心霊スポットの撮影から戻る深夜、私はカブを庭に止めると、頭を冷やしにそのまま近所をひと回り歩くことにしている。
廃屋や山道で過ごした暗い時間のあとに、ひと気のない住宅街をゆっくり歩くと、強ばった背中がふっとゆるむ。撮影で見聞きしたものを、すぐには家へ持ち帰りたくなかったのだと思う。
いつもの散歩コースのなかほどに、古ぼけたバス停がひとつ立っていた。さびた標識と木のベンチがあるきりの、どこの町にもありそうな小さなバス停だ。
終バスはとうに行ってしまう時刻で、そこに人の立つことなどないはずだった。終バスの時刻はとうに過ぎ次の朝まで一台のバスも来はしない。ふだんはその小さな標識を気にも留めずに通り過ぎていた。
そのベンチに毎晩、同じ男が腰かけているのに気づいたのは、いつごろからだったろうか。

くたびれた紺色の背広を着た中年の男で、膝に古い鞄を抱えて背を丸めている。時刻表をじっと見上げたまま、男はぴくりとも動かなかった。
終バスはとうに過ぎているのに、男はただじっとバスを待ち続けている。まばたきの一つさえせず、ひたすら標識の時刻表を見つめているのだった。
街灯の白い光の下で、男のまわりだけがわずかに翳って見える。声をかけるのもためらわれて、私はいつも目を伏せてその前を通り過ぎていた。
男のいるあたりだけ夜の空気がひときわ重く沈んでいる。
気になって、私は何日か続けて同じ時刻にその道を通ってみた。

男はいつも同じ刻限に同じベンチで、判で押したように同じ姿勢のまま座っている。見上げている時刻表のちょうど同じ一行に、毎晩きっかり視線を当てているのだった。
何が書いてあるのかと、私は一度だけ近づいてその時刻表を覗いてみたことがある。便の時刻はすべて消えていて、白い紙にはただ路線の名だけが薄く残っていた。
そこに刷られていたのは、もう何年も前に廃止された路線の名なのだ。そのバスが走らなくなってベンチだけが取り残されたまま朽ちかけていた。男はその来ないバスを毎晩じっと待ち続けているのだろう。
ある晩、犬の散歩らしい近所の人が、向こうから歩いてきた。
すれ違いざま、私はそれとなくあちらの方よく座っていますね、と声をかけてみる。その人は怪訝な顔をして、誰もいないバス停のほうをちらりと見た。

あんなところに、座る人なんていませんよ。
そう言い残して、近所の人は足早に行ってしまった。男はそのとき、たしかにすぐそこのベンチで時刻表を見上げていた。
ある晩、いつものようにバス停の前を通り過ぎようとしたときのことだ。
男のいたベンチの上に、一枚の古い整理券がぽつんと置かれているのが目にとまった。拾い上げてみると、それはまぎれもなくあの廃止された路線の整理券だ。
印字された日付はまだ来ていない明日のもので、時刻はいつも私がここを通る時間ぴたりだった。

顔を上げると、ベンチにいたはずの男の姿がいつのまにかどこにもなくなっている。誰も座っていない木のベンチの上に、その整理券だけがぽつんと残されていた。
私はその一枚を、いまも財布の奥にしまったままにしている。廃止された路線の、来るはずのないバスの整理券。それを誰が何のために置いていったのか。
その散歩の道で、近ごろ決まってひとりの男とすれ違うようになっていた。
小型犬を連れた物腰のおだやかな年配の人で、会えば互いに軽く会釈を交わす。犬の名は知らないままだったが、毛足の長いおとなしい白犬で、すれ違うたびに私を見上げて尾を振る。
夜ふけの住宅街で人と行き合うことは少なく、その会釈だけが妙にあたたかく感じられた。犬の足音と男のゆったりした足どりが、夜道にやわらかく響いていた。

その人と犬に会う晩だけはあのバス停の前を通るのもいくらか心強い。
ある晩、すれ違いざまに、私はふと違和感をおぼえて足を止める。
男の握ったリードの先に、いるはずの犬の姿がなかった。リードはぴんと水平に張ったまま、何もない宙の一点を低く引いている。
革のリードの先端が見えない重みでわずかに下へたわんでいた。地面をこするずるりとした低い音だけが、男の足どりにあわせて続いている。
あれほどなついていた白い犬が、その晩からふっつりと姿を消していた。男はそれを気にするふうもなく、空のリードをただ前へ引いている。

何の気なしに、私はすれ違う男の横顔へ目をやる。
その顔に、私ははっきりと見覚えがあった。あのバス停のベンチで毎晩ぴくりとも動かない、あの男とそっくり同じ顔なのだ。
けれど男はこちらに目を向けることもなく、空のリードを引いて夜道を歩いていく。二人が同じ顔だと悟った瞬間、足の裏から冷たいものが這いのぼった。
空のリードの引きずる音が、夜のしじまに長く尾を引いて遠ざかる。私はその場から、しばらく足を動かすことができなかった。
一度だけ、私はその男のあとをつけてみたことがある。

空のリードを引く背中は、迷いもなくあのバス停へと近づいていった。ところが立ち止まって見た先では、ベンチにあの男が時刻表を見上げて静かに座っているのだ。
夜道を歩いていたはずの男と、ベンチで動かない男が、同じ顔のまま同じ時刻にそこにいた。どちらが先に来て、どちらがあとから来たのか。
私にはもう、二人のどちらが本物なのかさえ分からなくなっていた。街灯のこちらと向こうに、同じ男が二人。
その光景を、私はうまく頭に納めることができない。どちらの男も私のほうを一度も振り向きはしなかった。
その翌晩からのことだ。

夜道を歩く私の足もとに、聞き覚えのある音がついてくるようになった。何も繋がれていないはずのリードが、地面をこするあのずるりとした音だ。
振り返っても、うしろにはやはり誰の姿もない。私の手にも、もちろん何ひとつ握られてはいなかった。
立ち止まれば音も止まり、歩きだせば音も歩きだす。何かを散歩させているのは、いつのまにか私のほうになっていた。
ある晩、ふと自分の手もとに目を落として、私は息をのんだ。
いつのまにか私の右手は一本の古い革のリードをしっかりと握りしめている。その先には、やはり何もいない。

けれどリードはぴんと張りつめて、見えない何かの重みでわずかにたわんでいた。手のひらに伝わるその重さは、生きものの呼吸のようにゆっくりと上下している。
それきり、私は夜の散歩をやめてしまった。
あのバス停の前を通る道には、もう二度と足を向けていない。夜にひとり外を歩くことも、すっかりなくなった。
温かいコーヒーは、いまは自分の台所でいれている。ただ、ひとつだけ気がかりがずっと消えずに残っている。
夜ふけに台所へ立つと、足もとでときどきあのリードの音が短く鳴るのだ。見えない何かが私の足もとでおとなしく伏せて、夜を待っている気配がする。繋いだ覚えのないものを私は毎晩どこかへ連れて帰っているらしい。

あの廃れたバス停のベンチには、いまも同じ男が来ない終バスを待ち続けているという。
空のリードの先に何がいたのか、動かない男がいったい誰だったのか、私には分からない。同じ顔をした男が二人いたわけも、とうとう確かめられないままだ。
あの整理券に刷られた時刻が来る晩を、私はただ待たされているのかもしれない。あのベンチが私のために空けられているような気が、近ごろはしてならない。
近ごろの私は自分がいつからあのベンチの常連だったのかを思い出せずにいる。
夜ごと台所の床を、ずるりと這っていくあのリードの音。


コメント