てている。

行きはよいよい、帰りは怖い。
古墳群の下を抜けるこの道に、
これほど似合う歌は、ほかにないと思う。

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9. アクセス

市が尾トンネルは、横浜市青葉区の市が尾にある。
東急田園都市線の市が尾駅から、鶴見川方面へ歩く。
東名高速の下をくぐる、ガード下の通路だ。

ここは現役の生活道路である。
車も自転車も通るので、通行の妨げにならないこと。
夜間は照明が乏しく、足元に注意が要る。

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近くの台地には、市ケ尾横穴古墳群がある。
横浜市指定の史跡で、昼は見学もできる。
古代の墓域なので、荒らす行為は厳禁だ。

周囲は完全な住宅街である。
深夜の騒音や肝試しの喧騒は、慎んでほしい。

境界の道は、静かに通り抜けるものだ。
歌が聞こえても、足を止めないほうがいい。

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