友人の話から始める。
そいつの育った町に、古い農業用のため池があった。
田んぼに水を引くための、大きな溜池だ。
水際には小さな石の祠が立っている。
子供のころその祠のあたりで、濡れた足跡を見たという。
晴れた日の昼で雨は何日も降っていない。
足跡は祠のほうから、岸の道へ続いていた。
裸足の跡が乾いた土の上に点々と。
数歩で跡はふいに消えている。
水に入った者も出てきた者もいない。
近くにいた子はみんな、見たと言っている。
祠には貝殻を供える習わしがあったらしい。
海から遠いのになぜ貝殻なのかは、知らないという。
「片足ずつきれいに残っててさ」
電話の向こうでそいつは言った。
「誰も、いなかったんだよ。池には」

それきりその池には、近づいていないらしい。
私は心霊スポットの撮影を続けている。
十六のころから三千を超える場所を回ってきた。
その晩に向かったのは、房総のため池。
地図にも名のない、農業用の古い溜池だ。
カブ百十で行ける範囲だから、下道で長く時間をかけて向かう。
国道をそれて田んぼの中の農道に入る。
舗装はとうに切れて、土と砂利の道になった。
途中で道が二股に分かれていた。
草に埋もれたほうへ、タイヤを取られながら入る。
正しい道かどうかは、もう分からない。
両側の用水路が月の光を細く返している。
水の流れる音がずっとついてくる。
風がないのに稲の葉先だけが、かすかに動く。
用水路の水音が急に大きく聞こえた。
蛙の声があたり一面で鳴いていた。

民家の灯りはもう、どこにも見えない。
道の先に黒い水面が広がってくる。
堤の上にカブを止めた。
エンジンを切ると、蛙の声がぴたりとやんだ。
しばらくしてまた少しずつ鳴きはじめる。
堤の上は人ひとり通れるだけの、土の道。
片側は田んぼで反対側はため池の水。
水は岸まで黒くなみなみと満ちている。
堤の内側は思ったより深く、水をたたえている。
底のほうはライトの光も届かない。
岸の一部は土が抜けて、崩れた跡があった。
風はないのに水の匂いだけが、上がってくる。
泥と藻と古い水のにおい。
ライトをつけると、岸の輪郭が浮かんだ。
岸のほうへゆるい斜面を下りていく。
足元はこぶし大の石を敷いた砂利。
一歩ごとに石のこすれる音がする。

水際に例の石の祠が立っていた。
高さは膝くらいの、古い祠だ。
苔におおわれて文字はもう読めない。
供えの皿には雨水だけがたまっている。
皿のふちに小さな貝殻が一つ置いてあった。
ライトを消してしばらく水を見ていた。
水面は鏡のように動かない。
岸の草も葉の一枚も揺れない。
星がそのまま水に映り込んでいる。
波紋に気づいたのは、祠の正面あたりだ。
ぽつんと一つ。
輪が静かに広がって、岸に届いて消える。
間をおいてまた一つ。
同じ場所から同じ大きさで立つ。
風はない。
魚の跳ねる音も物の落ちる音もない。

一定の間で波紋だけが続いている。
数えてみるとほぼ、十を数えるたびに一つ。
人がゆっくり足を踏み入れるような、間隔で。
水の底から何かが押し上げているように見える。
立ち上がって波紋の出どころを見定めようとした。
水面の一点がほかより黒く、沈んで見える。
穴のようなその一点から、輪が出ている。
輪の数は減りも増えもしない。
律儀に同じ拍子を刻んでいる。
見ているこちらの息に、間が合ってくる。
波紋の出るあたりへ、岸を寄っていった。
水際の砂利がそこだけ濡れて黒い。
濡れた石の上に足の跡が一つあった。
裸足の右足だけの跡。
土踏まずの形まで、はっきり残っている。
つま先は水のほうではなく、岸を向いていた。
もう片方の跡はどこにもない。

一歩ぶんの濡れ跡が、ぽつんとあるだけ。
そのまわりの砂利は、乾いたままだ。
跡の深さは人ひとりぶんの、重みがある。
濡れているのにまわりへ、水が散っていない。
水際からその一歩ぶんだけが、離れている。
膝をついて足跡に指をあてた。
水を含んだ砂がひやりと冷たい。
指を離すと砂の窪みがゆっくり戻った。
波紋はまだ同じ間で立っている。
スマホを構えて水面を録った。
画面の中の池はただ黒く沈んでいる。
波紋は画面の上では起きていない。
水はレンズの中だけ凪いでいた。
足跡のほうへもレンズを向けた。
濡れた石はちゃんと映る。
足の形だけがどこにも映らない。

もう一度岸の砂利を、端から端まで撮った。
濡れているのはあの一画だけ。
ほかの石はどれも白く乾いていた。
録った音声をその場で再生してみた。
蛙の声と自分の息だけが入っている。
水を踏む音はどこにも入っていなかった。
あとで近くの農家の古い人に、少しだけ聞いた。
「あの溜池かい」
そう言ってその人は鍬を持つ手を止めた。
「あすこはなかなか、水の溜まらん池でね」
普請のたびに堤が片側から、崩れたという。
何度築き直しても、同じ場所が抜ける。
「それで人をひとり、入れたって話さ」
堤の土に人柱を埋めた、という言い伝えだ。
水神を鎮めるために、岸へ祠を建てた。
「祠の貝殻は欠かしちゃいけないんだと」
「日照りの年もあすこだけは涸れんかった」

「下の田が助かるのと引き換えだと、昔の人は言ってた」
若いころに堤の補修を、手伝ったともいう。
掘り返すと古い人の骨が出た、という噂もあった。
本当かどうかはその人も知らないらしい。
その人はそれだけ言って、畑に戻った。
ここから先は私の推測になる。
水に沈められた者がいるなら、片足で立つわけもある。
抜ける堤を内から押さえているのかもしれない。
撮影を切り上げようと、堤のほうへ向いた。
そのときだ。
波紋が急に間を詰める。
一つまた一つと岸へ近づいてくる。
水際の黒い帯が足元のほうへ伸びてくる。
濡れた石の上にもう一つ跡がつく。
私のすぐ前に右足の跡が一つ。
水からこちらへ上がってきた向きで。

足首のあたりに冷たい水の気配がした。
何かが片足を岸にかけている。
水の中から白い足の裏がこちらを向く。
沈んだ顔のあたりに、波紋がもう一度立った。
供えの皿の貝殻が、かたりと鳴った。
貝殻の鳴る音がもう一度かたりと響く。
私は堤へ駆け上がった。
振り返ると水の面はもう静まっている。
岸の濡れ跡だけが、二つに増えていた。
二つとも同じ右足の跡。
カブにまたがって、農道へ出た。
蛙の声がまた一面に戻ってくる。
ミラーは見なかった。
家に帰り着いたのは、明け方だった。
庭にカブを入れて、母屋に上がる。
その晩はそれで終わった。
例の友人に電話をしたのは、その週のうちだ。

ため池で見たものを話した。
電話の向こうがしばらく無音になる。
「片足だったろ」
言われて足の裏がすっと冷えた。
「あれ、こっちへ来たがってるって年寄りが言ってた」
「貝殻はちゃんとあったか」
あったと答えると、そいつは黙った。
それ以上は何も言わなかった。
おかしくなったのは、その次の朝からだ。
玄関の戸を開けると、土間に水の跡がある。
上がり框の端に濡れた砂がひと掴み。
こぶし大の石まじりの、池の岸の砂だ。
家のまわりにあんな砂利は敷いていない。
夜のうちに誰かが上がろうとした跡。
框の手前で片足ぶんだけ濡れている。
玄関の三和土が夜ごと湿るようになった。

拭いても夕方には、また黒く湿っている。
拭き取っても次の朝には、また戻る。
決まって框の同じ端に。
砂は日に日に乾きにくくなった。
ある朝は砂が框の内側まで、入っていた。
片足の跡が家の中を向いている。
砂のひと掴みはいつも、框の同じ位置にある。
まるでそこに足をかけて、待っているように。
今は寝る前に玄関の電気を点けておく。
上がり框には近づかないようにしている。
一度だけ濡れた砂に触れてみた。
指の先だけが池の水で冷たかった。
裸足の片足ぶんの、濡れ跡。
上がってくれば框で止まる。
引けばまた水に戻る。
框のすぐ外にまだ、片足で立っている。


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