堀底

城巡りを趣味にしている友人がいる。

月に一度ほど喫茶店で会う仲で、以下Sと呼ぶ。スタンプ帳と御城印の束を鞄に入れて全国を回っている男だ。

石垣より土の城が好きだと言う。天守の写真より、堀の断面の写真ばかり撮っている。

そのSが五月の終わりに、一枚のコピーをテーブルに置いた。

縄張図だ。曲がりくねった堀が幾重にも巡り、図というより指紋に見えた。

「茨城の小幡城。行ってみてくれないか」

自分ではもう行かないと言う。理由を聞くと、Sはコーヒーを半分空けてから話し始めた。

小幡城跡は茨城町にある。

三方を水田に囲まれた台地の先に築かれた中世の城で、建物は何も残っていない。残っているのは土だけだ。

堀と土塁は四百年あまり、ほぼ当時の形のまま残っている。それだけの年月、この迷路を埋めようとした者がいなかったことになる。

深い空堀が城内を迷路のように巡り、見学者はその堀底を歩く。町指定の史跡で、順路の案内が立ち、立入禁止の区画は柵で仕切られている。

堀底:そのSが五月の終わりに、一枚のコピーをテーブルに置いた

Sが行ったのは五月の平日だった。

北側の駐車場に車は一台もなく、周りに店も自販機もない。登城口の説明板には、築城者ははっきりしないこと、戦国の終わりに佐竹方に落とされ、のちに廃城となったことが書かれていた。

入ってすぐ、Sは足を止めたそうだ。

両側の土塁が高い。五メートルはある。堀底に立つと空が細い帯になり、昼だというのに薄暗かった。

「土の壁の底を歩かされる。あれは道じゃない。器だ」

最初の三十分は楽しかったと言う。折れ曲がる堀、櫓台、土橋。順路の矢印を追って、Sは夢中で写真を撮った。

気づいたのは同じ土橋に二度出たときだ。

矢印は一方向のはずだった。分かれ道で矢印以外を選んだ覚えはない。

スマホの地図を開くと、現在地の青い点は堀の外の水田の真ん中に立っていた。

木の下でGPSが荒れるのはSも知っている。知っていて、その点の座り方には収まりの悪さが残ったそうだ。点は震えもせず、田のど真ん中から動かなかった。

次に、足音がした。

頭の上。土塁の上を、乾いた土を踏んで歩く音。

堀底:Sが行ったのは五月の平日だった

見上げても竹と木の幹しか見えない。駐車場に他の車はなかった。歩いて来る者があるような場所ではない。

足音はSと同じ速さで、堀の縁を並んで進んだ。

靴とも草履ともつかない、湿り気のない音だったそうだ。

途中の説明板に「変形武者走り」とあった。

土塁の上に彫られた凹み状の通路で、堀底の敵に気づかれずに兵が移動するための構造と推定される、という趣旨が書かれていた。

堀底からは見えない。そういう造りだと、城が自分で説明していた。

Sは足音の意味を考えるのをやめ、先を急いだ。

本丸は高い土塁にぐるりと囲まれ、南の虎口から土橋で入る。

北側に井戸の跡が残る。

説明板には、落城のとき金の鳥を抱いた姫がこの井戸に身を投げたという言い伝えが記されていた。

井戸の前に立ったとき、並んで来た足音が止まった。

堀底:土塁の上を、乾いた土を踏んで歩く音

代わりに一度だけ、井戸の側から、土を叩く音がしたそうだ。

Sはそこから出口まで写真を一枚も撮っていない。

外に出ると日が傾いていた。腕時計は入城から二時間半を示していた。体感は一時間だったと言う。

出口までに幾つ曲がったのか、Sは覚えていない。曲がった感触だけが膝に残っていたそうだ。

駐車場に戻ると、車の屋根に土がのっていた。

ひと掴みぶんほど。乾いた、堀底と同じ色の土だった。周りに木の枝は張り出していない。

「あの城は、入った者を歩かせる。順路なんて飾りだ」

Sは縄張図を私のほうへ押し出した。

「行くなら、道を城に決めさせるな」

行く前に調べた。

町の観光案内には遺構の説明と伝説が載っている。心霊の類では、落武者を見たという噂と、井戸の近くで首を吊った者がいるという噂がネットに転がっていた。

どちらも裏の取れる話ではない。噂は噂として書いておく。

堀底:代わりに一度だけ、井戸の側から、土を叩く音がしたそうだ

順路をなぞるだけなら三十分ほどで回れる、という見学記も読んだ。滞在は一時間までと決めた。

七月の夜、カブで出た。

千葉から下道で二時間半。茨城へ入ると道がまっすぐになり、眠気と競り合う直線が続いた。涸沼の縁を回る頃には日付が変わりかけていた。

夜の水田は音でわかる。蛙の声が左右から途切れずに続き、カブのライトだけが黒い水面を撫でていく。

駐車場に車はゼロ。街灯もない。

登城口の説明板をライトで読んだ。Sの言ったとおりの文面で、姫と金の鳥のくだりも確かにあった。

決めごとを二つ作った。柵は越えない。順路しか歩かない。

目印も用意した。史跡に傷はつけられないので、落ちている枝を拾い、分かれ道の隅に置いていくことにした。

堀底に入る。

ライトを上げても土塁のてっぺんまで光が届かない。空は細い帯で、星が数えられるほどしか見えなかった。

風の音は上だけにあった。竹の鳴る音が頭のはるか上を渡っていく。堀底は無風で、七月なのに空気が冷たい。

堀底:順路をなぞるだけなら三十分ほどで回れる、という見学記も読んだ

土と竹の葉の匂いが濃い。匂いまで堀の中に溜まっている。

自分の足音が響かないことに、少し歩いてから気づいた。

土の壁が音を吸う。試しに一度、手を叩いた。

返ってくるものがなかった。音がその場で土に沈む。

スマホの録音を回しながら少し歩き、巻き戻して聞いた。

自分の足音の半歩あとに、もう一組の足音が入っている。

イヤホンを外した。録音は止めずにおく。

一つ目の分岐に枝を置いた。枝の先を、進む方向へ向けて。

二つ目。三つ目。

矢印の看板どおりに三度曲がった。

二つ目の分岐に戻っていた。

隅に置いた枝はある。向きが変わっていた。置いたとき、先は堀の奥を指していた。いまは入口の方を指している。

堀底:匂いまで堀の中に溜まっている

風はない。堀底に、風はないのだ。

スマホを見た。青い点は水田の真ん中に立っていた。Sのときと同じ場所かはわからない。

足音は、そのすぐ後から始まった。

右の頭上。乾いた土を踏む音が、こちらと同じ歩幅で並ぶ。

立ち止まると止まる。

歩き出すと続く。

速さを変えてみた。速めれば速まり、緩めれば緩む。合わせてくる。

変形武者走りの説明板の前に出た。

堀底の敵に気づかれずに移動するための構造。ライトで文字をなぞって読んだ。

読み終えた途端、足音が消えた。

構造は、まだ機能している。

堀底:速めれば速まり、緩めれば緩む

そう思ってから、思ったことを悔やんだ。見えない理由に説明がついてしまうと、いる事実だけが残る。

消えてからのほうが、足が進まなかった。位置がわからなくなっただけだと、体のほうが先に理解していた。

肩に土が落ちてきたのは、その少し先だ。

ぱら、ぱらと乾いた粒が二度。誰かが縁に立ったときに崩れる、あの落ち方だった。

ライトを上げる。竹の葉が重なっているだけで、動くものは見えない。

本丸への土橋を渡った。

囲いの土塁が黒い。虎口を抜けると急に空が広くなり、息が一つ深くなった。

北側に井戸の跡がある。柵の手前で膝をつき、ライトを向けた。

井戸の縁は低く土に埋もれ、窪みの底に落ち葉が溜まっている。中心だけが円く凹み、渦を巻いたように沈んでいた。

風のない城で、だ。

ライトを消して、耳だけで立ってみる。上の竹の音と、自分の呼吸。それ以外に何もない一拍があった。

点け直した光の中で、羽音がした。

堀底:井戸の縁は低く土に埋もれ、窪みの底に落ち葉が溜まっている

一度だけ。大きな鳥が羽ばたく音。

上からではない。井戸の底の方で鳴り、底の方へ沈んでいく。抜けていく先が、下にしかないような鳴り方だった。

説明板の言い伝えを思い出した。抱かれて沈んだ鳥のことを考えたのは、私の勝手な連想に過ぎない。そう断っておく。

目を落とすと、落ち葉の凹みが一回り深くなった気がした。

確かめる気は起きなかった。

引き返すことにする。

帰りは一度も迷わなかった。分岐に着くたび、進むべき側の隅に枝が落ちている。

私が置いたのは三本だ。

拾いながら戻る。一本。二本。

三本目は、置いた覚えのない分岐に落ちていた。数は合うのに、場所が合わない。

出口の手前の分岐に、四本目があった。

堀底:三本目は、置いた覚えのない分岐に落ちていた

先は出口を指している。

拾わずに出た。

外の空気は生ぬるく、蛙の声が一斉に戻ってくる。

腕時計は入城から一時間五十分を過ぎていた。歩いた感覚は四十分に満たない。

駐車場のカブは無事だ。シートに土がひと筋のっていた。

指でなぞると乾いていて、堀底と同じ色をしている。

エンジンは一発でかかった。涸沼の縁を戻る道で、蛙の声が両側にあることに安堵する自分に気づく。

帰ってから、堀の中の録音を聞き直した。

歩いたはずの区間だけ、無音で残っていた。二組の足音も、自分の息の音も入っていない。

Sに縄張図を返したのは翌週だ。

喫茶店のテーブルに広げると、鉛筆の線が一本増えていた。

順路とは別の線だ。堀底を途中で外れ、立入禁止の郭を突っ切って、図の外へ抜けている。

堀底:堀底を途中で外れ、立入禁止の郭を突っ切って、図の外へ抜けている

私の線ではない。私は左利きで、引いた線の払いは左へ流れる。増えた線の払いは、右へ流れていた。

Sは黙って鞄から二つのものを出した。

一枚目は自分の縄張図。同じ場所に、同じ線。

二枚目は現地の写真だという。入りの三十分に撮った一枚で、堀底の順路看板が写っている。矢印の向きが、Sの記憶と逆を指していた。

「どっちかが間違ってる。俺か、城か」

Sの声は静かだった。

Sはいまも城を巡っている。ただ、堀底を歩く城には一人で入らなくなった。

私の図は捨てていない。捨て方がわからない。

線のとおりに歩けばどこへ出るのか、確かめてもいない。

拾わずに残した四本目の枝を、時々思い出す。あれがいまどちらを向いているのか。

図は机の抽斗に入れてある。月に一度だけ開いて、線が増えていないことを確かめている。

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