釣具店で知り合って十年になる友人がいる。以下Nと呼ぶ。
バス釣り一筋の男で、房総のフィールドはあらかた回っている。数字と天気に細かく、釣行のたびに水位と風をノートに残すたちだ。
過去に二度、夜釣りの検証に同行してもらったことがある。機材を持つ手が揺れない、頼りになる男だ。
七月の末、そのNから短いメッセージが届いた。
「今度の検証、雄蛇ヶ池にしてくれないか」
検証先を人から頼まれるのは珍しい。電話をかけると、Nは少し黙ってから話し始めた。
先に、池のことを書いておく。
雄蛇ヶ池は千葉県東金市にある。江戸の初めに代官の嶋田伊伯が造らせた灌漑用の溜池で、周囲はおよそ四・五キロ。岸の入り組んだ形から房総の十和田とも呼ばれ、いまはバス釣りと散策の名所になっている。
言い伝えは調べるといくつも出てくる。
恋に破れた娘が身を投げ、蛇になって池に住み着いたという話。その娘は焼身だったとする別の言い伝え。嫁いびりを苦にした身投げの話も残る。
どれが元の形なのか、いまとなっては選べない。

共通しているのは、水に入った娘が戻らなかったことだけだ。戻らない者の話ばかりが、四百年ぶん積もっている。
現象として語られるのは、夕暮れの水辺で女のすすり泣きが聞こえるというもの。白い影が水面に浮かぶという話もあり、昔テレビで取り上げられたこともある。
一つだけ、調べていて手が止まった事実がある。
この池は人が掘らせた水だということだ。四百年ほど前までは、ここに水はなかった。
言い伝えの娘たちは、池より後に来たことになる。
Nは雄蛇ヶ池に二十年近く通っている。
曰くは知っていた。知っていて通える程度のものだと思っていたそうだ。
六月の夕暮れのことだ。
Nがいつもの岸で竿を振っていると、対岸の入り江の方から声がした。
すすり泣きに聞こえた。細く途切れて、また続く声だ。
最初は鳥だと思ったという。カイツブリの声は、遠くで聞くと人の泣き声によく似る。夕方の水辺では珍しくもない。

Nはそのまま釣りを続けた。
三十分して、竿を置いた。
声の位置が動いていない。
鳥は泳ぐ。鳴きながら移動する。三十分同じ点から鳴き続ける鳥を、Nは知らなかった。
夕日が水面に帯を引いていた。風が渡って水面が細かく立っても、声のあたりの帯だけが乱れずに残っていたそうだ。
「その日は気のせいにした」
Nは電話口で言った。
帰りに駐車場で顔見知りの釣り人と会い、それとなく聞いている。対岸の入り江に、その日入った者はいなかった。
Nの釣りには記録癖がある。
次からは声のあった日の水位を控えた。減水の日にも聞いている。雨のあとの満水の日にも聞いた。
水位が変われば岸の線は動く。入り江の形も変わる。

声は動かなかった。
岸からの距離とも方角とも関わりなく、水面の同じ一点。Nはノートの数字を並べてそう結論した。
同じ声を聞いた者はほかにもいるらしい。
顔見知りの一人は、声のする日は魚が岸に寄らないと言った。魚群探知機の画面が、入り江の口だけ映らない日があるとも言った。
「岸のものなら、言い伝えの続きで済む。水面のものなら、俺は説明を持ってない」
Nは夕方の最後の三十分を捨てるようになった。日没前に必ず竿を畳む。釣果は落ちた。やめる気はないという。
「一つだけ引っかかってることがある」
電話の最後にNは言った。
「あの声、こっちを呼んでないんだ」
呼ばれる方がまだ分かる。水辺の声はそういうものだと相場が決まっている。
呼びもせず、近づきもせず、同じ点で泣き続ける。何のための声なのか。

「外の耳で確かめてくれ。あれが岸のものか、水のものか」
八月の頭、夜にカブで出た。
東金までは下道で行ける。九十九里へ抜ける道の途中で脇へ折れると、じきに空気が森の匂いに変わる。田の匂いと違う、水を含んだ土の匂いだ。
決めごとを三つ作った。遊歩道から出ない。水際に立たない。声が水面を渡り始めたら、確かめずに引く。
大型のイノシシの目撃談がある池だ。マムシも出る。夜の水辺は、曰くを抜きにしても人の場所ではない。
駐車場にカブを停めたのは十時半だった。車は一台もない。
遊歩道に入る。木が両側から被さり、ライトの光が丸く切り取られて先へ延びる。
ウシガエルの声が水面のあちこちで唸っていた。低く途切れてはまた唸る。夏の池の音だ。
足元を光で舐めながら歩く。マムシは夜の遊歩道に出る。木の根と見分けのつかない影を、いちいち跨いだ。
Nの言っていた入り江が見える張り出しまで、二十分歩いた。
対岸の森が黒い壁になっている。水面は月を薄く延ばして、鈍く光っていた。

三十分は何も起きない。対岸で夜鷺が一声鳴き、水面のどこかで魚が跳ねた。跳ねた輪が消えるまで見ていられる程度には、池は静かだった。
準備はしてある。スマホにカイツブリとヨシゴイの鳴き声を入れてある。聞き間違いの候補を、その場で潰すためだ。
十一時を回った頃、声が来た。
対岸寄りの水面から。細く途切れて、また続く。
すすり泣きに聞こえる。確かに聞こえる。
イヤホンで鳥の声と聞き比べた。
カイツブリは違った。似ているのは高さだけで、あちらは節が丸い。
決定的な差は一つ。
息継ぎだ。
水面の声には息継ぎがある。泣きの合間に短く吸う音が挟まる。
鳥の声は息を継がない。人の泣き方だけが、ああやって息を継ぐ。

録音も回した。帰って聞き直すためだ。
定位を取った。
張り出しの位置で方角を測り、遊歩道を百歩戻ってもう一度測る。
二本の線を頭の中で引くと、交わるのは岸ではなかった。
入り江の口の、水面の上。
Nのノートのとおりだった。
距離も目測した。岸から三十メートルは離れている。人が立てる浅さかどうか、夜目には分からない。分からないことにしておいた。
風が出た。
水面が細かく立ち、月の反射が全体で崩れる。
声のする方向だけ、光の筋が一本、乱れずに残った。
Nが夕日で見たものと同じだ。夕日と月で、同じ場所に同じ筋が立つ。

声が変わったのは、その少し後だった。
泣きが減っていく。
代わりに、吸う音だけが残った。
す。す。
間隔は泣いていたときのまま。吐く息の分だけが、こちらの耳に届かなくなった。
吐く息はどこへ行っているのか。
考えて、すぐに答えが出た。出てしまった。
水の中で泣いて、息だけを継ぎに上がってくる。
そう気づいた途端、ウシガエルが一帯でやんだ。
吸う音が動き始めた。
水面を、こちらの岸へ。

す。す。
間隔が詰まっていく。泣くための息の量ではなくなっている。
決めごとの三つ目に従った。
確かめずに引く。張り出しから遊歩道の内側へ下がり、来た道を戻った。
背中の水面で、吸う音がしばらく続いた。追ってくる速さではない。ただ、歩調と同じ拍で鳴った。
途中で一度だけ、目の端の水面に白が立った。
縦に細く、人の丈ほど。
顔ごと向けると、月の映りにしか見えなかった。
月の柱は波の夜には立たない。そう思っているのは私だけで、確かめる気は起きなかった。
白の立った場所は、定位の交点と同じあたりだった。それも確かめていない。
駐車場まで戻り、カブのエンジンをかけた。

排気音の向こうで、ウシガエルが鳴き始めていた。池の音が戻っている。
振り返る理由を作らないよう、信号のない道を選んで国道まで走った。
滞在は九十分。決めごとは三つとも守った。
数日後、Nに報告した。
岸ではなかったこと。息継ぎのこと。吸う音だけになったこと。
Nは長く黙ってから、一言だけ返した。
「水面だったか」
録音は帰ってから聞き直した。泣きも息継ぎも入っている。
ただ再生すると、息継ぎの音だけが左のイヤホンからしか鳴らない。現場で聞いたのは、右の耳だった。
数日してNからノートが一冊届いた。声のあった日付と水位の控えで、使い道は任せると書いてある。
まだ開き切っていない。最後のページだけ、糊で貼られたように固い。

Nはいまも雄蛇ヶ池に通っている。夕方の最後の三十分を捨てる習慣は続いている。
最近は夕暮れの対岸に新顔の釣り人を見ると、声をかけて早めに切り上げさせるそうだ。理由は言わない。言っても伝わらないからだ。
私のほうにもひとつある。
帰った晩から、右耳に水が入ったような塞がりが残った。
泳いでいない。水際にも立っていない。
三日目の朝に、ふっと抜けた。
枕に、ひと筋だけ濡れた痕があった。髪は乾いたままだ。
あれから夕方の水辺で息継ぎの混じる声を聞くと、鳥だと決めてその場を離れることにしている。
あの声がいつから息を継いでいるのかは、考えない。
池が水を溜め始めてから、まだ四百年しか経っていない。


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