友人の話から始める。
そいつが子供のころ、近所に取り壊しの決まった空き家があった。
長く人の住んでいない、古い平屋だ。
解体の前に一度だけ、肝試しで中へ入ったらしい。
埃と黴の匂いだけの、がらんとした座敷。
その一角だけ、線香の匂いがしたという。
仏壇はとうに運び出されている。
灰も燃えさしも残っていない。
燃えるものは何もない。
なのに匂いだけが、そこに立っていた。
匂いの濃いところは、畳の一畳ぶんほど。
そこから出ると消えて、戻るとまた香る。
肝試しの三人は、その場で逃げ出したらしい。
「あれ、誰かが焚いてる匂いだった」
電話の向こうでそいつは言った。
「焚くものなんて、何もなかったのに」

私は心霊スポットの撮影を続けている。
十六のころから三千を超える場所を回ってきた。
その晩に向かったのは、房総のホテルの廃墟。
海沿いに建つ大きな建物で、営業はとうにやめている。
カブ百十で行ける範囲だから、下道で長く時間をかけて向かう。
国道をそれて細い海沿いの道に入る。
街灯はまばらで片側はずっと黒い海。
潮の匂いがヘルメットの内側まで入ってくる。
ガードレールの外は、いきなり崖だった。
落ちていく波の音が、ずっと下から聞こえる。
道の終わりに錆びたゲートが倒れていた。
チェーンは切られて、地面に垂れている。
ここまで来る者は、もうほとんどいない。
草の中に踏み均された細い跡だけが続いていた。
建物は岬の根元に立っていた。
何階もある四角い影が、星を背に切り抜かれている。

窓はほとんど割れているか塞がれているか。
正面の車寄せにカブを止めた。
エンジンを切ると波の音だけが残った。
看板の文字は半分がもげて読めない。
昔の名残で入り口には観葉植物の鉢が並んでいた。
土だけになった鉢から、枯れ枝が突き出している。
ロビーらしい広間から中へ入った。
足元で割れたタイルがこすれて鳴る。
天井の一部が落ちて、雨の跡が黒く広がっていた。
黴と埃の匂いがひとかたまりになって沈んでいる。
ロビーの床には剥がれた天井がそのまま積もっていた。
靴の下で紙のように軽い音がする。
両側の壁には額の抜けた跡が点々と残る。
絵も鏡もとうに剥がされている。
案内板の矢印だけが、行き先のない方向を指していた。
エレベーターの扉は、半分ひらいて止まっている。

中をのぞくと底まで暗い縦穴があった。
フロントのカウンターだけが、形を残していた。
受付の奥には、鍵のついた板がまだ下がっている。
奥へ長い廊下がまっすぐ伸びている。
ライトの先で客室の扉が等間隔に並ぶ。
客室の並びは、奥へいくほど暗い。
階段で三階まで上がった。
踊り場の窓から海が白く光って見える。
三階の廊下はほかの階よりも荒れていた。
天井の配管がむき出しで、足元には水がたまっている。
その水の上を自分の足音だけが渡っていく。
廊下に入ってすぐに足が止まった。
黴の匂いに別のものが混じっている。
線香だ。
焚きたての細い煙の匂い。
廃墟に似合わない、乾いた清潔な匂い。
雨と潮の湿気の中で、その匂いだけが乾いている。

水に濡れない種類の、細い煙。
匂いをたどって奥へ歩いた。
濃くなるのは廊下のいちばん奥の一室。
扉は半分ひらいたままだった。
中をライトで照らした。
剥がれた壁紙に倒れた台、割れたままの窓。
香炉も燃えさしも、灰の一粒もない。
匂いだけが部屋の中ほどで濃くわだかまっている。
ライトを消すと、匂いはいっそうはっきりした。
一歩さがると匂いはふっと薄れた。
戻るとまた濃くなる。
友人の言ったとおりだ。
畳一畳ぶんの匂いが、宙に立っている。
匂いの輪郭は人の背丈ほどの高さで途切れていた。
立っている人の肩のあたりの高さ。
スマホを構えてその一画を録った。

画面に映るのはただ暗い部屋。
煙も揺らぎも映らない。
匂いだけがレンズの届かないところで香り続けていた。
もう一度今度は畳のほうへレンズを向けた。
再生しても映るのは暗い畳だけ。
画面の隅で白い点がひとつ明滅していた。
火のついた線香の先のような、小さな光。
床に膝をつき、匂いの中心を手で探る。
畳の上に人ひとり座るぶんの空きがあった。
そこだけ埃が薄く払われている。
畳はとうに腐って、踏むと沈む。
その一画だけはなぜか乾いて固かった。
指で畳をなでると、乾いた粉が少しついた。
鼻に近づけても線香の匂いはしない。
匂いは粉からではなく、空き全体から立っている。
人がひとり長いあいだ、そこに座っていたような跡。

あとで近くの店の古い人に、少しだけ話を聞いた。
「あのホテルかい」
そう言ってその人は煙草に火をつけた。
「昔は団体さんでよく埋まってたよ」
「法事の帰りの客も、ずいぶん泊めてた」
三階の奥には焼香のできる広めの部屋があったらしい。
法要の客がそこで線香をあげて帰る。
それが長く続いたという。
客の中には毎年同じ日に来る人もいたらしい。
法事の宿として長く使われていたという。
「いちばん最後に泊まったのも、法事の人らだった」
そう言ってその人は灰皿に煙草を置いた。
「それきりホテルはたたんでね」
最後の客が線香をあげた部屋。
それが三階のあの一室なのかもしれない。
建物が建つ前に何があったのかは知らないという。

ホテルになってからのことだけを、その人は話した。
ここから先は私の推測になる。
何度も手向けられた煙を、建物が吸って離さないのかもしれない。
弔いというものに残り香があるなら、ああして立つのだろう。
撮影を切り上げようと、扉のほうへ向いた。
そのときだ。
匂いが濃くなる。
煙そのものがすぐ目の前で立ちのぼっている。
細い一本の煙がまっすぐ立って揺れない。
線香を一本立てたばかりのような、上がり方。
畳の空きに薄い灰が一筋こぼれた。
抹香を指でつまんでくべる、その手つきで。
落ちた灰は人の膝の前あたりに、小さく溜まっていく。
風はない。
窓は割れて外気は通っているはずだ。
煙だけがまっすぐ天井へ昇っていく。
昇った煙は天井の一点で消える。

そこには雨染みの輪が滲んでいた。
誰も座っていない畳から、煙は途切れずに上がり続ける。
私は部屋を出た。
廊下を振り返らずに戻る。
ホテルを出てカブにまたがった。
潮の匂いがまた戻ってくる。
線香の匂いはもうしない。
家に帰り着いたのは、明け方だった。
庭にカブを入れて、母屋に上がる。
その晩はそれで終わった。
例の友人に電話をしたのは、その週のうちだ。
廃ホテルで何があったかを話した。
電話の向こうがしばらく無音になる。
「同じ匂いだろ」
言われてうなじのあたりが冷えた。
「あの匂いを嗅いだ家、結局どうなったと思う」

そいつはそれ以上、何も言わなかった。
あの空き家がどうなったかは、今も聞いていない。
聞かないほうがいい気がして、そのままにしている。
おかしくなったのは、その次の晩からだ。
夕方の決まった時刻。
固定電話の置いてある棚のあたりで、線香が香る。
仏壇などない家だ。
線香の一本も置いていない。
棚の上には固定電話と古いメモ帳しかない。
線香を立てるものは、どこにもない。
なのに夕方になると、棚の前の空気が乾きはじめる。
そこから線香が香りだす。
棚に近づくと香りは前へ前へと濃くなる。
離れた瞬間に黴と埃の家へ戻る。
ちょうど人ひとり座るぶんの幅で。
はじめの晩はそれだけだった。

しばらく香ってやがて消える。
何日かして棚の前の空気が動くようになった。
誰かが膝を崩すような、衣ずれの音。
香りの濃い夜は決まってその音がする。
振り向いても棚の前には何もない。
固定電話の受話器だけが、わずかに湿っていた。
今はその時刻になると、家の電気を点ける。
棚の前は通らないようにしている。
香りの満ちる十分ほどは、別の部屋でやり過ごす。
戻るころには棚の前の空気はもとに戻っている。
一度だけ香りの中心に手をかざしてみた。
手のひらだけがひやりと乾いていた。
燃えていない線香の匂い。
近づけば香る。
離れれば薄れる。
棚の前にまだ誰かが座っている。


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