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部品だけ

モーターだけなら三万で、と私が言うと、安藤さんは機械の下を指した。
「本体ごと持ってってくれるなら、その値段でいいよ」
そこにあるのは、私の胸ほどまである古いボール盤だった。丸い台には無数の穴があり、緑の塗装は手の当たる所だけ黒くなっていた。モーターは後ろに載っている。私が欲しかったのは、それだけだった。

仕事場で使っている研磨機が止まり、修理屋から交換する部品がないと言われていた。新品を買うほどの仕事は入っていない。何もしなければ、頼まれていた刃物を全部、他へ回さなければならなくなる。安藤さんの店の写真に、同じ型のモーターが写っていた。先週、確かめに来た時は電源も入り、音も悪くなかった。その場で一万円を預け、外す道具を持って今日また来た。

店といっても、元は何かの工場だった建物だ。表には店名より大きく、中古機械買取、と書かれている。安藤さんは一人でやっていた。奥に積んである品物の横を通る時、私の鞄が引っ掛かりそうになると、そっちじゃなくて、と別の通路を教えた。それほど物があるのに、売れた品を載せる場所だけは空いていた。
「本体の方は、次の人に」
「その次の人が来ないんだよ」
安藤さんは笑いながら言った。私も笑った。私が断るつもりなのは伝わったようで、安藤さんはすぐ笑うのをやめた。

本体ごとなら運送屋を頼まなければならないし、置く場所もない。そこを言い始めると、安藤さんは片手を振った。
「わかった。先週それで話したんだから」
受け取った一万円の控えを見せると、そんなものはいい、と言った。顔を覚えているのではなく、買う物を覚えているらしかった。私は残りの二万円を渡した。安藤さんは胸のポケットへ入れ、三万円の領収書を書いて渡した。私が領収書を鞄へしまうと、安藤さんは床に並べた工具を見た。
「手伝うよ。持ったまま外すのは、きついから」

ボール盤は、窓のない壁の前に据えられていた。台を床へ留めた跡はあったが、今は何も繋がっていない。電源の線も巻いて、機械の脇へ掛けてあった。鞄を足元へ置き、私は後ろへ回った。安藤さんにモーターを下から持ってもらった。電話で訊いた時は、前の持ち主が廃業して引き取った品だと言っていた。長く使った物らしく、締めつける金具の一つだけ形が違った。

最初のナットを緩めて外した時、足元で小さく音がした。指から落としたのは薄い丸い座金だった。
「今の、見えました?」
安藤さんは下を向けなかった。まだ両手で支えている。
「そっちの靴んとこ」
右の靴の先に、丸い銀色が光っていた。私は屈み、つまもうとした。土間の表面へ爪が当たった。銀色の縁が、埃を押しのけずに沈んだ。

座金は立っていたのでも、床の傷へ入ったのでもなかった。平らに伏せた丸い輪が、そのまま下へ薄くなっていった。指で擦るとコンクリートのざらつきがあった。最後に穴だけが黒く残り、それも消えた。少しして、下で金物が跳ねた。硬い所に落ち、二度転がる音だった。
「落ちました」
私が言うと、安藤さんは、だからそっちだって、と答えた。
「床の下に」
安藤さんはモーターを持ち直し、私を見た。私はもう一つ外すのをやめ、外したナットを戻して締めた。

私たちは同じ場所へしゃがんだ。安藤さんは掌で床を叩き、物を引きずった傷を指でなぞった。穴も蓋もなかった。
「ここ、下に部屋ありますか」
「ないよ」
すぐに返ってきたので、私はもう一度、地下、と言った。安藤さんは私の靴の下を指した。
「この辺も、前に機械を置いてた。そんな床なら、俺が先に落ちてる」
冗談ではなかった。私たちの足は普通にそこへ載っていた。

座金一枚くらいは私の所にもある。作業を進めたかったが、締め戻したナットへ手を掛ける気にならなかった。安藤さんは、そこまで外すからだ、と言いかけて口を閉じた。
「何です」
「いや。一式だったら、そのまま運べるってだけ」
私は、また値段の話をしているのかと思った。それが顔に出たらしい。安藤さんは機械から離れ、奥へ行った。戻ってきた手には細長い鉄の棒があった。

棒の端で、座金が消えた場所を突いた。固い音がした。安藤さんは少しずつずらしながら、同じことをした。白い小石が一つはねただけだった。
「ほら」
と言ったが、私へ棒を渡そうとはしなかった。端に擦り傷が増えていた。私はしゃがんだまま、そこを見ていた。その下で、金槌を置く音がした。
叩く音ではなかった。金属の頭を横にして台へ置き、柄が少し遅れて当たる、私の仕事場でも毎日している音だった。

安藤さんが棒を持ち上げた。二人とも動かなかった。
下では何かを寄せ集めていた。細かい物を掌で押し、縁へぶつけるような音が続いた。私が落としたのは、座金が一枚だけだった。
「誰か、いるんですか」
自分でも妙な訊き方だと思った。安藤さんは、だから地下はない、と言った。店の来歴ではなく、今の音のことを訊きたかった。私が言い直す前に、下で重い箱を引くような音がして、私は立ち上がった。

安藤さんは奥の戸を開けた。表へ回らず裏の壁を見せるつもりだったようだ。戸口から隣の空地が見え、雑草と、積んだ角材が見えた。建物の土台は低く、地下へ下りる階段もなかった。私が近寄ると、安藤さんは戸を支えたまま言った。
「ここを借りてから十五年になる」
知らない部屋などないと言いたいのだろう。私は外へ出なかった。店の中に置いた道具の下で、鉄を撫でる音がしていた。

戻ってみると、私のスパナがなくなっていた。持ってきた予備のナットと一緒に床へ置いたはずだった。ナットは残っていた。鞄を開け、中を探した。まだ一度も使っていない小さい方のスパナはあった。
安藤さんが何か言いかけ、私の後ろを見た。壁から先だけ出ていた。見慣れた大きい方のスパナだった。持ち手が縦に、床から指二本ほどの高さで突き出している。壁は床と同じ灰色だが、そこへ工具を掛ける釘などなかった。

私は手を伸ばしかけて引っ込めた。持ち手の穴に白いペンキが残っていた。人に貸した時に取り違えないよう、自分で塗ったものだった。
それが、私の方へ少しだけ動いた。押し出されると思った。けれど持ち手は横へ倒れ始めた。壁の向こうにあるはずの口の部分を軸に、半円を描いた。見えないナットを回しているようだった。最後に止まり、また元へ戻った。誰かが持ち替えたらしい短い間があり、もう一度、同じ方へ動いた。

安藤さんは私の鞄を拾い、近くの作業台へ載せた。自分の鉄の棒も立てかけず、台の上へ横たえた。私たちは壁から出た工具を見ていた。仕事をしている所へ不用意に手を出せない、その感じだけがやけにはっきりしていた。
「取れるうちに」
安藤さんが言った。スパナのことか、モーターのことか分からなかった。私は首を振った。返してもらおうと思って持ち手を掴んだら、向こうで使っている者と引っ張り合いになる。

持ち手が壁の中へ引っ込んだ。表面には何も残らなかった。白いペンキも移っていなかった。
下で、先ほどより大きな金物が置かれた。安藤さんが振り向いた。ボール盤の丸い作業台が、柱からなくなっていた。私たちはそこには触っていない。床へ落ちた音もしなかった。柱の途中に、台を締めていた輪の跡だけが黒く残っている。まっすぐ下に、銀色の輪が浮いていた。別の座金ではなく、台の縁の一部だった。円い鉄板は、裏返しになって床へ沈んでいた。

安藤さんも、床へ沈む鉄板を見ていた。
床の中で、円の端が止まった。下の何かへ当たったらしかった。がたがた、と二度鳴って、角度が変わった。地面を掘って埋める時とは違い、鉄の下へ土は押し上がってこなかった。最後の黒い縁がなくなるまで、数えるほどの間もなかった。

「全部じゃなくてよかったですね」
口から出てから、何を言ったのか分かった。私が欲しがらなかった部分がなくなったのだ。少し前の自分なら、それを理由に安くしてもらえたと思ったかもしれない。安藤さんは何も答えず、柱へ手を掛けた。私は、触らない方が、と言った。
「ぐらついてないか、見ただけ」
安藤さんは手を放した。そのあと、もう一度触りかけたが、今度は手をポケットへ入れた。二万円を掴んで出した。

「今日は、やめとこう」
私は頷き、出された紙幣を受け取った。安藤さんは奥の机へ歩いていき、引出しを開けた。先週の一万円も返すつもりなのだと分かった。私は作業台から鞄を取り、残っている工具をしまった。床のナットは拾わなかった。自分で持ってきて、そこへ置いた物なのに、いまは下の誰かが使うために並べたものに見えた。

安藤さんが戻る途中で、機械の裏を覗いた。
「まだある」
モーターは最初の位置に載っていた。三万円が手元へ戻る。その金で、別の物を探すところからやり直せる。私は、そう自分に言い聞かせているのに、同じ型を二度見つける難しさを考えていた。
「外せますよ」
私が言うと、安藤さんは、もうやめな、と答えた。その言い方は先ほどまでと違った。売るための言葉ではなかった。

下から、機械を起こす音がした。
私の仕事場には二つ、古いモーターがある。回り始めには少し遅れがあり、そこから音が一定になる。その待ち時間がなかった。いきなり速く回る物が、床のすぐ下で鳴り始めた。安藤さんの足元を通り、私の鞄の下へ来て、そこで続いた。
目の前のモーターは止まっていた。線は巻かれたまま、機械の脇に掛かっていた。私の頬へ、切ったばかりの鉄の匂いが届いた。

安藤さんが一万円を差し出した。私は受け取ろうとして、手が出せなかった。紙幣の向こう、安藤さんの背後の壁で、白い点が動いていた。
スパナの穴につけたペンキだった。今度は高い所に出ている。手を伸ばしても届かない位置で、持ち手がゆっくり回っていた。壁のどこにも工具の入る穴はなかった。下で鳴っている機械と、そのスパナの間を、私は何度も見た。

「落とすなよ」
安藤さんが言った。一万円を私の指へ挟ませた。私は紙幣を握り、鞄の外ポケットへ押し込んだ。中から領収書が出てきたので返すと、安藤さんは胸のポケットにしまった。
「他に同じの、入りませんかね」
自分でも、何を相談しているのだろうと思った。安藤さんは少し間を置いて、型番は控えてある、と言った。それで今日の用は済んだはずだった。

機械の後ろで金物が鳴った。モーターが床に置かれていた。落ちたのならあんな音では済まないし、取りつけていた金具も壊れていない。緩めて外されたナットが、綺麗に二つ並んでいた。窓からの光で、型番の札が読めた。先週、老眼鏡を掛けて一字ずつ確かめたものだった。
安藤さんが一歩出た。私も出ようとしたが、持っていた鞄が膝に当たって止まった。
「まだ、買うかい」
安藤さんは私を見ていなかった。拾い上げて確かめるかどうかを、私に任せたらしかった。

モーターの片側が床へ沈み始めた。軸の出た方が少し持ち上がり、丸い胴が床を通っていった。床に残る電源の線がほどけ、一巻きずつ低くなった。私は、この線を掴めば手元へ寄せられる、と考えた。安藤さんに手伝ってもらえば、持ち上がる重さだった。
「いりません」
そう言ってから、鞄を持つ手を替えた。空いた掌を、ズボンで拭いた。安藤さんは一歩下がり、私の隣に立った。

床の上には、モーターの軸と、そこについた黒い車だけが残っていた。その車が回り始めた。土間へ半分めり込んだまま、速さが増していく。コンクリートは削れず、表面の埃も動かなかった。電源の線はまだ途中まで床の上にあり、二本の金具のついたプラグが、私たちの方を向いていた。
「回ってる」
安藤さんは答えず、私の鞄を見た。工具を確かめるように見えたが、私は開けなかった。残っている道具で直せるかどうかを、ここで考えたくなかった。
床の向こうで、金属を削り始める音がした。私が欲しかったモーターは、もう使われていた。

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